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こちらは相応の礼をしたなら

2022年09月06日 19:06

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/05(月) 18:57:07.57 ID:ufOQ8BTK
小河内蔵之丞噺覚書写全」から

ある時、城内で栗山大膳と小河内蔵丞(小河之直)が出くわした。
二人とも乗物であったため、内蔵丞は乗物から降りて相応の会釈をしたが、
栗山大膳は乗物に乗ったまま「御免なされそうらえ」と言ったまま通りすぎた。
これを見た野村隼人(野村祐直。母里友信の甥)は、内蔵丞と対面した時に
「身代の差はあれど、小河様も栗山様も同じ家老であるのにあの態度とは、侮っているように見えます。
今後は小河様も乗物に乗ったまま挨拶されるべきでしょう」と言った。
しかし内蔵丞は「あちらが無礼な振る舞いをしたのはあちらの過失であり、こちらは相応の礼をしたなら、こちらの一分は立ったと言えます。
相手方の無礼などどうでもいいことです」と言ったという。



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小河常章の飼っていた鶉の話

2022年09月02日 19:38

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/02(金) 16:09:09.81 ID:AsvhKVAq
小河内蔵之丞噺覚書写全」から小河常章(小河之直の嫡子)の飼っていた鶉(うずら)の話

小河常章がまだ部屋住みで左京と言っていた頃、鶉をたいへん可愛がっていた。
籠を開けて鶉を出すと部屋を飛び回り、左京が手を差し出せばその手に留まるほど飼い慣らしていた。
ある日、左京が留守の時におそばの小姓たちが鶉を座敷に出して遊んでいたところ、猫が物陰から出てきて食ってしまった。
左京は短気であったため、帰ってきたらどうなるだろうと恐れ、まず内蔵丞にことの次第を告げた。
内蔵丞「笑止なことをしたものだ、左京が聞いたらひどく罰するであろう。
まずは町に行き鶉を一羽買ってきてその籠に入れよ」と言うと
小姓たちは「いくら内蔵丞様といえど、町の荒々しい鶉を手飼いの鶉のように見せかけられようか」
と思ったものの、町で鶉を一羽買ってきて籠に入れた。
さて左京が帰宅するや内蔵丞は早速左京を呼んで
「お前の鶉の評判は聞いていたが、いろいろ忙しくてこれまで見てなかった。今見せてはくれぬか」
と言うと、左京はすぐに籠を持ってきて、籠の口を開け、鶉を出した。
いつものように手を出して留まらせようとしたが、鶉はあたりを見回すと、そのまま縁側から外へ飛んでいってしまった。
左京が残念がって「いつもは手に留まりますのに逃げるとは、惜しいことです」と言うと
内蔵丞は「道理を知っている人間でさえ、重恩を忘れて逃亡するのはよくあることである。
ましてや今まで鳥が逃げ出さなかった方が不思議だ。
まああの鶉も生きているうちに故郷に戻ったと考えれば、慈悲を施したといえよう」と慰めた。
こうして内蔵丞の機転により小姓たちは大難を逃れたため、これを聞いた小姓たちの家族は涙を流して感謝したそうだ



内蔵殿風

2022年09月01日 19:02

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/01(木) 15:30:45.48 ID:ugOBGEFV
小河内蔵之丞噺覚書写全」および「古郷物語」より「内蔵殿風(内蔵允風)」

小河内蔵丞(小河之直)が上方に上った折に途中の瀬戸でちょうど順風が吹いたので、船頭や侍衆は「上々の日和ですな」と喜んだ。
しかし内蔵丞はまったく喜ばず
「上りの船はよいが、下りの船にとっては向かい風であり、急いでいる者もいるであろうのに難儀なことである。
上る者にも下る者にも船での往来が良くなければ「よき日和」と言えるだろうか」と言った。
そののち播磨灘で上下の船とも帆を張ることができる風が吹いたため、これこそが「内蔵殿風」だと言いあった。
そののち瀬戸の者どもはこれを聞き、けだし名言だと思い、上下共に帆を張れるような風を今でも「内蔵殿風」だと言っているそうである。
まったく徳の厚い性分であり、人々に対して好悪の情を持つことがなく、平等に考える人であった。



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/03(土) 20:56:01.72 ID:xme28juG
>>346
全体最適ってのが分かってるんだな

二、三十人でさせるような仕置きを

2022年08月31日 18:55

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/31(水) 13:47:28.43 ID:9t7KSC9U
小河内蔵丞(小河之直)は栗山大膳らとともに黒田忠之の家老として精勤に励んだ人物であるが、その若い頃の話

内蔵丞がまだ喜助と言っていた十六の時、領内の百姓の馬を牛が突き殺してしまった。
馬主は「牛主に弁償させるべきです」
牛主は「牛主が不在の間に牛がしたことです。畜生のしたことですので牛主の責任ではありません」
と互いに水掛論となり、公事となったが決着しなかったためとうとう黒田長政の耳にまで達した
長政は「どっちももっともであるので、馬が百匁の値であるなら半値の五十匁だけ牛主が弁償してはどうだ?」
と裁定されたので、両者とも不満に思ったものの渋々帰っていった。
これを聞いていた喜助は朋輩衆に対して「このたびの判決は理非をわきまえぬ判決である」と言った。
朋輩衆「歴々の方がなされた判断であるのに何を言うか?」
喜助「牛主や馬主が牛や馬を繋いでいた間に起きた、とあるが繋いだ時間に前後があるはずである。
牛は相手に向かって突くのが習性なので、後で繋いだ飼い主に責任があると言えよう」
これを聞いた朋輩衆は手を打って讃嘆し、これが評判となり長政の耳に達した。
そこで改めて馬主、牛主を召喚すると、先に馬主が繋ぎ、後で牛主が繋いだことが判明した。
こうして牛主は全額百匁を馬主に払うこととなり、馬主は当然喜んだ。
牛主は最初の判決より五十匁多く払うことになったものの、今度は理屈が通っていたため、納得して帰ることとなった。
こうして長政は喜助を「常の人物ではない」と認め、十七の頃から評定衆に入れ、そののち小河伝右衛門の養子として名を内蔵丞と改めさせた。
長政のから忠之の代まで、今であれば二、三十人でさせるような仕置きを内蔵丞一人に任せたが、上からも下からも一言も苦情が出なかった

出典:竹下稔著・福田泰隆校訂「福岡藩初期家老 小河内蔵丞之直「小河内蔵之丞噺覚書写全」を読む」