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小田城再乗っ取り

2019年10月13日 17:43

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/13(日) 15:15:04.76 ID:EPNnuZ5J
>>508 の後のこと

小田天庵(氏治)と彦太郎守治父子は、小田城は取り返したものの、昨年大晦日の遺恨を果たすべく、
真壁暗夜軒道無(氏幹)を討とうとしていた。

天正元年(1573)四月下旬、小田父子は4千の兵を率いて筑波根の尾根続きである青柳山を越え、
新治の乙幡村へ着陣した。ここは真壁氏幹の領内である。小田勢は家という家に火をつけ狼藉を
働いた。

乙幡より太田源左衛門資晴の居る柿岡は行程一里半ほどの場所であるので、この噂はすぐに伝わり、
資晴はこの事を片野に居る父の三楽斎へと伝えた。三楽斎こそ、昨年真壁とともに小田を追い落とした
張本人である。三楽斎父子の他に、太田新六郎康資も共に資晴の加勢に来た。
しかし太田勢は小勢、小田方は多勢であるので、一戦を交えると太田方はすぐに近くにあった古屋敷に
駆け込み、その中に立て籠もった。そして小田勢が退くと打って出て、返せば古屋敷に逃げ込み
立て籠もる。そんな事を4、5回も繰り返して時を稼いでいるうちに、真壁氏幹と息子の右衛門太郎広幹が、
次男右衛門次郎久幹、甥の掃部介たちを引き連れ駆けつけ、小田勢が西の方より押し寄せると聞いて、
その方へと馬を急がせていた。所がそうではなく乙幡に敵が有ると解ると、山手に出ようと近道を駆けた。

真壁勢が近づくのをはるかに見た小田天庵父子は「これこそ当面の敵である。」と、太田父子を捨てて
真壁勢に向かった。この場所は三方を山に囲まれ、その中に十町ばかりの平場が有った。狭い場所であるが
小田勢はその中いっぱいに、蜘蛛の子を散らしたように待ち伏せた。

真壁氏幹はこれをよく見破り、先鋒が矢を射かけようとするのをしばらく止めると、敵の先鋒には
目もくれず、弓鉄砲を敵の本陣に向かって激しく射込ませた。小田勢はまたたくまに裏崩れをはじめ、
右往左往した。

(中略)

かくして小田勢は敗北し、もと来た道をしどろになって退く所を、真壁勢はすかさず追撃した。
天庵父子は帰りの四里ほどの道を、一度も返すこと無く逃げていった。
この時、未だ古屋敷に籠もっていた三楽斎父子は軍勢を外に出すと、逃げていく小田勢には手も触れず
ただその傍を一緒にどこまでも走った。そしてやっと小田城の近くになると、小田勢が言っているのと
同じようにわめきながら、味方を装って敵とともに手勢もろとも城内へなだれ込んだ。それから城門へ
上がって太田の旗を押し立てた。

これを見た天庵父子は歯噛みをして口惜しがり、残兵を集めてすぐに奪い返そうとしたが。後より
真壁勢がすぐに追い付いてきたため、このまま前後を敵に挟まれてはどうにも成らないと、城を捨て、
天庵は藤沢城へ、彦太郎守治は木田余城へ逃げ込み、後日の運に任せたという。

(関八州古戦録)

天庵様が鬼真壁に敗れるというお話。なんで直接小田城乗っ取りを企てた太田父子ではなく
真壁氏幹を目の敵にしたのかはよくわからない。


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三楽斎の小田城乗っ取り

2019年10月12日 15:49

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/12(土) 12:05:11.95 ID:zZ547gHR
常州の小田讃岐守入道天庵(氏治)は、家の吉例の行事として。毎年十二月の大晦日の夜、
家臣を集めて連歌の会を催し、これを年忘れとした、その後夜明かしで酒宴を張るのも
恒例となっていた、

この頃太田三楽斎は片野の砦に住んでいたが、この事を知って色々と工夫をしたが、ついに
小田城を乗っ取ろうと決心した。
そのころ天庵は藤沢城に住み、小田城には息子の彦太郎守治が入っていたが、彼のもとでも
この行事は行われていたのである。

三楽斎はまず、真壁氏幹入道道無に相談し、佐竹、多賀谷も巻き込んで密議を行った。
彼はこのように説明した
「これは必ず成功する。小田城中には二、三内応する者もあり、大晦日の夜に兵を出せば
正月には城はこちらの手にあるだろう。」

これに多賀谷側より「その内応する者とは誰か」と問われると、三楽斎はそれらしき書状を
二、三出してみせた、それで安心したものか、真壁、多賀谷、佐竹も彼の企てに同意した。

その年の大晦日、三楽斎父子、同新六郎康資、真壁掃部介、坂本信濃守、佐竹より岡谷縫殿介、
根本太郎、多賀谷より家人の白井全洞などが集まり、小田城近くまで進んだ。そこで人馬を休めつつ
手引の者を待ったが、いっこうに現れない。
佐竹側が
「三楽斎殿、これはどういうことか」
と尋ねると、

「内応のものが有ると言ったが、あれは嘘だ。」

と答えた。
一同驚き
「嘘だと言うが、証拠の書状まで見せたではないか。」
「だからそれが嘘である。」
「ではあれは偽の書状か」
「いかにも。そうでもしなければあなた方は同意しないと思った。」
「それは酷い。そのような事なら我々は帰る。」

憤る彼等に三楽斎は
「まあ待て、連歌のことについてはよく調べてある。小田城の者達は必ず遊び呆けて酒に成り、
家中一同は酔いつぶれて物の役に立つものは一人も城中に居ないだろう。
ここは一つこの三楽斎に任せて頂きたい。決して悪いようにはしない。」

こうも三楽斎の術中に落ちた以上、一同も今更否とも言えず、夜明け近く、貝を吹き盾を叩き、
一斉に鬨の声を上げ小田城に攻めかかった。三楽斎の旗本である益戸勘解由、高橋上野介、石井峰岸
などの勇士は真っ先に大手門を押し破り城中へと乱入した。

小田方はこんな事が起こるとは夢にも考えておらず。連歌の後の酒宴で酔いしれていた所で、寝耳に水の
驚きようであり、周章狼狽はその極みに達し、太刀よ物具よと探す者はまだいい方で、堀を乗り越え、
狭間に潜って逃げ出し、敵を防ごうという家来は一人も居なかった。
彦太郎守治も仕方なく脇虎口より逃れ出て、菅谷金吾入道全久の木田余城へと退散した。
三楽斎はやすやすと小田城を乗っ取ったのである。そしてしばらく番兵を入れて様子を見ていたが、
取り返しに来る様子もなかった。

ところが二月に入って異常に雪が降ったのだが、その大雪の日に小田彦太郎守治は、菅谷、大藤、月岡
といった家臣を率いて不意に押しかけ、小田城を取り戻した。
こうして元のように小田守治が城主に戻ったのである。

(関八州古戦録)

続き
小田城再乗っ取り


土浦落城

2011年07月12日 23:20

983 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/07/12(火) 20:12:27.13 ID:QvufKzfG
天正2年(1574)1月、小田氏治らが籠る土浦城に、車丹波守忠次、梶原景国、北條治高ら佐竹勢にとる攻撃が始まる。
土浦城南ノ手を任されていた江戸崎監物の寝返りにより多くの兵が逃亡、さらに有力武将である海上主馬五郎武経が
討ち死にするなど、小田方は一気に劣勢となる。

2月27日、西ノ木戸を守る菅谷正光は、氏治の嫡男・彦太郎守治、そして沼尻又五郎とともにわずか200騎ほどで
佐竹勢1500の中に斬り込み大いに打ち崩したが、佐竹はこの頃まだ常総には広まっていなかった鉄砲で攻撃、
雨の降るように撃ち出し、小田軍の端武者の中には「これは人間のなす事では無い!天魔の仕業だ!」と驚き
逃げ落ちるものも多くあった。

帰城した菅谷正光、小田守治、沼尻又五郎は氏治の御前に出、こう申し上げた。

「今や味方の兵は多くが討ち死にし、あるいは負傷しました。もはやこの城を保つことは、大変困難です。
これは氏治様の運の尽きというものなのでしょう。その御名を辱めぬ為にも、ここで御自害あるべきです。」

と、ここに現れたのが、同じく敵を追い払い帰城した野中瀬鈍斉沼尻播摩守である。
野中瀬は怒鳴る

「これは口惜しき次第である!小田殿がこんな所で、闇々と自害していいはずがない!
幸いにも私は氏治様と同年であり、佐竹勢に顔を知られていません。
ここは私が殿に入れ替わって自害し、敵を欺きましょう!」

沼尻播摩守はこれを聞いて感じ入り

「よくぞ申した野中瀬殿!それがしは御嫡男守治と名乗り討ち死にしましょう!さあ、殿と守治様は
早々にお逃げください!良将たる者は千騎が一騎となっても生き延びて、会稽の恥を雪ぐのを本意とするものです。
私には息子の又五郎がありますので、心やすく御先途を見届けることが出来ます!」

と、早くも守治の具足を脱がせようとし、また野中瀬も装束を氏治のものと取り替えようとした。
しかし小田親子は二人とも涙を流し

「お前たちの死なせてまで、自分の命が助かったところでどうするというのか!お前たちと死を共にする!」

そう言って承知しようとしない。これに野中瀬、沼尻は大いに腹を立て

「さても言い甲斐のない事でしょうか!我ら両人の忠死を意味のないことにする事こそ、恨みに思います!
我々の願いが叶わないのなら、我ら二人はここで刺し違えて死にましょう!
それを犬死とお考えに成るのなら、ここはどうか、聞き分けてください。
伝え聞くところによれば平知宗は対馬に落ちて平家の残党狩りの難を避け、源義経は奥州衣川の館において
自害したと見せかけ、蝦夷に退いたそうです。古今の名将にも例のあることで、決して恥ではありません!」

984 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/07/12(火) 20:12:51.28 ID:QvufKzfG
この説得に、氏治親子ももはや詮方なく、、彼ら両人の方策に任せた。
ところが今度は、沼尻播摩守の嫡男、又五郎がこう抗議した

「私には父上の最期を見捨てることなど出来ません!共に討ち死にいたします!」

沼尻播摩守は目を怒らせて叱りつける

「ああ、お前は日本一の不覚者だ!死ぬのも忠なら脱出するのも忠義だ!
私が死ぬのはな、お前が世間に通用する男に成長したと見込んだためだ。
後の守りも安心出来る故に、ここで討ち死にし敵を欺くことが出来るのだ。
もし私の言葉に背くのなら、お前は永遠に勘当する!」

又五郎は地に伏せ、むせび泣きながら父に詫び、氏治親子を守りと共に城を落ちることを約束した。

枯れ草を集め城に火をかける。
そして氏治、守治はそれぞれに分かれて城より落ちる。
沼尻播摩守はそれを助けるため自分を守治と名乗り、菅谷左ヱ門尉正光らと共に城より討って出る。
野中瀬鈍斉は櫓より大音声で

「ここにあるは清和天皇十二代六条判官為義が三男新宮十郎蔵人行家の子息八田武者所右衛門尉朝家には
八十五代小田讃岐守氏治入道天庵である!
武運尽きて今自害いたす!人手に掛かり犬死して、後世人の嘲りを受けてはならない!
我が首をとって高名をいたせ!」

と火に包まれた城内で十文字に腹を斬って果てた。沼尻播摩守もまた、散々に暴れまわり佐竹勢の多くを倒し、
やがて猛火の中に入り自害した。
佐竹陣に切り込んだ菅谷左ヱ門尉正光、由良信濃守成繁、岡見中務少輔宗治、沼尻又五郎家忠、片岡、中野、中村、小野、小造、星宮、
雨宮、天野、吉原、木村、石堂等の十六騎は、その生死すら知れず、という。

首実検の際、双方共に姿年齢が近しく、また首も焼けていたため、佐竹はこれを氏治親子の首と信じた。
これにより氏治親子は無事、片岡治部左ヱ門の中館城に落ち行きた。

土浦落城についての逸話である。




985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/12(火) 20:20:05.98 ID:vG2Q8YKd
由良成繁……?

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/12(火) 20:22:44.69 ID:NgizOAj5
>>983
>良将たる者は千騎が一騎となっても生き延びて、会稽の恥を雪ぐのを本意とするものです。

天庵様はまさに良将中の良将

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/12(火) 20:56:08.04 ID:aJ0i/sNY
早く逃げてくれよw

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/12(火) 21:32:39.40 ID:g3vN+9b/
由良成繁のお化けでも出たのか?

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/12(火) 21:46:14.75 ID:80pQY3oH
同姓同名だよきっと

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/12(火) 23:59:39.04 ID:RBSalYw0
>>983-984
これだけ地の利、人の和があって
天の時もそんなにないわけじゃないのに
負けを重ねた天庵様の才能が怖い

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/13(水) 00:21:33.67 ID:wQxFR99D
菅谷正光「気付いたら城に残る方になってた件」

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/13(水) 02:23:12.49 ID:LrlZpw0b
天庵様はもう天命としか

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/13(水) 02:28:49.77 ID:UmlrcuFz
ここで俺も死ぬ!と言えるのが天庵様のいいところ

996 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/13(水) 09:05:15.87 ID:YQAP3Kcg
この種の名分論を振り回して説得する逸話は思い切り漢学の影響だな。

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/13(水) 12:30:17.68 ID:E5dMtRSY
三河武士の場合、言い争いで脱出できなそうだな

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/13(水) 13:30:00.86 ID:0UsNduM9
まぁ、三河武士の場合、いざとなったら、まどろっこしい説得なんかせずに強引に殿サンのケツを蹴り上げて逃がすだろうから、少なくとも大将は生き残るよね。
あとは誰が代わりに死ぬかだけどw

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/13(水) 13:37:30.06 ID:euMxNlHc
天庵様は家臣にも民にも慕われる名君なのに軍略を誰かに任せる分別があればなあ
なんで戦場ではひたすら匹夫の勇なんだ

モンスター・小田守治と海上武経、そして江戸崎監物

2010年11月11日 00:00

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 22:39:59 ID:rxepfjbR

常陸国小田城が佐竹氏配下の太田三楽斎真壁道夢等に攻撃された時の事。
小田方では佐竹軍接近の方を聞いて、手這坂の辺りまで迎撃に出る。

その小田軍の陣中では、小田氏治の嫡男・守治が海上武経と笑いながら会話してい
た。
「小田家の中で、オレとお前の勇名は群を抜いてる。今回の戦で、どっちが上か決
着を付けようじゃねぇか!」
「おお、良いですな!若君が相手と言えどこの武経、決して手は抜きませぬぞ!」

元々血気盛んな海上武経、この提案を喜び、周囲一尺二~三寸ほどもある樫の木を
手に取り、三間ほどの長さに捻じり切って、それを振り回しながら陣を出て行った。
(「折る」じゃなくて「捻じり切る」って……)

守治も負けてはいない。五尺三寸の大太刀を振りかざし、まっしぐらに敵陣に突入
するという有様。

片や樫の棒、片や大太刀を振り回しながら、縦横無尽に戦場を駆け回るモンスター
二人に対し、
「まともに相手にすんな。遠巻きにして討ち取れ」
佐竹軍は飽くまで冷静だった。

「ちょっ……大将が何深入りしてんの!?」
遠巻きに包囲される二人を見て、菅谷範政は慌てて全軍に攻撃命令を下す。
作戦などそこにはなく、予備戦力など置いておくゆとりもなし。
全軍入り乱れての乱戦となってしまう。
……ただ一人を除いて。

「あれ……? オレ、今、ノーマークじゃね?」
ただ一人、攻撃に加わっていなかった小田家臣、江戸崎監物
こっそりと自らの手勢を動かし、『敵』の背後に出る。
そして……

江戸崎監物、只今より佐竹殿にお味方いたす!」

敵味方入り乱れる乱戦の中、小田軍には新たな敵に対応するだけの余裕はなかった。
辛うじて守治、武経の二人を救出すると、小田城を捨て、土浦城に退却せざるを得
なかった。


何で関東の軍記物には、一家に一人~二人モンスターがいるのかな?w
しかもそのモンスターが戦場でまったくの役立たずと化している辺り、小田さんち
はぶれないなぁ。
あぁ、そーいや多賀谷さんちのモンスターも役立たずだったね。(>>479) ……常陸
ってばそーゆー国柄なの?(^^;
ちなみに今回の文献は『菅谷伝記』です。




528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/10(水) 11:59:28 ID:ygJ99Rkc
>>521
       .|:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;i;:;:;:;:;:;:;:;:;:|
       .|;:;:_:;:_:;:_:;:_;:;氏治:;:_:;:_:;:_:;:_:;l_:;:_:;:_:;:_;:|
       .|___________|___.|
        iイ彡 _=三三三f    _     _ヽ
        !イ 彡彡´_ -_=={    三シ   ヾ三ヽ.     
       fイ 彡彡ィ 彡イ/    ィ_‐- 、   ̄ ̄ ヽ        ま
       f彡イ彡彡ィ/     f  ._ ̄ヾユ  fヱ‐ォ丶      .る
       f/ミヽ======<|でiンヽ lr=〈ィでiン!フ    い  で
       イイレ、´彡f        ヽ 二 _rソ/  !弋_ { .リ.   .な  成
       fノ /) 彡!               .ィ,' :  !.  ..l      .い   長
       トヾ__ら 'イf     u      i ,、 ,..、ヽ . !     :   し
       |l|ヽ ー  '/             _ _  イ../      .:   て
       r!lト、{'ー‐    ヽ        ,ィチ‐-‐ヽ i/       :
      / \ゞ    ヽ   ヽ         .ゝ、二フヽノ/
      ./    \    \   ヽ      ー一 //
   /〈     \                 ノ
-‐ ´ ヽ ヽ       \\     \        人

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/10(水) 12:30:11 ID:qKsJyFcM
>>528
あんたが言うな

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/10(水) 12:33:10 ID:w48y/bLd
父親譲りの無鉄砲な坊ちゃん

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/10(水) 12:49:53 ID:hJSjrxVJ
夏目某「父親譲りの無鉄砲で、人殺しちゃいました」
権現様「吉信の息子なら許す」

手這坂合戦の後日談

2010年09月06日 00:00

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 23:30:42 ID:BHBgJwmz
手這坂合戦の後日談

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3299.htmlの手這(手葉井)坂合戦で、小田家執権・
信太範宗の諫言を無視した小田守治とバカ息子の尻馬に乗った小田氏治は、テンプレ通りの負け戦
に終わった。
簡単に振り返ると目先の梶原政景憎さで周りが見えない守治に対して、「このまま対陣していては
挟み討ちにあうから小田城に帰還しましょう。」という範宗の諫言に対して
「うるさい。政景の首を見ず引き返しては小田は笑い者になる。梶原ごとき小敵相手に軍法知略は
無用である。」「むむ実に頼もしき息子じゃ。」と見事に無視されたのであった。

信太範宗は「守治公では小田家の社稷を保つ器量はない」と腹心に語り、病気療養と称して居城で
ある土浦城に引きこもってしまった。
小田家と言えばみんな大好き菅谷氏が有名だが、信太氏は小田家家臣では執権を務める筆頭家格で
それだけに小田家にとって深刻な問題となった。

一方、引きこもりの範宗に対して「逆意あり」と考えた氏治は菅谷政貞に範宗征伐を命じた。
しかし、「謀反の証拠もないのに兵を差し向けるのは性急に過ぎる。ここで内紛に明け暮れていて
は佐竹の思う壺でしょう。」と難色を示す政貞に氏治は策を授けた。
「そういえば、ワシは小田城を取られるたびに藤沢城に転進しているが、この藤沢城って実は要害
とはいえないんだよな。それに引き換え範宗の居城である土浦城は要害だからあの城を拠点にしたい。
範宗にこう伝えよ。『謀反の意思がない証拠に土浦と藤沢のトレードに応じろ』とな。」
早速使者が土浦城に送られるが、
「手這坂の合戦以降病気療養中である。謀反の気持ちは寸分もないが、先祖伝来の土浦城を譲る気
はまったくない。」と返事がきた。

「もういい。き奴の逆意は明らかだ。信太範宗を討つ手筈を政貞に任せる。」
さっそく策を練った政貞は、氏治にいつわりの無礼を働き氏治は政貞に蟄居を命じた。
いつわりの蟄居を命じられた政貞は、
「氏治公は武運を傾ける大将であのバカ殿に仕えるのは愛想が尽きた。しかし、菅谷単独では小田家
に太刀打ちできない。そこで、信太殿もそれがしの謀反に加盟して頂きたい。」と範宗に使者を送った。
それに対して範宗はあっさりと応じ、「ともかく二人で謀反の密談をしたい。」というはこびとなった。
二人は月見の宴にかこつけて密談を交わし、その後酒をたらふく飲ませて泥酔した信太範宗は政貞自ら
の手で惨殺された。永禄13年(1570年)の出来事であった。
その後、土浦城を急襲した菅谷家が信太家の領土を併呑することとなった。

時は流れて30年後。
常陸国筑波郡手子生村に「信田八幡」が建立され、毎年8月には祭礼を行われた。当時の手子生領主・
菅谷範政が(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1178.html信太範宗を鎮魂するために
建立したという。




770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/05(日) 08:46:54 ID:Jc0Yaxml
>>767
菅谷さんの先祖はもともと菅谷原の僧侶で、「この坊主は機転が利きます」といって還俗のうえ主君に推挙
したのが信太さん。
そして、菅谷氏が台頭するまでの天庵様の転進先は信太さんの居城だったな。