FC2ブログ

一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條

2019年06月09日 09:27

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 03:07:24.08 ID:cxXeu6pY
  六日、幕府、一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條ヲ頒ツ

 『令條』

  条々

一、一季居(一季で雇われた者)の事。堅く停止された以上は、侍はもちろんのこと中間・小
  者に至るまで抱え置く輩は速やかに罪科に処される事。

一、伴天連門徒は御制禁なり。もし違背のある族はたちまちにその科を逃れられない事。

一、手負いの事。上下に関わらず傷付いた者がいれば、その場所の給人・代官に詳細を申し届
  けなければならない。ならびに他の場所から手負いの者が来たならば、すなわちその手負
  いを留め置き、交名を註して必ず言上すること。万一隠し置けば、重科に処される事。

一、煙草を吸う事。制止とされるに至り、その上で売買する者までも見付けた輩がいたならば、
  双方(売る者と買う者)の家財を、見付けた輩に下されるものである。もしまた、路次に
  おいて見付けた場合は、煙草ならびに売主をその在所に押し置いて言上せよ。付いて来た
  馬・荷物以下は改め出した者に下される事。

  付いてはどこの地においても煙草を作ってはならない事。

一、牛を殺す事は御制禁なり。おのずと殺すような輩には一切(牛を)売ってはならない事。
 (牛を殺事御制禁也、自然殺へき輩には、一切売へからさる事)

  この趣を領内に必ず触れさせるように。この旨を堅く仰せ出されたものである。よって
  件の如し。

     慶長17年(1612)8月6日        青山図書助(成重)
                            安藤対馬守(重信)
                            土井大炊助(利勝)

            藤田能登守殿(信吉)

(原注:幕府が一季居を停止したことは慶長14年正月2日に。煙草を禁止したことは、同年
7月是月に。また耶蘇教を禁じ、京畿の耶蘇寺院を破壊せしめたことは、本年3月21日に。
また一季居などに関する法令を頒布したことは18年3月是月に各々その条あり。参照すべし)
                      
――『大日本史料』

その7日後>>129



135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 21:52:07.77 ID:mD08Q13s
キリスト教については分かる
煙草もなんとなく分かる
その他はどういう理由なんだろうね

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 12:58:13.75 ID:Cv0VNwoU
>>134
牛を殺すことの禁止はキリシタン弾圧の一環かな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 13:30:40.56 ID:E0Guiztx
キリシタン弾圧って言うより、牛を食うという行為が農民から相当嫌悪感を持って見られてたらしい。
秀吉のキリシタン追放令の理由の中にも「牛を食うこと」が入ってる。

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 13:44:22.19 ID:ZI8DPZsm
自分の親が牛に転生してるかも、と思うと食えないな

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 14:56:31.46 ID:YuoSwCCz
カムイ伝みたら穢多が死んだ牛食ってた

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 16:54:35.54 ID:/xDs3wXj
彦根藩の特産品は干し肉と味噌漬けだったりする。
彦根藩から届く肉を楽しみにしていた大名は多く徳川斉昭もその一人だったが
井伊直弼が藩主になると肉食を禁じてしまう。
しつこく肉をねだる斉昭と頑なに断わる直弼の仲は険悪になり
安政の大獄や桜田門外の変の遠因になったとかならなかったとか…

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 17:30:23.91 ID:n8keEJU7
食べ物の恨みは怖いな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 18:30:43.06 ID:ZI8DPZsm
>>144
慶喜「父上も近江牛がなければ豚を食べればいいのに」
スポンサーサイト



「門松をやる。」

2016年12月14日 16:57

418 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/14(水) 12:09:46.27 ID:TPR3JAZq
お正月も近いので、門松関係の逸話を

江戸時代、諸大名のなかで、
唯一将軍家から門松を拝領していた藩があります。

奥州磐城平藩安藤家です。

安藤家の先祖、安藤重信は、家康の囲碁の相手をよくしていました。

ある年末の夜のこと、いつものように家康と囲碁をしていたところ、家康が勝たないので退出時間を過ぎても帰城させてくれませんでした。

そこで、重信が「屋敷に帰宅し、門松の準備を致したいのですが。」と言うと、
家康は「門松をやる。」と言いました。

家康が勝ったので重信が屋敷に帰りますと、将軍家と同じ門松が届いていました。以来、毎年門松の拝領がありました。



いま一言をもって日延べをお許しになられたこと

2016年05月29日 13:09

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 09:31:21.71 ID:9iJTYgQ1
慶長の末年、大久保相模守忠隣は本多正信の讒言により、所領を召し上げられた。

その時、安藤対馬守(重信)は小田原の居城を受け取るべしとの命を受け、大久保の
家老・天野金太夫を呼び、「当城内外の諸臣らは、今明日のうちに他所へ退出せよ」
との旨を命じた。すると天野は曰く、

「主人・忠隣の事は、不幸にして罪を蒙り、臣らは今この命を承って、公儀に対して
誰が異議に及ぶことだろう。されども、家臣がこの城を預かり守る主人の命令無くして
他に城を渡すことは臣たる者の道に非ず。

それに、いま城下にいる小臣奴婢などの類は多い。彼らがすぐさま退かなければ
ならないことについて、少なからず憂いがある。この事をぜひともお察しして頂きたい!」
と、言った。その言葉は意気盛んであった。

安藤はこれを聞くと、「私はいま上意のままに命令をなしている。しかしながら、
汝の言うことは実に道理である。日を延ばして城を渡すようにせよ。私がこの事を
取り計らおう」と言って、退いた。

天野は曰く、「わたくしめは、齢傾き見苦しくとも一刀を下して皺腹を切り、貴殿の
馬前を汚さんと思ったのに、いま一言をもって日延べをお許しになられたこと、幸い
これに過ぎず!」と、厚く感謝した。

さて、主人・忠隣からの下知を待って、その後は内外とも騒々しくはならずに神妙に
立ち去った。「大臣たる者の振る舞いはこのようでこそあるべきである」と、諸人は
感賞したということである。

――『明良洪範』