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小早川隆景、城に入る

2015年04月09日 18:36

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/08(水) 21:45:32.14 ID:dF0Y/VTy
天文24年(1555)の厳島合戦。陶晴賢の本拠である岩国に集結した防長豊築四ヶ国の軍勢は、船数500艘にて
宇賀島を先手として厳島に押し渡った。

岩国勢は次第次第に渡海し、陶入道も塔ノ岡と云うところに陣取り、もしかすれば毛利勢の後ろ巻きも
あるだろうと、毛利方の籠もる宮尾城を昼夜の区別なく軍勢を立ち代わり立ち代わり攻め立てたため、
城中は水の手を掘り切られ難渋し、櫓の下にまで金掘を入れられ、もはや落城と思うこと度々であった。

この事が城中より毛利元就に注進されると、元就は廿日市という所に陣取っていたが、そこから
厳島の向かいである火立岩まで打ち出て、そこで様々に評定を行った。

この時、元就はその三男である小早川隆景を呼び出して命じた
「その方、どうにか謀って厳島の城に籠もり、城中の兵に、あと3日落城しないように
固く防ぐよう伝えるのだ。その3日のうちに、必ず後ろ巻をする。」

隆景はこれを聞くと、一言の異論もなく陣所に帰り、漁舟を準備させ、船に心得のある侍二人を
漁師、釣り人に変装させ、自分は船底に隠れ、数百艘の周防兵の船の間を、ゆるゆると魚を売りながら
通り過ぎ、磯近くになると、隆景も櫓を押して船を城の岸際に付けると、城内に駆け入った。

城内はこれに力を得て、喜ぶこと限りなかった。

(中国治乱記)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 04:43:07.38 ID:LrHymSvD
>>812
魚売りに来るとかよくある風景だったのかな

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 08:55:22.80 ID:1FdY/eOk
買う方は戦場に銭もってきてんのかなあ
死んだら全部とられるのによく分からん

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 09:28:18.74 ID:6urWHmJB
死に物狂いで戦って生き残ろう、あわよくば手柄も立てよう
その為にもまず旨いもん食って気合入れようって奴もいたんじゃね

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 10:23:33.66 ID:E2+xEx5L
陣借りつってな牢人が現地募集してるところに集まって銭と米を貰って参戦するんだわ
持ってないほうがおかしいぜ

あと銭米だけもらってトンズラしようとか馬鹿なことは考えるなよ
周りは人殺し連中だから卑怯者を殺すのに躊躇いはない

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 10:30:41.49 ID:E2+xEx5L
だいたい金庫なんてもんはねえんだ
留守中に誰が守ってくれるんよ
持っていくのが普通っしょ
女房ひとりなら強盗強姦されちゃって子が産れるってもんよ
だから秀吉に弟妹がいたってのはあり得る話

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 11:02:41.93 ID:XGMpCMnt
現代語訳雑兵物語みたいな

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 13:26:36.08 ID:98gd9DXO
この時代の商人は金儲けに命懸けてたって言うしな

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 19:46:09.00 ID:m2yjwN5M
人が集まれば商売ができるからな。
長陣の最中にはいろんな商人が出入りしてたみたいだし。
陣中で兵糧の代わりに銭を支給することもあったとか。

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 22:06:46.89 ID:xmXMS0v0
そういえば、小田原陣では私娼もだいぶ集まったらしいね

川角太閤記から、秀吉の中国大返しのとき

2015年01月30日 18:40

603 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 23:11:37.54 ID:Uq48cXXy
川角太閤記から、秀吉の中国大返しのときの逸話
秀吉は本能寺の変のことを毛利勢に隠して、霊社の起請文を取り交わし
「秀吉が上洛したとしても,裏切りの攻撃をしてはならない。
また、毛利家が引き退いたとしても、秀吉から約束を破ることはない」
という内容を約して、陣を引き上げた後のこと


毛利家には、上方に付けて置いた早打ちが四日の七つ下がり(午後四時過ぎ)に参着した。
「信長公が二日の卯の刻(御前六時頃)にご切腹いたしました。
(信長は)どうして遅々としているのか、と調べてみたら四条堀川の通りに鉄砲が厳しくなりました。
町人もどうしたことかとばかりに呆れ果てて、町々のくぎぬきを堅め一円に人を出さくなりました。
本能寺の事が終わり、明智殿の家臣溝尾少兵衛(溝尾茂朝)殿が、
『町々の者、静まりなされ。別の子細ではない。
惟任日向守殿が今日から天下殿におなりになったので、洛中の地子をお許しになられた。』
と、町々に触れまわっていました。それで明智殿の謀反と分かったのです。」
と申された。

それから吉川駿河守元春の陣屋へ、小早川左衛門尉隆景・宍戸備前守(宍戸元続)が寄り合って談合したことは、
「今日の誓紙は破っても苦しくありません。騙されたのです。」
ということであった。吉川駿河守は、
「このような時にこそ、馬を乗り殺すのです。早く早く。」
と勧めなさったという。

舎弟小早川左衛門尉隆景は、右のことには一言も言わず、しばらく考えて申出されたことは、
「元春の御考えは御尤もではございますけれども、昔より今に至るまでは何事につけても約束をするのは、
書物・誓紙を鏡として使うものであります。父である元就公が御死去のときにいたしましたときに、
『只今の輝元公を兄弟として取り立てよ』という誓紙を仰せ付けられました。
時日の下の判は元春公がなさいました。その次に私がいたしました。
さて、兄弟四人がそのようにいたし、元就公にお命があるうちにお目にかけましたことは、昨今のように覚えております。
その誓紙は元就公がいただき、一つは元就公のご遺言で、
『我が棺へ入れよ、一つは厳島の明神へ籠め奉れ。一通は輝元公へ上げ置き申すことにする。』とされました。
この二通は只今もご覧なさるがよい、条数の内に
『毛利家は、我死して後、天下のことは心に懸けてはならない。』と、一の筆に書かれてあります。」

「今日の御誓文を破られたならば、冥途におられる元就公の別意となる。
一つは厳島の明神の御罰、又は五常の礼儀の二つをも破ることに似ています。
羽柴筑前守が国元の播磨へ帰城されたとの知らせをお聞き届けになり、そのうえで御馬を出されてもよろしいでしょう。」
と語って、兄の元春へ異見を申された。
元春も隆景から道理で攻められ、生合点の形で納得申した。小早川はそれから自分の陣へ戻られました。

604 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 23:13:00.75 ID:Uq48cXXy
小早川隆景は、舎兄元春の陣屋へ目付けを出された。その目付けが帰ってきて、
「何か存じませんが、御馬屋の馬に鞍を置かせ、家中もまたその通りに見えます。宍戸備前守の陣も同じように見えます。」
と申し上げたところ、隆景は
「異見を申し上げて、すぐに座敷からたち戻ってきたので、それは御立腹もあるだろう。
それは兎も角もしかたない。是非に及ばない次第である。
しかしながら、誓紙をお破りになったことは、必ず一通でも使いを我らのところにお立てになってもよいはずだ。」
と仰られた。

小早川隆景は、陣中を静められるためであろうか、鵜飼新右衛門(鵜飼元辰)・井上又右衛門(井上春忠)の両人を召されて、
「役者のものを召し出せ。肴の台などはどんなものでもよい。鼓などを調べさせよ。早く早く。」
と仰せ付けられました。両人は、
「かしこまりました。」
と申し上げ、さっそく役者のものを召し出した。家中では、
「これはいかなることであろうか。信長公のご切腹を満足だとお考えになって、その祝であるのかと不審が晴れぬ。」
と、下々の者は取り沙汰していた。

役者のものが隆景の御前に伺候し、はや乱舞が始まるかとばかり見えましたところに、
(役者は)めでたいものか、また修羅などのようなものか、どちらを歌いだせばよいのか、心にあきれていた。
そこに鵜飼新右衛門がただちに心得の小謡を一番歌い出しまして、
「四海波静かにて、国も治まる時津風」
と申しました。さて、役者のものは、
「めでたい(ものを歌えばよいのか)」
と、心得の高砂などかれこれ五番(歌い)、その中には三輪がございました。
先の鵜飼新右衛門が次の間を立って見回しましたところ、座頭の破れ衣一つがあったのを、
おっとり(体に)打ちかけて、急なことでありますので、
鼻紙を裂いては木の切れ端に挟み付け御幣の気持ちで次の間から舞い出て、「三輪」を一番舞い納めました。
この新右衛門は何事につけても殊の外しおらしい人でありましたから、ご座敷のようすがよく伝わってきました。

羽柴筑前守殿は天下を取ってのち、隆景が乱舞で毛利の陣を静められたことをお聞きになりました。
鵜飼が小謡を初めに歌ったところから「三輪」を舞ったことまでも詳しくお聞きになったということが聞こえてきました。

上様より小早川左衛門尉に五十二万石を下されましたことは、
「備中の陣のとき、毛利家陣中を乱舞で鎮めたから。」
と、のちに確かに聞こえてきました。
小早川が大名になった子細は、この末尾で詳しく書きつけることにします。
まず、このように書きませんと末尾への過程が申し上げられませんので、まずまずこのようなことにいたします。

吉川陣・宍戸陣には、まず馬の腹帯を締めてひしめいていたが、
「小早川殿の陣では能が始まりました。」
と、とりどりに申しましたところ、
「それならば聞き届けよう。」
と言って、両陣より人を遣わして聞かせたところ、
「能でありましょうか、あるいは座敷の囃子でありましょうか、中の様子は見えませんが、乱舞であることは間違いない。
上下の者達がざわめきあっていると見えました。」
と、使いの者が帰って報告しました。
それで、吉川もさすがに進めることが出来ず、両陣は泣き寝入りすることになったということです。




尼子義久の降伏

2014年11月10日 18:56

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 00:36:56.01 ID:+UuGUWA/
毛利による尼子氏の本拠地月山富田城攻めは、永禄3年より始まり今永禄9年(1566年)に至って、
およそ7年の間続いていた。
その間、尼子方の城兵達は、あるいは討ち死にし、あるいは落ち失せ、あるいは降参したため、
今は僅かに300人ばかりが留まり残っているに過ぎなかった。その上兵糧も乏しく、
もはや落城も遠からじと風説されていた。

ところがこの5月の末、毛利元就が風気を患い、徐々に悪化して、様々に薬術を為してもその効なく、
病は日々重くなっていった。

そんなある夜、吉川元春小早川隆景の兄弟が全く同じ夢を見た。その内容は、
老翁が一人枕の上に立って

『今度の元就の煩いを治したいのなら、尼子の命を助けよ。
我は富田の八幡である。』

と宣ったのである。

この奇妙な出来事に元春・隆景兄弟は話し合い、元就の側まで行って相談した。
その結果

「先年、大樹義輝卿より、聖護院准后を以って、毛利・尼子和議すべしとの上命があった。
尼子はこれを了承したが、元就は八ヶ条の懸念があると上意を返されたが、その内容は
尤もなことであったので、義輝卿もこの件を一旦戻して扱われていた所、三好左京大夫義継、
松永右兵衛佐久通らが義輝を弑し奉るによりて、この和議については完全に停止した。

然れば今度、その旨を以って尼子の命を助け、下城させるべし。」

そう決定し聖護院准后道增の弟子である道澄に、元春・隆景はこの趣を言い含めた。
道澄は米原平内兵衛を以って、尼子方の立原源太兵衛尉に申し入れた

「先年、公方義輝卿が、毛利・尼子の和議を取り扱われましたが、尼子義久殿はこれを了承し、
誓詞の提出にまで及びました。その草案もここにあります。であれば、今この城を明け渡し、
諸士の一命を救われる事こそ然るべきと、義久殿に説得すべきである。」
そう詳しく説明した。

立原は帰ってこれを尼子義久に伝え、義久は家の子郎党を集め意見を聞いた。
各々はこう申し上げた
「当家は数年の籠城の間に、味方尽く敵に降り、残卒わずかに300ばかりになりました。
ではありますが、この城は無双の要害であり、今まで残り留まった者達は、義によって
身命を投げ出し、城に残った勇者たちですから、志を一つにして防ぎ戦えば、すぐに落城することは
無いでしょう。

ですが、兵糧は尽く尽きかけています。また諸方に後詰をしてくれる味方も有りません。
このような、行く末頼りない城にこもって餓死されるよりも、先ず一旦はこの和議を受け入れ、
時節をお待ちになるべきです。」

皆一同にこう諫詞したため、義久も同意し、その故を聖護院に返答したため、道澄もすぐにこれを
三家(毛利・吉川・小早川)に連絡した。
これによって永禄9年7月6日、尼子右衛門督義久、同九郎倫久、同八郎四郎秀久、
数代の居城を出て、毛利元就に降伏した。

元就は福原左近将監貞俊、口羽形部大輔通良が、二千余騎にて富田城を受け取った。
そして義久、倫久、秀久の兄弟3人は、侍7,8人を召して、元春。隆景の手のもの一千余騎が警護して
安芸国長田に送られ、そこで内藤下総守が請け取って、同所圓明寺という禅院に押し込め置かれた。
彼らの警護は念を入れられ、二重三重に柵をめぐらし、この他に元就からは桂少輔五郎、元春より
二宮木工助、隆景よりは宗近加賀守が付け置かれた。

(芸侯三家誌)

尼子の降伏に関する逸話である。




小早川隆景の宮島渡海

2014年10月09日 18:52

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/09(木) 13:23:18.72 ID:m0ZnlYZL
小早川隆景の宮島渡海

弘治元年(1555年)9月30日、毛利元就はこの日の夜に宮島へ渡海し、翌10月1日卯の刻(午前6時ころ)
一戦と定め、「諸軍士ことごとく元就の本陣へ馳せ来たれ」と、触れを出した。
その夜は突然の暴風雨にみまわれ、水夫も将士も船を出すのを躊躇う所であったが、元就はこれを
周の武王の殷討伐、源義経の屋島攻めをに準え(どちらも大風・雷雨の中敵を撃破している)兵を鼓舞。
悪天候の中見事に宮島へ渡海を果たす。

この時の元就3男、小早川隆景の宮島渡海の様子はまとめに既出のこの話

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3987.html

で、そのまま宮尾城に居残った説と、もう一つのエピソードが菊池寛の厳島合戦、また地元の話に伝わっている。

それによると、小早川隆景は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵軍の船の真っ只中を
正面から進み、敵軍に見咎められると

( ゚Д゚)「誰だ!?」
( ´∀`)「これは筑前の宗像秋月の船で、御味方にまいったものです。」
( ゚Д゚)「よし、通れ!」
(*´∀`)「ちょっと通りますね。」

と、そのまま敵の本陣がある塔の岡に上陸するとその塔の岡の坂下に陣を敷き、翌朝の元就率いる第一軍
と、毛利方の宮尾城に篭る兵と陶軍を挟撃する第二軍を率いる用意をしたという。



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/10(金) 08:09:17.28 ID:U100Efv5
合い言葉はどうしたんだw

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/10(金) 10:24:27.83 ID:HogXw4s9
>>25
陰徳太平記では出兵前に元就が自軍の合言葉と併せて陶軍の合言葉を集まった将士に伝えてる記述がある
ただし、陰徳太平記では隆景渡海の逸話は載ってなかったと思う。
暴風雨の中だったってんだから、兵が面倒くさがったか油断してたんかもね


小早川隆景、新城を血に染める

2014年06月23日 18:54

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 00:21:46.22 ID:IN14G2Ii
小早川隆景、新城を血に染める

発生時期や誅された人物がちとハッキリしない逸話ですが、小早川隆景にまつわる悪い話

元亀元年(1570年、ただし1590-92年の天正年間説もあります。)
小早川隆景は新高山城に変わる新たな居城、三原城の完成に伴い新城の完成を祝う祝宴を三原城で開催。
その宴に呼ばれた者の中に、1人の偉丈夫の姿があった。備後本郷城の城主、古志清左衛門豊長(元綱とも)
身の丈六尺三寸、大力にして驍勇無双といわれた豪の者である。
出雲佐々木氏を先祖とした古志一族の者であり、尼子攻めや隆景の宇和島攻めにも参加し活躍した(殺害が天正説の場合)という。
ある戦で味方が危ういと見るや、槍を取って大音声を上げ、瞬時に敵数人を突き倒して形勢を逆転させる程の武勇の持ち主である。

この三原城の宴の直前、彼の武勇を妬んで主君・隆景に古志豊長が敵方に通じていると讒訴する者があった。
隆景はこれを信じ、家臣に古志豊長を殺害するよう命じた。

酒宴もたけなわの頃、酔って寝てしまった豊長の首を、隆景に命じられた家臣が太刀で斬って落とす。
すると、胴を離れた豊長の首は目をかっと見開き血を吹きながら転がり、首を失った胴体は刀を抜いて
立ち上がり、数歩歩んでからその場に倒れた。

豊長の家臣達も1人を残して皆討ち取られ、唯1人生き残った井上大炊介という家臣がこの血の宴を脱出して
本郷城に急を知らせた。城に居た15歳になる豊長の嫡子は直ちに三原城へ赴き、隆景と対面して父の遺骸を受け取ると、
自らの城下に持ち帰り葬った。だが、その墓前で念仏を上げていたところを追っ手に討たれ、古志氏は断絶したという。
この無残な出来事を知った領民達は、口々に小早川の繁栄も長くはあるまいと噂したと言う。

(水野記、広島県史など)

なお、資料によっては古志氏はこの後も名を和田と変え、毛利家の家臣として存続したが、関ヶ原の戦後、毛利家の転封に
付いて行かず、武士としての歴史を終えたとも言われている。




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 10:46:24.93 ID:VmKU1xPn
前期なら讒言に惑わされる普通の人
後期なら養子のために御しえない人物を粛清しただけ
と思ったけど、“小早川秀秋”が誕生するのは文禄3年か

571 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/06/23(月) 11:44:40.79 ID:NFDW0WCH
他にも1572年に古志豊長と不仲の鷲尾山城の杉原氏が戦って小早川隆景の調停で仲直りしたと言う記録も有るし、
天正期には小早川隆景の国人衆に対する国替えに反発して秀吉に直訴しようとした古志豊長(元綱)が誅されたって資料も有ったり、天正20年8月の古志豊長の墓?も有ったりで色々と訳ワカメ
まぁ、逸話スレなので史実うんぬんはとりあえず置いときますかね。

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 13:18:03.78 ID:+4C+UDH6
備後の国人がどこと手を結び謀反を起こそうとするんですかw
元亀の線はないと思う

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 20:29:30.75 ID:lYZpV49i
出雲佐々木氏ってことは尼子と同族なんじゃない?
尼子の残党とか?

チヌの池由来

2014年05月22日 18:51

348 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/22(木) 17:54:20.18 ID:gST4JFnT
天正13年、豊臣秀吉による四国攻めにより、小早川隆景が伊予に攻め入ってきた。

小早川勢に対し金子備前守元宅は、金子城を弟の金子対馬守元春に任せ、自身は軍勢の指揮のため高尾城に入ることにした。
この金子城でのお話。
金子城に籠城した金子対馬守の守りは固く、流石の小早川勢も攻めあぐね、ついに小早川から使者がやってきた。
使者は
「これ以上の戦いは無益です。わが殿も対馬守殿の武勇に感じ入り、決して悪いようには致さぬと申しております。どうか開城していただけませんか?」
と降参を勧めるが、対馬守はとうとう聞き入れることは無かった。
しかし対馬守は、金子城の飲料水としていた大きな池から鯉を釣り、使者へふるまい礼を尽くしてくれた使者へのせめてもの返礼とした。

こうして金子城は最後まで頑強に抵抗したが、衆寡は敵せず落城し、金子対馬守も討死した。傷ついた金子城の兵は最期に水を求め、
多くの者が池のほとりで力尽き死んでいったという。
地元の者は、この池を血塗の池、血の池と呼ぶようになり、転じてチヌの池と呼ぶようになった。

後世に金子城の武勇を伝えていたチヌの池は、明治のころに鉄道の工事のために埋め立てられ、今は無い。




350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 19:25:20.03 ID:b+DpLnDl
>>348
金子元宅は知る人ぞ知る四国の名将ですね
関連逸話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=3456&cr=1d2b913fbdc27e85ff0b0e29ced99dac

黒田家譜、小早川隆景の死を悼む

2014年01月10日 18:54

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 20:37:49.25 ID:3tYSG7jw
小早川隆景は、明日成すべき事は、必ず先ず今日の内にそのことを思案し、様々に想定して、
あらかじめ自分の行動を定めておけば、その時になって慌てることなく、粗略になることはないと
言われていた。これは古語に言う、『事前に定まれば躓かず、事前に定まれば困らない』と
同じ意味であろう。

この隆景という人は普段から虚言を言わず、少しのことであっても人と約束したことは
決して違えなかったため、人々は彼をただの人ではないと考えた。

備後の三原に隠居した後は、慶長元年に足利学校の玄修軒を招き、学問所を建設し孔子の像を安置し、
若者たちに学問を進めさせた。

ある時、緊急のことがあって、右筆に物を書かせたのだが、この時「急用のことである。
慌てず静かに書くべし」と言われた。

隆景はその気質、穏やかで静かであり、才知を外に輝かせるような事はしなかった。そのため
彼を知らない人には、最初に合うと心の鈍い、愚かな人のように映ったのだという。
古語に『大智は愚なるが如し』というが、これはこのことであろう。
また天性、智慮深密にして沈静温厚であった。

小早川隆景が亡くなった後、ある時安国寺恵瓊が、黒田如水の元に来て物語したことがあった。
このとき如水はこう言った。

「隆景殿が亡くなって、日本では賢人が絶えてしまった。この人の存在は毛利家にとって、
船にとっての船頭であった。彼によって中国はよく治められていた故に、亡くなられたと雖も、
今も生前と変わらないのは、ひとえに隆景殿の力の残りである。
例えば船を漕いでいて、にわかに船を止めたとしても、それ以前に艪によって作られた推進力が残っていて、
五間十間はその船は先に進む。これと同じことである。

毛利輝元殿も、隆景殿の遺産によって、今までは見事に見える。しかし今後は、輝元殿自身の思案が
大事になるだろう。」

小早川隆景には、普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。どのため、一巻も今に残っていない。

(黒田家譜)

殆ど聖賢小早川隆景伝と化した、黒田家譜の、隆景の死を悼む一節である。




51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 21:16:33.73 ID:GtHaNkcS
恵瓊とは仲が良かったんだろうか?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 23:37:34.60 ID:954hZ8z0
テルかわいそうだよテル

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 00:59:05.06 ID:iGZ+576x
>普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。

なんて勿体ないことを・・・後世の人のために残しといてくれりゃいいのに

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 08:32:56.58 ID:E1IeR+Pa
書など役に立たない、自分で考えることが大事とか思ってたんじゃね
実際そういうことあるしなw
万巻の書を読み尽くしてきたじっさまが賢人かというとめんどくせーだけの奴だったりしてw

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 10:31:08.13 ID:GlnBMz9t
テルはなんであそこで石田についたんだろ?あの段階でやっても負けるだろうに。秀頼の成人とタヌキが死ぬの待っていればもう一波乱あったのに

56 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/10(金) 10:48:18.57 ID:9+URQCys
波乱を望むテル→甦る鉄拳の記憶→仁愛精神→日本全体の安定をとる

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 11:39:14.47 ID:5wHJfV0W
>>55
そういう見通しが利かず、西軍についても結局積極的なのか寝返るのか
どっちつかずの中途半端な行動で終わるのがテルクオリティ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 12:55:04.68 ID:9gOATlvr
テルが石田に担ぎ出されたんじゃなくて
テルが石田をそそのかして、敗戦濃厚となるや石田や安国寺に全責任押し付けた、
ならむしろよく逃げたもんだと

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 13:06:21.19 ID:ykVO0jjq
お弁当に釣られたんだよ

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 13:40:39.32 ID:jRM3ntvJ
ウチなら味噌汁付けますw

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 14:04:55.09 ID:qNsCaAQ1
関ヶ原が終わったあと防長二カ国に減封されたし、家康はテルの野望と積極的な動きはちゃんと見抜いてたね

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/10(金) 15:13:54.86 ID:Fuuj+/DJ
石田と大谷が蜂起する風聞が立ってたので、大坂の三奉行と淀殿の連名で徳川(とテル)に鎮圧命令が出されてたんだわ
それで本当に蜂起したとき、会津へ向かってる暗黒寺が近江あたりで勝手に引き返してテルを二重召還した
こういう事情でテルはすごい速さで大坂入りした有能な人物のようになった
さらにあろう事か三奉行が石田に説得され公式戦争と化し、テルも聞いてるうちにもっともな気がしてきたので大将に収まったようだ

小早川隆景「分別の肝要は」

2014年01月09日 18:55

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 19:59:01.84 ID:rdOem/Co
ある時、黒田長政小早川隆景に尋ねたことがあった
「分別というものは、どのようにすればよいのでしょうか?」

隆景は答えて
「それは仔細もありません。ただ、久しく思案して、遅く決断するのが良いのです。」

長政はまた質問した
「分別するにおいて、肝要なことはあるのでしょうか?」

隆景は答えた
「あります。分別の肝要は『仁愛』です。どんな事であっても決断するときに、あわれみの心をその基礎において分別すれば、
その思慮に理屈に合わないところがあったとしても、最も良い判断から遠く離れることはありません。

逆に、仁愛のない分別は、才覚がどれだけ巧みであったとしても、みな道理に合わない間違いである。そのように
知られるべきです。」

(黒田家譜)

小早川隆景の考える、決断に必要なことである。




41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 21:38:02.33 ID:nBPO5RDF
もはや聖書の一節と化してる

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 21:44:01.61 ID:AXECxBXf
論語にありそうな問答だよな

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 22:30:32.10 ID:gy+T4pSw
?「叔父上に仁愛なんて無いだろ」

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 00:11:32.93 ID:8qqHtktQ
隆景「まだ殴られ足り無いようだなTERU」

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 01:00:37.04 ID:H1szDz4j
馬鹿を折檻した後には鮭弁当でもいかがですか?

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 02:45:38.01 ID:HtPcuGZB
デカくなった家を纏める立派な当主となるべく鉄拳制裁も辞さない教育というのも、纏めきれずに潰れたら腹切るか、一族郎党路頭に迷うことになるからそれはそれで仁愛だからね、仕方ないね

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 13:22:00.35 ID:y4Sym+yU
絶対親父に聞けない質問....

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 18:26:43.94 ID:H1szDz4j
両川、雷神様、小十郎さん、ほかに戦国の教師はおったっけ?

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 18:40:47.25 ID:TKWnZxej
小田氏治・大友義鎮・畠山義継・一条兼定

小早川隆景「私が普段から気遣っているのは」

2014年01月05日 19:02

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/04(土) 20:14:39.46 ID:Y1UECYAQ
小早川隆景が金吾殿(秀秋)をその養子としたことを、安国寺恵瓊は聞きつけると隆景の元へと行き、
このように言った

「御養子の事が、貴公の御依頼のまま相済んだとの事、千秋萬歳、めでたく思います。
ですが、これは貴公御一代の誤りであります。
何故なら、御養子を取るのなら多く有る毛利の御一族の中から何れでも、国を治められる器量の人を
お見立てになって、これを養子とすれば、世の末まで筑前は中国と同じく毛利家の御分国となったのに、
他人である金吾殿を養子とし御国を譲るというのは、筑前国を人に差上げたのと同じことです。

貴公のことを、上様(秀吉)は別して御愛敬なされていますから、今新たに1ヶ国取るということも、
出来ない話ではないと思うのです。そのようにしてこそ、毛利家の勢力もいよいよ広くなるではありませんか。
だからこそ、私はこれは、大いなる思案違いだと考えるのです。」

隆景はこれを聞くと
「西堂(恵瓊)はそのように思われるか。それは私の考えとは間逆である。

私が普段から気遣っているのは、毛利家の分国は8ヶ国であり、その上私が筑前を拝領し、
おおよそ9ヶ国となった。毛利家には、国が甚だしく多すぎると言うことだ。これは却って、毛利家の禍と
なるのではないか?私はこのことだけは、大変心もとなく思っているのだ。

であるからこそ、我が国を毛利の子孫に譲らず、金吾に譲るのだ。
国を取るにも、種がなければ取れぬものだ。
私には今、その種は見つけられない。であれば、何を種として国を望むべきであろうか?
種無くして欲が深ければ身の災いとなるだろう。

私はもはや年寄りであるから、間もなくこの身も終わるだろう。私が死んだ後の毛利家が目に見えるようだ。
元清(穂井田元清:元就四男)が長命であれば、長久の謀もあるのだが、彼も病身であればあまり
頼ることは出来ない。相かまえて、種もなく国を望む野心を持ってはならない。」

恵瓊はこの道理に屈し
「短才なることを申しだしてしまい、面目を失いました。ですが後学のため、良きことを承りました。」
そう言って帰った。

しかしその後、恵瓊は隆景の戒めを忘れ、石田三成の乱に与し、輝元にこれを進めたため終には
その身を滅ぼし、輝元の分国を多く失う結果となったのである。

(黒田家譜)

「種」とは根拠や名分の事であろう。小早川隆景が、筑前を秀秋に譲る理由、である。




205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 00:17:35.54 ID:2DDxJeIU
黒田家譜の隆景信仰は突き抜けてるなー

西国において第一の弓取りは、

2013年12月17日 19:00

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/16(月) 22:57:22.12 ID:J+RKylM+
天正18年(1590)、小田原の役の時の事

豊臣秀吉は大軍で日々小田原城を攻めたが落城させることが出来ず、無為に日々を多く送ったため、
諸軍の士卒も長陣に退屈しているように見えた。
ここで秀吉は、この時尾張清須に居た小早川隆景を呼び出し、はかりごとを協議した。
隆景は秀吉の諮問に答えて

「この度の長陣は、損害なく勝利するための基礎でありますから、現在の方針をより一層進めるべきで
あります。すなわちこの先は城攻めも止め、弓鉄砲も留められ、仕寄等の設備を入念に構築し、敵が
夜討などを出来なくするよう、用心堅固に仰せ付けられ、若き者には音楽をさせ、下々には小唄を
歌わせ、踊りを踊らせ、味方の気をくつろがせ、長陣の覚悟をさせ、敵の気が先に屈するようにする。
これが宜しいかと思います。」

秀吉はその旨に従い、全軍にこれを下知した。すると味方の諸軍は戦をやめて、至る所の陣所で
謡舞囃子の音、踊りの声が頻繁に聞こえるようになった。これにて味方は長陣の窮屈を忘れたのである。
そして敵の小田原城は、これを聞いて気を屈し、力が弱まった。

その後、黒田如水小早川隆景は敵の気が屈した時節を考え、
「今ははや良き時分です。徳川家康は東国の案内者であり、特に北条とは縁者です。
ですので、家康とご相談をし、和議を提示すれば、北条は城中で気を屈している時節ですので、
必ずこれに同意するでしょう。」
と申し上げた。

秀吉も、いかにもその通りだと思い、北条氏直は家康の婿であるので、北条を降参させるため、
秀吉より家康との相談のため、黒田如水に家康への使いの命令が度々出された。

ある時、如水が秀吉の使いを勤めて家康の御前を立ち去った後、家康は如水のことを
「西国において第一の弓取りは、黒田勘解由(如水)である。」
と賞賛したそうである。

この頃、黒田如水は秀吉の用の無い時も、しげしげと家康のもとに通い物語などをした。
これにより如水は、家康に君徳の有ることを知り、志を通じるように成ったという。

(黒田家譜)





39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/16(月) 23:51:07.49 ID:+KA80BZf
ああ、今度の大河の(戦は嫌でございます系)の最大の見せ場w

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 00:40:58.96 ID:IeyAYl0G
隆景(清洲)→わざわざ小田原に呼んで直接相談
家康(在陣)→黒田を挟んで間接的に相談

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 00:58:03.67 ID:mbHB+0I8
格の違いですね

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 01:00:29.33 ID:v4Tv2YWu
なんで黒田家譜が隆景もちあげてんの?

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 07:27:05.43 ID:vUOMnSW5
>>39
文禄の役で帰国→秀吉激怒を超解釈で最大の見せ場にすると思う。

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 08:09:16.82 ID:tTUDACCk
>>42
隆景>如水だから
黒田家譜での如水の活躍の大半は隆景の活躍をパクっていると思われ

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 10:01:55.21 ID:88MG7KL0
>>39
例の名場面も、お前の左手は何をしていた(なぜ無益な戦を止めるよう諫言しなかったのだ)ってことになりそうな

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/18(水) 02:59:16.12 ID:h/iLx846
>>42
如水と隆景は良い関係だったみたいだし、小早川家は断絶してるから持ち上げても問題ないからじゃねーの

しかし小西は同心せず

2013年12月16日 19:18

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:05:50.04 ID:6v77XdVE
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は朝鮮へと出兵し緒戦に大勝、たちまちの内に首都漢城(ソウル)を陥落させ、朝鮮を蹂躙した。

その後、総大将である宇喜多秀家より、相談すべきことがあるので諸将に漢城に集まるよう触れがあり、
尽く集合すると、大将秀家及び三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)から評議の内容が伝えられた、曰く
「各々の手柄に寄って各地の城も既に陥落し、その他の朝鮮人は戦わずして退散した。
しかしながら、朝鮮は元々大明の属国である。必ず大明より加勢が出されるだろう。
その上、朝鮮が既に敗北したと聞けば、大明も日本兵が侵入すると思い、必ず戦のための
大軍を差し寄越すだろう。この場合、これと戦う手立てはどのようにすべきと各々はお考えか?」

黒田如水はその座に居たが、これを聞いて
「仰せの如く、朝鮮が敗北したことを知れば、必ず大明より救援の兵が多く来るでしょう。
この都(漢城)より釜山海までは十余日ある長路であり、日本までの通路は遠く、物資の運送は不自由ですが、
朝鮮を切り従える中心でありますから、これを放棄して釜山まで後退するのは本意無きものであります。

そこで、秀家殿並びに諸将は諸大将はこの都に居て、ここを根城として都から大明の方へ1日路程の所に、
取出しの城を数ヶ所構えて諸将をこれに籠め置き、大明の兵が攻めきたれば、どこの城であっても都より
助勢の兵を出し、後詰をして勝負を決せられる事こそ然るべきと考えます。
都から数日も進みすぎて遠くに城を構え敵を防ごうとすれば、大明より敵が大軍で来る時、都からの
援軍を遣わすことが難しくなる。」

そう申し上げた所、小西摂津守行長が進み出て
「これほどに朝鮮人を大勢討ち殺し、敵が恐れて逃げ去っている以上、もはや朝鮮人は出て戦う事は
無いでしょう。もし朝鮮王が大明の王を頼み加勢を乞うたとしても、大明の王が数万人の命を朝鮮王に
与えて、加勢するような事が有るはずがありません。特に大明と朝鮮の境には、鴨緑江という音に聞こえた
大河があります。その河を大明より大勢の人馬兵糧諸道具を渡らせてこちらに来るというのは
成り難いことです。
各々は何れなりとも、好きな所に城を構えて下さい。この行長は出来る限り大明の近くまで押し行って、
城を攻め落としそこに籠もるつもりです。」

これに、如水は重ねて言った
「この都より程遠い所に居城を構えた場合、大明人が大軍で押し寄せ四方を取り囲み堅固に向城を付けられ、
後詰の来るべき道筋まで塞がれてしまえば、我々の5万7万程度の人数では簡単に対峙できるものではない。
その上、にわかの時に都から急に助ける事は出来なくなる。その時になって後悔してももはや意味が無いのだ。

世俗の諺にも、用心をば臆病にせよというではないか。どうか都の近くまで引取り居城を構えられよ!
もし出過ぎた所に居城して敵の大軍が防ぎ難く、その勢の強きを見て引き退くなど、見苦しいではないか。
第一それは味方を弱気にし、日本の恥辱でも有る。進み過ぎては後難有るべし。軍法を確かにして、後悔なきよう
すべきである!」

小早川隆景もこれを聞いて
「如水殿の仰られる趣は尤も至極である。都より遠くに出て城を構えることには、後の禍があろう。
そもそも大明より大勢を指し寄越す場合、南部は海が近いのだから兵糧運送の便がある。
それに鴨緑江大河であると言っても、船で渡れば何の苦労もない。
しかしながら大明からはるばる大軍を差し寄越すのは大儀なことであるから、にわかに来ることはないだろう。
その間に各城を堅固に改修しておく事こそ肝要である。」

しかし小西は同心せず、
「深く大明の境まで入って、大明の兵が出たとしても恐るるに足らず!我一手にて大明に切り入るべし!
諸大将にはその後詰をお願いしよう。」
そのように言うのを、皆が固く止めたため、小西一手で大明に攻め入る事だけは制止された。

それでも小西は黒田如水小早川隆景の諌めを聞かず、みだりに深入りを好み、平壤の城が大明の
手前であるので、これを居城とした。
そもそも小西行長は初めに、日本から朝鮮に入るときも荒き風波をしのぎただ一人抜け駆けして渡海し、
今度もまた都から遠い場所に一人進み過ぎて深入りし、大明から大軍が来るという心配もせず、敵を侮り
危ない働きを好んだ。
果たして翌年の春、大明より襲来した大軍に囲まれた時、都より遠いため援軍が来ることが出来ず、
小西はついに敗北したのだ。如水がかねて未然をはかり、諌めたことは寸分も違わなかったのである。

(黒田家譜)





22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:20:52.14 ID:GJIKTHlk
全部小西のせいっ…死人に口なしか

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:22:18.22 ID:3fZNZU+1
きたないさすがくろだきたない

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:25:23.30 ID:bt7SM/Du
ひでえもんだ

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:49:50.05 ID:YTkDsab0
小早川は同意見だったとわざわざ書くあたり、この時代になっても隆景の評判=絶対に間違わない、がゆるいでないことがわかるね

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 21:04:23.19 ID:dHSTEyhL
長政「ヒャッハー!俺は小西についていくぜー!」

つか如水は漢城遠征組には従軍してないだろ。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 23:17:31.50 ID:z4Z0jwjU
大河ではどう描くんだろうなあ
軽く触れて終わりか、スルーしちまうのかな?

毛利元就は臨終に際して

2013年12月07日 18:45

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/07(土) 18:41:22.77 ID:0O8Fu+zT
毛利元就は臨終に際してまだ大勢の子供達がいたので暇を乞わせ残さず呼び集めた。
そして子供の数ほどの矢を取り寄せると子供達にこう遺言した。
「矢は一本ずつ折れば問題なく簡単に折れるものです。
しかし、この矢を一つに束ねて折ればたとえ細い物でも折れなくなります。
各自、同じ思いで親の私の言うことをよく聞かなければなりません。」

そこで控えていた小早川隆景はこう付け加えた。
「兄弟が不和になるのは何事もみな欲から発生する問題ですから、欲を捨て義をしっかりと守り通せば
兄弟の仲が悪くなることはあるわけがないのです。」

これに元就は大いに感心して「各自、隆景が今言ったことに従うように。」
と子供達に言い聞かせたという。

――『前橋旧蔵聞書』




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/08(日) 00:17:04.98 ID:wy0vCWBF
>>839
つまり正室3兄弟除いた子供達への遺言だったと。

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/08(日) 00:44:24.12 ID:ptEJlXdJ
こうして性欲を捨てた隆景は子が生まれなくなり
ラスボスへの義を通すため養子を迎えざるを得なくなったのであった

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/08(日) 06:37:35.11 ID:7illiONF
あれは兄者が醜女を妻としたので美姫を妻とするわけにもいかず
かといってB専でもなかったので兄者を憚って生涯独身でいたのさ
いい話だろ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/08(日) 07:45:38.56 ID:xyuFaRbk
>>841
いつものアンチ乙

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/08(日) 10:03:16.43 ID:dObSBKEe
>>842
ちゃんと嫁さんいるだろ。小早川の分家に婿養子で入ったんだから。
義理の兄貴は盲目だから出家して、本家の跡取りは第1次月山富田城で戦死したってことで、小早川本家を「運良く」相続したけど。

ところで、この逸話の突っ込みどころは吉川元春は月山富田城包囲戦から帰ってきてないだろ、ってところだな。
その点、>>840の解釈は正しいのではないかと。

肥後国人一揆始末

2013年11月29日 18:52

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 19:42:16.73 ID:KgkoP3EX
天正15年(1587)、肥後国人一揆が勃発する

肥後の国主であった佐々成政は元来勇将なのだが、国中で蜂起した敵があまりに大勢であるので防ぎかね、
隣国の加勢を受けてようやく敵を鎮めることが出来た。

小早川隆景、黒田官兵衛などは豊臣秀吉の命を受け、肥後で反逆した国人たちを、
柳川・小倉の両所に預け置いて、『反逆した理由はなにか?』と糾明させた。

国人たちは皆、このように答えた

「我々は、天下に対して叛こうなど考えもしていません。ただ、国主である佐々成政の仕置が
あまりに非道なものであったため、それに対して叛逆をしたのです。」

この内容を隆景・官兵衛は報告した。
秀吉はこれを聞いて、どう考えたのであろうか、肥後の乱を起こした国人たちを尽く殺させた。

肥後国はこれ以降、平穏となった。

(黒田家譜)




912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:13:33.92 ID:7m2D2NNc
黒田さんとこも城井と呼応する勢力出てきたらヤバかったよね。

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:20:39.80 ID:F23O/WeV
まあ成政がどうこうじゃなくて、豊臣政権が征伐した国って大軍が去った後は
土豪の一揆が発生しやすいからなぁ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:21:08.35 ID:FrPYCRZ1
その国主を任命したのは誰かって話だしそんな論法が通るなら何度でも反逆できるものな
他国で詮議を受けたことでちょっと期待しちゃったのかもしれないが

小早川隆景、筑前高祖城攻め

2013年11月17日 19:25

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 16:49:15.19 ID:S/k83Ahu
天正14年(1586)12月、豊臣秀吉の九州役の中でのこと。

原田五郎右衛門尉信種は、筑前国怡土郡、高祖城の城主であったが、豊臣秀吉に従わなかった。

ために小早川隆景はこれを討つためその兵を出撃させ、高祖城へと向かった。
この時黒田官兵衛よりも、その家臣、久野四郎兵衛などが目付けとして派遣された。

原田は田舎侍であり、近隣の城持ちとの小競り合いで度々勝利したことを自慢し、
人数千、二千を大軍だと思い、豊臣秀吉の武威の盛んなるを知らなかった。

また上方の軍勢など、例え大軍であっても公家や長袖(僧侶)のような物であり、何ほどのこともないと
侮って、敵の来る前に、高祖城の前方にある大門河原にでて勢揃いをさせた。
その有り様といえば、ちぎれた鎧を着て、縄の手綱を付けた馬に乗る侍が数十騎も居ないような
ものであった。

そんな彼らが、上方勢の来るのを待ち構えていたが、寄せ手の兵は早良郡より日向山を越えて
高祖城を目指して押しかけてくる。

原田はこの軍勢を見て、思った以上の大軍であったため、これと対決するのは難しいと思い、
先ずは籠城して、薩摩からの後詰めが来るのを待とうと、軍勢を城内に入らせた。

このようにして、小早川隆景の軍勢は抵抗もなく高祖城の城下まで押し寄せたが、
鴾毛の馬に乗った武者が、城下に一番乗りをした。小早川隆景がはるかにこれを見て、
「あれは誰か」と問うと、黒田官兵衛の家臣が、「あれは久野四郎兵衛です」と答えた。

この様に城下に小早川の兵が押し寄せる中、原田五郎右衛門尉は本丸の上から
東の方を見渡すと、敵はなおも押し寄せると見え、博多の西、早良郡より城の麓まで
3,4里の間を大勢が続き、旗、指物、馬物の具をきらめかせて、隙間なく行軍していた。

原田はこれに肝をつぶし、評議にも及ばず降参を乞うた。
このため高祖城は城攻めをすることなく落ちた。

(黒田家譜)

筑前高祖城、軍勢を見ただけで落城す。というお話。




805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 17:00:09.94 ID:CoBgjqb3
塙直政「九州の名族だから、て原田氏名乗らせられたのに、ただの田舎侍とは」

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 17:09:26.67 ID:a0G8zjJr
原田はなぜいつも負け組に付くのか…

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 17:25:56.65 ID:Mx5XOPoH
長袖って坊主なの?吏僚のことじゃなかったっけ

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 19:43:34.22 ID:TSqbRm15
上方の軍勢かと思ったら中国方の軍勢だった
何を(ry

というか上方の軍勢が公家や僧侶の大軍だったらそれはそれで怖いw

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/17(日) 23:41:04.10 ID:YjZYDJqw
>>808
近衛信尹「呼んだ?」

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/18(月) 02:33:06.55 ID:1pf0sxJS
>>806
最後は朝鮮出兵でフェードアウトするように消えたんだよな
サヤカ説もあるけど

黒田官兵衛、旗を借りる

2013年11月12日 19:03

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 23:04:00.29 ID:KXJCRtTY
備中において羽柴秀吉と毛利家との和議が整い、秀吉は明智誅伐のため畿内へ上がらんとする時、
小早川隆景の所に遣いに出向いた黒田官兵衛は、このような事を言い出した

「実は、少々思うところがあり、毛利家の旗を2本、お貸し頂けないでしょうか?」

隆景はこれを不審に思い、少し思案して

「旗だけをお貸しするなど、そちらへの御馳走にはなりません。
しかし今、輝元の人数は此処にはおりませんので、私の手勢だけでもお供いたしましょう。」

「いやいや、あなたがご不審に思われるのはご尤もです。しかし何も仔細のあることではありません。
貴方がお上がりになるには及ばぬことです。どうか旗だけお貸し下さい。」

そう重ねて言ってくるので、隆景も然らば希望に任すべしと、旗20本を貸し与えた。

また、宇喜多秀家の家老たちは、備前の片上まで秀吉を見送りし、そこで暇乞いをして帰ろうとした時、
官兵衛は彼らからも、旗10本ばかりを借り受けた。

そして備前播磨までは旗を巻いていたが、兵庫あたりに来ると、毛利宇喜多から借り受けたこの旗たちを
尽く張らせ、秀吉の陣の先に立てた。
これは敵の方から物見が出た時、また合戦に望む時、毛利、宇喜多の両家が秀吉に与し、
先手として上がってきたように見せれば、敵の気力が削がれ、味方は勇を増す、という策略であった。

秀吉はこれを見て大喜びし、
「若き者共よ、ああ言う事を見て後学にせよ!合戦というものは、はかりごとで勝つものである!
敵を斬り、首を取るなどというのはわずかなる匹夫の働きで、誰にでも出来ることだ。
官兵衛の今の謀は、凡人の及ぶところではない。
あのような手立てを行うことこそ、誠の大切と言うべきものぞ!」

と激賞した。

(黒田家譜)

黒田官兵衛、旗を借りる。という逸話である。




582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 23:12:51.41 ID:91nLuiTp
確かこのとき毛利は旗20本の他に鉄砲500艇、弓100張を秀吉に提供してたね。

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 23:16:54.68 ID:Gkt2IC0z
その旗を借りた逸話は有名だけど、すでに明治四十四年に福岡日南が
貝原益軒による「好事家流の創作」だろとツッコミを入れてる話だったりする
・隆景と黒田の会見自体、黒田家譜にしか記載がなくおそらく事実ではない
・講和直後に毛利(小早川)が自軍の表彰である軍旗をやすやすと貸すわけがない
・本当に借りたとしたら人質として羽柴陣中にいた2人(吉川広家と小早川秀包)に
 ついてきた毛利の手勢からかりたんだろ
と、わりと冷静に益軒による捏造認定をしている

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 03:24:04.33 ID:lVxs6Pcs
そもそも毛利から人質が出たのは勝家に勝った後
隆景への脅迫状を送った後の話だしなぁ

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 10:38:12.46 ID:++en7h9l
wikipediaによると中国大返しの際の和睦時に
人質として秀吉側から毛利重政・高政兄弟、
毛利側から吉川広家、小早川秀包が送られたとなっています。

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 10:43:45.32 ID:szbYdel2
ウィキペにも天正11年って書いてあるだろ

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 12:45:37.33 ID:o1HAiL4J
いつも思うんだがこういう旗って偽造しないのか

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 13:12:20.37 ID:1dJGWvXn
為景さん(謙信父)を思い出すなw

こう書くと悪い話になっちまうが

589 名前:追加[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 13:13:47.69 ID:1dJGWvXn
>>588 は>>587 へのレスです

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 15:11:03.82 ID:lHdbh4/O
うちの旗には針で穴を開けてござれば、それは偽物にござる

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 16:01:17.39 ID:++en7h9l
>>586
確かに広家、秀包のところは天正11年の分しか載っていないですね。
しかし、賤ヶ岳以降であれば、秀吉側とすれば、人質交換の形にする必要は無い。

10年の中国大返しの時の人質交換と、
11年の賤ヶ岳以降の、完全に従属してからの人質と混同されていないですかね?

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 16:34:08.31 ID:szbYdel2
なるほど大返しのページはそう書いてあるな。単純に間違ってるだけだけど

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 18:39:47.57 ID:0pSCtFd1
>>591
大返しの時の人質は小早川秀包と桂広繁ですからね。
吉川広家はこのときは人質になってませんし。
要するに大返しの時の人質交換は一度解除されて、11年にあらためて人質交換したということでしょう。

あと黒田家譜のこの話は元の話が様々な史書に記載されているので完全創作ではなく
官兵衛大活躍Verへの改竄と見るべきです。
他では記載されているのに武器を貰ったことに全く触れられてないのは官兵衛に力量をはるかに超えてしまい
流石に胡散臭くなってしまうからでしょう。

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 18:53:39.90 ID:lVxs6Pcs
>>596
小早川秀包が人質地に出たのも天正11年の話ですよ。

輝元という佞なる人が

2013年11月09日 20:37

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:20:23.57 ID:u+d21jYc
備中高松城を取り囲む織田勢に、毛利三家が相対したときのこと。
小早川隆景は熟考のうえ、
「信長と和議を結ぶのが最良の選択だと思う。幸いなことに相手もそのつもりだ。
 なんといっても、大将(輝元)が頼りにならず、一門でさえ心替えをするようになってしまったこの時、
 元就様のご遺言の通り、降参した国を除いて十ヶ国を保持することで手を打てば、悪い条件ではない。
 元就様が天下を望むなかれと言い置かれたのも、輝元様をお見限りになって、
 後々のことをご遺言されたのだから、ここで和睦するべきだ」
と言って、和睦を決めた。

信長の訃報が届くと、隆景は安国寺恵瓊を連れて秀吉の陣所まで見舞いに訪れた。
秀吉は仰天し、門まで出迎えにやってきて、隆景の手を取って陣屋に入っていった。
「さすがは元就公のご子息ですな。武勇のことは申すまでもないが、
 実に今朝和談がととのったばかりだというのに、君子に二言はなしとはいうものの、
 こうしてすぐに私の陣所にお入りになるとは、天下無双の武勇です」
と、秀吉は褒めそやした。

隆景は、
「名が聞こえた人に実際に会ってみるとがっかりするものですが、
 貴殿に会ってみたら、天下をお取りになる相をなさっているので、この隆景、驚き入りました。
 このたびは必ず明智日向守を御退治なされ、貴殿が天下の主となられましょう。
 輝元という佞なる人が毛利家を継いでおりますので、
 貴家を守り立て、天下取りのお手伝いをいたします」
と笑った。

隆景はさらに、「とにかく大変なときですから加勢をします」と言って、
元就の時代に尼子との戦で先陣をつとめた渡辺石見守という武功の者を選び、
五百騎と毛利の軍旗を秀吉への加勢に差し出した。

(武家万代記)





666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:32:59.90 ID:bliTYw43
『武家万代記』って『三島海賊家戦日記』のことやね

恨みがあったのかしらないけれどこれなにかと輝元をディスってるんだよなw

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:35:12.81 ID:7nN1Vqk1
輝…

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:51:29.88 ID:KFFOoh1f
DQN眼竜は戦国全盛期の武将に比べると小物感が漂うが、
テルなんかと比べるととてつもない名将に見える

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 23:53:48.98 ID:u+d21jYc
気にかかった部分が一緒の方がいて安心したw

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 00:10:14.97 ID:/syMIewk
同じ史料で輝の治世は不行規で退屈なので中国四国衆は皆大あくびした、とか書かれてんだよな
村上海賊どんだけ輝ナメてたんだよとw

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:16:19.51 ID:B7DtpbVu
村上は全然毛利の忠臣じゃないよな、もっとビジネスライクな何か

大友のほうが儲かりそうなら味方するし秀吉が勝ちそうなら離反

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:41:25.23 ID:eDECr+vy
毛利が中国に勢力を伸ばすと海賊稼業の権益が後退したのか知らんが大内輝弘の周防上陸を阻止しようとした形跡が全くないしな

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 01:47:50.19 ID:/syMIewk
能島村上は大友にも筑前の権益認められてて親密だったからな
離反に怒った隆景に能島囲まれた時は大友が支援しようとした書状がある

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 02:07:56.31 ID:MlYzOzNE
来島村上が毛利を裏切って秀吉に裏切りそうだった時に「能島の村上も裏切るんじゃね?」という噂が
真しやかに流れてたから小早川隆景が全力で説得しに行ったらしいな。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 02:17:25.50 ID:B7DtpbVu
そもそも全然言うこと聞かねえから隆景に実力行使で能島から竹原に強制退去させられたよな

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 07:30:02.91 ID:kdPcn2jt
>>668
戦国期では断然輝元の方が大物なのにね
信長と全面戦争して大半の領地を保全できたというのは何気にすごいと思う

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 08:17:10.08 ID:RFiNRl1+
あれは、両川のおかげだろう。

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 09:42:00.88 ID:e+b9Cyht
光秀のおかげとしか

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 10:02:50.74 ID:nZcct/kw
輝「みなさんのおかげです」

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 16:22:22.52 ID:Yks+cYuL
両川「もうちょっとフクロにしときゃ関ヶ原もなかたのか?」

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 17:18:31.25 ID:Fb7FD56i
ラスボスが吉川恐怖症にかかって、反動で小早川スキーになるぐらいだからな

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 17:20:07.87 ID:uQo2Yytt
それは陰徳太平記脳すぎるんじゃ…

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 18:48:26.20 ID:4dwMUXKz
>>681
だって吉川さん「心の一方」使えるんだからそりゃ秀吉でもビビるよ
隙を突いても「背車刀」でカウンター喰らうし

秀吉「私は、輝元に劣っている」

2013年07月22日 20:05

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 21:24:23.77 ID:YjdkE5lI
徳川家康が臣従し、諸大名聚楽に出仕、秀吉の天下が固まった頃、
毛利輝元公は小早川隆景公がお伴して上洛をした。秀吉公との御参会では
大変丁寧なご挨拶をされ、大方成らぬ饗しであった。
この事は桂美作守が詳しく記録し、その書は今でもかの家に在る。

その後御対談の時に、秀吉公は御意に

「主君の敵を討ち、私の本意が天道にかなったが故であろうか、このように
日本を従え高位も備わった。しかし私は隆景、安国寺のような臣下を所持しない。
この事に関しては私は、輝元に劣っている、」

と仰った。
(老翁物語)




83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 22:02:53.88 ID:L/BPhP9p
既に死去していた吉川元春の名が出ないのは仕方ないな!

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 13:09:58.58 ID:5ma0hqxb
>82
悪い話・・・かな?

本能寺の変に伴う毛利家との和睦について

2013年06月06日 19:51

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/06(木) 10:05:09.31 ID:Dr27dp+R
天正十年六月三日子刻(0時)に京都から飛脚が到来。
「信長公・信忠卿が二条本能寺で昨日二日の朝、惟任が為に御切腹なさ
れました。急ぎ御上洛ありて日向守を討ち平らげるのが当然でしょう」
との旨を長谷川宗仁が密かに申し送ってきた。
秀吉は大いに驚かれたが何事も無かったかのようにふるまった。

四日朝、御馬印だけを持たせ陣を見回られた。いつもは百騎ばかりを
召しつれて見回られるが、京からの話を聞かれてからは、静かに堤を
巡回され、対する輝元の陣も堅固であるように見えた。

即座に毛利家臣安国寺を呼び寄せ「分国を保ちたいのであれば、降参
してもらいたい。そうであれば和睦は長久に続くでしょう」と告げた。

安国寺はこれを承り「もっともの事でもあり、輝元には少しも疎意に
存じられないだろう。御状の趣を申し聞かせましょう」と帰っていった。

輝元は「分国に相違が無いのであれば受諾しよう。起請文を取り交わし
人質を進じよう」と承った。

秀吉はこれであれこれは片付いたと考えられたが、明日五日の朝に返事を
するとして、その日は毛利からの使者を帰された、

五日の朝、小早川、吉川よりそれぞれ使者がきた。
ここに至って秀吉は亡君の事を隠し続けるのも限界であろうと考えられ
「このたび信長公は去る二日惟任日向守の逆心により御父子ともに京都で
弑された、このような状況でも最前に定めた和睦の条件に相違はないか」
と仰せられ「両使は輝元に報告して、その上で決めるがよかろう」と使者
を帰された。

両使は即座に立ち戻り小早川、吉川から輝元に信長公御父子の事を報告し
家老の面々を呼集して、どうするべきかを評議を行った。

若くて勇みがちな人々は、天の与えた幸いであるから和睦を破棄して帰陣
し、世の動きを見られれば良いのではないかと高言するものが多かった。

しかし小早川隆景がこれを諌めたので満座は沈黙し、輝元も尤もであると
考えられた。

輝元は前回送った使者に加えて信長公の御弔として福原越前守広俊を添えて
秀吉の陣に送った。

両使は蜂須賀彦右衛門尉に対して最前に約した和睦の条件で相違なしと、
輝元ならびに小早川、吉川の誓紙をもって申された。

秀吉は大いに悦び。「明日には出立するので、鉄砲五百艇、弓百張、旗
三十本を合力していただきたい。またこちらからも「今後も毛利を粗略には
しない」旨の誓紙を出そうと言われ、福原越前守と安国寺を呼び寄せて
血判に及び、口上を述べられた。

輝元も了承し、即座に人質として元就八男藤四郎(小早川秀包)に桂民部少輔
(広繁)を添えて進上され供奉した。

(日向記)

本能寺の変に伴う毛利家との和睦についての話





412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 09:55:29.67 ID:sVgKc4Yf
>>408
だいたい同じような内容が毛利側、羽柴側両方の史料にも見られるから
どうやらこれが史実みたいね。

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 09:57:33.23 ID:7u8b/B3W
清水宗治「え?俺死ぬ必要あった?」

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 10:20:01.73 ID:Xe9aBHnf
ここまで手の内を明かされて、よく毛利は秀吉を無事に返したよな。

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 11:15:50.44 ID:vwIjszRc
秀吉一人屠るのは簡単だけど、その後の展開が見えなかったんだろ

416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/07(金) 14:51:28.19 ID:EuDxLF/i
それは明智と組んで秀吉を倒し、
次は柴田と組んで明智を倒し、
最後は家康と組んで柴田を倒す・・・なんて巧く行く分けないよな。

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 15:12:59.77 ID:9xWeM5LF
>>413
宗治が死んでなかったら和睦への道は遠のいたんじゃなかろうか

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 15:34:16.65 ID:AyjBnaSK
ん?岡山の直家さんってまだ生きてたっけ?

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 16:42:19.02 ID:9NOimaRp
直家さんは前年の暮れにもう

毛利方としても和睦ができるならそれに越したことはない状況だし、
もっけの幸いと受け入れたんだろうなあ
結局柴田あたりが攻めてきたら元も子もない


漢南大将、小早川隆景の要害に攻め寄す

2013年04月24日 19:52

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:12:48.37 ID:sewJ/kWG
朝鮮の役でのこと

漢南大将(李如松)は本唐・新羅の軍勢を合わせ20万騎を率いて、小西行長の要害を百重にも取り巻き
即座に攻め落とすと、その余勢を駆って小早川隆景の要害に攻め寄せた。
いわゆる文禄2年1月26日(1593年2月27日)の、碧蹄館の戦いである。

この大軍に、城に近づけては敗れると判断し、小早川隆景は2万5千、立花宗茂は5千、
宇喜多秀家1万の軍勢で討って出た。
この時、御検使である石田三成、増田長盛、大谷吉継は都合8千の軍勢を率いており、小早川隆景
指揮下で先陣をした。立花宗茂はその下の備を担当し、この陣形で合戦は始まる。

異国の軍兵は弓鉄砲を隙間もなく撃ってきて入り乱れ、”ちぎり”という物を1万も2万も撃って回った。
これに当たったものは、たやすく起き上がることが出来なかった。

双方、太鼓や鐘を打ち鳴らし、鬨の声をつくりかけながら攻め合い、小早川の軍勢も立花の軍兵も、
息を限りに戦ったが、敵は大軍であり、新手を次々と入れ替えつつ戦うため、小早川・立花の軍勢は、
もはや人馬ともに疲れはてたように見えた、その時である

備前宰相(宇喜多秀家)の1万余騎が、一塊になってどうと突き懸る。
これに漢南勢は押し破られ、終に敗軍した。
この時討ち取られたもの3万あまり、ちぎり、刀槍を始めとして、鉄砲や石火矢までも捨てて
逃げ帰った。

異国の具足というものは、黒鉄を平たく伸ばし、金属の鎖で繋ぎ合わせたものを、ただ地の着物に
貼り付けただけのものであった。雑兵にいたっては黒鉄の平板を繋ぎ合わせたものを、そのまま着ていた。
大将や騎馬武者のものは、五色の漆で見事に塗り分けられていた。

兜も、ただ黒鉄を伸ばして、鍋の縁を反らせたような形にして、これをかぶっていた。

馬乗りは、獣の皮を股引のように拵えて、これを鞍にしっかりと括りつけ、乗る時はそれに、
太ももまで入れ込んでいた。
この中には、馬に乗らないときには兵糧も入れられ、
また草臥れて馬の上で寝る時、あるいは一斉に駈け出して山坂を自在に昇り降りをするときも、
馬から落ちるような危ないことは些かもなく、実に便利で利点の多いものであった。
これによって彼らは、馬上で弓鉄砲も自在に撃ちはなした。
(義殘後覺)




104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:02:51.17 ID:8PRpe9RV
>>102
”ちぎり”って何?
投石系の武器?

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:18:35.15 ID:3mSfHB9G
秀家は甘い坊ちゃんと言われてるけど若い時から戦いぶりは見事なんだよな
良い家臣が揃っていたんだろうけど宇喜田騒動後の関が原でもきっちり戦っていたし

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:25:14.98 ID:7RO21V+k
半分程度の福島と良い勝負っぽいけどなぁ > 関ヶ原の宇喜多

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:30:59.89 ID:sewJ/kWG
>>104
調べてみたけどよく解らなかったです。すいません。

>>106
宇喜多騒動で家中がボロボロに成って、関ヶ原の時は慌てて雇った浪人衆が中心で、
組織としてかなり弱体化していたのは確かみたいね

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:16:24.43 ID:KfKIui8O
>>104
乳切棒サイズの振りずんばいみたいな物を想像した

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:58:27.68 ID:+v3PqY6p
フロイスの「日本史」に明軍の装甲に苦戦する日本軍の話があったが
異国の鎧は興味深いものだったんだろうか

115 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/24(水) 14:40:59.52 ID:aP/+VbRj
宇喜多備前中納言八郎秀家、日本軍の危機を聞き、八丈島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l  


小早川隆景の遺言に

2013年04月19日 19:50

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 17:41:55.02 ID:vmexdl0E
慶長2年(1597)に小早川隆景が亡くなったが、この時遺言で、

『我が領内の小郡という地を、黒田如水・長政親子が、茶屋にしたいから借り受けたいと申し込んでくるだろう。
これは裏に理由のある事なので、絶対に貸してはならない。』

と、申し置いた。

その後一両年過ぎて、案の定黒田親子から、小郡を借りたいと申し込んできた。
名将というものは、予想も出来ないようなことまで察知する知恵があるのだろう。
どのような理由であっても貸与は難しいと答えたそうである。
(紀伊國物語)




321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 18:21:19.23 ID:+mKb8Ivy
そんなのを口実にして借りられるものなのか
わざわざ遺言して止めるってことは

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 18:56:49.19 ID:k5rIkgFl
中津から博多をうかがうにはいい場所だなw

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 19:00:50.93 ID:HBysBHcO
実効支配ちうやつですか

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 23:44:20.92 ID:m15pUdBk
ガイシュツだな。

ちなみに上京する際の休憩場所に借りたいと申し出てる