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彼こそ後の天海である

2019年01月16日 18:55

天海   
634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 20:48:00.21 ID:ogDEz5zg
蘆名盛重(義広)が摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ落人と成った時、会津城内の稲荷社別当である喜楽坊が
指図し、女にも刀脇差を挿させ、自身は薙刀を持って盛重を警護し、敵の中を堅固に撤退した。
その後盛重が常陸国江戸崎に在った時は、この喜楽坊を不動院と呼んだ。
彼こそ後の、東叡山寛永寺の南光坊天海である。

(武功雑記)

天海が会津蘆名家の所縁という話、武功雑記にも出ていたのね。



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 21:38:03.52 ID:ykTP4dc7
じつは武闘派だったりするんかね

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 22:47:13.99 ID:0qpatG4+
戦国時代の僧侶はモンクみたいなの大すぎィ!まあそんな時代だからこそだろうけど

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 00:28:32.87 ID:C/26Bp5P
摺上原の戦い(1589.7.17)の頃にはもう家康の幕下にいたんだろうけど
まあそういった噂が立てられるぐらいには武張ってたのかね>天海の喜楽坊時代
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天地開闢の時は日に吉凶あるまじ

2018年12月04日 21:44

天海   
546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/04(火) 08:33:32.39 ID:HGfJ/Obe
慈眼大師(南光坊天海)はこのように言った
「天地開闢の時は、日に吉凶は無かった。ならば「何の日取り」などというものはない。
それでも気になるのなら、暦でも見ればいい。」
(天地開闢の時は日に吉凶あるまじ。然れば何の日取と云事あらん。
さりながら心にかからば、暦をも見るべし。)
(武功雑記)


台廟御馬、岩浪の事

2016年07月18日 09:44

940 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 03:04:46.14 ID:UAan42eF
台廟御馬、岩浪の事

 増上寺の教誉僧正〔典海〕は、予は少年の時から知っている人であり、
かの寺の住職となった後もしばしば対面していた。

 ある日の彼との会話の中で出た話である。

 元和二年、神祖が駿府で御病気が重なっていることを、江戸で台廟(秀忠)がお聞きになられた。
すぐに御出立なされ、一昼夜の間で駿府にお着きになられて御対面された。
神祖は非常に嬉しそうな顔つきをされたという。
 その時乗られた御馬は、”岩浪”という駿足のもので、昼夜をかけて馳せられたので、
駿府へ着かれると息絶えて死んだという。
台廟は憐れに思われて、これを埋められた所に馬頭観音の像をたてて、
そのしるしとなされた。
 今でもその跡があるとのことであった。

 予はその御馬を埋めた跡を訪れたいと、年頃思っていた。
増上寺の山中にあって、その所を心光院というと聞いたので、
今年品川に行ったついでにかの地を尋ねると、
この院は今は増上寺の山外、赤羽根の川辺にあった。
御馬の遺跡には一堂あって、中央に石像の観音があった。
高さは四尺を超すだろう。
守僧に問うと正観音という。いかにも古色でその頃の像であろう。
後にしばしば火災に遭ったというので、石像に石灰を塗って鼠色に見えた。

 またかの守僧の言う所では、
「この御馬は名を”布引”といって、台廟に殊に愛されていた。
大坂の御陣にもこれを召されて、台廟が薨去された時も葬儀に従い、
そのまま増上寺に繋がれていたが、御中陰満(四十九日)の日に死んだ。
よって荼毘にして山内に埋め、仏像をその所に建てた」
とのことであった。

941 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 03:05:08.84 ID:UAan42eF
 予は思うに、守僧の言といえども信じれないのは、
大坂冬の陣は慶長十九年で、台廟の御他界は寛永九年である。
この間十九年で、大抵の常馬の寿命を考えると、
寛永九年に十九歳とすると、冬の御陣ではその馬の産年となる。
この年に四歳としても、御他界の年には馬寿は二十二である。
たまたま長寿の馬はないわけではないが、おそらくは違うだろう。
またその寺中で死んだので、荼毘にして埋めたというのもいかがであろうか。
それならば僧正の語ったように、台廟がかの駿足を憐れみなさって、
駿州で倒れた馬を火葬にして、御帰りのときに増上寺に埋められたものであろう。
そうでなかったらすぐに駿府で埋めたのであろう。
 また御馬の名を”布引”というのも、おそらくは違うであろう。
それは今も速足の馬には、四方手に布一端をつけて乗るので、布は空を曳いて地に着かない。
これを布引の馬と称するのである。
かの御馬は千里の駿足であるが、布を引くのは言うまでもないだろう。
その名は僧正の言うように”岩浪”であるはずだ。
守僧は武事を知らないまま伝承したのだ。
 また駿府まで、一昼夜で着かれたというのも、後藤庄三郎〔光次〕が記した『政事録』にいう所では、
『二月朔日、将軍家江戸御発駕。日以て夜に継ぎ、二日御駕御駿府に着く。』
と有るので、江戸から駿府まで四十六里なので、かの駿馬の力に依らないと、
このような神速の行はできなかっただろう。
いずれにしても、かの御馬は今でも吾輩にさえ憐れみの念に堪えるものだ。

 また心光院は、初めは今の本坊の側の新道というところにあったが、
火災に度々罹ったので、ついに今のところに移されたという。
ならば初めは御馬を埋めたところは今のところではない。心光院はもとは方丈の内道場と言う所であったのであろう。
(甲子夜話)


東京タワー側の心光院、お竹如来以外にもこんないい話があったんですね



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 08:32:41.95 ID:smVtlRxu
馬は4年ぐらいでも立派な大人の馬だが、
寿命だけなら20年(現代では30年)くらいも生きられる
というので、二十二というのはあながち間違いというわけでもなさそう。

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 12:33:33.95 ID:bzKhQP9H
赤兎「わずか二十二で亡くなるとか、主人に不忠じゃのう」

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 12:57:39.89 ID:MTCAvQpS
江戸から駿府を一昼夜で走ったら22じゃなくても逝きそう

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 13:59:36.75 ID:Jho+/2z/
>>940-941
その時代にも逸話を真面目に検証してるのが面白いな。

医療も馬の環境も充実してる現代ならともかく、昔に22まで生きたのが信じられないのは当然かも。

三ノ宮の怪異

2016年02月09日 09:56

天海   
126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 09:48:17.59 ID:9/TruwmO
慶長19年5月22日、天台宗の面々が登営し南殿に出御した時、南光坊天海がこんな事を言った

「最近、比叡山の八王子三ノ宮で珍事がありました。それは先ず、学林坊の奴である次郎を天狗がさらって
行方知れずとなった事件から始まりました。

10日ばかり過ぎて、この次郎は帰ってきてこう云いました
『私はこれまでの間、当山の大天狗、次郎坊の使者として、愛宕山の太郎坊、鞍馬山の大僧正、
彦山の豊前坊、大山の伯耆坊、上野の妙義法印、彼ら何れにも叡山に参るべき旨を振れ回りました。』

このように大天狗たちが叡山に登る旨を聞いた人々は、皆不思議に思い、そこからかの三ノ宮に参詣してみると、
天にわかに曇り、激しい風雨が巻き起こったかと思えば、大霰まで降ってきました。
そしてあの次郎が三ノ宮の社殿の棟に飛び上がり、しかしそのまま落ちると、軒端にて起き上がり、
足を上げて立ちました。

その他天狗の眷属たち大勢が、社の上にて様々に不思議な事をし、扇を以って歌舞を行うのを人々は目撃しました。
また三ノ宮の扉を、これは普通は2,30人で持ち上げるような物ですが、その扉2枚ずつを回し投げました。
それなのに、この扉にはいささかの傷もなかった。
また、虚空より大礫を数多打っていたそうです。」

そのように云々したという。
(玉露叢)



127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 11:21:07.72 ID:RFhGQd0T
昔の人は大嘘つきが多いね

南光坊の木像

2015年12月17日 10:57

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 00:37:14.53 ID:KK7fARI3
 南光坊僧正に大師号を贈られる事、叡山は全く承知していなかったが、勅命なので仕方なく山の歴代に加えることとなった。
南光坊の木像を造り山に上げようとしたところ、突然風雨や砂石が飛んでなかなか登山ができなかったので、そのまま下山したことが伝わっている。
 南光坊がどれだけ博識の出家であろうとも、一代の行跡は僧に似合わない。
もとから大師号を贈られる人ではなかったので、どうして山の歴代に加えなければならないのだろうか。
寛永寺の号も大いに理解できないことである。
(本阿弥行状記)

>風雨や砂石(意味深)

ちなみにこの木像と思われるものは坂本の恵日院の慈眼大師堂に本尊として今もあります。
『木造慈眼大師坐像』という名で重要文化財にも指定されています。



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 00:46:13.37 ID:6c/zEKcP
山に上げられないなら大徳寺の山門に置けばいいじょのいこ

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 08:51:52.68 ID:3AdArwrY
風雨や砂石がってのはあげないための言い訳かね
幕府の検視とかつくなら別だろうけど

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 12:22:39.78 ID:2wvPTIua
大師号は宗派の開祖や中興の祖に贈られるべきものなので
天海には不釣り合いである、という本阿弥の意見も当然ですね。
空海、法然、親鸞、日蓮等と同格になるわけですから。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 13:18:05.75 ID:/PBg3oW/
親鸞とか日蓮が大師号授かったのって江戸以降だし価値無いだろ

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 13:53:31.74 ID:tBpmEOs+
空海は別格だけど法然、親鸞、日蓮より天海の方が先に大師号贈られてるんだよな

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 14:28:35.83 ID:6c/zEKcP
ハーフミレニアムお大師、法然

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 14:38:24.30 ID:arE1Am7t
超メジャー
弘法大師 空海、伝教大師 最澄

まあまあ知ってる
慈覚大師 円仁

佐野厄除け大師とか深大寺では知られてる
元三大師 良源

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 20:55:56.43 ID:eQtcX9yS
元三大師の残りの二人はだれですか?

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 21:21:28.06 ID:FcfagkeQ
元・三大師じゃないから!一月三日って意味だから!

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 21:24:03.98 ID:3AdArwrY
川崎は誰なんだろうと調べて、ついでに厄年も調べたら本厄だったorz
仕事辞めたのは必然だったかw

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 21:45:53.93 ID:uytH9X5A
>>777
           /         ______/      ____/
      __  ___/
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        `'<`ゝr'フ\                  +  |(●),   、(●)、.:| +
     ⊂コ二Lフ^´  ノ, /⌒)                   |  ,,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::|
     ⊂l二L7_ / -ゝ-')´                 + |   `-=ニ=- ' .:::::::| +
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文禄二年、夏の日照り

2013年07月11日 19:52

天海   
661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 17:42:24.24 ID:EX41pm2q
さて、蘆名修理大夫盛高は俗類の親しみにより師(天海)を会津に呼び請け、
稲荷堂の別当にした。盛重が会津を落とされて常陸国江戸崎という所に移ると
師も伴われ、その領分の不動院という旧寺があったものを修造して住まわれた。

文禄二年の夏、日照りが続いて草はみな枯れてしおれ、千里の間に青苗は見えず、
民は憂いてどうしようもなかった。里の人々は苦しんで師に雨の祈りを願ったので、
師がただちに川のふちに出て修法なさるところに、一人の女が五鈷を持ってきた。

女は「これで加持してください」と言って師に五鈷を与えて消えてしまった。
師は川のふちにのぞみ請雨の法を執り行い、仏舎利一粒を竹葉に乗せて水の上に
浮かべなさった。

すると水中より青蛇が出てきて舎利を咥えて沈んだ。少しの間に黒雲は立ち重なり、
雷はひどくうなって稲光が起こると、急に大雨が降って枯れた稲葉も色を変え、
百穀は実って人民も栄えた。

先の女についてはその行方を尋ねたが、どこの誰とも知る人はいなかったという。
五鈷は今に当山の霊堂にある。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』




663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 20:05:54.43 ID:9wcel/X/
本物の仏舎利なら、五鈷より貴重な気がするけど

南光坊大僧正・天海の仰ったことに

2013年04月05日 19:59

天海   
161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 00:35:23.55 ID:ImF6WZ28
南光坊大僧正・天海の仰ったことに、

「この頃『甲陽軍鑑』という書物が出版され、それを読んだ所、川中島合戦での信玄謙信の
太刀打ちの年月、日時、場所、これが大いに相違している。
その上信玄が軍扇にて謙信の刀を受けたとあったが、これは全くの虚説である。

その当時、私は会津の不動院にあった。武田信玄はこの不動院の大檀那でもあり、私は
信玄のための祈祷をしていた。

天文23年(1554)8月、私は甲州の旦那廻りに行った所、信玄は川中島で謙信と対陣していると聞き、
直ぐに川中島まで軍陣見舞いに赴いた。則ち8月17日であった。
信玄は私に直ぐに対面して頂き、

『遠方まで見舞いに駆けつけてくれて、たいへん喜んでいる。しかしここ一両日のうちに
輝虎(謙信)と合戦になるであろう。貴僧は早々に帰られ、来春甲州において、緩々と語り合おう。』
そう仰られたため、私は帰ったのであるが、途中、

『寺の大檀那が近日大事の合戦を取り結ぶと言うのに、いかに私が出家だといっても聞き捨てにして
帰るのは道理にかなわない!』

そう思い直し、夜通し歩いて川中島まで戻った。途中、下米宮(あめのみや)に一泊し、翌18日、
合戦の模様を山の上から見た。

御弊川の中に両軍乗り込み、輝虎も太刀、信玄も太刀にて暫く戦っていたが、やがて敵味方押し別れて
合戦は終わった。
その夜、信玄の陣屋を訪ねて行くと、信玄は驚き、

『御坊は帰ったと思っていたのに、奇特にも立ち帰ってこられたのか!』

そう言って殊の外褒められた。その時信玄は負傷していて、床机に寄りかかっておられた。
私は信玄に

『源平合戦の時代より、大将と大将の太刀打ちなど、古今聞いたこともありません!
さてさて、なんというお手柄でしょうか!」

と申し上げた所、信玄は急に顔色を変え機嫌悪く仰った

『謙信と太刀打ちしたのは私ではない、鎧兜を同じにさせた影武者である!
知らぬ者はこの信玄本人だと思うであろうが、私ではないのだ。

よいか、奥州の伊達や会津、佐竹などの所で、信玄と謙信が太刀打ちしたなどと、
絶対に語ってはならぬぞ!』

信玄は殊の外の機嫌の悪さであったが、しかし私は山の上からはっきりと見たのだ。あれを
見間違えることはない。信玄と謙信の、直の太刀打ちであったのだ。
甲陽軍鑑は嘘を書いている!」

このように言われた。
その後、江戸城において横田甚右衛門の話に、
「謙信は太刀にて斬りかかった所に、信玄は床机に座り、軍扇にてこれを受けた」
と語った所、天海僧正は大いに甚右衛門を叱りつけられた

「甚右衛門は未だ生まれてもいなかった時のことを、どうして存じているのか!?私は直接に見た!
御幣川に乗り込み、馬上にて信玄謙信共に太刀打ちをしたのだ!その時私は45歳で、はっきりと見た!
川中にて馬上での太刀打ちである!」

伝え聞く所によると、天海僧正は足利公方義澄公の末子であり、母は会津の蘆名盛高の娘。
永正7年(1510)の生まれで、義澄公が逝去されると、母とともに会津へと下向され、そこで姓を
平氏に変えられたと言う。寛永19年(1642)に亡くなられた。この時134歳(原文ママ)であったという。
(北越太平記)


関連
ホントですか大僧正?


162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 00:37:48.22 ID:1sWt4juu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6673.html
同じ話は前にも出てるけど出典は違うのか

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 00:42:38.17 ID:1sWt4juu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4861.html
ついでに前に出てた天海僧正が義澄公と蘆名盛高の娘との間の子供説のほかの逸話

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 08:47:48.12 ID:PgVurYge
一騎討ちして負傷したなんてwww恥ずかしくて喧伝できんわな
そんなの広まったら毎回本陣突っ込まれる羽目になるぜ

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 10:11:45.73 ID:Y34eVvqp
普通本陣に突っ込まれてる時点で負けだしなw

会津の稲荷社別当、喜楽坊

2011年04月13日 00:00

天海   
633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/12(火) 11:48:54.50 ID:LaKUvIAJ
天正17年(1589)、伊達政宗との摺上原の戦いで大敗した、当時未だ13歳の蘆名義広の身を、
その側に付き従い守ったのは、会津黒川の稲荷社別当、喜楽坊という僧侶であった。
彼は義広の侍女たちにまで刀脇差を差させ、自分は薙刀を持って厳重に警護をし、
蘆名義広を佐竹領まで無事、退かせた。

やがて豊臣秀吉の東北仕置が終わると、蘆名義広は常陸江戸崎に4万5千石を与えられた。
この頃喜楽坊は名を変え、不動院と名乗っていた。

さてそんなある時、蘆名家の家臣、家田八右衛門という者が義広に反逆、
義広の乳母を人質にして立てこもる、という事件があった。

この時喜楽坊改め不動院は家田に

「侍たるもの、人質に女人を取るというのは不覚なことである。私が代わりに人質になるので、
彼女を開放しなさい。」

と説得。家田もこれに応じ、乳母と不動院を交換した。

と、ここで、

乳母の帰ってきた事を知った蘆名義広は直ぐ様、家田八右衛門を攻めかけた。
不動院がいるのに。
この時家田は討ち取られ、不動院は運良く無事であった。が、流石にこれに怒った不動院は
寺を明け江戸崎から退転しようとした。しかし他の僧侶達がこれを説得し、達て不動院を滞留させた。

この不動院、後の東叡山南光坊。すなわち天海僧正である。




天海僧正と伊達政宗

2011年03月29日 00:01

天海   
585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 02:39:18.61 ID:MwZdKRyO
天海僧正は黒幕・妖僧のイメージが強い。
それは前半生が謎に包まれているからだろうか。
一説によると会津高田の出身で蘆名一族出身の人間とも言われている。

そんな天海僧正に伊達政宗が宛てた手紙が残っている。
一見するとあまり接点がないような二人だが、奇妙な接点がある。

天海の前半生一つとして会津に戻っていた説がある。


天海は天正元年(1573)より十数年のもの間、
蘆名盛氏の招きにより会津に定住する。

しかし、天正17年(1589)に蘆名義広と伊達政宗との間に
摺上原の戦いが勃発し、蘆名氏は破れ、蘆名氏側についていた
天海は会津を離れることを余儀なくさる。
この時、蘆名氏を滅ぼした政宗に対して天海は相当な恨みを持つ。


天海は蘆名氏を護って常陸へ行くことになり、江戸崎不動院の住職を務め、
その後、歴史の表舞台へと立った天海は家康・秀忠・家光と三代に仕える。


江戸幕府が成立し、政宗と天海は顔を合わせる機会が増える。
蘆名氏を滅亡させた仇敵政宗に対して、恨みを持っていた天海であったが
次第に政宗と恩讐を越えた関係が築かれて行く。

そんな天海に政宗はいくつかの手紙を出しており、そのうちの一通が
龍興寺(福島県会津美里町)に残っている。


伊達政宗

「天海殿にぜひともご面談したかったのですが、先客があるとのことで
そちらもお疲れのようですから、今回はこれで帰ります。」



文面からはごく親しい人を訪ねる政宗の気持ちが表れているようで
気心通じた親密さがうかがえる。


天海と言うと、大坂の陣の発端となる方広寺鐘銘事件に崇伝、本多正純と
関わったとされ、ダーティな部分を連想させる。

しかし、紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出たり、
大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出てたり
堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走したり、また民政にも
力を入れている。


後世でDQN扱いされる政宗。
黒幕・妖僧・明智光秀同一人物説などという扱いを受ける天海僧正。
彼らの本当の姿とは?




586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 02:45:51.99 ID:dNlhN9Yp
天海にダーティーなイメージなど最初からない
金地院とごっちゃにしすぎ

587 名前: 【東電 63.8 %】 [sage] 投稿日:2011/03/28(月) 05:02:01.81 ID:fi9io1lY
天海は小説やマンガ、ゲーム等で悪役・黒幕としてやたらと登場してるけど、
崇伝はそういうの無いもんね。

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 07:24:42.50 ID:03fq79X8
林羅山「ワタシには悪いイメージないな」
鳥居燿蔵「御先祖様・・・」

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 08:54:21.93 ID:fqr94LUg
>>587
金地院さんは「あずみ」でムチャクチャ悪役だよ。
あと「あずみ」の宮本武蔵はカッコよすぎ。
「バガボンド」の武蔵はバスケ部員が剣豪始めましたみたいで苦手

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 15:37:19.30 ID:EttIvdFV
>>587
漫画的には天海の方が字面にインパクトあるし強敵っぽいからね

実際には崇伝の方が悪役・黒幕的な要素が濃い気がするが

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 15:43:18.83 ID:88Ew93xR
天海が黒幕という驚愕の展開が

……ごめんなさい

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 15:50:56.88 ID:iNTW8Jnl
天界へ行きたまえ

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 20:48:35.48 ID:lOGfiZDe
天海は某ゲームで悪役ボスだったからそういうイメージがw

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 21:30:16.91 ID:TtVUO1AI
水金地火木土…

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 01:07:16.00 ID:Mx/sONYQ
天海が悪役ボスってどんなゲームだw

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 02:10:30.67 ID:hls/vBwJ
正体は明智光秀で云々って感じでボスだったゲームは確かあった。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 03:32:45.13 ID:1HIW+/X9
天海春香…いや、なんでもない

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 18:10:20.77 ID:mboLT6Dz
>>602
サクラ大戦とか?
あれ1の中盤のボスが天海
ちなみに4のボスは大久保長安

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 18:53:48.80 ID:cinmdMEN
>>602
蒸気で動く甲冑が登場するゲームとか