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小笠原の行く末は

2019年05月01日 16:20

948 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 11:43:54.00 ID:Gr038wOZ
小笠原の行く末は

永禄11年、今川氏真は武田信玄徳川家康の攻撃を受け、朝比奈備中守(朝比奈泰朝)の掛川城へ逃げこむ。小原備後守(小原鎮実か)は、小笠原与八郎(小笠原氏助、もしくは父の小笠原氏興)の取次役であった縁を頼み、馬伏塚城へ一族をつれて逃げる。

しかし、与八郎はすでに家康に通じており、小原を妻子ともに討ち取る。さてさてなんとも惨く可哀想なことであった。当時の人は誰もが「小笠原の行く末は良いわけがない」と思ったものである。

(三河物語)



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小笠原与八郎の事

2019年04月30日 16:06

946 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 02:50:22.89 ID:7AS7T0U+
1574年5月、武田勝頼は軍勢を率い、高天神城を攻撃した。

城主・小笠原与八郎(小笠原氏助)以下籠城衆はひと月以上粘り援軍を待ったが、徳川家康は単独で武田に相対する力がなく、織田信長の援軍がやっと吉田城についた辺りで開城してしまった。 

落城後、城主の小笠原与八郎が武田氏に一味し、家老衆らもこれに従っているとの噂が立っていた。

しかし彼らは家康に人質を出していることもあり、粗略にするような意図は全くありません、と浜松まで参上して申しあげた。しかし数日が経ち陰謀(与八郎たちの寝返りか)の内容が伝わると成敗されてしまった。 


月日は流れ1582年3月、武田氏が滅亡すると小笠原与八郎は北条氏を頼って小田原に逃れ、隠居の身となっていた。しかしこれは家康の知るところとなり、家康より信長へ与八郎を引き渡すように要請してほしいとの要望があった。

早速信長より北条氏へ命令が下り、与八郎は処刑された。その首は小田原より浜松へと直接届けられたという。 

『当代記』