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さても強勢なる背負い様かな

2022年07月23日 13:09

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/23(土) 08:12:27.03 ID:zz2id93h
天正十九年の頃は、宇喜多秀家も成長され、参議に任じられ、器量骨柄といい、公儀からも殊に
その覚えは諸人に異なり、天下の御婿(秀吉の養女・豪姫の婿)として威勢最も盛んであった。

その重臣はそれぞれ大阪に詰めたが、中でも岡豊前守(家利)は宇喜多家第一の宿老にて、
勇武才智人に超え、世に良臣との名があった。殿下(秀吉)の御前能く、よろす直に言上した。
故に宇喜多家中に、彼に異議を言う者はなかった。

戸川肥後守(達安)は、岡豊前守に続いて威勢が在った。
有る夏の夜、殿下の秀家邸への御成があった。涼取の茶屋にて饗応があり、この時小西摂津守(行長)が
御前に在って、明年の高麗御発進の軍議をした。この時戸川肥後守は茶屋の廊下に控えていた。
殿下は彼に御声をかけ、「これに出て軍議を聞くように」と仰っしゃられたため、縁側に畏まった。
小西摂津守は朝鮮のことを既に手に握るが如く申し述べ、殿下の御機嫌は斜めならずであった。

夜閑になり御座敷へ入られる時、茶屋と座敷の間に古堤がある場所で殿下は
「肥後、背負うように」と上意があり、そのため背負奉ってお座敷へ帰らせ給った。
このとき「さても強勢なる背負い様かな」と、お笑いながら褒められたという。

戸川記

秀吉の宇喜多秀家邸御成と時の事について。



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よろず豊前守1人が

2022年07月20日 17:07

岡家利   
300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/20(水) 10:53:45.62 ID:KcG7usJM
天正十三年、秀吉公による根来攻めの時、和泉国千石堀において備前(宇喜多)勢は軍功有り、
根来寺破却の後、秀吉公は紀州雑賀へ御発向され、諸勢は丁場を分けて長堤を築き水攻めをするという時、
備前衆の丁場の堤が切れ水が溢れ出した。このため秀吉公の御機嫌を損じた。

岡豊前守(家利)は早速御前へ出て、
「私が不念故に堤を崩してしまったのです。申し訳に、切腹仕ります」
と申し上げるとたちまち機嫌を直され
「このような事は有るものだ。早々と水を留めるように(斯様の事ハ有物なり早々水を留候へ)
との上意にて相済み、即時に人夫を掛けて元のように堤を直した。そして程なく落城に及んだ。

その頃、宇喜多三老のうち戸川秀安は病気、長船貞親は既に死去しており、よろず豊前守1人が下知した。

戸川記



戸川秀安の最期について

2022年07月18日 16:13

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/18(月) 14:38:41.02 ID:3H39QenK
天正十年には、東、北の諸国は概ね静謐となり、織田信長公は在洛されていた。
戸川秀安はその頃病気を患っており、東国が治まった事で、関東草津の温泉に、療養のため赴いた。

そのような所に、秀吉公が備中高松城を水攻めにされ、宇喜多家より危急の通告があり、
帰ろうとしている所に、信長公父子が御不慮の横死(本能寺の変)に及び、諸国一統に騒動し、
東海北陸のあたりは殊に全く通行すら出来かねる有様で、秀安も心ならずも草津に、四月から八月まで
逗留し、八月に上方に登って秀吉公に拝謁した。その後も大阪に詰めていたという。

しかしながら彼は病気のために、年々御陣にも出られないことが多くなった。
天正十四、五年頃に、宇喜多秀家公の重臣、四、五輩が受領を仰せ付けられ、秀安も叙任し
肥後守となった。
暫くあって病気を申し立て、受領を嫡子助七郎達安に譲り、自身は入道して友村と号し、児島常山の麓に
引き籠もり、茶湯、連歌、並びに文章を楽しんだ。
日々日蓮宗を崇み、病が進んだ後は仏道の外、他事無かった。
備前の宇喜多家家臣で古老の面々は、残らず日蓮宗を尊崇していた。

慶長二年八月六日、秀安は死去した。これは嫡子である肥後守達安が高麗陣のため留守をしている間の
事であった。常山に葬られた。その場所には今も、石塔がある。
法名自任斎坊授友林と号した。

惜しいかな、彼には生涯の行状記が無く、その悉くを知ることは出来ず、僅かに十のうち一つを
ここに挙げるのみである。
秀安の扶禄は二万五千石、外に預かりとして五十人組、凡そ合わせて六万石、人数三千の先手備えにて、
宇喜多直家第一の重臣であった。

戸川記

戸川秀安の最期について



298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/18(月) 15:40:06.22 ID:/AevqENK
危急の通告て何やろ

貴殿と私の武辺は互角である

2022年06月21日 20:25

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/21(火) 13:22:33.00 ID:5AhDOXhB
関ヶ原合戦の時、備前中納言(宇喜多)秀家卿の後勢七、八〇ほどが、福島左衛門大夫(正則)の先鋒、
福島丹波(治重)の備先を通ったが、地形が低かったため丹波の位置からは見えなかった所、正則の
旗本が見つけ、青木清右衛門を使いとして早々にこれを知らせた所、丹波は若者五、六〇を遣わし、
かの秀家卿の勢を追いかけさせた。

この時、黒田家の臣・後藤又兵衛が丹波の元に乗り来て「退き遅れたる敵が七、八〇ほど、対面を
横切って通っているが、能き仕物に候。追いかけて若者共に取らせ候へ」と言ってきた。
これを聞いた丹波が笑っている所に、先に遣わした五、六〇の若者たちが、皆首を取って帰ってきた。
これを見た又兵衛は「ぬからぬ丹波かな」と感じ入った。

ところがこの後、世の取り沙汰に、この時の戦いは後藤又兵衛が指図して、組勢に高名をさせたのであり、
全く又兵衛のおかげである、と言われた。丹波はこれを聞いて、「疑いもなく後藤の過言である。」と
奇怪に思い、いっそ対面して真偽を正そうと思っていたが、そのような中、又兵衛は浪人して、上方に
上がるとして、宮島で潮待ちをしていた。

この事を、安芸の領主と成った福島正則が聞きつけ、丹波を使いとして、「又兵衛を福島家で抱えたい。」と
申したが、又兵衛は「三万石ならば御奉公申すべし。」と言った。
丹波は戻りこの旨を正則に申し上げると、正則は頭を振って
「譜代のその方や小関岩美ですら二万石であり、三万石など思いもよらない!」
と言った。しかしこれを丹波は諌めて曰く

「又兵衛を三万石にて召し出されば、石見も拙者も威光が付きます。何故なら、又兵衛でさえ三万石
になるのなら、石見、丹波などは、外へ出したら四万石の侍であり、譜代故に小身のままなのだ、と
言われるでしょう。ならば、拙者までの面目なのです。」

そのように諌めたが、正則は承諾せず、再び丹波を使いとして、又兵衛に断りを申し遣わした。
そして暇乞して帰る時、先達ての世上の取り沙汰を思い出した。

「先年、関ヶ原にて備前勢の退き遅れた者達を我が手が討ち取った。ところがそれを、貴殿の指図にて
私に手柄させたのだと世上で申されているという。虚か実か、承り届けん。」

そう言って又兵衛に詰め寄ったが、又兵衛はこれに冷笑して
「貴殿と私の武辺は互角である。戦場において貴殿の指図を私は請けない。
然れば、私の指図も貴殿が請けることはないだろう。」

そのように返答したという。

(新東鑑)



三左衛門が中納言殿を薩摩へ下したことを

2021年04月12日 18:03

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/12(月) 16:27:43.98 ID:8nMd6PWi
関ヶ原の合戦の後、宇喜多秀家は近江に潜伏していたが、ここにおいて三右衛門(進藤正次、実際には
三左衛門。以下三左衛門とする)が申し上げた

「大阪へ参上したいと思いますので、御状を遊ばされますように。」

そう言って四寸四方ほどの神に書状を書いて頂き、これを編笠の緒に拠り付けて、二日に大阪に行き着き、
中納言殿(秀家)の屋敷の御台所に這い入ったが、流石に大名の御台所であり、人も多く夥しい様子で
あったが、先の御合戦の沙汰をする人も無く、また殊に三左衛門は新参者であり、誰に申し継ぎを
伝えれば良いかも知らず、一日の間、朝から台所の庭に立ち休んでいたが、これを改めようとする者も
居なかった。

台所より奥へ参った所に番の者が有り、その人を頼み「御局(豪姫)に御目に掛かりたいと呼び出して
頂きたい。」と申した所、程なく局が出て会われた。編笠の緒に撚り結んだ御状を取り出し
広げて見せると、一見された後奥に入られ、黄金二十五枚を持って出てきて、三左衛門へ渡された。
彼は金を受け取り首に掛け、夜通し大津まで走り着いた。この時大御所様(徳川家康)は大津城に、
先手の衆は醍醐山、山科辺りに陣取っていた。

三左衛門は大津の海辺(琵琶湖の浜辺)に出て「船にて参るべきか、陸を行くべきか」と思案したが、
「黄金能き程有り、(このまま秀家を見捨てて逃げて)これを元にして世渡りしても成るだろう。また
中納言殿が御座候所に参りても、もし既に失わられ給っていれば、一体どうすればいいのか。」と
思い悩み、先へ二歩進んでも跡に三歩下がるほどであった。
しかし

「とにかく、中納言殿は新参の私を頼みに思し召されたのだ。船では海上がどのようになるか
解らない。」と、思い切って陸地を歩み、その日に潜伏先に参着したところ、中納言殿は無事であった。

そこで三左衛門はその家の亭主に黄金二十枚を与え、残りの五枚は自分が持ち、翌朝、中納言殿を
駄賃馬に乗せ編笠を着せ、大津、醍醐を通り過ぎ、伏見京橋にて川船に乗せ、大阪天満において、
黄金一枚にて船を借り、「この人を薩摩まで御供申し、あちらに無事着かれたなら、御状を取って
戻るように。」と約束して、黄金二枚を中納言殿にお渡しした。これは、中納言殿が生まれつきの
大名であったため、黄金一枚がいかほどの用を調えられるのかもご存知無かったためであった。

彼を薩摩に送った船主は、御状を持ち上がるようにとの約束の通り、船主は大阪に、御自筆の御状を
持ち帰った。三左衛門の手元に残った二枚の黄金は、江州から大阪まで御供をした折の路銀に遣い、
余ったのもはそのまま自分が持った。

中納言殿が薩摩に落ちられたことを承ると、本多上野介(正純)の所に出て、
「備前中納言殿の最期まで付き従った者であります。」
と罷り出た。秀家が死亡した証拠を尋ねられたが、この時宇喜多家相伝の刀である鳥飼國次を
取り出した。

大御所様は三左衛門に、伊勢国にて知行を与えると仰せに成った、知行の高は御意無く、
これにて心得あるべしとの事であった。

三年過ぎて、三左衛門が中納言殿を薩摩へ下したことを諸人も知った。

この時代は万事大雑把であったので、三左衛門が大阪において中納言殿の台所の庭に一日
立ち休んでいても、これを改める者が無く、また奥に参る入り口の番衆も局を呼び出し、
用所を調えるという事がうまく行ったが、これは天下の大小名共に、同じようなものであった。
この頃は屋敷より下々の出入りの札も無く、目付という事もなく諸国は治まり、上下はその
治世を楽しんだ。商人百姓もそれぞれに楽しんでいた。

慶長年中卜齋記



宇喜田騒動とその後の波紋について

2021年04月02日 18:26

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 15:27:20.49 ID:I1Do2lfE
その頃(慶長四年冬)、備前中納言殿(宇喜多秀家)の家老、浮田左京亮(坂崎直盛)、戸川肥後守(達安)、
岡越前守(貞綱)、花房志摩守(正成)の四人が、秀家への申し分が出来、この四人の衆、面々屋敷に
居ることは叶いがたしとして、高麗橋東北の角に、浮田左京の屋敷があったが、ここに引き籠もり髪を剃り、
家臣の者共を大阪町家の詰り詰りに遣わして、『屋敷に鉄砲の音が鳴れば、町中所々焼き立てるように。』
と、覚悟を定めていた。

これに対して扱い(調停)人として、大谷形部少輔(吉継)、榊原式部大輔(康政)、津田小平次の三人が
当たったが、式部大輔の扱い様悪しきとして、家康公の御気色を蒙り、関東に追い下された。
一方、大谷刑部少輔、津田小平次はこの時は家臣ではなかったため、御構い無かった。
大谷刑部少輔に対しては、殊の外御懇ろにて、折々に御相談の相手に成っていたのであるが、この頃より
御相談相手とされることは止んだ。彼が後に敵と成ったのも、この時の意趣からであると云われた。

(後の関ヶ原の折)、小山まで浮田左京、戸川肥後守は御供をした。岡越前守、花房志摩守も罷り下りたいと
様々に申し上げていたが、家康公は思召し有りとして、大阪に残し置いた。
そして四奉行が敵と成った時は、両人大和の郡山で、右衛門尉(増田長盛)の元に付け居られた。
これは、元より右衛門尉が家康公と裏で通じ合っていた故(下心能御座候故)である。

慶長年中卜齋記

宇喜田騒動とその後の波紋について



宇喜多秀家の身柄受け渡し

2020年12月25日 17:00

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/25(金) 15:58:29.84 ID:I0dSoLUQ
慶長七年、島津忠恒は上洛し関ヶ原での事を謝罪、家康は島津を本領安堵とした。
そして御暇を下され帰国の時、島津家との取次である山口勘兵衛(直友)に対し、このような内談をした

「備前中納言(宇喜多)秀家は、関ヶ原の敗北以後、薩摩に逃げ下り我らを頼って来た故に黙し難く、
領地の端に押し籠めています。どうか彼の一命を御助けに成るよう、次回にも御訴訟申し上げたいの
ですが、いかが仕るべきでしょうか。」
これに対し勘兵衛は「これについては本多佐渡守(正信)と内談し、重ねて申し越します。」と申した。

その後、勘兵衛の与力である和久甚兵衛が差し下され、『秀家を直ぐに差し上がらせるように。訴訟に
ついては本多佐渡守が取り持つ。』との旨を忠恒方に申し越した。
これにより、家臣の桂太郎兵衛という者に警護致させ、正興寺文之と申す出家を相添えて、秀家を
差し上らせた。慶長八年、八月六日に薩摩を発足し、同月二十七日、伏見に到着し、山口勘兵衛の
所まで案内した。

その頃、本多佐渡守は関東に下っていたが、本多上野介(正純)まで勘兵衛より連絡すると、
上野介より上聞に達し、
『秀家については、叛逆の棟梁であり本来は助け置くべき者ではないが、島津家よりの訴訟
黙し難く思し召され、死罪を宥し、駿州久能に召しおくべき』旨の上意があった。
これにより、忠恒より、一族の島津摂津忠政を以て御礼申し上げた。

その後秀家については、八丈島に流罪になったと承っている。

島津家譜

宇喜多秀家の身柄受け渡しについて



見聞談叢より 里村紹巴のこと

2020年09月21日 18:03

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 21:18:12.79 ID:SqgsTnuf
見聞談叢より 里村紹巴のこと
里村紹巴は十一歳の時、宗祇のところに赴いて門人になることを乞うた。宗祇は奇童なりとと認めて門人とした。
紹巴はその年齢から神仏へ願をたてて(奈良の毘沙門天という)、何によってでも天下に名高くなし給えと毎日祈願した。
志あった故に願いの通りに後世に名を遺した。
紹巴の子玄仲の妻は、江戸の医者の吉田易安の娘で妙玄院と称した。
先人(仁斎)にとって外祖母にあたり、私が若年のころまで手紙のやり取りがあった。
紹巴の時代に連歌がはやったことは並大抵ではなかったと話に聞いている。
金吾中納言が流罪になったおりに、紹巴は伏見まで見送りなさった。中納言殿、別れを悲しみ給い、
籠の中から黄金一枚を取り出して永訣の印に紹巴に送り、
「伏見まで送って下さったから、夜も更けました。ここよりお帰り下さい」と鳥羽の城南寺の傍らで返しなさった。
夜中のことでもあり、今と異なり戸締りしない時代だったので、黄金を奪われることを恐れて
城南寺のそばの田んぼの畦に埋めて置き、翌日取りに行かれたそうだ。また、太閤が朝鮮征伐の時も山崎まで見送って、
韓(から)たちにその身はやく枳殻(きこく)かな
という句を奉ったとのことだ。色々の話を聞いたけれども、雑談と思って逐一書き付けて置かなかったことを今になって後悔している。
聞き覚えた発句などもだんだんと忘れてしまい、すべて烏有に帰せんことを悲しく思い書き留める。紹巴がある年の端午の節句前に、
室町通りを通りなさった時に、その頃そのあたりは貧しい有様だったので
人並みに小家も葺ける菖蒲草
という句を詠まれたと。この時代、貴賤男女まで連歌に熱中していたと見える証拠には、紹巴の小童が門前に雨の降るのを眺めていると、
蓑を着て笠をかぶっていない商人がいるのを見て、
みのを衣(き)て笠をきぬこそおかしけれ
と言うと、その商人が
なににつけても銭のほしさに
と付けたという。

この後宗祇や紹巴らの発句が色々載っていますが省略。
金吾中納言の流罪は転封の誤りでしょうか。宇喜多秀家が流罪の時には紹巴は死んでいますし。



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/21(月) 11:07:37.34 ID:+r0rhWKY
確か佐吉の告げ口で筑前名島改易で敦賀だった武生だったに堪忍料だお終いデスにされたような。

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/21(月) 18:17:11.05 ID:SwTWBn1v
Wikiによると秀次事件に連座して亀山城を没収されたらしいのでそっちの時かも

大谷は批拠を申す

2020年07月28日 17:21

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/28(火) 12:32:44.61 ID:hUBmOpWK
大谷刑部少(吉継)は内府公(徳川家康)に別して忠信であったのが、此の度の謀反(関ヶ原)に加担したのは
どういう事かと言えば、去る頃、宇喜多中納言(秀家)が家老の衆と主従の間で騒動があり(宇喜多騒動)、
大谷は中納言の理を専らに言い立てた。一方内府公は家老の者たちの主張を支持し、この事について
「大谷は批拠(比興)を申す」と宣われた事によって、この如く成ったのである。

当代記




234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/28(火) 13:00:12.13 ID:KZU+Tqw3
あー、これが関ヶ原であいつマジでなんで西軍についたのか意味わからんけど
直近であったの宇喜多騒動くらいだし、多分これだろうなーって言ってるやつかー

高松攻めの不審なること

2019年12月17日 17:52

417 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 12:54:34.32 ID:7IG7eVB0
佐怖彌右衛門入道常圓という者は、百余歳まで長命した人物であった。村瀬安兵衛は内々に、この
佐怖常圓が秀吉公の御供として、備中高松城攻めを目の当たりに見たと聞き及び、常圓の所に常々出入り
している町人に頼んで、「お目にかかって高松攻めについての不審なことをお尋ねしたいと望んでおり、
同道してほしい。」と望んだ。そしてある時、この町人と連れ立って常圓の邸宅に参った。

常圓は太い杖をついて座敷に出ると、そのまま挨拶した
「さてさて、若き人の奇特なる事か。私に逢って高松攻めの不審なることを聞きたいと言うが、それは
どのような事か。」

安兵衛はこれに
「先ずはお目にかかれたこと、忝なく存じ奉ります。ところで、秀吉公が高松城を御攻めになった際、
門前村よりカイルカ鼻(蛙ヶ鼻)までおおよそ一里ほどの長さの堤を築かれたという事ですか、それを城方が
うかうかと見物していたというのは不審に思います。また毛利家も大軍の後詰を出して向陣し、その間はたったの
二十間に足らない場所に居たのに、見物していたのみで長い堤を切り崩す事さえ成らず、一戦を遂げたという
事も聞き及びません。この事不審千万に思います。」

このように申した所、常圓は
「いかにもいかにも、尤もの不審である。ではでは、その時のことをお聞かせ申そう。
その時私は御馬廻りであり、御馬の蹄奉じの時も御供仕るほどで、委細を存じている。それ以前の、鳥取城の
時はゆるゆると取り巻き兵糧詰めにして落としたが、それと事変わり、次の冠城は一時攻めに攻め落とした。
このため味方に手負い、死人も多く出たが、この勢いを聞いて河屋城は直ぐに開け退いた。これによって
備前備中の境の山の上に御人数を備え、一両日してから、高松城は水攻めが然るべしと思し召しに成り、このように
仰せに成った
『私は今より馬で向かう!その跡を直ぐに追いかけてこい!』
そう言われるやそのまま乗り出し、御供はただ七、八人にて門前村よりカイルカ鼻までお乗りに成った。
この時城中より鉄砲が撃ちかけられ、羽織に弾が二つまで当たったが、少しも騒がず乗り返された。
そこから一夜の間に尽く塀をかけ、五十間に一つ宛てで櫓を上げた、これは外から見ると櫓に白土まで塗ったように
見えたが、これは白土ではなく、白紙を貼った障子で囲んだものであった。

これらの櫓から弓鉄砲で敵を撃ちすくめ射すくめさせ、塀の陰にて堤を築いた。これに対し少人数の城兵は
なかなか出ることが出来なかった。
さて、こうして堤が出来ると、これは秀吉公の御運なのであろう、それから三日の間に篠突く程の大雨が降った。

門前村の外に広さ三十間ほどの砂川があり、普段は脚絆が濡れる程度の浅さであった、この川上には大井村という
村があったため、川も大井川と言ったが、この三日間の大雨によって川は瀧のように成って流れた。この時
秀吉公の仰せで、人数二千人ばかりが手に手を取って、門前村の前でこの川の中にひたひたと入り、人によって
水流を弱めると、川下は二、三尺は無い程の浅瀬と成った所を、土俵を以てせき切り、門前村の前の堤の口に
流し込めば、水は逆巻いて城の周辺に滔々と流れ込み、目もこすらぬ間に大海のようになった。

そして城外の山々の方に流れる雨脚も言うに及ばず、備前の方の山半分に溝を付けて、備中高松の方に
流しかけた。現在もその山水は備中の田地に流れており、故に『備前の水にて備中の田を作る』と俗に
申すのは、この事より起こったものである。

そのような訳で城中の兵は何も出来ず、寝耳に水を入れたように呆れ果てたるばかりといった様子で、
また毛利家の後詰めも、あの見せ櫓を見て驚き、それに対する会議評定が終わらぬ内に城は水に浸った
のである。このため城主の清水氏(宗治)は切腹した。やがて京の大変(本能寺の変)が報告されたため、
和議して互いに誓紙を取り交わし、人数引き上げと成る時、この堤を切り崩し、そのまま引き上げた。
これによって俄に毛利家の陣所との間は大海のようになって。たとえ追討ちの心があったとしても、
何もすることは出来なかった。

418 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 12:54:57.97 ID:7IG7eVB0
備前の宇喜多秀家は幼少であり、岡山の城より出向いて半田山のあたりで秀吉公を待ち受け御対面された。
この時秀吉公の召されていた乗輿の中に入られ、様々懇ろに色々御咄など成され、『今後我が養子とする。』と
御約束に成った。沼城のあたりまでお連れに成り、それよりお返しになった。秀家からの加勢の人数も
先に向かわせた。そして飛脚を遣わし、『播州の町、在地に限らず、法華宗の出家は尽く城下に集まるように。』
と万部の御経を仰せ付けに成り、信長公のお弔いにすると、軒並みに仰せ遣わされた。

ところでこの間秀吉公は、御乗輿の中でひたすらお眠りに成り、正体も無いようであった。時々御馬を
召されたが、他愛も無く居眠りをされ、四、五度落馬されたほどであった。このため
『姫路に到着すれば休みを取り、御法事のため三七日(二十一日)過ぎて後に上方に出馬しよう。』と
申されていたのだが、いざ姫路に到着されると、その夜中には早くも御陣触れがあり、早朝に御出馬された。
今思い返してみると、秀吉公はあのように草臥れ、その上弔いの為に上方に上がるまで日数がかかると
光秀の方に聞こえたのであろうか、光秀は明智左馬介に人数を分けて安土へ遣わし油断していた所に、秀吉公は
急に御上がりになった故に、明智の謀は後手後手になって敗軍したのだと考えている。

ところで、尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆かれていた時は、秀吉公も嘆かれ、『この上は何れも
一味同心にて明智を討ち取り申す外はありません。何れも左様に思し召すように。』と、彼らを敬い、とても
慇懃で、同輩として接している様子が見受けられたが、明智敗軍の後、諸大名への御あしらいは『骨折々々』と
仰せになり、家来あしらいと成り、大いに威が付かれた。』

このように語られた、

この佐怖彌右衛門入道常圓は二百五十石下され、隠居したがその子が盲目であっため、孫を跡継ぎとし、
少将様(池田光政)より二百五十石下され、これも佐怖彌右衛門と名乗ったが、彼が死んで子がなく、
断絶という所に、少将様より『佐怖の跡は潰すべからす』との言葉があり、石田鶴右衛門の二男を
跡継ぎとして立てられ、これも佐怖彌右衛門と名乗ったのだが、阿呆を尽くして跡が潰れたという。

村瀬安兵衛は伊木勘解由(岡山藩池田家重臣)の元にて二百石の者で、この物語を聞いたのは、彼が
浪人であった若い頃の事である。

 貞享四年(1687)十月、安兵衛物語の通りに書き付けたもの也。

(高松城攻之物語)

秀吉の備中高松城攻めについて



419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 13:17:08.85 ID:ROhwfMfq
>>417
生き証人の話はリアルでいいなぁ、説得力ある

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 21:31:01.22 ID:5yZpAfb1
>>417
2000人で川の流れを止めるとか信じられん
流されて悲惨なことになっただろう

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 21:51:20.57 ID:R4W40bDn
そもそも可能なんだろうか

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 08:07:21.11 ID:AainfZnh
細かい事解らんけど数十万トン位の圧力になりそう

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 13:35:14.64 ID:2ZgMZM/k
>>426
シーザーも似たようなことやっとるし昔から有効な方法なんだよ

「宇喜多の狐憑き」について、甲子夜話

2019年05月25日 19:26

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 09:39:09.14 ID:rLzlw2E3
『雑談集』に曰く、宇喜多中納言秀家は備前一ヶ国の太守であったが、故あって一人娘(実際には妻の豪姫)に
妖狐が憑いて、様々なことを尽くしても退かず、このため秀家も心気鬱して出仕をも止めてしまった。

これを豊臣秀吉が聞かれ、かの娘を城へ召し、速やかに退くよう命を下すと、狐は忽ち退いたという。
かの狐は退く時このように言った

『我は車裂きの罪に逢うとも退くまじと思っていたが、秀吉の命を背けば、諸大名に命じ、西国、四国の
狐まで悉く狩り平らげるという心中を察したが故に、今退くのだ。我のために多くの狐が命を亡くすこと
如何ともしがたき故なり。』
そう涕泣して立ち去ったという。

翌日、秀家は礼射として登城し、その始末を言上した。秀吉は頷いて微笑したという。
(巻二十二・十九)

安芸の宮島には狐憑きというものが無く、また他所にて狐に憑かれた者をこの島に連れて来ると、
必ず狐が落ちる。また狐憑きの人を、この社頭の鳥居の中に引き入れると、苦悶大叫して即座に狐は
落ちる。霊験かくの如しで、近頃私(松浦静山)の小臣も、これは実説であると言っていた。

これによると、昔宇喜多氏の女が蟲狐が落ちず、太閤秀吉が西国四国の狐狩りをせんと言ったという話は
疑わしい。宇喜多氏の領国である備前と宮島はさほど離れていない。であるのに秀家は鼻の先程の場所にある
霊験を知らずに、憂鬱に日を重ねていたことに成る。実に訝しい。(巻二十二・二十九)

(甲子夜話)

「宇喜多の狐憑き」についての甲子夜話の記事



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 10:53:54.78 ID:pkUWqy7a
狐のくせに四国には狐がいないを知らないとか

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:07:47.02 ID:SLI61bsq
>>64
>蟲狐
なんかすげー怖い…。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:19:44.25 ID:8K1a1MKB
こきつね

我が去年攻め残したる城なれば

2018年08月11日 18:31

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 08:33:19.76 ID:pvd4tFcp
天正十三年四月、宇喜多秀家備前美作の兵一万五千
蜂須賀彦右衛門尉正勝、黒田官兵衛尉孝高を検使とし
仙石權兵衞尉秀久、尾藤甚右衛門尉知定
杉原七郎左衛門尉家次、小西弥九郎行長、共に七人の兵将二万三千人をもって讃州に発向した
四月二十六日に屋島の浦に到着し、北の峯に旗を押し上げると
国中の人民これを見て騒動すること言うばかりもなかった

ところが北の峯は分内狭迫にして兵を留めるのが難しく、そのため南の峯へと移ったが
この山も上代の名城なれど山高くして戦さをなすには用がなく
其の日下山して牟礼高松に上った

さてここに喜岡城という小城があり、高松氏世々の居城であった
香西伊賀守の旗下なれば、加番として唐人弾正、片山志摩守を兵将として百余人指し使し
高松左馬助配下の百余人と共に、二百余人をもって城を守っていた
この城は去年仙石秀久、小西弥九郎らが二千余人をもって攻めれども
堅城なれば落とすことができず、この度四国の手先に在って大軍の馬蹄にかかる事となった

秀吉公の御目代黒田孝高が宇喜多秀家に向かって曰く
「小塁(小城)あり、この度の手始めなれば、踏み落として然るべし
高松山の松を切り寄せ、これをもって堀を埋め上げ足場とし
一時攻めに陥とし国人の聴を驚かすべし」とて全軍に下知されたが
仙石氏これを聞き
「これは我が去年攻め残したる城なれば、他人の手にかけさせるべからず!」として勝手に攻め寄せた
このため攻め具を待たずに、総軍相争って蟻の如く城に取り付く有様となり、この時死ぬ者が多かった

城内にも鉄砲百挺ばかりあったが、敵兵二万余が天地を響かせ攻め寄せると
掘塀堅固とはいえ、猛勢に切所なければ、大軍がいやが上にも重なり
何の造作もなく落城し、二百余人の者ども一人も漏らさず攻め殺された

(南海治乱記)


わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない

2017年07月13日 17:31

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/11(火) 18:03:36.07 ID:aeyCj/OX
 前田肥前守利長なる者がいる。加賀大納言の子である。前田はその姓である。
大納言は、もともと、家康と官爵勢力ともに相等しかった。
秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前守に依託して、「そこもとは、備前中納言秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。
諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌年冬に死んだ。
肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
高く門楼を建て、それが大坂内城と斉しいほど高かった。
彼はひそかに、上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・越中守らと、
家康を殺してその土地を分けようと謀り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。
石田治部少輔が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、
その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。
家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入って拠りどころとし、
肥前の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。
家臣たちはみな、「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。
死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、
我が主君の命に違って死ぬことはない」
と言ってその命令に従わなかった。家康の怒りはますます激しくなった。
肥前の妻の甥であった秀家が行って肥前の家臣を喩し、撤去させ、
「そち達の主が私に言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、
又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。
肥前守も城や隍を修理改築して固守の計を取り、
ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、
景勝などともひそかに相互援助の盟約を結んだ。
群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。
和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。

(看羊録)
※前田利家が死んだのは己亥


宇喜多秀家流罪に及びしこと

2017年02月17日 21:21

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:53:42.57 ID:29qev1l+
宇喜多秀家流罪に及びしこと

 ある人が曰く、
宇喜多秀家は関ヶ原では毛利上杉佐竹と同じである。
他は皆今の領土となったが、
秀家ただ一人が遠流に処されたのは神祖に憎まれることがあったためだとか。
 秀家は法華宗を信仰していて、その時領していた備前備中備後から諸宗を追い立てて悉く日蓮宗の寺とした。
もちろん浄土宗の寺院も押し退けられており、そのため
浄土宗である神祖から憎み怒られていた。
関ヶ原後に、もはや極刑にもなるべきところを島津氏の御歎きから流罪となったという。
 またかの国の諸寺でもその事実を裏付けることを聞いたが、
皆忘れてしまったので、ここではそれを書くことができない。

(甲子夜話三篇)

なぜ島津が、それも家康に意見を言う立場で出てくるのか?



606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:57:21.76 ID:7heINWbt
島津が宇喜多を匿っていて
家康に許された時にそれを申し出たから
島津の顔を立てるためでしょ

そして今もまだ生きていると聞いている。

2016年11月19日 14:24

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 19:46:27.75 ID:7E1FHg/r
宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、
後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。

八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の
城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。

この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で
巻き返して上京出来たのである。

この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、
前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。

但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため
人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。
そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して
高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。

八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。
しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて
この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。

これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。

(老人雑話)

宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、
当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに
なっていたのでしょうね。



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:03:28.64 ID:865MJPbR
>>317
どこのアーサー王だw

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:06:53.08 ID:Limq/1QQ
さっきまでやっていたヒストリアが「戦国一のワル」の回だった
このタイトルで松永や宇喜多じゃなく、最上義光回だったけど
目新しいネタはなかったな

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:58:59.29 ID:gql9sLLB
>>317
泳いで参った!の伝説もあったんだろうか

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 23:33:46.68 ID:Ad/x7wny
2ch発祥ネタじゃねえか

速やかに退去せよ。

2016年05月22日 11:00

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:39:05.74 ID:MJ+Dsnbs
備前中納言殿(宇喜多秀家)御簾中(豪姫)が、最近産後のご病中に、物の怪が憑いたとあい見える。
きっと野狐の所為と太閤殿下は思し召され、御朱印を以ってこのように決定された。

日本の領域において、誰が公儀を軽んずるだろうか。天下において生命あるものから生命無きものまで、
すべて上意を重んじている。いわんや畜類がそれを畏れ従わないということが有るだろうか。
速やかに退去せよ。

こうなった上は、尚も取り憑き、この物の怪のために不慮の事態が出来すれば、当社(伏見稲荷社)は
即座に破却する。その上で日本国中に狐狩りを毎年かたく仰せ付けられ、その類を断ち、尽く殺し果たす
旨を御意として表明された。

社人はその旨をよく理解し、肝胆を砕いて御簾中が回復する為の祈祷をする事に専念すべきである。
恐々謹言


拾月廿日       石田治部少輔
               三成(花押)
           増田右衛門尉
               長盛(花押)

(伏見稲荷社宛文禄四年書状)

有名な秀吉による、豪姫狐憑きに対する反応である。



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:55:34.87 ID:DObW0O0V
産後鬱だったんじゃないのかね

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 20:56:51.50 ID:pHCqulG8
ラスボスの恫喝が怖い

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 21:53:32.60 ID:teJVoUjd
犬千代がラスボスから 国宝大典太光世を借りパクする
ためのイベント

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 00:49:25.25 ID:3/b36sce
>>642
今でいうとそういう医学的な言い回しがあることでも、
当時だと経験的にそういうことがあって原因は「物の怪じゃないかな」って話結構あるのかな

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 08:43:01.02 ID:00wt5hra
レビー小体型認知症が知られたのって結構最近
幽霊見たって話は大抵これで説明出来る

大谷吉継はこのことを聞いて思った

2016年02月06日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 18:59:38.80 ID:mLQrqOXT
大谷刑部少輔(吉継)は徳川家康に無二の忠節を申し上げ、大事の相談の在った時も、心底に残す所無く
家康の御為を大切にした人物であった。

ところが、宇喜多黄門(秀家)家中において不慮の紛争が起こった時(宇喜多騒動)、大谷はこれを取り持ち
榊原康政も引き加えて紛争を解決しようとしたが失敗、戸川肥前守、宇喜多左京、岡越前守、花房志摩守などは
宇喜多秀家から討ち手を向けられれば打って出る!」と、その時の相印として上下皆坊主にした。

これを家康は聞き及び、康政を叱りつけた
「関東よりお前と交代する平岩主計頭が既に上ってきているのに、式部(康政)はどうして関東に下らず、
要らぬ他家への取り持ちをしているのか?そのように欲にふけり、取り持ちに対する礼物を欲しがるような
者だったとは思わなかった!」

康政はこれを聞くやいなや、どこにも暇乞いすらせず早々と関東に下っていった。

大谷吉継はこのことを聞いて思った
「式部をそのようにお叱りなされたということは、私も同様に思われているということだ。
それにして言い方があるではないか。取り持ちをしたのを礼物目当ての汚らしい心中であると仰せになったことは、
草履で面を踏まれたのも同然だ!」

そう家康を怨み、腹を立てて泣いたという。

(玉露叢)



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 21:06:05.15 ID:dLnsTis+
康政を挑発して帰還させ、宇喜多家の騒動の泥沼化→弱体化させる魂胆ですか?

孝高・弾正、碁を打って三奉行に対面せず

2015年08月07日 12:59

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/06(木) 19:37:45.27 ID:6LDCYi5a
朝鮮の王城に在陣していた日本の諸勢、尽く撤退したが、宇喜多秀家が先ず最初に退いた。
この秀家の元に黒田孝高、浅野弾正(長政)が出向いて対面し、太閤秀吉より仰せ越された
趣を述べて、晋州の城攻めについて評定した。その日はそこで宿し、帰陣してくる者たちを待った。

その後、三奉行(石田三成、増田長盛、大谷吉継)が都より引き戻り、黒田孝高の宿所に来て
対面することを請うた。その時孝高は、浅野長政と共に奥の間で碁を打っていたが、
三奉行、特に石田三成が平生権勢に誇ることを憎み、表座敷に待たせて、対局の途中であった碁を、
打ち終わり石を収めた後、「対面するのでこちらに来るように」と伝えさせたが、三奉行は
孝高と浅野長政が碁をしている声を漏れ聞き、彼らが早く出てこないことを怒って、この時すでに
立ち帰っていた。

その後、孝高・浅野両人は三奉行に使いを出して追いかけさせ、『こちらに帰ってきていただきたい』と
伝えたが、三奉行は憤って帰らなかった。これに対し孝高と浅野長政は『我らは既に、総大将である
宇喜多秀家に遭って軍のことをしばしば評議した。太閤の命により軍評定をしようと使いを遣わしたのに、
帰ってこないのは彼らの誤りである。』そう言って再び使いを出すこともしなかった。

その後、三奉行はこのことを恨み、「孝高・弾正は囲碁におぼれ我ら3人が来たことにも気が付かなかった。」
等と言って、人に会えばこのことを語り謗った。更に後には、太閤秀吉にこれを訴えでた。


*貝原益軒の注釈
(この時、孝高・弾正が碁を打って三奉行に対面しなかったのは右に記す通りである。
ただし、太閤記に書かれているのは、伝える者の誤りを信じて、知らずに虚説を記している。
孝高・弾正はこれより先2月に既に渡海しており、この時に渡海したのではない。
軍評定のため宇喜多秀家が都より先に帰った所を対面し、また三奉行をも待っていたのである。
太閤記には、この時弾正・如水日本より使いとして渡海し、太閤の命を告げんとて三奉行を
待っていたと書かれているが、これは虚説である。2月26日太閤より黒田長政に送られた書状にも、
『浅野弾正、黒田勘解由、都在陣衆令相談、見計陣所可相定』とある。
また5月1日太閤より朝鮮に在する弾正、勘解由、三奉行に与えられた書状がある。
2月より既に渡海していたことは、これを以って知るべきである。
その上、黒田孝高はこの時まだ剃髪しておらず、太閤記で如水と称しているのも誤りである。)

(黒田家譜)




福島正則は生来残虐な人であったと言い伝えられているが

2015年06月27日 14:38

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 12:50:26.22 ID:Q+3nj+Cg
福島正則は生来残虐な人であったと言い伝えられているが、その残虐の多くは酒に酔った故であるという。
元来気荒な性格の上に、酒を過ごされたためますます血気登って無法の行いも多かった。
酒気の無い時は、思いの外仁慈の事もあったのだ。
酒が過ぎてしまったために、秀吉公より拝領した秘蔵の鑓を身から離さず所持していたのに、不覚にして
黒田家の重臣毛利(母里)但馬に与えてしまった。こういった類のこと多かった。

正則は関ヶ原後、江戸に屋敷を設けたが、関東は酒が悪いと、上方に申し付け、大阪から江戸に酒を取り寄せていた。
係の役人が酒を吟味し、船に積んで武士一人を奉行として乗船させ、江戸に送った。

ある年、この船が暴風にあい、八丈島に漂着した。波風荒く、4,5日は船を出すことは出来ないと、
そのまま八丈島に逗留していた。この時乗船していた武士が島に上がりそのあたりを歩いて見て回っていると、
年の頃40ばかりの、背が高く色の黒い男が出てきて、武士に尋ねた

「その方はどうしてここに来たのか?」
「私は福島左衛門大夫の家中のものだが、主人の飲む酒を載せて江戸に下る途中である。」
「ほほう。ではその酒を少し私に与えよ。一杯を傾けて今の憂いを晴らし故郷の恋しきを忘れよう。」

武士は聞いて
「その方は何者か?なんの罪でこの島に来たのか?哀れなことだ。」

男、言った
「今更隠してもしょうがないことだ。私は宇喜多秀家の成れの果てだよ。」

武士は驚き、「さてさて、知らずして無礼を申しました。どうか御免あるべし。
酒のことは易き御用です。」そういって秀家の住居を見置いて船に戻り、思案した
『主人より預かりしものを私にするのは道に非ず。また餘多の酒の中から抜き取って遣わしても
知られることはないだろう。人にも寄って、あの方が世にある時は、どうして我らごときに酒の所望など
するだろうか。それを、主人の怒りを恐れて、無下に少しの酒を送らないというのは本意ではない。
いま、このよう所望に合うのも身の不肖の故なのだろう。」

そう思い定めて酒一升にありあわせの干魚を少し取り添えて水夫に持たせかの住居へと行った。
「少しばかりではありますが、主人からの預かり物ですので心の儘にも出来ません。これにて
御徒然を慰ませられますように」と贈り、ほどなく出港し、江戸に到着して台所役人に
酒を引き渡すと、そのまま直に目付役の者の所に行って、暴風で八丈島に吹き寄せられ
宇喜多秀家の所望に寄ってやむを得ず酒一樽を贈ったこと、ありのままに告白した。

「上の許可もなく我儘の働きを仕った上は、どのような罪科を仰せ付けられても少しも恨み申すことは
ありません。」

そう言い置いて宿舎に帰った。
目付役も聞き捨てることも出来ず、これを正則に伝えると、正則はすぐにその者を呼び出した。
役人たちは「短気である正則様であるから、きっと手討ちにするのだろう。」と確信した。
かの武士もそう覚悟して出てくると、、正則は「前へ!」呼ぶ。武士は臆する色もなく
無刀にて出る。近習たちは『これから手討ちに成るのだ、かわいそうに。』と見ていると、
正則は「ここに来い!」と側近くに呼び、少しも怒る様子はなく

「さてさて、汝はでかした!一樽の酒は小分の事であり、もっと多く遣わしても私にとって
事欠くものではない。さりながら、私が指図したことではないのだから、汝が遠慮したのも
尤もである。

もし汝が私の手前をはばかって秀家の所望を断ったなら、きっと、私が吝嗇であるがゆえに汝ごとき
者までも私の前をはばかって与えなかったのだ、などと世の人々に卑しまれただろう。それは無念のことである。

また、他の樽から少しずつ抜き取って与え、この事を隠しておいても誰も気づかなかっただろうに、
その方は律儀なる故、さようなむさき心がないのは神妙である。」

この時の正則の機嫌の良さは存外なものであったと皆々囁いたという。
この他にもやさしき事多くあり、非義の行いは皆、酔狂の故であった。だからこそ改易された時も、
家臣に不義の士は無く、いずれもよく義を守った。これは正則が常に諸士を憐れみ慈しんでいた故なのである。
(明良洪範)



992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 13:18:40.43 ID:Bn5kcBVI
酒さえ飲み過ぎなきゃほんといい人なんすよ…

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 14:21:05.58 ID:bSB2ft1R
森武蔵も酒乱だったのかな

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 17:20:08.10 ID:Aj+F8Rk5
そういえば安芸国廣島にはかつて主君の森伊蔵を勝手に飲んでしまったため
さらし者にされてしまった者がいたそうな

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 19:11:59.79 ID:W0VNH1Z7
>>994
キムピンの悪口はそれまでだ

戸田勝成「恐らく左近は、」

2015年01月07日 18:52

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 22:38:53.29 ID:Co/gnY+p
備前宰相殿(宇喜多秀家)等は、惟新公の夜襲すべしという意見に賛成なさったが
治部殿とその寵臣・嶋左近(島清興)はこれに反対した。
特に左近の、主人の威を借りての人無げな無礼な物言いには、中務殿(島津豊久)も
大いに怒られたが、惟新公はこれを目で押しとどめてもはや何もおっしゃらず、不快の
念を隠そうとはしなかった。
宇喜多家中の明石掃部(明石全登)が、皆をなだめて軍議は早々に打ち切られた。
陣を立ち去る時、武蔵殿(戸田勝成/重政)が惟新公に「残念なことよ」と声をかけられ、
因幡殿(平塚為広)も同調して、惟新公は心慰められる想いをなされた。
中務殿はまだ憤懣冷めやらず、「嶋左近ごときに何が分かろうか」とおっしゃられると、
武蔵殿は「治部殿は戦の駆け引きに疎く、左近はしょせん大和でわずかばかりの
侍働きをして虚名を馳せただけで、その後は治部殿に仕えていたため、大戦(おおいくさ)
の経験がない。先の戦い(杭瀬川の戦い?)程度の小競り合いならともかく、此度の
ような戦で、あの二人が全軍の指揮を執るのでは、なかなか内府殿のような古強者には
勝てまい」と嘆かれた。
因幡殿が「治部は、左近に我が軍の采配を任せるのでしょうか」と問うと、武蔵殿は
「恐らく左近は、治部殿の家中をまとめるだけで精いっぱいであろう。端武者のごとく
前に出て、早々に怪我をすることになるのではないか。軍配を執ることはあるまい」
と答えられた。
武蔵殿は小身ながら知恵者と呼ばれた人であり、その言葉通り、嶋左近は治部殿の
先鋒を務めて侍大将としては活躍したものの、銃で撃たれて陣内に担ぎ込まれ、
西軍の大敗を見ることなく亡くなったということである。(兵忠記 「慶長合戦のこと」)



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 23:56:54.18 ID:Nenzv4jh
戸田さんは色んなところで褒められてるな

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 04:34:44.96 ID:giNPOH3x
>>181、>>183
島左近は後世の評価が過大評価っぽいよね

・1550年に家督を継いだ幼い筒井順昭を盛り立てたと言われるが、当時の
 家臣団に名前が無く、初登場は1571年
・「筒井家の両翼(右近左近)」と並び称されたと言われるが、順昭が活躍した
 時代の両翼は松倉秀政と松田盛勝で、松倉重信(右近)と島左近はもっと後期
・実質的には定次時代の両翼だが、すぐに筒井家を出奔
 四国征伐には定次とともに従軍したようだが活躍の記録なし
・豊臣秀長・秀保に仕え、九州征伐には参加したが、秀長の病気により小田原
 征伐には参加せず、朝鮮の役でも秀保の渡海は無く、秀保配下の紀伊衆
 とともに水軍として活躍した形跡もなし
・その後に三成に仕官
 よってその戦歴は、ほとんど大和国内または信長-順昭、秀吉-定次配下での
 畿内の戦(紀州攻め・伊賀攻め)がメインで、大規模な戦は定次-四国攻め、
 秀長-九州攻めの2つのみであり、それ以降の10数年は、関ヶ原まで戦場での
 指揮の経験なし
・島氏は大和の在地土豪で、「山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」も
 嘘っぽい