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「続武家閑談」から「大坂夏御陣前大野主馬駿河に忍び者を遣わすの相談のこと」

2023年02月06日 20:00

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/06(月) 18:17:10.52 ID:wYXGpwx3
続武家閑談」から「大坂夏御陣前大野主馬駿河に忍び者を遣わすの相談のこと」

大坂夏の陣の前に、大野主馬(大野治房)が駿府に放火しようと、忍びを上﨟衆の床の下に忍び入れさせ、権現様がいらっしゃる時分を伺って、討ってしまおうと申し付けた。
そのとき小幡勘兵衛(小幡景憲)が「そのような手段では成功しないでしょう。
浜松にいらした時分、「女の居住の縁側は降りやすいように低く作れ」とおっしゃったため、どの床も低くなっているそうです。
本当は人が忍びいるのを防ぐためだそうです」と申したため、中止となった。
実は小幡は夏の陣の前に間者として大坂城の籠城に加わっていたという。



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一説に、大野治房は

2022年04月20日 18:00

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/20(水) 16:04:21.07 ID:hRgr3lgH
大野主馬助治房は秀頼公の元で出頭し、大阪城中に於いては兄治長と共に、彼ら兄弟の上に立つ者も無く、
しかも今度の矛盾(大坂の陣)の張本人たる身の上であったのに、いかなる思慮があったのだろうか、
大阪落城の時、その混乱の中で城より落ち失せたという。

一説に、大野治房は秀頼の若君・国松丸を守護して落ちていった所に、禁野の辺りで、
主馬の郎党、塙市左衛門、松田庄太夫が心変わりして、治房を刺殺し、金銀を奪い取り、
国松君を捨てて逃げ去ったのだという。

新東鑑

大阪落城後の大野治房について



大阪夏の陣直前、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂

2020年09月28日 18:09

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 18:01:53.65 ID:J1AvwdnW
慶長二十年

四月十二日
京都の板倉伊賀守(勝重)より飛脚到来。これの申す所によると、去る九日の夜、
大阪の本城よし大野修理太夫(治長)が宿舎に帰る所、何者とも知れぬ人物がその跡をつけ、
脇差で修理の左の脇から肩先に突き抜いたという。この者は突き捨てて一町ほど逃亡したが、
そこで修理の郎党達が追いつき切り留めた。
この者は修理太夫の弟である主馬(治房)の家来であったという。

この事件によって城中の緒牢人は、互いに疑いあい騒動と成ったという。

十三日
今日、大阪より織田有楽、同息・武蔵守(尚長)が大御所の元に参り御前に出た。
大阪の情勢は現在、諸牢人が三つに分かれているという。

七組の頭、大野修理太夫(治長)、後藤又兵衛(基次)の一組、
木村長門守(重成)、渡辺内蔵助(糺)、真田左衛門佐(信繁)、明石掃部助(全登)の一組、
大野主馬(治房)、長宗我部宮内省輔(盛親)、毛利豊前守(毛利勝永)、仙石豊前守(秀範)の一組

この三つに分裂しているのだという。

『駿府記』

大阪夏の陣直前の、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂について。



370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 23:43:19.12 ID:CFvMgXPO
取次の退去で冬の陣になりーの
自分で出した分も含めて和睦条件がこなせないままこれまた取次の治長が家中問題で襲われ―の

もうまるで統制も取れてないな

大野治長は片桐退去までの行動は最悪だけどその後の行動はかなり現実的よね、まぁ周りからすりゃ原因のお前がなに止める側に回ってるねん感もありそうだけども

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:11:07.87 ID:0Z7Z+w/e
片桐退去の時点でもう滅亡するまでやり合しかなくなってしまったのに、
その主犯だった大野がなんとか外交的に豊臣が残るだろうなんて甘い考えにすがるのは、今さら感がものすごい。

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:50:50.34 ID:143NSg4c
講和時点でちゃんと和睦条件こなせるだけの器量が秀頼にあればあんな無様な事にはならなかったろうけど
そもそもそこで和睦条件こなせるだけの器量あったら最初から揉めないというなんとも言えない状況が

その用意をしている内に、和睦となった

2020年01月06日 17:21

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:32:00.28 ID:Np6vwiTb
慶長十九年、大阪陣の刻、和泉様(藤堂高虎)は先手をお受け取りに成り、諸勢の動向に御かまいなく
河内の国府へ十月二十六日に御討ち出られ、それより次第次第に陣替えがあり、和泉様の仕寄場は
天王寺口で、これに対する城中黒川の持口は大野主馬(治房)、矢倉は木村長門守(重成)の持口であった。

この場所は大阪城惣構の近くで、築山を築き井楼を上げ、火矢、鉄砲、石火矢を油断なく昼夜撃たせた。
このため木村長門守の持口である矢倉は打ち破られ、大阪城の人々がそこから出入りする事は出来なくなった。
また、金掘を入れ、堀きわまで掘りつけた。その上竹束も堀きわまで七間(13メートル弱)まで付け寄せた。

極月(十二月)二十日の夜、堀の中に設置されていた柵を引き取るようにと和泉様が仰せ付けられ、
その用意をしている内に、和睦となった。

(藤堂家覺書)

藤堂家の覚書にある大阪冬の陣の記録。大阪城惣構の中への突撃準備が整うまさに直前に和睦がなされたと
ありますね。



489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:55:38.58 ID:10v8Qglc
お話なんかじゃ攻めあぐねての和睦ってテイストにされやすいけど
実際はもう落城のボーダーラインぎりぎりね

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 00:23:26.10 ID:vGqvWph/
真田丸に仕掛けて大敗北した後は、にらみ合い &大砲撃ちまくりというのが通説だけど、
当然、ただにらんでいるだけじゃないわな。

御感状お望みのことは

2017年05月01日 10:40

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 00:27:19.55 ID:L1hYyx9y
ある人が語ったことだが、大阪の陣の折、大野主馬の部隊が夜討ちをして戦功のあった時、
主馬は自身の首尾よろしき段を、秀頼に木村長門守(重成)に取りなしをしてもらい、自身に
感状が頂けるようにと要望した。

長門守はその時は良いように会釈したが、後で主馬を密かに呼んで言った

「先程の御感状ご所望の事、言われるまでもなく今回の武功は上様もよくご存じですから、
下されること相違ないでしょう。

ただし、私が思うに、あなたの御身分の上に感状を頂いて、一体誰にそれを披露するおつもりなのでしょうか?
匹夫独身の者は、重ねてまた、他の主人に仕える時、自らの名誉としてこれを差出します。

しかしあなたは、現在上様の為に、あなたご自身もご兄弟も、股肱羽翼の補佐をされています。
そのような人が功成り名を遂げられる事について、一体誰がそれを争うというのでしょうか。

あなたについては、御感状お望みのことは、ご遠慮すべきだと思います。」

この言葉を聞くと主馬は大いに恥じ、重ねて云うべき言葉もなかったという。

これが実際にあった話なのかどうかは解らないが、その考え方自体は尤もというべきであろう。

(士談)



872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 08:06:31.51 ID:E0sFo8f5
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8076.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2962.html
出典は違うのが何度か出てたようだ

大野治長襲撃事件

2015年02月16日 18:35

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 00:07:41.67 ID:y4ziA/OB
大和の吉川主馬之助の猶子に、吉川権右衛門、同新蔵という兄弟があった。
彼らは大和国で武辺覚えある者にて、大野主馬(治房)が良く存しており、大阪の陣の勃発に当たり、
主馬によって豊臣秀頼のもとに召しだされ、大野主馬の組下と成った。
この時故あって、平山治太夫、平山清兵衛と改名した。

さて、大阪夏の陣が始まろうという時、関東より軍勢が発向したとの報を受け、大阪城内では
様々に評議が行われた。この時、大野修理(治長)は
「大阪方は少数であるから、籠城すべきだ」と主張した。
これに対して主馬は
「京都に進出して宇治・勢多の橋を引き落とし、京都において戦うべきです!
天下分け目の合戦で最初から一城に引きこもるなどというのは、後難を考えても口惜しきことです。
とにかく進出すべきです!」
そう主張し、その他様々に提言したものの、修理は同意しないことも多く、埒の開かない
有り様と成った。これに主馬は強く立腹し

『いくら兄と言っても、なんと無分別な人であろうか!あのような者は突き殺さねばならない!』

そう考え平山治太夫を呼び密かに談合した。
これを聞いた治太夫は「それは一大事のことです。思い留まれますように。」と一応は申し上げたが、
その答えに主馬が以ての外に怒りだしたため、治太夫もついには同心した。

そこで大野修理を刺殺する者について検討した所、元、布施の忍の者に今倉孫次と言う者があり、
治太夫がこれを呼び寄せ密かに語った
「その方は足速き者にてなかなか人に追いつかれるようなことはあるまい。
どうにか首尾を見て大野修理殿を突き殺し、逃げ去るのだ。
大野主馬殿は、それが成功すればそなたに大和において十万石を与えると仰せに成られた。」

そのように念入りに密談すると、今倉孫次はこれを了承し、「畏まり、存じます。」と申した。
その後大野主馬より脇差しが与えられ、今倉はこれを三度押し頂き退出した。

そのような中、大野修理は登城していたが、日没の時分に乗物で退出の途中、
大手桜の御門にて乗物より出て小便をしていた所、かの今倉孫次が「御免候え」と言いながら
修理の供の間を通り抜けると、刀で修理を二度突き、そのまま逃げ去った。

供の衆はこれを追いかける。今倉孫次は、普段は早馬にも劣らない、早駆けの達者の者であったのだが、
この時はどうしたことか、水道の溝につまづき転倒した所を、数人が追いつき斬り殺された。
大野修理は2ヶ所負傷したものの、いずれも薄手で程なく平癒した。

事件の直後、大野修理から主馬が呼び出された。主馬は「もし、なにか様子の変わったことが有れば
心得ておくように」と、次の間に平山治太夫を控えさせた。

主馬に大野修理は「不埒者があって、このような有り様となった。お主も犯人の詮索をするように。」
と語った。主馬は内心『仕損じたか!』と思いながら、さらぬ体で対応し、そのまま帰った。

翌日、今倉孫次の遺骸は傷を縫われ柱に縛り付けて立たせ、この者の情報を提供したものに
黄金五十枚を与えるとの触れが出された。これに大野主馬は心もとなく思い、平山治太夫を呼んで
相談した
「あの今倉孫次は、成田勘兵衛の同心であった。急ぎ処置せねばならない!」
そう言って治太夫に、成田勘兵衛の屋敷へ数百人を遣わせ、是非を言わせず斬り殺させた。
そしてこれより平山治太夫は大阪城より落ち去った。
(大和記)

大野治長襲撃事件についての記事である。



419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 09:55:47.64 ID:imqZp9DM
豊臣と北条って滅び方が似てね?

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 11:40:20.61 ID:S8lXVHWw
大野主馬の評価が上がったね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 20:39:51.86 ID:xCeeu4M7
そもそも浪人を召し放たなかったのは主馬さんだからね
やる気満々

429 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/18(水) 09:46:11.96 ID:tLdIKNKA
>>418
弟の治純のwiki見たら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%B2%BB%E7%B4%94
>大阪夏の陣が始まる前日に家康の命を受けて、闇討ちにあい負傷した兄・治長を見舞った。
>その際に大阪へ向かう前に家康から「真田信繁・長宗我部盛親らが内通している」という偽書を見せられ、
>その内容を兄・治長に伝えた結果、豊臣側では士気を高めるべく戦に備えていた豊臣秀頼の出馬が、
>淀殿の意向によって急遽取り止めになり、秀頼は淀殿と共に大坂城で籠城し続ける事になったとされている。

この事件、家康の離間策に利用されちゃってたwww


船場要害

2014年07月03日 19:03

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/03(木) 16:34:11.67 ID:A2gfpS0G
大阪冬の陣が始まろうという時、豊臣方では急ぎ籠城の準備を進めた。
大阪・堺の弾薬兵糧を尽く買い取り、人馬に息をも継がせず急ぎ城中へ運び入れた。
また諸卒が手分けをして、天満船場の材木を運び入れ、四方の惣門構を厳密に調えた。
その持ち口をそれぞれ割り当てて、家々の旗を立て、南方には塀裏八間に鉄砲十丁づつにて
固めれば、いかなる天魔鬼神であっても、破られるようには見えなかった。

ここで大野主馬は、船場の町を要害に構えて敵を待受けるべしと主張した。
しかし、青木民部少輔、伊藤丹後守らを始めとした心ある武士たちは、

「籠城の範囲があまりに広ければ持ちあぐむものだ。それに天下の兵を引き受けての
戦いであるのだから、一体何時まで持ちこたえればよいかという、限りを測ることが出来ない。
である以上、兵糧を費やす町人たちは外へと追いだすべきだ。」

このように忠告したが、主馬はこのような意見を聞き入れず、自分の思うがまま、船場の広い街に
塀をかけて、町人たちを伴ってこの地に要害を構えた。

(秀頼事記)

大野主馬、青木らの籠城についての意見を聞かず、というお話。



614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/03(木) 21:15:46.81 ID:sbueFOwP
豊臣縁故の大名が軒並み拒絶の中
安井道頓のように町人衆の中に
「前右大臣様の御為じゃーい」と積極的に動く連中がいて
それらの熱気にあてられたのだと思えば
大野主馬の気持ちもちょっとわかる気がする。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/03(木) 22:36:07.38 ID:XVuJy8Vh
豊臣恩顧と言いたかったのだろうか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 10:48:03.17 ID:FPBLgeCY
>>614
金春太夫も大坂に篭城してたよねえ

大野治房と感状

2013年12月01日 19:16

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 23:03:56.92 ID:mad9NJaP
大野治房と感状

大阪冬の陣において大野治房の部下である塙直之蜂須賀至鎮の陣を夜襲して功名があった。
治房は感状を欲し木村重成に口添えしてもらおうと重成を訪ねた。

治房「(後藤又兵衛に教えてもらった策で)夜襲が大成功したんだけど感状が出るよう周旋してくれない?」

重成「秀頼様にもよく聞こえた功名ならば、感状は間違いなくいただけるでしょう。ですが
   貴殿は感状をいただいて誰に披露するおつもりですか?」
  「一本槍の武士ならば他国の主君に奉公するときの眉目にすべきでしょうが、大野兄弟は大阪の老臣ですので
   君主と存亡を共にすべき人です。何の為の感状ですか?」

これを聞いて治房は恥じて言葉を無くしたという。

(武人百話)





私には、天下が転がり込んできた。

2013年04月10日 19:53

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 15:30:03.40 ID:Cs78qUv/
大阪の陣の時のことである。徳川家康が周りの者達に

「大野主馬(治房)は天下を望んでいる、と言われているが、それは本当だろうか?」

と仰った。しかしその言葉や表情には、主馬を憎いと思っている様子は少しもなかった。
その後、再びこのように言われた

「天下に望みを持ったとしても、不可能だとはいえない。
天下というものは、例え武辺に達したからといって、得ることは出来ぬものであり、生まれながらに定まった
運命のようなものである。

私には、天下が転がり込んできた。
信玄や謙信といった者達は、武勇に達した武将であったが、天下を得ることは出来なかった。
これも運命であったのだろう。

こう言った運命を持つものは、誰に寄るという事はない。
だから、大野主馬が天下を望んだといって、それが不可能だとは誰にも言えないのだ。」

そう、皆に仰った。
(紀伊國物語)

徳川家康の天下観のについての逸話である




18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 16:50:56.31 ID:15yf3Jkg
タヌキの関ヶ原前で240万石だっけ?有力ではあるけど絶対的な国力じゃないんだよな。無口とまーくんと市松が一致団結すれば叩けんわけじゃない。三成がアホやらなきゃのう

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 16:58:37.01 ID:DglHUvqt
もはや三成のポカとか関係ない組み合わせじゃないか

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 16:17:53.65 ID:/N+KTY3m
>>18
石高だけでみたら頭2つ抜けてる程度だが動員兵力数がずば抜けすぎてるからその辺が集まった程度では無理

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 21:08:36.42 ID:5hItfGM4
>>18
天下を取れる人は大勢いても
敵と身内に対してタヌキ役になってくれる人がいないと中韓に乗っ取られるような社会になるんやで
運だとしても最終的に天下人が家康だった日本の運も強いな

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:10:57.97 ID:eEJD0fni
豊臣政権は時代を先取りしすぎた感はある
政権安定のためには中央と各大名の力の差を決定的に大きくしないと不安定になる

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:33:52.61 ID:/N+KTY3m
関ヶ原までは豊臣本家と徳川家に圧倒的な差はあったけどその権力を振るえる人間がいなかっただけ
豊臣政権が安定するには1570年代に秀頼が産まれてないと無理なわけで機関的に別に時代を先取りどうこうの問題ではない

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:58:21.30 ID:kfOqjU8h
権現さん以外は少数を除いて、豊臣家の中のいわばリーマンだしな・・・
全部自分の判断で家を切り盛りしたってのはなかなかいないわな~

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 09:07:25.80 ID:MduJAiYx
関ヶ原あたりだと豊臣本家=家康だから差があるとか意味がない

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 11:00:44.30 ID:TGx2uC6u
秀吉の子供は夭逝だし尽く養子もアレだし秀長に至っては女しか作れないというダメダメ兄弟

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 11:04:25.45 ID:Csa6Z3XB
そこで太閤権現ハイブリッドの秀康さんです


願泉寺卜半斎の策略

2012年12月27日 19:50

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 21:12:51.10 ID:LSyBy1dk
大阪夏の陣の時、

豊臣方の大野治房の軍勢が紀伊国に向かう途中、和泉国貝塚で、願泉寺卜半斎という物の出迎えを受けた。
卜半斎は軍勢に馳走を振舞い、貝塚の町や近在から集めた麦飯を集め、半切(樽状の桶)に入れて運び、
また酒も大いに振舞った。

大野治房軍の兵士たちはそれまで夜通しの行軍をしてきたこともあり、疲れ空腹であったので、彼らは
この振舞いを喜び受けると、たちまち酔っ払ってその場で寝てしまった。
さらに岸和田方面の抑えに出ていた、宮田七平の兵たちまで集まってきての酒盛りになった。

このため、この軍の行軍は甚だしく遅れ、戦場に間に合わず、これによって和泉樫井の戦いで
豊臣方は大敗を喫した。

実はこれらは全て、願泉寺卜半斎が豊臣軍の足を止めるための策略であり、彼らはそれに
まんまと引っかかったのである。
(大阪合戦口伝書書入)




913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 21:35:37.30 ID:hlwGoHLy
>>900
俺の中で大野治房は脳筋っぽいイメージだな
一度戦いになるとめちゃ強いけど頭が弱いせいで知略に長けた相手によくやられる印象

片桐貞隆の妻

2012年04月28日 21:07

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 22:59:01.40 ID:jCpxSmpK
 堺の商人今井宗薫の娘はその美しさが評判だったため、豊臣家臣大野治長の弟の大野治房が
見染めて妻に迎えようとしたが、治房の人柄を嫌った宗薫は娘を豊臣家の家老片桐且元の弟の
片桐貞隆に嫁がせた。このため、大野治房は大いに恨み、折りに触れて片桐兄弟の悪口を
豊臣秀頼に吹き込むようになった。
 大坂の陣が起きて片桐兄弟が大坂城を退去すると、貞隆の妻は堺の実家に身を寄せた。これを
知った大野治房は堺に兵を送って貞隆の妻を奪おうとした。このことを片桐貞隆に知らせる者が
いたので、貞隆はすぐさま家来の多羅尾半左衛門と富田太郎助の2人に20名の足軽をつけて
救出に向かわせた。だが、到着した時には堺の今井家は治房の兵に包囲されていた。
 多羅尾たちは包囲を破って今井家に駆け込んだが、貞隆の妻は もはや逃げられぬと覚悟を決め、
下女に屋敷に火をかけるよう命じ、自らは薙刀を構えて多羅尾たちを引き連れて敵陣に乗り込んだ。
そして、彼女は敵兵を3人斬り捨てると、「夫に仕える女の手本にせよ」と叫んで炎上する
屋敷へ飛び込んで命を落とした。この時、彼女は21歳であった。そして、家来の多羅尾、富田、
それに従う足軽20名、全員一歩も退かずに戦死したという。




866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 23:11:04.45 ID:Bw6SwRM9
貞隆の妻と多羅尾、富田勢は武家として素晴らしいが、
いい話ではないよね

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 23:39:34.83 ID:Gr9i8tXX
現代の感覚でいえばな

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 23:48:25.52 ID:aRBLUkzS
>>864
なんか玉さんの悲劇再びって感じだな

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/28(土) 00:20:42.00 ID:GrrOMxVm
>>867
戦国の感覚でも女欲から、
あたら立派な女丈夫と退かない侍が死んだのは悪い話だろ