留守は要らない

2017年08月09日 15:35

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/09(水) 15:01:12.11 ID:Gqo3zfNg
関ヶ原の時、金吾(小早川秀秋)は松尾山を占拠したが、その占拠に向かう折、それまで陣を張っていた小屋に
澤角図書という者を残した。ところがこの澤角は後に残るのを迷惑として、秀秋に供奉することを望んだ。
そこで秀秋は、澤角に小屋を棄てて供をするよう命じた。

これに老臣たちは反対した。「御陣屋には留守が居なくてはならないものです。」
しかし秀秋は

「留守はいらぬ。何故なら東軍が必ず勝利するのだから留守を置くに及ばない。
万一西が勝てば、猶以って留守は要らない。そのまま差し置くべし。」

そう云ったという。

(士談)



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/09(水) 15:48:56.97 ID:3ROO509T
関ヶ原開戦前に裏切りを決めてた説か
開戦時には大谷隊に掛かっていたって続くのかな?
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【ニュース】肝臓は大切にね!

2016年06月27日 17:34

775 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 13:14:32.30 ID:/MqLJVh3
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160627-00050028-yomidr-soci
「小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?」


肝臓は大切にね!



776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 13:35:48.54 ID:3JLjvA8Y
これなら関ヶ原後数年で死んだのも説明つくな

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 14:31:31.81 ID:KCWhgknx
というか医者の記録で酒飲みすぎで死んだって判明してなかったっけ

778 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 15:45:50.91 ID:/MqLJVh3
三成の亡霊に悩まされたってのもあったよね。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 18:16:22.03 ID:+qPXwI3K
>>775
今年の真田丸だと三成と大谷の霊が交互に襲いそうなんだがw

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 18:55:27.76 ID:TO7QrSDN
亡霊になって呪えるなら家康の方にいけばいいのに
そんなんだから関ヶ原で負けるんだ

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 19:58:33.34 ID:FwSunThd
亡霊=アル中の妄想だったか

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 15:40:48.51 ID:uBSLhsAz
>>775
ドラマの秀秋役というと色白びょうたんてのが定番だったけどこれからは色黒になるのかな

たいめいけんのシェフとか?

小早川秀秋「この恩に必ず報いるでしょう。」

2016年01月01日 17:00

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 13:18:33.90 ID:v6oP3eQM
慶長3年4月4日、小早川秀秋は朝鮮より大阪に帰還した。
翌5日、伏見の城に参上した。秀秋に従った7人の軍奉行、並びに加藤嘉明も同行した。
伏見に在住していた大名が尽く参集し、秀秋の凱陣を賀した。
やがて太閤秀吉が現れ、対面のあと、太田一正が秀秋の朝鮮での合戦の模様を詳細に弁じた。これを聞いた秀吉は言った。

「いやいや、大将軍が自ら諸軍と戦功を争って軽々しく戦うなどけしからぬ!
ワシは秀秋を差し向けたことを、返す返すも後悔している!」

秀秋は聞くやいな、押し返し申し上げた
「世の常の御使であれば、幼弱の身でありますから、辞し申したでしょう。追討の御使なればこそ、仰せを承ったのです。
しかし今、人々が聞く所で、御後悔の旨を承ること口惜しい!
この秀秋に不覚のことがあったのなら、軍奉行の人々よ、いま御前において率直に申し上げ、
速やかに秀秋の首を召され、御憤を散じられるよう計らうように!」

しかし秀吉は何も言わず座を立って内に入り、石田三成が参って秀秋の家老である、
杉原下野守、山口玄蕃充に向かって言った
「上様の御気色宜しからず。先ず御屋敷に帰られるように。」
秀秋は怒り、三成の首を落とそうとするように、打刀を取って立った。

ここで、その間に徳川家康が入り秀秋を制した。そして彼の屋敷へと伴うと、そこに秀吉よりの
使者として尼の孝蔵主が訪れ秀吉の仰せを伝えた

『さても去りし頃、蔚山の戦いにおいてる軽々しき振る舞いをし、また先程申した事も
甚だ奇怪の至りであった。この上は至急筑前国を返却し、越前の地に移るように』
秀秋は激怒し
「やあ尼よ!この秀秋の身に国を奪われるほどの罪を負った覚えはない!この生命あらん限り、
筑前を返すつもりはない!よって速やかにこの首を刎ねるようにと太閤殿下に申せ!」

そう言って追い返した。しかし家康は帰ろうとする孝蔵主に密かに言い含めた
「秀秋殿は『仰せ謹んで承ります』と言ったと報告するように。」
「内府様…。この上は内府様の御計らいこそ頼りです。北政所様へも、そのように申します。」

孝蔵主が屋敷を出ると、家康は秀秋に向かって説得した
「今は兎にも角にも仰せに従うことこそ大切です。その間に北政所が嘆かれれば、太閤殿下もいつまでも心強くはいられません。」
しかし興奮している秀秋は
「ならば、私自ら三成の首を斬った後で内府の言うとおりにいたしましょう!」
そう言って聞こうとしない。家康も、今は強いて本人を説得すべきではないと思い、家老の
杉原、山口を密かに呼んで言った
「先ずは家人を少しだけ、越前に派遣するのだ。」

そこで彼らは外様の侍を少人数さし下した。そこで家康は、前田利家とともに秀秋について嘆願しようとしたが、利家はそれを断った。

それより家康は毎日秀吉の前に参上したが、何を話すということもなかった。
秀吉は気になり「どうしてそのように毎日参るのか?」と尋ねると、
「秀秋殿が国を移されること、痛ましく覚えて、その事について申し上げようと参っているのですが、
どのように申し上げれば聞いていただけるかわからず、このようにしております。」

そう答え、その後も毎日参上した。秀吉は再び最初のように尋ねると、家康もまた最初のように答えた。
これに、秀吉も遂に根負けし
「そこまで思われているのなら、秀秋のことは内府の計らいに任せよう。」

家康は大いに悦び、秀秋の元に出向き、杉原、山口を召して越前へ下した侍たちを呼び戻させた。
程なく6月2日に、家康は秀秋を伴って登城すると、秀吉はこれに対面し、饗宴の儀を開き、
また両名に多くの引き出物を下された。

秀秋はこの日、長崎伊豆守を徳川家に使いさせ、
『今回の御芳恩はいつまでも忘れません。この恩に必ず報いるでしょう。」
そのように伝えた。

(藩翰譜)



130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 16:18:26.54 ID:7z8qiSfe
見事な関ヶ原フラグ

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 16:28:24.10 ID:mjKAu8Ji
実際はフツーに越前に転封してるけどねぇ…
藩翰譜の頃にはあれこれ分からなくなってたんだろうな

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 17:26:27.04 ID:wII7VMDj
徳川家だったらサドの守あたりがやりそうな話
やはり内府様も三河者だなめんどくせー

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 20:36:43.22 ID:+Bnqog12
秀秋は朝鮮で実際には前線切り込みなんてしなかったそうだし、
三成下げ家康上げの為の逸話だわな

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 20:54:20.74 ID:21XobQQ6
でもこうやって裏で動いてると楽しいんだよなぁ、俺やってるぜ感が半端無い

金吾殿のお振る舞い

2015年12月29日 15:24

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/29(火) 13:35:23.32 ID:iXIovZrU
慶長3年正月4日、小早川秀秋は蔚山城の後巻にて真っ先に進み、秀秋自身の手で
騎馬武者13騎を斬って落とし、軍全体で一万三千二百三十八の首を取り、太閤秀吉に献じた。

この使者は同月24日伏見の城に到着した。太閤は合戦の様子を聞いて大変に機嫌を良くした。
ところがこの時、石田治部少輔三成が密かに申し上げた

「金吾殿のお振る舞い、誠に雄々しくも聞こえます。さりながら、既に上様の御代官として向かわれた
御身が、自ら釜山の城を出て深く敵の中に入り戦われたというのは、あまりに軽率に存じます。
敵がもしこの隙を伺って、釜山城を攻め取ってしまえば、本朝との通路は最早自由になりません。
今後は、かかる振る舞いは然るべかざる旨を仰せ下されるべきでしょう。」

これに太閤も尤もと思われ、秀秋の功を賞することはなかった。

(藩翰譜)



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 10:04:54.66 ID:ReyZh93h
>>824
お付きの者の支援があったとはいえ、小早川秀秋も個人的武勇は
人並みにあったんだろうな
ゲームだと武勇が20ちょいぐらいしかない
個人的には、宇喜多秀家と小早川秀秋は、性格において格差があるけど
能力においては同じぐらいじゃないかと思っているのだが

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 17:12:10.72 ID:Y1JvnBG+
>>837
ノブヤボ覇王伝では戦闘66ぐらいで平均よりそこそこ上だったけどな
政治と采配が忍者武将並にズタボロだったけど

ただ秀秋は肥の能力査定が作品ごとに結構ブレてる印象がある
比較対象の秀家は群雄伝こそ過大だったけどそれ以降は、武勇がほんのり高めのほぼ平均値で固まってるのにだ

小早川秀秋には国替えの望みがあった

2015年10月22日 10:44

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:07:05.80 ID:0j+Esrwt
金吾(小早川)秀秋は、小早川隆景の養子となって跡を継いだことを、内心おもしろからず思っていて、
国替えの望みがあったのだが、豊臣秀吉がこれを察し、秀秋に

「石高が減っても国替えを望むか?」

と聞いた。これに金吾殿「勿論です!」

「ならば備前。備前に国替えしようか。」

そう内意の沙汰があることを金吾は聞いて、筑前から侍を数多呼び寄せた。
そんな時、秀吉は発病し、国替えのことも中断してしまった。

金吾は『御前(秀吉)の方では決定しているのに、石田三成が謀って事が不調になっているのだ!』
そう考え、三成に強く恨みを抱いた。

そんな時、徳川家康が金吾に異見した
「あなたが呼び寄せた家中の武士たちを、少々国元に戻されるべきです。」
しかし金吾は聞かなかった
「私の国替えのために呼び寄せた侍たちを、何の面目があって戻せるでしょうか!?」
これに家康
「ならば、私が申し聞かせる。」

そして直々に金吾の家来たちと対面し
「今回、金吾殿が各々を呼び寄せたのは、粗忽であったからではない。これこれの仔細があっての事なのだ。
しかし現在、太閤殿下は御病気中であり、そんな時期に大勢が詰めかけているのは、金吾殿の為にも
いかがかと考える。であるので、何れも国元に戻る方向で、相談してはくれないだろうか?」
そう仰せ聞かせた。

この事で、金吾は外聞まで宜しくなったとして、以後家康に一層傾斜し、三成に対しては
猶もって恨み深かった。
関ヶ原にて家康の味方となった時も、家康からの書状に対し男道(武士道)の儀について、
近年申合わせた通り少しも違いなく、よってこの合戦に家康は勝利したのだという。

(武功雑記)



853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:16:00.83 ID:zMeGdL5U
宇喜多が納得するとは思えないがな

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 00:46:04.47 ID:OjVdeQG2
本物のアホだったのか?

これは黒田長政一人の謀を以って

2015年09月26日 17:29

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 21:22:32.02 ID:96dtYwcU
おおよそ関ヶ原の軍は、天下分け目の大合戦にて、徳川家の存亡、天下の安危、ただこの一挙にあった。

東方は良将兵を掌り、属する所の猛将多しといえども少勢であった。
西方は総大将無くして、治部少輔が兵権を司るといえども大勢にて、その上太閤の薨去近ければ、秀頼のために
忠を成さんと思う者も多く、殊に、もろこしまで武名を顕した島津、小西、その他猛将また多し。
その上筑前中納言(小早川秀秋)は大軍にて、その家臣たちは皆、小早川隆景が平生教練した屈強の
兵達であった。

この小早川秀秋がいまだ裏切り無いうちに、戦いは既に半ばに及ばんとした時、
敵の旗色良く、勇み進んでいた。この時、もし秀秋が裏切らず松尾山より素早く下りて、敵とともに
味方を防げば、おそらくは勝負がどうなったかわからない。また、もし敵がこの一戦に負けたとしても、
秀秋の裏切りがなければあれほどの惨敗はせず、敵の諸大将暫く弾き退いて、宇治、瀬田の橋を引いて
防ぎ戦えば、敵は大軍であったから、寿永、承久で東兵が利を得たようにはならず、勝敗もまた
心もとない。

また、南宮山の敵、吉川らが内応無く、素早く攻撃にでて、関ヶ原で横合いにかかってくれば、
両方の敵を防ぐことは難しかったであろう。

であれば、筑前中納言、並びに毛利家の返り忠は、内府公天下万世を保たれた枢機であり、
これは黒田長政一人の謀を以って、敵の大群を味方に引き入れ、返り忠をさせて、斯くの如く
莫大の忠功を立てられたのだ。

また、長政が竹中丹波守と言い合わせ、間道を経て敵陣の横合いに出、奇兵を以って
島左近の堅陣を破り直に石田の本陣に攻め入られた故に、一戦に東兵勝利を得た。
これらは真に希代の勤労と言うべきである。

司馬相如が『世必有非常之人而後有非常之功』(世には必ず非常の人があり、後に非常の功有り)と
言ったのは、まさに黒田長政のような人を語ったのだ!

(黒田家譜)

「徳川の天下は全部黒田長政のおかげだったんだよ!」という黒田家譜の熱い主張である。



743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 00:16:51.90 ID:QGYiI3d0
長政もあの世で苦笑い

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 00:39:15.74 ID:KAo1MPtx
毛利吉川小早川のサボり&寝返りでテル涙目

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 09:44:28.11 ID:NvEji9+i
黒田家譜はブレないな

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 10:05:10.60 ID:T9zYNIIf
九州でお怒りになられてる方がおります

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 20:35:32.56 ID:eZHYdQhF
さっすが長政さんだぜ
孝高超えたな

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 21:02:24.34 ID:pGj6ICXj
あたぼーよ52万石(笑)だぜ
だてに逃散させてねーぞ

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/27(日) 09:25:39.55 ID:yZR+BSu7
他の関ヶ原参戦諸侯の検地打出しで石高2~3割増程度だったのに
黒田は7割増だもん、そりゃ色々と問題も出ますわな

小早川秀秋の出陣

2015年02月06日 18:40

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/06(金) 00:25:26.43 ID:ANvBtwVf
慶長2年(1597)5月21日、筑前の太守黄門秀秋公(小早川秀秋)、朝鮮への出陣のお目見えとして
伏見に登城した。40人余の大小名がそのお供をする中、これに豊臣秀吉は大変機嫌よく様々に申し付け、
秀秋は小袖300,帷子500,反物300,金銀、長光の太刀、備前兼光の御腰物、馬五匹を拝領した。
諸大名衆も尽く、小袖、帷子等の数々のもの、及び金銀を拝領した。

秀秋の御座船は、伏見城下の豊後橋より先陣へと進んだ。各大小名は豊後橋、京橋より船に乗り、
思い思いの馬印を船の正面に立て、母衣、指物、弓鉄砲で船を飾り、家々の紋のある幕を張り巡らせ、
一手ごとに下っていった。

出船の時、兵士たちの妻子は、これが今生の別れだと思い、貴きも賤しきも船の側まで送り出て、
夫の船に取り乗り、鎧の袖や草摺に取付き、「私も連れて行って!」と泣き叫んだ。
順次の出船であったので、彼女らは様々に教訓され、船中から降ろすと、船は急ぎ押し出していった。

彼女らは船を見送ると、はかなき身の上を嘆き、そのまま宇治川へ身を投げ死んだ者もあった。
伝え聞く古の、松浦佐用姫が出征する大伴狭手彦の乗った唐船の名残を慕い、波に袖を濡らし
涙に沈んだという話も、どうしてこれに勝るだろうか。
上古も今も、末代も、例少なき門送りであり、見る者の多くがこれに涙した。

折しもこの日は五月雨であった。空吹く風に誘われて、先頭の秀秋の船が摂津大阪に着いた頃、
諸船は淀山崎当たりを航海しており、後陣は未だ伏見を出ていなかった。
360余隻の船は、川水の波上に錦を晒したようであり、旌旗は日を覆っていた。

(朝鮮記)

朝鮮の役にて小早川秀秋の艦隊が、伏見より出陣した折の記録である。

北政所の謀

2014年09月05日 18:57

北政所   
132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 21:56:55.96 ID:LotvBoFB
関ヶ原の時。
石田三成ら、西軍は挙兵したが、小早川秀秋は上洛したものの、狩猟ばかりを行っており、またその兄である
木下勝俊は伏見城松の丸を守っていた。

この状況に石田三成は、秀秋がこのままでは敵味方の判断ができない、伏見城を攻めさせてその色立てを見ようと、
使者を立ててこれを要請した。

秀秋はこれに、すぐに京都へ登り北政所にこの事を相談した。北政所は秀秋に尋ねた
「其の方はどのように考えているのか?」

「石田は秀頼の命と言って西国の大名を動員しましたが、ここからは徳川殿を滅ぼして自身が天下の権を奪おうとの
目論見が鏡に写すように見えています。

私は、徳川殿の麾下につくのは仕方がないと考えますが、石田の下につくのは無念の次第です。
ですので、どうにかして徳川殿に属したいと時節を見ておりました。しかし石田はそんな私を危ぶみ、
伏見の攻め手として信を見極めようとしています。

これにより私は今、大変難渋しています。ここで東軍への色立てをすることで西軍の諸大名によって
攻め滅ぼされるのも口惜しいことです。」

北政所はこれをじっと聞いて
「私は女の身でありますから、軍の計らいはよく解りませんが、女であっても勇士の家に生まれた身でありますから、
私の考えを一つ申しましょう。私の言うことが良いと思われたら、これを用いなさい。

其の方は先ず、伏見城の攻め手に加わり城攻めに向かいなさい。少将(木下勝俊)が城中にあるのは
幸いの事です。あなたが出陣した後から、この私が伏見城に入ります。そして『戦いを止めよ、和睦せよ』と
敵味方に停戦を呼びかけます。

伏見城中では、私が城内にいることを幸いに、これを人質であると思うでしょう。
大阪方は、私を城から出すようにと申し入れるでしょう。
秀頼は私が産んだ子ではありません。しかし今日、秀頼は私を母君と崇めています。
我ともに攻め殺せとは、五奉行もよもや下知することは出来ますまい。
そうして時を稼いでいる内に、徳川殿が軍を率いて上洛されましょう。

万一、この謀が案に相違し、西軍が私共々攻め殺すと言うことになれば、運を天に任せる事こそ
勇将の決断の場です。」

秀秋はこれを尤もであると思い、伏見攻めの人数に加わった。
ところが、木下勝俊はこの内談を知らなかったため、弟の秀秋が攻め手に加わったと聞くと驚き、
また城中の者達は勝俊を疑うようになった。

木下勝俊はこれに耐え切れず、松の丸から密かに脱出した。
これ故に北政所の謀も水泡に帰し、その怒りのため、北政所は京に帰ってきた勝俊に
対面を許さなかったのである。

(明良洪範)



133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 00:56:57.25 ID:QeRVVbAx
勝俊・・・。

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 06:54:29.50 ID:Q2ixne+i
はかりごとは関係者一同によく連絡をしてから行いましょう

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 07:39:26.28 ID:XUeoxQbj
宇喜多某「『敵を欺くには先ず味方から殺せ』と兵法書にありました」

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 12:55:03.42 ID:k6N8jc8M
>>133
これで嫁さんにも愛想つかされたんだっけか。>勝俊

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 12:59:14.63 ID:ELs3ohGk
武家というより歌人なのに
鬼武蔵の妹を嫁にしたらそりゃ合わない

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 13:04:13.02 ID:JURDapnT
むしろなぜこの時まで伏見城にいたのかが不思議なレベル

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 11:04:00.90 ID:3Q6lDSEc
木下勝俊はどう行動すればベストだったの?

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 13:19:11.12 ID:mJxQGt9i
小山評定ばりの演説で人心を統一して幽斎みたいに戦う

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 13:47:11.37 ID:5CwXbNVQ
なお帝よりの勅使は来ない模様

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 13:58:53.33 ID:ZRBXH1I0
待つなら待つで力尽くで追い出されるまで待ち続けるべきだったな

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 15:11:00.66 ID:QkepDTxJ
高野山に家出する

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 16:36:57.46 ID:0w7yHmTh
捨て駒みたいな勝俊がどう行動しようともしかたのないことでは・・・

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 20:45:33.52 ID:Zibgnl2J
秀秋のやりたかったこともよくわからないし

三成、加増を辞退する

2014年07月20日 19:02

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/19(土) 22:42:40.79 ID:fFPbldre
三成、加増を辞退する

小早川秀秋の転封が正式に決まった時期、石田三成の家臣宛ての書状。


『殿下は我らに筑前筑後を下さり、九州の物主にしてくださるとのご内意でしたが、
そんなことをしては佐和山に置ける人もなく、身近で用を申し付ける人も少なくなるので、
(さ候へハ、又さわ山にをかせられ候ハん人もなく、ここもとにて御用御申つけ候人もすくなく候間、)
我らはこのまま(佐和山)でいよとのことになりました。
江州(近江)のその方の知行や蔵入(代官領)が増えないとなれば
悔やむ気持ちもありますが(くやみ申し候間)、よくよく申し付けてください。
次に筑後筑前は蔵入になるので、その旨百姓に言い聞かせるよう。
また金吾殿は越州(越前)へお替りになり、従って我らが(筑前の)代官になるよう命じられました。
近々筑前に下ることになるのでその心得でいるようにし、
この由を妻と父へも伝えてください(此由内儀、おきとのへも可申候也)。

廿二日 三成(花押)』

(「慶長三年(1598年)五月 家臣・大音新介宛て書状」 宇津木文書)





金吾中納言の死

2014年01月19日 18:51

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 11:44:47.59 ID:LrY1r3fK
慶長7年10月18日、備前美作両国の領主である金吾中納言(小早川秀秋)が死んだ。

この人は、常に大酒をしていた故であろうか、狂気の人のような状態になって、侍数人を
故なく成敗したため、この10月の上旬には改易が行われるべき矢先に、このような事となった。

このため時の人々は、秀秋は自害だったのではないかと、下々まで疑った。

(当代記)

小早川秀秋が死ぬ直前に、改易されるという噂があったらしい、という話である。




340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 13:16:31.50 ID:3k3SFcgD
10月上旬過ぎてないか

宮川尚古による史料批判

2013年07月08日 19:51

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/08(月) 09:05:58.97 ID:LS+n4B6L
ある本によると、この日、石田・長束・大谷等が談合して、瀧川豊前・
矢田半右衛門に連判の誓書を持たせて、秀秋の陣所松尾山へと遣わし、
今日池尻口に於いて内府の先手を切り崩した経過を述べさせて、秀秋の
家老平岡石見守・稲葉佐渡守に忠義を勧めたと記されている。
その誓書に曰く

 一、秀頼公、十五歳に成られるまでは関白職を秀秋卿へ譲り渡すべき事。
 一、上方の御賄の為に播磨国一円を相渡すべく。もちろん筑前は前々の
   如くなるべき事。
 一、近江に於いて十万石宛、稲葉佐渡守、平岡石見守両人に、秀頼公から
   これを下されるべき事。
 一、当座の御音物の為に黄金三百枚づつ、稲葉・平岡にこれを下される
   べき事。
 右の条々、違変申すものに於いては(神文はこれを略す)
   九月十四日

                    安国寺 判
                    刑部少輔 判
                    治部少輔 判
                    大蔵大輔 判
                    摂津守 判
    秀秋卿

今これを吟味してみると、秀頼公十五歳までは秀秋卿に天下を譲るとある
べきなのに、関白職と書いているのは怪しい。

ただし石田・安国寺など天下を知る人は、その子孫まで関白であると心得て
このように書いたのであろうか、そうでなくては官職を知らない後世の偽書
であろう。

その上、瀧川豊前は阿野津の城番としてその頃には伊勢国に居たと聞く。
これでは矢田半右衛門とともにこの使者を勤められる筈がない。

それなのに古主である酒井讃岐守の選ばれレた始末記(關原始末記)にも、
この誓書が載せられ、矢田半右衛門が矢部善七と書かれている。

あれこれ疑わしいので本条を除いてここに記す。この書の実否を知る人が
居れば聞いてみたいものだ。

(關原軍記大成)

宮川尚古による >>16 に対する史料批判である


関連
慶長五年九月十四日、小早川秀秋への書状


慶長五年九月十四日、小早川秀秋への書状

2013年07月06日 19:59

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 21:34:25.50 ID:XNzMXJqJ
慶長5年9月14日、筑前中納言小早川秀秋は大軍を率いて松尾山に到着した。
脇坂中務、朽木河内守、小河左馬之助も秀秋に従って同所へと来た。

秀秋はかねてからの存念の通りに、徳川家康に反忠すべしとの内意であった。
そして脇坂、朽木、小河も、藤堂佐渡守(高虎)を頼み、東軍に味方する旨を
密かに申し出ていた。

石田三成達は秀秋の動向を心もとなく思ったのであろう、各々相談して、
滝川豊前、矢田半兵衛を使いとして、秀秋に四ヶ条の書状を遣わした。その内容は


一、秀頼公が15歳になられるまで、関白職、並びに天下は秀秋公へお譲り渡す事。
一、秀秋公が上方滞在のための賄いとして、播磨国をお渡しいたす事。
一、近江において、10万石を稲葉佐渡守に、同じく10万石を平岡石見守に(何れも秀秋重臣)
  秀頼公より下される事。
一、当座の音物として、金子300枚を稲葉に、同じく300枚を平岡に下される事。


この書状の最後に誓詞があり

『九月十四日   安国寺 形部少輔 治部少輔 大蔵 小西 秀家 』

と署名されていた。
(關原始末記)

小早川秀秋を何とか繋ぎとめようとした、三成たちが差し出した書状についての話である。





小早川秀秋が東軍に味方した始まりは

2013年06月20日 19:55

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/19(水) 23:52:42.26 ID:kailfFLM
小早川秀秋が東軍に味方した始まりは、黒田如水が近国の親しみがあったので
秀秋の家臣・平岡石見へ使者を遣わしてきた事にある。

如水は「秀秋卿がこの度内府へ御味方すれば、御家の為にしかるべしと存じます。
また、恩賞の御望みがあるならば御取り持ちいたします」と伝えてきた。

早速、平岡は稲葉内匠、杉原紀伊守へ内談した。何れも如水の申される通りが
しかるべしという事なので秀秋へ達したところ、彼もまた同意した。

そこで「仰せ下された通り内府公の御味方へ参ります。軍功があれば宇喜多の領国を
御恩賞に預かりたく思います」と返答して、内意を申し遣わしたのだという。

しかし、秀秋は大坂に上り、表向きは西軍に加わって大津城をも攻め落とした。
ところが、大老・奉行・その他諸将が大坂に集った時、この度の戦いが利運になって
恩賞がなされるであろう時の国々の割付などがあったのだが、秀秋は自分の名が欠けて
無かった事に怒り、いよいよ関東方となることを心中に思い極めたという。

けれども、秀秋はなお家臣の諌めをも問うたところ、一様に「東軍の御味方しかるべし」
と申し上げた。その時、秀秋は返答に及ばず座を立って入ったので、その内心は
関東方であるということを一同は察したということである。

さて、秀秋は関ヶ原へ出陣し松尾山に陣を据えた。その時に関東方の色を立て、
大谷吉継の備へ鉄砲を撃ちかけて切り崩し、徳川家康の御陣へ参り謁見した。

それから近江佐和山城を乗っ取るなどの功により、かねてより所望の意向にまかせて
備前国が与えられるという噂がなされ、これを聞いた秀秋は「宇喜多領すべてをとこそ
思ったのに、備前だけではきっと名島領と同じ知行高であろう!」と憤った。

これを聞いた家康は「若き人にはそういう思い違いもあるものだろう。
それならば美作を添えて両国を参らすとしよう」と、備前・美作を秀秋に与えた。

――『備前軍記』





黒田家側の記録に有る、小早川秀秋寝返り

2013年06月11日 19:51

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 05:46:05.21 ID:7kCSsO88
関ヶ原の決戦の前、黒田長政はつらつらと図りを巡らせ、筑前中納言小早川秀秋を味方とし、
東西両軍が乱戦の時に、敵の後ろである松尾山より兵を下ろし裏切りをさせれば、
即座に徳川家康の利運となると考えた。

秀秋の家老平岡石見は長政と内縁が有り、また平岡の家臣である井上越前は、長政の家老、
井上九郎右衛門の弟であったので、彼らを頼りに小早川方にこれを伝えよと、家臣である
大久保伊之助、神吉三八を派遣した所、小早川秀秋は「黒田殿の提案に同心する」との
返事をした。

大久保・神吉が帰ってこのことを伝えると、長政は大いに悦び、重ねて小早川の陣所に、
黒田方より人質として、吉田宮内、大久保伊之助を遣わした。
しかし、秀秋の同心が偽りであり、こちらからの人質たちを手籠めにすることも考えられると、
菅正利を指し添えて遣わした。

菅正利は小早川陣へ行き、そちらの諸将と軍の手立てについても談合し、互いの内通は相整い、
小早川方からの人質として平岡石見の弟を人質として連れ帰った。

この後、小早川秀秋の返り忠にて、終に徳川家康の勝利と成ったのである。
(菅氏世譜)

黒田家側の記録に有る、小早川秀秋寝返りについての逸話である





惺窩の至る時は

2013年03月14日 19:53

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 18:41:43.68 ID:wBgjFXlb
藤原惺窩は肥前名護屋におもむいた。この時に当たり、豊臣秀吉は朝鮮征伐のために
多くの諸侯を率いて名護屋にのぞみ、惺窩は徳川家康と初めてまみえた。

また、惺窩は小早川秀秋にまみえた。秀秋は横柄な性格であったが、惺窩の至る時は
すぐに粛然として容貌を改め、その性行もまた改まる所が多かったという。

――『先哲叢談』




716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 19:01:51.29 ID:JHc3bnDF
姜ハン「小早川秀秋は軽薄で感情の起伏が激しく
彼の兄たちち及ばない、て藤原惺窩が言ってた」

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 19:05:00.73 ID:M0Dg1XFw
儒者ってなんか胡散臭いんだよな

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 19:30:26.02 ID:kTs3CAEF
儒者と武将では、評価されるポイントが違うしなー

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 19:30:39.61 ID:j2KEsLF6
>>717
惺窩「明と朝鮮が結んで日本を征服してください」
姜沆「ごめん無理」

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 19:31:29.07 ID:x3T/dn3S
やめてやってくれ!金吾のHPはもう0よ!

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 21:29:57.00 ID:diDDQ7Wi
藤原惺窩には腐れ儒者という呼び名がしっくりくるね。
口先だけで何を成したというわけでもないくせに・・・

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 23:47:17.32 ID:P10mqItv
儒学者が何かを成すって難しくない?
坊主みたいに、どこかの大名の軍師になったり自らが大名になったりすれば別だけど

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 23:56:42.87 ID:EwcsPmRH
>>722
日本史全体で見ても新井白石くらいか

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:01:10.23 ID:3A123S6K
惺窩はフロイスの儒家バージョンだと思ってる

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 03:17:21.89 ID:j+l7ulXc
事を成す儒者と言えば、陽明学徒がいるかな。
ちなみに林羅山はご存知の通り陽明学は排除したけど、
藤原惺窩は陽明学評価してたんだよね。
そういえば日本陽明学の祖、中江藤樹はこのスレの時代範囲だな。
まだ逸話出てないみたいだが

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 06:38:16.33 ID:6XoWWJOb
口だけの腐れ儒者と違って知行合一の陽明学者

大塩平八郎こそ真の儒者

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 15:37:31.90 ID:6qoRUYQw
幕末は陽明学派が何気に多いからね

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 16:24:38.24 ID:j+l7ulXc
陽明学は儒学の旗を立ててはいるけど本質は禅だから、
もともと武士の道に近いんだよな
心即理というテーゼ自体が即心是仏、煩悩即菩提みたいで仏教ぽい

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 05:07:27.63 ID:2FTK6JYx
でも姜沆の記録を読む限り、惺窩は秀秋と付き合いがあったっぽいんだよね
「家康が秀吉の後を継いで朝鮮に出兵するらしいという噂があってさぁ…」
みたいな話を惺窩にしたって書いてあるし



金吾中納言殿は政所殿の姪

2013年01月31日 19:54

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 23:58:22.92 ID:xoPSghuK
金吾中納言殿は政所殿の姪(ママ)である。政所殿の御寵愛によって太閤は養子となされた。
始めは微々たるものだったが、筑前一国を与えられたので筑前中納言殿という。

治部の乱までは二心もなく、伏見城を攻落した。伏見城は鳥居彦右衛門が守っていたのを
金吾殿が攻落した。その時、金吾殿は抜群の賞禄があるだろうと思っていたが、

治部にそのつもりがないと見て心替わりし、関ヶ原で東照宮に属して治部を攻め滅ぼし、
その忠によって備前美作を宇喜多殿のごとく遣わされた。

――『老人雑話』




359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/31(木) 11:47:30.71 ID:pCXFRDOj
祭姪稿思い出したw

清正の思いもよらない挨拶

2012年10月13日 20:03

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 00:46:11.93 ID:5yVzBdzJ

織田信雄が京で猿楽を催した時、小早川秀秋ら諸大名が見物に行った。
この時、秀秋は十四、五歳であったが秀吉の猶子だったためにその従士までが
その威に誇り「金吾の御出ましだ!」とすぐに戸口に入っていったところ、

側にいた加藤清正の家臣十人ばかりが「何が金吾だ」と過言した。
怒った秀秋の近習は棒を取って三人まで打ち叩いた。これがきっかけで喧嘩となり、
秀秋の帰宅後、両家の士が伏見より馳せ来たり、互いに武装して警固した。

秀秋の老臣は「打たれた三人は清正が成敗するでしょう。ならばこちらの者も切腹
させなければなりません。先延ばしにして自害でもされたらそれこそ恥辱ですぞ」
と具申した。

「清正が何と言おうと元々彼の無礼により起こったことだ。我が家来が死ぬ必要は
ないだろう。お前たちの心配には及ばない」

秀秋はそのように言ったが、老臣たちは清正のような剛勇の士ならば必ず大事に
なると恐れ慄いた。また、打擲した者もすでに沐浴して礼服を身に着け、清正の使者が
来れば、すぐに自決しようと覚悟して待っていた。

間もなく清正自身がやって来た。秀秋はきっと争論になると思っていたが、思いの外
清正は温和な態度で「今日の家人の失礼を只今承り、遅参致しました。御近習の人々が
それがしの家人の無礼をもって斬り殺すべきところを、怒りをなだめられて打擲程度に
留めて下さったことは喜悦に堪えません。それがしも彼らを成敗しようと思いましたが、
それでは御近習も閉門になってしまうのではと思い、本国に帰して閉門を申しつけました。
どうぞ御近習を罰するようなことはなさらないで下さい」と、秀秋に詫びた。

秀秋は清正の思いもよらない挨拶に心も打ち解けて会釈すると、清正も大いに喜び、
「三里の道のりを急いで参りましたので喉が渇きました。御酒を一盃頂けませんか」と
言うので酒が用意された。また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言って
その席に招き、酒を酌み興を催して帰っていった。

――『名将言行録』




902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 00:55:46.91 ID:M/tDoDaQ
このとき仲が悪くなっていたら蔚山に援軍が来なかった可能性あるのかな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 01:25:27.23 ID:zTi6fMAs
>また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言ってその席に招き
下手人どもをその場に呼び出して成敗するはかりごとかと思った・・・
まあ、他家でしかも格上の郎党に手を出すわけないけどさ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 03:30:03.04 ID:2nQbfbWV
織田兵と喧嘩してやっつけちゃった人たちがいるじゃないか
まあ同盟の関係だけれど

秀秋の御裁許

2012年07月21日 20:51

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 16:26:22.75 ID:ijSPW+5s
関ヶ原の緒戦、伏見城攻めの時のことである。

筑前中納言小早川秀秋の家臣・比奈津角助は、籠城衆の松平五左衛門を突き伏せた。ところが
後から来た同僚である田島勘右衛門はこの角助に向かってこう言い放った

「角助よ、その頸の半分は俺のものだ!そう心得よ!」

角助が松平五左衛門を討つのに田島の手は一切借りていない。当然ながら彼はこれに納得せず

「なんだと!?お主に一体何の骨折りがあってそのようなことを言うのか!?」

これに田島
「お主は敵と槍を合わせていたが、未だ互角のうちに俺が馳せ来たため、敵は気が飲まれて引き色となり、
お主は勢いを得て能く敵を討ち取った。そういう事だったのにこれをお主一人の高名とするというのは、
全く思いもよらぬことである!」

角助はこの言葉に強く反発したが
「ここでなんのかのの言い合っても仕方がない!ご主君の御裁許を仰ごう!」

そうして二人は小早川秀秋の前に出て、その経緯を述べた所、秀秋は

「この事、田島の言う所に理がある。これはいわゆる相打ち(二人、もしくはそれ以上で一人敵を打ち取ること)と
定めるべし!」

と、下知をした。
角助はこれに全く納得できなかったが、主命であるので拒否することも出来ず、仕方なく訴訟を止めたと言うことである
(関原軍記大成)




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 17:46:03.60 ID:j4aRX38L
安心の金吾クオリティ…

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 18:26:57.28 ID:oWZljOMI
徳川の世では、松平氏を討ち取って加増されてたら
むしろ白い目で見られそうだ

「富士の道芝」

2012年07月05日 21:00

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 19:25:43.57 ID:gOW61cH5
徳川家康が大切にしていた駿馬がいたのだが、ある時、家康はその実力を試してやろうと
馬に重荷を負わせて富士山を登らせた。すると馬は少しも疲れる様子がなかったので、
家康はこの馬を「富士の道芝」と名付けて寵愛した。

しかし道芝はかなりの暴れ馬で誰も手懐けることができなかった。そこで金悟秀秋の旧臣で
精騎と名高い村上吉正を乗せてみると、難なく乗りこなしたので感じ入った家康は吉正に
道芝を預け飼わせた。家康は後に吉正が道芝を返した時、馬具を与えその労を賞したという。




270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 20:37:13.69 ID:/Uhh2VQQ
馬「人生は重き荷を負うて遠き道を駆けてゆくがごとし」

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 21:13:47.79 ID:S1vqZhYy
権現様は「実はワシなら乗りこなせるけど大将が駿馬に乗ってもしょうがないし」とか
もしくは「自分の馬術を過信して落馬するとか大将失格だよね」とか考えちゃうんだろうか?

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 21:37:52.51 ID:HMdk5ig+
権現様は基本的に合理的でドライな考え方だよね。

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 22:26:00.28 ID:C+cOl4Xe
>>269
金吾もな

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 22:30:57.69 ID:GviUIa8o
家康「どれ実力を試してやろう。よいしょっと。」

馬「鎧なしで人間ここまで重たくなれるものなのかとあのとき初めて思いました。」

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 23:07:05.63 ID:WP9uoxZZ
>>267
権現様のネーミングの割には普通じゃないか

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 23:29:01.60 ID:BfWlqBwk
>>275
あ、ほんとだ。しかも道芝って道案内の意味もあるんだ。
洒落てやがる・・・!?

277 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/06(金) 00:41:12.85 ID:1UViccHM
馬「クソ漏らすのだけは勘弁してくださいよ!!」

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/06(金) 02:23:29.80 ID:V6YLX5Kl
父アドマイヤフジ
母シーヴァ

馬主ふじのなんちゃら

よし、馬名決まったな!

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/06(金) 09:09:22.46 ID:sug5sgfj
そういや久能山東照宮に家康の愛馬の墓もあったな。
あれが道芝の墓だったのかな?

姜ハン「看羊録」より、小早川秀秋評

2012年06月19日 20:58

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 21:58:38.95 ID:TOaqXHhj
東洋文庫版 姜ハン「看羊録」p143
大体、その性格が軽薄で、感情の起伏が激しく、その兄たちに及ばぬこと甚だ遠い。
舜首座(藤原惺窩)は、以前、金吾に書を教えたことがあったので、その人となりを非常に詳しく知っている、
ということである。

関が原以前の秀秋についての評だけど、もともとこれならよけいに陰口叩かれてたかも
しかし、後世秀秋がいろいろおとされるのは肖像画のせいもあるきがする
TERUくらい威厳のある肖像画なら評価が高くなった可能性が




975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 22:00:22.85 ID:BpDD4Ukp
>>974
ぽやっとした坊ちゃん坊ちゃんしたのじゃなくて、それなりに武将っぽい肖像画も有った気がするが

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 22:05:11.84 ID:QNxDRloj
評価のあたりは記録に残り難いから難しいところはあるけど
松野重元が同時代人から忠義者と高く評されたことや小早川家の重臣が再仕官に時間がかかってるあたり
後ろ指を差される雰囲気はあったんじゃない?

裏切りの仕方はともかく数少ない豊臣家の血族だし加増された先が義兄の秀家の領地だしなあ

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 22:06:25.59 ID:P7Y0aDgd
>>974
つまり藤原惺窩のコメントがないとわからない

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 22:12:17.11 ID:TOaqXHhj
藤原惺窩のコメントが一行目だと思ったんだが
まあ親友の長嘯子先生と比べればたいていの若者がその評価になりそうだ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 22:15:51.46 ID:TOaqXHhj
訂正2行目

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/19(火) 02:19:56.46 ID:TGDRJFLC
姜も惺窩もコテコテの朱子学者だから同時代の評価とは言っても時代を先取り
というかむしろ後世の朱子学視点の評価の元になった可能性もあるよね
兄に劣るっちゅうても長兄の長嘯子は武将としては絵に描いたような無能やんけ、とか
惺窩の知ってる秀秋はそもそも何歳の時だ?とかそのままには受け取りにくい