fc2ブログ

弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ

2020年07月01日 17:13

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 21:54:30.51 ID:G1TABAxh
織田信長公より九八郎(奥平信昌)が拝領した刀は、目貫口蓋は、去々年後藤光乗に仰せ付け、京都に於いて
掘られたもので、昔、弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ、それは、女は色に耽る者なれども、
老年なれば面は猿に似て手にあじか(土を運ぶ道具)を持ち、その中にくわえ蕨など入れ、肘に掛け後ろに
袋を負い、前打ち広げて腰を掛けていたる体が書かれており、信長はこれを見給うと、「この図を写すべし」
と命ぜられ、そうして掘られた口蓋であった。

その頃、この図を明智日向守(光秀)が狩野が絵像に写させた所、尽く出来、眼に点入れまでしてあったのが、
一夜の内にこの絵が腐り果てた。この事を明智に申し上げた所、「権者の筆跡を凡夫として写しけるによって、
このように成ったのだろうか。奇特である」と云ったという。

『当代記』



スポンサーサイト



鳥居庄右衛門、安国寺恵瓊を捕える

2016年09月06日 18:13

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 21:48:36.26 ID:kgFzjYKh
奥平信昌の家人であった鳥居強右衛門といえば、無双の勇士であり、長篠籠城の時、援兵を請おうと
必死を極めて城を出て、敵の捕虜となったが遂に使命を遂げて磔にされた事、世の知る所である。
この強右衛門の子に庄右衛門という者があり、武勇有り、才知もまた人に優れていた。

関ヶ原の戦の後、安国寺恵瓊は逃げ去って行方知れずとなり、徳川家康は奥平信昌、および
松平下総守(忠明。奥平信昌四男)に命じて京都を守護させ、安国寺の行方を捜索させた。
下総守の家人たちは、「かの法師が戦況を辛くも逃れた事ゆえ、どんな賤しき者に身をやつして
隠れているかわからない。」と、雑人たちの集まる場所を探し回った。

一方、奥平信昌より恵瓊探索を任された鳥居庄右衛門は、何を思ったのか、陣屋で寝っ転がり、
酒を飲んで過ごしていた。彼に従う兵たちは訝り

「いかに鳥居殿、下総守の衆は夜を日についで恵瓊を探し求めているのに、どうして空しく
日を送っておられるのか?」

庄右衛門、しかし
「なあに、お前たちに解るものか。ただ私に任せておけばいい。」
そう言ってただ酒を飲んでいるばかりであった。

ところがある日、突然起き出したかと思うと
「安国寺を今日こそ捕える!何れも早く用意して従え!」

そう言い捨てると馬に打ち乗り駈け出した。兵たちは
「こは如何に!?鳥居殿は物が憑いて狂ったか!?」
そう混乱したが、しかし打ち捨てておくわけにも行かず、それぞれに得物をひっさげ庄右衛門を
追い駆けた。

二条富小路の大通りに至った時、乗り物厳しげに引かせて、若党2,3人を、これも長い太刀を携えて
従えている者があった。鳥居は馬より飛び降りると

「その乗り物に有るは、安国寺であろう!逃さぬぞ!」

そう声をかけると、かの若党たちはものも言わず一斉に抜き懸ってきた。
鳥居の兵たちも大いに驚き、抜き合って戦った。
この時、鳥居はどうしたわけか、石に躓いて転んだ。安国寺の若党は「得たり!」と拝み打ちに
打ちかけた。あわや鳥居討たれんとしたその時、後ろから馳せつけた鳥居の兵がこの男を
後ろから斬り伏せた。

鳥居は起き上がると乗り物に近寄った。しかしそこではかの若党の一人が、安国寺が捕えられぬよう
ここで首を討とうと太刀を振り上げていた。

ここに、松平下総守の家人・山田半兵衛という者が馳せつけて若党を斬り倒し、安国寺も捕らえた。
「しかし安国寺を見つけ出したのは鳥居の働きである。」人々はそう言い合った。

後に鳥居の兵たちは聞いた
「どうしてあの乗り物が安国寺だと知ったのですか?」

「お前たちは知らないのか。安国寺は法師であるが、心剛なる奴である。死んだとしても、
賤しき者と言われるのは口惜しいのだ。彼は去る人の元に匿われていたが、我らの捜索の様子を聞いて、
『とても免れ難し、同じ討たれるなら昔の姿を失わぬ!』
そう思ってあのような出で立ちをしたのだ。

私はこの事を密かに探り出し、その出るのを待ってあのように討ったのだ。」

「しかし、下総守の家人もあそこにやってきたのはどういう事でしょう?」

この問に鳥居は、何も言わずただ笑っていた。
人々はこのように想像した。「家康公より二家に命ぜられて探索したのに、奥平一家の功にしてしまっては、
下総守の面目が無くなってしまうと考えたためではないか、と。
(話園)



151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 23:16:59.44 ID:vV2TbTzk
鳥居強右衛門さんは息子もかっこいいわ。向こうの鳥居さんとはえらい違いだ。

親たちがそのように仰られるのでしたら

2015年09月16日 13:24

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 21:48:20.45 ID:N7D7UwBE
天正元年、奥平貞勝の嫡子貞能が、武田勝頼を裏切り徳川家康へ仕えたいと申し出てきた。
そこで家康は長篠城を与え、「貞能の嫡男九八郎(信昌)をやがて私の婿にしよう」と言った。

これに対して徳川信康が「とんでもないことです!私の妹婿をどうして九八郎にしなければならないのですか!」
                (存知もよらず。我らが妹むこに何とて九八郎を仕らん哉)
と言って反対した。
それで流石に無理に進めるわけにもいかないので、家康は信長に伺いをたてた。

すると信長は、
「信康のいっていることは聞いた。しかし、貞能・信昌は忠節な人であり、また大事な国境を預けられているのだから、
信康殿は不承知を我慢して、このことは家康に任せた方がいいと思う」と言った。

信康はこれを聞いて
「親たちがそのように仰られるのでしたら、どのようにされてもご存分次第に」
と言い、そうして亀姫は奥平信昌と結婚した。


『三河物語』より、徳川信康が同母妹・亀姫の輿入れに反対した話である
若い信康にしてみれば、自分と同腹の妹はやはり徳川家と同格の大名に嫁がせたかったのだろう、
と小楠和正著『浜松城時代の徳川家康の研究』では考察している
後年の信康切腹につながる家康と信康の対立の要因の一つであるかもしれないちょっと悪い話




319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 22:11:09.81 ID:dLdCnlPM
奥平は、家康に下った(勝頼を裏切った)ために
人質の親戚の娘を勝頼に殺させてるな。
彼女は奥平の息子の妻って説もあるし、それが本当だったら
そんな不実な奴に妹を嫁がせるのが不本意ってのもわかるんだが

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 23:47:58.54 ID:eS4JXMur
新田勝頼だと人質は信昌の許嫁だそうだ
これを勝頼が側女にしようとしたから離反となった
ちなみに離反後に女は自害
正室を殺されてるところに家康から婿にならないか?と誘われれば例え養女だったとしても忠節を尽くすだろうな

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 00:16:45.44 ID:p7XFt/ZS
>>320
新田勝頼ってそれ小説じゃねーか!

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 01:09:00.51 ID:HBSZDQrh
うろおぼえだが軍艦ネタか何かで、
娘は磔にかけられるってオチじゃなかったかな
どっちにしても「勝頼はダメすぎる」エピソードって事なんだろな

家康の長女をもらって、重要な外戚にしてもらえる恩恵を目当てに
嫁を見殺しにしたとしたら
ちょっと悪いどころじゃない、嫌な話だな

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 22:47:15.58 ID:0H+AW7NV
鎌倉時代ですら武士が人質見捨てるなんて別に珍しくも無い話だと思うが

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:02:33.64 ID:gDSzPnL4
一般的に、長篠あたりの奥平親子は
多大な犠牲を払って家康に忠義を尽くしたんだ! 
みたいな美談として語られるが、結局神君史観だし。
彼らに対して悪意のある見解を時たま見る事はある

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:15:21.73 ID:wSbhZ+HO
忠義というより、一度武田を裏切ってるから背水の陣が正解だよな

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:35:01.91 ID:M2E8ScPg
まあ徳川も一度裏切ってるんですけどね奥平家(小声

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:39:02.36 ID:/k3dPX73
う~ん、いわゆる山家三方衆は、それぞれ生き残るのに必死だっただけだからなぁ
もともとどこかの譜代だの被官だのってわけでもなく、かといって周囲の大物を敵にまわして単独で家を守りきれる
わけでもなく…忠義だの裏切りだのっていう簡単な話じゃないよね
武田vs徳川の20年くらい前には、織田vs今川の板挟みになって同族間で血を流した時代もあったわけだし

地理的な話をすると、武田勢って山越えで南下してくるから、一旦兵を引いてしまうと併合した奥三河衆に後詰めできない

武田の大軍が来る→戦力差あり過ぎて徳川に付いても生き残れないから武田傘下に入るしかない→武田勢の一員として徳川勢
を攻撃させられる→時間切れで武田勢が山のむこうのおうちに帰る→武田方の奥三河衆が残される→じっと耐えてた徳川勢
反撃開始→独力では徳川に対抗できない…

このループですよ
越後の軍神が越山してきたときの北関東の諸将の立場と似てるかも

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:44:12.79 ID:9Xb9X2zn
武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候。

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 06:21:30.82 ID:sjJNYcVD
>>324
神君どうこうより、奥平氏が江戸期に都合の悪い話を粉飾しただけじゃないかな。
武田方から離反した理由もそうだし、信昌の偏諱とかもね。

武者之助と”信昌”

2014年07月29日 18:50

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 23:30:41.17 ID:BsmDQudM
長篠の戦いで、長篠城を守り切った奥平貞昌であるが、その後岐阜へ参上し織田信長に謁見すると、
信長も大変に彼の功を賞し、

「貞昌の今度の勲功は武士の模範とも成るものであるから、今後は”武者之助と改名せよ!」と命じた。

そして自分の諱から一字を授け、信昌と名乗らせた上に、様々に引き出物も与えたのである。
(貞享書上)

ちなみに平山優『長篠合戦と武田勝頼』によると、奥平貞昌は武田氏に属していた時点で”信昌”を名乗っており、
信長から偏諱を与えられたというのは、後世の由緒の作り替えだったことが明らかになってしまいました。
武者之助の方は良く解らない。




806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 23:37:51.81 ID:x22v6+Li
そうするとすねえもんの件もますます怪しいな

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 23:51:39.00 ID:BsmDQudM
>>806
鳥居強右衛門の逸話に関してその実在を疑う史料は無いよ。

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 03:09:05.33 ID:e+lsAxNH
それは悪魔の証明ですな

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 07:35:58.36 ID:sbrNR4O7
長篠の戦いの基本史料になっている「三河物語」に記述されてる話を疑うのなら
それ相応の根拠を出してもらわないと

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 16:14:37.18 ID:RxBownd+
鳥居強右衛門の息子の信商が安国寺恵瓊を捕縛して200石貰っとるじゃんね

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 16:38:17.13 ID:xo35E/EU
信長「信昌には我が名より「信」の拝領を許す。只今より信信と名乗るがよかろう。」.

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 17:05:25.69 ID:Wp1J/1RO
覇王伝かよ

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 17:26:31.76 ID:minMzll6
シンシン

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 17:26:35.32 ID:ZmAExvn7
晴信の信の線はないかな、やっぱ

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 17:50:08.43 ID:Vr+xRufE
あるでしょ

奥平九八郎定昌への報奨

2013年01月02日 19:59

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/02(水) 17:58:47.11 ID:+IA7Ri5i
長篠の籠城後、奥平九八郎定昌が徳川家康に召し出された。
家康は「定昌は若年の身で、数日の間小勢をもって大敵を引き受け、
城を保ったこと、誠に例なき働きというべし」と、大いに感心した。

またその七人の家長等を召し出して今回の忠節を賞し「お前たちの
子孫は後代に至るまで見参を許す」と仰せ付けた。今、奥平の家人が
毎春謁見を給わるのはこの例に由来するという。

定昌には知行が下されたほかに、姉川の戦いで家康が織田信長より
授けられた大般若長光の御刀が下された。また信長の意見により
家康の長女・亀姫が定昌に降嫁された。

その後、定昌は岐阜へ参り信長に謁見した。信長もいたく定昌の功を
賞して「定昌の勲功は武士の模範である。よってこれからは武者之助と
改名せよ」と言い、自らの一字を授けて奥平信昌と名乗らせた。
その上、様々な引出物が与えられた。

――『徳川実紀(貞享書上)』




944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/02(水) 18:33:43.02 ID:FXzR3J1h
奥平さんちって家康の若い頃からの家臣なのに微妙に影うすくない・・・?
信昌なんかかなり活躍してるはずなのに

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/02(水) 18:40:09.26 ID:/+rp+lf6
そういえばお笑いコンビの学天即ってのが前々回のTHE MANZAIでやっていた漫才の落ちが

「あ、そうだもう一人大河ドラマでやりたい役があるんですわ」
「ほー、で誰や?」
奥平信昌、初代京都所司代」
「だから誰やねん!」
「「どーもありがとうございましたー」」

それなりに有名のはずなのに

奥平信昌と奥山流

2012年12月05日 20:41

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 23:47:45.25 ID:0sXiHcq5
姉川の戦いで奥平信昌は二騎を斬ってその首を実検に備えた。徳川家康が感心して
「若年の小腕で寄功を奏したな」と言うと、信昌は「戦闘の道は剣法の巧拙にあります。
筋力の強弱にはよりません」と答えた。家康が重ねて「お前は誰に剣法を学んだのだ」
と問うと信昌は「奥山流を学びました」と答えた。

「ではお前の家臣の急加斎に学んだのだな。私も若い頃はその流派を学んだが、
近頃は軍務が忙しいので久しく怠ってしまった。こたび帰陣のうえは必ず彼を召して対面しよう」

急加斎は奥平貞久の四男で孫次郎公重と称し、上泉秀綱の門に入り神影流の剣法を学んで
奥義を極め、三河奥山明神の社に参籠して夢中に秘伝の太刀を授かりこれより奥山流を唱える。

かつて家康はしばしば岡崎に急加斎を召して演習したが、この後に信昌より召して
重ねて急加斎に学び、誓書を下して家臣に召し加えるとの御書を賜った。

また家康は三河で有馬時貞は新当流の剣法の達人と聞き、時貞を召してその奥義を伝授させた。
家康は時貞に青江の御刀を下して領地を与えたが、後に時貞が死んで嫡流が絶えると庶孫の秋重に
家を継がせ、紀伊家に附属させた。

――『徳川実紀(奥平譜、貞享書上)』




678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/05(水) 00:26:51.09 ID:1p817mw8
奥平って、姉川のあとすぐに武田に付いちゃうんだよね
まあ仕方のないことなんだけど

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 00:08:05.84 ID:+8ZHISA4
あれ、関ヶ原で小早川の目付に奥平ってのがいたような

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 01:35:49.57 ID:s2KfBwvj
いるよ
なぜか部隊長にさせられて戦死しちゃったけど
いきなり自分のじゃない部隊の大将にさせられても誰も守ってくれないもの
そりゃ戦死するよなあ

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 08:45:09.89 ID:JWker3cg
>>680
なんて不幸な

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 13:37:35.30 ID:9PC/hN//
いや、奥平貞治は軍監なのに(むしろ軍監だからか)自ら率先して
小早川隊の前線に立っちゃったからね

正しく獅子奮迅の働きだった
でも悲しいかな貞治に子は居らず居その戦傷死するほどの働きに報いる
恩賞を受け取れる人は老いた母が1人だけ

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 14:39:10.03 ID:OQszhWaW
確か生母に恩賞与えていたはず1000石だったかな?
老母一人ではかなりの贅沢が出来るな軍役もないだろうし
でも母親からしてみれば恩賞無くても生きて帰って欲しかっただろうな

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 15:30:22.99 ID:jLcJ7819
正純さん失脚の遠因のばっちゃんとはまた別の人なのね~

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 16:14:35.98 ID:9OcRHLoP
小早川隊の先鋒の松野主馬が
「寝返り(・A・)イクナイ!」
って戦線離脱してしまったので、代わって奥平貞治が松野隊の指揮を
とることになったんだよね

徳川からの再三の催促の末にやっとこ小早川を動かしたという経緯上、
徳川からの軍艦という立場的に、こりゃ俺が死ななしゃ~ないな、と
いう感じだったのではないかと

徳川の軍監死なせて、ぬるい戦い方はできないからね、小早川も

あと、貞治って途中で、ラスボスに乞われて引き抜かれて黄母衣衆に
なってたことも
よっぽどの武者だったんでしょう。

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 17:56:22.86 ID:MO3aVlm3
>>685
改めて思うけど生き死にに関してこの時代の人は凄い考えだよな…

奥平貞昌(信昌)妻、おふう

2011年06月08日 00:00

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/07(火) 16:08:59.69 ID:EE+9r9yY
有名な話だがまとめに載っていないようなので。
もし既出だったらすまぬ。


奥平貞昌(信昌)は長篠の戦で長篠城を守り抜き、戦後、徳川家康の長女亀姫を嫁に貰い、
目覚しい出世を遂げるに到ったが、実は亀姫を迎える以前に既に妻がいた。
先妻は一族である日近奥平貞友の娘でおふうと云った。

元亀年間の奥三河地方は、武田信玄の侵攻により揺れ動いたが、信昌の父貞能は武田に
降ることを決意、その証として人質を要求され、おふうは貞昌の弟の千丸(千千代)らと共に
甲斐へ差し出された。

元亀4年4月、武田信玄没。信玄の死を察した貞能父子は密かに旧主家康と連絡を取り、
徳川家帰参を決意する。しかし貞昌はおふうに未練があったのだろう。土壇場になって
貞昌はおふうを離縁する。最早、自分の行動には無関係だから助けて欲しい、という
想いからであった。だが、そんな理屈が通る訳も無く、おふうは千丸らと共に奥平氏の
本拠にほど近い鳳来寺口で処刑されることとなった。天正元年9月のことである。

処刑の前、おふうはこう述べたという。

「来世で自分は畜生に生まれたいと思います。
 畜生はおのれに正直に生きていけますが、人は互いに騙し合わねば生きていけません。
 人は畜生以上に浅ましいものでございます。」

そして、義弟とともに二人とも取り乱すこともなく磔になったという。
この時、おふう16歳、千丸13歳。

おふうの言葉を貞昌らはどのような思いで聞いたのだろうか。
一説によると、おふうは貞昌の妻と偽って人質として差し出されたともいわれるが、
それが事実だとすると、より一層重く感じられる。


おふうの首は彼女の乳母らの働きにより、故郷の日近城まで運ばれて供養された。
よって、墓は処刑地と故郷との二つ残っている。





545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/07(火) 19:36:51.52 ID:BloaH9dB
武田勝頼の小説で同じの読んだな

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/07(火) 19:38:15.63 ID:N4zy4Swr
山岡徳川家康でも読んだ気がする
…あれ?畜生がどうののくだりあったっけかな…

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/07(火) 20:09:47.14 ID:TToERA0w
悲しす…。

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/07(火) 22:06:45.98 ID:dXyWWEq/
宇喜多直家 <なんと酷いことを・・・

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 00:11:15.21 ID:upmz04nA
宇喜多さん、暗殺した相手の子供や暗殺の実行者に気を使ってるからなぁ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 00:21:32.07 ID:PoAllp5c
って、世間に思わせるのが宇喜田の実に巧みなところ

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 00:47:02.74 ID:wdbSehIQ
印象操作も万全とは直家恐るべし
大悪人と呼ばれて開き直ったあげく、爆死した弾正とは一味違った腹黒さ

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 01:03:45.42 ID:wZQevNR4
心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ

こんな清々しい心境だったのかもな

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 03:36:14.40 ID:oEEbxcpv
>>540
立花宗茂はこれをどんな気持ちで聞いてたんだろうな

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 04:09:46.12 ID:i6mo1kAZ
>>553
宗茂に関しては、関が原の後、豊臣家は立花家を見殺しにしようとしたからなあ。

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 08:03:14.75 ID:vCKzNtt+
関ヶ原当時の豊臣家って誰がトップなん?淀殿?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 08:08:13.26 ID:FyUU9oWf
マジレスすると家康

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 08:54:17.47 ID:mJgqwUK5
他の五大老はみんな自領へ戻ってたんだっけ
各家それぞれ事情があって長く領地から離れてるのは難しかった
家康だけ全てを任せられる息子がいた

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 09:01:56.84 ID:vCKzNtt+
豊臣家が家康に乗っ取られてたから、家康のやりたい放題だったわけか
耄碌してたんだろうけど秀吉も馬鹿だねぇ

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 09:24:47.12 ID:8Na+Ks+J
豊臣家、というのなら淀かね
豊臣政権、というのなら利家死去・七将襲撃・三成引退以降は家康

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 09:30:55.93 ID:RJpf3ei7
どうも日本史は権力構造を把握するのが面倒だよな
朝廷内の一貴族である足利将軍の管領の細川氏の宿老三好家の家来の松永久秀が真の支配者とか
傍から見たら訳が分からんぞ

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 09:33:48.93 ID:eYDIUQvS
現代に至るまで
日本じゃ一番有能な奴がトップに立つことが少ないし。

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 11:08:31.01 ID:SyJAfvx0
どの国もそうなのかもしれないけど、トップが御輿になっちゃうんだよな
皇室ー藤原家
鎌倉幕府ー北条家ー長崎家
尊氏にしたって、高兄弟が足利家を飲み込みそうな場面があったもんな

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 11:24:03.72 ID:WmDUoNU+
>>553
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4873.html
の逸話とか見てると「義を捧げ賭ける場所で全てを出し切らずに今更何やってんだ」みたいに思ってるかもね。

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 11:29:12.50 ID:PoAllp5c
偉い人は神棚に、みたいなとこがあるからなぁ日本は
位の高い人が有能とは限らないから権威だけもたせるっていう知恵なんだろう
今では偉くて有能な人って待ち望まれてる気配があるけどw

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 11:40:00.09 ID:WRD7uC62
実は徳川幕府はかなり将軍に権力が集中する仕組みだった。
鎌倉幕府における得宗家、室町幕府における京兆家のような、将軍家を越える
門閥家系はついに現れなかったし、機構上の責任者である老中よりも、将軍の近習である
側用人等のほうが権力を持ち得たのも、将軍の君主権が仕組みとしても強大だったため。