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「続武家閑談」から「大坂夏御陣前大野主馬駿河に忍び者を遣わすの相談のこと」

2023年02月06日 20:00

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/06(月) 18:17:10.52 ID:wYXGpwx3
続武家閑談」から「大坂夏御陣前大野主馬駿河に忍び者を遣わすの相談のこと」

大坂夏の陣の前に、大野主馬(大野治房)が駿府に放火しようと、忍びを上﨟衆の床の下に忍び入れさせ、権現様がいらっしゃる時分を伺って、討ってしまおうと申し付けた。
そのとき小幡勘兵衛(小幡景憲)が「そのような手段では成功しないでしょう。
浜松にいらした時分、「女の居住の縁側は降りやすいように低く作れ」とおっしゃったため、どの床も低くなっているそうです。
本当は人が忍びいるのを防ぐためだそうです」と申したため、中止となった。
実は小幡は夏の陣の前に間者として大坂城の籠城に加わっていたという。



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小幡勘兵衛が甲州流兵学を作るまでの流れ

2021年11月20日 17:04

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/20(土) 15:33:18.79 ID:ZS1x8Wsp
貝原氏(益軒)曰く、甲州流兵学の起こりは小幡勘兵衛(景憲)より始まる。
勘兵衛は甲州の武士・小幡山城(虎盛)の子である又兵衛(後豊後・昌盛)の子である。
豊後は天正三年(原文ママ・実際には十年)の武田勝頼滅亡の時に病死した。

勘兵衛はその時九歳であったが、家康公がこれを尋ね出し、勇士の末であるとして、井伊兵部(直政)と共に
秀忠公の御遊伴に定められた。

十六歳の時、武者修行の志有って、玄関にて髪を切って駆け落ちした。家康公はこれを憐れまれ、
尋ねさせられたがその居場所を知ることは出来なかった。
勘兵衛は所々を遊歴し、慶長五年の関ヶ原の時、井伊兵部に従って功があり、そのまま佐和山に浪人して
居住した。
慶長十九年、大阪冬陣に偽って籠城し、夏陣の時城を出、秀忠公に召し出されて御使番となった。

彼は高坂弾正の書を集め、また甲州の士が数人、井伊兵部に仕えて佐和山に在ったため、彼等に
武田信玄の事を尋ね聞いて、甲州流の兵術を建立して人の師となった。
高坂弾正の作った書は甲陽軍鑑十九冊、同末書上中下結、要本龍虎豹の三品である。

武芸小伝

小幡勘兵衛が甲州流兵学を作るまでの流れについて



心気に錆が付かない様に

2017年04月09日 17:12

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/09(日) 01:21:54.59 ID:YX2JP10l
小幡勘兵衛景憲が言うには
士は常に武道に錆を付けない様に心がけるべきだという。
刀脇差もさび付いたら、必ずそこから折りが入って、どんな名作でも用に立てなくなる。
武士もたとえ筋目がよかったり、あるいは用に立つ事があっても、
打ち捨てておいたら心底に錆ができ次第に折り目が入って、
自ずから意地汚くなって用に立つ事がなくなる。
一日中武士は心気に錆が付かない様に嗜むべし。


『武士としては』



804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/09(日) 11:59:26.83 ID:TfgWXWVf
>>803
他人を試すと言って嫌なことをしたりさせたりする人がいるけど、相手次第では錆びちまうよね

甲州伝目つぶし之法?活薬

2016年11月16日 21:56

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 23:04:18.80 ID:02+9kijt
甲州伝目つぶし之法?活薬


 会談で、小幡勘兵衛景憲かた伝わる目つぶしの法として聞いた。

『蛍火 山蔭のたにし 青とかげ ムカデ 馬の目〔馬の目をほりとったもの〕
各等分にして卵の中皮?に入れる』

 これは大いに験がある。投げて胸や四肢に当たればそのところはたちまちしびれて、
手は揺らすことができず、胸は気が塞がって身を動かせない。
また鼻口に当ればすぐに絶倒するという。

聞いた話だが、これも甲州の伝で基本信玄から出たものだという。
信玄は毒矢を用いたことはこれと似ている。
またこれに遭った者のための活薬がある。

『塩 ひき茶』

この二物をといてその当った所に塗れば、すぐにその毒気が散って動揺が生じる。
また絶倒したら湯を加えて服させたら回復するという。
(甲子夜話)


信玄がなぜ塩を断たれたら困るのかが分かりますね~





302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 08:38:58.73 ID:GV3HsWUU
気持ち悪いものを投げて当たったら塩と茶を塗れとか
小学生かっ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 11:16:58.83 ID:LWmC7QHM
        ::::::::::::::::∧口∧   そうやってなんでも
        ::::::::: ( ::;;;;;;;;:)      信玄の発明にしてりゃいいさ…
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''――'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"        
    ,,, ''  ,,,    ::;;;;;;;;;::: ,,  '''''  ,,,,  

天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

2016年05月29日 13:07

658 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:04:09.47 ID:BEJ0ECpz
大阪冬の陣の和睦後も、畿内の情勢は安定せず、大阪勢が京都を襲うとの風聞が流れると
京は大混乱に陥った。この知らせを受け取った徳川家康は大いに驚き、これは未だ豊臣秀頼
大阪城に在るために、大阪方諸浪人の者達の策動が収まらないのだと判断し、
秀頼に書状を送った

『連々考えるに、秀頼公が大阪城に在ることが、人々に疑心暗鬼を生んでいる。
であれば、国家安穏のためにひとまず大阪城を明け渡し、大和の郡山に移られよ。
その間に畿内を安定させ、大阪城も元通りに普請してお返しするだろう。
七十に余る私であるから、悪しきことは申し入れはしない。織田有楽、大野修理も
よくよく理解して秀頼公を諌めてほしい。

承知なければやむを得ず出馬となるだろうが、和睦から間もなく再び確執に及ぶのは
信を天下に失うに似たり。よくよく了解して、豊家の社稷を絶やさないよう計ってほしい。』

この知らせを受け取った大野治長は驚愕して秀頼に伝える。秀頼は諸士を千畳敷に集め評定を行ったが、
この時真田、後藤は思う所あって出席しなかった。

秀頼は今度の事態に「諸将の心底を聞きたい」と発言を促したが、一大事の儀であり、互いに目を見合わせ
誰も言葉を発せようとしなかった。

が、ここで長宗我部盛親が進み出た

「このように申すのは、思慮が短いかもしれません。ですが道理に合わなければ用いぬまでのことです。
去冬の扱いについて、天下の規範になるような証拠もなければ、和睦の儀は然るべからずと真田、後藤が
言っていたのは、つまりこの事であったのです。
あの時、和平が永く続かないことは、この私ですら解っていました。

今、関東の望みに任せてこの城を去って和州郡山にお移りあらば、一時的には穏便に済むでしょう。
しかし程なくまた難題を申しかけられ、さらに他境へ御座を移されることもあるでしょう。
そうなった時、七手組の者達は勿論、この城に集まった渡りの諸士たちまでも、郡山から他に移ると
成れば、どれほど志のある勇士であっても、望みを失い離散する者も多いことでしょう。
その頃になると今この城にある古老の者達は、寿命で尽く死に果てているでしょう。
であれば、一体誰があって君を守護するのでしょうか?御本懐を果たし申すべき者もなく、もはや
自滅より他ありません、

万一、十分な幸運を得たとしても、織田常真(信雄)と同程度の格式を得るくらいです。
秀吉公の時代、人はみな、この織田常真を卑怯の人として爪弾きにし、信長公の雄才までも、
この人のために罵られたのです。誠に口惜しきことではないでしょうか?

不義卑怯の名を被って生きるのは、武士としてこれ以上の恥辱は有りません。ならば潔く討ち死にして
武名を千歳に残すことこそ願うべきです。
ですが、この城の要害は既に破却され、ここで大敵を防ぐというのは不可能です。
去年、真田、後藤は、美濃尾張までも進出し、また宇治瀬田において防ぐと言上しました。
これも去年であればこの作戦で充分勝利を得ることが出来たでしょうが、今は勝利も覚束ない状況です。
同計同束にてその勝敗が変わることは時の勢いです。

ですが、もはや要害不堅固の城に敵を引き受けても、あたかも籠の中の鳥が殺されるようで無念の第一です。
ですから、何れも討ち死にと覚悟の上は、遠境へ切って出て、五度も十度も強戦して両将軍家の旗本と見れば
左右を顧みず駆け入って奮戦して死にましょう。
木村殿と森殿が言い合わせて二条城に向かえば、京都所司代の板倉も、頭を出すことすら出来ないでしょう。
伏見や茨木に至っては恐るるに足らず。
かくなる上は例えこの城で君には万一御生害あるも、豊家の御恥辱にはなりません!」

この言葉に一座の者達は目の覚めた覚えを成し、「潔し!潔し!」「しからばそのようにしよう!」
そう異口同音に言い合った。

659 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:06:14.29 ID:BEJ0ECpz
が、ここに小幡景憲があった。小幡は松平定勝、板倉勝重と申し合わせて大阪城に入っていた。
彼は武田二十四将の一人、小幡昌盛の次男であり武田兵法を良くすること、大阪城中に知られ、
大野主馬介治房が取り持って豊臣秀頼によって召し出された。
新参ではあったが弓矢の智識(合戦の専門家)であるとのことで、大野治長は彼を評定の席に
召し出し、その末座に在ったのだ。

彼は先程の盛親の言葉が、関東のために甚だよろしくないと判断した。
そこで進み出て申し上げた

「古参の歴々を差し置いて末座から異見するのは憚りあることですが、心頭に浮かんだことをそのまま
差し置くのは不忠の至りですから、その一通りを言上いたします。

徳川家康公は近代の良将たちと、あるいは敵対しあるいは従い、大いにその兵法を学ばれ、
治乱盛衰の機微を察し、欲を抑えることを心がけ、権謀に通じ、その知識の高さは現在において
万々の上に出ています。

聞いた所によると、京都伏見方面には既に段々と軍勢が登っているとのことです。
これは能く状況を知っているということでしょう。
大御所は必ず、盛親殿のような雄偉の将が京都を抑え、美濃の近くまで進出すれば
事難しくなると推察された事でしょう。それを知ったからこそ早速軍兵を登らせたのです。
そのような所にもし諸国の假武者(傭兵)を以って向かえば、敵のために捕虜にされに行くような
ものです。

この大阪城は、城郭の破却こそされたと言っても、七重の曲輪などはなお残っており、敵を防ぐに
便利です。そして八万の兵にその兵糧、玉薬は何れも欠けることなく、ことに城兵の武勇は、去年
両将軍にもみせつけたのですから、敵も簡単には攻め掛かって来ないでしょう。

城兵たちはただ、心を一つにして九死に一生の合戦を遂げるのです。そうすれば、特に西国の者達は、
去年の大阪の勝ち戦によって我々への見方を変えていますから、今度も暫く持久戦を遂げれば、その結果
我らに加担するものも多く出るでしょう。であれば、頼み有る戦となります。

それにこの大阪城本丸は、太閤御苦労の縄張りをして残した物ですから、仮に1,2の曲輪が
破却されても、この城を守衛する事こそ孝子の御本意というべきでしょう。」

そう雄弁を以って語った。
この時、大野治長は元から他境へ軍を出すこと好まなかったため、小幡の意見に方針を決定した
のである。
これは秀頼公の不運であり、天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

(慶元記)



661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 11:44:32.98 ID:kKdVXExc
大野主馬って悪い話ばっかだね。いい話といったら逃げずに死んだことくらいか。

二面の鏡を用いて

2015年07月16日 11:47

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/15(水) 20:35:04.97 ID:ehDOn7Gj
寛永年間のことである。

小幡勘兵衛(景憲)には実子がなかったため、何某の次男を養子とした。
ところが、その頃旗本の若輩の面々には、丹前風という髪の結ざまから、大小衣類に至るまで、
異様なる風体をすることが流行っていた。
この小幡の養子も、若年の事ゆえその風を真似て、鏡を二面用いて髪を結っていた。
これを養父の景憲が見咎めた

「若輩だからといって、武の家に生まれた身として二面の鏡を用いて姿形を整える、などというのは
遊女野郎の所業である!」

そう激怒して、そのまま義絶した。
その後横田次郎兵衛の子を養子とした。これが今の又兵衛である。

(明良洪範)



64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/15(水) 21:53:54.34 ID:HsY8g1wm
何が悪い話?

65 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/15(水) 23:28:32.90 ID:7g8RSJCV
鏡を二面用いて髪を結っていた→そのまま義絶
の話は聞いたことあるけど、
>その後横田次郎兵衛の子を養子とした。これが今の又兵衛である
これは初めて聞くなあ。

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/16(木) 01:00:49.78 ID:bf6R3VAw
寛永年間って100%戦国時代じゃないよね?
なんでここに載せるの?

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/16(木) 05:11:54.34 ID:8E4QrWHF
小幡景憲が戦国時代の人だからだ
つーか、いまさらすぎるだろ

68 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/16(木) 06:21:32.90 ID:G4Pj3hIr
戦国時代の人www

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/16(木) 08:11:22.50 ID:TdQT5SGj
「戦国時代」をどこからどこまでとするか、というのは研究者でも定義があまり定まってない。

戦国の一番広義の捉え方は享徳の乱(享徳3年:1455)の勃発から島原の乱の終結(寛永15年:1638)くらいまで
ただし嘉吉の変(嘉吉元年:1441)から戦国状態に入ったという説もある。

一番狭いと明応の政変(明応2年:1493)から足利義昭の追放(元亀4年:1573)まで。以降を近世とする見方。

一般的には応仁の乱(応仁元年:1467)から大阪の陣の終結(慶長20年:1615)までか。

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/16(木) 09:20:20.85 ID:b/yxLmB8
戦国、てことを考えると元和偃武がしっくりくる

二面の鏡

2013年01月24日 19:52

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 23:29:11.62 ID:jpTOhSIv
寛永年中のことだが、小幡景憲は実子がいなかったので某の次男を養子にした。
その頃、御旗本の若輩たちの間で丹前風という名の、髪の結い方から
刀脇差・服装に至るまでも異様な風俗が流行していた。

景憲の養子も若者だったので、彼もまた丹前風を学び、二面の鏡を用いて
髪を結っていたのだが、そこを養父・景憲に見られてしまった。

「若輩だからといって、武家に生まれた者が二面の鏡を用いて形を作るとは、
遊女男娼のふるまいだ!」と、景憲は腹を立てて咎め、養子を義絶してしまった。

その後、景憲は横田次郎兵衛の子を養子にした。これが今の又兵衛である。

――『良将言行録』




278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 00:02:44.85 ID:ABbkugDD
Twitterで余分なこと言って内定を取り消し合う感じだなw