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先を越されて宿割をされた事

2021年08月04日 19:11

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/04(水) 16:47:42.11 ID:l4zrfRRo
朝鮮出兵により上杉景勝公が肥前名護屋へ向かう途中、芸州宮島にお泊まりという時、
陣場奉行衆に安田上総介(能元)を添えて、その準備のため先に宮島に参った。
総じて備大将衆が一組ごと順番に、陣割衆と両組にて先行し、陣場を準備して待つという
作法である故に、このようにされたのである。

ところが徳川家康公の御人数の宿割衆六、七百が、宮島の能き町を選んで既に
宿札を打っていた。これに対し安田らの衆は徳川の衆に向かい

「宮島に入るのは景勝の次に家康公であったのに、先を越されて宿割をされた事、
思いもよらぬことだ。あまつさえこの町の能き所を既に選び取っておられる。
それらを早々に明け渡して頂きたい。そこに景勝が本陣を打ち申す!」

これが口論となり、双方既に衝突しようという様子になったところで、
藤田能登守(信吉)、彼はいつも先陣であったので早くも追い付き、中人(仲介人)となって
双方の間を取り繕った。

「家康公の衆を残らず追い立てるというのも現実的ではない。だからと言って先陣である上杉勢の
本陣を立てるべき場所に、後陣の衆が先立って取り堅められているのを、そのまま黙認してしまうのは
大法に背くものであり、また景勝の宿割の者達への不調法にもなる。

そこで、景勝本陣と近習の陣所となる場所だけを明けて頂きたい。その場所の徳川勢の衆は、
軍陣に赴いている以上、後に下るのは不吉であり、先に進むのは吉事でありますから、繰り上げて
先に陣所を取るのが尤もであると存ずる。その他の徳川方の衆はそのままここに陣取られよ。」

これに対し、家康公の御内衆である村越茂助などを初め、その場に参っていた者達が相談し、
この提案を受け入れこの場は無事に相済んだ。

この事は後で家康公も聞き召され、藤田を御褒めになり、配下に対し「重ねてこのような事が
無いように。」と堅く仰せ付けられた。そして名護屋に到着すると藤田方へ、永井右近太夫(直勝)、
大久保七郎右衛門(忠世)の両人を使いとして仰せ下さり
「その方の取り持ち故に、我が方の者共は面目を失わずに済んだ。」
との事であった。

この事は、後に永井右近太夫殿が夏目舎人に直に語られた事である。また大久保七郎右衛門殿も
舎人に語られた事であり、相違無い。

管窺武鑑



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直江兼続が奸佞であったため

2013年04月10日 19:52

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 20:09:20.80 ID:XyZ8bU0F
慶長19年(1614)11月26日、大阪冬の陣において、豊臣方の鴫野要害を幕府方が攻め取った、鴫野の戦いが起こる。
ここで上杉景勝の部隊の安田上総介能元は、豊臣方の攻勢を退け、鑓を入れて突き崩し、ついに大阪城まで追い込むという
殊勲をなした。

所が安田能元は直江兼続と年来関係が悪かったため、将軍秀忠より軍功の確認があった時、兼続の圧力で
安田の名前は記載されなかった。そのため安田の手柄は上聞に達せず、故に感状を下されなかった。

その後、景勝は御前に皆を呼び出し、こう、声をかけた。

「今度の鴫野合戦では、何れも精を出してくれ、満足に思う。しかしながら流石輝虎(謙信)以来、武辺慣れした
各々である。私の方では気遣いすることもなく、危なげもなかった。」

ところがここで、安田能元は、

「皆々は幸運にも、手柄のこと上聞に達し、公方様より御感状を拝領いたしたそうで、誠に目出度いことでありますが、
私は昔から数度の合戦に御奉公申し上げ、その武功は人を越えたことがあっても、人に劣ったことは有りません。

その上で、今回程事を、私の武功として記載される事は有りませんでした。これは今に始まったことではなく、
まるで珍しいことでは有りません。

この事について言っておくと、私に限ったことでは有りませんが、我々は御屋形様(景勝)への御奉公として、身命を投げうって
手柄を稼います。これは公方様への御奉公では有りません。ですから、公方様からの御感状など、少しも欲しいとは
思っていません。今までもお屋形様への御奉公に、命を捨ててきたのです。御屋形様の、公方様への御奉公に問題ながければ、
御感状を頂いても、特に嬉しいとは思いません。」

そう、申し上げた。

直江兼続が奸佞であったために、このような事になったのだと、人々は言っていたそうである。
(北越太平記)




209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 22:06:18.34 ID:X6xJDosV
直江は周りからほんと評判わるいな

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 22:24:50.46 ID:a///h2q9
これが愛の人とか義の人とか言われるようになるなんてなあ…

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 22:30:13.60 ID:QmTezlEp
まぁ立場上同僚からの評判はどうしても悪くなるし、直系子孫もいないしな
実際がどんな人物であれ良くは書かれんさ

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 23:16:29.40 ID:SCYWY/sl
綱憲の相続によって所領がさらに半分になってしまったことに加え、
件の宇佐美-畠山ラインの越後流軍学が成立したのか決定打なのかもな。
すでに直江家が断絶して久しいし、いくら悪く書いても誰も困る人がいない。

ただ、米沢藩にとっては、直江兼続が執政として万事を取り仕切る体制があり、
なおかつ直江家が兼続一代で絶えたために、江戸初期にありがちな家中騒動や
粛清劇のようなものが見られなかったりもする。

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 00:34:41.24 ID:DuHjuJan
江戸時代の価値観では権現様に逆らった不届き者でもあるな

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 01:40:45.74 ID:cgWqnRSv
婿に逃げられたおかげで主家が身軽になるとかわけのわからんことやってるが、
結果的に兼続が責任を全部背負う形で上杉が生き残ったような気はしないでもない

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 07:15:01.91 ID:w0bePnsT
江戸時代の直江は、直江状で大人気じゃないか

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 07:58:46.28 ID:+g8ljOBv
>>208
景勝がしゃべった・・・だと・・・?

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 08:39:54.42 ID:+ojIWgMw
>>214
そこら辺は大坂の陣やその前に帳消しになってるかと

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 10:47:47.84 ID:72m8Mc5D
鍋島は島原まで挽回しようと躍起になってたぜ