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今、そのような事をするのは無用である

2022年08月03日 18:28

558 名前:sage[] 投稿日:2022/08/03(水) 16:02:14.92 ID:1Htktg65
黒田筑前守長政が、常々人に語られていたことによると。

「私は十四歳の松千代と言っていた頃から、手を下した手柄は度々に及んでいたが、父・如水に
高名があった故に、人はこれを賞美しなかった。

浅野幸長については、天下の上下が勇者と誉める。これはその父である弾正(浅野長政)が、
分別才覚は優れていても、さほど武辺が無い故である。」
と申された

また、小瀬甫庵が太閤記(甫庵太閤記)を作る時、諸家より書付けを遣わして、その家々の武名を
書き入れるべし、とあった。この時黒田家の老臣たちもこれを聞き伝え、

「御祖父以来の御武功、現在、天下に隠れ無しと雖も、後世に至っては埋もれてしまうことも
計り難いものです。幸いにこれらの事を小瀬甫庵に話して、足利義昭公、信長公、秀吉公より
賜った数多の御感状、その他異国本朝にて隠れなき御武功を、書物に著し給われるべきです。」

と申し上げたのだが、長政は更に承認しなかった。

「凡そ将士が武功を立てるのは主君の為であり、私の名を求めるためではない。
殊更太平の世となっては、武を隠すのが本意である、と聞いている。
今、そのような事をするのは無用である。」

そう言って、遂に甫庵に書付けを渡さなかった。それ故に、かの太閤記において黒田家の武功が
多く漏れていたのだという。

新東鑑



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/03(水) 16:27:19.19 ID:Sg3FcvIH
こんな上司はイヤだな

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/03(水) 17:01:10.29 ID:YqfozYQV
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2893.html
小瀬甫庵、取材する

こっちでは立花宗茂とセットで出ていた
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あちらこちらで辻斬り、追い剥ぎなどが夜ごとに起こり

2020年04月26日 13:47

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/26(日) 01:05:56.50 ID:KAUisGYn
或いは問う、豊臣秀吉公の時代は、都に三奉行が有り、法を犯す輩に対し、或いは磔、或いは釜煎りなどの
重罰をしていたが、あちらこちらで辻斬り、追い剥ぎなどが夜ごとに起こり、止む事がなかった。

一方でこの頃では、禁制の数もさほどに無いのに、洛中洛外共に、夜であっても行き交う人は多いが、
互いに道を譲り合うため、喧嘩口論という沙汰もなく、辻斬り、火付けなどとののしる声も自然と絶えた。
ただ残念なのは、武士の気味のみ昔に立ち帰らず、諸士は心を僅かな利に労し、まるで商売人に似ている事である。

甫庵太閤記

甫庵太閤記の初版は初版は寛永3年(1626)という事で、同時代人の小瀬甫庵からみても、
秀吉の時代とその頃の京の治安は、このくらい違っていたと感じられていたみたいですね。



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/26(日) 01:23:39.22 ID:SSFFTnBi
なんか昔は乱暴だけど活気があってよかったっていうおっちゃんそのまんまな感じの記述っすね

毛利陸奥守大江朝臣元就という人物

2016年09月11日 19:05

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/11(日) 17:57:54.15 ID:d4UKo8Oh
安芸国、毛利陸奥守大江朝臣元就という人物、その先祖を尋ねると、鎌倉三代の将軍の執権であった
因幡守廣元であり、彼は太枝の姓を改めて、大江を用いた。以降、元就の家は大江嫡流を称した。

元就の父もまた廣元という(毛利弘元)。兄を興本という。興元の子、幸松丸早世のあと、毛利の家は断絶の
危機にあったが、古老たちが協議して元就を呼び出し、吉田郡山城へ入城させた。

これ以前、元就は多治比三百貫を領する、非常に小さな存在に過ぎなかった。
しかし毛利の家督を得た後、智謀人に優れ、武勇世に類なく、遠近がその徳化に帰伏すること、まるで草が
風になびくようであった。

元就は、『之を用いるときは行い、之を捨てるときは蔵る』という孔子の言葉を思い出させる人物であった。

(甫庵信長記)


甫庵信長記の毛利元就評である。



181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/11(日) 21:37:25.61 ID:p6f96Ngh
京都の江氏嫡流はどう思って読んだだろ。

横山長知、大いに憤る。

2012年06月23日 21:01

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/23(土) 14:24:49.68 ID:6HtTLQ3l
小瀬甫庵の信長記(甫庵信長記)と言えば、三河物語の

「さて又、信長記を見るに偽り多し。3分の1は実際にあったことがだ、3分の1は似たようなこともあった。
しかし残りの3分の1は全く事実のない、信長記の作者の創作である。
自分の贔屓のものの逸話を、自分の知恵のあるままに上手く捏造したのだろう。」

という批判が有名だが(ただし三河物語のここに言う”信長記”は、太田牛一のいわゆる「信長公記」だという説もある)、
実は「常山紀談」にも小瀬甫庵への批判が収録されている。しかもそのネタ元の人からの!


小瀬甫庵は町医者であり、加賀の金沢に住んでいた。
甫庵は、前田利家の家臣であった横山山城守長知の元に心やすく出入りし、毎晩のように夜話を楽しんでいた。

横山長知は尾張の出身であり、織田家のことをよく覚えていたので、甫庵は信長のことを毎回尋ね、さらに
秀吉のことも問いただした。
長知はが、あることは詳しく、あることはうろ覚えを語り聞かせた事を、甫庵は筆記し、信長記、太閤記の二部の書を著し、
世の中に発表した。

この事を知った横山長知

「信長や太閤のことを筆記するために尋ねたと知っていれば、もっと答えようがあったのに!
遺漏も多く、語り尽くしていないことも多い。
筆記し出版するということを全く知らせなかったために、ただこの場だけの物語として言い聞かせたのに、
それをそのままに書著するとは、今更ながら甚だ遺憾なことだ。甫庵はまったく馬鹿者である!
(今に於いて甚遺憾なり。甫庵馬鹿者なり)」

そう言い捨てたそうである。』

甫庵のネタ元、横山長知、大いに憤る。というお話。




104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/23(土) 16:55:03.33 ID:3eke8mgx
やらしいな小瀬甫庵
まるでマスコミが事件現場周辺の住民にインタビューしたのを
都合よく編集した感じだな

小瀬甫庵先生による市松さんの解説

2010年11月01日 00:00

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 17:49:18 ID:D7oXCVRT
小瀬甫庵先生による市松さんの解説


・福島市松、後に左衛門太夫と号する。備後、安芸を領した。
 人々を殊の外見下す人で、家臣たちからの恨みも多い人であった。

 家臣に対しては小さい過失であっても、それを殊の外大きく言い立て、
 あるいは牛裂き、あるいは煎殺し、あるいは刀脇差を取り上げ磔にし、
 あるいは杖にてたたき殺し、あるいは指を切り落とす、など、そういった残虐な刑罰は
 その数知れずといった有様であった。

 元和の末に法に背くことあって信州にて4万石に改易され、そこで死去した。
 息子である備後守(忠勝)は酒に溺れて、父より前に病死した。


とまあ甫庵先生、市松さんに何か恨みでもあったのかと思うような書きっぷりである。
文中にあるが、もしかすると正則から実際に見下された経験があったのではなかろうか。
そんな、後世、軍記物語などで福島正則というキャラクターが形成されていく中で、おそらく
大きな影響を与えたと思われる、甫庵太閤記にある正則についての解説。




179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 18:18:37 ID:/4iBQjPq
小瀬甫庵自身が非常にアレな人物だからなぁ…。こいつがどう論評しようが
無視したほうがいいという感じが。

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 19:25:36 ID:ugjAQWd7
前田家の幇間っぷりを見るにつけ
「パトロンになってくれればよく書いてさしあげましょう」なんて市松に申し出て
邪険に扱われたんじゃないか、その恨み爆発で。

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 19:33:53 ID:/w10P4Bl
甫庵太閤記を読んで最大の疑問は「なんでこの勇知完備の名将である前田利家が
天下を取れなかったのだろう?」って点だからなw

秀吉のことは批判している場所もあるが、利家は絶賛の嵐。

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 19:38:22 ID:bQAkofRB
前田利常「甫庵、父のことを悪く書いたらどうなるか分かっているな?」