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仙桃院の演説

2021年09月04日 17:01

仙桃院   
504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/04(土) 16:22:11.04 ID:JMOsLn/Z
上杉謙信死去後、越後に於いて養子である上杉景勝上杉景虎の闘争は激しくなり、
双方手切れとなって既に合戦が始まろうとした時、景勝の母である仙桃院は、上田より早々に
春日山城に来ると、一族家臣、末々の侍共まで春日山の本城水門へ呼び、簾を高く巻かせ、
直に対面して申された

「景勝は越前守殿(長尾政景)の子であるが、謙信の猶子である。
先祖である長尾左衛門尉景忠より、謙信に至るまで八代、年数は二百十余年、越後の執権として
貴賤共に、そのよしみは浅からず。一体誰がその旧功を忘れるだろうか。

殊更、かつて紋竹庵主(長尾為景)が越中千檀野にて討ち死にされ、国中大乱に及んだのを、
謙信が十四歳より謀を巡らし、十五歳の春に宿敵である長尾平六を討ち滅ぼし、それより
八年間の間に、越後国中の凶賊を討ち平らげ、上下枕を泰山の安きに置けたのも、皆謙信の恩である。
何れも心を一つにして、味方(景勝方)の義戦をたすけ、中興の謀を巡らすべきである。
構えて卑怯の振る舞い、二心をはさみ、又は戦場において強いて戦わせることを敵に見せるなどは
口惜しきことである。

何れも頼み入ります。謙信の遺跡を、景勝に知らせ候へ」

そして家老から末々の軍兵まで残らず盃を与えられると、上下の者達は皆、この女ながらの勇気に
励まされ、感涙を流して畏まった。忠功を励む所、更に疎むべからずと、一同に頷いた。

太祖一代軍記

御館の乱において、景勝方が仙桃院の演説によって戦意を高めたというお話。
この演説のモデルは北条政子のやつかな?



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洛中洛外の図の屏風一双

2021年08月27日 16:58

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/27(金) 15:55:22.08 ID:2w20CCI8
天正二年三月、上杉謙信公に対し、織田信長公より両使を以て、洛中洛外の図の屏風一双、
源氏物語の屏風一双、何れも狩野永徳の筆にて、極彩色であり、これを謙信に進上した。
殊の外の懇志であった。

然れども謙信は、信長が色々な手立てを以て上杉領内に手遣いがあることに対し、書礼を遣わし、
信長が表裏ある事を責めて、手切れの旨を申し遣わした。
これに信長は、何者かの讒言によってこのようなことになったのだと様々に陳謝したが、謙信は
用いなかった。

太祖一代軍記

洛中洛外図屏風(上杉本)についてのお話



信玄逝去

2021年08月26日 16:24

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 15:00:57.75 ID:e31HGtJg
天正元年二月、徳川家康公より植村與三郎を使者として、上杉謙信公に仰せ寄越された内容は、
去る冬の極月(十二月)二十二日、遠州口三方ヶ原での合戦で勝利無きに付き、武田信玄
勝ちに乗って東三河に発向してきたため、謙信は信州へ働き、甲州までも攻め入って頂きたい、
との事であり、その書状、並びに備前守家の刀が進上された。その刀の異名は徳用と号した。
謙信よりも音物が贈答された。
信玄が三州岡崎の城に攻め詰めれば、謙信は信州より甲州へ取り掛かるという旨の約諾が有った。

その頃信玄は東三河へ攻め入り、菅沼新八郎定盈、松平與一郎忠正が籠もる野田城を攻め落とし、
両大将を生け捕った。しかしその砌、城方の鉄砲烈しく、信玄は大事の所に鉄砲によって負傷し
(信玄大事の所に鉄砲手を負ひ)、その疵が腫物となって気分次第に快からず、四月十二日に
三州・信州の境である浪合にて逝去した。武田はこれを秘して喪を発せず、病気であるとして
死骸を守護して、甲州勢は残らず退散した。

その夏五月七日に、小田原北条氏政より山中兵部を使者として、信玄が死去したと越府に注進があった。

伝に曰く、この氏政の口上を本庄清七郎取次にて披露した時、謙信は膳に向かって飲食していた。
信玄死去の情報を聞くと、箸を捨てて手を打ち、

「合戦の能き相手を失い、さてもさても力を落とした。その上信玄は世に稀なる英雄名将であった。
残り多く、情けなきことである。」

そう言って数行の落涙をしたという。

太祖一代軍記

武田信玄の死去について。ここでは野田城攻めの時銃創を受けたため、という説なのですね。



983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 17:58:22.35 ID:j/dhOPJq
天正元年六月の長尾憲景宛書状では
信玄が死んだため、信長・家康は駿河に進むだろうし
関東平定も実現の見通しがつき、越中も思うがままになってきたと
喜んでいるそうだが

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 21:47:04.64 ID:EKAhKpsG
長年の宿敵と踏んでたし人柄的にも信玄って謙信が嫌いそうなタイプだし
訃報を聞いた時は喜んだってのが事実じゃないかとも思う
でも信玄ほど歯ごたえがあって正面から闘ってくれる相手もいないから
後々になって信玄の死を惜しんだとかはありそう

公方義輝公を弑し奉った事について

2021年08月23日 16:27

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/23(月) 14:51:42.36 ID:X36Q9D4/
永禄八年五月十九日、京都に於いて三好左京大夫義継、松永右衛門佐久通らが逆心し、公方義輝公が
御生害された。これにより畿内は大いに乱れ、公方の御弟である一乗院覚慶は南都を落ちて江州矢島に
至り、公方家再興のために還俗、義昭と号した。

七月、上杉謙信は二万の軍勢で越府を立ち越中へ入り、そのまま直に進んで加賀国へ攻め入り、
若林長門守、蕪木右衛門尉、石黒、宮崎、南保、高楯、入善等を攻められた。
この後、長尾兵部尉景盛、島山因幡守両使を江州矢島へ遣わし、義昭公へ御兄公方光源院殿と
御弔いを申し上げられた。

この時三好義継が逆心にて、公方義輝公を弑し奉った事について、その七ヵ年以前、永禄二年の夏に
謙信が上洛して十月に至った頃、三好長慶を始めその一門、並びに松永、岩成、松山党などの
驕り甚だしく、公方を蔑ろに致している様子を謙信は見届け、いずれ三好逆心の相有りと察した。
そこで京を立ち越後へ帰る砌、御暇乞を申し上げ、密々に言上したことには、

「三好一家無礼にして終には反逆の相が御座候。もしそういった様子が見られたときは、早々に
私に仰せ下されますように。馳せ上がり退治いたします。」

という旨を申し置かれたが、これに公方義輝公は御喜悦斜め成らなず、御手づから藤林という名物の
國綱の御太刀を下され、必ず御頼りあるべき旨を、懇ろに御堅約された。

去る年、子七月四日、三好修理太夫長慶が病死した。三好一門、家人はこれを秘して喪礼を致さず、
病中と申す沙汰を致したのだが、これが密々に公方の上聴に達し、不審に思われている内に、反逆の
様子が徐々に顕れた故に、公方は大和兵部少輔を御使として越後に下され、早々に謙信が上洛するよう、
密々に御内書を下された。しかしこれを三好が聞きつけ、
「謙信が上洛すれば中々叶うべからず。その前に取り掛かるべし。」
と、俄に思い立ち逆心し、公方を弑し奉ったのだと云われた。

太祖一代軍記



輝虎は斯くの如くの

2021年08月21日 17:56

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 16:43:19.91 ID:cQDwS0uU
永禄二年の四月上旬、上杉景虎は二度目の上洛をした。

(中略)

同月二十六日に、上使大館左衛門佐輝氏が御内書持参にて、景虎の文の裏書き、並びに
塗輿、朱柄傘を御免になり、屋形号、並びに「輝」の字を下され、斯波、細川、畠山の三管領に
準ずると云々。景虎はこれを拝受した。その御礼として宿舎より京に入った。これより景虎を改め、
輝虎と号した。

その御礼に向かう途中において、三好の家来の士と松永弾正少弼久秀の家人が馬上にて行き合い、
無礼であったために輝虎は怒り従士に下知して、たちまち討ち捨て頭を刎ねた。
近年三好、松永の威勢強く、これに並び立てるような者も無かったのだが、輝虎は斯くの如くの
対応をし、これに貴賤上下、輝虎を恐れること斜め成らずであった。
そして三好、松永はこれに一言も云うことが出来なかった。

(中略)

世に伝わる話に、堺に宿泊した折、旅宿の主人が草足袋を履いて見目に出たことに、輝虎は
「その体無礼なり」と怒り、その主人を手討ちにした。これに堺の者達千人ほどが怒って輝虎の
旅宿を囲んだ。そこで輝虎はその家に火を懸け切って出て彼らを追い散らした後、静かに京へと
帰った。輝虎の懸けた火は延焼し、堺において数千軒が焼失した。

太祖一代軍記

二度目の上洛でいろいろ大暴れしたらしい謙信公



謙信と猛猿

2021年08月20日 16:52

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 16:04:56.65 ID:R9Sq4sPr
天文二十二年、二十四歳、閏二月、長尾景虎は上洛した。

伝に云う、この時将軍である足利義輝公は宣われた
「景虎は若年より弓箭を取って、その武名は世に知らないものは居ない。
ちょうど今、土佐の長宗我部元親が献上してきた猛き猿がある。これは世に稀な猛獣であり、
檻に入れ、鉄でその檻を包んでいるほどだ。そこで景虎出仕の際、これを檻より出して路次に
繋ぎ置き、景虎の勇を試みよう。」

この猿は行き交う人を見ては必ず牙を鳴らして躍り上がり、叫声も凄まじいものであった。
この猿を以て景虎を試すという事は洛中に聞こえ、世の人は皆、景虎出仕の日を待って見物した。

景虎は洛中に間諜を置いていたので、この事を素早く聞きつけ、近習の士である鬼小島弥太郎という
大力の兵に下知して、巡礼の姿をさせて猿の餌食を持たせ、かの檻の方へ遣わした。

鬼小島は往来の人に交わり、番所に近づくと番士に話しかけ、件の猿に近づくと、猿は鬼小島を見つけ、
牙を鳴らし喚き叫んだ。そこで鬼小島は餌食を出しこれを与えると、猿は喜んでこれを食うこと三度にして
猿も殊の外静まった。この時、鬼小島はまた餌食を、今度は檻の外に置いた。

猿はこれを見て格子より手を出して取ろうとしたが、鬼小島は無双の大力であり、去る年、
越府往下の橋を修理した時、三十人持の大木を軽々と持ち上げた。これ故に世の人は彼を「鬼小島」
と呼んだのである。このような大力故に、猿の手をむずと捕らえ、格子の角木に押し当てて、
しばらく押し付けると、大力に痛めつけられ猿は涙を流して苦悩した。鬼小島は手を離さず、
半時ばかり痛めつけると、猿は弱って地に伏して啼いた。そして鬼小島は旅宿に還った。

翌日、景虎出仕の時、鬼小島も側に供した。洛中の貴賤は景虎が猿に遭った時の剛臆を見ようと
群衆した。公方家の諸士も景虎の出仕の様子、また猿の有様を見ようと皆々伺候した。
景虎は猿の前を洋々と通るが、猿は側に在る鬼小島を見知っていたため、恐怖した様子で
地に伏した。鬼小島は猿を睨んで通ったが、猿は頭を垂れ平伏した。

これを見た公方も管領も三好一門も奇特の思いを成し、御前首尾よく退出して帰られたが、
公方を初め奉り、細川右京太夫氏綱、三好筑前守長慶以下も
「景虎は若年より弓馬のみに心を寄せ、礼儀など知らないと思っていたが、出仕の礼神妙であった」
と褒め称えたと云われる。

太祖一代軍記

猛猿のお話の上杉謙信バージョン。長宗我部元親は天文八年生まれなのでこの時十四歳ですね。
家督もまだ継いでないので足利義輝に猿を贈るのはちょっと難しいかな。




445 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 21:22:23.14 ID:QWEeROo3
>>444
> 猛猿のお話の上杉謙信バージョン

やいこの縮緬坊主エテ公一匹躾けンのに子分の手ェ借りるたァ臍が茶ァ沸かすぜ若僧それっくれェも手前ェで出来ねえくせに軍神様が聞いて呆れらァ第一(でーいち)手前ェァ不敗だ何だ豪傑風ェ吹かしてやがるが本当(ふんと)ァ何遍も負けてベソかいて逃げてやがんの知ってんだぞこの童貞野郎こちとらァ本物の生涯(しょうげー)負け無しだあんな猿なんざ自分(てめえ)で四つに畳んで座布団に敷いちまわァ手前ェみてぇな張子の蛇のお兄ィさんたァお兄ィさんが違うんでぃ解ったか篦棒奴解ったら一昨日出直して来やがれっ。

※太田道灌は江戸者なので一切噛まず一息で二秒以内にこの啖呵を切ります。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 23:05:45.08 ID:46XUOyEh
その太田道灌、山吹の歌を家来に聞かされたら
「なな屁、や屁?なんだかくさそうな感じだなあ」
とか言いそうだ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 23:23:43.09 ID:BUA5xDqI
>>445
そのセリフ読んでたら森山未來が出てきた

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 23:34:44.65 ID:ewp9KiJx
>>446
おいおい、坂東武者は土蜘蛛や蝦夷の類じゃないんだぜ。

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 07:22:08.67 ID:unjCq8w5
>>444
猛猿注意
https://i.imgur.com/ZaqmVog.jpg
ZaqmVog.jpg


451 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 13:17:17.10 ID:2oZ3rl14
>>447
> 森山未來

何者だ其奴ぁ?と思って調べたら関西者じゃねえか。
口跡が薄汚く粘る関西弁じゃこの啖呵ァ切れやしねェよ。

453 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 17:36:18.57 ID:unjCq8w5
>>451
烏にゃ越えられぬ、富士より向こうのお国言葉は大層威勢が良いですね。人が沢山下って
合い集まる東国ならではの江戸っ子気質に溢れチャキチャキの威勢に満ちた、大
衆文化の新境地。鎌倉から戦国期に戊辰戦争、数々の大戦を経て育まれた土地ならではですね。

その言葉を忘れ給うな

2021年08月17日 17:51

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/17(火) 16:56:24.58 ID:rvMo7SwV
天文六年、八歳にして長尾景虎は勇猛にして兄三人を凌いでおり、その頃下越後の領主、
加地安芸守春綱に実子が無かったため、景虎を養子と定めた。そして景虎に、この家督を継ぐべき旨を
為景が直に申し聞かされたのだが、景虎はこれを悦ばず了承しなかったため、為景は怒って
屋形である上杉定実に訴えて諸老臣と談じ、景虎を下越後へと追い下した。

これにより景虎は府内を出て、米山を越した。傅役の金津新兵衛を始め四、五人が供であった。
この米山は上り四里下り四里で、峠に薬師堂があり、米山寺といった。この堂より見下ろすと、
越後の国中が眼下に見えた。この堂の縁で休み、景虎にも破子(弁当)を進めた。
景虎は八歳であったが、年頃よりは少し大人びていた。堂の縁を遊び廻り、金津新兵衛に向かって言った

「この度の無念を晴らし本望を達するには、この山が能き陣所であるから、この筋にて合戦をすべし。
頸城、古志、府内の城を眼下に見下ろす、能き陣場である。」

これを聞いた新兵衛は涙を流し、
「その言葉を忘れ給うな。頼もしく候。」
と悦んだ。果たして十一年後の天文十六年五月、景虎は兄晴景と一戦し、大利を得られ、越後を
切り取られたが、その時この米山が合戦場であった。

太祖一代軍記



436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/17(火) 18:10:18.04 ID:I/VKUdaS
>>435
こういうのがあるからたまに謙信がなろう系転生者の小説主人公になるんだよな

神童繋がりで、転生したら厩戸王子だったというのもあってもいいな