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天正三年(1575)、薄葉原の戦い

2011年05月09日 00:05

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:10:34.78 ID:2t9a0UkF
抗争を繰り返してきた那須家と宇都宮家であったが、天正三年(1575)、那須資晴宇都宮広綱は薄葉原で激突した。

両軍は川を挟んで対峙したが、那須家の若者たちは戦が始まるのを待ち切れず駆け出した。
これを見た大関高増は大いに怒り、
「戦場において軍法が重大であることは常識であり、皆も知っているはずだ。
抜け駆けは無駄であり戦に負けるもとだ。不忠なことをするな。」
と固く制した為、那須勢は留まった。

対して宇都宮勢の先手は我慢できずに渡河を始めたところ、那須方の野伏は矢衾を作り、散々に射かけた。
宇都宮勢に動揺が走ったところに、那須勢は川を渡り宇都宮陣営に切り込んだ為、宇都宮勢は悉く逃げ出した。
しかし、逃げ惑う宇都宮勢にあって、壬生義雄だけは手勢三百余騎で備えを作っていた。
高増はこれを見つけると
「壬生の動きがわからん。皆、油断するな。」
と留まるよう下知をした。
案の定、壬生は逃げずに那須勢に突撃し、その隙に広綱は退却することができた。

壬生の奮戦は、那須・宇都宮両軍に影響を与えた。
壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。
資孝の太刀の前に出た敵こそ不運であり、彼に次々と斬られ生きて帰る者は無かった。

この合戦の勝利によって、塩谷郡は那須家の勢力下となった。



補足…出典『関東古戦録』の通りの年数・人物にしましたが、内容的に天正十三年(1585)の
薄葉原の戦いのことだと思います
(しかも、元の逸話では千本資俊誅殺と同年とされているので)。なので宇都宮家当主も広綱ではなく
国綱だと思われます。

特に落ちの無い話ですが、格好いい高増兄弟がなんか新鮮だったので…




467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:14:27.53 ID:95KYMaqM
なんとなく那須家強い理由が分かる気がするな
策が目立つあの兄弟でもきっちり戦の何たるかをわきまえてると…。

あれ?大関さんたち文武両道じゃね?

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:20:46.97 ID:cPSN1PUw
>不忠なことをするな。


あんたがそれを言うのかw

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:27:09.34 ID:PRMhrxEs
対外戦で余分な負けをつけるのは大関たちにとっても何の利もないどころか身の危険にもつながるわけで。

要らんところで軍法違反して敗因つくるのは奸臣から見ようと忠臣からの視点だろうと不忠だろさw

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:36:45.22 ID:hRh8kYHF
まあ残念ながら下野国の覇権争いって、佐竹と北条の動き次第で領国を蹂躙されてオシマイっていう危うさでもある…。

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:41:10.38 ID:TKVBR2+K
那須は辺鄙だからあんま攻められないけどな。

攻めてくる物好きは宇都宮と佐竹ぐらいのもんだが毎度火傷するし。

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:58:58.37 ID:voUUrQ8Z
>壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
>岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。

ここがいかにも坂東武者らしくて好きだな
古い鎌倉武者のような異様な負けん気の強さと利害計算から離れた勇猛さが伝わってくる

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:01:38.31 ID:Pk0uFdOn
やっぱり有能な人物だったんだよな

いい方にも悪い方にも

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:02:47.97 ID:4w+ddfVk
那須が強かったのは火山灰の貧しい土壌と洪水の多い土地で貧乏だったから

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:31:40.12 ID:8i1yk1jZ
薩摩隼人がこっちを見ている
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