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ある本によると、真田左衛門佐は

2013年10月12日 19:11

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/12(土) 18:36:53.28 ID:GL7O1lDq
ある本によると、真田左衛門佐は茶臼山の出先に屯したが、子息大助を呼び、
「其の方は昨日の一戦で負傷したから望ましい働きは叶うまい。それに思う仔細が
あるから、其の方は今のうちに御城に帰り、御前の御先途を見奉れ」と言った。

しかし、大助は「戦の始まる直前にそのようなことをするのは本意ではありません。
父君と死をともにしたく思います」と承知しないので、左衛門佐は大助を近くに
呼び寄せ、何やら申し含めた。

すると大助は伏してすぐに馬に乗ろうとしたが、父の方を見遣り続けて、離別の情は
切なるものであったので、左衛門佐が近臣をもって心強く言い遣ると、大助はこれに
励まされて馬を乗り出した。

それでも大助は幾度となく父を見返って城へ帰った。衆人は父子の別れを見て、
涙を流さない者はいなかったという。

ある記によると、真田左衛門佐は「秀頼公の御出馬を急がせるべし」と、大野治長
示し合わせて城中に帰し、なおも「御出馬を急いで勧め奉れ」と大助を帰した。

それを知らない士卒らは「大野も城中に逃げ入り、真田は味方の負けを知って
我が子を城へ帰した」と言ったという。

――『新東鑑』






籤で持ち口を

2013年02月23日 19:56

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/22(金) 23:51:03.10 ID:3T3cUQBH
大阪冬の陣が始まらんとしていた時の事である。
大阪城中では関東勢(幕府軍)が軍勢を発進させた、との報を受け、諸方の砦。そのほか外構え等の
軍事施設の普請を急いでいた。

この時に豊臣秀頼は譜代新参の諸将を集めて評定を行ったが、そこで秀頼は

『先に達って申し付けた各々の持ち口(担当場所)であるが、その配置に善悪が有り不満が出ている。
よって改めて、籤によって持ち口を決め直す。』

と仰せになった。これを聞いた各持ち口の頭分の者たちは

「最前、既に仰せ出された持ち口であるのだから、それに善悪があるといっても今になって又
変えるべきではない。それに武士が籤を用いる時は、その故実に従うべきものであるので、
ともかくもそのままに差し置かれるべきだ。」

と思い、敢えてその沙汰に同調する雰囲気は無かった。

この時、大野治長渡辺糺は籤奉行であり、両人は座の中央に居たのだが、治長が進み出て
申し上げることには

「黒門口は平野口に近く、これも又大手の要害ですので、かの口の30間は、私治長が
これを固めます!」

渡辺糺はこれを聞くやいなや怒鳴った

「治長のやり方は全く理解できない!今、持ち口の善悪があるからと籤を用いようとしているのだ!
そんな所に黒門口は治長自らがこれを固めると言い出す。
然らばこの籤は無いのと同じではないか!

そもそも修理亮はいつもそうだ!何でも己のほしいままに行い、諸将を軽んずる。
甚だ奇怪なことである!今後そのような態度は謹むべきだ!」

治長もこれに怒鳴り返した

「黒門口は内側が広く、そのため小勢ではここを守るのは難しい。それ故配下の多いこの私が、
籤を引く前にここを固めると申したので、これは全く我意を挟んだものではない!
だいたいそのように言う貴殿こそ、秀頼公の思し召しが良いのをいいことに、諸士に対して
無礼に振るまい、人々もこれを憎んでおるぞ!
この治長の事を言う前に、先ず自分の身を謹まれよ!」

糺はこれに激怒し

「日々の事はともかく、黒門口の担当も籤で決めるべきで、特別に治長に任せるような事は
出来ない!それでも強いて要求するのなら、余人には渡さぬ、この糺が自らここを請け負う事とする!
未だ言いたい事があるなら、申されよ!」

渡辺糺は目を怒らし居丈高となり肘を張って言葉を投げつけた。
これに治長も膝を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、座中の人々が慌てて両人の中にはいり

「御両人はこの大阪城をまとめる老臣ではありませんか!それがこのような論争をするのは
ただでさえ似合わぬことであり、しかも今のような大事を控えた状況で、朋輩同士の
口論などしている場合ですか!
第一これは、君のためになりません!」

そう言って二人を制した。ここでようやく渡辺糺が鎮まり、治長も「ついカッとして言い過ぎた」
と謝罪し、各々その座に戻った。

しかしこの騒ぎのために、籤の件は沙汰止みとなったそうである。
(慶元記)





702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 07:28:04.71 ID:7nKpJU6+
>>700
諸将が不満に思う籤をやめさせるために二人で芝居した……ってことはないだろうな

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 09:02:31.22 ID:R+0y1Ibw
どっちなんだろうなw
先に籤は間違いであることが述べられて、最後に結果として
籤は取りやめとなかったとあると解釈に悩んじゃうなw


大野治長と織田有楽斎が茶臼山にやってきて

2012年05月24日 21:00

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 00:30:52.68 ID:3WQ2Cwt1
大坂冬の陣の和議がなった後、大野治長織田有楽斎が
茶臼山にやってきて祝賀を述べた折、徳川家康は本多正純を呼び、

「わしは修理のことを只の若造だと思っていたが、こたび
主将として諸軍を指揮する様は、武勇はもちろん、秀頼に対する
忠節も見事なものであった。正純よ、お前も修理にあやかるのだ」

と言って治長の肩衣を所望し、それを正純に着させた。
治長はこの時「冥加にかないました」と感じ入り、涙を流して退出した。

そして、有楽は御次の間にて衆人に向かい

「このたび御和議がととのったのは本当にめでたいことです。
これよりは入道も太平の恩化に浴し、生涯を楽しんで送りたいと
思います」と言って、茶を点てる真似をして帰っていった。




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 00:43:15.24 ID:fsKXrfLp
深そうな逸話だな。
有楽が構われず世代交代を察して退いたのか、豊臣の明日はないと思って保身に走ったのか。


316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 00:53:33.47 ID:L1gtvlb6
茶を点てる……真似?

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 01:05:59.39 ID:CgcdmOmV
織田有楽斎は信忠を見捨てて(彼が余計な進言しなければ信忠は死なず
に済んで織田家の没落もなかったかもしれんし)、その後は秀吉の家臣
として屈辱を受ける事もありつつも大阪の陣以降まで生きているけど
豊臣家の滅亡をどう思ったんだろう。
織田家を蔑ろにした報いで「ザマー」と思ったか、それとも諸行無常というか、
姪の茶々と秀頼を哀れに思ったか。。。。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 07:52:25.55 ID:Cr0urHIm
有楽だし、我が身の無事以外は何も考えてなさそう

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 11:19:38.54 ID:/zOIRHeb
有楽「良かった、今回も生き残ったぞ」

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 11:59:40.13 ID:SexZ0GL/
有楽みたいに実際の行動じゃなくていつの間にか立った無責任な噂で人間決められてたら、趣味の世界に
逃げたがるのもわかる。

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:13:59.61 ID:MAQBFCeU
有楽殿は評判悪いなw
自分の能力をわきまえてうまく立ちまわってるだけなのに

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:20:14.71 ID:CgcdmOmV
>>320
あの例の有名な歌は嘘なんだ。

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:25:10.38 ID:J9GtnOfy
>>322
あー、フランク永井のやつね

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:26:36.80 ID:CnsFi+EX
うらく町で逢いましょう

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:45:34.52 ID:SexZ0GL/
>>322
後世の編纂物にしか存在しないし、他の脱出組は叩かれて無いからねえ。

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 15:25:52.56 ID:CgcdmOmV
へえ~そうだったんだ。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 19:33:55.69 ID:0QPsSeJ7
すごいな、フランク永井

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 21:09:27.81 ID:fPnXHy8x
有楽殿好きだけどな、俺
あの立ち回りはただの凡人に出来る芸ではないと思う

「大野治長は首ひとつで」

2012年05月19日 21:00

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/19(土) 01:33:04.39 ID:t3vmqEb3
↓と関連するエピソード。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5103.html

徳川家康暗殺疑惑によって配流された大野治長であったが、
関ヶ原の戦いでは許しを得て東軍として従軍した。

戦が始まり、治長は先陣に馳せて首級をあげたところ、
徳川家康は「匠作これへ」と言って、その武功を慰労し、

「もはや先手に進むに及ばず」と、板部岡江雪斎とともに
治長を本陣に留めた。

この時、首の主が誰なのか誰も知らなかったのだが、
後になって実は宇喜多家の高知七郎左衛門という者だと
いうことがわかった。

その事を知った家康は「それほど名のある者であったなら、
あの時、しかと見ておくべきであった」と言ったので、

「治長は首ひとつで二度も御賞詞を賜った」と人々は
みな羨んだという。




207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/19(土) 02:08:05.83 ID:opiH/Kk6
>>206
河内七郎右衛門と高知七郎左衛門って微妙に名前が変わってるんだな

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/19(土) 10:02:16.06 ID:JVYz1Rh4
>>207

河内と高知は同じ「こうち」と読めるけど
右衛門と左衛門では全く逆になってるねw

「三ヶ条の要求」と豊臣秀頼

2011年12月26日 22:02

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 18:02:11.44 ID:LdVEqifJ
慶長19年(1614)9月18日、方広寺鐘銘事件などで緊張した徳川・豊臣家の問題を駿府の家康と協議した
片桐且元は帰阪。秀頼に家康からの要求、

『秀頼が人質として江戸に下る、もしくは淀殿が人質として江戸に下る、もしくは国替えを受け入れる』

という三ヶ条を伝えた。

これを聞いた豊臣秀頼は、片桐且元を、休息を取れと私邸へ帰らせ。その上で、当時大阪にあった
織田常真(信雄)のもとに、大野治長、木村長門守、渡辺内蔵助を遣わして、この件に対して相談をさせた。

三人は信雄にこう主張する

「市正(且元)は今度の使いにおいて、いくら家康公の御指図だといっても、先ずは一応も二応もお断りを
申し上げ、その上ではじめて家康側の申し出を聞き届け帰国しこれを秀頼公に申し上げるべきなのに、
彼は秀頼公を差し置いて、この三ヶ条へ異見が無いと家康に申し入れ、自分一人の判断で、まるで自分が
家康の使いであるかにように、秀頼公に申し上げた。
これは我が君を見下げるような行為であり、その不正は軽くない!

この上は最早市正を踏み殺し、我々の方針をはっきりさせるべきと考える!」

信雄はこれを聞いて仰天した

「今、両御所を敵に受けて盾をつくなど、考えも出来ない事だ!
今回のことは全て、市正に任せて然るべきである!」

三人は秀頼に元に帰り、両者の意見を申し上げた。
しかし秀頼はこれを聞くと、いずれの意見を取るべきか解らず、ただ悩んだままであった。

大野ら三人はこの秀頼の姿を見て、「秀頼公には知らせず密かに且元を城に呼び出し、そこで
刺殺して方針をはっきりさせよう!」と示し合わせた。

しかしその動きをを察知した信雄がこれを且元に知らせ、且元は大阪城を退去。
これが大阪冬の陣勃発の直接の理由となる。

和平派もそうだが主戦派も、秀頼本人の意志を重視してはいない、片桐且元大阪退去に至るまでの、顛末である。
(秀頼事記)






499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:39:58.07 ID:Gb1JJCFD
何かで読んだのか戦国もののドラマか忘れたけど
且元はその時淀殿を江戸に送ることを承知しておいて
江戸屋敷の造営で一年二年と引き延ばしその後は淀殿病気といいさらに一年二年引き延ばし
家康が死んだ後挙兵すれば少しは勝ち味が見えてくると献策したとか言う話があったな
多分史実じゃないとは思うけど

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:42:56.60 ID:W9TthKzI
葵徳川だね

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:50:58.98 ID:gHUua3Pj
実際家康相手にそんな小細工無理だとは思う

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 23:47:39.70 ID:HTcBDCI7
>>498

これじゃ、まるで開戦にいたるまでの先帝陛下のお立場ではないか?

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 00:05:13.68 ID:AGDGBLr/
こう見ると信雄さんは現実派だなぁと思うけど
やはり残り二人からは「このヘタレが!」って思われたんだろうな

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:15:30.85 ID:zgeD+M20
福島正則「だから!遅すぎたと言っているんだッ!!」

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:54:59.49 ID:3dub6oDn
信雄が優秀だったってのもあながち間違いじゃないよな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 09:04:44.29 ID:2Phlz4nt
お坊ちゃまだった若い頃は失策しまくりだったけど、
もう世間慣れしてるお爺さんだから保身感覚が身に付いてるよな

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 10:15:59.08 ID:quNlbzpG
若いころから保身感覚抜群の連中がいたりするから見劣りしたりするんだよな

森家の連中とか池田家の連中とか…

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 11:45:49.54 ID:rWPzNMBy
>>507 信雄様のおかげで早くに親父や兄がなくなったもので、若くして保身感覚を身に付けました。

大阪城大広間の評議と後藤又兵衛

2011年09月04日 23:29

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 14:54:25.92 ID:zfplFunb
後藤又兵衛のお話を

大阪冬の陣の事。慶長19年(1614)12月16日、幕府軍による備前島からの大筒の攻撃で、砲弾が大阪城本丸の
淀殿の居間の櫓を打ち壊し、侍女数名が即死するという事態に至った。
これに恐怖した淀殿は秀頼に和議を勧めた。だが秀頼は強い難色を示し、結論は出ない。
そこで大野治長は大広間に組頭以上の者たちを集め、この事を協議させた。

と、ここで進み出て声を上げたのが後藤又兵衛基次である。彼はいう

「もし近い内に徳川軍の総攻めが行われれば、我々牢人衆は討ち死にするでしょう。
同じく、仮に和議になっても、籠城している我々牢人衆は責任を取り腹を切らされるでしょう。
だが討死も切腹も、どちらであっても豊臣家のお役に立って死ぬ、名誉あることことなので、
この点を心配することはありません。

秀頼様は、和議後の牢人衆の立場がどうなるかが心配で、これに反対しておられるのでしょうが、以上の理由により
その心配は無用なのです。
私としてはむしろ、家康の身の安全を願うばかりです。」

最後の言葉は、主戦派の将軍秀忠と違い和議を進めようとしている家康に何かあれば講和は成立し得ない、
なので和議が纏まるまで家康の無事を祈っているのだ、ということだろうか。

これに賛同者も出て、治長はこの意見を淀殿に申し上げ検討したそうである。
(慶長見聞記)




大野治長が関東に流された理由

2011年04月15日 00:01

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/14(木) 09:48:00.83 ID:yEyey1wz
徳川家康を大阪において暗殺しようと企があり、土方勘兵衛と大野修理がそれぞれ
打ち手、抱き手を申しつかった、という話は実際には誤りであり、少しもそういった事実はなかった。

後にこの二人が関東に流されたのは、淀殿と悪き事があるようだ、との噂によってであった。

その頃小唄に「やりたや大野修理」(やっちゃったなあ大野修理)という物が流行ったそうである。
(武功雑記)





大野治長、 命がけの復権

2011年02月07日 00:00

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:49:57 ID:CTv09xKa
命がけの復権

1599年、徳川家康暗殺疑惑により大野治長は失領し下野に流され結城氏預かりとなっていた。
この事件、事実関係を洗うとどう考えても冤罪であったのだがとにかく治長は失脚したのだ。
しかし翌年、そんな治長にも転機が訪れる。「関ヶ原の戦い」である。

結城晴朝の斡旋で蟄居は解かれていた治長。なんとかしてこの天下が動く戦いで自身の立場を変えたかった。
しかしながら急な事であった上に領無しなので金も用意できない。やむなく浅野幸長に頼み込んで護衛の兵を
十人程度借りている。
ほぼ一兵卒のような立場だがこれでやるしかない。治長は浅野隊の中に加えてもらい戦地へと赴いた。
それで時は流れて関ヶ原本戦・・・なのだが、幸長隊の配置は前線からかなり遠かった。そこで治長は

治長「俺を最前線に立たせてくれ!頼む!」

どうしても功を挙げようと必死であった。幸長も意を汲み取り、治長は本戦直前におそらく真っ先に敵に
接触するであろう福島正則隊に入れてもらう事になった。
そして戦端が開くと治長はわずかな人数の護衛と共に目の前の宇喜多秀家の部隊に飛び込んでいく。
最前線も最前線でがむしゃらに奮闘する治長はついに宇喜多家の鉄砲頭、河内七郎右衛門を一騎討ちの末に
討ち果たすという武功を挙げたのだった。

戦後、この話は家康の耳にも届いたようで、大野治長は1万石を与えてられている。
更に、治長は片桐且元と共に徳川家と豊臣家の調整に尽力し5000石を加えられ1万5000石の領主として
復権を果たしたのであった。




683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:52:35 ID:CTv09xKa
これだけならいい話っぽいんだが家康暗殺疑惑で冤罪をおっかぶせたのが家康なことを考えるとマッチポンプ感が
否めないのでこっちに。

ついでに同じく失脚してた土方雄久もひっそり復権してるので功を挙げなくても復活してたかもしれない。

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:58:03 ID:s0gTutn0
キャリア官僚然としたイメージあるんだが治長も武士だったんだなぁ。

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:59:02 ID:4p8p5ikx
浅野幸長の父、長政も暗殺疑惑に巻き込まれた一人ってのも重要なポイントだね

686 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/07(月) 00:31:25 ID:bkhC9RCC
なんで家康は治長に冤罪をでっちあげたんだろうな。家康にとって治長はそれ程までに厄介かつ
邪魔な男だったのか?

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:36:12 ID:0c1F5dkv
>>686
そもそも家康のでっち上げだったって部分に疑問を持ったほうがいい。

家康暗殺の話は家康のあずかり知らぬところで出来たもので、具体的な名前の上がった
噂が出た以上、時の執権者として家康は何らかの処分を行わざるをえない。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:38:01 ID:c4EXQvxV
片桐買収が、とっくに済んでたから、片桐の政敵の治長を消そうとした説を唱えてみる

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:43:31 ID:vt8kLmCf
>>688
十年以上後の大坂の陣の政治状況と一緒にしちゃいかん。
はっきり言えばこの当時、事実は関係なくこういう不穏な噂に名前が出た事自体が
問題があり、これを処分しなかった場合、未だ絶対的な権力を確立していない
家康では、その権威に疑問符を持たれる。

いい悪いじゃなくて、そうせざるを得ない状況であり、あたかも後の展開のための
布石だったように考えるのは、ちょっと小説的すぎる話だわ。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 01:11:12 ID:mRS2tjXJ
あれは家康の陰謀だったとしても本命は前田であって治長はついでに過ぎないかと

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 01:49:55 ID:znbdUFah
そういや姜の「看羊録」には
前田利長が上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・加藤清正・細川忠興と同盟して家康を狙い
それを知った石田三成が家康に通報、家康の命で近江の要害に籠った、なんて話が載っている。

あと家康が淀殿を室に迎えようとしたがすでに大野治長の子を孕んでいたので断られ
怒った家康が治長を流刑にしたなんて話も。


692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 02:15:36 ID:0c1F5dkv
>>690
前田に関しては家康どころか豊臣家の許可も取らずに無断帰国なんてしてるから、
謀反の話が出てもしょうがない、と言うかむしろ出て当然の話だな。

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 04:05:54 ID:jegn2kvv
宇喜多に突っ込んだ時の治長の護衛は浅野から借りた人達なのか市松が新たに
付けてあげたのかどっちなんだろ…w

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 17:07:40 ID:3cxDHPP7
悪い話じゃないな。治長が頑張ったいい話じゃん。

後藤又兵衛の忠告

2011年01月23日 00:00

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 22:23:27 ID:0dBR1auH
大坂の陣の時のこと
渡辺糺大野治長が話し合いをしているところに、後藤又兵衛がやって来て
こんな事を言い出した。

「面白い事を聞きましたよ。大住與左衛門は東軍(幕府方)に内通しているって噂だ。」

大野治長これを聞くと首を振り

「いやいや、與左衛門に限ってそんな事はありえぬ。
あいつは故太閤殿下の魚洗いであったのだが、実直ものだとしてお取立てなされ、
『秀頼公にご機嫌よく物をあてがうように』と御付になされたのだ。

そして今回の籠城が始まってからも、與左衛門は城内のあまたの倉の鍵を手元に置き、
昼夜の別なく御用をなし、また見廻りをしている。あの熱心な姿を見れば、
あいつが二心を抱くなど考えもつかない。」

すると又兵衛
「愚鈍な人間よりもそう言う奴に気をつけなきゃいかんのですよ。」

と言って去った。


後日、夏の陣の時城内から火をつけたのは、この大住與左衛門の仕業であったという。

後藤又兵衛の忠告、活かせず。と言うお話。






477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 23:06:55 ID:ZjW1erGp
>>476
>「愚鈍な人間よりもそう言う奴に気をつけなきゃいかんのですよ。」
長政「ああ、全くだなクソっ!」

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 23:13:14 ID:snAnfnoR
噂を立てられながら実直に見回りを続ける神経凄過ぎw

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 23:42:00 ID:/XlwqW9R
そういう微妙な事をそのままズバズバ言っちゃ駄目でしょおおおおおおおお
もっと遠まわしに話してええええええ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 08:16:32 ID:qlvpyR6o
度量がある人間なら使いこなせたりうまくやれるんだけどねえ、又兵衛。
嫌がる人は多いわな、こう率直だと。

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 08:45:23 ID:0l/26EUw
直家「大住をそのままにしておくとは、又兵衛は甘いのぉ」

大野治長らによる前田利家と徳川家康の比較

2010年12月03日 00:00

598 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/01(水) 23:46:38 ID:W8jMBJ/G
ある時、大野治長蒔田広定などが、大納言前田利家の前に出て色々と物語をしているとき、
こんなことを言った。

「大納言様は内府様(徳川家康)に対して、その官位も支配する国の数も劣っております。
ですが御城(大阪城か?)において人々の言うことには、『利家様は内府様より五層倍は強い』と
されています。

その理由は第一に、利家様ご本人が無双の武辺者であること。
次に利家様が、太閤殿下の覚えが大変めでたいこと。
さらに浅野幸長、有馬法印、徳山五兵衛、斉藤刑部、村井豊後、奥村伊代といった、有力な
与力大名や有能な家臣を持たれていることです。

我々のようなものでも登城するとき、内府様と同行するのと大納言様と同行するのでは、
気持ちのあり方が全く違います。
利家様のお供をするときは気分も良く、我々まで心が清められたかのようになります。」


以上『利家夜話』より、大野治長らによる前田利家徳川家康の比較。

利家がこの歯の浮くようなおべんちゃらをどう聞いたのかは書かれておらず、
想像するより他にない。
だが前田家としては、記録するに価する出来事だった模様であるw




620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/03(金) 00:14:52 ID:6qh5rOk3
>>598むしろ悪い話スレむきなんじゃw

無双かどうかは兎も角、内府だって相当の武辺者だからなー
刀も槍も、馬術に水練・・・ 算盤はとっしーのが上で間違いないだろけど

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/03(金) 01:05:33 ID:MtOgbT0w
>>620
そもそも利家夜話以外で利家を家康より上だとか天下無双だとか褒めてるのってあるのか?
槍の又左ってのは聞くけどその武篇話は聞いたことないな~。忠興とかの方が……

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/03(金) 01:19:12 ID:/hgrEFV6
病的な家康嫌いが徳川家や家康を貶めるために前田をヨイショする例は昔からあるな
最近だとゴミみたいな新書沢山出してる八幡和郎なんか典型
史料は・・・前田家のものしかないと思うがw

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/03(金) 01:30:08 ID:/YE+SeQC
>>620

集めて使いどころ無し、まつにまで罵られるあり様の利家より
莫大な金を集めつつもそれをいざとい言うときに使える家康の方が・・・
やっぱり利家って小物臭が漂うなw

626 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/03(金) 07:08:51 ID:oY+hcrgD
>>624
小物と言うより周りが大物過ぎて「名脇役」にしかなれなかった
と思う。
社長が信長、同僚に秀吉と光秀、ライバル企業の社長が家康って…
これで抜きん出た業績上げろって言われても常人なら無理ゲーの域。
しかも一度クビになった社員だぜ?生え抜きのエリート社員から脱落
して、ニートから這い上がった偉人だよ。


628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/03(金) 16:48:36 ID:BurMyOpx
まあ大納言に成ったってのは凄いことだな