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「続武家閑談」から那須家について、その2

2023年03月18日 18:25

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 11:08:49.65 ID:AlcKgmcq
続武家閑談」から那須家について、その2


会津盛氏(蘆名盛氏)・白川義近(小峰義親?)が三千の兵で、白河・那須の境の小田倉に遠征してきた。
那須資胤と資胤の弟である弾正左衛門(那須資郡、この頃は福原氏)は烏山城を立って、両荘(上那須・下那須)の勢五百余騎を引率し、
永禄二年(1559年)三月二十六日、敵陣に寄せて鬨の声をあげ、巳から未の刻まで戦ったが、劣勢となった。
特に上那須衆は敗北した。
資胤と資経(資郡)は敷皮に座し、
資胤「わしはここで切腹する。お前は那須に帰り家を継げ」
資郡「私がここで代官として自裁するので、御帰城なさってください」
と互いに言い合っているうちに、味方の柏原勢、三百余騎が隊列を乱しながら駆けつけてきた。
三輪村の野伏五十余人も率いていたが、その中に「岡源三郎、十七歳!」と名乗り、味方の中から駆け出した者がいた。
源三郎は敵の首魁の、会津四天王随一と言われた佐野源十郎の馬の首を射て、屏風を返すが如く倒した。
そこへ内藤右衛門が走りかかり、佐野の首を獲った。
これを見た資胤はみずから太鼓を鳴らし、下知した。
こうして騎兵百余騎が一同に敵に突入していったので、会津・白河勢は大勢討たれ、見向きもせず白河の関前の道を十五里も逃げ帰った。
那須勢は勝ちに乗じて白河まで侵入し、放火した。
翌日早朝に資胤は岡源三郎を召し出し、五郎左衛門という名を与えた。
この度の戦いで勝利したといっても上那須衆は敗北し、那須資郡のみが高名をあらわしたため、上那須衆を率いていた大関高増(大田原資清の息子)は嫉妬した。
これを推察した資胤は、大関の家臣の松本某に高増を殺すよう命じた。
松本は了承した風を装い、黒羽城の高増にそのまま語ったため、大関高増は大いに憤った。
そこで高増は佐竹義昭に属し、資胤・資郡兄弟を滅ぼし、佐竹の男子を那須の当主にしようと考えた。

永禄六年(1563年)三月二十三日、大関高増は兵を発して数度合戦におよんだ。
一方で主君に弓を引くわけには行かないと、上那須衆から烏山城勢に加わった者どもも千人余いた。

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 11:15:25.66 ID:ECgsNwLa
永禄九年(1566年)八月二十四日、佐竹軍将の東将監(佐竹義堅)勢・宇都宮勢・上那須勢が烏山城の西方の神長村の治部内山に遠征してきた。
烏山城から二百余騎が駆け出し、宇都宮・上那須勢を追い散らし、東将監を籠の中の鳥のように取り囲んだ。
千本常陸介(千本資俊)が使者となり、将監に降伏を勧めると、将監は降伏した。
こうして治部内山は「降参が峰」と呼ばれるようになった。
この度、敵の目には烏山城内に千人ばかり籠っているように見えたという。神力かと言い合ったそうだ。

翌、永禄十年(1567年)二月十七日、佐竹義昭父子は東将監が降参したと聞きたいへん怒り、上那須衆と合わせ二千余騎で烏山城より三十四町東の下境大河井山(下境大崖山)の麓まで押し寄せ、駐屯した。
ここは(佐竹勢から見て)後ろは大山、前は大河(那珂川)であった。
河を渡り船を捨てる故事は多いとはいえ、烏山勢が先に河を渡ったのは不覚であった。
とはいえ烏山勢二百騎は、一所懸命の地を捨てた者、那須家の重恩に報いようとする者、義を感じる者、と
野伏の中間に至るまで、名を後世に残そうと思うこと切なるものばかりなので、一歩でも退却する心持ちはなかった。
烏山勢は時を移さずうって出た。
佐竹勢は優勢であったが、ついに切り立てられ、大山に追い込まれ、若干討ち取られた。
佐竹側の上那須衆と長倉勢は互いに殿軍を争った。
そこで上那須衆の金丸肥前守は「こちらは烏山からは遠く地理に不案内である。
長倉勢は他国(常陸)の者であるが近辺なので地理も詳しいだろう」
ということで長倉勢に殿軍を任せ、上那須衆は先に退却した。
那須資胤は「上那須の者は一人も討つな、逃げるに任せよ。佐竹勢を討ち取れ!」
と陣中を駆け回り下知を下した。
この時、長倉勢はことごとく命を落としたという。
大将の佐竹義昭も草摺の端を射られたという。
この合戦で大崖の谷水が四、五日の間、朱に染まったそうだ。

またある時、那珂川が大洪水となったため、佐竹衆が国境に押し寄せ、放火しようとした。
しかし烏山方の五十余騎が河をさっと渡った。
中でも大久保民部、秋元豊後、森源左衛門の四騎が先陣し、民部が帰依している宗蔵坊という僧とともに河に飛び込んだ。
民部の馬がみなぎる波にさらわれ溺れるところを、(宗蔵坊が?)馬の両脚をとらえて突き上げ、民部が向こう岸に駆け上がったところ、
その勢いにおそれたのか、一矢も射ずに佐竹勢は退いたという。
こうしてその年は昨年と合わせて二年間、敵も味方も手負も死者も一人も出なかったという。



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合戦において容赦の道は

2015年09月01日 16:19

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 00:10:18.75 ID:z/7p6W1K
天正3年、佐竹義重が白河結城義親の領地である陸奥国白河郡棚倉を攻め取ると、
翌4年4月27日、白河勢は小峰城にて逆襲の軍議を開き、棚倉を夜討ちすると決議した。
そして此の作戦が功を奏し、棚倉の佐竹勢は壊乱、主将の渋江内膳は逃亡した。

さて、白河勢が棚倉城内に突入し、佐竹勢を生け捕ること無く一人残らず討ち取っている中、
白河勢の斑目織部少輔、斑目能登守兄弟は、渋江内膳が置き残した2歳の女児を発見した。
兄弟はこれを見て思った

「侍の身として、この2,3歳の女児を敵だからといって、刺し殺さなければ
勝つべき戦が負ける、などということもあるまい。此のような少女を殺すのはあまりに情けない
振る舞いではないか。」

そういって、小貫五郎左衛門という者に兄弟は口上を言い含め、女児とともに渋江方へと送った。

斑目兄弟の使者は常陸太田に着くと渋江の館に入り、斑目の書礼、並びに2歳の女児を渡した。
渋江内膳はこれに大いに感動した

「さてさて、斑目兄弟は聞きしに勝る勇士である。これを送って来られたこと、その志忘れがたい。
この事は我らの大将に申し上げその上で返答を申す!」

そう言って佐竹義重に申し上げると、義重も
「敵ではあるが心優しい者である。直ちに返礼を遣わさねばならない。」と、書礼を認め渡した。
渋江は急ぎ館に帰るとかの使者にこれを渡した。

その後、天正4年7月3日、佐竹義重は再び大軍を発し白河へと攻め入った。
この陣には農民を集め、全員に手に鎌をもたせ
「青田を刈り取るのだ!白河の慶民を困窮に及ばせ、その飢饉の惨状に乗じて以後の戦いの利を得るべし!」
この青田刈りの奉行には、渋江内膳が任命された。

渋江は様々に思案した
「この4月、棚倉が夜討された時、私の2歳の娘を返した、東館の住人、斑目の志忘れがたい。
今度の合戦、彼の領地の青田は刈ることから除こう。」

そう思いたち、斑目のもとに使者を立てた
「あなたの領地の青田には、何でも良いので目印を立ててほしい。そうすればその場所は
刈ることはありません。」

斑目はこれを聞くと言った
「勇士たるもの、合戦において容赦の道はない!我ら斑目兄弟は不肖ではあるが、佐竹を頼るのは
道に非ず!2歳の女児を返したその縁で、今度の合戦に容赦を得るなど何たることか!
ただ運を天に任せるだけだ。返礼にも及ばぬ!」
そう激怒し、寄せてくる敵を待ち受けた。

佐竹勢は小野崎、大縄を先手として棚倉に攻め入った。大軍であったため白河勢の要害も
歯牙にも懸けず攻め入ったため、白河勢は防ぐ手段無く釜子まで侵入された。
渋江、刎石勢が青田を刈って通って行くのは情けない限りであった。
しかし彼らは、斑目兄弟の領地だけは、青田を刈らず通り過ぎた。
そして佐竹勢は常州へと引き上げた。

(白河関物譚)

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 17:03:46.91 ID:z/7p6W1K
>>640の続き

その後、佐竹の大軍が釜の子まで攻め入ったが、白河方は棚倉の保住大学を始めとして所々で防ぎ戦った。
しかし敵は大軍、味方は少勢であり完全に不利であり、さらに青田が刈り取られたことで大規模な飢饉も
起ころうとしていた。

所がそんな中、斑目の領分だけは青田が不思議と残されているとの注進が入った。
結城義親はこれを聞くと、「斑目兄弟は佐竹との境を守る者だが、定めて心変わりをしたのだろう。
かの兄弟を呼び寄せて討って捨てるべし!」そう考えて斑目兄弟を小峰城に呼び寄せた。

小峰城では、石井弥源太、箭内内蔵之介という、身分は軽いが心剛にして日頃より度々手柄を表した者達に
30人ほど兵を付けて待ち構えていた。

義親からの内輪の話だからと、斑目兄弟は密かに座敷に入れられた。と、ここで遣いの者が戸の側で
飛びかかった。斑目兄弟は「何事か!?」と刀を抜いて走り回ったが、そこに大勢が喚きながら掛かり
ついに両人は殺された。

こうして斑目兄弟が結城義親によって滅ぼされたため、棚倉に居住する者達は佐竹に追い詰められ、
度々戦い知略をめぐらしたものの、ついに棚倉、赤館まで佐竹の手に入った。

(白河関物譚)



648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 17:37:16.93 ID:eyPy9V51
>>640>>647
これっていい話なの?なんか渋江の内部分裂作戦がうまくいった風にも受け取れるけど?

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 18:40:48.10 ID:UiaD4USc
たぶん斑目兄弟の遺児が加賀藩に召し抱えられて、その子孫が猫侍になるなんて後日談があるんじゃ…

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 23:48:35.17 ID:/1TGz7gC
白河の斑目さんも弱い物は殺せないんやねw

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 09:45:32.99 ID:EayWawI5
>>648
良かれと思ってやった事がひどい結末になりましたってことでしかないのでは
いい話といえるかどうかは疑問だが

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 09:54:49.73 ID:Ic3r2CMl
青田刈りを免れた時点で裏切りを考えないからこうなる

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 11:25:48.00 ID:iTV8Jiyu
青田をば
刈られず己の
首刈られ

~斑目織部、心の俳句

奥州仕置の模様・8月9日

2013年11月25日 19:04

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 20:25:16.10 ID:/g6Ugc0G
天正18年(1590)、小田原征伐を完了した豊臣秀吉は、宇都宮から白河関を越え、東北へと入った。
いわゆる奥州仕置の始まりである。

8月9日、秀吉は小峰城に到着した。
秀吉が「この城主は何者か?」と尋ねると、細川忠興が「結城上野介と申す者です」と申し上げた。
これを聞いて秀吉は以ての外に機嫌が悪くなり、ここに結城義親が御挨拶を申し出たが、
それを許すこと無く、領地は没収され伊勢の住人である関右兵衛尉(一政)に与えられた。

(時八月九日の事なるに、秀吉公仰せけるは、此城主は何者と御尋ね有りければ、細川忠興
是は結城上野介と申す者にて候と申しける。
秀吉公以ての外に御気色替て御座有る所へ、結城義親と被露有りけれ共、御許容なくして、
領地を没収して勢州の住人関右衛門尉に賜りける。)

同日、秀吉は長沼城に入った。城主である新国上総介(盛次)は様々に饗応をしたため、秀吉も
悦び浅からず、御前へと召して「本領を安堵する」と言った

これを聞いて新国盛次は嬉しさのあまり、秀吉の側の者たちに、彼らの理解できない田舎言葉(方言)で
繰り返し繰り返し感謝を申し上げた。
秀吉はこれに機嫌が変わり、その後新国に、何の沙汰も下さなかった。

(秀吉公八月九日、長沼城に入らせ給ひて、城主新国上総介色々と饗応し奉候故、御悦不浅して御前に
召して本領を賜ると被仰出ける。新国盛次嬉しさの余り、側の人に向って跡先知れぬ田舎言葉を
繰返し繰返し申ける。秀吉公の御気色替って其後ち何の御沙汰もなし。)

(白河関物譚)

秀吉の気分次第でどんどん所領が取り上げられる、奥州仕置の模様である。




877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 22:46:00.50 ID:nHuOhqbS
跡先知れぬ田舎言葉って、ひでぇ表現だなw

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:08:37.08 ID:PxWXDeve
なんとなく、昔の自分を見ているようで癪に障ったんだろうなぁ

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:19:27.49 ID:7+FSzKRf
>秀吉が「この城主は何者か?」と尋ねると、細川忠興が「結城上野介と申す者です」と申し上げた。
>これを聞いて秀吉は以ての外に機嫌が悪くなり

理不尽すぎるだろ

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:31:24.93 ID:9A2NmT8P
>>876
結城の所は最初から潰す気だったのかな
機嫌が悪くなったのは気付かず寄ってしまった自分にいらっときてw

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:33:23.21 ID:7qpf3Faf
前になんか因縁があったんだろうな

小峰義親の没落

2013年03月19日 19:53

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 04:40:24.34 ID:SMoxuC6R
天正18年(1590)、小田原の陣が始まると、白河結城氏当主、小峰義親も秀吉への臣従を考えるようになった。
ここで一族の中島上野は、すぐに小田原の陣へと参上し、秀吉に直に臣従するようにと進める。
しかし義親は「財力がなく、行程の費用も献上品の費用も覚束ない」とその案に懸念を示す。これに上野重ねて

「今回の小田原参陣の費用は。家中のものに課役して調達すれば大丈夫です。また献上品としては
合戦の最中であるので、白米二百表を持って行くべきでしょう。そのうち百表は私が用意します。
残りの百表は、これもまた家中の者達に課役して整えれば良いでしょう。
白河から小田原までは遠路であり、殿ご自身が行かれるのは様々な苦労が考えられますので、恐れながら
私が代官として罷り行き、良きように取り計りたいと存じます。」

上野は心からの提案であったが、義親が他の家臣達にこのことを相談すると、家中の者達は課役の負担を嫌い、
「我々の愚案を申し上げますと、上野が申すことは一向に心得難いものです。
現在の乱世に、白河の諸民も疲弊している上、白米二百表の運搬の課役が加わっては、民間の負担は
莫大になり過ぎます。これが一つ。

そしてもう一つ。上野は大変頭の切れる人物です。これが代官として秀吉公の前に出た時、その立場を利用して
一体どのようなことを言い出すか、計りかねます。
この2つの問題はどちらも穏やかなものではありません。懸念の少ない方に従われるのが、然るべきだと考えます。

幸いにも伊達政宗が、小田原へと参陣するそうです。であれば政宗を頼り、使者を一人添えて、馬や鷹など
折に宜しきものを持たせこれを献上するのが良いでしょう。」

運の末とはこういうものであろう。義親は彼らの言葉に同調し、政宗に頼んで使者を一人同行させ、
海松黒(みるくろ)という良馬と逸物の鷹を秀吉への献上品とした。
政宗は「仔細は聞いた。献上品は良きように秀吉公に披露し、御前にて申開きができるようにしよう。」
と軽く請け負い、使者を同行させて会津を出発し小田原へと向かった。

ところが政宗は思いもよらず秀吉の不審を被り、底蔵という山中に蟄居させられ、自分の身が危なくなり、
義親のことなど構っている場合ではなく、使者を取り次ぐ事は一切なかった。
あまつさえ義親が献上品として持たせた馬と鷹を、「政宗からの献上品」として秀吉に披露した上、
義親の使者にも、

「お主のことは随分良きように秀吉公の方に申し上げたのだが、陣中の忙しさに紛れ、未だはっきりとした
御沙汰も無い状況である。その上、この政宗の身の上もなにかと不透明だ。であるのでお主は
先に帰国するのだ。小峰義親の事については今後承り、帰国後そちらに報告する。」

そういって白河に帰させた。国元の小峰義親はこれを信じ、所領安堵の事は仔細なく認められると思い
政宗の帰国を心待ちにして日を送っていた。

ところが政宗は近年の横逆な振る舞いを咎められ、横領した会津・仙道を没収され、本領だけを
安堵という命令を受け、会津へと下った。そして義親に使いを立て

『あなたの事は大変力を入れて弁明に務めたのですが、一体どういう理由からか、何の御沙汰も
得られませんでした。そのうえ私の身上もこの様に成ってしまった上は、もはや力ない事であり、こうなった以上
あなたが居城にそのまま居住されるのはどうかと思われます。ひとまず城は開城し、他日秀吉公より
御免を受けた後、晴れて所領安堵という事になるでしょう。』

この思っても見なかった報告に、義親は途方に暮れたが、ともかくも暫くの事と、城の西に当たる
金勝寺という禅寺に移った。

しかし秀吉の東北仕置により、白河は伊勢の住人である関右兵衛尉(一政)に与えられ、
金勝寺の小峰義親は新領主の関一政から、治安への懸念などを理由とし領内からの退去を求められ、終に
白河を出て那須の湯元という土地に移住した。
(会津四家合考)

奥州の名族白河結城氏・小峰義親の没落、についての逸話である。




951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 10:23:12.10 ID:+7S+YBMQ
政宗のことは知ってただろうになぜ所領安堵のお願いなんて大切なことを頼ってしまったのか
やはり恐るべきは政宗の謎のカリスマ

952 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/03/19(火) 12:19:07.34 ID:rO+ftDAx
例え自分単騎でも参上すれば良かったんだな
贈り物なんて他の大大名から山ほど貰ってるんだし

最近出た本に、北条と対立する北関東の豪族に対して取次が「とにかく上洛して挨拶しとけ。
所領奪われても奪還してやるから。」みたいな書状出してる例が載ってたな

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 13:04:17.91 ID:Lpu59eFS
山内氏みたいに取次の約束を無視して潰されちゃった例もあるから
一概に信用はできないと思うな

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 18:33:58.04 ID:KjaOCjQ8
こんな目に遭って10年ほど放浪した末に結局は政宗を頼って
伊達家に仕官するんだよな小峰義親

なお白河結城家は仙台藩では約1000石で一門格とそれなりには
遇されて分家も創出したそう

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 18:47:42.86 ID:tdY5fDm7
>>956
溺れる者は藁にもすがる…

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 19:21:54.03 ID:cCNBhWhP
地方の小領主にはつらい時代だよね

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 21:47:50.86 ID:p7+Npn/g
>>952
北条と対立する佐竹上杉が豊臣とがっちり連携とってたから
北関東の国人領主はその2家からもきっちり根回し行ってたみたいだしね
取り次ぎ含めて複数のルートで豊臣と渡りつけた北関東東関東の領主と比べると
他人任せにしちゃったところは悪目立ちしただろうなあ

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 22:36:58.95 ID:kIdJ8lYZ
伊達に服従してた時期で、外交権も伊達に預けてた小領主の一人なんかね

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 22:40:16.26 ID:6a82V/9u
家臣なのに四国征伐の時点で秀吉に息子を会わせてた大関さんを見習うべき

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 23:00:18.62 ID:p7+Npn/g
政宗は豊臣に臣従後領地減ってるのに家臣たくさん雇ってるけど俸禄はどうやって工面してたんだろ

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 23:00:52.77 ID:8K5nxJgm
オマエラ、ヒゲ殿を持ち上げるのはその辺にしておけ

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 23:56:40.88 ID:3evJ41Vt
>>945
佐竹さんとこは、絶対勝てる方に味方するよう代々語り継がれてるよねw
それに比べ、DQN眼竜に義理とか情けなんて皆無なのに子孫は全く受け継いでないな。。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 00:00:39.97 ID:tmOY4E6E
>962、かえって周りにはサルなんか無視しとけ!っ空気作って(であんたの領地は没収されるぜで少し掠め取るぜw)ぐらい考えていても驚かないぞ

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 00:18:38.79 ID:EszNZX5M
>>965
そうか?
ゴネる亘理を結局切れなかったり、むしろ情を捨て切れなくて後の世代に禍根残した印象が強いな。

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 00:54:27.56 ID:zoP8SRMa
>>965
佐竹さんは源平合戦で失敗したときからあまり変わってない気がする
まぁあの日本史上屈指の万馬券をつかめと言うのは酷な話だけど

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 15:09:18.06 ID:cr4VQPS8
>>965
んー? 中途半端に会津に味方して、結局貧乏くじ引くところは押すところと引き所の判断を間違うまー君の家系らしいと思うが。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 18:13:37.03 ID:tmOY4E6E
>968、黒いところは全部甲斐のお屋形様が持って行ってしまったんでしょうw