岡本加介の討ち死に

2017年04月20日 21:18

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 22:57:07.47 ID:NUslccIW
豊臣秀次の家臣であった岡本加介は、長久手合戦でも功のあった人物で、
後に松倉豊後守(重政)に属した。

大阪冬の陣の折、大阪城中より鉄砲をつるべ撃ちすることがあり、幕府軍の先手が騒ぐ時、
岡本は一番に進んで城際まで付くと、さらに先に人が居たので追いかけてみると、
それは同じ家中の奥田三郎右衛門であった。

このつるべ撃ちは、敵の攻勢などにつながるものではないと判断し、両人連れ立って帰ったが、
松倉隊は備えを丸く立て臨戦態勢を取っていた。そこで両名が帰って報告し、備えを立てるまでもない
状況だと解った。

この奥田と岡本は、夏の陣では松平下総守(忠明)の陣を借り前線に出て、6日の早朝にそろって討ち死にした。

岡本加介は、後藤又兵衛を必ず討ち取ると言っていた。その故を人から尋ねられた時
「後藤はいつも一番に先に出る者であるから、私は魁してこれと打ち合うのだ。」
と答えたという。

果たして岡本は、後藤が討ち死にした場所から6,7間(約10~12メートル)ほどの近接した場所で、
鉄砲にあたり討ち死にを遂げた。
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小松山合戦の関東武者

2012年07月21日 20:51

518 名前:小松山合戦の関東武者1[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 15:15:00.67 ID:PJw4IN28
大坂夏の陣の時、水野勝成を先鋒とする徳川軍は道明寺の小松山に布陣した。
遅れて到着した豊臣方の後藤基次の軍は小松山奪還のため攻めてきた。
猛将の基次の攻撃に耐えかねて徳川軍は退却したが、徳川方の奥田三郎右衛門のみは
悔しがって「彼も人 我も人なり、恐れるに足らず」と手勢を率いて突進した。

520 名前:小松山合戦の関東武者2[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 15:21:08.91 ID:PJw4IN28
荒猪の狂うに似たりと記される戦いぶりで、さしもの後藤基次も顔色を失った。基次は
「撃て、鉄砲で打ち取れ」と鉄砲隊に一斉射撃させた。全身蜂の巣にされながらも
三郎右衛門は突進をやめなかった。これを見た徳川方は奮い立ち、「関東武者の意地を見せよ、
三郎を見殺しにするな」と後に続き、ついに基次の部隊は退却した。三郎は後を追おうと
したが倒れた。三郎の命はとっくに尽きていたのだ。




522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 15:56:13.42 ID:xokxdCNh
徳川軍が先に小松山にいたってバージョンがあるのか