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慶長20年の軍評定

2014年12月26日 18:37

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 05:48:19.24 ID:JvE4goeo
慶長20年(1615)、関東と大阪の再合戦が起ころうとする時、豊臣秀頼は諸将を集めて軍事評議を開き、
「各所いかにせん」と諮問した。この時、長宗我部盛親が「真田殿、まず所存を申されよ」と
発言を促した。しかし真田幸村は「いや、長宗我部殿から先に語られよ」と遠慮し、互いに譲りあったが、
諸将も幸村に進めた。このため幸村

「そういう事ならば所存を申し上げます、去る冬の合戦では、城郭も固く兵糧も多くありましたので、
日数を経る内に、西国衆の中に必ずお見方に回るものも現れようと量っていたのですが、存外に速く
御和睦になり、かつ堀も埋め立てられましたので、今は籠城すべみ手立てはありません。ただ打ち出て
戦うより他ありません。

然れば、君(秀頼)の御出馬がなくては叶いません。
それには先ず、宇治瀬田の橋を落としこれを要害として固く守り、その上で、合戦の様子によって
また手立てを考えます。そうして、御運所は天に任せ、ともかくも御上洛あって、一度は天下の主と
なられ洛中の御政治を行わば、末代までの名聞、これに過ぎたるものありません。」

これに盛親はじめ後藤、木村、速水その他の諸将も一同に「然るべし」と同意したが、大野修理(治長)一人
「秀頼公の御出馬あること然るべからず」と幸村の提案に同意しなかった。
このため諸将は心中に疑いを生じ「修理の母は現在関東に人質に出ているので、修理の心中は図り難い。」と
評議もまとまらず、決定のないまま終わった。
真田幸村は後で嘆息し言った。
「修理は秀頼公を大事に思い、出馬あることを危ぶんで同意しなかったのであろうが、結局は
軍事に疎いゆえそうしたのだ。是非に及ばぬ。」

その後修理の母は関東より帰り、引き続き関東の大軍が伏見の到着したと聞こえ、秀頼はまた諸将を集め
評議に及んだ。盛親はまた、幸村に発言を譲った。幸村は語る
「大御所は昨日伏見に着陣し、軍兵の疲れも休めず茶臼山に陣を移したそうです。
伏見から13里の行程ですから、軍兵もいささか疲労することでしょうから、明夜は関東勢、たとえ甲冑を
脱がないとしても必ず熟睡に及びます。ここに夜討を成功させる条件は整っています。
私が夜討をして、勝負を決します。」

ここで後藤基次が進み出て発言した
「真田殿のご意見は、私の考えていたことと全く同じです。明夜必ず討たねばなりません。
さりながら、真田殿が行って向こうで万一のことが有れば。当城に軍師がいなくなってしまいます。
軍師がなければ合戦が出来ません。されば、真田殿は城に残られよ。私が貴殿に変わり馳せ向かって
勝負を決します。」

しかし幸村は「いや、私が馳せ向かって大御所を打ち取る!」と言い、基次も「後の合戦が大事であるから、
幸村殿は無事に当城に置かれるべきである!」と譲らず、ついに口論となり夜討することなく終わった。

この両人は、本来私の口論で合戦の大事を取り外すような人物ではないのであるが、どういう訳かこの時は
夜討を諦めたのである。これも関東の御運が高かった故であろう。

(明良洪範)



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 06:52:39.35 ID:E/BfeLMc
大坂方の勝利を信じて戦った牢人って、どれくらい居たんだろうな

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 07:06:04.83 ID:yBRc+hLT
流石に夏の陣ではいないだろうなぁ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 07:41:47.96 ID:kbf2BkNS
秀頼はもうすでに死んでいてあれは影武者だったんだよね
外に出せば露見するんで出せなかったわけさ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 08:17:14.34 ID:ovKzWd01
有名な話だけど改めて読むとなるほどって思うな。冬の陣が残念なのはわかった。

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 20:04:51.69 ID:1FGcX7IZ
温存しすぎて戦力を活かせないパターンか

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 23:14:56.05 ID:UBPhGHt0
FFでエリクサー勿体無くて使えない症候群の人は大坂方を責められんな

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 23:26:41.89 ID:31wocBR8
大坂方は補充が効かないからなあ
「なくなるかも」でずっと身動き取れない

大阪が滅びたのは

2014年10月18日 17:24

淀殿   
546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/17(金) 19:20:43.94 ID:xGKd6YAm
豊臣秀頼は秀吉の実子ではない、と密かに言う者がある。これは秀頼が生まれた頃、
占卜に妙を得た法師があって、その事を言い始めたそうだ。
その内容は、淀殿が大野修理と密通して秀頼を産んだとされる。
それは秀吉の死後、淀殿は荒淫となり、また大野修理も邪智淫乱、かつ容貌も美しかったためであったという。

また名古屋山三郎が美男であったため、淀殿は彼に思いを懸け、不義のことがあったともいう。

大阪が滅びたのは、ひとえに淀殿の不正から起こったことなのである。

(明良洪範)




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 07:25:14.16 ID:l4SPivIB
(週刊実話)

みたいなネタだよなこういうのってw

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 09:54:56.41 ID:CwKUNg21
なぜか突然に名古屋山三郎まで淀君とヒャッハーした噂に??

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 10:29:09.74 ID:xEZK3GkH
そりゃとてつもないイケメンで当人も遊び人だから

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:26:02.95 ID:ptRl+AVr
いきり立ったマラを軸に大車輪を回せたらしいな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:36:12.26 ID:2Og4xpmO
森家で や ら な い か ?

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:54:43.01 ID:X8Hzw79J
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4981.html
その原型になった話が前に投稿されてた

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 18:35:28.01 ID:3Od1geXV
>>550
それなんて嫪毐?

後代に面目を失った事二つ

2014年07月07日 19:02

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 23:38:27.43 ID:cjYjj7kw
大阪冬の陣の講和のあと、豊臣秀頼は諸牢人に対し金銀百枚を配った。
この事を知った大野修理は3月3日、秀頼の御前に出てこのように諫言した

「秀頼様のこの頃のなさり様はどうしても心得がたいものばかりです。
去年の和睦のさい、大御所より仰せられたのは、牢人衆の頭たちだけはお抱えになり、
その下の者達は尽く召し放ち、兵糧の続くようにせよ、との事でした。これに関しては
今まで度々申し上げてきたのに、ご許容なさいませんでした。あまつさえこの頃は若き者共に
金銀百枚づつ与え、それで人を抱えるようにと言われているそうではありませんか。
これは一体何を意図されているのでしょうか!?

ご存知のように、籠城している間から諸大名の心を色々と引いてみましたが、同心するものは
居りませんでした。ことさら今日に至っては堀を埋め石垣を崩した以上、天下の塀を引き受け
合戦を行うなど、考えもできない状況です。

只今はとにかく御身を全うして、時節をお待ちに成るべきです!」

秀頼はこれを聞いて
「お前の指図により、私が後代に面目を失った事が二つある。

籠城の時私は、諸陣を廻って軍勢の労を慰めたいと度々言ったのに、古老の者共と申し合わせて
これを留めた。

また今回の和睦についても、私は同意していなかったのに、古参新参の者たちが揃って私を諌めた。
これもまたお前の心より出たものである。

諸大名の心を引くなどというのは、それ以前の話である。こうなった後、誰が私に与しようと
考えるものがあるだろうか。

現在の状況に至らしめた事を、勧めたのも汝であり、留めたのも汝である。
そして今その責めは私一人に帰して、逃れる所は無い。
もはや屍を軍門に晒し、名を後代に上げるより他はない。」

そのように答えたのである。

(秀頼事記)




634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 00:00:52.99 ID:JBdcBEB8
秀頼公は大柄ポッチャリで母方祖父の浅井長政に似てるけど
一人っ子で大事に育てられてるのが残念

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 06:52:42.87 ID:R4ebbHnZ
>>633
さんざん相手の行状並べ立たてた上で「すべて俺の責任だ」で締めめるって、
なんかこうイラッとくるものがあるなw

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 07:51:09.41 ID:xRrlgk3Q
質問に答えられないから逆ギレしてるだけにしか見えん

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 08:25:45.28 ID:c1SHK/0x
お前の言うこと聞いてたらどうにもならなくなっちまったじゃないか
て、あほ抜かしてるだけなのがなあ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 08:28:51.84 ID:KLB8Vucs
でも大野に言われたら、お前が言うな!と腹立つのもわからんでも無い。

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 08:48:00.22 ID:Zucshz/v
やれる土地もないのにどうしろと
無報酬というわけにもいかないだろう

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 09:26:18.22 ID:2+zIaawC
外様に対する嫉妬でしかない

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 18:33:17.48 ID:P0qED9OS
冬の陣の結果、講和を遵守して豊臣の生き残りを図る治長と、
すでに覚悟を決めちゃって戦力保持を図る秀頼ちゅうとこやね

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 19:23:49.18 ID:scKGX57h
大御所って家康か?
なんで家康が秀頼に「兵糧が続くようにせよ」なんて言うんだ???

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 19:28:51.52 ID:GqZ2slP2
もう講和してるのに浪人衆抱えこんでたら台所事情苦しいままになるから、召し放たないと食料持ちませんよ
っていう気遣い&それに見せかけた戦力削り?

秀頼の、和議受け入れまで

2014年07月04日 18:52

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 09:33:02.32 ID:E2O7/VxD
大阪冬の陣
幕府軍による備前島からの大筒による攻撃で、大阪城内の櫓が破壊されると、豊臣首脳陣は
これ以上の抗戦は不可能と見て、旗本である七手組の頭たち、そして織田有楽は揃って幕府との
和議を受け入れるよう豊臣秀頼に迫ったが、秀頼は

「この籠城を決断した初めから、私は自分の運を開くつもりはない。父の遺言に任せ、この城を
墓所だと思っている。それなのに何故お前たちは和議を受け入れよと申すのか?」

これには皆言葉なく立ち下がり「秀頼公は、古参の者達の申し分は聞き入れてくれない。この上は
新参の者達の考えを申し上げ、その上で諫めるのだ。」そういって長宗我部、真田、後藤、明石を始めとした
浪人衆に、「この事をどう思うか」と尋ねたが、その評議はそれぞれにまちまちな意見であった。

ここで後藤又兵衛はこういった
「諸大名に内通しているものがあると言われますが、一人も御味方に参るものは居ません。
弾薬も兵糧も限りあるものです。一体、何を頼りにこの和議を受け入れないと仰っているのでしょうか?」

次に真田左衛門佐(信繁)は言った
「籠城というものは、諸人心を一つにしてすら覚束ないものです。であるというのに、この頃の
南面の持ち口の状況を注意して見れば、運生寺(織田頼長)の持ち口では、鉄砲を撃つことを固く
禁止している。先日など誤って発泡したものを斬首し、その頸を晒しさえした。そんな状況であるから
敵は早堀の際まで仕寄せてきている。

また目立つ白い吹貫を、3度まで色々に染め替えるという不審な行動もしている。

そのうえ先日4日には、敵が柵にまで手をかけ、我々はその防御のため、童女に至るまで石を運ぶほどの
危機に陥り、諸人は息を呑んでいたのに、かの織田頼長殿はその前夜から「風邪を引いて咳が止まらない」と
家に入り、傾城(遊女)に身体を揉ませ深夜まで遊んで居られたと、そんな話も承っている。
彼といい此れと言い、疑念が晴れることはない。

この織田頼長殿は有楽斎殿の嫡子であり、秀吉公の御一門、南面の総大将です。そのような人物が
斯くの如くの有り様では、どうしてこの籠城が叶うでしょうか?
相手が和議を言ってきたのを機会として、時節をお待ちに成るべきです。」
そのように申し上げた。

この意見に他の浪人衆も同意した。
織田有楽、大野修理はもとより和議への賛成派であったので、古参新参の者達の意見を合わせて、
先ず、母の北方(淀殿)にこう申し上げた
「形のごとく計略をめぐらし諸大名の心を引いてみたというのに、一人も味方に参るものが居りません。
あまつさえ我等に野心を抱くものも、未だ城中にいると承っている。その上兵糧弾薬も徐々に
尽きてきています。

敵の家康は名将であり、日本中の軍勢をもってこの一つの城を攻めているのですから、味方につこうと
思うものが居ないのも当然なのです。今は、ただ一筋に、秀頼公が御母もろともにお腹を召されて
諸軍勢をお助けになられるか、この和議を許諾して、時節をお待ちに成るか、二つに一つです。」

母の北方はこれを聞いて「源頼朝は朽木の中に隠れて本意を遂げ、越王は心を秘して会稽の恥を雪ぐと申す。
命を捨てるばかりを勇者と申すべきではない。秀頼のためであれば人質となっても関東へ下り、
いかなる目にあっても露ばかりも厭う心はない。古参新参の人々を語らい、秀頼を諌め申すように。」

そして有楽を中心に、秀頼を様々に説得し、秀頼も終に
「私は未だ若年であり、弓矢の道もよく理解していない。おのおの一同がそのように申す上は力及ばぬ。
宜しく計るように。」

と、終に和議の受け入れを許諾したのである。
(秀頼事記)

秀頼の、和議受け入れまでの経緯である。



620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 19:13:05.96 ID:hb+FdUE6
これが本当だとすると秀頼は戦略眼はないにしても
気概だけはあったということか
しかし裏切り者はおいといて、淀君、豊臣首脳陣、浪人勢、秀頼
特に貶めてないのがなんかいい

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 19:21:45.64 ID:8LDaSUCl
左門「はいはい、ワシのせいワシのせい」

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 23:49:19.92 ID:jTl8WvhA
>>620

最近の説では、淀君自身は人質として江戸に行ことを承諾していたが、
秀頼が母親を人質にすることは受け入れられない
と強硬に反対していたという見方が有力らしいからねえ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 02:35:04.60 ID:9R7ZIt2m
秀頼は交戦、淀は講和と、いままでとは真逆になってきてるし

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 03:51:46.28 ID:+DRSuoeO
夏の陣の方はどうなんだ?

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 11:24:12.90 ID:l4p3lJTi
淀殿は最初から講和派だったのか
それとも大砲にびびって鞍替えしたのかどっちだろ

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 11:51:39.42 ID:Ht6XSUXc
冬の陣前→開戦派
冬の陣中後→講和派
夏の陣前→フェードアウト

お袋様専制と言われるくらい権力をもって居たから
戦前より講和派なら戦になってない可能性が高いくらいの話
いざ始まったら味方する大名ゼロで講和派転向
夏の陣前は秀頼が発言するようになり代弁者でしかない淀君はフェードアウト
真偽はともかく淀君関係を拾っていくとこんな感じ

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 16:42:43.34 ID:0z3bdRYv
>>625

それ以前に、関ヶ原の時点で

通説

淀君 > 西軍
ねね > 東軍

だったのが、

淀君 > 東軍
ねね > 西軍(というか、宇喜多+石田派)

というのが有力になってる
その結果、淀君がお江の事もあって、家康や秀忠に託していたのが切り捨てられたという見方が強い

ある本によると、真田左衛門佐は

2013年10月12日 19:11

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/12(土) 18:36:53.28 ID:GL7O1lDq
ある本によると、真田左衛門佐は茶臼山の出先に屯したが、子息大助を呼び、
「其の方は昨日の一戦で負傷したから望ましい働きは叶うまい。それに思う仔細が
あるから、其の方は今のうちに御城に帰り、御前の御先途を見奉れ」と言った。

しかし、大助は「戦の始まる直前にそのようなことをするのは本意ではありません。
父君と死をともにしたく思います」と承知しないので、左衛門佐は大助を近くに
呼び寄せ、何やら申し含めた。

すると大助は伏してすぐに馬に乗ろうとしたが、父の方を見遣り続けて、離別の情は
切なるものであったので、左衛門佐が近臣をもって心強く言い遣ると、大助はこれに
励まされて馬を乗り出した。

それでも大助は幾度となく父を見返って城へ帰った。衆人は父子の別れを見て、
涙を流さない者はいなかったという。

ある記によると、真田左衛門佐は「秀頼公の御出馬を急がせるべし」と、大野治長
示し合わせて城中に帰し、なおも「御出馬を急いで勧め奉れ」と大助を帰した。

それを知らない士卒らは「大野も城中に逃げ入り、真田は味方の負けを知って
我が子を城へ帰した」と言ったという。

――『新東鑑』






籤で持ち口を

2013年02月23日 19:56

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/22(金) 23:51:03.10 ID:3T3cUQBH
大阪冬の陣が始まらんとしていた時の事である。
大阪城中では関東勢(幕府軍)が軍勢を発進させた、との報を受け、諸方の砦。そのほか外構え等の
軍事施設の普請を急いでいた。

この時に豊臣秀頼は譜代新参の諸将を集めて評定を行ったが、そこで秀頼は

『先に達って申し付けた各々の持ち口(担当場所)であるが、その配置に善悪が有り不満が出ている。
よって改めて、籤によって持ち口を決め直す。』

と仰せになった。これを聞いた各持ち口の頭分の者たちは

「最前、既に仰せ出された持ち口であるのだから、それに善悪があるといっても今になって又
変えるべきではない。それに武士が籤を用いる時は、その故実に従うべきものであるので、
ともかくもそのままに差し置かれるべきだ。」

と思い、敢えてその沙汰に同調する雰囲気は無かった。

この時、大野治長渡辺糺は籤奉行であり、両人は座の中央に居たのだが、治長が進み出て
申し上げることには

「黒門口は平野口に近く、これも又大手の要害ですので、かの口の30間は、私治長が
これを固めます!」

渡辺糺はこれを聞くやいなや怒鳴った

「治長のやり方は全く理解できない!今、持ち口の善悪があるからと籤を用いようとしているのだ!
そんな所に黒門口は治長自らがこれを固めると言い出す。
然らばこの籤は無いのと同じではないか!

そもそも修理亮はいつもそうだ!何でも己のほしいままに行い、諸将を軽んずる。
甚だ奇怪なことである!今後そのような態度は謹むべきだ!」

治長もこれに怒鳴り返した

「黒門口は内側が広く、そのため小勢ではここを守るのは難しい。それ故配下の多いこの私が、
籤を引く前にここを固めると申したので、これは全く我意を挟んだものではない!
だいたいそのように言う貴殿こそ、秀頼公の思し召しが良いのをいいことに、諸士に対して
無礼に振るまい、人々もこれを憎んでおるぞ!
この治長の事を言う前に、先ず自分の身を謹まれよ!」

糺はこれに激怒し

「日々の事はともかく、黒門口の担当も籤で決めるべきで、特別に治長に任せるような事は
出来ない!それでも強いて要求するのなら、余人には渡さぬ、この糺が自らここを請け負う事とする!
未だ言いたい事があるなら、申されよ!」

渡辺糺は目を怒らし居丈高となり肘を張って言葉を投げつけた。
これに治長も膝を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、座中の人々が慌てて両人の中にはいり

「御両人はこの大阪城をまとめる老臣ではありませんか!それがこのような論争をするのは
ただでさえ似合わぬことであり、しかも今のような大事を控えた状況で、朋輩同士の
口論などしている場合ですか!
第一これは、君のためになりません!」

そう言って二人を制した。ここでようやく渡辺糺が鎮まり、治長も「ついカッとして言い過ぎた」
と謝罪し、各々その座に戻った。

しかしこの騒ぎのために、籤の件は沙汰止みとなったそうである。
(慶元記)





702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 07:28:04.71 ID:7nKpJU6+
>>700
諸将が不満に思う籤をやめさせるために二人で芝居した……ってことはないだろうな

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 09:02:31.22 ID:R+0y1Ibw
どっちなんだろうなw
先に籤は間違いであることが述べられて、最後に結果として
籤は取りやめとなかったとあると解釈に悩んじゃうなw


大野治長と織田有楽斎が茶臼山にやってきて

2012年05月24日 21:00

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 00:30:52.68 ID:3WQ2Cwt1
大坂冬の陣の和議がなった後、大野治長織田有楽斎が
茶臼山にやってきて祝賀を述べた折、徳川家康は本多正純を呼び、

「わしは修理のことを只の若造だと思っていたが、こたび
主将として諸軍を指揮する様は、武勇はもちろん、秀頼に対する
忠節も見事なものであった。正純よ、お前も修理にあやかるのだ」

と言って治長の肩衣を所望し、それを正純に着させた。
治長はこの時「冥加にかないました」と感じ入り、涙を流して退出した。

そして、有楽は御次の間にて衆人に向かい

「このたび御和議がととのったのは本当にめでたいことです。
これよりは入道も太平の恩化に浴し、生涯を楽しんで送りたいと
思います」と言って、茶を点てる真似をして帰っていった。




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 00:43:15.24 ID:fsKXrfLp
深そうな逸話だな。
有楽が構われず世代交代を察して退いたのか、豊臣の明日はないと思って保身に走ったのか。


316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 00:53:33.47 ID:L1gtvlb6
茶を点てる……真似?

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 01:05:59.39 ID:CgcdmOmV
織田有楽斎は信忠を見捨てて(彼が余計な進言しなければ信忠は死なず
に済んで織田家の没落もなかったかもしれんし)、その後は秀吉の家臣
として屈辱を受ける事もありつつも大阪の陣以降まで生きているけど
豊臣家の滅亡をどう思ったんだろう。
織田家を蔑ろにした報いで「ザマー」と思ったか、それとも諸行無常というか、
姪の茶々と秀頼を哀れに思ったか。。。。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 07:52:25.55 ID:Cr0urHIm
有楽だし、我が身の無事以外は何も考えてなさそう

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 11:19:38.54 ID:/zOIRHeb
有楽「良かった、今回も生き残ったぞ」

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 11:59:40.13 ID:SexZ0GL/
有楽みたいに実際の行動じゃなくていつの間にか立った無責任な噂で人間決められてたら、趣味の世界に
逃げたがるのもわかる。

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:13:59.61 ID:MAQBFCeU
有楽殿は評判悪いなw
自分の能力をわきまえてうまく立ちまわってるだけなのに

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:20:14.71 ID:CgcdmOmV
>>320
あの例の有名な歌は嘘なんだ。

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:25:10.38 ID:J9GtnOfy
>>322
あー、フランク永井のやつね

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:26:36.80 ID:CnsFi+EX
うらく町で逢いましょう

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:45:34.52 ID:SexZ0GL/
>>322
後世の編纂物にしか存在しないし、他の脱出組は叩かれて無いからねえ。

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 15:25:52.56 ID:CgcdmOmV
へえ~そうだったんだ。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 19:33:55.69 ID:0QPsSeJ7
すごいな、フランク永井

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 21:09:27.81 ID:fPnXHy8x
有楽殿好きだけどな、俺
あの立ち回りはただの凡人に出来る芸ではないと思う

「大野治長は首ひとつで」

2012年05月19日 21:00

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/19(土) 01:33:04.39 ID:t3vmqEb3
↓と関連するエピソード。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5103.html

徳川家康暗殺疑惑によって配流された大野治長であったが、
関ヶ原の戦いでは許しを得て東軍として従軍した。

戦が始まり、治長は先陣に馳せて首級をあげたところ、
徳川家康は「匠作これへ」と言って、その武功を慰労し、

「もはや先手に進むに及ばず」と、板部岡江雪斎とともに
治長を本陣に留めた。

この時、首の主が誰なのか誰も知らなかったのだが、
後になって実は宇喜多家の高知七郎左衛門という者だと
いうことがわかった。

その事を知った家康は「それほど名のある者であったなら、
あの時、しかと見ておくべきであった」と言ったので、

「治長は首ひとつで二度も御賞詞を賜った」と人々は
みな羨んだという。




207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/19(土) 02:08:05.83 ID:opiH/Kk6
>>206
河内七郎右衛門と高知七郎左衛門って微妙に名前が変わってるんだな

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/19(土) 10:02:16.06 ID:JVYz1Rh4
>>207

河内と高知は同じ「こうち」と読めるけど
右衛門と左衛門では全く逆になってるねw

「三ヶ条の要求」と豊臣秀頼

2011年12月26日 22:02

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 18:02:11.44 ID:LdVEqifJ
慶長19年(1614)9月18日、方広寺鐘銘事件などで緊張した徳川・豊臣家の問題を駿府の家康と協議した
片桐且元は帰阪。秀頼に家康からの要求、

『秀頼が人質として江戸に下る、もしくは淀殿が人質として江戸に下る、もしくは国替えを受け入れる』

という三ヶ条を伝えた。

これを聞いた豊臣秀頼は、片桐且元を、休息を取れと私邸へ帰らせ。その上で、当時大阪にあった
織田常真(信雄)のもとに、大野治長、木村長門守、渡辺内蔵助を遣わして、この件に対して相談をさせた。

三人は信雄にこう主張する

「市正(且元)は今度の使いにおいて、いくら家康公の御指図だといっても、先ずは一応も二応もお断りを
申し上げ、その上ではじめて家康側の申し出を聞き届け帰国しこれを秀頼公に申し上げるべきなのに、
彼は秀頼公を差し置いて、この三ヶ条へ異見が無いと家康に申し入れ、自分一人の判断で、まるで自分が
家康の使いであるかにように、秀頼公に申し上げた。
これは我が君を見下げるような行為であり、その不正は軽くない!

この上は最早市正を踏み殺し、我々の方針をはっきりさせるべきと考える!」

信雄はこれを聞いて仰天した

「今、両御所を敵に受けて盾をつくなど、考えも出来ない事だ!
今回のことは全て、市正に任せて然るべきである!」

三人は秀頼に元に帰り、両者の意見を申し上げた。
しかし秀頼はこれを聞くと、いずれの意見を取るべきか解らず、ただ悩んだままであった。

大野ら三人はこの秀頼の姿を見て、「秀頼公には知らせず密かに且元を城に呼び出し、そこで
刺殺して方針をはっきりさせよう!」と示し合わせた。

しかしその動きをを察知した信雄がこれを且元に知らせ、且元は大阪城を退去。
これが大阪冬の陣勃発の直接の理由となる。

和平派もそうだが主戦派も、秀頼本人の意志を重視してはいない、片桐且元大阪退去に至るまでの、顛末である。
(秀頼事記)






499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:39:58.07 ID:Gb1JJCFD
何かで読んだのか戦国もののドラマか忘れたけど
且元はその時淀殿を江戸に送ることを承知しておいて
江戸屋敷の造営で一年二年と引き延ばしその後は淀殿病気といいさらに一年二年引き延ばし
家康が死んだ後挙兵すれば少しは勝ち味が見えてくると献策したとか言う話があったな
多分史実じゃないとは思うけど

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:42:56.60 ID:W9TthKzI
葵徳川だね

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:50:58.98 ID:gHUua3Pj
実際家康相手にそんな小細工無理だとは思う

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 23:47:39.70 ID:HTcBDCI7
>>498

これじゃ、まるで開戦にいたるまでの先帝陛下のお立場ではないか?

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 00:05:13.68 ID:AGDGBLr/
こう見ると信雄さんは現実派だなぁと思うけど
やはり残り二人からは「このヘタレが!」って思われたんだろうな

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:15:30.85 ID:zgeD+M20
福島正則「だから!遅すぎたと言っているんだッ!!」

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:54:59.49 ID:3dub6oDn
信雄が優秀だったってのもあながち間違いじゃないよな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 09:04:44.29 ID:2Phlz4nt
お坊ちゃまだった若い頃は失策しまくりだったけど、
もう世間慣れしてるお爺さんだから保身感覚が身に付いてるよな

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 10:15:59.08 ID:quNlbzpG
若いころから保身感覚抜群の連中がいたりするから見劣りしたりするんだよな

森家の連中とか池田家の連中とか…

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 11:45:49.54 ID:rWPzNMBy
>>507 信雄様のおかげで早くに親父や兄がなくなったもので、若くして保身感覚を身に付けました。

大阪城大広間の評議と後藤又兵衛

2011年09月04日 23:29

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 14:54:25.92 ID:zfplFunb
後藤又兵衛のお話を

大阪冬の陣の事。慶長19年(1614)12月16日、幕府軍による備前島からの大筒の攻撃で、砲弾が大阪城本丸の
淀殿の居間の櫓を打ち壊し、侍女数名が即死するという事態に至った。
これに恐怖した淀殿は秀頼に和議を勧めた。だが秀頼は強い難色を示し、結論は出ない。
そこで大野治長は大広間に組頭以上の者たちを集め、この事を協議させた。

と、ここで進み出て声を上げたのが後藤又兵衛基次である。彼はいう

「もし近い内に徳川軍の総攻めが行われれば、我々牢人衆は討ち死にするでしょう。
同じく、仮に和議になっても、籠城している我々牢人衆は責任を取り腹を切らされるでしょう。
だが討死も切腹も、どちらであっても豊臣家のお役に立って死ぬ、名誉あることことなので、
この点を心配することはありません。

秀頼様は、和議後の牢人衆の立場がどうなるかが心配で、これに反対しておられるのでしょうが、以上の理由により
その心配は無用なのです。
私としてはむしろ、家康の身の安全を願うばかりです。」

最後の言葉は、主戦派の将軍秀忠と違い和議を進めようとしている家康に何かあれば講和は成立し得ない、
なので和議が纏まるまで家康の無事を祈っているのだ、ということだろうか。

これに賛同者も出て、治長はこの意見を淀殿に申し上げ検討したそうである。
(慶長見聞記)




大野治長が関東に流された理由

2011年04月15日 00:01

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/14(木) 09:48:00.83 ID:yEyey1wz
徳川家康を大阪において暗殺しようと企があり、土方勘兵衛と大野修理がそれぞれ
打ち手、抱き手を申しつかった、という話は実際には誤りであり、少しもそういった事実はなかった。

後にこの二人が関東に流されたのは、淀殿と悪き事があるようだ、との噂によってであった。

その頃小唄に「やりたや大野修理」(やっちゃったなあ大野修理)という物が流行ったそうである。
(武功雑記)





大野治長、 命がけの復権

2011年02月07日 00:00

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:49:57 ID:CTv09xKa
命がけの復権

1599年、徳川家康暗殺疑惑により大野治長は失領し下野に流され結城氏預かりとなっていた。
この事件、事実関係を洗うとどう考えても冤罪であったのだがとにかく治長は失脚したのだ。
しかし翌年、そんな治長にも転機が訪れる。「関ヶ原の戦い」である。

結城晴朝の斡旋で蟄居は解かれていた治長。なんとかしてこの天下が動く戦いで自身の立場を変えたかった。
しかしながら急な事であった上に領無しなので金も用意できない。やむなく浅野幸長に頼み込んで護衛の兵を
十人程度借りている。
ほぼ一兵卒のような立場だがこれでやるしかない。治長は浅野隊の中に加えてもらい戦地へと赴いた。
それで時は流れて関ヶ原本戦・・・なのだが、幸長隊の配置は前線からかなり遠かった。そこで治長は

治長「俺を最前線に立たせてくれ!頼む!」

どうしても功を挙げようと必死であった。幸長も意を汲み取り、治長は本戦直前におそらく真っ先に敵に
接触するであろう福島正則隊に入れてもらう事になった。
そして戦端が開くと治長はわずかな人数の護衛と共に目の前の宇喜多秀家の部隊に飛び込んでいく。
最前線も最前線でがむしゃらに奮闘する治長はついに宇喜多家の鉄砲頭、河内七郎右衛門を一騎討ちの末に
討ち果たすという武功を挙げたのだった。

戦後、この話は家康の耳にも届いたようで、大野治長は1万石を与えてられている。
更に、治長は片桐且元と共に徳川家と豊臣家の調整に尽力し5000石を加えられ1万5000石の領主として
復権を果たしたのであった。




683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:52:35 ID:CTv09xKa
これだけならいい話っぽいんだが家康暗殺疑惑で冤罪をおっかぶせたのが家康なことを考えるとマッチポンプ感が
否めないのでこっちに。

ついでに同じく失脚してた土方雄久もひっそり復権してるので功を挙げなくても復活してたかもしれない。

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:58:03 ID:s0gTutn0
キャリア官僚然としたイメージあるんだが治長も武士だったんだなぁ。

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:59:02 ID:4p8p5ikx
浅野幸長の父、長政も暗殺疑惑に巻き込まれた一人ってのも重要なポイントだね

686 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/07(月) 00:31:25 ID:bkhC9RCC
なんで家康は治長に冤罪をでっちあげたんだろうな。家康にとって治長はそれ程までに厄介かつ
邪魔な男だったのか?

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:36:12 ID:0c1F5dkv
>>686
そもそも家康のでっち上げだったって部分に疑問を持ったほうがいい。

家康暗殺の話は家康のあずかり知らぬところで出来たもので、具体的な名前の上がった
噂が出た以上、時の執権者として家康は何らかの処分を行わざるをえない。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:38:01 ID:c4EXQvxV
片桐買収が、とっくに済んでたから、片桐の政敵の治長を消そうとした説を唱えてみる

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:43:31 ID:vt8kLmCf
>>688
十年以上後の大坂の陣の政治状況と一緒にしちゃいかん。
はっきり言えばこの当時、事実は関係なくこういう不穏な噂に名前が出た事自体が
問題があり、これを処分しなかった場合、未だ絶対的な権力を確立していない
家康では、その権威に疑問符を持たれる。

いい悪いじゃなくて、そうせざるを得ない状況であり、あたかも後の展開のための
布石だったように考えるのは、ちょっと小説的すぎる話だわ。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 01:11:12 ID:mRS2tjXJ
あれは家康の陰謀だったとしても本命は前田であって治長はついでに過ぎないかと

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 01:49:55 ID:znbdUFah
そういや姜の「看羊録」には
前田利長が上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・加藤清正・細川忠興と同盟して家康を狙い
それを知った石田三成が家康に通報、家康の命で近江の要害に籠った、なんて話が載っている。

あと家康が淀殿を室に迎えようとしたがすでに大野治長の子を孕んでいたので断られ
怒った家康が治長を流刑にしたなんて話も。


692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 02:15:36 ID:0c1F5dkv
>>690
前田に関しては家康どころか豊臣家の許可も取らずに無断帰国なんてしてるから、
謀反の話が出てもしょうがない、と言うかむしろ出て当然の話だな。

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 04:05:54 ID:jegn2kvv
宇喜多に突っ込んだ時の治長の護衛は浅野から借りた人達なのか市松が新たに
付けてあげたのかどっちなんだろ…w

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 17:07:40 ID:3cxDHPP7
悪い話じゃないな。治長が頑張ったいい話じゃん。

後藤又兵衛の忠告

2011年01月23日 00:00

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 22:23:27 ID:0dBR1auH
大坂の陣の時のこと
渡辺糺大野治長が話し合いをしているところに、後藤又兵衛がやって来て
こんな事を言い出した。

「面白い事を聞きましたよ。大住與左衛門は東軍(幕府方)に内通しているって噂だ。」

大野治長これを聞くと首を振り

「いやいや、與左衛門に限ってそんな事はありえぬ。
あいつは故太閤殿下の魚洗いであったのだが、実直ものだとしてお取立てなされ、
『秀頼公にご機嫌よく物をあてがうように』と御付になされたのだ。

そして今回の籠城が始まってからも、與左衛門は城内のあまたの倉の鍵を手元に置き、
昼夜の別なく御用をなし、また見廻りをしている。あの熱心な姿を見れば、
あいつが二心を抱くなど考えもつかない。」

すると又兵衛
「愚鈍な人間よりもそう言う奴に気をつけなきゃいかんのですよ。」

と言って去った。


後日、夏の陣の時城内から火をつけたのは、この大住與左衛門の仕業であったという。

後藤又兵衛の忠告、活かせず。と言うお話。






477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 23:06:55 ID:ZjW1erGp
>>476
>「愚鈍な人間よりもそう言う奴に気をつけなきゃいかんのですよ。」
長政「ああ、全くだなクソっ!」

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 23:13:14 ID:snAnfnoR
噂を立てられながら実直に見回りを続ける神経凄過ぎw

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 23:42:00 ID:/XlwqW9R
そういう微妙な事をそのままズバズバ言っちゃ駄目でしょおおおおおおおお
もっと遠まわしに話してええええええ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 08:16:32 ID:qlvpyR6o
度量がある人間なら使いこなせたりうまくやれるんだけどねえ、又兵衛。
嫌がる人は多いわな、こう率直だと。

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 08:45:23 ID:0l/26EUw
直家「大住をそのままにしておくとは、又兵衛は甘いのぉ」

大野治長らによる前田利家と徳川家康の比較

2010年12月03日 00:00

598 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/01(水) 23:46:38 ID:W8jMBJ/G
ある時、大野治長蒔田広定などが、大納言前田利家の前に出て色々と物語をしているとき、
こんなことを言った。

「大納言様は内府様(徳川家康)に対して、その官位も支配する国の数も劣っております。
ですが御城(大阪城か?)において人々の言うことには、『利家様は内府様より五層倍は強い』と
されています。

その理由は第一に、利家様ご本人が無双の武辺者であること。
次に利家様が、太閤殿下の覚えが大変めでたいこと。
さらに浅野幸長、有馬法印、徳山五兵衛、斉藤刑部、村井豊後、奥村伊代といった、有力な
与力大名や有能な家臣を持たれていることです。

我々のようなものでも登城するとき、内府様と同行するのと大納言様と同行するのでは、
気持ちのあり方が全く違います。
利家様のお供をするときは気分も良く、我々まで心が清められたかのようになります。」


以上『利家夜話』より、大野治長らによる前田利家徳川家康の比較。

利家がこの歯の浮くようなおべんちゃらをどう聞いたのかは書かれておらず、
想像するより他にない。
だが前田家としては、記録するに価する出来事だった模様であるw




620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/03(金) 00:14:52 ID:6qh5rOk3
>>598むしろ悪い話スレむきなんじゃw

無双かどうかは兎も角、内府だって相当の武辺者だからなー
刀も槍も、馬術に水練・・・ 算盤はとっしーのが上で間違いないだろけど

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/03(金) 01:05:33 ID:MtOgbT0w
>>620
そもそも利家夜話以外で利家を家康より上だとか天下無双だとか褒めてるのってあるのか?
槍の又左ってのは聞くけどその武篇話は聞いたことないな~。忠興とかの方が……

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/03(金) 01:19:12 ID:/hgrEFV6
病的な家康嫌いが徳川家や家康を貶めるために前田をヨイショする例は昔からあるな
最近だとゴミみたいな新書沢山出してる八幡和郎なんか典型
史料は・・・前田家のものしかないと思うがw

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/03(金) 01:30:08 ID:/YE+SeQC
>>620

集めて使いどころ無し、まつにまで罵られるあり様の利家より
莫大な金を集めつつもそれをいざとい言うときに使える家康の方が・・・
やっぱり利家って小物臭が漂うなw

626 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/03(金) 07:08:51 ID:oY+hcrgD
>>624
小物と言うより周りが大物過ぎて「名脇役」にしかなれなかった
と思う。
社長が信長、同僚に秀吉と光秀、ライバル企業の社長が家康って…
これで抜きん出た業績上げろって言われても常人なら無理ゲーの域。
しかも一度クビになった社員だぜ?生え抜きのエリート社員から脱落
して、ニートから這い上がった偉人だよ。


628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/03(金) 16:48:36 ID:BurMyOpx
まあ大納言に成ったってのは凄いことだな