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戸川秀安の最期について

2022年07月18日 16:13

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/18(月) 14:38:41.02 ID:3H39QenK
天正十年には、東、北の諸国は概ね静謐となり、織田信長公は在洛されていた。
戸川秀安はその頃病気を患っており、東国が治まった事で、関東草津の温泉に、療養のため赴いた。

そのような所に、秀吉公が備中高松城を水攻めにされ、宇喜多家より危急の通告があり、
帰ろうとしている所に、信長公父子が御不慮の横死(本能寺の変)に及び、諸国一統に騒動し、
東海北陸のあたりは殊に全く通行すら出来かねる有様で、秀安も心ならずも草津に、四月から八月まで
逗留し、八月に上方に登って秀吉公に拝謁した。その後も大阪に詰めていたという。

しかしながら彼は病気のために、年々御陣にも出られないことが多くなった。
天正十四、五年頃に、宇喜多秀家公の重臣、四、五輩が受領を仰せ付けられ、秀安も叙任し
肥後守となった。
暫くあって病気を申し立て、受領を嫡子助七郎達安に譲り、自身は入道して友村と号し、児島常山の麓に
引き籠もり、茶湯、連歌、並びに文章を楽しんだ。
日々日蓮宗を崇み、病が進んだ後は仏道の外、他事無かった。
備前の宇喜多家家臣で古老の面々は、残らず日蓮宗を尊崇していた。

慶長二年八月六日、秀安は死去した。これは嫡子である肥後守達安が高麗陣のため留守をしている間の
事であった。常山に葬られた。その場所には今も、石塔がある。
法名自任斎坊授友林と号した。

惜しいかな、彼には生涯の行状記が無く、その悉くを知ることは出来ず、僅かに十のうち一つを
ここに挙げるのみである。
秀安の扶禄は二万五千石、外に預かりとして五十人組、凡そ合わせて六万石、人数三千の先手備えにて、
宇喜多直家第一の重臣であった。

戸川記

戸川秀安の最期について



298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/18(月) 15:40:06.22 ID:/AevqENK
危急の通告て何やろ
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この勢いに忠家は辟易し

2022年07月16日 15:55

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 10:09:10.24 ID:/LXbNVQQ
宇喜多忠家(直家弟・入道後、号安心)は、小野田四郎右衛門(直家家老分の者也)を討った。
これに直家は大いに怒り、忠家はそれを恐れて富山城へ引き籠もり、直家が呼び出しても
出てこなかった。その様子はもはや謀反であると見え、これについて重臣である
岡豊前(家利)、長船越中(貞親)などは、日頃忠家との関係が悪かった事もあり、これを幸いと
直家に「御果たすべきです。」との旨を讒言した。

しかし戸川秀安は、忠家の乳母の子であった故にこれを嘆き、
「この事、それがしにお任せ下さるように。」
との旨を直家に願い、富山城へ向かった。しかし彼は忠家に対して一言の教訓にも及ばず、
偏に城攻めの用意をして、富山城の周囲に仕寄を付け井楼を用意し、夥しい攻戦の勢いを
奮い見せた。

この勢いに忠家は辟易したのか、起請文を出して降参した。
秀安はこれを取り繕って和睦を整えた。

これは秀安が、忠家が日頃から物に驚くという気質を能く知っていたためこのようにしたのだという。

戸川記

直家の前に出る時鎖帷子を付けていたという忠家ですが、ガッツリ後ろ暗いことやってたんですね。



542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 13:58:17.49 ID:V+56qfjT
宇喜多は上から下まで悪い話ばっかりだな

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 16:16:43.39 ID:wL7omZe+
そりゃあ防御を万全にしないと兄貴に会えんわな

544 名前:人間七七四年[時期は] 投稿日:2022/07/16(土) 19:12:18.40 ID:KA9Iku8U
というか主が稀代の大悪人なら、家来に善人が揃うものかというのが素直なとこだよね

性質廉直、柔和にて仁慈あり

2022年07月15日 17:00

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/15(金) 11:54:08.91 ID:BM9I11l+
戸川秀安は性質廉直、柔和にて仁慈あり、故に政事賞罰の事について、主君である宇喜多直家
不直が有る時は、何度も押し返し諌めて正理に行い、またこれ故に人々は彼を敬い懐いた。

岡平内(家利・後豊後守)と長船又三郎(貞親・後越中守)は共に短慮であり、どうもすれば
口論に及んだが、秀安はこれを宥め諭し、

「この三人が不和になった時は、主家破却の基であるぞ!」

と涙を流して説得した。故に両人も和平したという。

また、宇喜多直家は表裏有る将であり、時々、相違う事が多いことを隣国も知っていて、
宇喜多と何かしら議する事が有る時は、彼らは戸川秀安から起請文を乞い取ってこれを
実であるとした。

戸川記

宇喜多家における戸川秀安について。



戸川秀安とその母

2022年07月13日 18:49

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/12(火) 23:28:11.92 ID:QkyA8lng
戸川家の濫觴は、その祖を塀右衛門秀安と云う(幼名平助)。備後国門田という所の産まれであり、
父は門田某(姓氏不肖)、天文七年に誕生し、五歳の時父が死に、母の介抱によって備前に漂白した。

二歳の妹があり、母はこれを懐にて養育していたが、母が熟考するに、「今、乱世に男子たるものは
運を天に任せていかなる立身をもすることができる。あわれ平助を世に在らせたい。」と念願し、
先ず、この女児を携えていては足手まといになり平助の妨げと成ると、とある池に女児を沈め殺した。

それより平助は独り息子となり、作州に富川某という入道があって、彼は母の姉婿であり名の有る者で
あったので、彼を頼もうと思い作州へ頼り行き、入道に事情を話すと、入道は平助を見て、
「未だ嬰児ながらただならぬ所がある、後に家を起こさないような者では無いだろう。」と思い、
甲斐甲斐しく請け合い、養子として富川を名乗らせた。
母は悦んで平助をそこに残し、自分は再び備前へと帰った。

その頃、宇喜多興家は備前の守護(原文ママ)・浦上備前守宗景に仕え、邑久郡音湖の内に於いて、僅かに
三百貫を領し小身であったが、次男忠家が産まれその乳母を求めており、かの平助の母を召し抱えた。
この女は生来才発にて主人の心にかなったため、興家は家事を尽く彼女に任せるほど甚だ寵愛した。

そのような中、作州では干戈が起こって富川入道も死に、その妻であった母の姉も死に臨んで、姉が
帰依している僧に平助を託した。この僧も了解し、平助を連れて備前に出て実母へと渡した。
主人である宇喜多興家はこれを憐れみ、母とともに召し使う事にした。幸い嫡子直家も未だ幼かったため、
平助は直家の伽として扶助した。(平助は直家の五歳下である)

忠家が成長すると、乳母であった母は宇喜多家来の岡惣兵衛方へ、主人より嫁ぐよう命ぜられた。
ここにて彼女は男子三人、女子三人を産んだが、その後は子供のことは大抵にして、母は秀安を
取り立てる心からか、彼女は女ながら軍陣にも慣れており、子供に具足を着せ、駆け引き進退の事なども
教えたという。

ある時、夫子供が留守しているのを知って、強盗が大勢来る音がしたが、そのまま絹張の箙を取り出し
矢束ねを解く音をさせ、その後静まり返って人を呼び集める体を成した。
強盗たちはこれを外で聞いて、恐怖して逃げ失せたという。

このようなけなげなる女ゆえに、秀安を思いのままに産み立て、後年宇喜多家の長臣となり、飽きるほどの
武功を立てたのは、偏に母の功であるという。

(中略)

秀安は後年受領して肥後守と云った。また富川を戸川と改めた。
そしてこの母は長寿にて、孫の肥後守達安が備中国庭瀬城に在った頃まで存命し、諸人に尊崇され、
慶長八年、九十三歳にて死去。法名妙珠と云う。

(戸川記)

戸川秀安とその母について。全体的にはいい話なのだけど、この母エグい



明善寺合戦の結果とその後

2020年04月06日 18:31

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/06(月) 11:46:11.89 ID:BkVvfKNP
宇喜多直家による三村家親暗殺を受けての、三村と宇喜多戦い、妙善寺(明善寺)合戰において、
三村家は大敗した。)

今回備前に押し入った三村勢二万余の人数は、大方(部隊を分けた)三方にて討ち死にし、生き残って
備中に帰った者は十の内二つばかりであった。これは『備前の妙善寺崩れ』といって、宇喜多直家
一代の間、所々の合戦は数限りなく度々であったが、敵を多く滅ぼしたことは、この合戦を第一とした、
直家一代の勝利であった。

さて、三村は是非無く備中へ帰陣して鬱憤未だ散ぜず、毛利家へ訴えて、いかにもして宇喜多を討たんと
謀っていた所に、直家は毛利家へ段々と手を入れ、諂って旗下になり、
「別心なく上方案内して。天下に御旗上げらるるに、御先手仕らん」
と言い込んだ。

その時分、三村家は、また毛利家に少し快からぬ事などがあり、その関係は睦まじからず、
そして丁度宇喜多より「三村を御放ち下されれば、愈々御旗下に参らん」と云ってきたため、
毛利家は終に宇喜多の望みに任せて宇喜多と和睦して備前美作を宇喜多に渡し無事と成った事に、
三村は愈々立腹して毛利家へ恨みを含み、終に三村は毛利家のために備中松山の城にて討たれた。

さて、備前と毛利家が和談と成って後、毛利家より
「いつぞや三村勢備前へ乱入の時、妙善寺(明善寺)城、また上道郡にて備中の諸士が数多く
亡くなったこと、それらは皆毛利家への奉公の者であり、不憫に思う故、弔いをしたいと思う。」
との意向が備前へと申し来た。これに直家も「尤もである。」と申され、多くの僧に供養させ、
討死の諸士の亡魂を弔った。

そして宇喜多より申し付け、『湯迫村、出田村辺の者共、毎年七月十四、十五日には、その辺りで大勢
討ち死にした諸侍の亡魂の弔いのために、万燈を燈して生霊を慰めるべし』と申し付けられ、これより
毎年七月に、万燈を燈すこと怠らないと聞こえる。
そして澤田の西と八幡村の北のあたりに、かなたこなたに有る首塚は、皆この時の塚である。

妙善寺合戰記

明善寺合戦の結果とその後



895 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/06(月) 13:53:37.03 ID:Xm3x3/d+
宇喜多も三村も毛利の手のひらで転がってた小物くさいな

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/06(月) 18:15:39.49 ID:iVPuV+9Z
尼子が滅びてバランス崩壊

三村家親暗殺事件について

2020年04月05日 17:13

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/04(土) 19:49:08.24 ID:q+WRfr9i
備前、美作は残らず、播磨国数郡、備中の河東残らず、合せて百余万石を従えたのが、宇喜多和泉守直家、
岡山の城主である。

直家が未だ備前一国を手に入れて居ない時、上道郡沼城におられた。しかし備前は既に大方手に入れており、
徐々に美作国所々を切り取った。その頃、美作は雲州尼子家の支配下に有ったが、尼子は安芸の毛利に
押し落とされ、作州も毛利の手下に属した。その隙きを見て宇喜多は所々切り取り、備前に奪い取った。

毛利はこれを聞くと、毛利家より備中松山の城主、三村紀伊守家親に申し付け
『作州へ出勢して、作州を鎮めるように』
として、紀伊守は一万余の人数にて出勢して、宇喜多を討ち果たし作州を取り鎮めようとしている、
との事が備前に聞こえた。宇喜多直家はこれに思った

「今、所々で取り合いをしている最中に、三村は大敵であり、簡単に取りひしぐ事はできない。
である以上、謀を以て討ち取らん。」

そう考えると、遠藤喜三郎(秀清)という侍に密かに申した

「其の方は三村家親が備中成羽に在城していた時、其の方も成羽に在って、良く見知っているという。
今度、三村の元へ密かに忍び入り、討ち取る手立は無いか?一重に頼み入る。」

このように申されると、遠藤は心安く請け合い、喜三郎の弟、修理(俊通)とただ二人で作州へ忍び行った。
三村は作州穂村興禅寺(興善寺)という寺に屯して居たのを、遠藤兄弟は忍び入り、頃は八月十八日の夜、
宵の内に三村は家臣を集め、物語していたのを、障子紙を破りひそかに鉄砲にて三村家親を撃ち殺し、
恙無く退出して、兄弟とも備前に帰った。

直家は大いに喜び、喜三郎には十万石の知行を宛てがい、彼は遠藤河内守と名乗った。
弟の修理には三千石の知行を給わった。
三村勢は主を討たれて、作州より崩れて備中へと帰った。

妙善寺合戰記

三村家親暗殺事件について



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/04(土) 21:29:31.17 ID:CHhZfdrW
100万石って、盛りに盛ったな…

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/05(日) 00:13:22.74 ID:PDO/dKKm
「ひとえに」って漢字で書くなら「偏に」だぞ

951 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/06(月) 20:41:35.34 ID:ecJp4yJv
まーどう考えても百万石は無いw

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/06(月) 22:55:54.42 ID:SU3aREEw
明善寺合戦記っていつ頃の刊行だっけ

三村家謀反

2019年12月28日 16:24

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/28(土) 12:32:23.90 ID:MegngOMD
ここに源家の末葉、備中守護、松山の住人である三村修理進元親が、先父・家親の亡魂を休めんがために
よしなき謀反を企てた。その発端は、将軍・足利義昭が既に西国に御下向あって、中国は悉くその武名に
傾き、御帰洛の謀がしきりと聞こえてきたため、京の平(織田)信長は驚き、謀を廻らして、当国の
元親に密使を立て、自身に味方すれば備後備中両国を宛行うと伝えた。

これに三村元親の一族が馳せ集まり「これぞ願う所の幸いである。何故なら父・三村備中守家親は累年
宇喜多(直家)に遺恨を含み、数回に渡って戦ったが、宇喜多の一族である河内守(遠藤秀清)が備前の
徳良城に在って、家親を暗殺し、剰え当国佐井田庄に攻め入り嫡子・少輔元祐も討ち果たした。
その二代の怨敵を追討する時を待っていた所に、信長より一味を求める使いを得た。急ぎ微運の大樹(足利義昭
を攻め討ち、忠を尽くし功を立て、信長の助力を以て宇喜多一族を攻め滅ぼし、一家鬱憤の眸を開くべきである。」
そう躍り上がって一議した。

ところがこの中で、同国成羽城主・三村孫兵衛尉親成、同男子孫太郎親宣はこれに同意しなかった
「父の怨敵を討つのにどうして他の力を借りるのか。凡そ武士は忠に止みて仁義を宗とする。たとえ君が
無道であったとしても臣は臣たるべきを道とする。信長の虎狼の謀に従って一家不義の逆臣と成ることも
口惜しい。今信長は不義に誇っているが、これでどうして世が治められるのか。剰え逆心に翻る志は、
人の為す行跡ではない。このような不仁の大将に頼みを掛けて一体どんな益があるというのか。」

このように、義を専らに誠を尽くして諫言したが、良薬口に苦く忠言耳に逆らう習いであれば、一族は
この諫言を憎み、既に彼らを誅殺しようとした。これに親成父子は驚き、天正二年十一月七日の夜、急ぎ
将軍義昭の在る鞆の津へと馳せた。

この事態に元親の家臣が集まり、親成を引き返らせ一族和睦すべきだと議したが、元親の舎弟である宮内少輔元範、
上田孫次郎実親を初めとして「その儀は叶わない事だ。既に神詞を固めており、和睦の余地はない。」と言った。

こうして三村親成父子は鞆の津に到着し、一族謀反の事を訴えた。これに将軍義昭は驚き給い
「私は遠く(織田信長)を慮っていたが、近く足元に敵が在るとは思わなかった。この事いかがすべきか。」
と、早速三原に御使いを立てた。三原の小早川左衛門佐隆景はこれを聞いて「当家の大事これに過ぎず、
誅伐のために時をうつすべきではない。」と、即座に山陰山陽四国西海道に早馬を立て、将軍の御内書に隆景の
廻文を添状として、『時を延べず備中鞆に馳せ上がるべし』と触れた。

霜月八日、小早川左衛門佐隆景、江羽、福原、宍戸、熊谷といった歴々馳せ集まり、毛利輝元も出陣して、程なく
笠岡の浦に至った。その他追々に諸卒馳せ加わり、その勢は八万余騎と記録されている。

(備中兵亂記)

『備中兵乱』の始まりとされる三村元親の毛利氏からの離反について。



697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/28(土) 17:34:46.59 ID:25b58Vzd
義昭さんやっぱり殺しとくべくだったのかしら

少しも汝らが気遣いすることはない

2018年11月01日 17:05

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 15:59:21.53 ID:eJY+p62H
宇喜多が毛利との、中国での合戦の時は、宇喜多は少勢にて毛利と対峙せざるを得なかった。
ある時、宇喜多は地下人を備のあとに立たせて軍勢とした。地下人たちは戦に出ることを
好まなかったが、宇喜多はこのように説得した
「少しも汝らが気遣いすることはない。敵の顔すら見ることはない。何故ならお前たちは、
味方が勝てば後ろからそろそろと進めば良いし、負けた場合は最初に退却するからだ。」

(士談)




430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 16:31:56.92 ID:OYaNoOus
地下人は生産人口だから死なれたら困るよね

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 16:36:18.42 ID:UpUBIf1J
数を多く見せたってこと?

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 17:07:05.79 ID:erVV7GEK
ただし弁当代は自費で

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 17:28:41.04 ID:mZ1OB+Xd
俺は戦に参加したんだぜ!って土産話を貰えたな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 10:28:49.46 ID:N+dkrhef
>>433
そして諸君は、「アウステルリッツの戦いに加わっていた」と言いさえすれば、こういう答えを受けるであろう。「ああ、この人は勇士だ!」と。

このたぐいか

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 12:41:06.54 ID:vMEsZMso
浮田の場合は明禅寺合戦だな

宇喜多直家は言葉巧みに

2018年07月27日 10:01

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 00:03:21.50 ID:nvc+W+Pq
備中国の住人、三村修理亮家親の子、元親、実親という兄弟があった。父家親は1年前に
宇喜多和泉守直家の為に殺され、その後この兄弟2人は芸州毛利家へ使いを下した

『親である家親は御味方に参り、ひたすら忠勤を成しました。しかし宇喜多直家に欺かれ、
益無く討たれたのです。父の敵である直家を何としてでも滅ぼしその恨みを晴らしたいと
考えていますが、我ら兄弟の力だけではいささか難し相手であり、御太刀影(助太刀)を
お頼みしたいのです。宇喜多を滅ぼし父が死んだ恨みを散らし、我ら生前の鬱屈を晴らしたいのです。
家親の忠志を思し召し、お忘れでないのなら、御憐憫を給われば、我ら二人もいよいよ御手に属し、
忠節を励まします!』

これを吉川元春に対して嘆き申し上げた。

ところが、宇喜多直家は三村兄弟が毛利へ訴えを行ったことを知るや、毛利を敵に回してはかなわないと
考え、洲波隼人入道如慶という者を小早川隆景の元に参らせ、また安国寺恵瓊を深く頼み
『三村浦上を退治し、備中一国を尽く輝元公に差し上げるでしょう。』と訴え申し上げた。

この時毛利元就は既に老病の中にあり、元春、隆景に対し「能くはからえ」と言うだけであった。
元春は「三村は父家親の時代より当家馳走の者である。宇喜多は一旦言葉巧みに、良きように
言ってきても、それを彼ら三村氏と取り替えるなど考えもできない。その上宇喜多は表裏の者である。」
そう再三に渡り主張したが、宇喜多は安国寺恵瓊などを通して様々に小早川隆景に哀訴し、ついには隆景も
「人質などを出す上は別儀無いであろう。」と、宇喜多の望みを叶えた。
小早川勢は南方(山陽)の担当であったため、山陽の勢力のことについては、隆景の判断に
任されていたのである。

その後、三村はついに宇喜多によって討たれたという。
(安西軍策)

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 01:45:54.66 ID:GayH9LlL
宇喜多に対するため織田と結んだ三村
織田に押されて織田に降った宇喜多

小早川は先を見る目がないな



955 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 05:07:03.62 ID:G0Ciaoxc
この数年後に毛利は播磨で織田と戦う事になるけど、背後の岡山は宇喜多家の元で漸く安定しかけてたところだったから、
1575年に元春の言を容れて三村攻めずに宇喜多攻めてたら完全に叩けてたかは分からないし、下手したら織田の中国侵攻はより早いものになってたんじゃない?
隆景に先を見る目がなかったとは思わないけど

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 05:39:13.12 ID:DXVfv2KC
神の視点ではなんとでもいえる。最終的に維新を成し遂げたのは長州だしな。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 09:53:30.89 ID:ZiRbSX6d
小早川は長州じゃないwww

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 10:27:07.00 ID:LPTjxN7n
揚げ足とり子猿

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 10:33:56.52 ID:LPTjxN7n
小早川家は最終的に毛利家から養子もらってんだけど

960 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 12:43:23.48 ID:IaLFv6CX
長州「うるせー、やんのかコラ」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 12:59:24.32 ID:p3aDYfYw
>>960
橋本はもう居ないんだ…

962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 18:11:46.66 ID:MkEPw/Kf
結局宇喜多のが良いコネ持ってたってだけの話だな
その良いコネを掴むのも実力のうち

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 18:29:19.50 ID:UiD44MF2
>>953
別に毛利家は義理人情に厚いわけじゃないし(むしろ…)三村と宇喜多でどっち選ぶかといったらねぇ。

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 19:12:48.21 ID:N/22wCO0
とはいえ相手に恩義を感じさせれば裏切らない駒が出来るわけで
わざわざ恨みを買って敵に回すのはアホのやること

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 19:27:59.40 ID:vgKHLEqs
元春さんは情と付き合い(と宇喜多直家の腹黒さ)を重視して三村氏を
隆景さんは現実的と言うか実利的に判断したって感じかな?

後々も対秀吉で意見が食い違うこの兄弟だけど、2人の将としての資質や思想の違いも垣間見えた逸話な気がする。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 20:24:45.44 ID:z/aV9ADT
鶴田もマサ斎藤もいない…。それどころか、三澤や冬木もいない…。
なのに、猪木はまだいる。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 20:36:55.33 ID:yleoGLak
>>966
天龍「俺は?」

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 21:16:31.42 ID:N/22wCO0
>>963
当時の勢力図を念頭に入れてから発言したほうがいいな
余りにもバカ過ぎる発言だ
それに三村を討ったのは毛利だし宇喜多が毛利と結ぶようになったのは天正に入ってからだろう

笄の井戸

2016年12月17日 21:14

437 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 18:19:31.85 ID:afG/R5Jc
笄の井戸

岡山の柾木城(正木)は天正年間に宇喜多直家の兵2000に囲まれ落城寸前であった。

城主正木大膳正康の妻、玉尾の方は落城の前日
「私達が居ては満足な戦が出来ないでしょう。先に行って待っております」
と言うと、姫君初瀬を抱いて馬で柾木山を駆け降り、城の東南に位置する井戸へ二人で身を投げ命を絶った。
その後井戸へ身を投げた二人を供養した所、笄が浮かんで来た為この井戸を笄の井戸と呼ぶ様になったと言い、今も当地にて毎年供養が続けられている。

ちなみに正木大膳正康の入城は1589年だったと言う話もあり、城を攻めたのも宇喜多秀家だったり何故か姫路城主の本多忠政だったりする場合もある少し腑に落ちない逸話である。



439 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 23:16:22.05 ID:afG/R5Jc
笄の井戸動画
https://youtu.be/xbsub8Klwx8

そして今もまだ生きていると聞いている。

2016年11月19日 14:24

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 19:46:27.75 ID:7E1FHg/r
宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、
後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。

八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の
城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。

この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で
巻き返して上京出来たのである。

この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、
前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。

但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため
人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。
そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して
高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。

八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。
しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて
この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。

これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。

(老人雑話)

宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、
当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに
なっていたのでしょうね。



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:03:28.64 ID:865MJPbR
>>317
どこのアーサー王だw

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:06:53.08 ID:Limq/1QQ
さっきまでやっていたヒストリアが「戦国一のワル」の回だった
このタイトルで松永や宇喜多じゃなく、最上義光回だったけど
目新しいネタはなかったな

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:58:59.29 ID:gql9sLLB
>>317
泳いで参った!の伝説もあったんだろうか

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 23:33:46.68 ID:Ad/x7wny
2ch発祥ネタじゃねえか

鉄砲と馬場重助

2014年12月04日 18:32

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 19:21:36.61 ID:bpM16S3p
宇喜多直家のある戦でのこと

この時直家家臣の馬場重助は鉄砲を5段に構えていた所に攻め向かい、3段まで切り崩したが、
4段目から打ち出す鉄砲に脇腹を撃ちぬかれた。

しかし馬場はうろたえず、傷口をしっかりと抑え、戦いを田中藤助に譲って家来の肩にすがり静かに
引き退き、幸いにして命に別状はなかった。

後に馬場はこの時のことを語り
「私は鉄砲に撃たれ尻から崩れ倒れたが、この時敵が我が首を討ちに来るなら、ただでは
討たれまいと敵側を見据えたものの、目が眩み物の色もわからない有り様だった。
そこで暫時心を鎮めて居ると、やがて四方はっきりと分かるようになった。」

そう言ったという。

また備前児島合戦の時、宇喜多七兵衛忠家の子、与太郎大将にて出陣の途中、秣を刈っていた時、
敵が付近にいてにわかに攻めかけてきた。

大将の与太郎は人数をまとめようと一ヶ所で輪乗りをしていたが、敵の鉄砲が内甲に当たり落馬した。
同時に中村宗助も鉄砲に当って死んだ。
馬場重助は馬を撃たれて徒歩になっていた。

大将が撃たれ落馬したために、まずは退却しようとしたが、敵はこれに追い打ちをかける。
ここで馬場は馬を乗り換え殿をして、三度敵を追い返して退いた。
この時、槍の穂先を後ろに向けて退いたが、これは追い来る敵が馬に乗りかけないように
する為であったそうだ。

(明良洪範)

鉄砲に関連する馬場重助の逸話である。



303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 19:58:11.80 ID:gunuaIq0
ここにも不死身の馬場が

307 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/05(金) 09:55:20.35 ID:Lgvoh+zw
毛利との戦いの事で、この馬場さん7本槍の逸話に隠れて戦功が認められなくて切れたんだよ
たしか馬鹿にされて火鉢を真っ二つに切ったはず?
毛利との講和がなった時に本当と証明された。

宇喜多直家は岩法師の傷口に自ら口を当て

2014年12月03日 18:45

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 21:00:01.78 ID:nz7+JUBy
宇喜多家において大剛の勇士と世に知られた馬場重助は、奥州の安倍貞任の子孫で、本姓は安倍であるが、
彼は馬場某の娘を妻とし、終には馬場重助と名乗った。

幼名を岩法師と言い、13歳で戸石の城主宇喜多大和守直家に仕え、天文14年の合戦の時、彼は一番槍を合わせ
傷を負いながら首一つ得て砥石城に帰った。この時岩法師14歳であった。
宇喜多直家は彼を賞賛し、岩法師の傷口に自ら口を当てて流れる血を吸った。

(明良洪範)

宇喜多直家の、勇士への扱いがかいま見られる逸話である。




292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 21:30:37.43 ID:FT38r0QY
>>291
呉起の吮疽の仁のエピソードみたいだな

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 21:46:03.64 ID:nUg8iukD
母親が「あなたが吸ったら息子が早死にしてしまいます」
と言うのか

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 22:35:46.35 ID:w6x3Aw/h
何らかの毒物を吸い出している可能性

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 22:45:01.49 ID:Lw/2ge6H
いやいやホントは吸血鬼だったんや

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 23:53:52.73 ID:yfEXCVnP
直家って宗景の夜の相手だったわけだし股間を吸ってたのかもしれん

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 00:07:53.00 ID:y4CNBXEE
DIO的な直家様を想像してしまう

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 02:59:20.68 ID:/FVhHBQt
なおいえ!ザ・ワールド

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 07:48:30.20 ID:EpgPGwHl
時を止めて後ろからブスッとかお茶にサラサラとかやるんかな

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 09:44:21.84 ID:L/vbHwrD
そこへルイスフロイス十字架をかざして....。

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 18:28:47.18 ID:MwdX6LHM
>>298
草野仁ボイスで脳内再生された

宇喜多殿についての事

2014年05月03日 19:03

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 19:44:22.17 ID:EoHCg8jK
宇喜多殿についての事だが、これは元々備前の士であった。当時、浦上という者が備前美作
両国の主であり、宇喜多直家はこの浦上の家臣であったのである。

この直家は悪性の人物であり、国郡を持つ人と縁者などになって、後にこれを殺して奪い取ることを
度々行った者なのである。
最後には主君である浦上をも殺し、終に備前美作両国の主となった。

八郎殿(宇喜多秀家)はこの直家の子である。彼が太閤(秀吉)と非常に良い関係となったのは、
秀吉が備中高松城を攻めていた時、明智光秀による本能寺の変の情報が伝えられ、秀吉は引き返したいと
思ったが、なかなか自由にならなかった。

この時八郎殿は秀吉に味方し、力を添えたので、それもあって高松の城主に腹を切らせ、一気に反転して
上京をすることが出来た。この忠功によって親密な関係となり、秀吉は八郎殿を聟に取った。
ただし秀吉には息女がなかったので、前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟とした。

この時分は、八郎殿は未だ10歳ばかりであった。高松攻めのころは直家も未だ生きていたのだが、
瘡毒のため人前に出ることも出来ない状況にあったため、八郎殿を国主分とし、宇喜多家には
5万石3万石領有する強力な家老たちがあったので、彼らが談合して高松の時も秀吉に協力したのだという。

八郎殿は太閤の聟となりまた官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。治部少輔(石田三成)の乱まで
治部方であったために、関が原が東照宮(徳川家康)の利運となると、八丈島へと流された。
彼は現在も生存しているという。癸卯の年(1663年)、老人(江村専斎)が99歳の時に語った話である。

(老人雜話)

老人雜話の、宇喜多直家・秀家親子についての記述である。




193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 22:41:17.62 ID:WGfCPeAy
>>192
永田徳本「八丈島で不老不死の霊薬が採れると聞いて」

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 22:58:56.80 ID:uD1Xe7rS
>最後には主君である浦上をも殺し、終に備前美作両国の主となった

浦上宗景「あれ、ワシ直家に殺されたっけ・・・?」

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 00:44:22.77 ID:7yiHoIbP
>>194
直家が担ぎ上げていた浦上政宗の孫じゃね?

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 01:14:58.08 ID:Kz69vmly
浦上はむしろ直家台頭後に畳の上で死ねたのが宗景しかいない気が

血塗れの絹

2013年07月15日 19:52

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 19:48:25.21 ID:nPuh317M
備前国主である宇喜多和泉守直家は近年持病が重くなり、天正9年(1581)の冬より
以ての外に下血した。

備中で宇喜多と対峙していた毛利勢には、直家の病状が悪化したとの風聞は聞こえてきたが、
その実態を正確に知ることは難しかった。
そういった所に同年極月(12月)、備前御野郡浜野村の窮人が毎朝絹に大量の血が付いたものを
拾ったと言って売り物に出していることを、毛利の目付け(スパイ)が察知し報告してきた。

これを聞いた備中の侍大将は不審に思い、それは宇喜多直家の下血が付いたものだと気がついた。
そこでその状況をさらに注視させたところ、同10年正月9日朝より、大量の血が付いた絹が
市場に出ることはなくなった。

そして備前に潜ませた目付けの者からは、宇喜多直家が正月9日に死去し、法名は涼雲星友居士、
密かに平福院において法事が行われた、との報告が届いた。

この情報は中島大炊助より、吉田へと届けられた。
(中國兵亂記)

毛利が探知していた、宇喜多直家の死去についての情報である。




43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/15(月) 07:12:06.28 ID:s/CCduls
せめてあと10年生きてたらな。秀吉もあそこまで伸びなかったかもしれん
絶対後ろでかき回すから

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/15(月) 07:19:55.39 ID:Gb5M3G+d
血まみれの絹がそのまま売られてたのか
ワイルドすぐる

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/15(月) 09:08:13.83 ID:whRkNexa
神州纐纈城、備前版である

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/15(月) 16:30:08.22 ID:jH894G01
だって岡山言ったらぼっけーきょうてえな国だぞ

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/15(月) 18:10:32.25 ID:Gi+Z4YNW
なんで絹布とはいえ下血まみれのものを売ろうと思ったのか

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/15(月) 18:55:16.23 ID:5eXCWaAy
連日下血量と輸血量が報道され領国内は自粛ムードが広がり、領民はこぞって記帳所を訪れ…
っていう昭和の末

宇喜多直家、家老の子を

2013年06月16日 19:15

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/15(土) 20:38:03.29 ID:57YiH2sk
織田信長の部将として、羽柴秀吉が播州に進出する頃までは、宇喜多直家も毛利に属していたのであるが、
隣国であるゆえに、直家は数年の間、別所と秀吉の弓矢の体を研究して、
家老である戸川秀安に密かにこう言った

「信長、秀吉の鉾先は、我々の及ぶものではない。その上彼らは賞を重くし爵を軽んじている。
それ故に人はこれに懐いている。
我々がこれに属することをせず、後で後悔しては何にもならない。

私は急ぎ秀吉を頼りに信長に属したいと考えている。そなたはこれをどう考えるか?」

戸川秀安はこれを聞いて

「仰ることはご尤も、言われる通りだと思います。そのお考えを、急ぎ実行すべきです。
このような事は延引きしては、その功を立てるのが難しくなります。」

と申し上げたが、直家は

「それも去る事ではあるが、そなたの二男である孫六が、毛利への人質として備後に置かれている。
私はこれを捨て殺しにするのが忍びないのだ。」

と、自分の思いを伝えた。しかし秀安

「御家の大事と、幼稚のもの一人ばかりを取り替えることが出来ましょうか?
その事を気にかける必要はありません。」

そう言って、絶って信長へ属することを勧めた。これには直家も大いに感心し、

「それならば、孫六の事は後日に手立てをし、とにかく直ぐに秀吉を頼もう。」

と、その工作を整え、天正7年より信長に従い、播州での秀吉の合戦にも加勢を出し、
毛利家には手切れの使者を遣わし、『そういうわけなので人質を返してほしい』と伝えたが、
勿論毛利がそのような事を承知するはずもなかった。

このような中、直家は毛利の外交僧である安国寺恵瓊が、所用が有って上京するという情報を
察知した。「これこそ絶好の機会だ!」と、京の安国寺の許に使者を立て、

『ご帰国の時、備前に立ち寄ってください。内々のご相談をしたいことがあります。』

と申し送った。これにより安国寺が帰国の際に備前に立ち寄った所を押さえて監禁し、
安芸に使いを送り

『戸川平右衛門(秀安)の子・孫六をお返し頂きたい。さもなくば
安国寺恵瓊をこのままこちらに留め置きます。』

と申し渡した。この事態に毛利家でも様々に議論されたが、『それでも安国寺は捨てがたい』と、
人質との交換に同意すると決まった。

そして備中何邉川を隔て、互いに人数を出して川中で行き違い様に双方を引き換え、
終に孫六を連れ帰ることに成功した。

戸川秀安は直家が自分の子を取り返してくれたことに篤く感謝をした。
この孫六は後に助左衛門を名乗り、宇喜多家に仕えたそうである。
(戸川記)

宇喜多直家、毛利への人質を取り返す、というお話。




854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/15(土) 20:55:33.13 ID:qbbrMiMl
どこ辺で暗殺されるのかとビクビクしたが
すごくイイ話な件(´・ω・`)

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/15(土) 21:06:03.57 ID:Z0/rxtu5
人質返してくれとかストレートに言いすぎだろ
どれだけ相手を信用してるんだ?

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 00:33:52.53 ID:E1i6Xco3
まあダメ元で一応言ってみたって感じなんだろう

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 07:33:16.23 ID:TanzOudz
愛され坊主安国寺

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 08:50:26.39 ID:VSlMgNCv
>>856
意外にそういうこともあるんじゃないの?
小牧長久手のときも秀吉方の池田に織田信雄が人質返してるしな

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 11:02:06.53 ID:tBHH/roo
>>856
普通に考えれば宇喜多直家が律儀な正直者ってだけだろ

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 11:10:59.97 ID:UVJmsyTD
すっげー違和感があるけどな

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 12:06:42.81 ID:da24ZRSI
だが待ってほしい
直家の悪行のほとんどは軍記物がソースではなかったか
ゆえに悪行はなかったということもありうる!

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 12:35:42.72 ID:ZR3LCTMl
>>862
最近本出てたからそれ読んだ方が早いよ

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 12:37:01.28 ID:qi2OIALG
>>863
kwsk

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 12:45:49.78 ID:lspbdD/+
妙な申し入れしたら勘繰られるの目に見えてるし裏で動いてると警戒されたら後で坊主ふんじばるのも難しくなるじゃないですかー

正々堂々手切れしといて相談が・・・ってやったら外交上の問題か、で寄ってくれる可能性はあるけどさ。

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 12:47:12.90 ID:ZR3LCTMl
宇喜多直家・秀家って本

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 12:48:41.64 ID:qi2OIALG


敵となり味方となるのも、前因後果の報いなのだ

2013年06月12日 19:51

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 20:25:35.22 ID:7kCSsO88
備前瀧口城といえば、宇喜多直家が美少年の岡剛介を使い、乞食の老婆を母と偽るなどして
城主である松田氏家臣・サイ所元常を騙して暗殺し、城を奪い取った事で有名だが、この瀧口城は備中の
三村家親による備前侵攻の時に奪われた。

そこで永禄七年(1564)、直家は松田氏などと和解した上で同盟し、瀧口城を攻め、7月9日に、
ついに城の奪還に成功した。

さて、同月11日、宇喜多直家から瀧口城で三村方として戦った、備中幸山城主・石川源左衛門久式に
使いが送られた。

『今回は国人達が不意に合戦に及んでしまい、我々は呉越を隔てることになりましたが、
これは全く私の本意ではありません。

瀧口城の傍にある福輪寺から、討ち死にされた方の死骸を集め置きました。
雑兵の死骸は、福輪寺にて葬礼をいたします。』

直家はこのように申し寄越した。
石川久式はこれを聞いて、直家の懇情に感じ入り、返答を送った。

そして脇田村で討ち死にした石川方の将・小田小太郎の死骸は、彼の郎党である
名越修理と有岡右京が行って福輪寺の山の峰で葬礼をして墓所を築き、印塔を立てた。
また討ち死にした兵429人は、同所の峰に3つの塚を作りそこに取り納め、それは
福輪寺の首塚と呼ばれるようになった。

この後、備中と備前との交通が絶たれたため、備中の諸士でこの合戦で討ち死にした者の
子孫や親族は、2月、7月、8月の彼岸に、代理の僧を福輪寺に立てて墓所に火を灯し
墓に水をかけた。

宇喜多直家が毛利家に従い幕下に入ってからは、直家はこの地の郷民に申し付け、
墓所に石塔を建て、7月13・14日には脇田村、湯廻村、四之御神村の峰々に数万の火を燈し、
討ち死にの子孫、士農工商旧功の恩を思い出し、酒菓を供えて供養した。

宇喜多直家はこのように言った
「敵となり味方となるのも、前因後果の報いなのだ。仇であっても善の心で報いる事が、
義士道というものである。」

これを聞いた、ある古い武士は、こう感想を洩らした
「直家は計略の謀の手腕を持ち、毛利家の威を借りて、まさしく家を興す人物であろう。」

【中國兵亂記】

宇喜多直家の、備中の国人懐柔策の一端が見えるような逸話である。

表面的にはいい話なんだけど、そのとおり受け取っていいのかどうかちょっと迷うのは
直家の人徳なのだろうなw




452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 22:02:19.19 ID:NnZK3DSB
直家が生前に周囲から警戒されたのは本当に晩年になってからの小早川隆景と伊賀氏からくらいだからね。

一度浦上宗景に反旗を翻しても許されて味方増やしてるくらいだし。
真の謀略家とは人徳があって信頼される人物でないとなれないんだろう。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 22:32:09.22 ID:qgKBMWpr
忠家「…お、おう」

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 22:44:27.52 ID:K+2XHs9B
逆にそこまで身内だと怖さがわかっていても、
もうちょい距離のある人には自分だけは大丈夫と思わせる何かがあるのかな

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 00:02:25.27 ID:Vc+Sdv0A
戦で人がたくさん死ぬのが嫌っていういう健気な人だから
守ってあげたい感じになったのかも

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 00:03:16.33 ID:OJeB81yf
>>455
直家のことだと理解するのに時間がかかった

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 00:06:00.19 ID:/qj52nhH
時間がかかった、て
一分もレスまでに経ってないやん

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 08:40:35.68 ID:eNWMgWw/
誠実な人物だと思わせていないと人を騙せないからな

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 10:07:39.79 ID:+e/Yj0vr
あんなに敵対してた
島津と立花が関ヶ原では同じ西軍だったり
直家の逸話も素直に感心する俺みたいな奴は
暗殺されるのだろうな

宇喜多直家の事

2013年04月04日 19:51

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 00:16:11.30 ID:In+/la0l
浦上は赤松の家老であったがやがて備前国の主となり、天正2年までその地位を堅固に
守っていたが、家老に直家(宇喜多直家)と申す人が有り、この直家の一門隆盛して
浦上を追い出し、備前一国を進退した。

彼は主君の妻女も捕らえ自分の妻にせんと企んだが、彼女が常に端刀を離さず覚悟を決めて
おられたので、終に諦め播磨の親のもとに送ったと聞いている。
これは天正2,3年頃のことであった。

直家は天正の年号に相果てた。その子息の中納言(秀家)は、慶長5年(関ヶ原)の事で
八丈島に流された。これは全く、父親の悪行の報いである。
(三好記)




149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 00:29:11.27 ID:62GD+v6o
暗殺しまくったことには触れてない…

主君に対しての反逆は悪行だけど、親戚や同僚も含めて殺しまくったことは
悪じゃないのかね?

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 08:24:31.24 ID:5Tg4IDsV
その親戚や同僚が悪事を働こうとしていたのです(棒

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 08:39:37.78 ID:8qz0nNUC
暗殺だなんて人聞きの悪い。少し早めに身を守っただけだよ(棒

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 11:04:16.14 ID:Sqhyb1II
親の報いと言う割には栄達重ねてるのはどうなのか

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 11:17:29.84 ID:nqUW/6K2
流れる血は1000人より1人がいい

人を愛する武将うっきーくんカコイイ(棒

秀安は忠家の気質をよく知っていたので

2013年01月30日 19:50

222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/30(水) 07:46:43.69 ID:ro4mP+NL
ある時、宇喜多忠家は直家の家老・小野田四郎右衛門を討ち、これに直家は激怒した。
忠家は怖れて居城・富山城(とみやまじょう)に引き籠り、直家の呼び出しにも応じないため
もはや叛意は確実と見られた。
ここで岡家利・長船貞親らは日頃忠家と仲が悪く、これ幸いと直家に討ち果たすべしと讒言した。
戸川秀安は忠家の乳母の子だったのでこれを嘆き、某にお任せくだされと願い出て
富山城へと向かった。

富山城に着いた秀安だが、説得など一言もせず城攻めの用意を始め、
仕寄を設け井楼を用意し、これでもかと城攻めの気勢を見せつけたところ、
忠家はこの勢いに恐れをなし、起請文を出して降参してしまった。
これを秀安がうまく取り繕ったので和睦となったのである。

秀安は忠家の日頃臆病な気質をよく知っていたので、こんな方法を取ったそうだ。

(戸川記)


戸川秀安、無言の脅迫で乳兄弟を救ったいい話。





224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 08:58:32.27 ID:7XZCZzFN
・・・で直家に詫び入れるときは鎖帷子を着込んで登場ってわけですね

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 21:43:21.71 ID:4c/Ysv3g
戸川△

宇喜多直家と殉死

2012年11月19日 19:53

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 20:53:32.97 ID:RAK6Tl5l
宇喜多直家と殉死

宇喜多直家と殉死の話はまとめスレにもあったけどこのパターンは無かったので

宇喜多直家が危篤状態に陥った時、左右に居並ぶ家臣達に
「わしが死んだら、誰が殉死してくれるだろうか」
と言った。家臣達は内心慌てたがただ口を閉ざしたままであった。しかし、ある家臣が一人
直家の近くに膝を進め
「殿、よくお聞きください。ここに居る家臣は皆賢臣、忠臣です。
将来世継ぎの秀家様を支えていく者達です。
そのような家臣をあの世につれていって無駄にして良いものでしょうか。
どうせあの世に連れていくならば坊主を連れていくべきです。」
と言った。直家もそれ以降殉死を口に出さなかったそうな。
「閑際筆記」

確かに次世代の事考えると殉死はアレだからいい話っぽいんだが、ただこの家臣が花房某って
記録されてるんだよなぁ

花房氏は結構宇喜多騒動で出て行っちゃってるから場合によっては悪い話かもしれない




478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 22:46:35.24 ID:9Ngaa4lD
>>460
大体どのバージョンも宇喜多騒動で居なくなった家の人間が言ってなかったっけ