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屍の上迄の恥辱である

2021年07月04日 18:14

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/04(日) 14:36:59.87 ID:ODM89SpI
大野修理(治長)の弟である道賢斎(道犬斎:治胤)は、大阪夏の陣の折、和泉の堺へ
討って出て、町中は言うに及ばず、堂社まで焼き払った。
これは去る冬に、東軍(幕府軍)がこの地にて準備を整え、富の肝と言うべき場所であり、
幕府軍にとって非常に利便性が高く、「これを妨げるべし」として、このような事を行ったのである。

しかし、今回は運の極みの勝負とは言え、旧冬に残ったことこそ幸いであり、そのまま手出しせず
置いておけば、戦術に用いることも有ったであろうに、浅智の故の行いであった。

太平記評判抄に、瓜生判官保等、脇屋義治を取り立て、杣山に旗を上げた、足利高経より
打ち手を遣わす。延元元年十一月二十三日の事なり。杣山にてこれを積み、葉原新道、宅良、三尾を
初めとして四、五里四方悉く自焼したが、湯の尾という在家一箇所をわざと残して焼かず、
敵が山路八里を吹雪の中、簑笠も着けずにいたが、この在家が有るのを喜び入り込んだ所に、
その夜、爪生方より夜討して、敵を追い散らし勝利を得たとある。

軍略では敵の立場に成り味方の立場になり、幾重にも工夫あるのを良しとする。
しかしこのような思慮のない道犬であるから、大阪落城の時、死を遁れ搦め捕られ、堺の町に下され、
土民の手に渡し、磔に懸けられたのだ。
屍の上迄の恥辱である。

管窺武鑑

堺を焼いたことは相当恨まれたのでしょうね



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舟の錨を下ろして高鼾をかいて

2021年06月25日 18:29

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/25(金) 15:52:59.36 ID:t1CFx2Tk
大阪冬の陣の折、有馬玄蕃(豊氏)を初めとして、四国、九州の兵船が続々と入ると、
大阪方は尽く逃散って大阪城に入った。

大野道犬(治胤)は、足軽大将一人に、士五、六騎、足軽二十四、五人にて舟一艘に乗り、
注進舟を漕ぎ添えて、『海手の敵の数を見積もり、また見方の様子も見て注進せよ。』と
申し付けて差し越した所、両三夜の内に、早くも疲労で倦み、舟の錨を下ろして高鼾をかいて
寝ていたところを、九州衆の忍びの舟が、この様子を見て告げた。

そこで錨の綱を切り、舟を引いて川下の味方の中に引き入れ、一人も残らず斬り殺した。

管窺武鑑



「清正の言葉然り」

2016年04月08日 14:04

506 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 22:53:45.27 ID:p5esZawi
慶長16年、上洛した徳川家康は二条城での秀頼との対面の要求を伝え、この知らせが届くと
大阪城では「これ容易の事に非ず、評定を遂げるべし」と、大寄合を開催した。
列座したのは、織田信雄入道常真、織田有楽斎、大野道犬、大野治長、大野治房、渡辺糺、浅井長房、
織田出雲守、中島氏重、速水甲斐守時之、真野頼包、青木信重、伊藤長実、堀田勝吉、野々村雅春。
郡主馬介良列、生駒正継、三浦義世、千石宗也斎、祝尚玄ら、都合30人であった。
これがこの当時、評定衆と呼ばれた面々である。
しかし、これほどの大事であるのに筆頭の家臣である片桐且元が何故除外されているかといえば、
片桐は大野一族と不和だったためにこれに招かられなかったのである。

このような所に、加藤清正は前日に熊本から大阪へと到着し、この日に大寄合があると聞いて押して
登城した。清正の性質は勇敢にして且つ智謀が有り、故太閤の前であっても心に違うことは憚り無く
発言する人物であった。

暫くして秀頼が大寄合の行われる千畳敷に御出でになった、母堂淀殿も簾を隔てて聴聞した。
しかしこの事は誠に豊家の一大事であったため、何れもお互いに譲り合い、発言するものが
居なかった。

が、ここで大野道犬進み出て
「今回、大御所が秀頼公に御上洛を勧められた事、そこに道理は一つもありません!
どういう事かといえば、官位昇進の御礼を禁裏に仰せ上がるのに、大御所への御対面のついでのように
仰せ上がるのは道に背いています。また、縁者への御礼というのなら、直接の御義父である将軍(秀忠〉を
差し置いて御祖父への御礼とはその意を得ません。
豊国大明神への参内もまた、この対面の理由とすべきではありません。大明神への参拝といっても、
今どうしてもしなくてはならないわけではありません。
であれば、兎に角理由をつけて御上洛の事を引き伸ばし、大御所がどうしても御対面したいのであれば、
以前のように大阪に御下向あるべきです。以上の儀を以ってご返答されるべきです!」

この様に余儀なく言い切ったが、誰もその意見に一言も申しだそうとしなかったので、道犬は声高に叫んだ
「太閤殿下の他界以降も、いつも家康公は大阪に御下向あって対面されていました。それなのに今回に限って
御上洛を促されるというのは、その由緒も全くありません!」

507 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 22:54:17.38 ID:p5esZawi
この時、加藤清正が座の中央に進み出た
「道犬の今の言葉、理が有るに似て非ざる物なり!
大御所も前々のようならば大阪に下向すると言うだろう。だが、庚子の兵乱(関ヶ原〉以後、天下の権勢は
皆関東に帰した。である以上、以前を以って見るべきではない!

殊に我が君(秀頼〉は未だ帝都の土を踏まれておらず、その上外の世界で天下の武士と交わりが無いため、
人はみな、君を懶惰の将軍と言っている。今度の大御所からの招きにも上洛なければ、いよいよ以って
比興の君と評価され、そうなれば一体誰が志を当家に寄せるだろうか?

一方で関東の両将軍は常に天下の大小名に御入魂の事を心にかけられている為、先君の鴻恩深き
大小名も、今は皆関東に帰伏して大阪の廃亡を心にかける者はいません。
今回は、仮にお招きがなくても、久方御対面が無い事に寄せて、御上洛あるべきなのです。
それを幸いにもお招きがあったのですから、速やかに御上洛有るのが当然です!
清正は不肖では有りますが、御供仕ります。その折、藤堂高虎は有馬の湯治からの帰路、天満の屋敷に
滞在していると聞いていますので、彼もお召しあって扈従を仰せ付けるべきです。高虎は先君の御恩を
山よりも高く蒙った者ですから、違背することは無いでしょう。仮に辞退するようなことに成っても、
私が共々に申し勧めます。

もし今、今回上洛しなければ、御難題を仰せかけられ、その禍目の当たりに来るでしょう。ただ一日も早く
御上洛のご返答あってしかるべきです!」

しかし大寄合は両論に別れ結論を出せなかった。清正は居丈高になって言い放った
「道犬は元は浅井家の臣!今は淀の方様に従って当城に在りといえども先君の御代では部屋住み同然にて
評定の席などで見る人物ではなかった!それなのに、いかに当城に人物が無いと言って、このような
重要な評議に、歴々を差し置いて彼のような者が加わっているのはどういうことか!?
その上発言も一々道理に叶っていない。
この清正は人々もご存知のように先君お取り立ての者であるが、既に御門葉にも列しており、どうして
おため悪しき事を申すであろうか?

道犬のような輩の評定は皆以ってこのようだから、それ故に関東の心象を悪くし、そして当家の御難儀と
なっているのだ!
そもそも今日の評議に片桐兄弟が座していないのは不審の第一である!」

そう荒々しく言うと、秀頼も「清正の言葉然り」として、直に片桐を召した。
(慶元記)



大野道犬斎治胤の執念

2010年09月09日 00:01

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 00:17:03 ID:fA2ewIfg

大阪の陣があった時のコト。
大野治長・治房兄弟の末弟、道犬斎治胤は堺方面に出撃、堺の町を焼き払った。

夏の陣が終わった際、彼は逃亡を試みるが捕縛されてしまった。
道犬が捕らえられたコトが世間に伝わると、堺の町衆はその身柄を引き渡すよう、家
康に要求、家康もそれを認めた為、道犬は堺へと連行された。

町衆の道犬への恨みは凄まじく、町と運命を共にした家族、友人達のように、生きな
がらに焼き殺すという復讐を遂げる。

浜辺に立てられた柱に鉄の鎖で括り付けられ、火あぶりとされた道犬。
道犬の身体どころか、木の柱までもが炭と化すまで火は燃え続けた。

火が消えた時、もう道犬の身体は炭となり、指も落ちてなくなっているという有様。

「これは流石に酷い……」

遠巻きに処刑を見ていた者達が近づき、道犬の遺体を降ろそうとしたその瞬間、炭に
成り果てていた道犬の身体が動いた!

身体を縛る鉄の鎖を引きちぎり、見物人の腰から脇差を引き抜くと、近くに居た者の
腹を突き刺す。
見物人を一人、道連れにすると道犬は力尽きたように倒れ込み、息絶えたという。


凄まじいまでの執念を見せつけた橙武者2号。
でも指がなくなってるのにどうやって脇差を抜いたんだろう?




863 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/08(水) 22:59:09 ID:p42YsdxP
>>838
火加減は重要ですね、火力が強すぎると外側は真っ黒でも
中身は生焼け、なんてことになりますからね、これは基本ですね、
どんなに怒りの炎で燃やしたくても、じわじわ焼くべきでしたね



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