634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/13(金) 06:51:42.54 ID:YZvVgPpg
草苅将監の憂鬱
天正13(1585)年、天童八楯の盟主一色大夫(天童頼久)の治める天童城は勢い盛んな山形義元(最上義光)の軍勢に攻められていた
緒戦は数に勝る天童軍が優勢だったが、天童八楯の一翼楯岡満英の庶流の楯岡右馬頭(楯岡満茂)が山形勢に靡き、戦況は膠着状態となった
ときに天童頼久の下には沼沢伊賀といった美童がいた
しかし伊賀が優れているのは容姿だけで、元来無知文盲で女の胸中に似た嫉妬深く名誉欲の強い男だったので、
崇められる事を喜び、気に入らない者を頼久に告げ口し追いやる等、天童城内で好き放題をしていた
天童氏重代の家老職にあった忠臣の草苅将監は男色に耽(ふけ)り沼沢伊賀の専横を許す頼久を諌めたが聞き入れられず
伊賀は天童方の主戦力の要であった野辺澤能登(延沢満延)の名声までもが気に障り、満延に頼久の権威を笠に様々な嫌がらせをした
これを知った義光の軍行(奉行?)の氏江尾張(氏家守棟)は策を講じ、満延を寝返らせ味方とした最上軍は一気に攻勢へと転じた
満延が最上軍に降った後の天童城では味方の兵の夜逃げが相次いだ
いよいよ敗戦を悟った将監は夜闇に隠れ主頼久を奉じて陸奥の国分盛重を頼って落ち延びた
「天堂(天童)古話」「天童の昔話」
しかし翌年伊達政宗の援助を受け天童家の再興を信じ、天童出兵を図った将監だが、最上家を出奔して伊達領に逃げて来たと思われた最上義光の放った刺客の手に掛かりあえない最期を遂げ
主柱を失った頼久は兵を起こす事も出来ず、天童氏は伊達政宗の客人としての余生を送った
「伊達治家記録」
草苅将監の憂鬱
天正13(1585)年、天童八楯の盟主一色大夫(天童頼久)の治める天童城は勢い盛んな山形義元(最上義光)の軍勢に攻められていた
緒戦は数に勝る天童軍が優勢だったが、天童八楯の一翼楯岡満英の庶流の楯岡右馬頭(楯岡満茂)が山形勢に靡き、戦況は膠着状態となった
ときに天童頼久の下には沼沢伊賀といった美童がいた
しかし伊賀が優れているのは容姿だけで、元来無知文盲で女の胸中に似た嫉妬深く名誉欲の強い男だったので、
崇められる事を喜び、気に入らない者を頼久に告げ口し追いやる等、天童城内で好き放題をしていた
天童氏重代の家老職にあった忠臣の草苅将監は男色に耽(ふけ)り沼沢伊賀の専横を許す頼久を諌めたが聞き入れられず
伊賀は天童方の主戦力の要であった野辺澤能登(延沢満延)の名声までもが気に障り、満延に頼久の権威を笠に様々な嫌がらせをした
これを知った義光の軍行(奉行?)の氏江尾張(氏家守棟)は策を講じ、満延を寝返らせ味方とした最上軍は一気に攻勢へと転じた
満延が最上軍に降った後の天童城では味方の兵の夜逃げが相次いだ
いよいよ敗戦を悟った将監は夜闇に隠れ主頼久を奉じて陸奥の国分盛重を頼って落ち延びた
「天堂(天童)古話」「天童の昔話」
しかし翌年伊達政宗の援助を受け天童家の再興を信じ、天童出兵を図った将監だが、最上家を出奔して伊達領に逃げて来たと思われた最上義光の放った刺客の手に掛かりあえない最期を遂げ
主柱を失った頼久は兵を起こす事も出来ず、天童氏は伊達政宗の客人としての余生を送った
「伊達治家記録」
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