603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 20:57:56.89 ID:7YYZ2okD
その合戦の後、2,3年の間たびたび合戦があり、神田将監は寝込にあって討死仕った。
その時も良き者が多く討死仕った。神田将監は強弓の精兵で長時公(小笠原長時)の
御家中で一騎当千の兵(つわもの)であり、長時公も惜しく思し召された者であった。
“寝込”とは夜討のことである。出水石見と神田将監は長宗公(長棟。長時の父)も
良く思し召して御使いになった者たちである。長時公に御代を渡された時も、その由緒
を仰せられて2人を御渡しになった。信貞公(信定。長時の弟)へは木下惣蔵と
溝口刑部を渡され、下伊那の鈴木城(鈴岡城?)へ御在城させた。信貞により木下惣蔵
は多科城へ差し置かれ、すなわち多科惣蔵と申して一騎当千の者だった。惣蔵は長宗公
が御取立てした者である。
神田将監が常に申されたことには「私めは長宗公が御取立てなさった者なり。『どんな
ことがあろうとも長時公へよく御奉公仕るように』と、私めは後室様に仰せ付けられた。
信貞へは木下惣蔵を御渡しになり、長時公へは拙者を御渡しになったのである。それ故、
私めはいかようにも御奉公仕る覚悟である。しかしながら、長時公は強き御大将であり、
我儘気随で遊ばされるゆえに、両郡の大身の侍衆は皆不満に存じておられる。ある時、
西牧、瀬馬、三村殿ら両三人の衆が御用あって出仕申されたが、長時公の気随によって
出仕はならず、それゆえに帰り申されたことがあった。
またある時には万西、赤沢、鎌田兵衛尉が出仕したが、これも気随ゆえに御会いになら
なかったのである。また山家が出仕した時も同じであった。かようのことが度々あった
ので、両郡の武士たちは不満に存じておられる。
これは水竹と申す者が出頭(寵愛を受けて出世すること)仕るようになって、長時公へ
申し上げることがあったゆえ、このようになったのである」とのことであった。
――『二木寿斎記(二木家記)』
その合戦の後、2,3年の間たびたび合戦があり、神田将監は寝込にあって討死仕った。
その時も良き者が多く討死仕った。神田将監は強弓の精兵で長時公(小笠原長時)の
御家中で一騎当千の兵(つわもの)であり、長時公も惜しく思し召された者であった。
“寝込”とは夜討のことである。出水石見と神田将監は長宗公(長棟。長時の父)も
良く思し召して御使いになった者たちである。長時公に御代を渡された時も、その由緒
を仰せられて2人を御渡しになった。信貞公(信定。長時の弟)へは木下惣蔵と
溝口刑部を渡され、下伊那の鈴木城(鈴岡城?)へ御在城させた。信貞により木下惣蔵
は多科城へ差し置かれ、すなわち多科惣蔵と申して一騎当千の者だった。惣蔵は長宗公
が御取立てした者である。
神田将監が常に申されたことには「私めは長宗公が御取立てなさった者なり。『どんな
ことがあろうとも長時公へよく御奉公仕るように』と、私めは後室様に仰せ付けられた。
信貞へは木下惣蔵を御渡しになり、長時公へは拙者を御渡しになったのである。それ故、
私めはいかようにも御奉公仕る覚悟である。しかしながら、長時公は強き御大将であり、
我儘気随で遊ばされるゆえに、両郡の大身の侍衆は皆不満に存じておられる。ある時、
西牧、瀬馬、三村殿ら両三人の衆が御用あって出仕申されたが、長時公の気随によって
出仕はならず、それゆえに帰り申されたことがあった。
またある時には万西、赤沢、鎌田兵衛尉が出仕したが、これも気随ゆえに御会いになら
なかったのである。また山家が出仕した時も同じであった。かようのことが度々あった
ので、両郡の武士たちは不満に存じておられる。
これは水竹と申す者が出頭(寵愛を受けて出世すること)仕るようになって、長時公へ
申し上げることがあったゆえ、このようになったのである」とのことであった。
――『二木寿斎記(二木家記)』
スポンサーサイト