わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない

2017年07月13日 17:31

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/11(火) 18:03:36.07 ID:aeyCj/OX
 前田肥前守利長なる者がいる。加賀大納言の子である。前田はその姓である。
大納言は、もともと、家康と官爵勢力ともに相等しかった。
秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前守に依託して、「そこもとは、備前中納言秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。
諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌年冬に死んだ。
肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
高く門楼を建て、それが大坂内城と斉しいほど高かった。
彼はひそかに、上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・越中守らと、
家康を殺してその土地を分けようと謀り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。
石田治部少輔が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、
その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。
家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入って拠りどころとし、
肥前の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。
家臣たちはみな、「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。
死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、
我が主君の命に違って死ぬことはない」
と言ってその命令に従わなかった。家康の怒りはますます激しくなった。
肥前の妻の甥であった秀家が行って肥前の家臣を喩し、撤去させ、
「そち達の主が私に言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、
又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。
肥前守も城や隍を修理改築して固守の計を取り、
ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、
景勝などともひそかに相互援助の盟約を結んだ。
群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。
和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。

(看羊録)
※前田利家が死んだのは己亥


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宇喜多秀家流罪に及びしこと

2017年02月17日 21:21

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:53:42.57 ID:29qev1l+
宇喜多秀家流罪に及びしこと

 ある人が曰く、
宇喜多秀家は関ヶ原では毛利上杉佐竹と同じである。
他は皆今の領土となったが、
秀家ただ一人が遠流に処されたのは神祖に憎まれることがあったためだとか。
 秀家は法華宗を信仰していて、その時領していた備前備中備後から諸宗を追い立てて悉く日蓮宗の寺とした。
もちろん浄土宗の寺院も押し退けられており、そのため
浄土宗である神祖から憎み怒られていた。
関ヶ原後に、もはや極刑にもなるべきところを島津氏の御歎きから流罪となったという。
 またかの国の諸寺でもその事実を裏付けることを聞いたが、
皆忘れてしまったので、ここではそれを書くことができない。

(甲子夜話三篇)

なぜ島津が、それも家康に意見を言う立場で出てくるのか?



606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:57:21.76 ID:7heINWbt
島津が宇喜多を匿っていて
家康に許された時にそれを申し出たから
島津の顔を立てるためでしょ

そして今もまだ生きていると聞いている。

2016年11月19日 14:24

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 19:46:27.75 ID:7E1FHg/r
宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、
後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。

八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の
城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。

この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で
巻き返して上京出来たのである。

この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、
前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。

但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため
人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。
そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して
高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。

八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。
しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて
この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。

これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。

(老人雑話)

宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、
当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに
なっていたのでしょうね。



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:03:28.64 ID:865MJPbR
>>317
どこのアーサー王だw

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:06:53.08 ID:Limq/1QQ
さっきまでやっていたヒストリアが「戦国一のワル」の回だった
このタイトルで松永や宇喜多じゃなく、最上義光回だったけど
目新しいネタはなかったな

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:58:59.29 ID:gql9sLLB
>>317
泳いで参った!の伝説もあったんだろうか

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 23:33:46.68 ID:Ad/x7wny
2ch発祥ネタじゃねえか

速やかに退去せよ。

2016年05月22日 11:00

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:39:05.74 ID:MJ+Dsnbs
備前中納言殿(宇喜多秀家)御簾中(豪姫)が、最近産後のご病中に、物の怪が憑いたとあい見える。
きっと野狐の所為と太閤殿下は思し召され、御朱印を以ってこのように決定された。

日本の領域において、誰が公儀を軽んずるだろうか。天下において生命あるものから生命無きものまで、
すべて上意を重んじている。いわんや畜類がそれを畏れ従わないということが有るだろうか。
速やかに退去せよ。

こうなった上は、尚も取り憑き、この物の怪のために不慮の事態が出来すれば、当社(伏見稲荷社)は
即座に破却する。その上で日本国中に狐狩りを毎年かたく仰せ付けられ、その類を断ち、尽く殺し果たす
旨を御意として表明された。

社人はその旨をよく理解し、肝胆を砕いて御簾中が回復する為の祈祷をする事に専念すべきである。
恐々謹言


拾月廿日       石田治部少輔
               三成(花押)
           増田右衛門尉
               長盛(花押)

(伏見稲荷社宛文禄四年書状)

有名な秀吉による、豪姫狐憑きに対する反応である。



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:55:34.87 ID:DObW0O0V
産後鬱だったんじゃないのかね

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 20:56:51.50 ID:pHCqulG8
ラスボスの恫喝が怖い

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 21:53:32.60 ID:teJVoUjd
犬千代がラスボスから 国宝大典太光世を借りパクする
ためのイベント

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 00:49:25.25 ID:3/b36sce
>>642
今でいうとそういう医学的な言い回しがあることでも、
当時だと経験的にそういうことがあって原因は「物の怪じゃないかな」って話結構あるのかな

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 08:43:01.02 ID:00wt5hra
レビー小体型認知症が知られたのって結構最近
幽霊見たって話は大抵これで説明出来る

大谷吉継はこのことを聞いて思った

2016年02月06日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 18:59:38.80 ID:mLQrqOXT
大谷刑部少輔(吉継)は徳川家康に無二の忠節を申し上げ、大事の相談の在った時も、心底に残す所無く
家康の御為を大切にした人物であった。

ところが、宇喜多黄門(秀家)家中において不慮の紛争が起こった時(宇喜多騒動)、大谷はこれを取り持ち
榊原康政も引き加えて紛争を解決しようとしたが失敗、戸川肥前守、宇喜多左京、岡越前守、花房志摩守などは
宇喜多秀家から討ち手を向けられれば打って出る!」と、その時の相印として上下皆坊主にした。

これを家康は聞き及び、康政を叱りつけた
「関東よりお前と交代する平岩主計頭が既に上ってきているのに、式部(康政)はどうして関東に下らず、
要らぬ他家への取り持ちをしているのか?そのように欲にふけり、取り持ちに対する礼物を欲しがるような
者だったとは思わなかった!」

康政はこれを聞くやいなや、どこにも暇乞いすらせず早々と関東に下っていった。

大谷吉継はこのことを聞いて思った
「式部をそのようにお叱りなされたということは、私も同様に思われているということだ。
それにして言い方があるではないか。取り持ちをしたのを礼物目当ての汚らしい心中であると仰せになったことは、
草履で面を踏まれたのも同然だ!」

そう家康を怨み、腹を立てて泣いたという。

(玉露叢)



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 21:06:05.15 ID:dLnsTis+
康政を挑発して帰還させ、宇喜多家の騒動の泥沼化→弱体化させる魂胆ですか?

孝高・弾正、碁を打って三奉行に対面せず

2015年08月07日 12:59

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/06(木) 19:37:45.27 ID:6LDCYi5a
朝鮮の王城に在陣していた日本の諸勢、尽く撤退したが、宇喜多秀家が先ず最初に退いた。
この秀家の元に黒田孝高、浅野弾正(長政)が出向いて対面し、太閤秀吉より仰せ越された
趣を述べて、晋州の城攻めについて評定した。その日はそこで宿し、帰陣してくる者たちを待った。

その後、三奉行(石田三成、増田長盛、大谷吉継)が都より引き戻り、黒田孝高の宿所に来て
対面することを請うた。その時孝高は、浅野長政と共に奥の間で碁を打っていたが、
三奉行、特に石田三成が平生権勢に誇ることを憎み、表座敷に待たせて、対局の途中であった碁を、
打ち終わり石を収めた後、「対面するのでこちらに来るように」と伝えさせたが、三奉行は
孝高と浅野長政が碁をしている声を漏れ聞き、彼らが早く出てこないことを怒って、この時すでに
立ち帰っていた。

その後、孝高・浅野両人は三奉行に使いを出して追いかけさせ、『こちらに帰ってきていただきたい』と
伝えたが、三奉行は憤って帰らなかった。これに対し孝高と浅野長政は『我らは既に、総大将である
宇喜多秀家に遭って軍のことをしばしば評議した。太閤の命により軍評定をしようと使いを遣わしたのに、
帰ってこないのは彼らの誤りである。』そう言って再び使いを出すこともしなかった。

その後、三奉行はこのことを恨み、「孝高・弾正は囲碁におぼれ我ら3人が来たことにも気が付かなかった。」
等と言って、人に会えばこのことを語り謗った。更に後には、太閤秀吉にこれを訴えでた。


*貝原益軒の注釈
(この時、孝高・弾正が碁を打って三奉行に対面しなかったのは右に記す通りである。
ただし、太閤記に書かれているのは、伝える者の誤りを信じて、知らずに虚説を記している。
孝高・弾正はこれより先2月に既に渡海しており、この時に渡海したのではない。
軍評定のため宇喜多秀家が都より先に帰った所を対面し、また三奉行をも待っていたのである。
太閤記には、この時弾正・如水日本より使いとして渡海し、太閤の命を告げんとて三奉行を
待っていたと書かれているが、これは虚説である。2月26日太閤より黒田長政に送られた書状にも、
『浅野弾正、黒田勘解由、都在陣衆令相談、見計陣所可相定』とある。
また5月1日太閤より朝鮮に在する弾正、勘解由、三奉行に与えられた書状がある。
2月より既に渡海していたことは、これを以って知るべきである。
その上、黒田孝高はこの時まだ剃髪しておらず、太閤記で如水と称しているのも誤りである。)

(黒田家譜)




福島正則は生来残虐な人であったと言い伝えられているが

2015年06月27日 14:38

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 12:50:26.22 ID:Q+3nj+Cg
福島正則は生来残虐な人であったと言い伝えられているが、その残虐の多くは酒に酔った故であるという。
元来気荒な性格の上に、酒を過ごされたためますます血気登って無法の行いも多かった。
酒気の無い時は、思いの外仁慈の事もあったのだ。
酒が過ぎてしまったために、秀吉公より拝領した秘蔵の鑓を身から離さず所持していたのに、不覚にして
黒田家の重臣毛利(母里)但馬に与えてしまった。こういった類のこと多かった。

正則は関ヶ原後、江戸に屋敷を設けたが、関東は酒が悪いと、上方に申し付け、大阪から江戸に酒を取り寄せていた。
係の役人が酒を吟味し、船に積んで武士一人を奉行として乗船させ、江戸に送った。

ある年、この船が暴風にあい、八丈島に漂着した。波風荒く、4,5日は船を出すことは出来ないと、
そのまま八丈島に逗留していた。この時乗船していた武士が島に上がりそのあたりを歩いて見て回っていると、
年の頃40ばかりの、背が高く色の黒い男が出てきて、武士に尋ねた

「その方はどうしてここに来たのか?」
「私は福島左衛門大夫の家中のものだが、主人の飲む酒を載せて江戸に下る途中である。」
「ほほう。ではその酒を少し私に与えよ。一杯を傾けて今の憂いを晴らし故郷の恋しきを忘れよう。」

武士は聞いて
「その方は何者か?なんの罪でこの島に来たのか?哀れなことだ。」

男、言った
「今更隠してもしょうがないことだ。私は宇喜多秀家の成れの果てだよ。」

武士は驚き、「さてさて、知らずして無礼を申しました。どうか御免あるべし。
酒のことは易き御用です。」そういって秀家の住居を見置いて船に戻り、思案した
『主人より預かりしものを私にするのは道に非ず。また餘多の酒の中から抜き取って遣わしても
知られることはないだろう。人にも寄って、あの方が世にある時は、どうして我らごときに酒の所望など
するだろうか。それを、主人の怒りを恐れて、無下に少しの酒を送らないというのは本意ではない。
いま、このよう所望に合うのも身の不肖の故なのだろう。」

そう思い定めて酒一升にありあわせの干魚を少し取り添えて水夫に持たせかの住居へと行った。
「少しばかりではありますが、主人からの預かり物ですので心の儘にも出来ません。これにて
御徒然を慰ませられますように」と贈り、ほどなく出港し、江戸に到着して台所役人に
酒を引き渡すと、そのまま直に目付役の者の所に行って、暴風で八丈島に吹き寄せられ
宇喜多秀家の所望に寄ってやむを得ず酒一樽を贈ったこと、ありのままに告白した。

「上の許可もなく我儘の働きを仕った上は、どのような罪科を仰せ付けられても少しも恨み申すことは
ありません。」

そう言い置いて宿舎に帰った。
目付役も聞き捨てることも出来ず、これを正則に伝えると、正則はすぐにその者を呼び出した。
役人たちは「短気である正則様であるから、きっと手討ちにするのだろう。」と確信した。
かの武士もそう覚悟して出てくると、、正則は「前へ!」呼ぶ。武士は臆する色もなく
無刀にて出る。近習たちは『これから手討ちに成るのだ、かわいそうに。』と見ていると、
正則は「ここに来い!」と側近くに呼び、少しも怒る様子はなく

「さてさて、汝はでかした!一樽の酒は小分の事であり、もっと多く遣わしても私にとって
事欠くものではない。さりながら、私が指図したことではないのだから、汝が遠慮したのも
尤もである。

もし汝が私の手前をはばかって秀家の所望を断ったなら、きっと、私が吝嗇であるがゆえに汝ごとき
者までも私の前をはばかって与えなかったのだ、などと世の人々に卑しまれただろう。それは無念のことである。

また、他の樽から少しずつ抜き取って与え、この事を隠しておいても誰も気づかなかっただろうに、
その方は律儀なる故、さようなむさき心がないのは神妙である。」

この時の正則の機嫌の良さは存外なものであったと皆々囁いたという。
この他にもやさしき事多くあり、非義の行いは皆、酔狂の故であった。だからこそ改易された時も、
家臣に不義の士は無く、いずれもよく義を守った。これは正則が常に諸士を憐れみ慈しんでいた故なのである。
(明良洪範)



992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 13:18:40.43 ID:Bn5kcBVI
酒さえ飲み過ぎなきゃほんといい人なんすよ…

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 14:21:05.58 ID:bSB2ft1R
森武蔵も酒乱だったのかな

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 17:20:08.10 ID:Aj+F8Rk5
そういえば安芸国廣島にはかつて主君の森伊蔵を勝手に飲んでしまったため
さらし者にされてしまった者がいたそうな

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 19:11:59.79 ID:W0VNH1Z7
>>994
キムピンの悪口はそれまでだ

戸田勝成「恐らく左近は、」

2015年01月07日 18:52

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 22:38:53.29 ID:Co/gnY+p
備前宰相殿(宇喜多秀家)等は、惟新公の夜襲すべしという意見に賛成なさったが
治部殿とその寵臣・嶋左近(島清興)はこれに反対した。
特に左近の、主人の威を借りての人無げな無礼な物言いには、中務殿(島津豊久)も
大いに怒られたが、惟新公はこれを目で押しとどめてもはや何もおっしゃらず、不快の
念を隠そうとはしなかった。
宇喜多家中の明石掃部(明石全登)が、皆をなだめて軍議は早々に打ち切られた。
陣を立ち去る時、武蔵殿(戸田勝成/重政)が惟新公に「残念なことよ」と声をかけられ、
因幡殿(平塚為広)も同調して、惟新公は心慰められる想いをなされた。
中務殿はまだ憤懣冷めやらず、「嶋左近ごときに何が分かろうか」とおっしゃられると、
武蔵殿は「治部殿は戦の駆け引きに疎く、左近はしょせん大和でわずかばかりの
侍働きをして虚名を馳せただけで、その後は治部殿に仕えていたため、大戦(おおいくさ)
の経験がない。先の戦い(杭瀬川の戦い?)程度の小競り合いならともかく、此度の
ような戦で、あの二人が全軍の指揮を執るのでは、なかなか内府殿のような古強者には
勝てまい」と嘆かれた。
因幡殿が「治部は、左近に我が軍の采配を任せるのでしょうか」と問うと、武蔵殿は
「恐らく左近は、治部殿の家中をまとめるだけで精いっぱいであろう。端武者のごとく
前に出て、早々に怪我をすることになるのではないか。軍配を執ることはあるまい」
と答えられた。
武蔵殿は小身ながら知恵者と呼ばれた人であり、その言葉通り、嶋左近は治部殿の
先鋒を務めて侍大将としては活躍したものの、銃で撃たれて陣内に担ぎ込まれ、
西軍の大敗を見ることなく亡くなったということである。(兵忠記 「慶長合戦のこと」)



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 23:56:54.18 ID:Nenzv4jh
戸田さんは色んなところで褒められてるな

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 04:34:44.96 ID:giNPOH3x
>>181、>>183
島左近は後世の評価が過大評価っぽいよね

・1550年に家督を継いだ幼い筒井順昭を盛り立てたと言われるが、当時の
 家臣団に名前が無く、初登場は1571年
・「筒井家の両翼(右近左近)」と並び称されたと言われるが、順昭が活躍した
 時代の両翼は松倉秀政と松田盛勝で、松倉重信(右近)と島左近はもっと後期
・実質的には定次時代の両翼だが、すぐに筒井家を出奔
 四国征伐には定次とともに従軍したようだが活躍の記録なし
・豊臣秀長・秀保に仕え、九州征伐には参加したが、秀長の病気により小田原
 征伐には参加せず、朝鮮の役でも秀保の渡海は無く、秀保配下の紀伊衆
 とともに水軍として活躍した形跡もなし
・その後に三成に仕官
 よってその戦歴は、ほとんど大和国内または信長-順昭、秀吉-定次配下での
 畿内の戦(紀州攻め・伊賀攻め)がメインで、大規模な戦は定次-四国攻め、
 秀長-九州攻めの2つのみであり、それ以降の10数年は、関ヶ原まで戦場での
 指揮の経験なし
・島氏は大和の在地土豪で、「山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」も
 嘘っぽい

二益がある故に

2014年12月06日 18:53

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/05(金) 21:41:15.89 ID:ny/cwYoi
関ヶ原において西軍が敗れると、宇喜多秀家の士卒たちも思い思いに落ちていったが、
飯尾太郎右衛門安延は山中に逃げ退いた。この間に家人に離れ馬も乗り捨て兜も脱ぎ、
ただ一人で逃走していた。

しかしこの後から、池田輝政の家臣である砥倉市正が人数2,30人を連れて追撃をしていた。
実はこの市正は、太郎右衛門の叔母聟であった。
市正は落人を追いかけ接近してよく見ると。それが太郎右衛門であることに気がつき、声をかけた

「そなたは飯尾太郎右衛門ではないか!?」

「いかにも太郎右衛門である!そのように申すそなたは何者か!?」

「私は砥倉市正だ!」
そういうと後ろに続く兵卒に、彼を討ってはならないと下知した。
そして太郎右衛門の所に行き
「まず落人を一人、下人でも何でも良いから、それを討ち留めるのだ。」
そう言って下人2,3人を付け遣わした。
太郎右衛門は納得できなかったが、市正が強いて落人を討たせに向かわせたので、
見知ったものは討たず、そのうちに見慣れぬ下人を見つけてこれを討ち首を取って戻ってきた、

市正はこれを見ると、その血を太郎右衛門の口に塗るなどした。そして
「これは降人の法なのだ。敵の首を取って降人に来たといえば、主人に理屈を言うことができる。
そのうえ落人というものは、樊カイを欺くほどの勇者であっても、臆病神の付く物だ。
また落人を討たせその上で血を飲ませるなどする事は、昔より定まりたる法なのである。
このように、降人の法となる事と臆病になっている事の二益がある故に、そなたに落人を討たせたのだ。」

これによって飯尾太郎右衛門は、一命を許されたのである。

(黒田家臣伝)




進藤三左衛門正次の節義

2014年07月17日 18:51

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 22:16:02.06 ID:i5spjsh6
宇喜多秀家の家臣に進藤三左衛門正次という者があった。
彼はかねてよりよく知られた武士であり、関ヶ原の合戦の後、秀家とともに逃亡したが、
やがて捕らえられ、家康より秀家の行方を尋問された。

正次は「私は秀家が敗走して後3日ばかり付き従いましたが、その後は主従別れ別れに隠れ忍んで
行方知れずと成りました。」と答えた。

家康はこれを聞くと「正次は君臣の義を重んじるが故に、その隠れる所を申さない事に疑いない。」と
却ってその忠義の志に感じ入り、金10枚を与え自分の元に留めおいた。
この時「秀家が秘蔵していた鵜飼國次の脇差しはどうなったか?」と尋ねたが、これに関しては
正次は関ヶ原の辺りで探し当て、家康に献上した。

さて、慶長8年8月、宇喜多秀家は潜伏していた薩摩から召し上げられた。
この時、本多正純、徳山則秀が彼を尋問したが、進藤正次に関して、彼は伊吹山中にて、
秀家を50日間に渡り深く隠し忍ばせたと、秀家は答えた。

先に正次は3日秀家に付き従ったと証言しており、その言葉と一致しない内容に、家康は
「その主を思うこと厚きが故に、己の美を殊更言い揚げなかったのだ」
と深く感じ入り、正次に500石を与え御家人に加えた。

(徳川実記)

徳川家康宇喜多秀家の旧臣に感じ入る、というお話し。

関連
進藤三左衛門正次の節義・別バージョン


宇喜多殿についての事

2014年05月03日 19:03

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 19:44:22.17 ID:EoHCg8jK
宇喜多殿についての事だが、これは元々備前の士であった。当時、浦上という者が備前美作
両国の主であり、宇喜多直家はこの浦上の家臣であったのである。

この直家は悪性の人物であり、国郡を持つ人と縁者などになって、後にこれを殺して奪い取ることを
度々行った者なのである。
最後には主君である浦上をも殺し、終に備前美作両国の主となった。

八郎殿(宇喜多秀家)はこの直家の子である。彼が太閤(秀吉)と非常に良い関係となったのは、
秀吉が備中高松城を攻めていた時、明智光秀による本能寺の変の情報が伝えられ、秀吉は引き返したいと
思ったが、なかなか自由にならなかった。

この時八郎殿は秀吉に味方し、力を添えたので、それもあって高松の城主に腹を切らせ、一気に反転して
上京をすることが出来た。この忠功によって親密な関係となり、秀吉は八郎殿を聟に取った。
ただし秀吉には息女がなかったので、前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟とした。

この時分は、八郎殿は未だ10歳ばかりであった。高松攻めのころは直家も未だ生きていたのだが、
瘡毒のため人前に出ることも出来ない状況にあったため、八郎殿を国主分とし、宇喜多家には
5万石3万石領有する強力な家老たちがあったので、彼らが談合して高松の時も秀吉に協力したのだという。

八郎殿は太閤の聟となりまた官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。治部少輔(石田三成)の乱まで
治部方であったために、関が原が東照宮(徳川家康)の利運となると、八丈島へと流された。
彼は現在も生存しているという。癸卯の年(1663年)、老人(江村専斎)が99歳の時に語った話である。

(老人雜話)

老人雜話の、宇喜多直家・秀家親子についての記述である。




193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 22:41:17.62 ID:WGfCPeAy
>>192
永田徳本「八丈島で不老不死の霊薬が採れると聞いて」

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 22:58:56.80 ID:uD1Xe7rS
>最後には主君である浦上をも殺し、終に備前美作両国の主となった

浦上宗景「あれ、ワシ直家に殺されたっけ・・・?」

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 00:44:22.77 ID:7yiHoIbP
>>194
直家が担ぎ上げていた浦上政宗の孫じゃね?

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 01:14:58.08 ID:Kz69vmly
浦上はむしろ直家台頭後に畳の上で死ねたのが宗景しかいない気が

砂加藤

2014年04月13日 18:45

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 22:28:24.35 ID:yawQd5P5
朝鮮の役の時、既にその都を攻め落としたあと、加藤清正はそのまま進んで30里ばかりも
先に進出した。この間、諸軍は都にあってそこを守っていたが、兵糧が尽き、諸軍はこれに
耐えきれなくなった。

そこで諸将は皆このように言った。「この都を放棄し後方に下がって兵糧を得よう。」

ここで、独り加藤遠江守(光泰)だけが異を唱えた
「清正は既に30里も先に進んでいる!であるのに、彼を見捨てて都を守らずに去るような者は
男ではない!」

しかし皆は言った
「食がないのだ!仕方ないではないか!」

加藤光泰は答えた
「砂を食え!」

「砂なんか食えるか!!」
これには皆も総ツッコミである。しかし光泰は平然と
「砂には食い方というものがあるのだ。若い奴らはそれを知らんのだ!」

また福島正則に向かって
「おい市松、いつの間にそんなに大きくなったのだ?」と言い、
また備前中納言(宇喜多秀家)に対しては
「今まではお前のことを中納言様と呼んでいた。だが今後は、この中納言めと呼んでやる!」
と言った。

そしてその日の晩、加藤清正は帰ってきた。都から3里ばかりの場所に陣を張り、使いを光泰に立てて
このように伝えた

『私が今からここを守り、敵を寄せ付けないようにします。ですので安心して兵糧を取り寄せて下さい。』

これこそ誠に天命というものであろう。

(老人雑話)

関連
加藤光泰、連絡の取れなくなった加藤清正に


755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 22:36:15.75 ID:u7/VKJ76
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5730.html
既出、かと思ったら出典が違った砂加藤

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/13(日) 08:17:58.71 ID:M0dTiUe0
空気加藤が、じゃりじゃり砂を食べるのを想像したら、なんか妖怪っぽいなと思った。

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 08:53:46.38 ID:62jbK+RU
加藤四天王
地味加藤、砂加藤、飛び加藤、清正加藤

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 09:04:43.33 ID:9ph50VZh
フォーエバーコミュニケーション加藤

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 13:15:37.31 ID:5PtRY13x
砂加藤って朝鮮で吐血して死んでたよね...

黒田官兵衛、旗を借りる

2013年11月12日 19:03

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 23:04:00.29 ID:KXJCRtTY
備中において羽柴秀吉と毛利家との和議が整い、秀吉は明智誅伐のため畿内へ上がらんとする時、
小早川隆景の所に遣いに出向いた黒田官兵衛は、このような事を言い出した

「実は、少々思うところがあり、毛利家の旗を2本、お貸し頂けないでしょうか?」

隆景はこれを不審に思い、少し思案して

「旗だけをお貸しするなど、そちらへの御馳走にはなりません。
しかし今、輝元の人数は此処にはおりませんので、私の手勢だけでもお供いたしましょう。」

「いやいや、あなたがご不審に思われるのはご尤もです。しかし何も仔細のあることではありません。
貴方がお上がりになるには及ばぬことです。どうか旗だけお貸し下さい。」

そう重ねて言ってくるので、隆景も然らば希望に任すべしと、旗20本を貸し与えた。

また、宇喜多秀家の家老たちは、備前の片上まで秀吉を見送りし、そこで暇乞いをして帰ろうとした時、
官兵衛は彼らからも、旗10本ばかりを借り受けた。

そして備前播磨までは旗を巻いていたが、兵庫あたりに来ると、毛利宇喜多から借り受けたこの旗たちを
尽く張らせ、秀吉の陣の先に立てた。
これは敵の方から物見が出た時、また合戦に望む時、毛利、宇喜多の両家が秀吉に与し、
先手として上がってきたように見せれば、敵の気力が削がれ、味方は勇を増す、という策略であった。

秀吉はこれを見て大喜びし、
「若き者共よ、ああ言う事を見て後学にせよ!合戦というものは、はかりごとで勝つものである!
敵を斬り、首を取るなどというのはわずかなる匹夫の働きで、誰にでも出来ることだ。
官兵衛の今の謀は、凡人の及ぶところではない。
あのような手立てを行うことこそ、誠の大切と言うべきものぞ!」

と激賞した。

(黒田家譜)

黒田官兵衛、旗を借りる。という逸話である。




582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 23:12:51.41 ID:91nLuiTp
確かこのとき毛利は旗20本の他に鉄砲500艇、弓100張を秀吉に提供してたね。

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 23:16:54.68 ID:Gkt2IC0z
その旗を借りた逸話は有名だけど、すでに明治四十四年に福岡日南が
貝原益軒による「好事家流の創作」だろとツッコミを入れてる話だったりする
・隆景と黒田の会見自体、黒田家譜にしか記載がなくおそらく事実ではない
・講和直後に毛利(小早川)が自軍の表彰である軍旗をやすやすと貸すわけがない
・本当に借りたとしたら人質として羽柴陣中にいた2人(吉川広家と小早川秀包)に
 ついてきた毛利の手勢からかりたんだろ
と、わりと冷静に益軒による捏造認定をしている

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 03:24:04.33 ID:lVxs6Pcs
そもそも毛利から人質が出たのは勝家に勝った後
隆景への脅迫状を送った後の話だしなぁ

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 10:38:12.46 ID:++en7h9l
wikipediaによると中国大返しの際の和睦時に
人質として秀吉側から毛利重政・高政兄弟、
毛利側から吉川広家、小早川秀包が送られたとなっています。

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 10:43:45.32 ID:szbYdel2
ウィキペにも天正11年って書いてあるだろ

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 12:45:37.33 ID:o1HAiL4J
いつも思うんだがこういう旗って偽造しないのか

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 13:12:20.37 ID:1dJGWvXn
為景さん(謙信父)を思い出すなw

こう書くと悪い話になっちまうが

589 名前:追加[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 13:13:47.69 ID:1dJGWvXn
>>588 は>>587 へのレスです

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 15:11:03.82 ID:lHdbh4/O
うちの旗には針で穴を開けてござれば、それは偽物にござる

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 16:01:17.39 ID:++en7h9l
>>586
確かに広家、秀包のところは天正11年の分しか載っていないですね。
しかし、賤ヶ岳以降であれば、秀吉側とすれば、人質交換の形にする必要は無い。

10年の中国大返しの時の人質交換と、
11年の賤ヶ岳以降の、完全に従属してからの人質と混同されていないですかね?

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 16:34:08.31 ID:szbYdel2
なるほど大返しのページはそう書いてあるな。単純に間違ってるだけだけど

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 18:39:47.57 ID:0pSCtFd1
>>591
大返しの時の人質は小早川秀包と桂広繁ですからね。
吉川広家はこのときは人質になってませんし。
要するに大返しの時の人質交換は一度解除されて、11年にあらためて人質交換したということでしょう。

あと黒田家譜のこの話は元の話が様々な史書に記載されているので完全創作ではなく
官兵衛大活躍Verへの改竄と見るべきです。
他では記載されているのに武器を貰ったことに全く触れられてないのは官兵衛に力量をはるかに超えてしまい
流石に胡散臭くなってしまうからでしょう。

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 18:53:39.90 ID:lVxs6Pcs
>>596
小早川秀包が人質地に出たのも天正11年の話ですよ。

宇喜多秀家遠島始末

2013年06月22日 19:58

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 15:18:50.34 ID:/wrYC/HC
関ヶ原の敗北の後、宇喜多秀家は伊吹山に隠れ、その後忍んで大阪に向い、そこから船で薩摩に下って
島津を頼んだのだが、このことが徳川家康の上聞に達し、秀家を差し出すようにとの旨が薩摩に仰せ下された。

しかし島津はこれを承ると
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません。このような事ですので、たとえご不審を
被ることになろうとも、その仰せを受けることはできません。」
と言上した。

ところが秀家はこれを知ると
「私のことで、島津家に大事を起こすのは本意ではない。速やかに出て、誅に服したい。」
と言い出した。

ここで島津家は又
「秀家殿の一命をお助けに成るにおいては、その身柄を差し出します。」
と申し上げ、これを家康が許諾したため、秀家は死罪一等を免じられ、遠島となり、
子息の侍従殿、並びに次男とその子の計3人、供侍5人(姓名失念)と、八丈島に流された。
この時宇喜多秀家は剃髪し、名を休福と改めた。

秀家は長寿で、80歳あまりまで島に在った。
寛永年間に二人の子息、そして供侍も先に死に、秀家は獨父となって後年亡くなった、と云う。
(戸川記)





宇喜多滅亡の端

2013年06月21日 19:50

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 20:59:56.66 ID:CjYL87PR
文禄4年(1595)の夏、宇喜多秀家の妻(豪姫)が病に伏せた。その病状は物の怪に取り憑かれたようであり、
医者ではどうすることも出来なかった。そのため秀家は祈祷するようにと日蓮宗の僧徒に申し付け、
彼らは皆丹精して数日祈ったがその験無く、その後山伏が加持して平伏した。

秀家は日蓮宗に対して大いに怒り、「今後家中の者達は日蓮宗から改宗し、他の宗派になるように!」
と申し付けた。

この時、明石掃部頭(全登)はキリシタン宗を勧め、伴天連を呼び下したため、我も我もと
この宗派に傾かない者はないほどの状況となった。
しかし戸川肥後守(達安)は殊更に日蓮宗への尊崇が厚かったため、秀家に断りを入れて
そのまま日蓮宗を信仰した。その他、浮田左京充、岡越前守、花房志摩守、花房助兵衛、以下、
家中の半ばは戸川達安の一党と成った。

一方の長船紀伊守方には、中村次郎兵衛、浮田太郎左衛門、延原土佐といった者達が一味した。

明石掃部頭はこの宗門を広めただけで、両派いずれにも加わらなかった。

この様に宇喜多家中は和することが無くなり、常に騒動する状況となり、
そして遂にはこれが、宇喜多滅亡の端となったのである。
(戸川記)




904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 21:19:33.40 ID:AzboqeYI
浮田左京亮はキリシタンだよなぁ

宇喜多騒動に至る混乱の始まり

2013年06月19日 19:50

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 20:24:14.97 ID:XgG5EsJu
宇喜多秀家の下で、中村次郎兵衛と言う出頭人が有ったが、これは秀家の妻の実家である
加賀前田利家の下より来たものである。また浮田太郎左衛門という先代からの用人があったが、
これも秀家の下で出頭した。

この両人は重臣の一人である長船紀伊守(綱直)と入魂の間柄となり、様々に密談して
伏見に登り、御内々を伺い、文禄4年(1595)春、家中に対して不意に『倹約のためである』と号して
宇喜多の分国悉く検地を入れ、かつ譜代の拝領した地では、良い土地は取り上げ所替りが申し付けられた。
これは皆、中村次郎兵衛の仕業であり、故に家中の者達は皆次郎兵衛を憎んだ。

さらに中村次郎兵衛達は、自分に親しいものを推挙し、疎い者達はほんの少しの事で閉門や遠慮が
申し付けられ、あるいは身上を滅ぼす者さえ有った。

家中の者達は薄氷を踏むような心持ちであったが、これらは皆、国元に居ない秀家からの上意として
命ぜられていたために、如何ともすることが出来なかった。
(戸川記)

家中騒動の原因で一番大きいのはやはり検地による所領問題なのだなと感じさせる、
後の宇喜多騒動に至る混乱の始まりについての逸話である。




891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 21:22:14.65 ID:CNn15Bhn
検地を使っての大名権力強化はリスクも高いな。

大名自身の移封が伴うならマシだけど、同じ封土の中での所替は
一所懸命の地を奪われる国人や家臣団の反発が大きくなる。

島津、宇喜多は典型的な失敗例だろうなぁ。
佐竹のような成功例は意外に少ない。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 21:37:04.31 ID:itwpMhOP
佐竹は豪族年始に託けて集めて皆殺しにしたからな

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 21:44:27.95 ID:CNn15Bhn
南方三十三館なら検地よりだいぶ前だけど、他にもあったっけ?

戸川達安、朝鮮人を殺さず

2013年06月17日 19:56

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 19:35:04.01 ID:AHliUhZn
宇喜多秀家の重臣である戸川肥後守達安は、朝鮮の役にも秀家に従従軍したのであるが、
達安はここで朝鮮の人を、自身で一人も斬ることはなかった。それにはこのような理由がある。

達安が朝鮮に渡って、刀で初めて朝鮮人を斬ろうとした所、その者は手を合わせ、声を上げて泣き叫んで
命乞いをした。その有様は日本の婦人や童にも劣るみっともなさであった。

彼はこの有様に驚いて、「これは武人の斬るものに非ず。」と思い、その後敵を追い討ちするような時も、
自身は刀を持つことはなかったと云う。

この戸川達安は、普段は大変な驍勇(強く勇ましい)の人であり、家来を手討ちにするときや、
罪人を処刑するときも自ら行なっていたほどであったのに、それとは異なり、異邦においては
一人も人を殺さなかったのである。
(戸川記)

戸川達安、朝鮮人を殺さず、というお話




871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 20:34:46.86 ID:KhzSoy2o
あっちは文治の国だからねぇ

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 21:04:31.30 ID:+MsBt9f5
自ら殺す価値が無いと言ってるだけで文治とか無関係じゃないか

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 21:57:12.89 ID:E1i6Xco3
軍人の地位が低いからその分軍人が持つプライドも低いんじゃないかってことでないの

上に立つものが見苦しく命乞いするのはどうかと思うけど
下っ端も下っ端ならそりゃそうでしょって感じだし

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 22:39:47.51 ID:iXOxPba9
>>870
すごくイメージどおりの朝鮮人なのがなんとも言えんな

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 02:21:55.65 ID:4K12nAzm
太平洋戦争の時でも朝鮮兵は同様だったから、それが国民性ってこったね

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 07:16:24.97 ID:YbkXtjY1
武人の斬る者でないならまとめて押し込めて火掛けりゃいいって第六天魔王さんがゆってた

太田城水攻め講和

2013年06月02日 18:53

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 01:01:27.03 ID:e8Ls+TEd
天正13年(1585)、羽柴秀吉の紀州征伐において最大の激戦となり、日本三大水攻めの一つともされる
太田城攻防戦。
秀吉軍は紀の川の水をせき止め、得意の水攻めを行ったが、一揆軍は堤防を破壊し、宇喜多秀家の軍勢を
多く溺死させるなど、頑強に抵抗した。

(この時一揆軍は秀吉方に対しに『備前もの其身は何と知らねども 堤や岩や大切ぞする』との
狂歌を立てた話は有名である)

しかし一揆軍の劣勢は変わらず、蜂須賀正勝前野長康の説得により、終に降伏することとなった。

この時蜂須賀・前野からはこのような条件が出された

「最前に我々は51人を討たれた。その代わりに、誰でも良いのでそちらからも51人を討って首を提出
してほしい。」

そこで一揆方は元来は知らぬ者達(おそらく流れ者の傭兵などだろう)を51人討ち、その首を提出して、
こうして終に和談が成ったのである。

この時討たれた51人の首塚が、吉田村の西北に一ヶ所、南に二ヶ所、計三ヶ所作られた。
一つの首塚に首が一七埋まっているため、十七塚と呼ばれている。
(太田水責記)

太田城水攻め講和の時の、犠牲者について伝わることである。




753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 01:49:24.64 ID:YvnAEsf5
なんか話が違う

http://magoichi.or.tv/rekisi/img/oota/20050417.jpg
20050417.jpg

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 06:29:02.08 ID:Z6paVRJL
後の日本版エリア51である

猪口佐治兵衛、手柄なる死に様

2013年05月10日 19:52

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 07:35:31.39 ID:PxVdPn1x
備州宰相宇喜多秀家殿の家中に猪口佐治兵衛という侍が有った。
剛強の士であり、筑紫陣(九州征伐)、四国陣にても度々の誉れ有る侍であったが、
些かの事があって、秀家より、山村、有岡、片瀬、一原といった歴々の侍に、彼を討つよう
命ぜられた。

この四人、猪口は屈強手柄の者であるので、計略によらねば彼を討つことは出来ないと考え、
互いに相談した上で、次の日の早朝、四人揃って猪口の家を尋ねた。

早朝のため猪口は未だ起きていなかったが、先に起きていた猪口の女房がこれを見て、
「歴々の方々がおいでになりました」と猪口を起こして、下女に献茶を沸かせた。

そうしているうちに猪口も起きてきて、大脇差をキッツと反らせて差し、
「あなた方は早々に御出でになられて、どうしたのか?まあとにかくお上がり下さい。」
と、四人を家に上げた。彼ら、座して言うには

「実は今日は暇になりまして、あなたを驚かせようと早朝に出てきたのですが、
あまりに早くなりすぎました。そんな事なので特にお尋ねするようなことも無く
こちらに罷り越したのです。」

ここに女房が「どうぞごゆっくり。御茶を沸かしましたので、ぜひ一服して行って下さい。」
と四人を留めて座敷を自ら片付けている所に、猪口の脇差も取って勝手に置き、それから
茶を出した。

四人はこれを飲みつつ雑談などして時刻も過ぎる。この間猪口の隙を伺っていたが、
用心厳しく、討つべき隙を見出すことは出来なかった。
とにかくこれは首尾が悪い、今回は無理だと考え、
「ではそろそろ帰ります。明日またお目にかかりましょう。」
と、おいおいに立ち上がると、猪口は
「早々のお帰り、名残惜しいことです」と彼らを見送りに庭へと出、四人に向かって礼をした所、

「!」

有岡、刀を即座に引きぬいて打ち付ける!猪口、頭から肩にかけて骨まで達する傷を受ける

「心得たり!」

猪口そう叫ぶと刀引き抜き、弓手(左)の肩を斬り下げ、二の太刀にて無二無三に斬って懸ると
有岡は深手を負って退いた。残る三人、門の外で刀を抜き猪口に掛かろうとする。

猪口は女房に「この傷を結わえよ!ふらめいて悪しきぞ!」と、家の中で手ぬぐいで傷を結わえさせると、
二尺七寸の太刀を引きぬいて出、三人を相手に散々に斬り合う。

ここで女房は、火を炊いたばかりの熱い灰をかき集め、夫と斬り合っている三人に向かって浴びせかけた!
灰は彼らの胸に入り目を潰し、方角を見失った所に猪口踏み込み、死狂いに斬りまくり、終に刺客の四人全てを斬り伏せた。

宇喜多秀家は猪口を仕損じたことを聞くと、百人ばかりの勢を出して猪口の家を弓鑓にて八重に取り囲む。
猪口はここで「今は思いつく敵は尽く討ち取った!もはや思い残すことはない。」と、腹を掻っ切って死んだ。
これを見聞きした人々、「このような手柄なる死に様はない」と言って、褒めぬ人は居なかった。

その後猪口の女房は召し捕られたが、
『こんな女もあるものか。彼女はあの事態の中少しも取り乱さず、亭主を却って取り回し、
置き灰を浴びせかけ歴々の者を討たせた。男であっても中々出来る事ではない。急ぎ家財を返還し
故郷に戻すべし』とされて、親元へと送られた。

これも大変名誉のことであると、褒めぬものは居なかった。
(義殘後覺)





585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 10:49:16.49 ID:aRwiAAEQ
直家「下手じゃのう」

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 10:55:57.85 ID:+w/xDqSI
義輝「猪口とやらには共感を覚える」

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 14:57:54.03 ID:D/MFbD91
>>584
>些かの事があって
省略される程度の事柄で討ってしまうには惜しい侍だな・・・

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 18:42:15.84 ID:8RwOjXbu
歴々、なんて書かれる以上彼等も手練れだろうに、行き当たりばったり感満載で、四人に全く歴々感がないな……

漢南大将、小早川隆景の要害に攻め寄す

2013年04月24日 19:52

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:12:48.37 ID:sewJ/kWG
朝鮮の役でのこと

漢南大将(李如松)は本唐・新羅の軍勢を合わせ20万騎を率いて、小西行長の要害を百重にも取り巻き
即座に攻め落とすと、その余勢を駆って小早川隆景の要害に攻め寄せた。
いわゆる文禄2年1月26日(1593年2月27日)の、碧蹄館の戦いである。

この大軍に、城に近づけては敗れると判断し、小早川隆景は2万5千、立花宗茂は5千、
宇喜多秀家1万の軍勢で討って出た。
この時、御検使である石田三成、増田長盛、大谷吉継は都合8千の軍勢を率いており、小早川隆景
指揮下で先陣をした。立花宗茂はその下の備を担当し、この陣形で合戦は始まる。

異国の軍兵は弓鉄砲を隙間もなく撃ってきて入り乱れ、”ちぎり”という物を1万も2万も撃って回った。
これに当たったものは、たやすく起き上がることが出来なかった。

双方、太鼓や鐘を打ち鳴らし、鬨の声をつくりかけながら攻め合い、小早川の軍勢も立花の軍兵も、
息を限りに戦ったが、敵は大軍であり、新手を次々と入れ替えつつ戦うため、小早川・立花の軍勢は、
もはや人馬ともに疲れはてたように見えた、その時である

備前宰相(宇喜多秀家)の1万余騎が、一塊になってどうと突き懸る。
これに漢南勢は押し破られ、終に敗軍した。
この時討ち取られたもの3万あまり、ちぎり、刀槍を始めとして、鉄砲や石火矢までも捨てて
逃げ帰った。

異国の具足というものは、黒鉄を平たく伸ばし、金属の鎖で繋ぎ合わせたものを、ただ地の着物に
貼り付けただけのものであった。雑兵にいたっては黒鉄の平板を繋ぎ合わせたものを、そのまま着ていた。
大将や騎馬武者のものは、五色の漆で見事に塗り分けられていた。

兜も、ただ黒鉄を伸ばして、鍋の縁を反らせたような形にして、これをかぶっていた。

馬乗りは、獣の皮を股引のように拵えて、これを鞍にしっかりと括りつけ、乗る時はそれに、
太ももまで入れ込んでいた。
この中には、馬に乗らないときには兵糧も入れられ、
また草臥れて馬の上で寝る時、あるいは一斉に駈け出して山坂を自在に昇り降りをするときも、
馬から落ちるような危ないことは些かもなく、実に便利で利点の多いものであった。
これによって彼らは、馬上で弓鉄砲も自在に撃ちはなした。
(義殘後覺)




104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:02:51.17 ID:8PRpe9RV
>>102
”ちぎり”って何?
投石系の武器?

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:18:35.15 ID:3mSfHB9G
秀家は甘い坊ちゃんと言われてるけど若い時から戦いぶりは見事なんだよな
良い家臣が揃っていたんだろうけど宇喜田騒動後の関が原でもきっちり戦っていたし

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:25:14.98 ID:7RO21V+k
半分程度の福島と良い勝負っぽいけどなぁ > 関ヶ原の宇喜多

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:30:59.89 ID:sewJ/kWG
>>104
調べてみたけどよく解らなかったです。すいません。

>>106
宇喜多騒動で家中がボロボロに成って、関ヶ原の時は慌てて雇った浪人衆が中心で、
組織としてかなり弱体化していたのは確かみたいね

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:16:24.43 ID:KfKIui8O
>>104
乳切棒サイズの振りずんばいみたいな物を想像した

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:58:27.68 ID:+v3PqY6p
フロイスの「日本史」に明軍の装甲に苦戦する日本軍の話があったが
異国の鎧は興味深いものだったんだろうか

115 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/24(水) 14:40:59.52 ID:aP/+VbRj
宇喜多備前中納言八郎秀家、日本軍の危機を聞き、八丈島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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