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家康は自身で戦い、私は動かなかった

2019年04月20日 18:26

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 18:55:29.76 ID:l2a+y5ii
(小牧・長久手の戦いの時)

勝入(池田恒興)敗死の後、榊原式部少輔(康政)と大須賀五郎左衛門(康高)は川を渡り敵へ赴く。
これに堀左衛門佐(秀政)が向かって打ち破った。両将は堪えず、士卒を皆討たれて逃げ退いた。ま
た井伊兵部(直政)がやって来ると、左衛門佐も新手を恐れて退いたという。

太閤はこの合戦以後に「今度の戦は我が方が勝った。大将3人(池田恒興・池田元助・森長可)が討
死したといえども、多数の首を取った。家康は自身で戦い、私は動かなかった」と宣ったという。

――『老人雑話』



891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/19(金) 19:00:31.00 ID:kUMmH9X6
>>890
負けを認めなければ負けじゃない理論

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 21:11:34.46 ID:v7SZidTe
勝ったのは堀久

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/21(日) 04:36:50.30 ID:ah9l/2ru
>>890
豊臣秀吉は動かない
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大須賀康高には度量があり

2017年12月11日 16:59

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 15:57:56.91 ID:I55SSOBF
大須賀五郎左衛門尉(康高)は、自分で手を下して功を立てることは無く、常に家来や
小姓の中から器量あるものを選んで取り立て、彼らを以って功を立てさせた。

武田勝頼が高天神城に兵を入れて遠州を窺う時、家康は横須賀城を建設し、大須賀にここを任せた。
横須賀は重要拠点のため名のある者が多く集められ、中でも久世三四郎、坂部三十郎、渥美源吾、
丹波弥三、駒岡太郎右衛門、曽根兵衛左衛門、丹羽金十郎、これを七人衆と言った。

大須賀には度量があり、こう言った人々をよく従え、つもりを外すこと無く、傍に仕立てた
者達も皆武功があったという。

また長久手の合戦において、先手が敗北した時、大須賀は「味方の長追いは必ず敗軍の相である」と
考え、あらかじめ準備をし、小高い場所に馬を立て纏を置いて敵の攻撃を踏みこたえた。
このため大きな敗北にならなかったという。

(士談)


ただ戦に勝とうと言うまでのことか

2014年08月05日 18:51

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 11:54:10.10 ID:b8dJHAwn
長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉軍の森武蔵守長可、池田勝入を討ち取る戦果を上げた徳川家康は、その後
小幡城へと入った。

ここに榊原康政大須賀康高らが御前に出て、この様に申し上げた
「今夜、敵陣の様子を伺いましたが、秀吉の軍は日中長途を駆けてきたので、皆疲れ果て
正体もなく倒れるように眠っています。ここで夜討ちをかけて辛き目を見せてやりましょう!」

しかし家康は首を振り、「いやいや」と言ってこれという仰せもなかった。
皆が御前を下がった後、家康は本田豊後守広孝を召して、
「お前は城門を巡視して、一人も門外に出さないように」
と命じた。

そして間もなく湯漬けを食すと、出陣を触れ、『なるべく物静かに揃え』と命じた。
このため皆『必ず夜討をかけるのだ』と思っていたが、そうではなく、家康は小牧城へと入った。
これに人々は、思いもよらぬことだと感じた。

後日、家康は浜松城において、この時のことを語った

「あの時、お前たちが夜討をかけろと言ったのは、秀吉を討つことが出来ると思ってか?
それとも、ただ戦に勝とうと言うまでのことか?」

一同、顔を見合わせて、ややあって
「秀吉を討ち取るまでは考えていませんでした。ただ、戦えば必ず勝利すると思って申し上げたのです。」

家康はこの答えを聞くと
「私もそのようには思った。だが、敵を皆殺しにしたとしても、秀吉一人を逃してしまえば
却って悪しき事態となったであろう。昼の合戦において池田・森の両人を討ったことさえ、
一人でも良かったと思っていたのだ。」
と言った。

(岩淵夜話別集)

小牧長久手合戦が、家康にとっても色々と難解な戦であったことを表す逸話である。




436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 12:37:03.44 ID:TWdXO505
家康隙がない。
これじゃ名人戦になるわけだわ。

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 12:42:18.27 ID:6W4uCpiW
絶対勝てない相手にどう上手く負けるか修行しつくした熟練の駿河人

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 13:29:39.39 ID:TY4Krwfl
どちらにしても討っておいてよかったのは

…鬼武蔵だろうな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 14:12:25.81 ID:nO8C0IrR
鬼武蔵を討ったいい話

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 14:50:51.31 ID:j9EDO2I9
三河人と駿河人それぞれの良いところを貪欲に取り込んだ知勇の人だが
面倒くささも人一倍なのが家康

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 18:23:53.87 ID:d32SMxTa
>>435
成る程・・・正に名人だったんだな
家康の戦話で一番凄みを感じたわ

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後の4人は誰だかわからない

2014年02月06日 19:03

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 15:01:46.67 ID:8SKyAvCh
幕末の酒井家・出羽庄内藩の藩士が、藩や地方の関連文書を収集して編纂したものから


神祖(家康)が三川(三河)に居られた頃は、配下に侍大将が8人いた。

大久保忠世は家中に集められた人質を管理していた。
酒井忠次は5000の兵を預かり、先陣の大将であった。織田信長から東国33カ国の武功の者と賞賛されたお方である。
大須賀康高はその次、本多忠勝も軍勢を率いる。

後の4人は誰だかわからない。
(大泉叢誌)

他の4人については本当にこれ以上書いてありませんw





292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 17:09:03.14 ID:uujho66q
スルーされたのは石川数正と鳥居元忠辺りか?あと誰だろ?

三河者たち、緊急の大ピンチで

2011年03月26日 00:00

503 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 22:52:31.85 ID:bmRiC4wc
さあみんな、めんどくさい三河者劇場が始まるよー!

天正10年(1582)8月、いわゆる天正壬午の乱の真っ最中である。
信濃乙事(おっこと)には徳川軍甲斐・信州入りの先鋒と言うべき七手衆、酒井忠次大久保忠世岡部正綱
石川康道大須賀康高本多広隆・康重親子、そして穴山衆が軍を集結させていた。
いずれ劣らぬ歴戦の勇者、徳川軍の誇る戦争のベテランたちであった。

と、その夜、徳川方の信州国人、依田信蕃より知らせが入る

「北条氏直の軍4万3千が、この乙事から1里(4キロ)しか離れていない柏原に集結しています!」

驚いた七手衆から大久保忠世は偵察を出すと、たしかに北条軍の存在を確認、しかも乙事に向かって
進軍している。明朝にはここに押し寄せるであろう。対して七手衆はわずか3千!しかも乙事は
防備に向いた地形ではない

「直ぐに徳川勢力圏である甲斐に撤退するしか無い!」

誰もがそう思った。が、この三河者共が先ず始めたのは喧嘩であった
大久保忠世が吠える!

「左衛門尉(酒井忠次)のジジイ!あんたが諏訪頼忠をちゃんと味方に出来ないからこの有様になったんじゃ!」

諏訪頼忠の抱き込みに失敗した酒井忠次を罵った!これに忠次も

「なんだと新十郎(忠世)!?お前も北条軍の接近に気づかなかったくせに!」
「ジジイが信濃任されて張り切り過ぎて、信濃は俺が支配するとかいい気な事言ってるから信濃国人を
離反させ、そのせいで情報が入らなかったんだろうが!」

売り言葉に買い言葉。七手衆のトップ格である酒井大久保、頭に血がのぼり口論をヒートアップさせる。しかし

他の人々「あ、あの、それは後でいいのでそろそろ撤退しませんか?」

ごもっとも。罵り合っている間にも北条軍は近づいてくるのである。喧嘩している場合では全くもってないのである。
そこで酒井忠次

「お主達先に撤退せよ!わしは全員が撤退するまで、ここに残る!」

そうは言っても責任を感じていた忠次は、皆を逃がすため自分がここに最後まで踏みとどまる!と言ったのだ。
老武者(55歳)の感動的な決意ではないか。が、残念ながら三河者はそんな事に感動するほど、甘くない

504 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 22:54:39.44 ID:bmRiC4wc
大久保「なんだとジジイ!まさかそれで今回の責任チャラにする気か!?そんな事絶対にさせんぞ!
     先ずジジイから撤退しろ!」
酒井「なんだとこのクソガキ(50歳)!わしが殿軍するって言ってるんだから素直に先に撤退しろと言っておるのだ!」
大久保「馬鹿言うな、ジジイこそ先に撤退しろ!あんたが撤退するまで俺は絶対に撤退しないからな!」
酒井「ンだとこいつめ!わしだってお前が撤退するまで撤退などするものか!」

バトル再燃。もう子供の喧嘩レベルの意地の張りあいで収拾のつかない状況である。そうしているうち

偵察「あの~、北条軍の先鋒が沢を越えて、もう目と鼻の先に来ちゃいました」

岡部・石川・大須賀・本多親子・穴山衆「お前らいいかげんにしろ!!」

さすがにこれ以上はまずいと二人は無理やり引き離され、酒井忠次はいろんな意味で責任を取らされ
彼の部隊が最初に撤退することになった。
しかし忠次、これに腹の虫が収まらない

「なんと不名誉な。なんでわしが最初に撤退せねばならんのだ…。そうだ!おい、撤退するときわしの陣に火をかけろ!」
部下「え?そう言うのは全員の撤退が終わってからやるものでは…?」
酒井「いいからやれ!」

と、自分の撤退と同時に陣屋に火をかけた。夜である。その火は接近中の北条方からもバッチリ見える

北条方A「ややっ!徳川の陣屋の方から火の手が上がったぞ!」
北条方B「さては我々に気づいて撤退したか!急ぎ追うぞ!」

北条軍、火の手を目印に殺到し始めた!

酒井「やあみんな、北条軍が急接近してるみたいだよ?君たちも早く撤退してね。じゃ!」
と、酒井忠次さっそうと駆け去る。これには大久保忠世はじめ一同「あのキ○ガイジジイ!後で絶対殺す!」と
怒り心頭だが、とにかく他の者達も大急ぎで撤退を始めた。
この時の撤退は、殿が岡部正綱、二の手に穴山衆、三の手に大久保忠世、四の手に本多広隆・康重親子、
五の手に石川康道、六の手に大須賀康高、最後七の手が酒井忠次という陣容であった。


…で、何が恐ろしいってこの戦場生まれ戦場育ちのベテランウォーマシンどもはこの撤退で、大喧嘩した
酒井大久保も含めて、北条軍が攻勢に出れば各自連携してこれを防ぎ、北条軍が一旦下がれば各自に
威嚇を行い、あたかも一個の有機生命体のように、予めの打ち合わせがなくとも連動して行動し、
なんと、遂に甲斐までほぼ無傷での撤退に成功したのである!(史実)
あんな喧嘩してたのに!グダグダで滅茶苦茶な撤退開始だったのに!

三河者、緊急の大ピンチで通常営業の巻。




505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:03:59.76 ID:w5Q318qD
梅雪が死んだあとの穴山衆って徳川直参扱いだったの?

しかし、真田さんとこはよくこんな奴ら相手に勝てるなー。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:07:15.83 ID:10g3/AbD
平山優の「天正壬午の乱」から引用したのか。
あの本『三河物語』を史実として扱ってるからなぁ。

史料的価値が高いとされる『家忠日記』では、諏訪撤退のくだりは
普通に軍を引いたようにしか書いてないけどね。
『三河物語』では三河衆が切った張ったの大活躍して北条を振り回して撤退したように書いてあるけどさ。

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:14:20.86 ID:f5x4eJ3r
なんか読んだことがあるようなないような・・・

徳川家康は、ライバル関係にある部隊を隣り合わせにすることが多かった

2010年10月04日 00:00

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 20:43:37 ID:5DPniPEp
徳川家康は、戦の布陣のとき、ライバル関係にある部隊を隣り合わせにすることが多かった。
これは、部隊の奮起を促すためのものであった。

たとえば、三方ヶ原の戦いでは、石川数正の西三河衆と、酒井忠次の東三河衆を
隣り合わせに配置した。
彼らは「西衆に負けるな!」、「東衆に負けるな!」と奮起し、一時は山県昌景の軍勢を
押し戻す活躍を見せた。
しかし、疲れたところを横から内藤修理の攻撃を受け、敗走した。

また、長久手の戦いでは、大須賀康高を先鋒に、娘の夫である榊原康政を次鋒に任命した。
彼らは連携して豊臣秀次の軍を敗走に追い込むことに成功した。
ところが、次の敵を追う際、「大須賀衆に負けるな!」、「榊原衆に負けるな!」と
突然かけっこを始めてしまった。

かけっこは、次鋒のはずの榊原康政が先鋒の大須賀康高を追い越す、
という抜群の脚力を見せて勝ったのだが、敵前に出るまでにヘトヘトになってしまった。

そこを百戦錬磨の堀久太郎が見逃すはずもなく、2部隊は敗走を余儀なくされた。

家康としては、家臣の奮起を促して効果も現れてるんだけど、
なぜか敗北フラグになってる気がするのでこっちに。




440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 20:52:14 ID:nzvxTtAc
そこは、名人久ちゃんを褒めるべきw

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 21:34:34 ID:VIG3+ncU
堀も早く死にすぎたな。
亡くなったのが小田原征伐後なら関東のうち100万石もらえたのに。
確か秀吉のそういう書状が現存してたね。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 22:17:27 ID:oJ4CCXkG
>>440
敗走する部隊をまとめ上げて撃退ってんだからまさに名人芸

>>443
当時は所領は家でなく人に与える者と認識されていたから
秀吉の蒲生に対する処置はごく当然…らしい。

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 22:18:28 ID:pC3qStxn
>>439
官兵衛は仲良しで固めたんだっけか?
どっちが良いかわからないけど、やっぱり一長一短なんだろうか

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 22:28:37 ID:SSB5AuFa
蒲生騒動レベルの家中取り締まり不行き届きあったら
江戸時代でも減封改易は普通じゃね

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 23:08:40 ID:NG8YTqy5
丹羽長重「よく分からない理由で大幅に減封されたうえ、有能な家臣も根こそぎ引き抜かれましたが
これが普通ならしょうがない」