FC2ブログ

大阪方の石火矢

2020年12月09日 18:52

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/09(水) 16:43:21.92 ID:ijx6Yt/R
大阪冬の陣の籠城の時、城内より石火矢を撃っていたが、これは修理(大野治長)屋敷より撃っていた。

ある時、この石火矢の火が脇に移り、修理屋敷は四ツ時分(午後10時頃)火事を出した。
それ以降、板葺きの屋根は何れも土塗りにいたした。

大阪城から石火矢を撃っていたのは難波六太夫という者で、秀頼公の所有する石火矢の中に、日本丸と申す
筒があったのを、車に仕掛けて撃っていた。しかし後に、修理屋敷に火事が出た故に、その後撃たなかった。

長澤聞書

大阪冬の陣、大阪方の石火矢について。



スポンサーサイト



『浅井一政自記』より大阪落城と秀頼の切腹までの顛末

2020年10月03日 16:41

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 23:21:59.28 ID:CmvOqubw
慶長二十年五月七日
(大阪方は)敵も未だかからぬ内に諸崩れした。この間、私は御使に参り、又敵と手合わせを
していた。しかし秀頼の生害の事が心もとなく思って御城に戻ったのだが、城中は人少なくなっていた。

秀頼は奥と表の間にお入りになり、お側には修理(大野治長)一人、小々姓たちが少々見えた。
私は天王寺表の様子を見てきたこと、また味方敗軍の様子を申し上げ
「さて御生害は何方にて遊ばされますか。」と申すと、「殿守を用意するように」と仰せになった。
そして修理も御供して奥へと参った。私も御供して奥へ参り「鉄砲の薬はどこにありますか」と聞くと、
「たけへ(武部ヵ)助十郎に問え」との事だったので、助十郎に聞いて、鉄砲薬を二人で持って殿守に
上がり、御生害の場所に畳を重ねて敷いて、薬をそこに置いた。そうしている所に頓阿弥が樽を持って参り、
御意が有ると申した。

私は下に下り、秀頼の御前に参って「殿守を用意しました。」と申し上、火縄に火を付けて持ち、
殿守へと御供した。
ところがその後に修理が参り、偽を申して秀頼を止めた。私は「このような時に(切腹を)延ばせば
恥をかくものである。合戦が盛り返したというのは偽です。もはや千畳敷にも火がかかっています。」
と申したが、甲州(速水守久)と修理がたって申して、下の矢倉へと御供した。これは秀頼の名に
傷のつかぬようにしたいという一念であった。

御袋(淀殿)は既に先に下って居られた。秀頼は月見の矢倉の下から外の様子を覗かれた。
市正殿(片桐且元)の屋敷に参る坂の通りに敵が既に侵入しているのが見えた。そこにて内蔵助(渡辺糺)は
切腹した。渡辺長左衛門が介錯したはずである。この屋敷に私が煙にむせて内に入った時、正栄尼(渡辺糺母)は
「介錯してくれるように」と申したため、介錯をした。御ちゃあ、あい、この比丘尼の三人を介錯した。
これは手柄に成るような話ではないが、この時は皆うろたえ、物を申す者も無かった。

秀頼が矢倉に出られると、皆興の冷めたような様子であった。夜に入り、ひき事など長々と申した。
私は「慮外ながら、御手本を仕ります」と言って、脇差を抜いて切腹をしようとした所に、
津川左近(近治)、毛利長門(勝永ヵ)などが来て、私を外に引き出して連れて出た。

八日の朝、「常高院殿(初)に使いに参るように」と仰せになった。私は色々とお断りしたのであるが、
「誰に行くように申しても、敵の中へ出ると申す者がいないので、御頼りになっているのだ。」と
事を尽くして仰せに成られたために、青屋口の京極殿(忠高)陣所へ向かった。

ところがそこに参ると「常高院様は昨日田中まで退かれた。」と、井ノ口左京(高宗)が申した。
矢倉まで左京殿に文を持たせて遣わした所、「どこまでであっても参って、常高院殿に会って
使いの内容を申すように」との事で、私は井ノ口左京の馬に乗って、森口の先の田中に、やがて到着した、
そこで常高院殿に様子を申した所、「若狭殿(京極忠高)に合った上で返事を申す。」と仰せになり、
青屋口まで御出になった。

私はこれに供して返事を承り、水の手まで参った所で、井伊掃部殿(直孝)の手の者に遮られた。
種々にかり事を申したが「京極殿より切手(通行証)を取って来れば入れる。」との事で、是非に及ばす、
切手を取りに帰ったものの、京極殿の方では「切手を出すことは出来ない」という事に極まり、
是非に及ばす、井ノ口左京を頼って「市正殿(且元)を陣屋に訪ねて来てほしい。市正殿を頼って
御城に参る。」と懇願すると、彼は方々へ人を尋ねに使わしてくれたのだが、その使いの帰らない内に、
秀頼の入った矢倉から火が出て、切腹したということであった。

御存知の如く、私は追腹を切るような奉公人では無いので、是非無く左京に送られて京に退いた。

浅井一政自記

浅井一政が見た、大阪落城と秀頼の切腹までの顛末



390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 23:53:51.31 ID:0H9cOJuf
腹切るまでうだうだしてんなー
普通なら城兵と民草のために落城する前に腹切って助命乞うもが筋だろうに

『浅井一政自記』より、天王寺・岡山合戦の模様

2020年10月01日 17:09

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/30(水) 23:06:55.57 ID:y9xqxqNT
慶長二十年
五月七日の巳刻(午前十時頃)に、寺尾勝右衛門が真田(信繁)の所から使いに参り
「敵合近くなりました。合戦が始まります。」と申し来た。

秀頼は装束の間に入られ「修理を呼べ」と仰せになり、修理(大野治長)が参ると、この事について
勝右衛門と談合に成られた。修理は「最前も固く申しあったように、秀頼公の御馬が出るのを合図に合戦を
始めるという事になっている。今もその事に変更はない。」と申した。
私が「勝右衛門は年寄でくたびれている様子ですから、私を御使いに行きましょう。」と申すと、
修理も「一段尤もである。急ぎ向かうように。」と申した。

茶臼山には真田、丹後(伊藤長実)、伊桑(野々村幸成)、図書(堀田盛高)、伊木七右衛門などが
一所に居た。御使の通り申すと、丹後が「ならば我々は、それぞれの備に参ろう」と申して、下に降りた。

私は真田に「御使に参りましたが、敵合が近いので先に参ります。」と断って、伊木七右衛門の子・半七(尚重)
と同道して先に参った。敵合二、三町あたりへ乗り回して帰った。先に出た事については、この家中の
者共が多く見ている。

七日の午刻(正午)に、敵味方七、八町を隔てて人数を立ち並べた。敵より三人乗り出して参った。
私は白き角取りの紙の指物を指して、畠を筋違いに、阿倍野街道筋へ一人鑓を取って出た。
敵が一人先に進んで来たのを鑓にて突き伏せ、首を取った、この時鑓の塩首が折れた。
その時、真田新参の徳岡十右衛門という者が続いて参った。その内に四方に黒煙が立って、
その後どうなったかわからなくなった。ここにて本多出雲殿(忠朝)、小笠原殿(秀政)など
討ち死にしたと聞いた。これがこの日の一番合戦であった。

この一番合戦で私より先に出たものは一人も無かった。これについて、徳岡十右衛門が現在京に
居られるので、お尋ねに成って頂きたい。大場にての事であるので、諸人見及んでいる。
稲葉丹後殿(正勝)家中に居る山口勘右衛門も私が懸かった事について証言している。
その様子を沢田次右衛門と申す者の方へ書状を送っている。

浅井一政自記』

大阪夏の陣の天王寺・岡山合戦について。
自分の軍功について念入りに書いているのが、いかにもこの時代の武士ですね。



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 02:22:48.19 ID:pyId+6bq
大野治長が治房の家来に襲われて大体一か月程度
脇から肩を脇差で刺された後だってのに忙しいなぁ

大阪夏の陣直前、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂

2020年09月28日 18:09

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 18:01:53.65 ID:J1AvwdnW
慶長二十年

四月十二日
京都の板倉伊賀守(勝重)より飛脚到来。これの申す所によると、去る九日の夜、
大阪の本城よし大野修理太夫(治長)が宿舎に帰る所、何者とも知れぬ人物がその跡をつけ、
脇差で修理の左の脇から肩先に突き抜いたという。この者は突き捨てて一町ほど逃亡したが、
そこで修理の郎党達が追いつき切り留めた。
この者は修理太夫の弟である主馬(治房)の家来であったという。

この事件によって城中の緒牢人は、互いに疑いあい騒動と成ったという。

十三日
今日、大阪より織田有楽、同息・武蔵守(尚長)が大御所の元に参り御前に出た。
大阪の情勢は現在、諸牢人が三つに分かれているという。

七組の頭、大野修理太夫(治長)、後藤又兵衛(基次)の一組、
木村長門守(重成)、渡辺内蔵助(糺)、真田左衛門佐(信繁)、明石掃部助(全登)の一組、
大野主馬(治房)、長宗我部宮内省輔(盛親)、毛利豊前守(毛利勝永)、仙石豊前守(秀範)の一組

この三つに分裂しているのだという。

『駿府記』

大阪夏の陣直前の、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂について。



370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 23:43:19.12 ID:CFvMgXPO
取次の退去で冬の陣になりーの
自分で出した分も含めて和睦条件がこなせないままこれまた取次の治長が家中問題で襲われ―の

もうまるで統制も取れてないな

大野治長は片桐退去までの行動は最悪だけどその後の行動はかなり現実的よね、まぁ周りからすりゃ原因のお前がなに止める側に回ってるねん感もありそうだけども

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:11:07.87 ID:0Z7Z+w/e
片桐退去の時点でもう滅亡するまでやり合しかなくなってしまったのに、
その主犯だった大野がなんとか外交的に豊臣が残るだろうなんて甘い考えにすがるのは、今さら感がものすごい。

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:50:50.34 ID:143NSg4c
講和時点でちゃんと和睦条件こなせるだけの器量が秀頼にあればあんな無様な事にはならなかったろうけど
そもそもそこで和睦条件こなせるだけの器量あったら最初から揉めないというなんとも言えない状況が

大野修理襲撃事件のこと

2018年06月30日 21:12

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 22:51:44.49 ID:d3bXhUj1
大阪冬の陣の講和の後、大野修理が御城より帰り、内御門の脇にて小便をして居た。
ここに30ばかりの、撫で付けにした小紋の袷を着て、一尺三寸ばかりの脇差を持った男が、
大野の60人ばかりの供の者に紛れていた。

その時は夜の五つ時分(午後八時頃)であっただろうか、男は大野に飛びかかった。
脇差が大野の身に刺さったまま、男は駆け逃げた。
闇夜であったので大野の供の者たちは方々を探したが男は見つからなかった。
しかし大野の小姓が、焼き崩された片桐且元の屋敷跡の、石垣の際にて男に追いつき、肩先から
一太刀で討ち留めた。
この小姓は後で豊臣秀頼より、過分のご褒美を下されたという。

そして、かの討ち取られた男についてだが、大阪城より、金子五十枚を賞金としてかの男の
身元を知る者は訴えるよう属託したところ、翌日には二人のものが訴え出て金子を受け取った。
すると本町に住む牢人が、家に火をかけ自害するということが置きた。

後に下々の者は、この事件は片桐且元が起こした事だと申していた。

(長澤聞書)

大野治長襲撃事件のお話。一般には治長の弟の大野治房などによる襲撃と言われますが、大阪では
片桐且元の仕業」という噂が流れていたのですね。



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 23:29:33.60 ID:UkJDX4f0
へうげものに出た大野兄襲撃エピソードって元ネタがあったんだな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 11:53:43.89 ID:FfwUYCBs
死人に口なしってのが、暗殺事件の基本だわな。

大阪方の人々

2018年06月22日 10:32

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 09:17:50.00 ID:+Vch1/Y2
豊臣秀頼公は、大阪冬の陣のおりには御歳23であった。世の中に無いほどのお太りであった。
木村長門も同年である。
大野修理はその頃、47,8くらいに見えた。
後藤又兵衛は60あまりに見えた。男ぶりは百人頭という風情の人であった。
真田左衛門佐は44,5くらいに見えた。額に2,3寸ほどの傷跡があり、小兵なる人であった。
秀頼の御子8歳と長宗我部の二人は戦後生け捕られ、京にて御成敗された。

(長澤聞書)

大阪の陣で後藤又兵衛に従った長沢九郎兵衛による、大阪方の人々の印象



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 10:47:30.98 ID:K53k58Oq
何でそんなに太っちゃったんだろう・・・

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 12:11:36.59 ID:tpZc7hd2
蒲鉾が大好きだったんだよね

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 16:21:57.96 ID:L0H/Woxq
北の将軍様もお太りになってるよな

彼は既に死人同然

2017年08月19日 21:02

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/19(土) 21:00:53.48 ID:vEh+t7Iu
大阪夏の陣の5月7日、大阪城より「秀頼生害の事、御免あるように」との使いに、大野修理(治長)が出て
本多上野介(正純)にこの旨を伝えていた時、田代大膳という者が側に居たが、彼は大野が地に座って
発言している時、後ろで刀のこじりを上げていた。

これに気がついていた正純は、後で田代に「なんと荒気な事を」と戒めたが、田代は

「彼(大野)は既に死人同然なのです。聊かも油断すべきではありません。」

と申したという。
彼は後に駿河大納言(徳川忠長)に仕えた人物であり、この事は、ある人が語ったものである。

(士談)


終始の勝敗は、終始の政による

2017年06月21日 20:02

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:41:24.04 ID:D+B63afb
大阪夏の陣、5月7日に、大野修理は茶臼山の近くまで進出していたが、秀頼の出馬あるよう申し上げるとして
城中に引き返したが、その時大纏を持たせて城中に急ぎ退くのを、他の味方から見ると敗北して城に
逃げ帰るように見え、七手組の人数その他城外に出て戦っていた秀頼方は、悉く気後れし敗北の機が出来、
共に城に入る者も多かった。
寄せ手はこれに気を得て、いよいよ勢い強くなり、これによって豊臣勢は総敗軍となりたちまちに城中周章し、
程なく落城に及んだ。そう語る人がいる。

しかし、大阪の落城の原因はこれではない。ただ秀頼の謀の不足、群臣の異議不全によるものである。
さらに推して言えば、太閤秀吉は一旦の勢いに乗じて天下を従え、道の道たる理由を知らず、
己の私智に任せた事の余映に寄ることである。
また、この時についても、大野が不功者にて事理を糾明し得なかったため、こういうことも起きたのである。

その日、速やかに破れたのはその日の謀により、終始の勝敗はまた、終始の政によるべき事である。

(士談)

大河の真田丸なんかでも豊臣敗北の原因とされた大野の行動ですが、それは真の敗因じゃないよと
山鹿素行がすでに批判していたというお話。


900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:16:56.75 ID:i1njUqXZ
夏の陣は仕方ない

能役者喜多が祖の事

2016年08月23日 18:11

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 03:51:17.17 ID:JLm47JcP
能役者喜多が祖の事

能役者喜多七太夫の祖は、右京と称して太閤秀吉の近習士であった。
七太夫の家に伝わっている話に

大坂落城のとき右京も城内に居たが、大野修理が「早く傘を櫓から出して振れ」と言ってきた。
右京はその言葉に従って天守に上り、狭間から日傘を出して振れば、
雲霞の如く集まっていた寄せ手が、見るうちに段々減ったというものがある。

また城中の婦女雑人の類は、皆々落出る体となったので、右京も故郷筑前に落ち帰ったそうだ。

ただしこれは表向きに言うことで、
実は落城の時関東の御内旨で
秀頼が薩摩に落ちられるのを右京が従っていったという話だ。

この櫓から日傘を出したことを矢留の傘とかいって、故実あることだという。
しかしいかなる訳かそのことは不詳である。
これは七太夫の父、湖遊が語ったことと聞く。
(甲子夜話)




115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 13:34:37.63 ID:+0+aEUCX
>>101
>実は落城の時関東の御内旨で
>秀頼が薩摩に落ちられるのを右京が従っていったという話だ。

関東の御内旨ってことは秀頼が生きて薩摩に逃れたのは家康、秀忠も了承してるってこと?

素より蝿虫だと思っていれば気にならぬ

2016年06月22日 17:18

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 14:46:53.32 ID:cUFFAOL9
大阪夏の陣直前、後藤基次と大野治長の間で口論となり、一触即発という事態が起きた。
その後基次は真田の陣屋に行き、「今陣中にてかくかくの口論が有った」と伝えた。
真田はこれを聞くと、

「そういう事は人を選ぶべきだ。それを蒼蠅に向かって、後藤殿は大人げない。
蒼蠅という虫は、いかなる貴人高官の首にも上がるが、素より蝿虫だと思っていれば気にならぬ。
だからこそ昔の君子も、悪人を蒼蠅に例えたのだ。

近頃私は、あやつを蒼蠅だと思っているので、奴の行動に対して無念と思わなくなった。
後藤殿は生まれつき堪えられない性分であるから、闘論にも及んだのだろう。
今後はそのようにお心得あるといい。」

これに基次も笑い出し
「仰せ至極である。ただ、戦の出鼻をくじくような言動に腹が立って、若輩のようなことを
言ってしまったのだ。しかし、我々が討ち死にするのも間近なのだから、蝿に出会う機会も
もはや稀であろう。
ああそれにしても、あの蝿を払う唐国団扇があれば、千金を以ってしても求めるのになあ。」

「なあに、おっつけ落城の時は、どんな蒼蠅も駿河団扇によって払われるだろう。」

二人は大いに笑い、基次は宿所へと帰っていった。

(慶元記)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 10:10:37.15 ID:03GZzFDX
獄門に晒された首に蝿が止まりますがなw
やせ我慢するから九度山いくんだ

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 11:12:23.18 ID:30ZeMVQb
しょせん後藤は陪臣出身、豊家の家老級から見ると見下す対象だったのだろう

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 20:09:32.12 ID:MjtEezd7
大野治長佞臣説は悲しいなあ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 02:12:15.04 ID:dd6ReUWt
全くだな、本当の佞臣は落城前に逃亡するもんだ。

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 08:15:17.70 ID:bKV/JtHm
片桐「んだんだ」

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 09:55:06.45 ID:bB1GLsRN
>>764
織田宗家のワシを愚弄する気か!

天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

2016年05月29日 13:07

658 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:04:09.47 ID:BEJ0ECpz
大阪冬の陣の和睦後も、畿内の情勢は安定せず、大阪勢が京都を襲うとの風聞が流れると
京は大混乱に陥った。この知らせを受け取った徳川家康は大いに驚き、これは未だ豊臣秀頼
大阪城に在るために、大阪方諸浪人の者達の策動が収まらないのだと判断し、
秀頼に書状を送った

『連々考えるに、秀頼公が大阪城に在ることが、人々に疑心暗鬼を生んでいる。
であれば、国家安穏のためにひとまず大阪城を明け渡し、大和の郡山に移られよ。
その間に畿内を安定させ、大阪城も元通りに普請してお返しするだろう。
七十に余る私であるから、悪しきことは申し入れはしない。織田有楽、大野修理も
よくよく理解して秀頼公を諌めてほしい。

承知なければやむを得ず出馬となるだろうが、和睦から間もなく再び確執に及ぶのは
信を天下に失うに似たり。よくよく了解して、豊家の社稷を絶やさないよう計ってほしい。』

この知らせを受け取った大野治長は驚愕して秀頼に伝える。秀頼は諸士を千畳敷に集め評定を行ったが、
この時真田、後藤は思う所あって出席しなかった。

秀頼は今度の事態に「諸将の心底を聞きたい」と発言を促したが、一大事の儀であり、互いに目を見合わせ
誰も言葉を発せようとしなかった。

が、ここで長宗我部盛親が進み出た

「このように申すのは、思慮が短いかもしれません。ですが道理に合わなければ用いぬまでのことです。
去冬の扱いについて、天下の規範になるような証拠もなければ、和睦の儀は然るべからずと真田、後藤が
言っていたのは、つまりこの事であったのです。
あの時、和平が永く続かないことは、この私ですら解っていました。

今、関東の望みに任せてこの城を去って和州郡山にお移りあらば、一時的には穏便に済むでしょう。
しかし程なくまた難題を申しかけられ、さらに他境へ御座を移されることもあるでしょう。
そうなった時、七手組の者達は勿論、この城に集まった渡りの諸士たちまでも、郡山から他に移ると
成れば、どれほど志のある勇士であっても、望みを失い離散する者も多いことでしょう。
その頃になると今この城にある古老の者達は、寿命で尽く死に果てているでしょう。
であれば、一体誰があって君を守護するのでしょうか?御本懐を果たし申すべき者もなく、もはや
自滅より他ありません、

万一、十分な幸運を得たとしても、織田常真(信雄)と同程度の格式を得るくらいです。
秀吉公の時代、人はみな、この織田常真を卑怯の人として爪弾きにし、信長公の雄才までも、
この人のために罵られたのです。誠に口惜しきことではないでしょうか?

不義卑怯の名を被って生きるのは、武士としてこれ以上の恥辱は有りません。ならば潔く討ち死にして
武名を千歳に残すことこそ願うべきです。
ですが、この城の要害は既に破却され、ここで大敵を防ぐというのは不可能です。
去年、真田、後藤は、美濃尾張までも進出し、また宇治瀬田において防ぐと言上しました。
これも去年であればこの作戦で充分勝利を得ることが出来たでしょうが、今は勝利も覚束ない状況です。
同計同束にてその勝敗が変わることは時の勢いです。

ですが、もはや要害不堅固の城に敵を引き受けても、あたかも籠の中の鳥が殺されるようで無念の第一です。
ですから、何れも討ち死にと覚悟の上は、遠境へ切って出て、五度も十度も強戦して両将軍家の旗本と見れば
左右を顧みず駆け入って奮戦して死にましょう。
木村殿と森殿が言い合わせて二条城に向かえば、京都所司代の板倉も、頭を出すことすら出来ないでしょう。
伏見や茨木に至っては恐るるに足らず。
かくなる上は例えこの城で君には万一御生害あるも、豊家の御恥辱にはなりません!」

この言葉に一座の者達は目の覚めた覚えを成し、「潔し!潔し!」「しからばそのようにしよう!」
そう異口同音に言い合った。

659 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:06:14.29 ID:BEJ0ECpz
が、ここに小幡景憲があった。小幡は松平定勝、板倉勝重と申し合わせて大阪城に入っていた。
彼は武田二十四将の一人、小幡昌盛の次男であり武田兵法を良くすること、大阪城中に知られ、
大野主馬介治房が取り持って豊臣秀頼によって召し出された。
新参ではあったが弓矢の智識(合戦の専門家)であるとのことで、大野治長は彼を評定の席に
召し出し、その末座に在ったのだ。

彼は先程の盛親の言葉が、関東のために甚だよろしくないと判断した。
そこで進み出て申し上げた

「古参の歴々を差し置いて末座から異見するのは憚りあることですが、心頭に浮かんだことをそのまま
差し置くのは不忠の至りですから、その一通りを言上いたします。

徳川家康公は近代の良将たちと、あるいは敵対しあるいは従い、大いにその兵法を学ばれ、
治乱盛衰の機微を察し、欲を抑えることを心がけ、権謀に通じ、その知識の高さは現在において
万々の上に出ています。

聞いた所によると、京都伏見方面には既に段々と軍勢が登っているとのことです。
これは能く状況を知っているということでしょう。
大御所は必ず、盛親殿のような雄偉の将が京都を抑え、美濃の近くまで進出すれば
事難しくなると推察された事でしょう。それを知ったからこそ早速軍兵を登らせたのです。
そのような所にもし諸国の假武者(傭兵)を以って向かえば、敵のために捕虜にされに行くような
ものです。

この大阪城は、城郭の破却こそされたと言っても、七重の曲輪などはなお残っており、敵を防ぐに
便利です。そして八万の兵にその兵糧、玉薬は何れも欠けることなく、ことに城兵の武勇は、去年
両将軍にもみせつけたのですから、敵も簡単には攻め掛かって来ないでしょう。

城兵たちはただ、心を一つにして九死に一生の合戦を遂げるのです。そうすれば、特に西国の者達は、
去年の大阪の勝ち戦によって我々への見方を変えていますから、今度も暫く持久戦を遂げれば、その結果
我らに加担するものも多く出るでしょう。であれば、頼み有る戦となります。

それにこの大阪城本丸は、太閤御苦労の縄張りをして残した物ですから、仮に1,2の曲輪が
破却されても、この城を守衛する事こそ孝子の御本意というべきでしょう。」

そう雄弁を以って語った。
この時、大野治長は元から他境へ軍を出すこと好まなかったため、小幡の意見に方針を決定した
のである。
これは秀頼公の不運であり、天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

(慶元記)



661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 11:44:32.98 ID:kKdVXExc
大野主馬って悪い話ばっかだね。いい話といったら逃げずに死んだことくらいか。

片桐の忠言はこの時に顕れた

2016年05月26日 15:34

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 22:58:06.80 ID:4/B3iYED
大阪冬の陣の講和に向けた動きが始まる中、大阪城の首脳である織田有楽、大野治長
豊臣秀頼の御前にて、このように講和の受け入れを勧めた。

「両将軍家より、御和睦の事を再三仰せ遣わっています。その上意疎意あるまじと、
神文を進ぜられるとの事です。

この度の合戦においては、日本国中の軍勢が雲霞のごとく集まり昼夜攻め戦いましたが、
我々にはさほどまでの負けもなく、これによって君のご威光は天下に秀で、人々はその武威を
皆恐れるほどです。然れば、また重ねて時節到来の時期が来れば、味方に属するものも多いでしょう。
また大御所も既に七十余歳。御余名も久しくはないでしょう。彼が薨去すれば必ず変があります。
その時は天下の大名2つに分かれ、合戦が起こり我らの存在が大きくなること疑いありません。」

秀頼はこれを聞くと
「お前たちが申すこと、一々道理が有る。だがその内容は結局、この戦が始まる前に片桐且元
私を諌めたものと同じではないか?

であるのに、その諌めを排除して今度の難儀に及び、ようやく今になって片桐の諫言に従うとは、
運の極まりである。
しかし運を天に任せ敵を討ち果たそうと思っても、今は皆和睦を好む。ここに至っては恥を忍んで
降を乞い、士卒の生命を継ぐ事を以って、軍勢の恩賞とするしかない。
早く和睦を調えよ。

片桐の忠言はこの時に顕れた。私は後世から嘲笑をうけ、その恥辱を雪ぐことも出来ない。」

そう、目に涙を浮かべて言った。有楽も治長も顔を赤らめたものの、秀頼が和睦を許諾したことに
喜悦して退出した。

(新東鑑)




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 00:09:41.77 ID:36WfMBtD
その恥辱を雪ぐことも出来ないって断定しちゃダメでしょう。
家康の寿命尽きたら合戦になるって話てるんだから勝てばいいんだし、
そして結果がわかってる後世に書かれたってわかっちゃうという二重の意味で

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:29:40.29 ID:kWfovEN6


653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:56:11.27 ID:o5U5k782
最初に且元の進言を退けたのに結局はそれに従うことになったからだろ
後に合戦に勝てばよいとかそういうことではない

群盗蜂起

2016年05月23日 17:20

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 22:41:55.91 ID:Bf+Mj0o/
大阪冬の陣があって諸人漂白を踏む思いをなしていた所、和睦となったため人々は思いの外に
静かな春を迎え、安堵の思いをした。

ところがその頃、五畿内およびその周辺の国々では群盗が多く蜂起した。
彼らは「大阪籠城の浪人」と称し、民の財宝を奪い取り、旅人の衣装を剥ぎ取り、往還の人々まで
殺害した。

この時は四方より困窮した者たちも大阪浪人に与して集まってきたので、その数甚だしく、
諸国の庶民たちは大いに嘆き、大阪への恨みは日々大きくなっていった。
世間では『大阪城中の輩が申し合わせて、去年城郭を破却された報復として、このような非道をするのだ』
と言っていた。

板倉勝重松平定勝はこのような都鄙の騒動に大いに驚き、これを放置すれば終には乱の元になると
考え、両人申し合わせ諸国の大名に申し触れた。

『大阪籠城の浪人が諸国に分散し、押し取り、強盗を行い国々の煩いとなっている。
各々の領分の範囲で、手柄次第に捕縛し、なお手に余るようであれば討ち捨てにもされよ。
その委細は関東に報告する。』

しかし、或いは百、ニ百、或いは三百五百と徒党していたため、以ての外に手に余り、一揆が起こったのと
異ならない状況であった。

板倉はこの状況を急飛脚を以って関東へ知らせ、畿内の世上物騒であることを両将軍(家康・秀忠)に
伝えた。また大阪に対してもこの事を申し送り
『秀頼公の御為にも然るべからざる事なので、大阪からもこれを鎮めるようにしてほしい』
と伝えた。

これに対し織田有楽大野治長らの返答は
『去年集まった雑兵共は和睦のあと離散したため、何処に国に向かったかなど詮索も出来ない。
察する所、浪人によせて諸国の盗賊が集まったのだと見える。よくよくご詮議されるべきです。
秀頼公には毛頭和議を疎略にする考えはなく、この上何らかの雑説が流れても信用すべきでは
ありません、』

そう申し遣わしたが。上方ではこの年2月に神踊という事もはやり、貴賎老若動揺をなした。

(慶元記)

大阪冬の陣の和睦のあとも、安定しない上方情勢についてのお話



籤で持ち口

2016年05月01日 17:13

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 21:19:12.93 ID:SZUuzKNG
大阪冬の陣が始まろうとする時、大阪城中では関東の出馬を聞いて、諸方の砦、その他外構え等の
普請に傭役を増やしてこれを急いだ。そして豊臣秀頼は、譜代新参の諸大将を召して評定を開いた。
その内容はこうである

「先に命じた各々の持ち口(担当部署)には善悪が有り、それに対して不満も出ている。
そのためもう一度、籤によって持ち口を定めたい。」

これを聞いた各持ち口の頭分の者達は
「最前既に仰せ付けられた持ち口ですから、それに善悪があろうとも今また変更すべきではありません。
また、兵家が籤を用いる時は、故実に従うべきです。
ともかく、そのままに差し置くべきです。」

そう、この件に反対した、

この時、大野治長渡辺糺は籤奉行であったのだが、大野治長がこう発言した
「黒門口は平野口に近く大手の内の要害ですから、かの口三十間は治長がこれを堅めます。」

これを聞くや渡辺糺が怒鳴った
「治長殿のやり方は理解できない!いま、持ち口に善悪があるからと籤を用いようとしているのに、
黒門口は治長自ら堅めると言われる。ならば籤はしないのと同じではないか!?

総じて修理亮殿は万事ほしいままにして諸将を蔑ろにしている事、甚だ奇怪である!今後、慎まれる
べきである!」

しかし治長は少しも屈せず
「黒門口は内側が広ければ小勢を以っては担当できない。それ故にこの治長が、籤を執る前に
これを堅めたいと申したのであって、全く我意を挟んだものではない!
そもそもそのようにいう和殿こそ、却って秀頼公の思し召し良きをいいことに、常に諸士に対して
無礼であるため、人々もこれを悪んでいると聞くぞ!
この治長に意見する前に、先ず自身が謹しまれよ!」

そう荒らかに言い放つと、糺も激怒し
「普段のことはともかく、今度の黒門口は籤の上であれば、特別に治長に堅めさせるようなことはしない!
強いてというなら、余人には渡さぬ。この糺自ら請い取るべし!尚も言いたいことが有れば申してみよ!」

目を怒らし居丈高に成り、肘を貼って叫ぶ渡辺糺に、大野治長も立ち上がった所を、座中の人々が
慌てて両人の間に入り
「御両人はこの城の棟梁の臣なのですから、このような諍論は似合いません。殊に大事を控えながら
朋輩同士が口論するのは然るべからざる事です。第一君の御為になりません!」

そう制したことで渡辺は鎮まり、治長も「私も誤っていた」と謝罪し、各々はその座に帰った。
この諍論に時間を取られたため、籤の沙汰は無くなった。

籤が中止に成ったことを真田幸村は聞くと「さもあらん」と嘲笑った。
そして後藤基次は
「両人の喧嘩は大阪の幸いであったのに、どんな馬鹿者がそれを止めたのか。
この両姦人さえ討ち果たせば、城中の評議は思う様に整って、天晴花ある軍となっただろうに。惜しいことだ」
と、大いに腹を立てたという。

(慶元記)



580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 23:16:14.42 ID:q6uhGX3x
いつ見ても城内ばらばらやな

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 23:49:28.24 ID:1l8pvDLb
目立った働きのなかった譜代が目立とうとして必死なんよ

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 00:06:04.93 ID:x4B2WdUx
突出して凄いのが出てくればよかったんだろうけどねー

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 00:33:08.56 ID:98MthrCf
そりゃまあそれほど戦慣れしてない譜代は浮足立ちもしそうなもんだ

二人ともあきれ果てた

2016年04月04日 17:43

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/03(日) 15:18:51.96 ID:s1yGAbCK
大坂城の女中が集まる三の間に大砲の弾が撃ち込まれ茶箪笥を打砕き、淀殿の居間まで悲鳴が聞こえるようになるにつけ、
淀殿の口も和らぎ、織田有楽斎、大野修理へ「何卒和談を取り付けたい、秀頼の為なら自分が江戸へ下向してもいい」と言ったが、
秀頼が承知せず、この上は近臣の出頭の者に諫言させようと相談した。

渡辺内蔵助は鴫野の一戦以後秀頼の前を損し、
薄田隼人も博労淵の出曲輪を取られ、日頃の力量自慢ほどではないと城中のひとに取沙汰されているのを恥じて万事控えめになっている。
木村重成は後藤又兵衛が今福の戦いを秀頼に報告し、以前の倍も信頼を受けている、木村から言ってもらうのがいいだろう、と
有楽斎、大野が木村を招いて、和談の上淀殿を江戸へ差し出すことを秀頼へ提言するように言ったが、これを聞いた木村は
「今の話は片桐が最初に話したことと少しも違いはなく、今さらそのような申し上げはできない。
各々に幾度でも言うが、このような次第になったのは畢竟秀頼さまのご運の末と嘆くほかない」
と言うので、二人ともあきれ果てた。
その後後藤から強く申し付けたことで秀頼も得心し、和議の相談が進むようになった。
この話は難波戦記等にはないが、牧尾是休斎が語ったことである。

落穂集から抜粋

木村重成がいかにも若いな~って感じだ



秀頼公の御味方に参ることは

2015年12月14日 16:33

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/14(月) 05:41:18.14 ID:KJNAxOqs
豊臣秀頼は薩摩へ河北庄右衛門と高屋七蔵の両使をもって貞宗(正宗とも)
の脇差を遣わし、味方にと頼った。

これに島津は、「先年の関ヶ原の時、家康公に御敵申し上げましたものを、
御許しくださったので御恩は忘れ難く、今となってはもう秀頼公の御味方に
参ることは罷りなりません」と言い、脇差を大野修理(治長)まで返進した。

――『武功雑記』



このように、大阪方の手立て、仕置は

2015年10月27日 14:57

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 13:52:38.37 ID:DVPqIe60
かつて大和大納言(豊臣秀長)に仕えていた国島道喜は、左手が手首から切り落とされ、
右手ばかりであった。彼は大和豊臣家の滅亡後牢人していたが、大阪の陣の勃発に
大野修理(治長)によって呼び出され、鉄砲隊を預けられた。
大阪落城のあと、武士を辞めていたのだが、松平下総(忠明)殿に呼び出され、御伽衆のように仕えた。

この道喜が語ったことに、大阪夏の陣の5月4日、豊臣方では、幕府方蜂須賀の軍勢を、毛利豊前(勝永)の軍勢
一手にて打つべしとの事であったのに、作戦は相違し失敗した。

また5月6日の明け方七つ(午前4時頃)に大野修理が毛利豊前と共に国府まで出兵する約束であったのに、
支障があるとして六つ(午前6時頃)まで引き延べ、さらにまた五つ(午前8時)にすべしと、
3度も変更してようやく出馬した。この陣のなかに道喜も居た。

さらに平野のあたりで、大野修理は「豊前と相談することがあるので今一度言って話をする。人数を下げよ!」
そういって手廻り5,6騎にて引き返した。大野が率いていた豊臣方の諸軍勢は、疑いながらも引き上げた。
その道すがら、立派な騎兵4万ばかりと行き合った。これは大阪城の七手組の軍勢であった。

この時、大野修理が出馬のため鹿毛三寸ばかりの馬に乗ろうとした所、どうしたわけか馬が修理を乗せようとせず、
何度もやりなおして漸く騎乗したという。

このように、大阪方の手立て、仕置は、相違することばかりであった。

(武功雑記)



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:38:01.69 ID:Z6+pZqxx
>鹿毛三寸ばかりの馬

何のサイズが三寸なんだろう?
まさか体高じゃないよね・・・

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:09.82 ID:DVPqIe60
>>544
原文のままなのですが、多分三尺の間違いじゃないかなとは思います。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:51.21 ID:awa9htJ4
尺が抜けてそうだよな
つか既出や

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:54:32.38 ID:XVncGBb9
三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:12:54.74 ID:Z6+pZqxx
>>547
>三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
>馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

そういうことなんだね。
どうもありがとう。
しかし、いつも思うんだけど、みんな物識りだね~

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 22:23:19.75 ID:X5C7r9E2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6508.html
これでもその話題があったな
後はこの四尺以下は農民に払い下げた話とか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3526.html

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 00:02:58.75 ID:h+07QPAW
しかし東国大名はむしろ体高が低めの馬を使うようにと推奨してるけどな
四尺一寸~三寸あたりの

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 10:46:38.21 ID:P96eNA4e
だいたい乗り手の肩の高さ=馬の体高くらいが基準だよな

秀吉の愛妾が秀頼という男子を生んだ

2015年10月06日 19:26

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 00:47:37.43 ID:0a5oehs5
 賊魁(豊臣秀吉)には子がなかったので、妹の子を自分の養子にした。賊魁が、大閤と自称するに及んで、その養子を関白にし、伊勢・尾張などの州を分って領土としてやった。
 
 壬辰(1592)年の冬になって、秀吉の愛妾が秀頼という男子を生んだ。
〈ある者の言うには、大野修理大夫(治長)なる者が、秀吉の寵を得て、つね日ごろから寝室に出入りし、秀吉の愛妾とひそやかに通じて生んだのだ、と〉

秀頼が生まれてからというもの、関白(豊臣秀次)は、自然と心に疑いや懼れが生じ、暗に叛意を抱いた。石田治部(少輔三成)は、彼に従いながら、これを陥れた。
秀吉は、関白を自決させようとしたが、関白は紀伊州高野山に逃れ、剃髪して僧となった。秀吉は、ただちに、その所在で、またこれに死を賜った。
〈倭の法では、死罪に当る者でも、領土を捨てて僧侶になれば、通例として不問に付すのであるが、秀吉だけは、関白を殺してやっと満足したという。〉

 関白の屋敷も包囲し、その部下を一人残らず殺してしまった。その屋敷は没収して、加賀大納言(前田利長)の与えた。

(看羊録)

秀頼出生にまつわる浮名が朝鮮の捕虜にまで耳にしているということは、当時でも有名なゲスネタだったのかも



404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 07:52:40.25 ID:ipxYJqjU
スキャンダルはいつの時代も盛り上がるんだねえ。

豊臣秀頼、出馬の事

2015年04月08日 18:44

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/07(火) 21:50:14.35 ID:dL07ArE8
慶長二十年五月七日、この日は大阪夏の陣における最期の戦闘となった天王寺・岡山合戦があったが、
豊臣秀頼は天王寺に出陣し、一戦を為して討ち死にすべしと言い、桜の門より出た。

ここに大野修理(治長)が御前に参り
「御出馬の事、先ずは前線にいる真田(信繁)と確認を取るべきでしょう。私が先に行って、
彼と会ってまいります。」
これに秀頼も「ならば遺書いで状況を聞いてこい。」と仰せになり、床机に座って桜の門に待ち居た。

大野が左衛門佐(真田信繁)の元に行くと、左衛門佐はこう言った
「現在、敵と5,6町(およそ5,600メートル)を隔てています。今、船場に備えている
明石掃部(全登)の人数を、幟をしぼって、この西の崖の影を密かに廻って、茶臼山より一町ばかり
先に張り出します。その合図を定めて、この陣より合戦を始める、明石の軍勢が横合いから掛かれば、
十に一つは利を得ることが出来るでしょう。
秀頼公の御出馬、一刻もお急ぎあるべし。」

これを聞き、大野は逸物の馬に乗って数十人を引き連れて駆け帰ったが、前日の合戦で生き残った
大阪方の軍兵たちは、これを見て敗軍したのだと思ってしまい、備も大いに乱れた。

大野は御前に戻ると、左衛門佐の指図の趣を申し上げた。その時、左衛門佐と一緒に居たはずの、
真田の子息である大助が御前に参った。そしてしばらくして「御味方、敗軍いたしました!」との報告が来た。

秀頼はこれを聞いても「出馬するぞ!」と言ったが、速見甲斐守(守久)御前に出て、
「御方敗軍と見えます。今、御出馬されたとしても大軍が崩れ掛かり、大敵を受けて何も出来ません。
御馬を戻し、御本丸だけを固く守り、時至らばお腹を召されるべきです。」
そう申し上げたところ、「その儀尤もである」と同意し、千畳敷へと入っていった。

しかし大阪城内は、このような状況であったので、軍兵多しといえども、皆気色を変え、心々に
落ちていった。秀頼はそのような光景を見ながら、奥の御所に入った。
しかし、かつて名高かった千畳敷も荒れ果てていた。その姿は、ここが完全に消滅した跡も想像させ、
なおいっそう哀れであった。

(豊内記)

豊臣秀頼が、出馬を断念した場面についての記事である。




大野治長襲撃事件

2015年02月16日 18:35

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 00:07:41.67 ID:y4ziA/OB
大和の吉川主馬之助の猶子に、吉川権右衛門、同新蔵という兄弟があった。
彼らは大和国で武辺覚えある者にて、大野主馬(治房)が良く存しており、大阪の陣の勃発に当たり、
主馬によって豊臣秀頼のもとに召しだされ、大野主馬の組下と成った。
この時故あって、平山治太夫、平山清兵衛と改名した。

さて、大阪夏の陣が始まろうという時、関東より軍勢が発向したとの報を受け、大阪城内では
様々に評議が行われた。この時、大野修理(治長)は
「大阪方は少数であるから、籠城すべきだ」と主張した。
これに対して主馬は
「京都に進出して宇治・勢多の橋を引き落とし、京都において戦うべきです!
天下分け目の合戦で最初から一城に引きこもるなどというのは、後難を考えても口惜しきことです。
とにかく進出すべきです!」
そう主張し、その他様々に提言したものの、修理は同意しないことも多く、埒の開かない
有り様と成った。これに主馬は強く立腹し

『いくら兄と言っても、なんと無分別な人であろうか!あのような者は突き殺さねばならない!』

そう考え平山治太夫を呼び密かに談合した。
これを聞いた治太夫は「それは一大事のことです。思い留まれますように。」と一応は申し上げたが、
その答えに主馬が以ての外に怒りだしたため、治太夫もついには同心した。

そこで大野修理を刺殺する者について検討した所、元、布施の忍の者に今倉孫次と言う者があり、
治太夫がこれを呼び寄せ密かに語った
「その方は足速き者にてなかなか人に追いつかれるようなことはあるまい。
どうにか首尾を見て大野修理殿を突き殺し、逃げ去るのだ。
大野主馬殿は、それが成功すればそなたに大和において十万石を与えると仰せに成られた。」

そのように念入りに密談すると、今倉孫次はこれを了承し、「畏まり、存じます。」と申した。
その後大野主馬より脇差しが与えられ、今倉はこれを三度押し頂き退出した。

そのような中、大野修理は登城していたが、日没の時分に乗物で退出の途中、
大手桜の御門にて乗物より出て小便をしていた所、かの今倉孫次が「御免候え」と言いながら
修理の供の間を通り抜けると、刀で修理を二度突き、そのまま逃げ去った。

供の衆はこれを追いかける。今倉孫次は、普段は早馬にも劣らない、早駆けの達者の者であったのだが、
この時はどうしたことか、水道の溝につまづき転倒した所を、数人が追いつき斬り殺された。
大野修理は2ヶ所負傷したものの、いずれも薄手で程なく平癒した。

事件の直後、大野修理から主馬が呼び出された。主馬は「もし、なにか様子の変わったことが有れば
心得ておくように」と、次の間に平山治太夫を控えさせた。

主馬に大野修理は「不埒者があって、このような有り様となった。お主も犯人の詮索をするように。」
と語った。主馬は内心『仕損じたか!』と思いながら、さらぬ体で対応し、そのまま帰った。

翌日、今倉孫次の遺骸は傷を縫われ柱に縛り付けて立たせ、この者の情報を提供したものに
黄金五十枚を与えるとの触れが出された。これに大野主馬は心もとなく思い、平山治太夫を呼んで
相談した
「あの今倉孫次は、成田勘兵衛の同心であった。急ぎ処置せねばならない!」
そう言って治太夫に、成田勘兵衛の屋敷へ数百人を遣わせ、是非を言わせず斬り殺させた。
そしてこれより平山治太夫は大阪城より落ち去った。
(大和記)

大野治長襲撃事件についての記事である。



419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 09:55:47.64 ID:imqZp9DM
豊臣と北条って滅び方が似てね?

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 11:40:20.61 ID:S8lXVHWw
大野主馬の評価が上がったね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 20:39:51.86 ID:xCeeu4M7
そもそも浪人を召し放たなかったのは主馬さんだからね
やる気満々

429 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/18(水) 09:46:11.96 ID:tLdIKNKA
>>418
弟の治純のwiki見たら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%B2%BB%E7%B4%94
>大阪夏の陣が始まる前日に家康の命を受けて、闇討ちにあい負傷した兄・治長を見舞った。
>その際に大阪へ向かう前に家康から「真田信繁・長宗我部盛親らが内通している」という偽書を見せられ、
>その内容を兄・治長に伝えた結果、豊臣側では士気を高めるべく戦に備えていた豊臣秀頼の出馬が、
>淀殿の意向によって急遽取り止めになり、秀頼は淀殿と共に大坂城で籠城し続ける事になったとされている。

この事件、家康の離間策に利用されちゃってたwww