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「常陽四戦記」から真壁久幹・太田資正と小田氏治の戦い

2023年03月25日 18:28

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/24(金) 19:44:43.66 ID:G01vG6zG
常陽四戦記」から真壁久幹太田資正小田氏治の戦い
続武家閑談」にもあるが「常陽四戦記」とまったく同じ文だった

真壁城の氏幹入道道無(真壁久幹)と小田天庵は長年あらそっていた。
元亀四年(1573年)四月、天庵が筑波山からつづく青柳山を越して、真壁と山ひとつ隔てた小幡村に出てきたため、道無は出兵した。
道無は、小田勢は真壁の西から攻めてくると聞いていたが、実は山を越えて小幡から攻めようというのであった。
太田三楽斎(太田資正)とその子梶原源太資晴(梶原政景)は柿岡に住んでいた。
資晴は佐竹の媒酌で道無の婿となっていたため、小勢ではあるが真壁に加勢することにした。
しかし小田勢は容易ならない相手であるので、真正面から当たることを避け、小幡の近辺にあった要害無双の古屋敷に入った。
太田勢は敵を突いては屋敷に戻ることを繰り返して時間稼ぎをした。
そうこうしているうちに道無勢が山を越えて来たのが旗でわかった。
天庵は太田親子を捨てて真壁勢に向かって備えた。
小幡の地は三方が山で囲まれ、平地は十町もない狭いところであった。
真壁勢は山から下って戦ったが、弓鉄砲は用いなかった。
これは小田勢の後ろの太田勢を討たせないためであった。
こうして小田勢は後ろから崩れて退却し、真壁勢は追い討ちをかけた。
道無の息子に安芸守十六歳と式部少輔十五歳がおり、坂本信濃守という剛のものがついていた。
安芸守は敵と組みつつ、山上から転がり落ちた。
安芸守の従者は助けようとしたが信濃守は叱って助けさせなかった。
とうとう平たいところまで落ちてきたが、敵が上になって安芸守の首を取ろうとしたため、馬取が敵の右手をとらえ、
吉田というものが駆け寄って安芸守に首を取らせた。
式部少輔も組み打ちの高名を得た。
こうして敗北した小田勢は、来る時に通った道を引き返した。
そこに真壁勢が山を登って追い打ちをかけたため、天庵は一度も振り向くことなしに四里の道を退いた。
三楽は追い打ちの軍には加わらず、小田勢の先回りをして先に小田城に乗り込み、門を固めて立て籠った。
天庵は小田城に入ることがかなわず、一里ほど離れた藤沢の城に入り、幾度も小田城を奪還するために競り合った。
三楽は高楼を建て、天庵の軍の動きを見張り、近い時は早鐘を、遠い時は狼煙を上げて真壁に知らせた。
こうして合図を定めて加勢を頼んだため、小田城を堅固に保ち、太閤の小田原の陣の時まで三楽とその息子の梶原資晴は小田城に在城したということだ。



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そなたは固陋の頑夫であるな

2022年12月28日 19:21

518 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/27(火) 23:01:39.62 ID:xZUKIk8a
上杉謙信が関東攻めを行い、平井城を奪還した時のこと。
謙信は山内上杉家の家臣たちに使者を送り、こう伝えさせた。
「山内公(上杉憲政)は私を子とし、関東管領職を譲られた。それによって私も父のために平井城を取り返した。そなたたちも山内公に仕えていたのだから、そのまま私に仕えなさい」
長野業政は笑いながら言った。
「越後公(謙信)の功労は最も多い。後日そちらに赴いてお祝い申し上げよう。だが、家臣になることはできない」
使者がその内容を伝えると謙信は怒り、兵を以って攻めようとした。
すると、すでに謙信に降ってそばにいた太田資正がこう言った。
「業政は頑固な老翁で、常にこのような感じです。しかし、心は善良でわざわざ憎むべき者でもないです。明日必ずこちらに挨拶に来るでしょう。もし来なければ私が攻めて蹂躙します」

次の日、業政が平井城へ向かおうとしたところ、老臣たちはこれを諫めた。
業政は「死ぬのであれば謙信も道連れだ。憂うことはないぞ」と言い、そのまま平井城へ赴き、謙信に謁見した。
謙信は「そなたが昨日私の使者に向かって家臣になることはできないと言ったのは本当か」と聞いた。
すると業政はこう答えた。
「その通りです。父が子に家督を譲る際は、まず老臣に諮り、その後に天子あるいは将軍に告げてその許しを得るものです。ましてや管領職のようなものは室町将軍が任ずるものであり、父が私に譲るものでもなく、子も私から受け取ることはできません。しかし、山内家再興のためとあれば私はあなたの指揮に従い、先鋒を務めましょう」
それを聞いた謙信は笑いながら言った。
「資正の言うとおり、そなたは固陋の頑夫(わからずやでかたくなな男)であるな」
その後は宴会となり、宴会が終わった後に業政は箕輪へ帰り、謙信も軍を越後に還した。

長野記より



519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/28(水) 12:51:57.96 ID:6Yi16Vhc
>>518
なにいってんだこいつ

太田三楽斎追放

2019年10月10日 17:01

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 12:42:52.59 ID:6oB8WiqO
永禄六年五月、小田原の北条氏康太清軒は、法華の僧を使いとして岩付城へ赴かせ、太田三楽斎(資正)に
このように伝えた

「この正月、国府台の合戦で思わず我等が勝利したが、これも弓矢を取る身の運不運である。
敵と味方に別れるのも時の勢いであろうが、もし今和睦をしても良いと言うなら、嫡子源五郎(氏資)に
家督を譲り、隠居されたい。そのようにして老後を心置きなく過ごされるおつもりなら、我が子氏政の
妹を源五郎に娶せ、自分がその後ろ盾と成り長く岩槻の社稷を守るであろう。」

そのように言い、それも二度までも使いが来た。その裏には、もし同心しないというのであればこちらにも
覚悟がある、という脅しの意味も含まれていた。

三楽斎も利口な男であったのでそのくらいの事は理解していた。しかし長年の兵乱に勢力は尽き果て、
この正月の合戦で兵の消耗も甚だしく、要害でもない平城でどれほど持ちこたえられるか先は知れており、
ここは一番和睦し、後日に事を謀ることが肝要であると、多年の宿意である上杉への肩入れを打ち切り、
小田原の意に従うことを決心した。

この事を伝えられた氏康・氏政父子は大いに喜び、すぐに吉日を選んで娘を岩槻へ送り、婚姻の式を挙げ、
千鶴万亀の祝をして、両家の昵懇はこの上なくまとまった。実に無意味な事である。

それからしばらく後、氏康は婿となった源五郎氏資に、垣岡越後守、春日摂津守などという太田家の
奉行職と相談させ、野州小山城、長沼城攻めを開始させた。しかしそれは氏康の策で、彼等を両城に
出陣させた後で、不意に岩付城を襲おうという密計であった。

三楽斎はその事に気づいており、またもとよりそのくらいの事は有ると思っていたので別に驚く事もなく、
何食わぬ顔で、密かに妾腹の子である梶原源太左衛門政景を招き、その場合に打つ手を色々と相談して、
政景に川崎赤次郎を添えて盟友である佐竹義昭(実際には義重 )の元に行かせ、自分は浜野修理介を
連れて、これも盟約の有る宇都宮三郎左衛門広綱の元へ向かった。

しかしこの事をすぐ、氏資に付いていた垣岡、春日が小田原に伝えた、氏政は早速太田大膳亮に兵二百騎を
付けて岩付城へ向かわせた。大膳亮はまたたく間に外郭を固めて二度と三楽斎を城に入れなかった。

ここにおいて三楽斎と梶原政景は浪々の身となり、政景のみは、弟の新六郎とともに佐竹に寄宿する
事となった。三楽斎はそのまま武州忍城の成田左馬助氏長を頼った。氏長は三楽斎の娘婿である。

ああ、世に前管領上杉憲政の旧臣は多いが、その中でも太田三楽斎と長野佐衛門大輔業正ほど
無二の忠誠を尽くし、上杉家の再興のため心を尽くした者があろうか。であるのに、時に利非ずとはいえ、
業正は箕輪にて討ち死にし(実際には病死)、三楽斎は今流浪の身となった。そして北条の武威のみが
したり顔となったのは皮肉なことである。

(関八州古戦録)

北条の謀略というより太田三楽斎が策に溺れた感強いな。



501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 23:56:01.31 ID:wCzp0YSp
太田資正って、扇谷上杉ならともかく、上杉憲政の臣下だって意識あったんだろうか
扇谷上杉壊滅後は北条(古河公方)家臣で、謙信越山以降は独立路線でやってるよね

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 08:34:36.97 ID:ZngsXh4S
>>501
越相一和後の行動は完全に独立勢力でそ。

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 15:33:46.50 ID:tAqYfxfy
>>500
策に溺れたというより、身の危険を察して逃げたというべき
養父、義父が婿に討たれるなんてのはよくある話
北畠具教や宇都宮鎮房をみよ

三楽は智がありながら

2012年09月08日 20:32

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 19:41:05.39 ID:jBL3aG4B

小田原征伐の時のこと。松田憲秀の手を見た太田資正
「裏切る腹積りだ」と言った。この時、確かに憲秀は内通して
いたが、資正はその事実を知らなかった。

豊臣秀吉は何故資正に内通が分かったのか奇妙に思い「何をもって
そのように見たのだ」と尋ねた。

「憲秀の勇謀は人の恐れる所ですが、今日は軍備を正さず、諸卒を
戒めず、役所も巡りませんでした。もとより彼は臆するような者では
ありませんから、これは心を味方に通じた故にございます」

資正の答えを聞いて秀吉は大いに感嘆し徳川家康に向かい
「今ここに二つの不思議がある。何だか分かるか」と問いかけた。

「ひとつは三楽でありましょう。もうひとつは分かりかねます」

との家康の答えに秀吉は「わしは匹夫より起こって天下の主となった。
だが、三楽は智がありながら一国をも持つことはできなかった。

これぞ二つの不思議であろう」と言った。

また別の逸話では、秀吉は資正を召して曰く「その方は智仁勇を
兼ねた良将でありながら小身であるな。わしはひとつの徳もないが、
天下を取ることはもっとも得意とするところだ」ともいう。

――『名将言行録』




384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 21:16:38.44 ID:66FBQWN/
もう一つの不思議
カリスマブリーダーとしての名声が無い

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 23:30:18.49 ID:gMAi9LmC
ここらのカリスマといえば天庵様の方が大きかったからね

謙信は10のうち…

2012年07月04日 20:59

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/04(水) 06:43:08.74 ID:4MRpO2lH
問題の上杉謙信言行録より

上杉謙信の近くに仕える女に土州佐保と言うものがあった。
永禄8年春、両親と会うため故郷に帰省したいという願いを申し出た。謙信は取次の女房を呼び、
3月20日前後を日限としてこちらに帰ってくるようにと伝えて休暇を与えた。ところがその日限になっても女は
帰って来なかった。取次の女房はしきりに気をもみ、書状を出して呼び返した。
ある日、謙信はその女を不断所に召し出し、その不都合を攻めた上、小姓の荒尾助九郎をして頸をはねさせた。

後に太田三楽(資正)はこの話を聞いて北条丹後(高広)に言うには

「貴殿の主人謙信公は、武勇については別問題として、その御気性を見るに、10のうち8つは大賢人、
2つは大悪人という割合になるな。生まれながらに勇猛だが、とにかく怒気激しい癖がある。

けれども善い事には清浄潔白で、曲がったこともなければ何かを隠すようなこともなく、下々の情勢を察し
士民を憐れみ、好んで忠諫を納れられるなどは、末代ありがたき名将だと思う。

だからまあ、少々の非難はあっても贖って余りがあるので、8つは賢人と申して良かろう。」

そう言って破顔大笑した。




335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/04(水) 10:05:21.07 ID:OARM/5Ao
>>331
取次ぎが殺されたのかと思ったw