417 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 12:54:34.32 ID:7IG7eVB0
佐怖彌右衛門入道常圓という者は、百余歳まで長命した人物であった。
村瀬安兵衛は内々に、この
佐怖常圓が秀吉公の御供として、備中高松城攻めを目の当たりに見たと聞き及び、常圓の所に常々出入り
している町人に頼んで、「お目にかかって高松攻めについての不審なことをお尋ねしたいと望んでおり、
同道してほしい。」と望んだ。そしてある時、この町人と連れ立って常圓の邸宅に参った。
常圓は太い杖をついて座敷に出ると、そのまま挨拶した
「さてさて、若き人の奇特なる事か。私に逢って高松攻めの不審なることを聞きたいと言うが、それは
どのような事か。」
安兵衛はこれに
「先ずはお目にかかれたこと、忝なく存じ奉ります。ところで、秀吉公が高松城を御攻めになった際、
門前村よりカイルカ鼻(蛙ヶ鼻)までおおよそ一里ほどの長さの堤を築かれたという事ですか、それを城方が
うかうかと見物していたというのは不審に思います。また毛利家も大軍の後詰を出して向陣し、その間はたったの
二十間に足らない場所に居たのに、見物していたのみで長い堤を切り崩す事さえ成らず、一戦を遂げたという
事も聞き及びません。この事不審千万に思います。」
このように申した所、常圓は
「いかにもいかにも、尤もの不審である。ではでは、その時のことをお聞かせ申そう。
その時私は御馬廻りであり、御馬の蹄奉じの時も御供仕るほどで、委細を存じている。それ以前の、鳥取城の
時はゆるゆると取り巻き兵糧詰めにして落としたが、それと事変わり、次の冠城は一時攻めに攻め落とした。
このため味方に手負い、死人も多く出たが、この勢いを聞いて河屋城は直ぐに開け退いた。これによって
備前備中の境の山の上に御人数を備え、一両日してから、高松城は水攻めが然るべしと思し召しに成り、このように
仰せに成った
『私は今より馬で向かう!その跡を直ぐに追いかけてこい!』
そう言われるやそのまま乗り出し、御供はただ七、八人にて門前村よりカイルカ鼻までお乗りに成った。
この時城中より鉄砲が撃ちかけられ、羽織に弾が二つまで当たったが、少しも騒がず乗り返された。
そこから一夜の間に尽く塀をかけ、五十間に一つ宛てで櫓を上げた、これは外から見ると櫓に白土まで塗ったように
見えたが、これは白土ではなく、白紙を貼った障子で囲んだものであった。
これらの櫓から弓鉄砲で敵を撃ちすくめ射すくめさせ、塀の陰にて堤を築いた。これに対し少人数の城兵は
なかなか出ることが出来なかった。
さて、こうして堤が出来ると、これは秀吉公の御運なのであろう、それから三日の間に篠突く程の大雨が降った。
門前村の外に広さ三十間ほどの砂川があり、普段は脚絆が濡れる程度の浅さであった、この川上には大井村という
村があったため、川も大井川と言ったが、この三日間の大雨によって川は瀧のように成って流れた。この時
秀吉公の仰せで、人数二千人ばかりが手に手を取って、門前村の前でこの川の中にひたひたと入り、人によって
水流を弱めると、川下は二、三尺は無い程の浅瀬と成った所を、土俵を以てせき切り、門前村の前の堤の口に
流し込めば、水は逆巻いて城の周辺に滔々と流れ込み、目もこすらぬ間に大海のようになった。
そして城外の山々の方に流れる雨脚も言うに及ばず、備前の方の山半分に溝を付けて、備中高松の方に
流しかけた。現在もその山水は備中の田地に流れており、故に『備前の水にて備中の田を作る』と俗に
申すのは、この事より起こったものである。
そのような訳で城中の兵は何も出来ず、寝耳に水を入れたように呆れ果てたるばかりといった様子で、
また毛利家の後詰めも、あの見せ櫓を見て驚き、それに対する会議評定が終わらぬ内に城は水に浸った
のである。このため城主の清水氏(宗治)は切腹した。やがて京の大変(本能寺の変)が報告されたため、
和議して互いに誓紙を取り交わし、人数引き上げと成る時、この堤を切り崩し、そのまま引き上げた。
これによって俄に毛利家の陣所との間は大海のようになって。たとえ追討ちの心があったとしても、
何もすることは出来なかった。
418 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 12:54:57.97 ID:7IG7eVB0
備前の
宇喜多秀家は幼少であり、岡山の城より出向いて半田山のあたりで秀吉公を待ち受け御対面された。
この時秀吉公の召されていた乗輿の中に入られ、様々懇ろに色々御咄など成され、『今後我が養子とする。』と
御約束に成った。沼城のあたりまでお連れに成り、それよりお返しになった。秀家からの加勢の人数も
先に向かわせた。そして飛脚を遣わし、『播州の町、在地に限らず、法華宗の出家は尽く城下に集まるように。』
と万部の御経を仰せ付けに成り、信長公のお弔いにすると、軒並みに仰せ遣わされた。
ところでこの間秀吉公は、御乗輿の中でひたすらお眠りに成り、正体も無いようであった。時々御馬を
召されたが、他愛も無く居眠りをされ、四、五度落馬されたほどであった。このため
『姫路に到着すれば休みを取り、御法事のため三七日(二十一日)過ぎて後に上方に出馬しよう。』と
申されていたのだが、いざ姫路に到着されると、その夜中には早くも御陣触れがあり、早朝に御出馬された。
今思い返してみると、秀吉公はあのように草臥れ、その上弔いの為に上方に上がるまで日数がかかると
光秀の方に聞こえたのであろうか、光秀は明智左馬介に人数を分けて安土へ遣わし油断していた所に、秀吉公は
急に御上がりになった故に、明智の謀は後手後手になって敗軍したのだと考えている。
ところで、尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆かれていた時は、秀吉公も嘆かれ、『この上は何れも
一味同心にて明智を討ち取り申す外はありません。何れも左様に思し召すように。』と、彼らを敬い、とても
慇懃で、同輩として接している様子が見受けられたが、明智敗軍の後、諸大名への御あしらいは『骨折々々』と
仰せになり、家来あしらいと成り、大いに威が付かれた。』
このように語られた、
この佐怖彌右衛門入道常圓は二百五十石下され、隠居したがその子が盲目であっため、孫を跡継ぎとし、
少将様(
池田光政)より二百五十石下され、これも佐怖彌右衛門と名乗ったが、彼が死んで子がなく、
断絶という所に、少将様より『佐怖の跡は潰すべからす』との言葉があり、石田鶴右衛門の二男を
跡継ぎとして立てられ、これも佐怖彌右衛門と名乗ったのだが、阿呆を尽くして跡が潰れたという。
村瀬安兵衛は伊木勘解由(岡山藩池田家重臣)の元にて二百石の者で、この物語を聞いたのは、彼が
浪人であった若い頃の事である。
貞享四年(1687)十月、安兵衛物語の通りに書き付けたもの也。
(高松城攻之物語)
秀吉の備中高松城攻めについて
419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 13:17:08.85 ID:ROhwfMfq
>>417
生き証人の話はリアルでいいなぁ、説得力ある
425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 21:31:01.22 ID:5yZpAfb1
>>417
2000人で川の流れを止めるとか信じられん
流されて悲惨なことになっただろう
426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 21:51:20.57 ID:R4W40bDn
そもそも可能なんだろうか
427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 08:07:21.11 ID:AainfZnh
細かい事解らんけど数十万トン位の圧力になりそう
429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 13:35:14.64 ID:2ZgMZM/k
>>426
シーザーも似たようなことやっとるし昔から有効な方法なんだよ