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ついに富田長繁がピックアップされた小説が

2018年02月14日 18:27

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 23:52:31.83 ID:cTUphLAD
https://booklog.jp/users/kobunsha-bungei/archives/1/4334912087
ついに富田長繁がピックアップされた小説が出るぞ…主人公は射殺した小林吉隆
SnapCrab_No-0359.jpg



539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 11:00:59.59 ID:fxCgwsxT
>>538
タイトルがぴったりじゃねーか! w

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 16:18:21.46 ID:G4VisRUK
なかなかマニアックなとこを題材にする作家だな

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/15(木) 08:13:13.66 ID:Wykk0Was
くるい咲き(直球)

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/15(木) 20:58:54.90 ID:ZutmD3mi
主君義景公や御三家の景鏡、景健、景恒なんかはどう描かれているのかな?
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速やかに誅し賜るべし

2017年12月30日 18:04

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/30(土) 17:41:51.16 ID:EhiSMOPN
元亀四年八月、織田信長は越前を退治し、朝倉尽く敗北、朝倉配下の屈強の者共は、
討ち死にするか、あるいは生け捕られた。信長は朝倉より寝返った前波吉継、富田長繁を
召し出して、そういった人々の名字を尋ねた

この時、牧弥六左衛門が生け捕られ連れてこられた。
信長が「彼は何者か?」と聞いた。前波が「彼は牧と申す者です。」と答えると
「牧といえば聞き及びたる者ではないか。それほどの者がどのようにして捕えられたのか?」

これに牧が答えた
「御家臣の前田又左衛門(利家)、佐々内蔵助(成政)と名乗り懸り、刀禰山まで追い詰め、
勝負決しようという所で、膝口を強かに突かれ、進退窮まりて生け捕られました。」
そう聊かも気後れ無く語る姿に、信長は

「彼は勇姿である!死罪を宥して、今後は味方に参り、忠戦を尽くすように。」

牧はこれを承るも
「先程からの御恩言、忝なく存じます。しかしながら、私は譜代として朝倉の家に奉公の
身であり、ことに国中に奉行として知られた者でありますから、何の面目があって命を
生き長らえるでしょうか。ただ、速やかに誅し賜るべし。」

前波吉継はこれを聞くと
「信長様のお言葉に偽りはない。本領も更に別義なく安堵される。畏まって忝ないと申す
べきだ。」

牧は目を見開いて前波を睨みつけ、言った
「和殿は朝倉普代の者にて義景の厚恩を蒙りながら、己が不義だけでなく、人まで汚す気か!?
ただすぐに頸を刎ねられよ!」

信長も力及ばず、彼を河原に引き出して頸を刎ねた。
この時牧は、「侍品の者、打ち捨てにすることがある。だから先に腹を斬ろう。」
そう言って、脇差を乞うて腹を斬ったという。

(士談)



若き人がそう望むのは

2017年11月18日 16:24

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 23:32:55.32 ID:KP3+s06l
越前朝倉義景滅亡の後、富田長繁は府中に在城していたが、龍門寺と云う者が密かに隠れていたのを、
使者を以て招き、『信長に申し上げ、本領安堵のことを才覚申そう』と伝えた。
龍門寺は大変喜び、府中を訪れて長繁を頼んだ。

しかし長繁は、龍門寺を討って信長への忠とするつもりであった。

彼は富田宗八という小姓を呼び、これを打ち手と定めた。そうして龍門寺を様々にもてなし、そのうちに
このように言った

「朝倉家代々秘蔵の中村太刀いうものを、大野郡より入手したのだが、茶の後にでも見てみないか?」

龍門寺も「それは是非見たいものです」との事であったので、長繁はそれを取り出し龍門寺に渡した。
彼は剣相を眺め、鞘に収めようとした時、この場に居た宗八がまかり出て言った

「一世の思い出に、私にもぜひ拝見させていただけないでしょうか?」

長繁は叱りつけた
「汝若輩の身でありながら、憚るべきことを!」

しかし龍門寺
「若き人がそう望むのは尤もなことです」と、その刀をそのまま宗八に渡した。
宗八はこれを受け取り見る体から、龍門寺を討ち取った。

(士談)



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 06:58:22.68 ID:BfKpxo4p
逸物で死ねるとは果報者

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 10:45:11.66 ID:Llxz6Lsp
坊主なんかな

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 23:51:33.48 ID:buP+yy+6
長繁意外と頭がいい

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 00:24:51.81 ID:ghJqJv0d
もっと狂人っぽいイメージ持ってたんだが

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 00:32:07.78 ID:QyfyQpxj
誇張されたイメージだろう

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 00:35:03.69 ID:J8ES+cU0
>>326
狂人は頭も悪いという思い込みw
性格と知能は別

元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

2014年01月21日 19:03

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:40:41.34 ID:CDx03HwY
元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

元亀三年(1572年)七月、織田信長は北近江小谷城の浅井長政を本格的に攻めるため、
最前線の砦を固め、諸国の軍勢を動員し、まず浅井方に属する琵琶湖の浦々を放火した。

これを受けて浅井長政は越前の朝倉義景へ急使を遣わし越前勢の出陣を求めた。義景は
これを了承、七月中旬に一族の景鏡が先陣として兵五千を率いて小谷城に着陣、続いて
一万ほどの越前勢が先手として到着、七月二十日に信長が横山城に現れると、いよいよ
総大将義景の登場である。一族衆及び直臣からなる本体を率いて、二十八日に柳ヶ瀬に
押し寄せ、八月三日には小谷城最高峰である大嶽に陣を構えた。朝倉家総力を挙げての
出陣である。織田方も浅井・朝倉方も連日鬨の声をあげ、いまにも大合戦が起こるかの
ようであった。朝倉勢の中には決死の覚悟を示すため、小さな墓石を楯にして只一騎で
押し進み、信長を射倒そうとする者も現れた。越前勢の士気は決して低くは無かった。


だが、その兵を指揮する部将たちが既に調略されてしまっていたのだ。


八月八日、義景の奉行人を務める前波吉継とその子が前線へと進み出た。
前波は義景に無礼を働いてしまい、義景から未だ赦しがなかったため、一手柄立てて
赦免してもらうのだろうと皆が考えていたのだが、、、、

あれよあれよという間に敵方の虎御前山城に入っていってしまった。
白昼堂々衆人環視の中の寝返りである。朝倉陣中に衝撃が走った。


裏切りは止まらない。前波の寝返りの四、五日後、今度は「あの」富田長繁が毛屋猪介・
増井甚内らとともに織田方へ走った。朝倉軍首脳部は動揺を隠せない。次は誰か?
皆、疑心暗鬼となった。

九月に入り、第三の裏切りが生じる。外様衆の池田景久が内通しようとしたのである。
だが、今回は池田の家臣が内通を義景に訴え出たため未遂に終わった。激怒した義景は
越前本国にいた池田の二人の息子を呼び寄せ、父親と共に斬首、綱紀粛正を図った。

しかし、一度灯された疑念は簡単に消せるものではない。加えて寝返り先陣の前波は
義景奉行人であるだけに朝倉軍の内情をよく知っている。下手にこちらから動けば
手酷い反撃を受けるのではないか?こうして越前勢は行動の自由を奪われた。

(つづく)

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:46:13.67 ID:CDx03HwY
対陣して二ヶ月半経った十月半ば。朝倉出雲守の家臣、竹内三郎と上村内蔵助が相談し
「大軍を催しても睨み合うばかりでつまらぬ。ここは一つ自分たちが働いて現状を打破
しようではないか」ということになった。その夜、二人は風雨に紛れ敵陣に忍び込むと
小屋に火を放った。風にあおられたためか、大火事となり織田方の陣屋七百が焼け落ちた。
混乱に乗じて二人は脱出、夜討ちをかけられたと思った織田方は大騒ぎとなった。
織田勢が鬨の声をあげると、それに反応し浅井・朝倉方も鬨の声をあげる。いよいよ
本格的な夜戦となるかと思われたが、それで終わってしまった。やはり疑心暗鬼に
縛られていたのであろう。敵方混乱を見ながら兵力投入に至らず、夜は明けてしまった。
得意顔で帰還した二人にも、さして褒美は出なかった。上官に連絡せず、独断で行った
ことが評価に値しないと看做されたのだろうか。

陣所を焼かれた織田方では小屋を作り直すことをせず、横山城と虎御前山城の間に
連絡路を造り、その道の小谷城側に高さ一丈(およそ3m)の塀を築き、兵の移動が
見えないようにした。同じ頃、信長自身は美濃に帰国、大将が退いたら追撃しようと
考えていた越前勢だったが、塀のため退陣のことも分からず、ただ妙な物音がすると
思っていただけであった。

十一月に入り、目障りな塀を取り壊そうと行動を開始した浅井・朝倉方だったが、
留守居役の木下藤吉郎、寝返り組の前波・富田らに防がれてしまい失敗に終わる。
その後、一月の間、なおも様子を見ていた義景だったが、降雪により本国との連絡が
途絶することを恐れ、十二月三日(現在の一月半ばにあたる)、遂に越前へ兵を返す
こととなった。


小谷城を守るという目的は一応果たしたものの、寝返りは相次ぐわ、雌雄を決する戦は
できないわ(もっとも義景はそんなもの望んでいなかっただろうが)、結果的に味方の
士気を萎えさせ、疲労を蓄積しただけの長陣だった。

更に帰国後は武田信玄から信長包囲網の足並みを乱したと責められ、踏んだり蹴ったりの
義景さん、この後は滅亡への道をひた走るのであった('A`)('A`)('A`)。





353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:15:29.32 ID:pwuJT5WU
義昭に尽くすでもなく
信長に味方するでもなく
まともに戦うでもなく
滅んでいった義景さん

凡人の鑑

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:31:47.39 ID:TQpS+d1D
親近感が湧くな

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:36:50.88 ID:GFeUwr/2
凡人からしたら、自ら戦場に出た上に小谷城を守ったんだから、
むしろ何で褒めてくれないの?って思っちゃいそう。

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:20:12.64 ID:MVuGoiUp
義景「戦らしい戦もしていないのに将兵が減った
   解せぬ」

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:26:10.91 ID:k52j1PeO
越前へのお帰りにはきっつい追撃が待ってるというおまけ付き

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 20:21:25.94 ID:P5Kl50oq
決戦もせずに、とみんな責めるけどそれはそれでいいんだよ。
大局的に見りゃ敵を足止めにして他の戦線で有利な状況を作り出したからね。

問題はぼろぼろ寝返りを出した統率力の無さか。
でもこれは義景個人の力量のせいでなく、朝倉家の構造的欠陥に起因すると思うんだが…。


それにしても、あの辺りの冬の厳しさを知っている自者からしたら
半年間よく頑張ったと思うよ。
信玄の責めるのもわかるが、状況考えりゃ酷だと思う。

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 06:37:35.59 ID:y85MqroD
>>352
朝倉軍の総大将は景健か景鏡なイメージ
余が珍しく出陣したらこれだよ!

富田長繁の首

2012年10月08日 20:26

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 15:10:12.61 ID:9XAlQrLh
富田長繁の首


天正2年(1574年)2月18日、越前を混乱の渦に巻き込んだ富田長繁は越前一向一揆と戦う中で味方であったはずの
小林吉隆の裏切りによって背後から射たれ、落馬した所を小林に首を刎ねられ死亡した。

その長繁の首は2月19日に一揆方の大将の一人である杉浦玄当が陣を張る竜沢寺に持ち込まれて首実検が実施されたが、
杉浦は寡兵で大いに自軍を苦しめた大剛の士である長繁の首が怪しげな籠に入れられて持ち込まれた様を
敵ながら哀れに想い、涙を流したという。
(朝倉始末記)





824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 15:24:16.27 ID:ZSg3eexB
泣くほどヒドイ籠ってどんなだよ

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 16:33:33.18 ID:pRn0c3wm
誉れある人物の首を芋かなんかの籠で持ってこられたら、もうちょっと敬意はらってやれよって思うだろ

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 16:51:00.40 ID:HH1ODFgK
そういや首桶に行器が用いられたりもしてたけど今で言えばランチジャーに首入れてる様なのが何とも…

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 20:14:31.71 ID:XVcAgnk2
さしずめスーパーのビニール袋だろ

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 20:40:14.81 ID:8FoPvamC
袋だと潰れるからだろうな

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 21:30:38.99 ID:ew/eeaoK
敵将の首が収穫された南瓜のように籠に入って届いたのなら、
そりゃあ哀れなあまり涙も零れ落ちるて

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 21:36:03.55 ID:9B7fZFeA
敵将の首など野菜同然という武勇のほどを示してるんだよ!

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 21:49:40.24 ID:y4s9Q7IG
北斗の拳に例えるなら、死んだラオウが雑兵に首をヒャッハーされて、100均で売ってるポリバケツか
何かに入れて運ばれる様な物か・・・

うん、想像すると何だか切なくなってきた

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 21:59:02.87 ID:Y6abUE+g
「大将首は丁重に扱いなさい」って三斎様も言ってた!

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 22:58:54.45 ID:oezG5xZ/
吉田東洋の首は那須信吾の褌だぞ

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 23:24:28.81 ID:lnkGfLvg
籠に入れられて本陣まで配達されるのと、馬印みたく槍に刺されるのと
どっちがマシなんだろうか

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 23:35:21.48 ID:IiltXzCR
籠といえば、吉良義央の首は途中でとられたらいけないからって、
行進するときは魚籠を首の代わりに掲げてたとかいう話が
魚籠(びく)と首(くび)だけに逆さまに掲げたんだろうな

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 17:48:37.50 ID:6GR13FF1
>>833

たぶんそのあたりが龍馬暗殺の真相だろ。

富田長繁の子孫のお話

2012年03月02日 21:50

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 22:33:10.44 ID:Je+vkUy9
天保八年(1837年)、ある山腹に建つ古寺に一人の男が訪ねてきた。
男  「和尚、実は我が先祖が昔この寺であった戦において討ち死にを遂げておる。
    是非とも供養塔を建てたいのだが如何なものか?」
和尚 「そうでしたか。それでは早速、手筈を整える事と致しましょう。」
そうして建てられた石塚にはこのような碑文が掘られていた。

(意訳)富田長秀、享年二十四才、天正二年二月十四日、中道院に死す。法名「盛雄」。

この寺を訪ねてきた男とは某掲示板に於いて狂犬呼ばわりされている男から数えて
丁度、十代後の子孫を名乗る富田延美という人物、その人であった。
朝倉氏滅亡後、府中を有して越前の統治にあたった富田長繁が陣没してから264年後になって
長泉寺山の山腹に建てられた「富田の首塚」といわれるモノである。

だがこの碑文、色々とおかしな点が多い。まず長秀という名前であるが、
現存の古文書には何れも長繁と明記されており、先祖の名前が違うといったようにいきなりの怪しさ全開っぷり。
更に、長繁が亡くなった日は正確には天正二年二月十八日であり、中道院の堂内や境内で亡くなったのではなく、
長泉寺山頂に陣を構えようとして登頂の最中に配下の小林三郎次郎吉隆の手によって射殺されたのである。
それに加えて、事前に在ってしかるべき筈の法名を名付けたのはこの天保の時代の現住職・秀運であるといういい加減さ。

実はこの時代の系譜製作は出自を盛るのは当たり前、その土地のかっての有力者の子孫を自称する者も多く、
この富田延美という男もそういった類の人物ではなかったのではないかと郷土史研究家は見ているようだ。
勇猛果敢であり、若いながらも領民に慈愛を注ぎ、越前一国を手中に収めようとする野心家として
地元では名高い勇将にあやかろうとした男のちょっと悪い(怪しい)話。

PS.実は富田長繁の子孫の話がもう一つある。こちらの方は富田一族の本来の所領地であった越前坂井郡の兵庫村出身で
現在、福井市に於いて富田病院を経営しておられる子孫の方々である。この家に伝わるボロボロの過去帳には

府中龍門寺城主 當家元祖富田彌六朗長繁 龍閣寺殿圓月中正大居士

といった風に一国一城の主たる者に与えられる法名としては相応しいものが明記されているそうである。




218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 22:57:56.23 ID:nPAQ7sAB
鬼武蔵「やっぱ医者がいいよな」

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 23:16:05.59 ID:8RFg18Pz
子孫僭称が出てくるほどの人物とは
富田さんを見直し…やっぱいいか

220 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/01(木) 23:22:54.25 ID:wS4HIYG8
ふむ。

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 23:34:40.10 ID:/Hb4Gsdi
ヒャッハーお手々を消毒だぁ~

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 23:37:43.09 ID:GheMC7JU
なんでや!子孫はヒャッハーちゃうやろ!

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 23:50:08.72 ID:GzdtWAoW
あんなの200年以上がろくに供養されてなかったのは良くないことが有りそう

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 23:56:22.92 ID:Je+vkUy9
越前のマッド・ドッグの子孫に相応しいニックネームなら
クレイジー・ドクターかドクター・デスってところだな

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 06:32:47.98 ID:Hg2kjPhG
富田さんの死ぬ前の戦いは窮鼠猫を噛み殺すって感じ。

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 12:52:43.56 ID:TH/q56Sp
>>224 生死観のほうを受け継いでいれば怖いけど、
刀剣の技のほうを受け継いでいれば、「神のメス」とか地元では評判の医者かもしれないよ。

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 12:58:04.24 ID:90UfSsXL
患部の裏まで突き抜けるメスとかか

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 13:57:47.62 ID:qRXfO627
いまも営業してるんだろ?
さすがにそれ以上はやめておこうぜ


229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 15:11:27.96 ID:2mcsdl/m
太く短い人生を送ったえちぜの狂犬さん
一族の生き残りって事は信長の下にいた弟の子孫なのか?

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 15:15:25.64 ID:Ettz4vE6
>>228
この逸話と子孫の話は第二次世界大戦前に書かれた資料から引っ張り出してきたものなので
おそらくもう子孫の方が経営されてた病院はどうやら無くなっている模様(名称が変わっているのかも)
地元民じゃないんだが朝倉・若狭武田氏に興味があって調べていた中で見つけてきた話です


231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 15:39:22.43 ID:Ettz4vE6
>>229
富田家は1970年の信長に対する金ヶ崎追撃戦において
織田追討軍の第三陣に一千騎を率いて(追討軍総数は二万強程)
出陣するぐらいの武将だったみたいなので
越前国内にそれなりに一族はいたのではないかと思う
(朝倉一門を除けば家中第四番目ぐらいの陣容)
富田長繁に関しては朝倉家臣時代の事跡が不明すぎる

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 16:04:31.60 ID:fd6kDmRk
そりゃ若いからな、家督を継ぐ前の事績は残りにくい

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 16:04:35.66 ID:F8VxE6Os
富田は朝倉にとって黒歴史

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 18:31:45.98 ID:H+reGMuY
>>231
1970年って最近過ぎワロタ

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 19:14:31.84 ID:hJ6q94Zt
>>234
ベトナム戦争だったのか

236 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/02(金) 20:29:05.42 ID:JFo9OOPD
福井市に富田病院は無い


237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/02(金) 21:36:24.61 ID:9ZBdD6yC
>>236
今はないみたいだけどこんなの見つけたよ

ttp://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%8D%83%E4%BB%A3

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/03(土) 06:16:11.30 ID:HXmG+Ion
>>231

へぇ~まだ生まれてないや~