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子飼いの武士ども、槍を仕り候

2021年05月23日 17:36

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 18:07:21.47 ID:VXFhhPTe
(小牧・長久手の戦いの時)

堀久太郎殿(秀政)はそのまま人数を引き返し、備えを立てられたところで式部大輔殿(榊原
康政)の人数が行きかかり、久太郎殿の備を見てまた見崩れ仕った。久太郎殿の人数は式部大
輔殿を追い立て来たるところで、権現様の御旗の手を見付け久太郎殿の人数もまた崩れ申した。

それより権現様は浅間山へ御上り、御備遊ばされた。阿弥陀ヶ峰には井伊兵部少輔殿(直政)
を立てられた。その様子が勝入公(池田恒興)、紀伊守様(池田元助)、武蔵守様(森長可
へ聞こえたゆえ取って返され、井伊兵部少輔殿と武蔵守様と合戦が始まり申した。

その節、兵部殿の手先で平松重治郎・鳥居重治郎の両人、武蔵守様の手では千田主水・山田八
右衛門とが一番に槍を合わせ申す。武蔵守様の備が色々と崩れ仕ったのを、武蔵守様は手槍を
御取り、御進み出て追い払わんとなされたところ、兵部殿の手より強く鉄砲を撃った故、その
鉄砲が武蔵守様に当たり御討死なされた。

すなわちその手が崩れ申した時に、権現様の御旗本、金の扇子の御馬印が進んだのを勝入公の
人数が見付け、ことごとく敗北仕った。その折、武蔵守様の御死骸を御家来が引きかけ退いた
が、後ろから大勢が追いかけるので退くことに難儀し、その辺りに捨て置いたのを本多八蔵殿
が御首を挙げられ、ならびに刀を取り添えて権現様へ御実検に入れられた。その刀で武蔵守様
ということが知れ申したという。

それより勝入公は東の方へ退かれたのを安藤彦兵衛殿(直次)が槍付けられ、永井伝八殿(直
勝)が首を挙げられた。紀伊守様は勝入公の討死を御聞き付け、阿弥陀ヶ峰の方へ乗り付けて
御越しになったのを、また彦兵衛殿が槍を合わされ首を御取りになったという。

権現様はことごとく御勝利を得られて「参(欠字)たちの子飼いの武士ども、槍を仕り候」と
仰せられ、信雄公へ首実検に入れ申すようにと仰せ付けられた。首どもは御送り遣わされ、そ
れより早速御人数を小幡へ御引き取り遊ばされた。

――『忠勝公御武功其外聞書



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あるいは曰く勝入が討たれたのは

2019年04月18日 16:16

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 14:49:29.28 ID:r+wjkShL
(長久手の戦いの時)

また長久手はといえば、この時に太閤方の池田勝入(恒興)は額田の北、犬山に本陣を置く。犬山の東、
岩崎の城には大御所(徳川家康)方の丹羽勘介(氏次)が籠る。

犬山から額田までは5里程あった。勝入は額田に行って太閤にまみえて曰く、「私が良き人数を率いて
三河に入り、敵の本郷を焼き討ちにしてその妻子を屠れば、敵はよもや小牧に堪えていることはできま
すまい」と申した。これに太閤は曰く「思うようにはならん」として許さなかった。しかし勝入は明日
また赴き、固く乞うて曰く「今現在においてこれ以上の謀はありません」と申し、太閤はこれを許した。

勝入父子は共に出発した。しかしながら岩崎の城を攻め破らなければ三河へは入り難く、まず岩崎に赴
こうとする。勝入は案内者なので道すがらの百姓に「運啓良ければ(勝利したならば)良くしてやろう」
と言い触れて、夜が明けない内に進んだ。

犬山と岩崎の間に長久手あり。勝入の謀は漏れて大御所はこれを聞き、前夜より長久手に至って勝入が
来るのを待つ。(家康は)もっとも案内者なので百姓等に「この度勝利を得れば、3年作り取りにさせ
よう」と言った。勝入は長久手に至り、夜が未だ明けないところで、「勝入の先手はすぐに岩崎に取り
掛かり、城を攻め破った」との報告があった。大御所方の軍勢は静まって、勝入の先陣と二番手の同勢
を皆行き過ごし、勝入本陣に取り掛かった。

(原注:一本には大御所以下『東照宮は前夜から長久手に至り給い、勝入が来るのを今か今かと待つ。
勝入は案内者なので百姓等に「この度勝利を得たならば、3年作り取りにさせよう」と言いつつ、長久
手に至ると夜は未だ明けず、東照宮方の軍勢は静まりかえっていた。勝入の先手は同勢を選って東陣へ
取って掛かる。安藤帯刀…』云々と続く)

安藤帯刀(直次)は先駆けして暗中で腰掛けている法師武者を突き殺した。それが勝入とは知らずに、
帯刀は「坊主首を取っては面目がない」と、また進んで子息の勝九郎(池田元助)を撃ち殺す。その後
に永井右近(直勝)が来て死首をやすやすと取り、後まで功に誇るという。

――『老人雑話』

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 15:58:30.06 ID:r+wjkShL
>>886
あるいは曰く勝入が討たれたのは、一合戦して勝った勝入が後にまた敗軍して士卒を失い、疲れて1人
での帰りがけに討たれたという。

――『老人雑話』



安藤重長は何かを察して

2012年11月24日 19:51

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 17:07:12.77 ID:QdRWouJn
ある日、安藤直次が同じ苗字の安藤重長のところへ「今晩そちらへ
参って料理を賜りたい」と申し伝えた。重長は「これは珍しいことだ。
何を思はれて申し越されたのだろう」と殊の外喜んで直次を饗応した。

直次は機嫌良く料理を賜り、緩々と話して帰っていった。
その後、重長は刀が残されているのを見つけ「うっかりお忘れになったのか」
と思い、近習に命じて直次の乗物を追わせた。

乗物に追いついた近習は側に寄って「御腰物でございます」と申し上げた。
すると直次は乗物の戸を開けて中より刀を取り出し「武士が刀を忘れるわけ
ないだろう」と言って刀を見せると、戸をひしと閉じて帰っていった。

仰天した近習が重長にしかじかと報告すると、重長は何かを察して涙を流した。

「さては今度在所へ帰国される時に隠居なさるおつもりであるぞ。
その刀はそれがしに形見として賜わるということに違いない」

重長の思った通り、直次はその月すぐに紀州へ帰りその年のうちに隠居した。

――『名将言行録』






551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 19:50:56.20 ID:01bEDd5W
安藤さんは粋だなぁ

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 20:11:18.83 ID:veBfM4Uc
三河者は面倒臭いけどカッコいいよな

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 20:52:57.25 ID:a+JjAOIw
めんどくさくない三河者など石川数正と本多正信しかおらん!

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 20:56:52.15 ID:LnYNdIpJ
>>553
御大将の家康はどうだったんだろう?w

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 21:24:06.04 ID:veBfM4Uc
本能寺の時には信長の後を追うとか切腹するとのたまって忠勝に窘められたりとか
腫れ物出来た時にはムカついて無理矢理膿を出したら悪化して生死の境をさまよったりとか、
その時に遺言とか形見分けをし始めて死ぬ気満々で医療を拒否し始めて作左に叱られたりとか、
わりと面倒くさい

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 22:03:10.72 ID:ZeZjyIdy
方向性は違うが本多正信もかなりめんどくさいと思う。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 22:25:07.04 ID:/MJ8+Crr
>>550
ググったら、安藤重長は、安藤直次の弟の安藤重信の跡継ぎなんだね

実際には、重長は重信の娘の子(外孫)なんだけど、養子ということに
して跡を継がせた
重長からすると、重次は形の上では伯父、実際は大伯父

つまり、ふだんあまり付き合いのない親戚のオッチャン(しかも幕府の
老中もつとめたエラい人)が突然訪ねてきて、機嫌よく飲み食いして
帰っていったというお話

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 22:26:37.34 ID:/MJ8+Crr
>>557
>重長からすると、重次は形の上では伯父、実際は大伯父

失礼、訂正。
○重長からすると、直次は形の上では伯父、実際は大伯父

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 00:16:56.97 ID:3jF6m7+6
直次さんは三河者のなかでもかなり異色だと思う
田舎臭さがなく結構粋だよね

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 03:38:56.83 ID:CJcrbyrs
死ぬ死ぬ言う奴に限って死んだためしが無いてのを地で行ってるな、家康て

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 04:29:08.05 ID:UJeJOoWB
瞬間沸騰型だがすぐ冷静になるんだろうね

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 04:45:47.47 ID:V3jPIT9D
そういう逸話にしないと盛り上がらないだろ

「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」

2012年10月24日 20:02

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 01:05:22.33 ID:Ei+gdC1V

黒田忠之とその老臣・栗山利章の間に訴訟があった時、
栗山の言うことに理があるとして黒田家の取り潰しが決まった。

その時、徳川秀忠は「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」と言ったので、
老中は帯刀を呼んで彼の考えを聞いてみた。

「理非によって裁決するというのは尋常な時の話です。
君臣父子の間について、どうして理非を論じるべきでしょうか。

栗山の処罰は免れない。
今回、家臣の申すことに理があるからとその君主を罰するのなら、

もしそれがしと紀伊殿の間に訴訟が起きた場合に、
それがしに理があったならば紀伊殿を処罰するのでしょうか」

この帯刀の意見を受けて、いかにもその通りだということで
栗山は処罰され、黒田家は取り潰しを免れた。

――『名将言行録』




47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 14:32:04.50 ID:f+3YfCG7
いい話なのかね?

48 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/24(水) 16:19:18.58 ID:bCZlZRIR
幕府は改易のチャンスなのに、何で改易しなかったんだろうな。
安藤帯刀の言う君臣の関係の前例なんて、どうとでも繕えるだろうに。

帯刀が喉が渇いたと言っているのに!

2012年09月07日 20:40

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 19:22:33.76 ID:AZgXMjwe

大坂城落城の朝、徳川家康は御旗御長柄を住吉の辺りに立てて置き、
自身は住吉と城の間の山奥にいた。

この時、家康は松平正綱を召して「城中の者は我が旗印を見て、わしが住吉に
いると思っているだろうな。味方は既に勝ったのだから、この上は身を大事に
することが第一じゃ」と笑った。

そんな所に安藤直次が馳せ来たり、家康に勝利の様子を報告した。
それから、直次は御茶や弁当のために同行していた坊主に向かって
「喉が渇いてかなわん。とにかく一杯飲ませろ」と言った。

しかし坊主は「只今、上様の御茶碗の他には器がございません」と断るので、
直次は「上様の御器でも賜った後ですすげばよかろう。いいから飲ませよ」
と重ねて要求した。

そのような問答をしていたところ、聞いていた家康が「帯刀が喉が渇いたと
言っているのに何故飲ませぬか。こんな時に上も下もあるか馬鹿者!」
と坊主を叱ったので、直次はすぐに喉を潤すことができたという。

(徳川実紀)





万千代違い

2011年09月01日 22:01

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 14:46:28.28 ID:/MDj4qXf
小牧・長久手の戦いで、秀吉方について戦っていた池田恒興(勝入)が
家康家臣の永井伝八郎(直勝)に討ち取られた事はご存じの通り。
その経過は、安藤直次が勝入に槍を付けて、直勝にさし招かれた若武者・伝八郎が首を討ったもので
そしてそれを正直に報告した伝八郎と、クサイ芝居をして功を譲った直次という
これだけみると、過去にもこちらで挙がっている清々しい戦場の友情譚である。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-684.html

…が、事の真相はどうやらもっと深~いものであったらしい。

実はこの戦前に、主君・家康から直々に直次にお達しがあった。
「井伊万千代(直政)に手柄を立てさせるように、よろしく援助してやってくれい」
戦歴が浅い為、目の中に入れても痛くない直政の事を頼まずには居られなかったのであろう。
可愛い直政にチョッカイを出そうと、その小姓部屋に忍び込んだとも言われる「敵」直次に頼み込む始末。

そして決戦の場。
直次は勝入に槍を付けて半死状態にした所で、後方から詰めている筈の直政に首を討たせようと、
「万千代、万千代!」と叫んだ。
すると予期せぬ方角から武者が襲いかかり、あっという間に勝入の首を掻き斬った。
その人物こそ伝八郎であり、前髪の頃は直政と同じ「万千代」という童名の持ち主だったのだ。

永井伝八郎直勝とはどのような人物か?
「すぐれたる美童」だった伝八郎は、家康の長男・信康に見染められ児小姓として寵愛されていた為
後に家康の直臣となった際も、家康からも目をかけられた。
機転が利き、軽やかな身のこなしで勇敢な為、この度の戦で初めて母衣衆に抜擢された。

一説(『武野燭談』)に、直次と伝八郎は衆道の契りを結んでいたと伝えられ
(※余談ではあるが、かの「三島由紀夫」は伝八郎の子孫だそうだ)
伝八郎としてみれば、直次が自分に敵将の首を譲ってくれるのだと思い飛びかかったに違いない。
(万千代違いだったが、伝八郎なら丁度いい。伝八郎にも誤解させたままでおこう)と直次が
思ったかどうかはわからない。
いずれにしても、伝八郎にとっては棚からぼたもちである。

その頃、本来の「万千代」はどうしていたかというと…

直次の思いは何のその、井伊隊の主将でありながら組下をどこかへ置き忘れて、敵陣深く攻め入り
一騎駆けよろしく池田隊と組みうちし、直次の助太刀もイラネとばかりに
勝入の黒母衣を組み伏せ、首を掻き斬っていたとさ。
もちろん直次に、「物主たるもの組下を置き去りにして一人働きするものではない!」と叱られました。




378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 15:01:41.36 ID:r6KjBAj3
万千代違いワロタw

なんかかわいいな 俺が呼ばれてる!と思って勇んで駆けてくるの

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 15:46:01.49 ID:35n8IDR5
>>377
戦場の話なのに微笑ましいのは何故だろう
それにしても安藤さんはアッー!方面も抜かりがないねw
長久手では井伊隊のあげた首級がパネェし
「我に遅れたる者は男じゃねー」
と飛び出して行った直政には最初から援助なんていらんわ
という感じだね

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 19:14:05.26 ID:3+7HXbDB
「覇王の家」でも信康が寵愛していた家臣だから、家康も目をかけていたって描写だったなー。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 19:23:52.76 ID:5saW7Eok
衆道関係をはっきりさしといた方が背景が分かるからいい
この時代は嗜みだったんだし


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 11:18:58.56 ID:1KCWKsp9
>>377
司馬遼太郎の覇王の家にも載ってたな。
永井伝八郎の事を他人に思われ慣れた者の厚かましさというものかもしれないって、けっこう酷く書かれてたけどw

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 12:28:49.28 ID:RpXRtaE/
>>402
あの場合は、永井の取った行動も最もな事だし仕方ないと思うけどなw
冷静になって、あれは自分を呼んだのではなく井伊万千代の事だったと気付いたはずだが
その後に権現様に直次殿からの貰い首と正直に言って褒められたエピも良い

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 16:17:33.80 ID:J6MLLiZh
>>402
覇王の家をして読み返したけど、何故あんなに永井に厳しいんだろ
永井も家康に正直に事情を話したと文中に書いてるくせに
他人に想われ慣れた者の厚かましさとか
首を討ったのは確かなのに
譲り受けていわばけろりとしていたなんて書いたり。
逆に直政に対しては
その美貌は婦人にも稀なほどとか想い人のように好意的w
家康との衆道も、徳川家のみならず
町人まで知ってる事実とか断定しちゃってる



405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 16:25:21.91 ID:DmRk64gg
>>404
子孫の三島由紀夫か分家筋の永井荷風が嫌いだったのかもしれんなw

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 16:35:25.50 ID:Y5sC0jWl
>>384
ちょっとシュトロハイム入ってるなw

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 16:51:24.97 ID:RpXRtaE/
>>405
それ自分も思ったw

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 18:41:10.75 ID:C9EFOOU5
>>404
エッセイ等よめばよく分かるが、
司馬は「欲深い人間」が死ぬほど嫌いなんだよ。
金銭欲、名誉欲、領土欲等を人一倍持ってると司馬に判断された人間は糞みそに悪く書かれちゃう。

反対に、司馬がヒーローを書く時は、多少無理があっても
「無欲で、自分の力を試したい・公平な世の中を作りたいという原動力で生きた人」として作っちゃうわけ。

だから、大封を得ても質素な生活を貫いた井伊直政には甘いし、
黒田官兵衛なんか暗黒面のエピソードを完全にスルーして「無欲で明るいクワンピョウエ」なんて
無理あり過ぎる美化をしちゃうw

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 18:46:11.15 ID:DmRk64gg
> 金銭欲、名誉欲、領土欲等を人一倍持ってる

この要素で真っ先に思い浮かぶのは太閤殿下だなw

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 18:47:16.72 ID:64WNbTQ7
大阪人に太閤=悪の発想はできません

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 19:17:24.29 ID:p64izSXP
太閤殿下は欲深いというのとはひとつ上の次元にいる気がする
良くも悪くも

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 20:00:55.44 ID:xNNneUWv
言われてみれば、司馬センセの作品に出てくる直政は、家康のお気に入りの名家の美男子であることがやら
強調されてる気がする。

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 20:12:35.41 ID:pl1wOrqD
>>412
まあ、実際にそうだったようだけどな

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 20:19:43.14 ID:BFHfy2D5
>>408
お前も司馬同様にレッテル貼りが好きなんだなw

江戸城中でとある儀式が営まれた時

2011年08月23日 23:00

189 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/23(火) 20:56:54.48 ID:IqGfXAPc
『身命を惜しまず』掲載の話

紀州藩附家老・安藤直次は、紀州頼宣は元より、尾張義直、水戸頼房の徳川御三家当主から信頼され愛されていた。
老いた直次が三人に従い、江戸城内紅葉山へ登った時、頼宣が右手をとり、義直が左手をとり、頼房が腰を押した事は、
幕閣、初藩士に広く知られていた。

そんな直次が、最晩年になってからの出来事。

江戸城中でとある儀式が営まれた時、水戸頼房の装束の袖に伊達政宗の烏帽子が引っ掛かり落ちてしまった。
政宗は公の場で恥ずかしい思いをし大いに怒った。
儀式の後にこの顛末を聞いた直次は、下城すると直ちに政宗の屋敷へ出向いた。
政宗が諸大名の前で怒りを露わにした事を、頼房に詫びさせねば徳川御三家の威信に関わるからである。

政宗の家臣が、政宗は病気で会えないと伊達屋敷の玄関で断ると、
「病気でも結構、御床へ参上致す」と家来たちを押しのけ、政宗の寝所へ押しかけた。
驚いて飛び起きた政宗に大声で
「中納言(政宗)殿には、本日の城中でのおふるまい、大きな心得違いをしておられる。
水戸殿は亡き御主君である家康公の御子なるぞ。
直ちに水戸殿へお越し召されお詫びに出向かれよ。ご同道つかまつる!」と告げた。
政宗は直次の全身から漲る異様な殺気に圧倒されつつ逆らったが、
「とにかくお仲直りなさるべし。早く袴を召されよ」と、有無を言わさぬ勢いで身支度を整えさせ水戸屋敷へ連行させた。
直次と共に頼房の御前に出た政宗は、
「本日は政宗が心得違いを致し、無礼つかまつった。何卒今まで通り思し召されたしとて、参上致しました」と詫びを入れ、
頼房は快く受け入れて何事もなく終わった。

この時に政宗が無礼な振舞いをしたら、直次は政宗をその場で刺殺し自分も死ぬつもりであった。


何事にも命懸けで相対する安藤直次のちょっといい話




195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 23:18:25.50 ID:HyUQH3XY
>>189
政宗が九死に一生を得たいい話だな
本当に具合悪くて勘気を抑えられなかった可能性もあるけども
政宗が絡んだ面子をかけたチキンレースはテンプレ化してるな

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 23:37:58.39 ID:kQohL8+b
>>189
さすが帯刀さんはカッコいいな
政宗も帯刀さんにあっちゃかなわねー

松前・津軽和解

2011年05月23日 00:00

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 19:49:25.37 ID:8Oy76fio
文禄元年(1592年)、津軽為信は海路で上京しようとしたところ暴風雨にあい、
蝦夷の松前に漂着した。松前の領主・慶広は為信が漂着したというこで自ら出向いてきた。

「殿、慶広殿がいらっしゃったようですが」
「放っておけ」
「は?しかし・・・」
「わしは安東の領土の土を踏むつもりはないわ」

為信は安東氏の領地であることを理由に上陸を拒んだ。
もともと両家は敵対していたこともあって、為信の態度は慶広に疑念を抱かせた。
その後、名護屋、大坂においても両者に不快なことがあり、両家の関係は冷え切った。

が、慶長十五年(1610年)に転機が訪れた。慶広は駿府でたまたま老中の安藤直次と会った。
「松前と津軽の不和というのはよろしくないことです」
直次は慶広と為信の子・信牧を戒め、両者を仲裁した。為信はすでに没している。

このために元和三年(1617年)、慶広は参勤の途上、弘前の信牧を訪ねた。
信牧は慶広を厚くもてなし、慶広は則重の刀を贈り、信牧は宝剣と駿馬を贈った。
これより二藩の関係は良好となり、松前は参勤で津軽を通らければならないので、
津軽はその際には諸々の便宜をはかり、慶広の娘は信牧に嫁いだ。
また蝦夷地に何か有事のあるときは、幕府はまず津軽藩に命じて松前藩を
助けさせるのが慣わしとなった。


768 名前:762[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 21:01:21.87 ID:8Oy76fio
>>762
投下しておいてなんですが、1617年だったら慶広死んでますね・・・
元和元年か二年と間違ったかも
新北海道史にあった話なのでつくり話ではないと思うんですが手元にないので確認できません
申し訳ないです・・・




763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:15:46.48 ID:1Es3p1pE
なんでわざわざ仲裁したんだろう?
不和で有り続けた大名同士なんて大藩でもいっぱいあるのに

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:24:55.25 ID:8chlkP+c
幕府がわざと仲悪い大名家を隣に配置して相互監視させたって
どれくらい信憑性あるんだろうか

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:35:16.86 ID:wp6nrZ9o
何もしなくても隣国とは勝手に仲悪くなることも多いしな。
ただ松前だとアイヌの問題も含め国境線ってこともあるからいざという時に
真っ先に援護する必要のある津軽と露骨に嫌い合ってるのはまずいと
いう判断はあったのかも?

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:54:23.87 ID:1J67Q7wl
>>764
そういう意図は殆ど無かったと思われる。
というか、そりゃあ仲良くなられすぎても困るが、仲が悪くっちゃお互い警戒して交流がなくなり
むしろ情報が入ってこなくなるもの。
あと、ライバル大名同士を隣合わせに配置する、というやり方は室町幕府がやって大失敗した。

監視という意味では、室町幕府と違ってそれぞれに地域に譜代大名も入っているわけで、
大名同士が勝手に仲が悪くなったのを後から江戸幕府に責任転嫁した、といった例がほとんどだろうね。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 21:14:24.15 ID:WyJXsj8a
>>768
県史でも軍記物から引用してたりするからね

作り話とまではいかなくても、年代や人物のズレはあるよ