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今そ引きる安芸の元就

2021年10月30日 16:25

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/30(土) 15:00:27.07 ID://LSt/4J
出雲の白髪という城は山陰道の名城であり、この城に籠もる者は幼い童が白髪になるまで成長しても、
曾て落ちることのない城であるとして、白髪城と呼ばれたそうである。さらにこの城を毛利元就
攻めるという時、尼子方である城内の者たちは籠城を覚悟して糧米、馬料、塩、味噌に至るまで
よく貯えておいたため、月を超えて年を経ても、城内には倦労の気色も無く、却って折々切って出て
旺盛な武威を示した。このため、知謀深き元就も攻めあぐね、石見国の銀山より金堀子を召し寄せて、
白髪城本丸の下を目当てに穴仕寄を掘らせた。

この時、城中より何者であろうか、一首の狂歌を読んで洗骸の陣の外構に立てた

 元就は 白髪の糸にむすほれて 懸もかからす引もひかれす
 (毛利元就は白髪城に絡め取られて、攻勢にも出られず撤退も出来なくなっている)

元就は歌道が中国においてその名のある人であったので、即座に返歌をして、白髪の岸涯に立てられた

 義久か命と頼む白か糸 今そ引きる安芸の元就
 (尼子義久が生命線として頼っている白髪城の、その糸を今こそ引き切るのがこの安芸の元就である)

宍戸記

尼子側の狂歌を得意の歌道で見事に返した毛利元就のお話。



759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/31(日) 10:44:47.71 ID:K9T+0l0d
石見銀山が欲しくて本城を謀殺したら降ってた尼子方が‥
謀将のイメージあるけど結構失策多いね
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尼の子と成って以来

2021年10月25日 17:47

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/25(月) 16:28:47.23 ID:1KOF0XaZ
尼子の家は宇多源氏佐々木の一流、塩冶判官高貞五代の後胤である。塩冶高貞が讒死した時、三歳の
幼子が有り、八幡太郎と言ったが彼は母親の元から出され、密かに養育し、この時尼の弟子と成して
命を助け、その後出雲国に入り月山富田城に住し、やがて子孫が出雲、伯耆、因幡、石見、隠岐の五ヶ国を
領した。

尼の子と成って以来、家が再興された事により、氏を改め尼子と名乗り、この由緒を忘れない事を示した。
尼子家は山陰道の守護職に補任され、武威を他国に振るい、それだけではなく旗を山陽に動かし
備後、備中、安芸の大半に鉾先を傾け、関西に於いては大内尼子の両家に肩を並べる者は無かったが、
右衛門督晴久の代に至って逸遊を好み、治国撫民の徳を失い、蒙昧にしてそれまで親しかった者たちを
遠ざけ、他人を近づけ、君臣共に奢侈となり、花車風流のみにふけり、武道を忘れ文を試みず、
忠臣は志が齟齬する事で身を奉って退き、又は讒言に遭って死んだ。そのようであったので分国も
日々に侵食され、遂に家を失った。

嗚呼、尼子を滅ぼす者は尼子であった。元就には非ざる也。

宍戸記

尼子氏は近江国甲良荘尼子郷が名字の地とされていますが、先祖が尼に育てられたから尼子、という
話もあったのですね。



私一人当城に残り留まって

2021年10月23日 16:25

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/23(土) 15:12:10.36 ID:ME8xMoQB
宍戸家の譜代の侍である中村四郎兵衛尚種は、石見国矢筈の城の加番として籠め置かれていた所に、
尼子勢がかの城を取り囲んで攻め働くこと、天柱も折れ坤軸も砕けるほどのの激しさであった。
このため城番の諸卒は日々夜々落ちていき、ついには尚種ただ一人が残った。
彼は尼子勢を程近くまで引き請けると矢倉に上り、敵勢に矢留を乞うて声高に叫んだ

「当城は毛利方が相抱え、そのため各方が取り囲んだ所、城番の者たちは番頭を始め
腰抜けの集まりであったので皆々落ちていった。

私は、宍戸安芸守隆家より加番として差し籠められた中村四郎兵衛尚種と申す者である!
誰であっても命は惜しいものだが、我が主君隆家は軍法厳密にして制している故に、
死を遁れることは出来ない。私一人当城に残り留まって、只今切腹に及ぶ。
敵方の心有る人は、その首を取って大将の見参に入れてほしい。残った屍は痩せた犬を肥えさせれば良い。」

そう言うと腹を掻っ切って死んだ。
この事を味方は全く知らず、矢筈の城は落城したとして味方の勢は皆撤退したというのに尚種が未だ
帰ってこないのは、追討ちに遭って討たれたか、または捕虜と成ったのだと考えていた。
そのような所に、尼子勢は彼の志に感じ入り、毛利方へ首を送り尚種の最後の様子を詳しく言い伝えた。
これを聞いて宍戸隆家を始め各々鎧の袖を濡らし、このため子孫には褒美の地が与えられ、今に至るまで
その勇名が表彰され子孫も保たれている。

(宍戸記)



陶長房の滅亡

2021年10月21日 17:32

陶長房   
100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/21(木) 16:14:26.25 ID:vu/Oysxu
陶五郎長房は父入道(陶晴賢)を始め一門支葉、譜代恩顧の者までも芸州厳島に於いて
悉く討たれ(厳島の戦い)、また倉掛、沼の両城も没落したと聞いて、周防国都濃郡富田の
富田若山城に閉じ籠もるより術なく在ったが、これを聞いて毛利元就父子は、宍戸隆家、
小早川隆景は直ぐに富田表へ打ち出て若山城を囲んだ。

この時大内累代の臣である杉伯耆守重矩の二人の子、杉弾正重輔、同七郎正重は、去る天文の頃
父重矩が陶晴賢に殺されて以来、時節を以て親の仇を討つために豊前国箕島に在り、恨みを防州の雲に馳せ、
憤りを箕島の浪に漂わせ、時を窺い日を移していた所に、陶入道は厳島に於いて一族もろとも討たれ、
五郎長房も若山の城に籠もっているが、日を移さずそこも落城するだろうと聞き、杉兄弟は

「主君の讐、親の敵である晴賢を討てなかった事は心外であり口惜しい。剰え五郎に矢の一筋も射掛け
なければ天の咎もいかがであろうか。生前の面目、死後の恥、永々以て免れない。片時でも早く
打ち渡り、胸中の恨みを散じなければ。」

と、兄弟打ち連れて走るその様子は韋駄天の如くであった。すると前代報恩の者たちがここそこより
集まり、その勢百ばかりに成って、弘治三年(1557)二月二十二日、若山に駆け付け見ると、
若山城は毛利勢が取り囲み、旗幟が並んでいた。そこで杉兄弟は搦手へ廻ると、城中よりこれを見て、
彼等は下口より敵が来るとは考えていなかったため、この勢は必定大内義長からの加勢であると思い、
門を開けて彼等を入れた。杉兄弟は自身で謀る事を成さずに、安々と城に入ると、城中より切って出ると、
城を取り囲んでいた毛利勢は、城中に返り忠の者が出たのだと思い、我先にと乗り込むと、即時に城は
乘り落とされた。

五郎長房は山口に落ちようとして、徳地の庄まで落ちた所で、この地は吉見正親の領地であり、
郷民たちは蜂起して彼を通さず、よって徳地に於いて害された。こうして陶一族は根を絶ち葉を枯らした。
君を弑した悪逆の因果、不昧は臣たる者の咎である。

(宍戸記)



宍戸家の者共の志は、何れも健やかである

2021年10月19日 16:49

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/19(火) 16:02:22.60 ID:p7SjWLTJ
ではせっかくだから西国の話を

安芸国吉田郡山城の毛利元就と、甲立五龍城の宍戸元源は天文二年(1532)に和睦し双方音信を通じたが
未だ参会することは無かった。そして翌三年正月十八日、元就は年始の礼として五龍へ参った。

宍戸元源はこれを慇懃に饗応し終日物語などあった。元就は寵臣である粟屋右京、国司右京の
両人だけを留め置き、その他の人数は悉く郡山へ返し、主従三人ばかりが五龍に滞留した。
元源は元就が隔心無く人数を返したその志が健やかな事に感じ入り、打ち解けて終夜、軍法の評判、
隣国諸士の甲乙などを論じ、旧知のように睦まじく語り合った。

虎穴に入らずんば虎子を得難しと云うが、元就は言った
「我々がこのように別心無き上は、私の嫡女を貴殿の嫡孫である隆家殿に進め、親子の仲となれば、
一家の者共までも心安く申し合わせるようになるでしょう。元源殿がこれに同心して頂ければ、
本望何事かこれに及ぶでしょうか。」

元源答えて曰く
「その御志に、甚だ悦び入っております。私は既に老衰に及び、息子である元家に遅れ、隆家は
若輩であり、最も力なく思っており、私の方から時節を見てそれを申し入れようと考えていた所を、
それを遮って貴殿の方から仰せを承りました。これは実に深い知遇です。

元就殿には子息達も数多居られますから、今後隆家にも兄弟が多くなります。
隆家の事はすべて元就殿にお任せしますので、どうぞ御指南をしてください。
さあ、子孫長久の酒を進めましょう。」

そう云うと隆兼、元祐、元周、元久、その他親族衆が連座して山海の珍味を尽くし、甘酒泉のごとく湛え、
様々な料理を連ねて宴を催し、貴賤の別なく献酬交錯して酔を進め、夜もすがら乱舞して、元就は吉田へと
帰られた。

その後、吉辰を選び婚姻の礼を調え、吉田と甲立の境に仮屋を構え、毛利、宍戸の双方より出会い、
宍戸家側が元就嫡女の在る輿を請け取る事となった。毛利家より役人として、桂左衛門尉元澄、
児玉三郎右衛門就忠が付き従い、宍戸家よりは江田筑前守元周、黒井石見家雄が出た。

輿を据えて、桂元澄、児玉就忠が式対してこれを渡すと、江田元周は輿の側にスルスルと立ち寄り、
戸を開いて輿の中を望み見て、元就の息女に紛れ無き体を篤と見届けた上で元澄に向かい、
「請取たり」と答えた。

後でこれを聞いた元就は
「乱世の時であるのだから、元周の振舞いも理である。惣じて宍戸家の者共の志は、何れも健やかである。
我が家の若き者共はこれを見置いて手本にせよ。」と称賛したという。

これ以降、隣国の大半が元就に従うように成った。

宍戸記