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「豆相記」の小田原城攻めの場面

2021年02月20日 18:08

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/20(土) 17:44:58.68 ID:tJgxCgXM
豆相記」の小田原城攻めの場面

長享の乱で争ったあと、山内上杉氏が扇谷上杉氏と和睦した際
「もともと両上杉が不和になったのは、自分のところの家老の長尾伊玄(景春)とそちらの宿老の太田道灌が互いに奢侈を極め、威を争ったためである。
こちらは景春を殺すのでそちらも道灌を殺してくれ」
と扇谷上杉に言ったため、
扇谷上杉はその言葉に乗せられて太田道灌を殺してしまった。
しかしこれは山内上杉の計略であり、山内が景春を殺すことはなかった。
こうして両上杉の和睦が破れた。
これを聞いた氏盛(早雲)は箱根山に材木を取ると偽り、日中に大嶋の牛を山の頂上に上らせて
夜になると牛の角に柴薪をつけ、火をつけ、壮士によって浜辺へと追わせた。
千万の勇士が鐘と太鼓を鳴らしながら攻めてくるようであり、まさに田単の火牛計そのままであった。
小田原城守の大森氏は大いに驚き、撃退するために兵卒を海辺にむかわせると
氏盛は反対側の山の方から自ら兵を率い、大森を襲ったため、大森は益々あわて、兵は潰えてしまった。
こうして早雲は小田原城を奪った。

敵陣に突撃させた田単とは違って、陽動に使っただけだから
ハンニバルのカリクラ峠での火牛計の方が近いかもしれない



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今川義忠討死の後の内乱と和睦

2020年12月02日 19:36

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/02(水) 12:52:32.92 ID:X4bDmgcV
駿河国は、今川義忠討死の後大いに乱れ、合戦が数度に及んだこと関東に聞こえると。伊豆の御所より
上杉治部少輔政憲を大将として、三百余騎にて馳せ向かった。また上杉扇谷修理太夫殿(定正)より
代官として、太田左衛門大夫(道灌)、三百余騎にて馳せ登り、両陣は狐ヶ崎八幡山に陣取って、
対立している駿河衆の両陣へ使いを以て申した

『今度、豆州様(足利政知)、扇谷殿より我々が派遣された理由は、今川殿御討死の跡、御息幼少にて
上を軽んじ、各々わたくしの闘争を行うとは何事であろうか。どちらであっても、今川殿に逆心ある方に
向かって一矢仕り候との上命をふくみ、罷り向かったのである。定めて一方は御敵であろう。
御返答次第に、一合戦仕るべし。』

と、委細申し送ったが、今川の両陣ともその返答に及ばず、きまりも悪くなり陣を引いた。しかし
猶も和談はなかったため、大田、上杉は御館へ参り評定し、和談のはかりごとをめぐらせていた。

このような所に、今川義忠の嫡男である龍王殿の御母は、北川殿と申して、京公方の御執事である
伊勢守殿の御姪であり、先年、義忠御上洛の時、ふとしたことで御迎えになり、若君が誕生されたため、
北川殿として新殿を作りそこに居られた。

この北川殿の弟は、伊勢新九郎長氏と申す人で、その頃備中国より京に上り、今出川殿(足利義視)に
付けられていたが、今出川殿が伊勢御下向の時お供をして下り、それより姉君を尋ねて駿河国に下向されたが、
折節この乱に参り遭い、関東より加勢の両大将に相談をした

「かように家来の人々が二つに分かれて合戦をするのは、今川家滅亡の基となります。尤も主人に対して
意趣が無いのであれば、謀反人では有りませんが、主の家を滅ぼすのは、これに過ぎる悪事はありません。
各々の御扱いを用いず、和融の儀が無いのであれば、京都の御下知を承り、豆州様と申し合わせ、一方を
退治仕りましょう。
もし又、御扱いを承り、尤もと一同し、和談のことが定まれば、私は龍王殿の御在所を存じておりますので、
お迎えに参り御館へ返し奉ります。」

これに関東の両大将も、尤もであると一同し、この条々を駿河衆の両陣へ申し送った。駿河衆も、よしなき
私の戦を起こし、主の行方さえ知れず迷惑の砌に、このような扱いが有ることを大いに喜び、早々に両陣を
引いて、御館より共に、惣社浅間の神前にて神水を呑み、両方和談は相調った。

この時龍王殿は、山西の有徳人と聞こえる小川法栄の元に御座していた、法栄は「このような乱が
なければ、どうして譜代の主君が、このような山家に入られ、数日も御座あるべきでしょうか。」と、
龍王殿、御母公諸共に色々ともてなし慰められていた。そして和談が調うと伊勢新九郎が迎えにまいったため、
「これは目出度き次第である。」と喜び、新九郎を初めとして、御迎えの人々に、馬鞍以下、数々の引出物を
贈り、法栄父子も御供申し、駿府の御館は入り奉った。

駿府に戻られるとすぐに、龍王殿は御元服あり、今川新五郎氏親と申し奉った。
その頃、豆州様が御改名あり、始めは政知と申していたのを、『氏満』と御改めになっていた。これは
鎌倉殿(鎌倉公方)の御名乗り(通字)であり、御早世の御一門の御名乗りを、この方で取るのは、
かの幸いをこの方にて継ぐという事であり、必ず御名乗りを取るという習慣が有ったのである。
これによって氏満と御改名されたという。
龍王殿は、豆州様を御烏帽子親に頼まれた故に、氏満の氏の字を付けられ給いて、『氏親』と名乗られたと
聞こえる。

法栄の子は、今川殿近習となった、長谷川等是である。
伊勢新九郎は今度の忠功莫大であるとして、富士郡下方庄を給わり、高国寺(興国寺)の城に在城した。

今川記

今川記』より、今川義忠討死の後の内乱と和睦について



753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/06(日) 17:46:00.04 ID:DKqmNioT
>>751

ここまで詳しい記述があるのに北条早雲が牢人扱いされていたのは何故?

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/06(日) 21:08:16.61 ID:zY8ldDsB
>>753
北条氏や伊勢氏、今川氏に伝わる系図などで食い違いが多くあやふやな部分が多かったことと講談の影響
今川記』の記事だけ見ても、
「幕府の意向で今川家の調停に派遣された幕臣」って近年の(蓋然性が高いとされる)説も全く触れられていないし
伊勢で義視の元を致仕し姉の縁を頼って駿河に下ったと解釈すれば、身分は牢人といえる

正月2日の夜、宗雲が夢を見なさったことには

2019年06月13日 15:49

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 19:42:57.37 ID:h/jQFdtC
(前略。>>11)翌年正月2日の夜、宗雲(北条早雲)が夢を見なさったことには、2本ある大杉を鼠
1つが出て食い折った。その後、かの鼠が猪になった夢を見て、その夢は覚めた。

その如く両上杉の仲が悪くなるのを聞き、宗雲は是非とも時刻を見合わせて関東へ発向の工夫をされ
ることは二六時中暇なし。ある時、扇谷の上杉家は末となったのであろう、邪臣の諫めを崇敬して家
老の太田道官(道灌)を誅しなさった。その後、上杉殿の家老は尽く身構えをして騒ぎ立った。

この時、宗雲公は出て小田原を乗っ取り、相模の過半を手に入れて子息・氏縄公(北条氏綱)の代に
相模を皆治めなされば、いよいよ氏康公の代に伊豆・相模二ヶ国となり1万の人数の内2千を所々の
境目に差し置き、8千の軍兵をもって両上杉家と取り合いなされた。(後略)

――『甲陽軍鑑』



文明十一年、臼井城の戦い

2014年03月22日 19:00

790 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/22(土) 13:41:30.74 ID:EFmaNP9T
千葉介孝胤は、先年、父の陸奥守入道常輝と共に胤直兄弟に腹を切らせて足利成氏に奉公した人で、
足利成氏から千葉の名跡をたまわった人である。

その後、上杉から、胤直の名跡として実胤を千葉介に任じて下総に遣わしたが、足利成氏は千葉孝胤を贔屓にして
これを千葉に置かれたため、実胤は千葉城に入れず、武州石浜葛西のあたりを知行した。
やがて、実胤は世をはかなみ遁世し、濃州に上って閑居したため、上杉はその兄の自胤を取り立てて実胤の跡を
継がせ、千葉介に任じた。
これを武蔵千葉氏という。

その後、千葉孝胤は長尾景春に味方してあちこちで合戦し、足利成氏が上杉と御和談されるのをしきりに妨げた。
千葉孝胤は、上杉の御敵の一人であった。

そこで、千葉自胤を取り立てて南総州の侍を千葉自胤に付け、千葉の名跡を相続させようと、足利成氏の内意を
得て両上杉から加勢し、太田道灌が下総国府台に陣を取り、仮の城を構えた。

文明十年十二月十日(1478年1月2日)、千葉孝胤は原二郎と木内を先手として下総国境根原に出陣した。
太田道灌がこれに馳せ向かって合戦を始めた。
一日中戦った末、千葉孝胤は敗れ、木内、原をはじめことごとく討死した。
その残党は臼井城に立て籠もった。

文明十一年(1479)正月十八日、軍勢は臼井城を攻めた。

太田道灌は帰陣して、太田図書助資忠(道灌の弟or甥)と千葉自胤が両大将として攻め戦ったが、寄せ手は
小勢だったため、攻め落とすことができなかった。
管領の出馬を願ったが、これもすぐにはかなわなかった。
臼井城は総構えの要害堅固で、力攻めで落とすのは難しい様子であった。

そこで軍を割き、上総国長南の城主である武田三河入道を攻めたところ、七月五日に降参して千葉自胤に
帰順した。丸ヶ谷の上総介も、同じく千葉自胤に降参した。
また、下総国飯沼も落ち、海上備中守師胤も、千葉自胤に降参した。

千葉自胤は千葉へ入らなかったが、両総州の大半が千葉自胤に帰順し、長陣となったためひとまず帰陣しようと
七月十五日に陣払いをすると、その様子を見た城方が城から討って出た。太田図書助資忠も取って返して戦い、
敵に付け入って攻め込んで、ついに城を攻め落とした。
しかし、太田図書助資忠をはじめ、僧中納言、佐藤五郎兵衛、桂縫殿助以下五十三人が討死した。

千葉孝胤が敗れたものの、味方も長陣に疲れたため、それ以上は攻め入らず、千葉自胤は陣払いして
武州石浜に戻った。
しかし、臼井城は千葉自胤の領するところとなり、臼井城には城代が置かれた。

(鎌倉大草紙)

臼井城の合戦というと上杉謙信がボロ負けした事で有名ですが、そのさらに前にも、太田道灌の軍勢が
攻めあぐねた挙げ句、大将の一人を失ってしまった戦いの様子です。
臼井城跡には現在もなお太田資忠の墓が残っています。
ちなみにこの時臼井城主臼井教胤と千葉孝胤が逃亡しており、臼井城は千葉孝胤の支援により臼井教胤が
奪還したようです。




791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 15:31:11.27 ID:1KpOvJNW
やっぱ鎌倉大草紙はいいわあ
この教科書っぽい叙述が特に

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 16:22:40.14 ID:CtuidhWK
フロイスの後だから余計にそう思うのだろう

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 20:00:45.56 ID:WUhJXsOs
>>790
江戸時代にお家再興を嘆願する千葉氏は自胤を祖にすることが多かったらしいけど血統的な問題かな?

太田道灌、居城の怪異に

2012年08月28日 20:51

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 17:36:51.53 ID:nmVw6k3Q

ある時、太田道灌の居城に一夜にして笠ほどのキノコが生えた。
人々が「物怪だ!」と驚いてこれを道灌に告げたところ、

道灌は「決して物怪ではない。湿気の深い所には大きなキノコが
生えるものだ。逆さまに生えたとしたら不思議なことだがな」と言って

動じなかった。その後、十日ばかり過ぎて、今度は同様のキノコが
逆さに生えた。人々が驚いて道灌に告げると、

道灌は「最初に生えた時は逆さなら不思議だったのだが、
今度は智恵をつけて逆さに生えたか。これは笑えるな」と言った。

すると今度は火炉の鉄輪が踊り歩き始めた。道灌はこれを見ても
「人間は足二本でさえ自由に歩けるのだから、三つ足で歩けたって
珍しくもない。

そのようなことは全て狐狸の仕業だ。狐狸めは人間にたぶらかされて
戸惑っているようだな」と冷笑するだけで自若としていた。

その後は何の怪異も起こらなくなった。

――『名将言行録』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1185.html
↑の別バージョンか?





202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 21:20:25.39 ID:CxSchxLm
俺のところに美女が大金を持参して嫁入りに来れば不思議なことだが

203 名前:こうか[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 21:23:56.15 ID:CxSchxLm
秀吉「わしのところに大勢の美女が嫁入りに来れば不思議なことだが」

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 21:52:28.56 ID:jjWVqCyv
子孫がリアル化け物だから物の怪ぐらいじゃ驚かないわな

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 22:34:28.10 ID:qrwWJkEU
要求をエスカレートさせて、
どこまでやってくれるか試せば面白かったのに。

川越城水源の事

2011年05月24日 01:11

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 18:29:48.80 ID:QLWEygVY
太田道真・資長(道灌)の父子が川越城を築城するときの事
城の堀へ張る水をどこから引いてこようかと毎日踏査していたのだが、これという水源は見つからず困っていた。

ある朝、道灌が何げなく初雁の杉のあたりを通ると井水に足を浸して洗っている一人の老人に出会った。
見ればそこにはこんこんと湧き出る泉が・・・

これに道灌は大いに喜び、これはまさしく日ごろ信仰している天神の御加護であったかと改めて感謝したのだった。
しばらくしてその老人の所に向かい、この地に城を築く決意を告げ、水源となっている場所を尋ねた。
すると老人は快く承諾し、さっそく道灌を水源へ案内してくれた。
行く行く着いていくとそこは満々と水を湛えた底知れぬ深さの水源地が現れた。

道灌は手を打って喜び、老人の好意に対して心からお礼の言葉を述べ再会を約束して別れたのであった。
こうして謀らずも問題を解決できた道灌はこの地に難攻不落の川越城を完成させたのである。

さて、かの老人とは再会の折もなく時が過ぎ去っていった。
だが、かつて井水で足を洗っていたときの姿が気品にあふれていたので、
あれぞ紛れもない三芳野天神の化身であると納得したのであった。
以来この井水を天神御洗(てんじんみたらし)の井水と名づけて大事にし、神慮に応えたと言う。
そして道灌はますます敬神の念を深くし、有名な川越城内で連歌の会を催して千句を天神に奉詠したのであった。

なお、この水源地は川越城内清水御門のあたりとも、または八幡曲輪とも三芳野天神社付近とも言い伝えられている。




とっさの歌詠みシリーズ。太田道灌編

2010年10月14日 00:00

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/13(水) 18:23:48 ID:02fx74We
とっさの歌詠みシリーズ。太田道灌

太田道灌が初めて関東より上京した時の話だそうだ。
扇谷上杉家家宰として、さらに軍略家として既に高名であった道灌は
高位の人々の集まりに招かれた。そこで道灌が歌道をたしなむことが話題に出、
是非一首詠んで欲しい、という話になった。

これに道灌
「私は関東の田舎に住むものでして、なかなか京洛の堂上の方々にお目にかけるような歌など
あるはずもありませんが、ひとつ笑って聞いてください。これは田舎で詠んだ歌ですが」

と、こんな歌を詠んだ
『武蔵野の折るべい草は多けれど、露すぼこくて折られないもさ』

これにその場の人々は皆、どっと笑った。

この歌、現代人には少し説明がいるだろう。「折るべい」「すぼこくて」「もさ」
これは関東方言をあらわしたものである。
現代風に訳せば
「武蔵野には露が落ちて折られるべき草はいっぱい有るけんど、露が落ちてもすばしっこく
消えるんで折られやしないだんべ」

とでもなるのであろうか。

とにかくいかにも田舎風の滑稽な歌に皆が大笑いしている中、

「もう一首、こんな歌も詠みました」

と、道灌、次の歌を披露した。

『露おかぬ かたもありけり夕立の 空よりひろき武蔵野の原』
(天を覆った夕立が過ぎてなお、雨に濡れていない場所もある。なんと空より広い
武蔵野の平原ではないだろうか)

一転、この歌にその場の人々、大いに感心したとのことである。





656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/13(水) 19:21:45 ID:yAj0d7Zr
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3677.html
この話思い出したよ。

今でも上京した地方出身者はなまりを馬鹿にされないように気を使うけど
なまりをギャグにしちゃうのが一番いいのかもねw

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/13(水) 19:36:22 ID:2GReGcx4
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-181.html
田舎者呼ばわりされるのがいやで引きこもりになった某南部さんもいるしな。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 00:34:51 ID:qpGVOixJ
訛りが通じないから黙るのが東北人
訛りが通じないから実力で示すのが北陸人
訛りが通じなくても気にせず、それが通常だと笑うのが関東人
訛りが通じない者同士で差別化して喜ぶのが東海人
訛りが通じていないから暗殺するのが中国人
訛りが通じないのに気付いていないのが四国人
訛りが通じていないから南蛮人と親しくなるのが九州人
訛りが通じなくて喜ぶのが薩摩人

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 00:37:05 ID:My/PyKDt
>>663
 江戸時代では薩摩人は訛がが通じないと通報、または殺害だったがはず

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 01:11:08 ID:jcwc3uoJ
鳥居彦右衛門は島津義弘のなまりが理解できなくていくさになった、なんて話もあるね

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 01:15:48 ID:wbNC/ue3
もし鳥居元忠が赤備えだったら
島津義弘「赤い鳥居に弓を引いたら、お稲荷様から天罰が下る。わしは引くぞ!」
とでもなったのだろうか

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 01:29:18 ID:zTvBA4Vb
>>663
大戦中暗号が解読されていることに気付いた日本軍が薩摩弁の訛りが酷い奴に伝令させたって話は有名だなw
>>666
それならそれで劇団島津だしもっと上手いことやってくれそうな気がするがw
そういや鎌倉・室町の方でなんで狐が島津の守り神になったかって逸話が投稿されてたな

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 01:38:56 ID:wbNC/ue3
>>667
鎌倉・室町スレで島津稲荷ネタが出たから便乗した
そういや赤備えの方も、井伊の赤鬼(初代)は結果的に島津の鉄砲に斃れ、
井伊の赤鬼(幕末)は薩摩藩浪士に首を切られ、因縁があるのか無いのか

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 01:43:46 ID:VNWaa3Bu
だって井伊家の一番の仮想的は島津家でしょ?

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 07:14:19 ID:fAC7J8ij
>>660
仲悪いなら、有力な他家を乗っ取るための養子に出すことは無いだろうしな

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 08:53:47 ID:ODsOxZhO
訛りが云々のやつで、関西(近畿)はないのか?
>訛りが通じなくても気にせず、それが通常だと笑うのが関東人
これが関西人っぽいな~と思ったんだが~

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 09:08:01 ID:8DCLgm3W
戦国時代、日本の中心は近畿ですから。近畿以外の方言が訛りです

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 09:30:31 ID:ODsOxZhO
そういうことなのか~
なるほど~

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 15:12:29 ID:BZm9fy/X
>>663
うちの爺さん新潟出身なのにほとんど訛りが無かったから
兵学校入学の時、教官に「新潟県出身です」って言っても信じてもらえなかったそうなw

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 16:48:48 ID:VNWaa3Bu
今でも新潟の人って、むしろ関東の人より標準語に近いよね