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耳川の敗戦後の、豊後国内

2019年05月14日 17:27

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/13(月) 19:50:33.25 ID:mxOrsGk9
老王(大友宗麟)は(耳川の戦いの敗北による)混乱の際、前に述べたように急遽出発し、食料も携えず、
所有の品の大半を失ったが、パードレが会堂に備え置いた十字架上のキリスト像を請うため人を遣わし、
これを携帯することを望む旨を伝えた。
またこのように大敗したが少しも恥じる所無く、デウスに対する信頼を失わない旨も伝えた。その後パードレが
王の陣所に到着した時、王は諸人の面前に於いて跪いて手を天に挙げ、現在の艱難に対して我等が主に感謝し、
パードレと語って彼は「キリシタンとして、このような不運に会うも心を変えず、むしろその熱心と
デウスに仕える希望はさらに加わった」と言った。この事を公言したのは、パードレに対する豊後の人たちの
不平と怒りを抑えるためであり、王の信仰がこのように固いことを聞けば、何人もパードレに対して無礼、
または害を加えることが出来ないためである。その後パードレと数回談話した際、「我等が主デウスは
我が意志と、私が日向においてキリシタンの教えを広めようと図っているのを知り給い、隠れたる御裁断に
よりこのような不測のことが起こった。しかしこれに満足し、己の弱き判断を捨てデウスの賢慮に
服従する。」と言い、また他の機会にパードレを慰めて、「デウスが私の軍隊を敗北せしめ給いしは、
この戦争においてデウスの教の最大の敵にして、帰依に反対していた者たちが多く死して、以後の教化に
便ならしむためであろう。」と言った。
若王(大友義統)もこれに劣らぬ勇気を示し、その父がパードレ・フランシスコ・カブラル対して言ったのと
同じことをパードレ・ルイス・フロイスに伝えた。

しかしながら豊後に於いては今回のことは全く神仏の罰であるとされ、我らに対する不平が大いに訴えられた。
よって若王の義兄弟の一人が彼を訪問し、「かくの如き不幸起こり、その部下たちは甚だしく憤慨しているが
故に、今後デウスのことに関係すべきではない。」と勧めたが、若王はこれに答えて
「従来臣下の意向を尊重し、また母(奈多夫人)の機嫌を損じ無いよう努力してきたが、今後は誰にも
譲歩せず、その(キリスト教の)救いのために適する事をする。」と言い、パードレ・フランシスコ・カブラル
臼杵に到着すれば、他人の意向に頓着せず、直ぐに自らキリシタンと成り決してこれを見合わすことはないと
宣言し、また自らキリシタンと成ることを示すため、ロザリオを取り、公にその首に懸けた。その後同一の事を
パードレ・フランシスコ・カブラルに語り、またシナのビジタドールのパードレに通信し、従来よりも遥かに
その信仰心が強くなったことを示した。

国王父子の決心がこのように固いのを見て、我が教の敵は、我等並びにキリシタン等に反対する言を成し、また
行動をすること出来なかった。キリシタンと成って多くの日を経たわけではない国王と、受洗の希望者に過ぎない
世子とが、古きキリシタンにすら信仰への疑惑を懐かしめるこの大いなる不幸に遭遇して、このように堅信を
保持しているのは驚くべきことである。豊後の王は多年非常に幸福であったが、キリシタンと成った直後に
この不幸が起こり、殊にこう言った事態は、かねて坊主たちが威嚇していた事にも関わらず、少しも心を動かさ
なかったのは、我等が主の大いなる御恵である。

その後ほぼ一ヶ月を経て、日向の軍隊の総指揮官であり、死んだと思われ、ゼザベル(奈多夫人)一同も既に
その死を嘆いていた、彼女の兄弟である田原親賢が表れ出た。この残酷なる敵が豊後に戻ってきたと同時に、
キリスト教への迫害は新たに起こり、我等に対する不平の声挙がり、姉妹である悪王妃、およびこの戦において
父子、兄弟、親戚を失った多数の大身及び武士たちは合同して、『今回のことは宣教師たちが豊後に於いて
教化をなし、偶像を破壊したことに原因を発するものである』と成し、我等を殺し、または当国より追放
することに全力を尽くす決心をなした。
戦争において死んだ者は多く、諸人敗戦を嘆いていた故に、我等は町に出れば多くの罵倒の言葉を聞いた。
しかしながら老王は、動かざる柱のように我等を庇護し、若王もまた強く信仰を守ったため、敵はその望む
所を行うこと出来ず、ただ不平を述べるのみであった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の敗戦後の、豊後国内の動揺の様子。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 12:40:43.36 ID:G3wFrSId
大友宗麟ってデビュー当時からピンチの時の判断が素早く的確
成功した戦国大名ってそういうものなんだろうけど

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 14:05:44.57 ID:9vYs8KUt
自分の首を取られたら終わりだからね
今川さんみたいになっちゃう

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 15:04:21.80 ID:x0PW2SgR
動かざる柱のようとか大敗しても恥じないみたいな姿勢はかっこいい
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フランシスコ・カリヤン書簡より、耳川の戦い

2019年05月10日 16:42

17 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:28:01.42 ID:0VkCxDIG
両王(大友宗麟・義統父子)が日向及び豊後に於いて(キリスト教のために)為したる事は右の通りであるが、
それに対するパードレ等の満悦甚だしく、また大友統治下の諸国に於いて、帰依のために開かれた門戸は広く、
キリシタンたちが満足したことは、尊父も察せられるでしょう。
であるが他方に於いて我が教の敵は悲しみ、邪悪なるゼザベル(奈多夫人)と坊主達の不満甚だしく、
坊主たちは両王が寺院を破壊し彼らを侮辱したことに対し、神仏の罰が諸国に及ぶと脅したのであるが、
キリシタン並びに王達は、神仏がいかに激怒しても何もすること能わないのを笑った。

事情かくの如くであった時、我等の主デウス(御判断は我等には解らざれども、聖にして常に正しく、また
一般の幸福と成るものなり)は、日向の軍隊に油断の生じることを許し給い、これによりキリシタン及び
我等の喜びは嘆きに変じ、キリシタンに対する大迫害が起こり、豊後の王が多年領内に維持していた平和は
忽ち激烈なる戦争に変わり、国内の事情は一変した。
世の事は無常であり、日本の事情が変わりやすいこと、また我らが進まんと欲する道が、我等の主が定め
られたものと大いに相違していたことが、明らかに認められたのである。

日向に在った総司令官である田原親賢の油断と無能により、既に手中に在った勝利と、その指揮する全軍は
失われた(耳川の戦い)。軍隊は同国一帯の鍵であり、多数の兵の籠りたる一城(高城)を囲んだが、
それ以前に攻めた城においては少しも抵抗を受けなかったため、敵を軽蔑し警備を怠っていた。それに反し
敵である薩摩の王(島津義久)は少しも油断せず、高城の陥落が全領土の喪失と成るべきことを慮り、全力を
尽くしてこれを救援する決心をなし、噂によれば所領の三ヶ国より老人と少年を除き貴族及び平民の兵を
悉く召集して無数の兵を得、これを率いて城に向かって進軍した。そうして先ず伏兵を設け、全く警備を
怠っていた豊後の軍を平地に誘ってこれを攻撃した。城内の兵もまた打出て、豊後の軍を真ん中に挟んで
おおいに戦った。豊後の兵はよく防ぎ多数の敵を殺したが、大軍に対抗すること出来ず、大部分は戦死し、
残兵は戦場を敵に委ね、列を乱して敗走し、生命を全うするために全力を尽くした。

18 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:29:00.68 ID:0VkCxDIG
風評は事実より誇大に伝わり、また逃げる者には恐怖が伴うのが常であり、多数の敗残者は戦場より数レグワ
離れた老王(大友宗麟)の滞在地(無鹿)に着くと『全軍殺され、または敗走し、敵は急激に追撃し、数時間の
内にはここに到着し占領を始めるであろうから、少しも時を失わず豊後に遁るべし。』と言った。
多数の人が逃げ帰って同じことを繰り返したため、話は益々大きくなり、前よりも悪しき報伝わり、人々の
恐怖は甚だしかった。パードレ・フランシスコ・カブラルは王に対し、「同所は堅固であるから引き上げを
急がず、残りの軍隊を収拾すべきで、敵が急に来ることも無いし、味方の死者も話よりは少ないはず。」と
言い、王もその勧告に従う決心をしたが、部下の恐怖甚だしく頻りに騒いだため、遂にこれに負けて急遽豊後へ
撤退することと成った。夜中人をパードレに遣わして己の去る事を告げ、少しも躊躇すること無くイルマン達と
共に出発するよう命じた。この夜の混乱は甚だしく、王と共に逃げる者が途中の食料を携えることも忘れたため、
豊後までの3,4日路の間非常なる苦労と飢えを覚え、国王も妃も大いに困窮した。

パードレ・フランシスコ・カブラルおよびイルマンたちは、国王が同日午後、彼らの説得により一端、敗残兵を
収拾して同所に留まることを決断していたため、撤退の用意を少しもしておらず、王が撤退の使いを出した
直後には出発してしまったため独り後に残り、馬はわずかに一頭しか無く、しかもこの馬は、病気のため
付近の他の町で療養していたイルマン・ルイス・ダルメイダを迎えるために送る必要があり、どのようにしても
他の馬を得ることが出来ず、又これを捜す余裕もなく、しかももしすぐに出発せず豊後の王から離れた時は、
我等は敵、もしくは味方であるはずの豊後の逃亡兵から殺される危険があった。この兵士たちは異教徒であり、
パードレたちが国王をキリシタンとなしたが故に、神仏の罰が彼らに及んだのだと言い、そういった迷信を
抱いていたためである。
パードレ及びイルマン等は如何とも出来ず、会堂の最も大切な品を少しばかり従僕たちに運ばせ、冬の最中に
険しい山道を通り、食料も無く、肉体及び精神上非常なる疲労を覚えたが、王が恥じて引き返してくることを
懸念して前進した。彼らの困難は甚だしく、大いに飢餓に苦しみ、三日の道中を成した力があったのは不思議と
思うほどである。
日本の戦争の習慣に従い、全土は焼かれて居住する者もなく、食料も、夜休憩する家もなく、飢餓と寒気と
疲労のため、絶えず死に瀕していたが、我等の主の御助により。夜の宿泊所において従僕たちから少しの米を
与えられた。また山の険路において足を痛め、履物もなく、降雨のため水多く冷たい河を渡り、濡れた体を拭く
物もなく夜を過ごした。これにかかわらずダライニヤを唱えてデウスの一身を委ね、かくの如くしてデウスの
御恵により慰めを得た。
(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の戦いの敗北についての宣教師の記録。やはり神仏の罰だったのでは。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 13:28:47.46 ID:C+7oiKRh
これは前スレの空気読まない学級委員長みたいな大鹿剣助も激怒

若王はこれを聞くと急いで王妃のもとに

2019年05月08日 17:29

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 00:12:00.40 ID:MDWkvrbn
(大友家による日向攻めの間に)悪妃ゼザベル(奈多夫人)は、多数の大身たちと共にキリスト教会を撹乱し、
若王(大友義統)の考えを改めさせる方法を協議し、また若き王妃(尊寿院)の(キリシタンと成るという)意思を
枉げるため、妃の母にして同じく頑固なる老女と共に全力を尽くし、「もしキリシタンと成るのであれば嫁と思わず
娘とも思わず」と言い、様々に努力したことによって、かの妃は徐々に我々に対し冷淡となり、決心を変ずるに至った。

また日向に向かって出陣しようとする大身たちは世子に対し、「日向において盛んに戦っている今日において、
デウスの教えの庇護に力を尽くすのは宜しからず。戦争及び国政に関する、デウスの教えよりさらに重要な
国務に従事すべし。」と諌めた。世子はこれに「私は戦争に加わるため、宮廷を離れて今荒野に在る。そして
戦争に必要な一切の準備を行った。そしてデウスの教に関わることは、少しもこの準備を妨げない。
お前たちはデウスの教えは重要ではないと考えているが、まずデウスの教えがどんな事を説いているか、
それを聴いた後でこれに関する意見を述べるべきである。」と言った。
大身たちはこの返答にあまり満足しないまま、日向に向けて出発した。

若き王は、老夫人らがその妻に対して計画していることを聴き、その妻とパードレ・ルイス・フロイスとに
書簡を贈り、パードレがしばしば妃を訪問してその決心を固く守らせることを請い、また今後発生すべき
事に関して一切の疑惑を除くため、パードレに対し「自分の洗礼は急がないが、妻には洗礼を授けさせ、
サンタ・カタリナの祝日(11月25日(和暦11月7日)にこの式を行うように」と請い、数回使者を往復させた
後、そのようにすることに決定した。

しかし邪悪なる二人の老夫人はこれを聞くと、「もしそのような事と成るなら、腹を切って自殺する。
強いてキリシタンと成りたいのであれば、王が自らキリシタンと成るまで待つべし。」と言った。

若王はこれを聞くと急いで王妃のもとに行き、その母に彼女がキリシタンと成ることを承認するよう
請い、大いに説得に尽くしたが、彼女は固くこれを拒んだため、若王は怒り、いかなる事があっても
これを実行する決心を成した。

しかしこのように意見対立したため、若き妃はどのように決心すればよいか解らなかった。
この為様々に議論した後、パードレ・ルイス・フロイスの意見に従い、洗礼は中止し代わりに城内に設けた
礼拝堂において、助祭および副助祭列席の上オルガンの演奏にてミサを歌い、これに若王と夫人、
ならびに列席者は非常に満足した。この決定は、洗礼後に転向することが無いようにとの、デウスのお導きに
よるものである。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

家臣から戦時にキリスト教への傾倒を批判されて「宮廷から出て戦争準備に集中している」と反論するも、
尊寿院(ジュスタ)の信仰に圧力がかかっていると知ると即座に戻ってくる義統であった。



傲慢なるゼザベルを罰するに

2019年04月29日 16:45

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/28(日) 22:12:33.03 ID:4q/y0leB
また国王(大友宗麟)は、邪悪なる王妃ゼザベル(奈多夫人)に対して憤懣を感じていたが、彼女によって
多数の子女を有していた故に、やむを得ず多年の間これを看過していた。そうして彼女による、デウスの教え
及びキリシタンに対する憎悪は益々加わり、キリシタンになろうと欲する者を引き止め、既に洗礼を
受けた者には転向を勧め、頸にかけているロザリオまたは彫像を無理に取って火中に投じ、デウスの教え
並びに会堂に対し、罪と偽りを重ね、その子である世子(大友義統)および国王の心を、我らに反対せしめんと
努力するが、かつてその目的を達したことはなかった。

我らの主デウスは正義の友である故に、傲慢なるゼザベルを罰するに、現世において与えることを得るべき
最も大いなる罰を以てし、生命が長引いているだけの死となされ給わった。
老王は長い期間をかけてこの処置の準備をなした。まず居住する家を新たに城外に作り、国の政治を
その子(義統)に譲った後、その家に移り、王妃のもとで仕えていた貴族の一婦人(林ジュリア)、すなわち
その子ドン・セバスチャン(大友親家)の妻の母にして、既に40を越え少しばかり病弱な人を密かに招いて
妻と成し、王妃は城内に留め置いた。

ゼザベルがこの時まで、数多の国の主として城中に於いては大いなる尊敬を受けていたのだが、たちまち
現世の栄誉を失い、以前に彼女に仕えた者が新たに王妃と成ったのを見て、親戚並びに大友家の大身たちは
再び彼女と共に住むよう王に請うたが、その目的を達することは出来なかった。
王妃はこのような不幸に耐えることが出来ず、しかし老王が一度決心したことはそれに固守することを
知っているがゆえに、短刀をそばに置いて自殺せんと計り、このため王女及び親類たちが昼夜これを
警戒した。

(1578年10月18日(天正六年九月十六日)パードレ・ルイス・フロイス書簡)

大友宗麟による奈多夫人離縁についてのフロイスの記録



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/30(火) 10:18:03.84 ID:o0dmuEcy
>>944
この奈多夫人って言う人は、大友の庶流家で国東半島の大豪族の田原氏の分家の娘。
同時に、奈多八幡宮の宮司の娘「要は名門の神社のお姫さま」なんですよ。

有力庶流家に対する政略結婚の意味合いが有ったんでしょうね。
田原氏からの人質の意味もあるし、もし反抗しても分家が大友に付くんじゃ勝てる訳が
無い訳ですよ。

更に、田原氏から見ても家格の問題では最高の相手だから悪い話でもないですし。

で、この離婚って大友氏の水軍が離反し兼ねない大問題なんだよな。
瀬戸内海はさんで、毛利方の村上水軍と睨み合ってる状態。

この悪しきゼザベルは

2019年04月25日 15:05

918 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 20:42:49.55 ID:s59Jl9Ux
この頃世子(大友義統)が臼杵市外に在った時、新たにキリシタンと成った家臣の一人が、殿中に於いて
他の家臣と口論した後、剣を抜いて一人を傷つけ、死に至らしめた。よって大いなる騒擾が起こり、さらに
国王不在であったため事件は一層重大となった。殿中に於いて剣を抜いただけでも、本人並びに近親が
死すべきことは動かすべからざる規定であった故に、この青年はその父とともに逃げた。

彼がキリシタンであったが故に、反キリスト教である王妃(大友宗麟正妻奈多夫人)は、「キリシタンは
主君に仕えないだけでなく、叛乱を起こす者たちである。」と言って、この事件をさらに重大なものとしようとした。

この事件が起こって十五日後、他の新たにキリスト教に帰依した武士が喧嘩の後一人を殺した。この騒ぎの為に
大身および兵士が多数集まったため、国王(大友宗麟)自らこの事件に干渉して鎮圧する事となった。

その頃、世子が新たに帰依した一少年(教名エステバン)に対して不快に感じるところがあり、大身に嫁いだ
世子の姉妹の元に送り、これに仕えさせた。大身は仏の絵を求めることをこの少年に命じた。
しかし少年は答えて「私はキリシタンであるので、そのような絵を求めるために行くことは出来ない。」と
言い、他人を使わせるよう請うた。大身はこの返答を考慮して、遣いに別の少年を行かせたが、彼の妻である
王女は、その母(奈多夫人)と同じくデウスの教えを憎んでいたために、この事を聞いて好機であると考えた。

数日後、特にこの少年を呼び、坊主の僧院に行って、守(mamboris)と称する偶像の聖宝を求めてくるよう
命じた。少年はこれに「私が奉じているゼウスの教えに背く」と答え、他の者を派遣することを請うたが、
しかるに王女はこれを強要し、「もし自らこれを持ち来たることを欲さないのであれば、その家臣の一人を
遣わすように。」と言ったものの、少年は「悪魔のことであり、何の利益もないゆえにこれも成すことは出来ない」
と拒否した。王女は「守を求めに行かないのであれば、命を失うべし。」と言ったが、少年は「たとえ首を
斬られようともデウスに背いて罪となることは行えない。」と重ねて拒絶した。

この頃国王並びに世子は市外にあり、帰還は5、6日後の予定であったため、すぐにこの少年を殺すことは
無かったが、世子は既に国を治めていたため、彼の帰城を待ってこれを処分することと成った。
王妃はこの機会に世子に説き、国王並びに世子の家臣が悉くキリスト教より転向し、以後再びキリシタンに
成る者を無くそうと決意し、直接に国王の元に使者を遣わして、キリシタン一般について、彼らが神および
仏の教えを攻撃する以外のことは行わず、旧来の慣習を破壊し、臣民をして領主に背かせ国を滅ぼすこと、
その他それに類することを述べ、彼らがそのような事を教えているがゆえに、国を擾乱させないためにも、
キリシタンを国外に追放する必要があると伝えた。

この時王妃は、国王を怒らすために一切を出来だけ誇大に伝えたが、王はキリシタンの年来の友で
在ったゆえに、少しもその気持を動かすことは出来ず、王はむしろキリシタンのため弁明し、騒動の火を
消そうと努力された。

919 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 20:43:33.68 ID:s59Jl9Ux
王妃は老王に頼っては何事も出来ないと見、一方世子はその母に対して従順であり姉妹とも親しかったため、
これに頼って目的を達しようと決心した。世子はこれまでもキリシタン及びデウスの教えに好意を示して
いたが、その母および姉妹、その他異教徒である武士たちが多くのことを語ったため、少年を殺すことを命じ、
「キリシタンたちはその主人に服従しないゆえに、今後キリシタンと成ってはならない。」と決定した。

世子が帰ってくる前、少年の父母、親戚及び友人たちは涙と道理を以て少年を攻め、「王女が彼に
命じたことを成し、坊主の僧院へ行って守りを求めるべし。しかれば罪は赦される。」と説得したが、
少年は目を既に天と永久の命に向けており、父母の涙を軽視し、親類友人らの勧告を顧みなかった。
彼らが「今回限りこれを成すと言えば、王女は満足し、以後再び命ずることはない。また臼杵のキリスト教会の
破滅の原因にならないためにも、命令に従うべきである。」とまで言っても、少年は「私は生きたる
石の上に固く立っており、悪魔に仕える者がキリストの建築を倒さんとして起こした風雨の力もこれを
倒壊させることは出来ない。不屈の勇気によって、デウスに背くことは決して承諾できない。」と答え、
創造主のために命を捨てることを大いに喜んだ。

彼は夜会堂へ来た。我らはこれを激励し勇気づけた。いや、彼が堅実なる信仰を以て我らを力付けたと
言ったほうが良いであろう。そして、世子の帰ってくる前にどこかに隠れるよう懇願したが、彼はそれを
成すことを欲せず、「デウスの愛の為死すことを回避しない。」と言った。
結局世子が帰り、その母及び姉妹たちの勧告に従い、彼を殺すことを命じた。
この悪しきゼザベル(奈多夫人への蔑称)は他の武士にも悉く転向する事を命じ、もしこれに応じないので
あれば殺して一切を解決しようと計った。この頃異教徒たちはこれに大いに喜び、キリシタンに対して
様々な事を言ったため、弱き者たちは少なからず恐怖を感じた。

(1576年9月9日(天正四年八月十七日)パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)


「大友宗麟のストライクゾーン」

2010年10月18日 00:00

781 名前:sage[] 投稿日:2010/10/16(土) 23:33:46 ID:o3yvd1kH
>>749 
>>753

の関連です。小ネタで逸話ってほどでもないので、興味無い方はスルーで。

大友宗麟のストライクゾーン」

宗麟が略奪した(と言われる)人妻は、服部右京亮一万田親実の妻たちだ。
服部については、どういう人物か分からないが、一万田親実夫妻には戦場に出るまで成長した息子がいる。
戦国時代の初産の年齢は、早ければ10代前半くらい。
仮に一万田親実夫妻の男子が二十だとすると、一万田親実の妻は三十路半ば。
戦国時代の女性は老けるのが早いが、中には美味しく頂ける熟女がいても不思議では無い。

ところが一万田親実夫妻は結婚して数年間は子宝に恵まれず、
一万田さんが神社に必死に祈願して産まれたのが嫡男・鑑実だ。
と、なると一万田夫人の年齢は、40代前半?ヘタすると半ば以上?
いくらなんでも戦国の40代では、美女でも衰えを隠すのは難しいだろう。


さて、話は飛んで大友宗麟がキリシタンの洗礼を受ける前に、
キリシタンが大嫌いな奈多夫人を強制離婚しているのは、スレの住人なら知っていると思う。
そして新たに未亡人・ジュリアというキリシタンの女性と再婚している。
奈多夫人は嫉妬のあまり嫡男・義統に「二人に子供が生まれたら殺せ!」と言ったと伝えられているが、
夫人が悩乱したのも無理はない。

ジュリア奈多夫人の侍女頭で次男の嫁の生母・・・縁戚だったからだ。
静かな祈りの生活のために、同じ信仰の女性を選んだ。
と、言えば聞こえは良いが、自分の息子の嫁母と再婚するなど、人道上+信仰上も問題あるんじゃなかろうか?
ちなみにジュリアは40過ぎだったそうだ。


「40過ぎで・人妻or未亡人で・母親」がストライクゾーンだったのかもしれない。
いろいろ複雑な家庭環境だったらしい、宗麟の屈折した心境が窺える悪い話。




782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 23:41:08 ID:bSXqVZk4
人妻・後家好きだった武将

家康・・・の他に誰がいる?
信長は典拠史料があやしいからそれ以外


784 名前:sage[] 投稿日:2010/10/16(土) 23:52:18 ID:o3yvd1kH
>>782
つ「ラスボス」

どこまで本気か知らんが、各大名の妻には呼び出しかけてる。
まぁ、自分は後世の創作っぽいと思っているけど、、織田家の女性には年齢に関係なく粘着してるんじゃね?

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 23:58:26 ID:HGceLJ7m
>>781

秀吉「本当に腐ってるな。そんな家は改易してやるよ」

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 00:26:26 ID:RXcHRAdJ
>自分の息子の嫁母と再婚
真っ先に松平清康が浮かんだが、この人の場合あくまで結果だからセーフ。


788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 00:29:49 ID:NWTe7F9E
>>781
女好きだったといわれる大友宗麟
不思議なことに、子供は一人を除いて、なぜかみんな嫡出。

引き篭もって酒色にふけっていたといわれるが、実際には、病気で寝込んでいたらしい。
宣教師の記録でも、病弱だったといわれているし。


790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 00:58:36 ID:/gkmh2nE
なんだ、正室が嫉妬のあまり全員殺したのかと思った