『好き』を止めよ

2017年06月13日 15:29

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 23:53:28.88 ID:HBYm4LkC
寺沢志摩守(広高)曰く
「武士たらん者は一戦の時に、人より勝れた稼ぎをするのは珍しくない事だ。
平常に畳の上の忠功をしようと思ったら各々の『好き』を止めよ。
物に『好き』が過ぎると必ず奉公も疎くなる。
私は秀頼公の御時まで、茶の湯を好いていたが、考えてこれを止めてしまった。
このように言うと武士は武道の方を止めよと聞こえるかもしれないが、そうではない。
常に武を好いていなかったら、戦国ではあまり役に立てない。
ただ自分の業より他の道を求めてすごしてはならないという事だ。」
とのことである。
乱舞・囲碁・双六・俳諧・茶の湯の類を知り過ぎて、
上手になって何の益があろうか。

『武士としては』


賛否両論ありそうな、御説ですがとりあえずこっちに投下



862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 00:52:33.15 ID:96j7pvDR
おまえが言うな、とまず思うわな

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 02:35:53.01 ID:hBpLduh/
好きと数奇

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 22:36:25.38 ID:VBnBI38R
曜変天目とか馬蝗絆はお宝感が半端ない

井戸茶碗とか伊賀焼きとかはゴミ感が半端ない

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 22:55:11.09 ID:1fDn7Mkq
なぜ中国で曜変天目が残らなかったんだろうね

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 23:38:39.48 ID:fVSM+6Nu
トーハクの茶の湯展は素晴らしかったねぇ…

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 00:15:38.16 ID:7NaUQXst
>>865
秀吉乙

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 04:41:13.13 ID:X0DuNaUp
伊賀焼って信長が発見したんだってなあ

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:32:33.42 ID:jpDlM1/L
ちょっと何言ってるか分からない

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:48:29.56 ID:wXic2RaU
信雄じゃないの?>伊賀焼き(討ち)

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 18:44:48.75 ID:qrjRLL6v
信長は伊賀伊賀守を召し抱えていたからな
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家蔵、山科弓

2017年02月16日 17:15

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 00:32:44.51 ID:vKUbLtGx
家蔵、山科弓

 予(松浦静山)の家蔵に山科の弓と称するものがある。
祖先からの旧物である。
金泥七所藤にして弭(はず:弓の両端)の裏に平仮名で『やましな』と銘がある。
伝来の故は記文で知ることができる。

「山科弓   一張

村(弓を削って仕上げること)は吉田六左衛門入道雪荷がなしたという。
庚子の役では唐津城主寺沢志摩守(広高)は関東にいた。
敵徒が唐津を襲おうとしたので、城兵は松浦式部卿法印(鎮信)に援を乞うた。
法印は兵を率いて唐津に到った。敵徒はこれを聞いて退散した。
志摩守感謝の余りこの弓を贈った。」

「雪荷斎が村をした弓はしばしば人々は珍重されていますが、
このように銘を出したものは稀であります。
雪荷は得意ではなかったので銘は記さないと伝わっております。
官の御物である、迦陵賓と銘がある御弓も自銘だと聞き及んでいますが、
見ることができません。
ですので、この家蔵の雪荷村の弓は最上ともいうべきでしょうか。」
とその十一代の孫吉田元謙は評した。

 これについて思うと古人が大事に当たって、弓一張の謝礼では余りに粗末ではある。
しかしこのように贈ったということは、雪荷自銘の弓は世の宝物である故なのであろう。

「庚子の役とは慶長五年の関が原の御陣のことです。
『やましな』というのは、雪荷が前に故あって山科に退居したことがあるので、
その時の作なのであろうと思われます。
官物の迦陵賓とともに、天下二張の弓といえるでしょう。」
と元謙は言った。


(甲子夜話)



653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 01:13:59.10 ID:YMQ6U+gQ
吉田雪荷って親父さんたちのように誰かに仕えたりはしなかったのね
しかし達人が手ずから弓を仕上げていたのか
山科が居住地からなら迦陵賓は迦陵頻伽を射落とせるような一張りってことなのかな?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 12:45:21.81 ID:oAPTRVJD
>>653
立花宗茂が所持していたという金溜地塗籠弓には吉田左近作って名が書かれてたな
吉田太蔵から宗茂に贈られたらしいが

伊東家毛利家喧嘩の事。並びに落合浅之助について

2016年06月21日 21:17

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:11:17.89 ID:qBcS+riJ
朝鮮の役の折、伊東祐兵が釜山城に在番していた時に、伊東家の兵と毛利家の兵が喧嘩に及び、
毛利家からは騎馬の武者が多数出て伊東家の船手の者たちを海岸際まで置い詰めた。

ここで伊東家からは落合九右衛門尉を始めとして大勢が駆け付け互いに鑓合わせとなったが、
伊東勢は毛利家の小谷又右衛門(知行八千石)をはじめとした大勢を海岸際まで追い込め、
石田九郎右衛門(知行六百石)に重症を負わせ、毛利家では討ち死に6人に及んだ。
伊東家も討ち死に3人、手負い数十人が出た。

このようにほぼ合戦の有様で、鎮め難い状況になったが、ここに寺沢志摩守(広高)、
島津又七郎(豊久)、相良左兵衛(頼房)の三大将が間に入って調停し、事態はどうにか
鎮まった。

この時、落合九右衛門尉の嫡子で、16歳の落合浅之助、容儀人に優れ伊東祐兵の小姓であったが、
喧嘩の注進を聞くと馳せ付け一文字に斬り掛かった。これを見た毛利の武士の一人が、弓を引いて
浅之助に放とうとしたが、彼が年少でありながら、その勇ましいことに感じ入ったのか、わざと
足元の地面に射って、浅之助の姓名を尋ね、感謝して退いた。

この落合浅之助は元来勇気人に優れた男であり、或る日、伊東祐兵の眼前で敵を討ち取り
比類なき働きが有ったので、近習外様の者たちも、彼に一廉の褒美があると思っていたにも
かかわらず、その後全くその沙汰がなかった。皆不思議に思い、ある者が「どうして浅之助に
褒美を与えられないのですか?」と尋ねると、祐兵は答えた。

「なるほど、確かに恩賞を与えるべき功名であろう。だが浅之助は、年齢少なくして勇気が
あまりに強すぎる。彼に今褒美を与えては、さらに逸って近いうちに必ず討ち死にするだろう。
そう思ったので、その沙汰をしないのだ。」

しかしその後浅之助に、何と言う理由もなく、短刀が与えられたそうである。

(日向纂記)



874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 02:16:31.73 ID:kVu0ZNF3
自決の引導でしたか

池田市郎兵衛の清節

2015年12月03日 07:31

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/03(木) 02:07:07.72 ID:qBLGZ1M9
寺沢家に仕えた池田市郎兵衛は度々戦功のあった人で、黒田家や細川家にも
望まれた人である。(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6879.html)

彼の清節は世人の及ぶところではなかった。

池田は常に隣家などへ行く時でも鎖具足と2,3日分の兵糧を挟箱に入れて持たせた。

夜寝る時には上から糸を下げて、枕元まで槍を吊っておいたのである。槍を取る時は
糸が切れてまったく支障がない。池田の平生の心がけは万事この類であった。

――『明良洪範』

武具を吊っておくといいという話ってちょいちょいあるんですな。
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9607.html)



75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/03(木) 09:17:46.96 ID:UTzrdV/G
ダモクレス「そうだな」

如水激怒「我が家には」

2014年05月11日 18:57

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 19:13:56.80 ID:zoOo+NYE
安田作兵衛は明智光秀に使えた勇士であった。京都本能寺にて、障子越しに信長に槍を付けたと言われている。
後に姓名を改め、天野源右衛門と号した。

彼が上方に浪人していた時、黒田長政はこれを召し使おうと思い、彼を呼び下して一万石を与えて
召し抱えたいという希望を、父如水に相談した。

これを聞いた如水は激怒して
「我が家には源右衛門に勝る勇士がいくらでも多く居る!もし源右衛門を一万石で召し抱えれば、
我が家臣のうちにこれを恨みに思うものが多く出るであろう!」
と、甚だしく諌めたため、この事は中止となった。

その頃、唐津の寺沢志摩守(広高)が、名のある武士を求めて居ることが聞こえてきたので、長政の勧めで
寺沢のもとに遣わされた天野は、唐津において召し抱えられた。

(黒田家譜)

黒田如水天野源右衛門召し抱えを中止させる、というお話




251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 19:24:12.76 ID:bTyCwBhy
黒田家譜は何でも問答無用で割り込んでくるなー
ある意味、大河ドラマより上かも知れん

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 19:31:26.07 ID:aXqmmMQL
如水が長政に対して「諌める」というのもなんだか

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 21:00:26.04 ID:hYTJMmf6
時期的に当主が長政で如水は隠居だからだろ。

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 22:45:30.09 ID:txbO4TE1
立花家を辞して寺沢家に仕えたのが慶長の役の前くらいだから
中津時代の黒田家で1万石与えるのはな

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 23:58:15.34 ID:KGqV5hwW
後藤基次「うわっ…某の俸禄、低すぎ…?」

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 10:01:41.73 ID:NfYWgIiJ
黒田家も結構めんどくさそうなのが粒揃いだからなあ

257 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/11(日) 10:31:31.54 ID:qe8jRmBN
後藤基次さんは、
ご隠居が1000石といったら自分にはそれでも過分ですといい
若殿様が2500石といったら自分には少なすぎると大声で張り上げるイメージ

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 11:01:37.81 ID:5X4ugTox
さすがブラックだ
もとい黒田の御家中

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 11:17:20.07 ID:5F7NBN+E
天野源右衛門は立花家で2千石もらって仕えてたけど、
碧蹄館の戦いのときに千石の十時伝右衛門に一番槍争いで遅れをとったことで、
自分には立花家では2千石の価値が無いって理由で辞したらしいから、
その後に1万石で仕えろって言うのもなんだかな

260 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/11(日) 14:16:25.38 ID:qcbKdU90
播州人と三河人はホントに面倒くさい人達だな

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 15:14:57.36 ID:2GN5DKbS
忠義とか武士の誇りとかを前面に押し出した本が多いからでしょ
その辺の理想を詰め込みすぎて変態の名産地のようになってしまった

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 15:18:51.00 ID:v6ZzdHEE
忠義とか武士の誇りとかを前面に押し出した「本多」
に見えた

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 17:47:51.78 ID:BDdnVfxT
慶長の役の時の遺言(未遂)でもむやみに新しく家臣を取り立てず今いる家臣を大切にしなさいと書いてたな
対費用効果的な面も内にむけたパフォーマンス的な意味もあるだろうが

千賀五助、人喰馬を

2014年02月08日 19:24

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 17:25:26.50 ID:mYm7n5SY
寺沢志州の家に千賀五助という武士がいた。千賀の力は人よりも優れていた。

正月二日、志州は唐津城下で馬揃をして見物した。この時、何としたことだろうか、
人喰馬が轡を脱して駆けて来た。

千賀はこれを見て袴のももだちを高くとって馬場の中に走り向かい、片膝をついて待った。
この馬が千賀を見て眼を開き牙を剥いて飛び掛ったところを、

千賀は立つやいなや馬の平首を抱いて押し伏せて膝で平首をしき、手を挙げて馬副を招くと、
口を割って轡をはめさせた。

――『武将感状記』




徳容の普段の心掛け

2013年12月15日 19:18

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/14(土) 23:47:26.20 ID:wVoCp08T
熊沢勝右衛門正英は、寺沢志州がいまだ身分の低かった時からの姉婿である。

生国は尾張の瀬部であるが、後に志州が唐津に招いて最も篤く接待した。
剃髪して徳容と号し、嫡子三郎右衛門は禄二千石を受けて長臣となる。

ある夜、盗人があり、そこだぞここだぞと騒ぎになった。宅地の隅には高木が屏の上に
枝を垂れているところがあり、徳容は「盗人があらば、ここをたよりにして越えるだろう」
と、日頃から見定めていたので、ただちにその屏の陰に走って盗人を待った。

思った通り、盗人はその屏に登って逃げようとしたので、徳容は簡単に盗人を斬り留めた。

志州はこれを聞いて「壮年の者がかえって七十有余の徳容に殺されたのは、少しも
(壮者の)つたなさからではない。まさしく(徳容の)普段の心掛けに基づくのだ」と戒めた。

――『武将感状記』





884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/16(月) 13:26:14.26 ID:2+k2fDbU
>>883
現代にも通じるな
まあ押し込み強盗は稀だけど、災害時の逃げ口なんかは想定しておくとよいかも

倹を守りて士を引く

2013年12月01日 19:17

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 22:36:39.53 ID:mad9NJaP
倹を守りて士を引く
寺沢広高は肥前唐津の城主となった。12万石の大名になったのに、その奥方は木綿の衣服を着た。
年始などの儀式であっても塩魚又は乾魚を用いた。このように倹約とするかと思えば、部下には千石取りの者を40人を養った。
広高は常に我を通さず人の意見に耳を傾け、技能ある者を招いた。故に豪傑の武士は先を争って集まったという。

(武人百話)




788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 20:42:01.14 ID:zgqj0oIQ
>>778
千石取り40人だとそれだけで1/3か
石高のうち大名自身というか藩の取り分ってだいたい何割くらいなんだろ

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 20:50:33.37 ID:21AFGnTx
>>788
蔵入地の割合は大名によってバラバラだね
時代の経過とともに藩財政の立て直しの為に蔵入地を増やす傾向にはあるけど

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 23:29:44.00 ID:SLkGZeGO
最上や鍋島なんかは事情が事情とはいえ少なすぎるよねえ

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 23:48:26.29 ID:21AFGnTx
まあ、豪族連中がちゃんと軍役や普請役を担ってくれれば問題ないんだけど
島津みたいになっちゃうと酷いことに