森忠政の養母大野木殿のこと

2016年06月26日 17:57

森忠政   
884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 16:51:28.88 ID:V5zi0zXd
森忠政の養母大野木殿のこと

天正4年森忠政が7歳のとき、塙直政の養子に行く取り決めが交わされたことがあった。
塙直政は妙向尼(忠政母)の母の兄弟で、忠政からみれば大叔父に当たる人物である。
直政には既に男子がいたものの、信長から山城南部と大和・河内の守護を任せられ、
柴田勝家の娘(養女という説も)の大野木殿を後妻に迎えるなど当時の織田家では権勢を振るっており、
森家にいては"家督を継ぐ可能性はほぼゼロの六男坊"の忠政にとっては悪くない話であった。

ところが塙直政はその年の天王寺の戦いで討死し、責任を負わされる形で塙一族は没落。
大野木殿も勝家の家臣の原元次に再嫁し、当然ながら養子の件は白紙になってしまった。

その後大野木殿は元次との間に男女一人ずつもうけたものの、
天正11年に元次は勝家と共に賤ヶ岳の戦いで戦死したので、尾張の大野村に隠れ住んでいた。
しかし天正18年の小田原征伐のとき、それを聞きつけて来た秀吉により
「勝家の孫だから」という理由で12歳になっていた息子を殺されてしまい、以後は細々と暮らした。

~それから21年後~

慶長16年春42才の忠政は、名古屋城普請をしているとふと大野木殿のことを思い出したらしい。
養母になるはずだった彼女の居所を突き止めると、家臣を迎えにやり津山へ呼び寄せて内山下の屋敷に住まわせた。
忠政は大野木殿のことを「御母公様」と呼び慕い、実の母親のように扱ったという。

寛永4年に大野木殿が亡くなると忠政は遺言に従い法然上人ゆかりの誕生寺に葬送し、御霊屋を建立した。
御霊屋は後世に観音堂に転用されたものの、現在も残る。

――『森家先代実録』



885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 17:10:02.82 ID:vj5SNGYk
た…忠政にいい話だと…

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 19:27:35.39 ID:3vlpcHIf
それなのにラスボスは相変わらず

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 23:28:09.26 ID:V5Jo8c+e
小田原攻めの時には、たしか遠江時代のいじめの報復を考えて相手を探索させてなかったっけ?

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 21:29:56.93 ID:KbY3yhVd
>>884
川中島時代にひどい事したよね
自業自得かもしれんけど

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