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安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


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安国寺肩衝

2019年07月09日 13:25

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:25:24.04 ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)

関連
細川忠興と『有明の茶入』
安国寺肩衝・異聞


宇喜多直家は言葉巧みに

2018年07月27日 10:01

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 00:03:21.50 ID:nvc+W+Pq
備中国の住人、三村修理亮家親の子、元親、実親という兄弟があった。父家親は1年前に
宇喜多和泉守直家の為に殺され、その後この兄弟2人は芸州毛利家へ使いを下した

『親である家親は御味方に参り、ひたすら忠勤を成しました。しかし宇喜多直家に欺かれ、
益無く討たれたのです。父の敵である直家を何としてでも滅ぼしその恨みを晴らしたいと
考えていますが、我ら兄弟の力だけではいささか難し相手であり、御太刀影(助太刀)を
お頼みしたいのです。宇喜多を滅ぼし父が死んだ恨みを散らし、我ら生前の鬱屈を晴らしたいのです。
家親の忠志を思し召し、お忘れでないのなら、御憐憫を給われば、我ら二人もいよいよ御手に属し、
忠節を励まします!』

これを吉川元春に対して嘆き申し上げた。

ところが、宇喜多直家は三村兄弟が毛利へ訴えを行ったことを知るや、毛利を敵に回してはかなわないと
考え、洲波隼人入道如慶という者を小早川隆景の元に参らせ、また安国寺恵瓊を深く頼み
『三村浦上を退治し、備中一国を尽く輝元公に差し上げるでしょう。』と訴え申し上げた。

この時毛利元就は既に老病の中にあり、元春、隆景に対し「能くはからえ」と言うだけであった。
元春は「三村は父家親の時代より当家馳走の者である。宇喜多は一旦言葉巧みに、良きように
言ってきても、それを彼ら三村氏と取り替えるなど考えもできない。その上宇喜多は表裏の者である。」
そう再三に渡り主張したが、宇喜多は安国寺恵瓊などを通して様々に小早川隆景に哀訴し、ついには隆景も
「人質などを出す上は別儀無いであろう。」と、宇喜多の望みを叶えた。
小早川勢は南方(山陽)の担当であったため、山陽の勢力のことについては、隆景の判断に
任されていたのである。

その後、三村はついに宇喜多によって討たれたという。
(安西軍策)

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 01:45:54.66 ID:GayH9LlL
宇喜多に対するため織田と結んだ三村
織田に押されて織田に降った宇喜多

小早川は先を見る目がないな



955 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 05:07:03.62 ID:G0Ciaoxc
この数年後に毛利は播磨で織田と戦う事になるけど、背後の岡山は宇喜多家の元で漸く安定しかけてたところだったから、
1575年に元春の言を容れて三村攻めずに宇喜多攻めてたら完全に叩けてたかは分からないし、下手したら織田の中国侵攻はより早いものになってたんじゃない?
隆景に先を見る目がなかったとは思わないけど

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 05:39:13.12 ID:DXVfv2KC
神の視点ではなんとでもいえる。最終的に維新を成し遂げたのは長州だしな。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 09:53:30.89 ID:ZiRbSX6d
小早川は長州じゃないwww

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 10:27:07.00 ID:LPTjxN7n
揚げ足とり子猿

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 10:33:56.52 ID:LPTjxN7n
小早川家は最終的に毛利家から養子もらってんだけど

960 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 12:43:23.48 ID:IaLFv6CX
長州「うるせー、やんのかコラ」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 12:59:24.32 ID:p3aDYfYw
>>960
橋本はもう居ないんだ…

962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 18:11:46.66 ID:MkEPw/Kf
結局宇喜多のが良いコネ持ってたってだけの話だな
その良いコネを掴むのも実力のうち

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 18:29:19.50 ID:UiD44MF2
>>953
別に毛利家は義理人情に厚いわけじゃないし(むしろ…)三村と宇喜多でどっち選ぶかといったらねぇ。

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 19:12:48.21 ID:N/22wCO0
とはいえ相手に恩義を感じさせれば裏切らない駒が出来るわけで
わざわざ恨みを買って敵に回すのはアホのやること

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 19:27:59.40 ID:vgKHLEqs
元春さんは情と付き合い(と宇喜多直家の腹黒さ)を重視して三村氏を
隆景さんは現実的と言うか実利的に判断したって感じかな?

後々も対秀吉で意見が食い違うこの兄弟だけど、2人の将としての資質や思想の違いも垣間見えた逸話な気がする。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 20:24:45.44 ID:z/aV9ADT
鶴田もマサ斎藤もいない…。それどころか、三澤や冬木もいない…。
なのに、猪木はまだいる。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 20:36:55.33 ID:yleoGLak
>>966
天龍「俺は?」

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 21:16:31.42 ID:N/22wCO0
>>963
当時の勢力図を念頭に入れてから発言したほうがいいな
余りにもバカ過ぎる発言だ
それに三村を討ったのは毛利だし宇喜多が毛利と結ぶようになったのは天正に入ってからだろう

御陣所の体、味方の様子、見及んだ所

2017年06月06日 11:48

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/06(火) 06:17:02.79 ID:+AAANm8Z
関ヶ原の時、西軍の船手・村上彦右衛門(通清)、菅右衛門(達長)は、9月12日の晩に桑名浦に乗り付け、
13日の早天に両人関ヶ原に出て毛利陣に入った。この時安国寺恵瓊と対面したが、村上は言った

「御陣所の体、味方の様子、見及んだ所、私としては大変心もとないものと言わざるを得ません。」

これに安国寺
「私もそう思っているが、東軍一人に上方勢十人のつもりであり、4,5日も持ちこたえれば
必ず味方の勝ちと成るだろう。」

村上重ねて
「味方の山取りの体、山高く取り上がり、しかもまばらで密度が薄く、これでは戦の仕様がありません。
あのように高く取り上がって居ては、敵に即座に応戦することは不可能です。東軍は少勢でも、
戦に熟練している故、軍勢も厚く見えます。その上東軍は、一両日のうちには戦いを仕掛けてくる様子と
見及びました。どうか油断ありませんように。」

そう言って帰った。
果たして、西軍は間もなく敗北した。村上は津まで直に出て関ヶ原の様子を聴き。九鬼大隅守(嘉隆)の
所に行って詳細に次第を語り、上方へと撤退した。

(士談)



834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/06(火) 06:58:09.40 ID:hEgxlXVG
水軍なのに陸の戦争をよく知ってるな

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/06(火) 07:00:36.03 ID:gFGqNdAf
水軍も陸戦はするからな

鳥居庄右衛門、安国寺恵瓊を捕える

2016年09月06日 18:13

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 21:48:36.26 ID:kgFzjYKh
奥平信昌の家人であった鳥居強右衛門といえば、無双の勇士であり、長篠籠城の時、援兵を請おうと
必死を極めて城を出て、敵の捕虜となったが遂に使命を遂げて磔にされた事、世の知る所である。
この強右衛門の子に庄右衛門という者があり、武勇有り、才知もまた人に優れていた。

関ヶ原の戦の後、安国寺恵瓊は逃げ去って行方知れずとなり、徳川家康は奥平信昌、および
松平下総守(忠明。奥平信昌四男)に命じて京都を守護させ、安国寺の行方を捜索させた。
下総守の家人たちは、「かの法師が戦況を辛くも逃れた事ゆえ、どんな賤しき者に身をやつして
隠れているかわからない。」と、雑人たちの集まる場所を探し回った。

一方、奥平信昌より恵瓊探索を任された鳥居庄右衛門は、何を思ったのか、陣屋で寝っ転がり、
酒を飲んで過ごしていた。彼に従う兵たちは訝り

「いかに鳥居殿、下総守の衆は夜を日についで恵瓊を探し求めているのに、どうして空しく
日を送っておられるのか?」

庄右衛門、しかし
「なあに、お前たちに解るものか。ただ私に任せておけばいい。」
そう言ってただ酒を飲んでいるばかりであった。

ところがある日、突然起き出したかと思うと
「安国寺を今日こそ捕える!何れも早く用意して従え!」

そう言い捨てると馬に打ち乗り駈け出した。兵たちは
「こは如何に!?鳥居殿は物が憑いて狂ったか!?」
そう混乱したが、しかし打ち捨てておくわけにも行かず、それぞれに得物をひっさげ庄右衛門を
追い駆けた。

二条富小路の大通りに至った時、乗り物厳しげに引かせて、若党2,3人を、これも長い太刀を携えて
従えている者があった。鳥居は馬より飛び降りると

「その乗り物に有るは、安国寺であろう!逃さぬぞ!」

そう声をかけると、かの若党たちはものも言わず一斉に抜き懸ってきた。
鳥居の兵たちも大いに驚き、抜き合って戦った。
この時、鳥居はどうしたわけか、石に躓いて転んだ。安国寺の若党は「得たり!」と拝み打ちに
打ちかけた。あわや鳥居討たれんとしたその時、後ろから馳せつけた鳥居の兵がこの男を
後ろから斬り伏せた。

鳥居は起き上がると乗り物に近寄った。しかしそこではかの若党の一人が、安国寺が捕えられぬよう
ここで首を討とうと太刀を振り上げていた。

ここに、松平下総守の家人・山田半兵衛という者が馳せつけて若党を斬り倒し、安国寺も捕らえた。
「しかし安国寺を見つけ出したのは鳥居の働きである。」人々はそう言い合った。

後に鳥居の兵たちは聞いた
「どうしてあの乗り物が安国寺だと知ったのですか?」

「お前たちは知らないのか。安国寺は法師であるが、心剛なる奴である。死んだとしても、
賤しき者と言われるのは口惜しいのだ。彼は去る人の元に匿われていたが、我らの捜索の様子を聞いて、
『とても免れ難し、同じ討たれるなら昔の姿を失わぬ!』
そう思ってあのような出で立ちをしたのだ。

私はこの事を密かに探り出し、その出るのを待ってあのように討ったのだ。」

「しかし、下総守の家人もあそこにやってきたのはどういう事でしょう?」

この問に鳥居は、何も言わずただ笑っていた。
人々はこのように想像した。「家康公より二家に命ぜられて探索したのに、奥平一家の功にしてしまっては、
下総守の面目が無くなってしまうと考えたためではないか、と。
(話園)



151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 23:16:59.44 ID:vV2TbTzk
鳥居強右衛門さんは息子もかっこいいわ。向こうの鳥居さんとはえらい違いだ。

近習衆には特別に御目利きが大切

2015年11月15日 17:36

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/14(土) 20:14:51.63 ID:yMPR9k3F
 上様を始め御大名様方は、お側にお召し仕えなさっている近習衆には特別に御目利きが大切かと思われます。
太閤様のお気に入りの曽呂利新左衛門、武田勝頼公の出頭跡部大炊(勝資)、長坂長閑(光堅)、近くでは毛利家の安国寺恵瓊等、
その媚びへつらう趣は色々違いますが、甚だ無礼邪智の者たちです。
 大炊・長閑の不埒により武田家が滅びました。
毛利家も安国寺の邪智により御国の数が減らされますなど、元春公、隆景公が在世でありましたら、あれほどの不覚もあるはずがなく、
元春公の嫡子元長公はかねて目つきが険しい男と太閤様が仰せられていたが、安国寺の邪智に覆われて、毛利家は衰えるような事、甚だ恐ろしいことで、
御治世はとても油断はできないかと思われます。

  ならびに、近年猿楽が表道具のようになっております。とにかく人柄のよろしき者は稀であると承っております。
その様子は根が遊芸ゆえであるためと考えられます。あまり貴人の御前近くに召出されますことはよろしくないことと思われます。
猿楽に限らず、何の芸でもこの御心得は有ってほしいものです。
 また茶道の事は貴人から下人まで流行しておりますが、これも殊の外物がいる芸ですので、じっくり心得なされたい事と思われます。
(本阿弥行状記)



644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/14(土) 23:47:37.27 ID:jjwBLfAa
元長が不細工なのは母親譲りだろw

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/15(日) 03:20:49.81 ID:uMAWvDTe
そろりさんって何かしたか?
甚だ無礼邪智の者っていわれてるが

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/15(日) 04:42:41.90 ID:74sZUguT
乱でいうところの狂阿弥な感じだろう

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/15(日) 08:44:41.25 ID:BSYj7TKJ
そろりさんって外国の人だったのかな。

石田三成の対面(武功雑記ver)

2015年10月19日 14:01

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 10:31:30.50 ID:Z9MZl0gp
関が原の合戦の後、石田三成が生け捕られた時、紺の帷子を被って小袖を許されていた。
藤堂宮内(高吉)が来て、

「私は治部少輔の恩を受けたものなので、ひと目会いたい」

とたって望んだため、対面を許された。
宮内は「さてさて」と何か言おうとすると、三成は

「いやいや、最早何も言わぬものだ。」

そう答えた。

さて、この時捕らえられた、石田三成小西行長安国寺恵瓊の3人に時服一重づつ、
台に乗せて下された。

小西は言った
「一時の寒風を逃れよと、小袖を下さること忝ない。
諸人に対面するのも面目がないが、身に刀を立てぬ宗旨ゆえ、このように見苦しき目に逢ってしまった。」

安国寺は小袖を見て
「それだけか」
と言って着用した。彼は諸大名に会ってもずっと無言であった。傷が痛むように見えた。

三成は小袖を見て
「これはどこから来たものか?」と聞いた。「上様からである。」
「上様とは誰か?」
「いや、内府様の事だ。」
これに三成
「さてさて、上様はこの前他界されたばかりだというのに、早くも内府を上様と呼ぶのか」
それだけ言って小袖を着ようとしなかった。
諸大名には雑言を言っていた。

(武功雑記)




ただ一人、安国寺恵瓊はこれが読めた。

2015年07月15日 12:53

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/14(火) 19:41:40.68 ID:Z5BPxIZX
朝鮮陣、慶長の役において、朝鮮の帝都(漢城・ソウル)にあった、明の派遣軍の司令官、
楊鎬、麻貴は、漆川梁海戦、南原城の戦いに敗北し、全羅道全域を日本軍に制圧されたことを無念に思い、
ことに
「大明の加勢は何のために来ているのか。」
という朝鮮王自身の発言を始めとした朝鮮上下からの悪口の広まりを恥、80万騎を引き連れ
蔚山表へと出陣した。第一次蔚山城の戦いが始まろうとしていたのである。

慶長2年(1598)12月中旬ごろ、明軍との最前線に在った、毛利輝元軍の安国寺恵瓊の人の前に、
巨大な板にによる書付が立てられていた。そこにはこう書かれていた

『今月22日、必ずこちらに出陣し、一戦に及ぶべし。
各々随分籠城の用意あるべき。』

これは漢文で書かれていたため、士卒たちに読めるものは居なかったが、ただ一人、
安国寺恵瓊はこれが読めた。

恵瓊はその内容を見ると、2つ立っていたこの板を取り隠し、組中の士にも知らせず、
自分は病を患ったと言って、配下の軍兵も残したまま、小姓と徒歩の者達少々だけを召しつれ、
密かに抜けだして釜山まで退いた。

このため明軍の意図を知るものを、蔚山には一人も居なかったのである。

(朝鮮記)



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/15(水) 09:52:33.19 ID:7XCqbRBy
大友 義統「酷いやつだな」

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/15(水) 13:52:46.05 ID:iZAF47YM
そんな奴に乗せられて西軍に加担したアホ

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/15(水) 19:19:29.23 ID:LLu1oyJ5
TERU「そうそう、ぼくは酷い恵瓊に騙されただけの可哀そうな馬鹿なんだから、いじめちゃ嫌だよ?」

黒田家譜、小早川隆景の死を悼む

2014年01月10日 18:54

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 20:37:49.25 ID:3tYSG7jw
小早川隆景は、明日成すべき事は、必ず先ず今日の内にそのことを思案し、様々に想定して、
あらかじめ自分の行動を定めておけば、その時になって慌てることなく、粗略になることはないと
言われていた。これは古語に言う、『事前に定まれば躓かず、事前に定まれば困らない』と
同じ意味であろう。

この隆景という人は普段から虚言を言わず、少しのことであっても人と約束したことは
決して違えなかったため、人々は彼をただの人ではないと考えた。

備後の三原に隠居した後は、慶長元年に足利学校の玄修軒を招き、学問所を建設し孔子の像を安置し、
若者たちに学問を進めさせた。

ある時、緊急のことがあって、右筆に物を書かせたのだが、この時「急用のことである。
慌てず静かに書くべし」と言われた。

隆景はその気質、穏やかで静かであり、才知を外に輝かせるような事はしなかった。そのため
彼を知らない人には、最初に合うと心の鈍い、愚かな人のように映ったのだという。
古語に『大智は愚なるが如し』というが、これはこのことであろう。
また天性、智慮深密にして沈静温厚であった。

小早川隆景が亡くなった後、ある時安国寺恵瓊が、黒田如水の元に来て物語したことがあった。
このとき如水はこう言った。

「隆景殿が亡くなって、日本では賢人が絶えてしまった。この人の存在は毛利家にとって、
船にとっての船頭であった。彼によって中国はよく治められていた故に、亡くなられたと雖も、
今も生前と変わらないのは、ひとえに隆景殿の力の残りである。
例えば船を漕いでいて、にわかに船を止めたとしても、それ以前に艪によって作られた推進力が残っていて、
五間十間はその船は先に進む。これと同じことである。

毛利輝元殿も、隆景殿の遺産によって、今までは見事に見える。しかし今後は、輝元殿自身の思案が
大事になるだろう。」

小早川隆景には、普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。どのため、一巻も今に残っていない。

(黒田家譜)

殆ど聖賢小早川隆景伝と化した、黒田家譜の、隆景の死を悼む一節である。




51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 21:16:33.73 ID:GtHaNkcS
恵瓊とは仲が良かったんだろうか?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 23:37:34.60 ID:954hZ8z0
テルかわいそうだよテル

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 00:59:05.06 ID:iGZ+576x
>普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。

なんて勿体ないことを・・・後世の人のために残しといてくれりゃいいのに

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 08:32:56.58 ID:E1IeR+Pa
書など役に立たない、自分で考えることが大事とか思ってたんじゃね
実際そういうことあるしなw
万巻の書を読み尽くしてきたじっさまが賢人かというとめんどくせーだけの奴だったりしてw

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 10:31:08.13 ID:GlnBMz9t
テルはなんであそこで石田についたんだろ?あの段階でやっても負けるだろうに。秀頼の成人とタヌキが死ぬの待っていればもう一波乱あったのに

56 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/10(金) 10:48:18.57 ID:9+URQCys
波乱を望むテル→甦る鉄拳の記憶→仁愛精神→日本全体の安定をとる

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 11:39:14.47 ID:5wHJfV0W
>>55
そういう見通しが利かず、西軍についても結局積極的なのか寝返るのか
どっちつかずの中途半端な行動で終わるのがテルクオリティ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 12:55:04.68 ID:9gOATlvr
テルが石田に担ぎ出されたんじゃなくて
テルが石田をそそのかして、敗戦濃厚となるや石田や安国寺に全責任押し付けた、
ならむしろよく逃げたもんだと

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 13:06:21.19 ID:ykVO0jjq
お弁当に釣られたんだよ

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 13:40:39.32 ID:jRM3ntvJ
ウチなら味噌汁付けますw

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 14:04:55.09 ID:qNsCaAQ1
関ヶ原が終わったあと防長二カ国に減封されたし、家康はテルの野望と積極的な動きはちゃんと見抜いてたね

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 15:13:54.86 ID:Fuuj+/DJ
石田と大谷が蜂起する風聞が立ってたので、大坂の三奉行と淀殿の連名で徳川(とテル)に鎮圧命令が出されてたんだわ
それで本当に蜂起したとき、会津へ向かってる暗黒寺が近江あたりで勝手に引き返してテルを二重召還した
こういう事情でテルはすごい速さで大坂入りした有能な人物のようになった
さらにあろう事か三奉行が石田に説得され公式戦争と化し、テルも聞いてるうちにもっともな気がしてきたので大将に収まったようだ

小早川隆景「私が普段から気遣っているのは」

2014年01月05日 19:02

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/04(土) 20:14:39.46 ID:Y1UECYAQ
小早川隆景が金吾殿(秀秋)をその養子としたことを、安国寺恵瓊は聞きつけると隆景の元へと行き、
このように言った

「御養子の事が、貴公の御依頼のまま相済んだとの事、千秋萬歳、めでたく思います。
ですが、これは貴公御一代の誤りであります。
何故なら、御養子を取るのなら多く有る毛利の御一族の中から何れでも、国を治められる器量の人を
お見立てになって、これを養子とすれば、世の末まで筑前は中国と同じく毛利家の御分国となったのに、
他人である金吾殿を養子とし御国を譲るというのは、筑前国を人に差上げたのと同じことです。

貴公のことを、上様(秀吉)は別して御愛敬なされていますから、今新たに1ヶ国取るということも、
出来ない話ではないと思うのです。そのようにしてこそ、毛利家の勢力もいよいよ広くなるではありませんか。
だからこそ、私はこれは、大いなる思案違いだと考えるのです。」

隆景はこれを聞くと
「西堂(恵瓊)はそのように思われるか。それは私の考えとは間逆である。

私が普段から気遣っているのは、毛利家の分国は8ヶ国であり、その上私が筑前を拝領し、
おおよそ9ヶ国となった。毛利家には、国が甚だしく多すぎると言うことだ。これは却って、毛利家の禍と
なるのではないか?私はこのことだけは、大変心もとなく思っているのだ。

であるからこそ、我が国を毛利の子孫に譲らず、金吾に譲るのだ。
国を取るにも、種がなければ取れぬものだ。
私には今、その種は見つけられない。であれば、何を種として国を望むべきであろうか?
種無くして欲が深ければ身の災いとなるだろう。

私はもはや年寄りであるから、間もなくこの身も終わるだろう。私が死んだ後の毛利家が目に見えるようだ。
元清(穂井田元清:元就四男)が長命であれば、長久の謀もあるのだが、彼も病身であればあまり
頼ることは出来ない。相かまえて、種もなく国を望む野心を持ってはならない。」

恵瓊はこの道理に屈し
「短才なることを申しだしてしまい、面目を失いました。ですが後学のため、良きことを承りました。」
そう言って帰った。

しかしその後、恵瓊は隆景の戒めを忘れ、石田三成の乱に与し、輝元にこれを進めたため終には
その身を滅ぼし、輝元の分国を多く失う結果となったのである。

(黒田家譜)

「種」とは根拠や名分の事であろう。小早川隆景が、筑前を秀秋に譲る理由、である。




205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 00:17:35.54 ID:2DDxJeIU
黒田家譜の隆景信仰は突き抜けてるなー

輝元という佞なる人が

2013年11月09日 20:37

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:20:23.57 ID:u+d21jYc
備中高松城を取り囲む織田勢に、毛利三家が相対したときのこと。
小早川隆景は熟考のうえ、
「信長と和議を結ぶのが最良の選択だと思う。幸いなことに相手もそのつもりだ。
 なんといっても、大将(輝元)が頼りにならず、一門でさえ心替えをするようになってしまったこの時、
 元就様のご遺言の通り、降参した国を除いて十ヶ国を保持することで手を打てば、悪い条件ではない。
 元就様が天下を望むなかれと言い置かれたのも、輝元様をお見限りになって、
 後々のことをご遺言されたのだから、ここで和睦するべきだ」
と言って、和睦を決めた。

信長の訃報が届くと、隆景は安国寺恵瓊を連れて秀吉の陣所まで見舞いに訪れた。
秀吉は仰天し、門まで出迎えにやってきて、隆景の手を取って陣屋に入っていった。
「さすがは元就公のご子息ですな。武勇のことは申すまでもないが、
 実に今朝和談がととのったばかりだというのに、君子に二言はなしとはいうものの、
 こうしてすぐに私の陣所にお入りになるとは、天下無双の武勇です」
と、秀吉は褒めそやした。

隆景は、
「名が聞こえた人に実際に会ってみるとがっかりするものですが、
 貴殿に会ってみたら、天下をお取りになる相をなさっているので、この隆景、驚き入りました。
 このたびは必ず明智日向守を御退治なされ、貴殿が天下の主となられましょう。
 輝元という佞なる人が毛利家を継いでおりますので、
 貴家を守り立て、天下取りのお手伝いをいたします」
と笑った。

隆景はさらに、「とにかく大変なときですから加勢をします」と言って、
元就の時代に尼子との戦で先陣をつとめた渡辺石見守という武功の者を選び、
五百騎と毛利の軍旗を秀吉への加勢に差し出した。

(武家万代記)





666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:32:59.90 ID:bliTYw43
『武家万代記』って『三島海賊家戦日記』のことやね

恨みがあったのかしらないけれどこれなにかと輝元をディスってるんだよなw

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:35:12.81 ID:7nN1Vqk1
輝…

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:51:29.88 ID:KFFOoh1f
DQN眼竜は戦国全盛期の武将に比べると小物感が漂うが、
テルなんかと比べるととてつもない名将に見える

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:53:48.98 ID:u+d21jYc
気にかかった部分が一緒の方がいて安心したw

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 00:10:14.97 ID:/syMIewk
同じ史料で輝の治世は不行規で退屈なので中国四国衆は皆大あくびした、とか書かれてんだよな
村上海賊どんだけ輝ナメてたんだよとw

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:16:19.51 ID:B7DtpbVu
村上は全然毛利の忠臣じゃないよな、もっとビジネスライクな何か

大友のほうが儲かりそうなら味方するし秀吉が勝ちそうなら離反

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:41:25.23 ID:eDECr+vy
毛利が中国に勢力を伸ばすと海賊稼業の権益が後退したのか知らんが大内輝弘の周防上陸を阻止しようとした形跡が全くないしな

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:47:50.19 ID:/syMIewk
能島村上は大友にも筑前の権益認められてて親密だったからな
離反に怒った隆景に能島囲まれた時は大友が支援しようとした書状がある

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 02:07:56.31 ID:MlYzOzNE
来島村上が毛利を裏切って秀吉に裏切りそうだった時に「能島の村上も裏切るんじゃね?」という噂が
真しやかに流れてたから小早川隆景が全力で説得しに行ったらしいな。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 02:17:25.50 ID:B7DtpbVu
そもそも全然言うこと聞かねえから隆景に実力行使で能島から竹原に強制退去させられたよな

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 07:30:02.91 ID:kdPcn2jt
>>668
戦国期では断然輝元の方が大物なのにね
信長と全面戦争して大半の領地を保全できたというのは何気にすごいと思う

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 08:17:10.08 ID:RFiNRl1+
あれは、両川のおかげだろう。

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 09:42:00.88 ID:e+b9Cyht
光秀のおかげとしか

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 10:02:50.74 ID:nZcct/kw
輝「みなさんのおかげです」

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 16:22:22.52 ID:Yks+cYuL
両川「もうちょっとフクロにしときゃ関ヶ原もなかたのか?」

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 17:18:31.25 ID:Fb7FD56i
ラスボスが吉川恐怖症にかかって、反動で小早川スキーになるぐらいだからな

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 17:20:07.87 ID:uQo2Yytt
それは陰徳太平記脳すぎるんじゃ…

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 18:48:26.20 ID:4dwMUXKz
>>681
だって吉川さん「心の一方」使えるんだからそりゃ秀吉でもビビるよ
隙を突いても「背車刀」でカウンター喰らうし

秀吉「私は、輝元に劣っている」

2013年07月22日 20:05

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 21:24:23.77 ID:YjdkE5lI
徳川家康が臣従し、諸大名聚楽に出仕、秀吉の天下が固まった頃、
毛利輝元公は小早川隆景公がお伴して上洛をした。秀吉公との御参会では
大変丁寧なご挨拶をされ、大方成らぬ饗しであった。
この事は桂美作守が詳しく記録し、その書は今でもかの家に在る。

その後御対談の時に、秀吉公は御意に

「主君の敵を討ち、私の本意が天道にかなったが故であろうか、このように
日本を従え高位も備わった。しかし私は隆景、安国寺のような臣下を所持しない。
この事に関しては私は、輝元に劣っている、」

と仰った。
(老翁物語)




83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 22:02:53.88 ID:L/BPhP9p
既に死去していた吉川元春の名が出ないのは仕方ないな!

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 13:09:58.58 ID:5ma0hqxb
>82
悪い話・・・かな?

本能寺の変に伴う毛利家との和睦について

2013年06月06日 19:51

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/06(木) 10:05:09.31 ID:Dr27dp+R
天正十年六月三日子刻(0時)に京都から飛脚が到来。
「信長公・信忠卿が二条本能寺で昨日二日の朝、惟任が為に御切腹なさ
れました。急ぎ御上洛ありて日向守を討ち平らげるのが当然でしょう」
との旨を長谷川宗仁が密かに申し送ってきた。
秀吉は大いに驚かれたが何事も無かったかのようにふるまった。

四日朝、御馬印だけを持たせ陣を見回られた。いつもは百騎ばかりを
召しつれて見回られるが、京からの話を聞かれてからは、静かに堤を
巡回され、対する輝元の陣も堅固であるように見えた。

即座に毛利家臣安国寺を呼び寄せ「分国を保ちたいのであれば、降参
してもらいたい。そうであれば和睦は長久に続くでしょう」と告げた。

安国寺はこれを承り「もっともの事でもあり、輝元には少しも疎意に
存じられないだろう。御状の趣を申し聞かせましょう」と帰っていった。

輝元は「分国に相違が無いのであれば受諾しよう。起請文を取り交わし
人質を進じよう」と承った。

秀吉はこれであれこれは片付いたと考えられたが、明日五日の朝に返事を
するとして、その日は毛利からの使者を帰された、

五日の朝、小早川、吉川よりそれぞれ使者がきた。
ここに至って秀吉は亡君の事を隠し続けるのも限界であろうと考えられ
「このたび信長公は去る二日惟任日向守の逆心により御父子ともに京都で
弑された、このような状況でも最前に定めた和睦の条件に相違はないか」
と仰せられ「両使は輝元に報告して、その上で決めるがよかろう」と使者
を帰された。

両使は即座に立ち戻り小早川、吉川から輝元に信長公御父子の事を報告し
家老の面々を呼集して、どうするべきかを評議を行った。

若くて勇みがちな人々は、天の与えた幸いであるから和睦を破棄して帰陣
し、世の動きを見られれば良いのではないかと高言するものが多かった。

しかし小早川隆景がこれを諌めたので満座は沈黙し、輝元も尤もであると
考えられた。

輝元は前回送った使者に加えて信長公の御弔として福原越前守広俊を添えて
秀吉の陣に送った。

両使は蜂須賀彦右衛門尉に対して最前に約した和睦の条件で相違なしと、
輝元ならびに小早川、吉川の誓紙をもって申された。

秀吉は大いに悦び。「明日には出立するので、鉄砲五百艇、弓百張、旗
三十本を合力していただきたい。またこちらからも「今後も毛利を粗略には
しない」旨の誓紙を出そうと言われ、福原越前守と安国寺を呼び寄せて
血判に及び、口上を述べられた。

輝元も了承し、即座に人質として元就八男藤四郎(小早川秀包)に桂民部少輔
(広繁)を添えて進上され供奉した。

(日向記)

本能寺の変に伴う毛利家との和睦についての話





412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 09:55:29.67 ID:sVgKc4Yf
>>408
だいたい同じような内容が毛利側、羽柴側両方の史料にも見られるから
どうやらこれが史実みたいね。

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 09:57:33.23 ID:7u8b/B3W
清水宗治「え?俺死ぬ必要あった?」

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 10:20:01.73 ID:Xe9aBHnf
ここまで手の内を明かされて、よく毛利は秀吉を無事に返したよな。

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 11:15:50.44 ID:vwIjszRc
秀吉一人屠るのは簡単だけど、その後の展開が見えなかったんだろ

416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/07(金) 14:51:28.19 ID:EuDxLF/i
それは明智と組んで秀吉を倒し、
次は柴田と組んで明智を倒し、
最後は家康と組んで柴田を倒す・・・なんて巧く行く分けないよな。

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 15:12:59.77 ID:9xWeM5LF
>>413
宗治が死んでなかったら和睦への道は遠のいたんじゃなかろうか

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 15:34:16.65 ID:AyjBnaSK
ん?岡山の直家さんってまだ生きてたっけ?

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 16:42:19.02 ID:9NOimaRp
直家さんは前年の暮れにもう

毛利方としても和睦ができるならそれに越したことはない状況だし、
もっけの幸いと受け入れたんだろうなあ
結局柴田あたりが攻めてきたら元も子もない


福島正則、捕らわれた三成らに

2013年05月28日 19:42

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 12:09:24.64 ID:NL44dUxg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原に敗れた石田治部少輔(三成)は伊吹山に退き隠れていた所を、
田中越前守(吉政)の家臣に捕らえられた。
小西摂津守(行長)、安国寺恵瓊も方々にて捕らえられ、3人共に洛中を引き回すということになった。

この時太夫殿(福島正則)はこの3人に小袖を2つづつ贈った。
正則の厚志に、中でも石田三成は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、着衣を着替え
正則の贈った小袖を着て洛中を引き回され、三条河原にて斬首された、とのことである。
(福島太夫殿御事)

関連
「大夫殿のお心遣い」


359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 17:52:34.35 ID:TlJeSdSw
侍だな

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 10:05:45.23 ID:17RD7LED
この話既出じゃね?

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 10:15:02.35 ID:1Cbsdpkf
三成「家康、田中吉政、黒田長政、福島正則、みんなが服くれるの、でもこんなにたくさん着れないの」

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 10:19:31.52 ID:+uk4+4+v
お色直しタイムが必要だな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 11:12:31.22 ID:GL+Xoqqs
引き回し中にお色直しとな

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 11:15:17.25 ID:gcBK2x6w
三成それ白無垢やない白装束や

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 12:34:35.54 ID:sFq67Zj3
続きまして、頸部入刀です

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 12:42:38.81 ID:OiSrvu48
三歳さまが手本を見せるようです

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 13:43:27.56 ID:GL+Xoqqs
三歳様は福知山城へおいでですので、他の方におまかせするしか

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 01:09:56.82 ID:f0yYgYYI
>>358>>360
太夫殿ではなく越中守殿であれば初めの書き方で間違いないはずだ
「三将二桃」の故事があるからな

蔚山城の戦い、その後の戦場の模様

2013年03月29日 19:50

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 22:42:47.47 ID:78/SU9h9
慶長3年(1598)1月4日、朝鮮の役・蔚山城の戦いで加藤清正などの日本軍は、激戦の末
明軍30万を撃退した。明軍30万騎のうち、生き残って帰国できたものは10万に足らなかったと云う。

さて、その時期は雪深く、取り残された負傷者や死者の確認も出来なかったため、卯月(4月)まで
放置された。
ようやく気温も上がり氷も融けると、大地には異国人、日本人、和漢の馬の死骸が、別れること無く
うち重なり、7里(約28キロ)に渡って人馬の山が築かれていた。

この状況に諸将は評議して

『死体を全て海岸まで運び海に捨て、資材の通る道を開け城の改修をすべきだ。
いつ明軍が攻めかかってくるかわからない、城の改修は急がなければならない。』

と決まった。そして諸大名に割り当て、人馬の死骸を、百石につき4人づつ引き捨てさせた。
7,8里の間にびっしりとうち重なった死体であり、このような凄まじい戦は異国にも我が朝にも
聞いたこともないと、人々は言い合った。
憐れとも無残とも、世の常の言葉では言い表すことの難しい光景であった。

異国の者の死骸は、尽く結った髪を解いて、これを綱に結んで引いた。

これらの死骸を海に引き落としたのだが、海岸では諸々の魚たちが、その死体のおびただしい血に
窒息して死に、水のほとりに真っ赤になって充満した。
飲水すら薄紅の色をし、これで煮炊きした食事は腐ったような味がし、水夫病という病気を
多くの者達が患った。

どれほど多くの人が死んだかといえば、蔚山の西南に七つ(午後3時頃)時分より夜の子の刻(午前0時頃)
までは、日本に例えると比叡山ほどの、巨大な炎が燃え上がっては消え、消えては燃え上がり、
その光で夜になっても近辺の景色が見えた。
人々はこれを見て、

「これは今度の死者たちの悲しみ、嘆きが炎として固まって、あのように成ったのであろう。
何と無残なことだろうか。どうにかしてあれを成仏させなければ。」

と話し合い、安国寺恵瓊和尚が施餓鬼法要を行った。
この後その炎はだんだんに薄れていき、やがて成仏したかのように治まった。
これも不思議なことである。
(義殘後覺)

蔚山城の戦い、その後の戦場の模様である。




106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 23:04:34.78 ID:nxX7jMLc
無数の死体の山で人魂大発生とか・・・

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 23:47:00.31 ID:bieiBvOq
プラズマです。

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 09:09:48.96 ID:eperx2W/
やっぱ屍毒ってやつかねぇ

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 13:45:26.12 ID:TTvt3ojZ
魚の死因はアンモニアかな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 15:29:40.02 ID:kFYWXzdb
有機物たっぷりで赤潮発生て可能性も。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 21:17:18.81 ID:Q4f9yYZJ
水夫病って脚気のことか?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 23:37:08.91 ID:1gbpsi9F
どちらかと言うと壊血病ぽいが

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 23:39:06.87 ID:H15/4sm3
ライムジュースの出番だな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 07:20:03.71 ID:B/YZtShr
実際に効果があったのはザワークラウトってオチだっけ?

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 14:34:15.01 ID:T0stjrxO
ライミーは知ってたがキャベツ野郎は知らなんだw

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 14:39:10.98 ID:J5JMtyh1
ビタミンC含んでりゃいいから、野菜や果物で熱を通してなきゃなんでもいいと思うが

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 15:08:42.56 ID:WF4EIqSf
戦場の不衛生な状態から発生した問題、特に水の問題だから
赤痢とかの疫病じゃないの
戦場で脚気や壊血病はつきものではあるけど

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 01:27:56.67 ID:HggsfwAe
>>116
そもそも途中補給無しの外洋航海では、生鮮食品は保たない。ライムとか柑橘は特に痛み易いし、だからザウアークラウトという「漬け物」が生命線だった。

「食の世界史」って 本によると、上記の理由により 冷蔵技術が発明されるまで、壊血病は外洋船乗りの命を脅かし続けたそうな

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 17:15:08.32 ID:Qg0ePFcf
>>118
ジャガイモなら、ビタミンc豊富で、保存が利いて、熱に強いビタミンcだから火を通しても大丈夫
それを経験則的に知ってた人もいたかも

龍嶽宗劉の道

2013年02月06日 19:51

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/06(水) 18:19:04.09 ID:MNTwCVe5
大徳寺の龍嶽(龍岳)宗劉は幼い頃、東福寺にあって龍喜、安国寺恵瓊の二老に
親炙して、その講義を受けた。後に恵瓊は石田三成の乱で斬首される。

衆人が瓜連(咎?)を恐れて顧みないなか、龍嶽はある夜密かに梟木より
恵瓊の首級を奪い、東山に埋葬して篤くこれを弔い、気付かれないように隠した。
世の人は旧恩を忘れない龍嶽を称した。

黒田長政は深く龍嶽の道を敬った。そのため長政の菩提のために江戸の広尾に
興雲寺(祥雲寺)が建立された時、龍嶽が第一祖となった。

また、龍嶽は御水尾天皇の勅命により竺仙大法禅師の号を賜った。

――『近古禅林叢談』





本能寺の変の直後、秀吉はひそかに安国寺恵瓊を呼び

2012年06月16日 21:03

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 12:23:53.24 ID:Kv27Uscu
本能寺の変の直後、秀吉はひそかに安国寺恵瓊を自陣に呼び、

「中国地方を平定する計画を見せよう」

と言って秀吉に内通している毛利家家臣の連判状を見せた。
そこには毛利家重臣の名前が、たった5名を除いて全て書かれていた。
肝をつぶした恵瓊に対し、秀吉は信長の死を明かし、

「もし秀吉を追撃してくるような事があれば、そこに書かれた連中が毛利家を内部から崩壊させるだろう」

と脅し、和睦に同意するよう迫った。



毛利家家臣の日記より
清水宗治への義理だの、秀吉に恩を売るだのはウソで、疑心暗鬼に陥った毛利家中は、追撃したくても
できなかったんだということ




959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 12:43:01.02 ID:2XxBulvc
まっさきに裏切りそうなのが安国寺恵瓊の気がする

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 18:13:43.24 ID:OKZwSJIH
>たった5名を除いて全て書かれていた
ここまでアレだと嘘臭いけど、敢えて信じるたのが恵瓊さんっぽい

961 名前:和泉守[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 18:22:36.83 ID:4N+TSOhA
してその5人とはどなただったのですかな?

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 18:27:13.06 ID:WyKotWyo
>>958
これ玉木吉保の「身自鏡」から引用してるんだろうけど

>「もし秀吉を追撃してくるような事があれば、そこに書かれた連中が毛利家を内部から崩壊させるだろう」

ここの部分は創作だね。
最後のコメントといい故意なのがよくわかる。

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 18:34:31.42 ID:Tf/BVoWS
そして時は流れて関が原、
「安国寺殿、毛利両川が徳川に寝返っているとのこと」
恵瓊「太閤殿下の真似だろう、捨て置け捨て置け」

吉川元春「誰が行くか!」

2012年04月17日 21:30

622 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/17(火) 09:35:53.91 ID:qJiBg222
信長の死後、その後継者となった羽柴秀吉の軍門に下ることを良しとせず、嫡男である吉川元長に
家督を譲って隠居していた吉川元春は、島津討伐を計画している秀吉から

「九州を平定した後に筑前を与えるので出兵してもらいたい。」

と出陣を迫られても拒否し、毛利輝元から

「私の身を思って出陣してほしい。」

と諭されてやむなく承諾した。小倉城の攻略後に悪性の腫瘍を患い、病床に伏すようになったものの
作戦会議の為に陣地を訪れ、安国寺恵瓊

「今回の戦いで島津家は根絶やしにされるだろう。」

と述べた際、元春は

「九州は遠く、まだ関東も支配下に置いていない秀吉はそれほど多くの兵を割く事は出来ない。
 よって仇敵の間柄でもない島津に対してはいくつかの領地を残し和睦を結ぶだろう。」

と冷静に時勢を読んだという。しかしその一方で、

「元春とは一度会ってゆっくりと話がしたいのう。」

と望む秀吉の招きには、

「誰が行くか。」

と最後まで応じることはなかったという。




623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 11:13:46.76 ID:gRKHUsk3
経家が死んだのがそんなに無念だったのか?

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 11:31:35.00 ID:WoC244u8
元春と石見吉川氏とはそんなに縁は深くないでそ

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 12:41:05.65 ID:su0NZJB3
時勢に付いていけなくなった、もしくは付いていかなかった男の意地みたいなもんじゃねーの
まあ、単純にラスボスが気に入らんかった、ってのでもいいと思うがw

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 13:16:32.86 ID:USGnPtiM
会ってしまえば、人たらしの秀吉にたぶらかされるだろうから、むしろそっちの可能性を恐れたか

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 15:00:45.30 ID:uaY/PUNr
会見後こんなノリになるんかねw
元春「ワシは関白様を誤解しておったわ! 関白様に合力してもらえば毛利家も安泰よ、はははは」」

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 15:55:46.08 ID:0ui4hA/A
佐々成政とか本多忠勝とか見ればわかるけど、
秀吉は嫌われるやつからは徹底的に嫌われるタイプ

それと人誑しはスキルだと思うぞ

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 18:04:20.49 ID:h8Sjk6ve
島津家でも歳久が秀吉を嫌ってたっけか

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 20:30:39.79 ID:AgrPkaGi
>>625
単に病が酷くて醜態を晒したくなかっただけだろう。
実際九州入ってすぐ死んでるし。

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 21:16:15.86 ID:USGnPtiM
武闘派ほど秀吉を嫌うんだね
体育会系が文化系を馬鹿にするようなものか

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 23:53:52.92 ID:zcuscnG/
機知に富んだ立ち居振る舞いを「人をくったやつ」と認識されるのでは
ある意味、裏をかいて生きてきたわけだし

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 01:14:05.82 ID:18FTWe0b
そんなサルに表裏比興と呼ばれる真田ってよーぽどアレなんだろうなw

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 02:32:48.56 ID:32vXldrx
武田と真田の誓紙なんて次の月には期限切れだろw

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 08:28:22.98 ID:c7z4hSEs
織田に至っては二週間

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 14:09:04.57 ID:0O6ukNrP
北条「同盟は破られる為にあるんですね・・・」

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 14:32:40.72 ID:WqWHeuV6
意外と有効期限って長いんだね。

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 16:53:07.05 ID:w9kY1Wvv
>>636
毛利某氏「相手を縛るためにあるのだよ」

吉川広家は自らの判断で

2012年04月08日 21:30

557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/08(日) 14:18:09.65 ID:9PU9FJyJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5710.html このエピソードと関係がある逸話(だと思う。)

天下統一を果たした豊臣秀吉による慶長の役で朝鮮半島に渡った吉川広家は、加藤清正の籠る
蔚山城が約7万の明・朝鮮連合軍に包囲された際、毛利秀元や黒田長政らとともに救援に駆け付けた。そして、軍議で
総攻撃は翌日と定められていたにも拘らず、敵陣の動揺している様子を見て好機と捉え、自らの判断で出撃しようと考えた。
これを、元は毛利家の外交僧で、秀吉に取り立てられ大名となった安国寺恵瓊から

「勝手に出撃するなど軍法違反ですぞ!」

と制止されると、広家は

「兵法は武士のもの。坊主の指南は無用!」

と言い捨て、兵を進めて敵を撃退するきっかけを作ったという。



清水宗治が切腹するまで

2012年01月29日 21:58

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 16:15:37.70 ID:dV7cpYjB
天正10年(1582)6月

備中高松城で対峙する毛利輝元と羽柴秀吉であったが、秀吉は輝元の陣に使者を派遣し、
安国寺恵瓊を呼んで、和議についての話を始めさせた。

秀吉からの和議の条件は以下の通り

・伯耆の国は矢橋川を境界とする
・備中は河辺川を境界とする
・残りの中国筋は尽く毛利家の進退するものとする
清水宗治には切腹を仰せ付けられること

「この条件であれば信長公へ御和平は相整い、毛利の御家もつつがなく、秀吉も面目を立てることが
出来ます」

安国寺恵瓊はこの条件を持って毛利輝元に報告する。毛利の現状からすれば上々の
和議内容であろう。しかし輝元はこれに断固として反対した

「国分け(領土割譲)の事はともかく、当家にあれだけの忠義を尽くした清水に切腹を申し付けるなど、
そのようなことは出来ない!断じて罷りならん!」

安国寺は説得したものの、輝元は2度にわたってそう言い切った。
こうして状況は膠着した。ここに秀吉は密かに蜂須賀彦右衛門正勝、生駒雅楽頭親正を安国寺のもとに派遣し
内々にこう説得した

「毛利は現実を見るべきだ。近辺の国主はみな尽く秀吉になびいている。それらは全て証拠のあることである。
特に、小早川隆景殿が弟同然としていた上原元将さえ毛利と手切れをいたしましたぞ!
この現状では、この和平案を承諾するのが最善ではないか!」

安国寺、答える
「輝元様があれだけ言い切られた上は、これ以上説得した所で聞かれはしないだろう。」

それから安国寺は密かに高松城に入り、清水宗治に対面すると、これまでの和睦交渉の経緯を
ありのままに伝えた。
宗治は聞き終わると

「私の切腹の有無の事だけで和睦交渉が滞っているのですね。
毛利の御家の安否がどうなろうとも、拙者の事をお捨てにならないと決断された。
生々世々(生まれ変わり生き変わっても永遠に)、かたじけない儀であります。
このように扱って頂いたこと、家の面目、これに過ぎるものはありません。

こんな時は一命を投げ打ち、後代に名を残すことこそ武士の願うところであります。
この一命、片時も無駄に伸ばすつもりはありません。
しかし御両三殿(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)に申し上げても、私の切腹には賛同されないでしょう。
そうなれば秀吉との和平が整うこともありません。

安国寺殿、秀吉のもとに行き、清水は条件を承知した。御両三殿の御意に背いても切腹する。そう伝えて欲しい。
そして早々に和平のことを調え、この高松城に残る者たちは無事、毛利本陣に送り届けるようにし、
その上でこの事を御両三殿に披露してください。」

安国寺恵瓊は直ぐに秀吉のもとに向かい、この事を語った。
秀吉は感動し

「神妙無比である。清水の望むとおりにしよう」

と、清水宗治に伝えた。
こうして清水宗治は、6月4日、切腹することと決まった。

清水宗治が切腹するまでの過程である。
(萩藩閥閲録)




649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 18:35:56.38 ID:lzWD42wk
毛利家ってなんでこんなに家内の結束が固いんだろうな
清水だって毛利の中じゃ外様なのに

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 19:02:30.89 ID:zB0rRwcG
出典から分かるように大本営発表だから美談にしてるが・・・

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 20:13:27.85 ID:skFjOdns
まあこれ御両三殿がすぐに了承してたら高天神城落城後の武田みたいに
国人衆が歯が抜けるようにボロボロ織田に下ってあっという間に滅亡だからな

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 20:33:24.55 ID:bIApyMfZ
え?これ備中高松城攻めの話だぞ?
清水宗治が切腹する二日前に信長死んでるけど
そういうフォロー?

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:04:04.52 ID:J1U8VOXD
>>652
確か、明智から毛利への密使が間違えて羽柴の陣に入ってしまって
急いで撤退していく羽柴軍を不審に思った毛利が調べて初めて、信長が死んだって気付いたが
通説じゃなかったっけ?

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:13:18.80 ID:/TYHd38b
どっちが正しいねん(笑)

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/30(月) 05:51:29.66 ID:35cGvL6C
>>652
当時2ちゃんは無かった