752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 18:07:21.47 ID:VXFhhPTe
(小牧・長久手の戦いの時)
堀久太郎殿(秀政)はそのまま人数を引き返し、備えを立てられたところで式部大輔殿(榊原
康政)の人数が行きかかり、久太郎殿の備を見てまた見崩れ仕った。久太郎殿の人数は式部大
輔殿を追い立て来たるところで、権現様の御旗の手を見付け久太郎殿の人数もまた崩れ申した。
それより権現様は浅間山へ御上り、御備遊ばされた。阿弥陀ヶ峰には井伊兵部少輔殿(直政)
を立てられた。その様子が勝入公(池田恒興)、紀伊守様(池田元助)、武蔵守様(森長可)
へ聞こえたゆえ取って返され、井伊兵部少輔殿と武蔵守様と合戦が始まり申した。
その節、兵部殿の手先で平松重治郎・鳥居重治郎の両人、武蔵守様の手では千田主水・山田八
右衛門とが一番に槍を合わせ申す。武蔵守様の備が色々と崩れ仕ったのを、武蔵守様は手槍を
御取り、御進み出て追い払わんとなされたところ、兵部殿の手より強く鉄砲を撃った故、その
鉄砲が武蔵守様に当たり御討死なされた。
すなわちその手が崩れ申した時に、権現様の御旗本、金の扇子の御馬印が進んだのを勝入公の
人数が見付け、ことごとく敗北仕った。その折、武蔵守様の御死骸を御家来が引きかけ退いた
が、後ろから大勢が追いかけるので退くことに難儀し、その辺りに捨て置いたのを本多八蔵殿
が御首を挙げられ、ならびに刀を取り添えて権現様へ御実検に入れられた。その刀で武蔵守様
ということが知れ申したという。
それより勝入公は東の方へ退かれたのを安藤彦兵衛殿(直次)が槍付けられ、永井伝八殿(直
勝)が首を挙げられた。紀伊守様は勝入公の討死を御聞き付け、阿弥陀ヶ峰の方へ乗り付けて
御越しになったのを、また彦兵衛殿が槍を合わされ首を御取りになったという。
権現様はことごとく御勝利を得られて「参(欠字)たちの子飼いの武士ども、槍を仕り候」と
仰せられ、信雄公へ首実検に入れ申すようにと仰せ付けられた。首どもは御送り遣わされ、そ
れより早速御人数を小幡へ御引き取り遊ばされた。
――『忠勝公御武功其外聞書』
(小牧・長久手の戦いの時)
堀久太郎殿(秀政)はそのまま人数を引き返し、備えを立てられたところで式部大輔殿(榊原
康政)の人数が行きかかり、久太郎殿の備を見てまた見崩れ仕った。久太郎殿の人数は式部大
輔殿を追い立て来たるところで、権現様の御旗の手を見付け久太郎殿の人数もまた崩れ申した。
それより権現様は浅間山へ御上り、御備遊ばされた。阿弥陀ヶ峰には井伊兵部少輔殿(直政)
を立てられた。その様子が勝入公(池田恒興)、紀伊守様(池田元助)、武蔵守様(森長可)
へ聞こえたゆえ取って返され、井伊兵部少輔殿と武蔵守様と合戦が始まり申した。
その節、兵部殿の手先で平松重治郎・鳥居重治郎の両人、武蔵守様の手では千田主水・山田八
右衛門とが一番に槍を合わせ申す。武蔵守様の備が色々と崩れ仕ったのを、武蔵守様は手槍を
御取り、御進み出て追い払わんとなされたところ、兵部殿の手より強く鉄砲を撃った故、その
鉄砲が武蔵守様に当たり御討死なされた。
すなわちその手が崩れ申した時に、権現様の御旗本、金の扇子の御馬印が進んだのを勝入公の
人数が見付け、ことごとく敗北仕った。その折、武蔵守様の御死骸を御家来が引きかけ退いた
が、後ろから大勢が追いかけるので退くことに難儀し、その辺りに捨て置いたのを本多八蔵殿
が御首を挙げられ、ならびに刀を取り添えて権現様へ御実検に入れられた。その刀で武蔵守様
ということが知れ申したという。
それより勝入公は東の方へ退かれたのを安藤彦兵衛殿(直次)が槍付けられ、永井伝八殿(直
勝)が首を挙げられた。紀伊守様は勝入公の討死を御聞き付け、阿弥陀ヶ峰の方へ乗り付けて
御越しになったのを、また彦兵衛殿が槍を合わされ首を御取りになったという。
権現様はことごとく御勝利を得られて「参(欠字)たちの子飼いの武士ども、槍を仕り候」と
仰せられ、信雄公へ首実検に入れ申すようにと仰せ付けられた。首どもは御送り遣わされ、そ
れより早速御人数を小幡へ御引き取り遊ばされた。
――『忠勝公御武功其外聞書』
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