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雑談『松隣夜話』について

2020年02月23日 15:18

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 22:24:39.90 ID:hdagg7Kr
松隣夜話が作られた時代には織田・豊臣関係は資料が豊富そう
他の大名家はホントに縁がないと資料当たるの難しそう

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 04:47:02.37 ID:CvAbB6Xc
おおかた上杉綱憲の御用学者が書いたんだろ


676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 16:26:46.06 ID:Se+Xrkr1
>>674
松燐夜話は、原文読むと解るが、基礎的な年代の間違いや文字の当て字がやたら多く、御用だろうが「学者」の書く文章ではない。


677 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/22(土) 21:48:18.77 ID:UAGwNXpj
松隣夜話の作者と目されるひと
宇佐美勝興
1590-1647 江戸時代前期の兵法家。
天正(てんしょう)18年生まれ。越後流(えちごりゅう)軍学の祖といわれる宇佐美定満の孫。
尾張(おわり)名古屋藩,常陸(ひたち)水戸藩をへて,寛永19年紀伊(きい)和歌山藩主徳川頼宣(よりのぶ)につかえた。
正保(しょうほ)4年11月死去。58歳。
名は別に良賢。通称は造酒介(みきのすけ),神徳左馬助。著作に「武経要略」。

678 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/22(土) 21:52:24.28 ID:UAGwNXpj
石高半減で意気消沈の上杉家が士気向上のために手を組んだのは勝興の子の定佑
綱憲はまだ幼少の時期なんで実際に動いたのは親族の畠山や吉良

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 22:09:53.31 ID:8PWSc/4Q
WIKIみただけだと宇佐美定満の子孫というのがまず嘘っぽい?
甲陽軍鑑に対して上杉方の主張として支持得たのかな

680 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/23(日) 11:14:07.60 ID:Cyp6b3ac
ウィキペディアのコピペ

定行の活躍を伝える『北越軍記』の作者は、紀州藩初代藩主徳川頼宣に仕え、越後流軍学を講じた軍学者宇佐美定祐と考えられる[27]。
そして定祐の父・宇佐美造酒助勝興は、宇佐美家に伝わる系譜類によれば、定行の孫つまり勝行の子とされる人物である。
勝興は駿河を経て、尾張藩主徳川義直に仕官したが、喧嘩の仲裁結果が義直の意に沿わなかったため尾張を出た。
その後、水戸藩主徳川頼房に400石で召し抱えられたが、讒言によって水戸を去り、徳川頼宣の許に
至ったと系譜類は伝える[要出典]。

681 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/23(日) 11:15:42.32 ID:Cyp6b3ac
一方、小幡景憲門下の軍学者小早川能久の記した『翁物語後集』によると、宇佐美三木之助(造酒助勝興)は
稲垣重綱に仕えた料理人の子であり、のちに重綱の右筆となって、当時編集作業中であった『甲陽軍鑑』の筆写を任されるが、
無断で作成した副本を持ち出して出奔。
駿河を経て、徳川義直の許にいたが、足軽の女房に手を出したのを咎められて尾張を逃げ出し、その後、
水戸を立ち退いてからは行方知れずになった、とする。
水戸を去った経緯については、頼房への仕官の話を聞きつけた上杉景勝が旧臣の家系を抱えることを望み、確認のため
かつて謙信に仕えていた畠山義春に問い合わせたところ、定満は子を残さず没したことが判明。
まとまりかけていた仕官の話は立ち消えとなり、勝興は紀州へと去った、とする記録もある。
また、代々宇佐美家には、定行あるいは勝行の数々の軍功に対して出された上杉謙信・豊臣秀吉・小早川隆景ら
著名な大名による感状が伝えられてきたが、これら書状群は偽文書の可能性が高い[要出典]。

これらの点から、宇佐美家とは血縁の無い勝興・定祐の父子は、系譜・書状の偽作や『北越軍記』等の
軍記物の執筆によって、名軍師宇佐美定行を創出するとともに、その定行を祖とする越後流軍学を引き継ぐ
宇佐美家の子孫という由緒を手に入れ、紀州藩お抱えの軍学者になったと推測される[要出典]。

Wikipedia宇佐美定満
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%BE%8E%E5%AE%9A%E6%BA%80


682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 01:49:01.73 ID:JOhHi9yw
地元の藩は江戸時代の主流は甲州流でしたけど、役にたたんといって幕末に戦国時代の軍法とかを元に再編、更に西洋式に移行しましたけど
それより後に成立した軍学はやっぱり怪しい臭いがしてきますね

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 02:22:24.80 ID:ootvZVAh
歴とした戦国武将で関ヶ原、大坂の陣にも参戦し、
大身の旗本になった小幡景憲の甲州流軍学さえ怪しいもんなんだから、
江戸時代に成立した越後流、楠流といった軍学はちょっとねえ…
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しかしこの宇佐美の説は信用出来ない

2015年12月13日 12:34

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/12(土) 17:53:38.04 ID:4J3NGZ8K
宇佐美定祐(越後流軍学者)の記した『北越軍記』によると、上杉謙信は兄の六郎を討った後、
「兄を殺して国を得れば嫡を奪うようなものだ。私は国に望みはない」そう言って出家し、宗心と
号して高野山に赴こうとしたが、家臣たちに諌められ止められた。そこで
「兄を殺してその世嗣を絶った以上、わたしも世嗣を絶つべき!」と堅く誓い、また兄を殺した罪を
懺悔して、肉と色を絶ち、一生持戒し、後に謙信と改めるとある。
(中略)

しかしこの宇佐美の説は信用出来ない。兄を殺してそのまま出家した、というのもいかがなものか。
輝虎は初め弾正大弼に任じられ、従四位下に叙し、天文20年、管領職に補任されたあと、入道して
謙信と号し、権大僧正の位に任じられている。

また肉と色を絶った事は、夏目定房の記録(上杉記)の中には
『謙信常に持戒して潅頂を行うことおおよそ4度。或いは護摩を修し、或いは参禅して
肉と色を絶ったため、子無し。』
と書かれている。ここからは家を簒奪したという疑いを避けてそのようにしたとは見えない。

私が考えるに、弓矢の冥助を祈ってこのような外法を行うのは、昔の人にはよくあった
習俗である。それに謙信の遺言、葬る有様、また、現在の上杉家において、謙信の像に
仕える儀範を聞けば、彼が罪障懺悔のために持戒したなどとはとても思えない。
あまりにも弓矢の冥助を深く思いいれて、あのような行法をしたのだと推定される。

そうであるのに、兄を殺したためだなどと言われるのは、不幸な事だと言うべきであろうか。

(藩翰譜)

新井白石先生、上杉謙信にまつわる俗説を斬る。