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「続武家閑談」から宮田光次

2023年03月13日 19:20

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:05:49.62 ID:nGsppXvO
「続武家閑談」から宮田光次
神子田半右衛門(神子田正治)、宮田喜八郎(宮田光次)、戸田三郎四郎(戸田勝隆)、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)は秀吉草創の時に軍功が大きかったため、都鄙に名が知られていた。
(このあと神子田正治の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13315.html )
こうして秀吉公自ら神子田の晒し首の前の札に
「神子田半右衛門は敵前逃亡をした臆病者なので悪口を書く」と書きつけられた。

宮田についてだが、中国退治の間に戦功が甚だ多かった。
ある時、論功行賞の場でそれぞれの将に入れ札をさせたところ、宮田喜八郎に「逃げ札」が多く入った。
秀吉公は「信長公の御時、林新三郎に逃げ札が七枚入ったため、信長公は御自分でその札を新三郎にくだされ、
信長「臆病者でもその方ほどとはな。
その方でこのようであれば、入れ札など役に立たぬな」
と笑いなされたという。
その方に札が入ったのも同じことだろう。」
と喜八郎に札を下されたそうだ。
秀吉公いまだ天下を統一する前に、宮田は三木城攻めで戦死したという。
戸田三郎四郎、のちに武蔵は関ヶ原で討ち死にした。(実際は朝鮮出兵から帰る時に病死)



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:50:58.98 ID:u4UaIy7F
イイハナシナノカナー

707 名前:705[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 18:31:48.51 ID:6PqIzfiZ
おそらく同じ文章を訳したのだろうけど、ウィキペディアの解釈と自分の解釈がかなり異なっていたので、原文を併記しておく。

ウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宮田光次
中国退治遠征のとき、宮田喜八郎は戦功が著しかったが、
ある日、将士の戦功を詮議した際に秀吉が喜八郎に多くの入札をして評したところ、喜八郎はその場を逃げ出したが、(皆からの)札が多く入った。
秀吉がいうには、
信長公の家臣にも林新三郎というものが同じようにその場を逃れたが(不在でも戦功ありとする)札が7枚入ったので、信長公は自ら新三郎を称賛されて、
臆病者どもはその身の言い訳のために戦功詮議に出席するがお前のような殊勲者はその場を遁れてさえても7枚も入札されるのだから入札するまでもないといって笑った、
ということがあった。秀吉は喜八郎もその気持だろうといって、札を与えて賞したという[3]。

原文
中国退治の間、戦功甚だ多かりき。
或時、戦功詮議に入札多く致させ給ふ処に宮田喜八郎逃れたりと札多く入ぬ。
秀吉公いわく
「信長の御とき林新三郎事を逃札七枚入たりしを、信長御手つから其札ともを新三郎に下され
「臆病者でも其身のみわけに斯のことし、其方にさへか様なれは入札用に立ぬ事なり」と笑ひ給ふ。
其方入札も此心なり」とて喜八に賜りける。

708 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 08:56:51.11 ID:I+/rUjav
>>705
入れ札で論功を判断していたのか。
勉強になったわ。

709 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 09:01:24.77 ID:I+/rUjav
>>705
こちらの訳の方が自然に見えるね。

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 11:55:09.74 ID:Lm1LxlrS
各々が自分の戦功を主張して場が乱れるから、各々に格付けしてもらって総計を取った感じか
でもなんで逃げ出す必要があるんだ?
他人の評価なんかしたくねえ!俺がイチバン!ていう奴だったのか

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 15:05:26.52 ID:eeE8J6i+
単に照れ屋さんな気が
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神子田正治、宮田光次について

2021年12月19日 15:31

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 20:39:09.35 ID:ANtCCoBN
山鹿素行武家事紀」から神子田正治宮田光次について

神子田半左衛門尉
肥前守が子なり。秀吉凡賤の時より勤仕して、度々軍功をあらわし、宮田・尾藤・戸田と四人の列、もっとも神子田を第一とす。
秀吉中国退治のために播州を賜わる。この時四人五千石を与えたまう。(四士、長浜に於いておのおの二百五十貫、黄母衣士なり)
この時、おのおの会談して
「大国を領せらるる上は、いずれにもまたそれぞれの城地、または分内広所を賜わりてこそ、年来の勇労をも慰むべきに、
わずか馬の飼料に五千石を得ることもっとも不快なり。これよりおのおの逃亡すべき」
と相催しけるに、神子田いいけるは
「いずれもが分別大いに違えり。中国征伐として、大国拝領にいずれもさせる益なしと、秀吉の志あるゆえにこの小知を賜わる。
それにあっては五千石は過分なり。いそぎ長浜より引っ越して以前のごとくいよいよ忠戦を抜くべし」
と諷諫して長浜を仔細なく引っ越すや、三木城攻めにおのおの相ともに力戦す。
三年の城攻めにつき、城をかまえ持ち口を定め、度々城兵と相戦い、賤ヶ岳の役に、神子田一方の将として相備う。
長久手の役ののち、五月朔日、秀吉師を濃州にかえしたまう。
小牧より付くべきの間、しんがりは二重堀の諸将これを勤むべしと命ぜられ、秀吉みずから青塚に馬を立ちたまい、黒田孝高(如水)、明石与四郎(左近)が兵を傍にそなえしめたまう。
二重堀の諸将、一番神子田半左衛門、二番日根野兄弟、三番木村常陸介・加藤作内、四番長谷川秀一、五番細川忠興なり。
小牧より北畠信雄、兵を出してしたがうべきとありしを、源君(家康)これをとどめたまう。
しかれども信雄の勢二十余人かけだして付きしたがう。
神子田・木村・日根野が兵、見崩(戦う前に崩れること)いたし敗北。細川忠興が兵士しんがりして、信雄が勢と相戦いて追い散らし引き取る。
この時、秀吉じかに青塚にいたまいて見物なり。
「去月長久手において三将討ち死に、今日細川忠興が働きによって長久手の色直しなり」とのたまい、
すなわち細川が兵士に感状ならびに熨斗付きの刀などを賜わる。
今日、神子田一番に敗軍いたし、敵も付かずに見崩、諸手之によりて騒動せしむ。その罪のがれがたしとあって、その夜改易せらる。
のち神子田、豊後に漂泊す。秀吉ついに殺害せしめたまうて、その頭を一条戻橋に獄門にかけ、自らその罪科を札に記さしめ立ちたまえりとなり。
(あるいは云う、神子田はじめ長久手において首級を得て帰る。秀吉大いに感じ、これを賞す。
神子田、その首を棄てて云う「予のごときは自らその首を得るに、公なんぞ叱らざるや。匹夫の功、あに賞するに足らんや」と。
二重堀退去の時、公、青塚に在りてこれを見る。近臣に示す。
「この神子田、抜群の勇戦あるべし。汝らこれを視るべし」と。
しかるに神子田、大いに敗る。公、もっともこれを羞(は)じてにくむ。
すなわち彼を呼びてその罪を糺(ただ)すに、神子田云う。
「我兵士を率いざる。故に敵を防ぐの士なし」と。
公、大いにこれを怒りて「汝、我に仕えしはじめ幾人を携えて来たるや?」と。
ついにこれを改易す、うんぬん)

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 20:47:31.63 ID:ANtCCoBN
宮田喜八郎
幼若より秀吉につかゆ。武勇絶倫、秀吉母衣の勇士一員たり。
秀吉長浜を領られしより、播州に移りたまう時に至るまで宮田・尾藤・神子田・戸田をこゆる勇功の士あらず。
三木城攻めに天正六年五月、宮田戦死。秀吉もっとも嘆惜す。

尾藤、神子田に比して戸田、宮田は記載に乏しい。

神子田については過去に五千石と秀吉への口答えの話も両方出ていたが、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1832.html
神子田半左衛門と五千石の加増・悪い話


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3315.html
神子田さんが改易された話逆バージョン


五千石についてはここでは秀吉に大望があるため城地を与えなかった、と以前の話とは違った解釈だった。
それにしても、尾藤知宣、戸田勝隆、神子田正治宮田光次を合わせて羽柴四天王と呼ぶらしいが、誰がはじめに言い出したんだろう



神子田は戦功多しと雖も

2017年04月10日 17:46

羽柴秀吉の下に、天正の初めの頃、軍功度重なる輩として、神子田半左衛門(正治)、宮田喜八(光次)、
戸田三郎四郎(勝隆)、尾藤甚右衛門(知宣)の四人があった。彼らは戦のたびに必ず戦功を等しく成し、
世に広く知られていた。

秀吉が初めて播州を領した時、彼ら四人を賞して、録五千石が与えられた。
宮田、戸田、尾藤はこれに甚だ不満で悦ぶこと無かった。
しかし神子田ひとり大いに喜び、拝領の礼を整えようとした。
これに他の三人は異議を唱えた

「四人は同じく戦功を致した者たちなのだから、他の三人が同じように礼を致していない以上、
神子田もこれを請けず、三人と同じようにするべきだ。」

神子田はこの意見に
「私が大いに悦んでいるのは、領地を与えられたことを悦んでいるのではない。
我等四人の事は、その手を尽くしての勤功、誰が超える者があるだろうか。

今、秀吉様は播州の大国を領せられた。これまでに比べてその余分の多いことも知っている。
であるのに我等には「家中に分配して余りが無いため、先に少知を与える。」と命ぜられた。

この言葉は、我等を無知無才の者扱いしている。
無知無才の我等と考えれば、この五千石も身に過超しているではないか。
ここを以って悦んでいるのだ。」

そう答えたという。

神子田は戦功多しと雖も、常にこれを誇って秀吉を蔑如していた。

(士談)



728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/10(月) 21:32:49.38 ID:eowKfctM
神子田って面倒くさいけど権現様のところならうまくやっていけたような気がする

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/11(火) 14:06:36.84 ID:f2YAzpKz
神子田はそういうんじゃなく三成の武官版みたいな印象。

半兵衛、宮田光次を引き合いに秀吉を窘める

2015年12月05日 17:49

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/05(土) 16:43:51.34 ID:XxQWIDmT
半兵衛、宮田光次を引き合いに秀吉を窘める

天正7年、秀吉は家臣を集めて酒宴を開いた時のこと
上機嫌だった秀吉は「我が家の弓矢の勢は、昔に比べて随分盛んになったと思わんか」と家臣団に問うた
家臣たちは「三倍になりました」「五倍になりました」と述べた
有頂天の秀吉は「いやいや十倍になった」と大笑いした
これに対して秀吉の参謀だった竹中半兵衛は「弓矢、昔に劣れり」と反論
秀吉が驚いて半兵衛を問い詰めると半兵衛「宮田喜八死して以来甚だ劣れり」と述べた
これを聞き秀吉は三木城攻めで討ち死にした勇将・宮田光次(羽柴四天王の一人)のことを思いだし
「半兵衛の申すとおりだ」と言って嘆息を漏らしたという

(『名将言行録』)

半兵衛が病死する前年の話

半兵衛にすれば秀吉の慢心や驕りに対する危惧の念をこの時期から抱いていたのだろうか
後年半兵衛の危惧は的中するがそれは半兵衛が死んでからかなりの時間が経ってからのこと

ちなみに宮田光次は後年「太閤の臣に宮田喜八とて武勇第一の人あり」(老人雑話)と言われた武勇の士
秀吉に仕えていた時期は5年程度だったが羽柴四天王の中で最も秀でてたという
市松や虎之助とかがまだまだ出てこない時期であり宮田を喪ったことがいかに羽柴軍団にとって
大きいダメージだったかを半兵衛は言いたかったのだろう



我が家の弓矢は昔に比べ劣りました

2012年08月02日 20:56

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 19:34:20.94 ID:1H29ZaN/
(天正7年(1579)ごろの話だという

羽柴秀吉が家臣を集め酒宴を開いた。このとき秀吉は非常な御機嫌で

「我が家の弓矢の勢(家臣の数)も、昔と比べて随分盛んになったとは思わんか!?」

と尋ねると、居並ぶ家臣たちは「ええ、3倍になりました!」「いやいや、5倍にもなりました」
などと秀吉に和し、これに秀吉はますます機嫌よく

「何を言うか!10倍になったわ!!」
と大笑いした。

が、ここで竹中半兵衛が声を発した。

「いいえ、我が家の弓矢は昔に比べ劣りました。」

水をさされた秀吉はとたんに機嫌を悪くし、半兵衛を問い詰めた
「どういうことだ!?何故我が家の弓矢が昔より劣ったというのか!?」

半兵衛は静かに語った
「先年、宮田喜八郎(光次)が死んで以来、羽柴家の弓矢は甚だしく劣化しました。」

「あ…」

半兵衛は三木城攻めで討ち死にした羽柴家随一の勇者、宮田光次の名を出した。
これを聞いた秀吉も、宮田のことを思い出し

「そうだ、半兵衛の申すとおりだ」

と、嘆息を漏らしたという。
(名将言行録)




815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 19:40:48.65 ID:uKfc7Vum
翌年
秀吉「我が家の弓矢は勢いをましたな」
官兵衛「いいえ、先年半兵衛が死んで以来衰えました」

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 20:13:07.06 ID:gTisydH0
十余年後
秀吉「我が家の弓矢は勢いを増したな」
某「秀なg…左様にございますな!」

817 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/01(水) 21:00:07.51 ID:I7kHkDV+
もうつかれた

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 21:09:06.92 ID:Ljew9wdW
秀吉「なに憑かれたとな任せておけ、今すぐ817から出ていかぬと全国の狐を狩るぞ!

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 21:30:31.78 ID:FBGbFxz9
>>813
いや・・・あんたは自重しろw
しかし、三傑から一度は「もうこいつにはついていけねぇ」と、出奔
(小十郎は未遂だったが)されたにもかかわらず、いつの間にか
帰参している辺り、DQNの人望もパネェなぁ。

>>814
しかし、羽柴の残りの四人組の末路を見ていると、宮田も生き残っていたら
あんな目に合っていたんだろうかねぇ。
賤ヶ岳合戦以降、どうも秀吉は古参の家臣に対して、有能無能問わずに
扱いが悪くなっているんだよなぁ。
山内なんかぼやきまくっているし。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 23:08:15.37 ID:wQ14VJFA
浅野長政「今の太閤殿下は狐憑きであらせられるので、今までのお方とは別人と成り下がられた」

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 23:20:21.47 ID:VGlFSC+y
秀吉「目指すは故郷マダガスカル!!」

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 23:24:40.89 ID:GrmdYFno
秀吉の正体が弥助だったとは

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/02(木) 00:41:40.34 ID:g2tGJO2R
でも黒人って生殖能力高いらしいじゃない
種無しのちびなイエローモンキーとは雲泥の差じゃないっすかwww

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/02(木) 07:36:21.56 ID:y1CKMUTe
秀吉はすごく俗なのに訳の分からないスケール感があっていいなw