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平瀬落城

2018年03月23日 16:48

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 00:27:11.74 ID:JOeEPDaN
長時公(小笠原長時)が林城を御退きになられてのち、晴信公(武田信玄)は林城を破却して深志の万西に
居城を取立て普請なさり、馬場民部少(信春)を城代にして御置きになった。長時公は領地を御支配されず

といえど、犬甘と平瀬が城に籠っていた。そのようなところに馬場民部は犬甘・平瀬へ計略を入れ、互いに
融和があった。しかしながら、いまだ仲裁も済まぬうちに、長時公の御本意を遂げなさるため、村上(義清)
が深志へ御発向との由が申し来たため、犬甘と平瀬は勢い強く、ますます甲斐には従い申さなかった。

同年(1549)11月初めに、村上の軍勢が会田に陣取り申したとの由が深志へ申し来たので、馬場民部
とその他の者ら深志にいた晴信の軍勢たち20騎余りが、11月初めのまだ夜の暗いうちに、刈谷原崎まで
物見に出て行った。ところが村上衆は1人も参らなかったので、物見の人々は帰ることにした。

一方、犬甘大炊助は自城に軍勢を置いて、手廻り10騎ほどで自身は“あかきり栗毛”と申す名馬に乗り、
長時公御迎えのために出て行った。岡田町という宿に到着した一行は、帰るところだった馬場民部ら

20余騎を見かけると、村上衆だと見て犬甘の方から使者を遣した。使者は申して「こちらに御越しの者は
村上衆と御見受けします。長時公の本意のために、ここまでかたじけなく存じております。深志へ先駆けを
仕るべく、犬甘がここまで参りました」と述べた。

馬場民部は「犬甘が罷り出たので謀って討ち申そう」と談合致し、犬甘への返答に、「長時の本意のため、
村上はここまで罷り出ました。深志への先駆けになられたいとの由、もっともなことです」と返事仕り、

犬甘を調子よく騙し含め申すと、犬甘は見切りも早々に退き申した。その後、深志よりの人々が出合い、
犬甘に切り掛かり申したため、犬甘は犬甘城に移ることができずに同城を右に見つつ、

青島と申すところで掛け馬をも乗り放し、ただ1人になって西牧まで退き、二木豊後(重高)のところへ
参られた。豊後は犬甘をうまく隠し置き、後に西牧殿と相談致して飛騨を通り、美濃のかくちょうへ

犬甘大炊助を送り申された。犬甘城は馬場民部少輔が大将となって、甲州衆と信州降参衆が一つになって
攻め落とし、それより平瀬城をも攻め落とし申した。平瀬城で討死致した人は多かった。長時公の御味方
は強く抵抗致したのでこのようになったのである。

――『二木寿斎記(二木家記)』


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小笠原長時の没落

2018年03月19日 17:30

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 00:20:42.28 ID:9EDGobDw
それがしが20歳の時(著者・二木重吉。1549年)の4月末に晴信公(武田信玄)は御働きになり、
村井に陣を御取りなされ、長時公(小笠原長時)も御出陣して合戦し、その日の合戦は村井・林の間で

敵を切り崩したものの味方も崩れ申し、その後は互いに本陣で追いつ返しつ入り乱れて合戦と相なった。
その合戦で草間肥前と泉石見が討死仕った。泉石見は長棟公の御代より数度の合戦を仕った精兵の強弓

の射手で“土射ず”と皆々は申した。勝負の矢は申すに及ばず、諸々の鳥を射ち申しても外すことが
ないので、あずちを射ち申さずとして皆々このように申したのである。石見はもとは沢清右衛門と申し、

泉小四郎の子孫なので長棟公の仰せにより泉石見と名乗り申した。このような者が討死仕ったために、
林勢は弱くなり、その他にも御味方は多く討たれ申したので長時公は林城へ御引き籠りなされた。

その時に長時公を背いて晴信方となった衆は山家・洗馬の三村・赤沢・深菅・万西・鳥立・西牧の各々
であり、長時公の御家中で5千貫や3千貫を取った大身であった。長時公の御味方で大身の衆は犬甘・
平瀬・刈谷原・小見、その他に御旗本衆ばかりである。

長時公は御家の良き者は討死して、家老の者は逆心仕ったために叶い難く、林城を御開けなされようと
思し召されたが、どこへも道は塞がれて出口もないところに、桐原だけが御味方致し、深志城(松本城)
の城主・万西は桐原の伯父だったため、かの万西は桐原に申して、

「長時公の味方を致すよりも、長時を討ち申して晴信へ忠節を仕れ」と意見したが、桐原は少しも同心
仕らずに強いて御味方致し、長時公に申し上げて、

「いずれも御家中の家老や譜代の者が御敵と罷りなり、私の伯父・万西までも逆心仕り、挙句に拙者にも
逆心を企てよと意見仕りました。ですから少しでも早く塩田へ御退きになられて、村上殿(村上義清)を
御頼み遊ばされませ」と、桐原の妻子を長時公へ人質に出して居城の深志城に引き取り申した。

それより長時公は村上殿を御頼みになられ、村上殿は如才なく存ぜられて、「長時公の御本意を遂げさせ、
林へ御帰し致しましょう」と仰せられ、清野(信秀)と申す侍に仰せ付けられて長時公を御馳走申された。

――『二木寿斎記(二木家記)』


神田将監の存分

2018年03月17日 18:15

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 05:18:29.71 ID:KXMpkOSs
神田将監が7月の初めに出仕した時、征矢野甚助・惣社久太郎・万西次郎・大池右馬之助・桐原と
同道仕り、照りに照った日坂を上ろうと股立を高く取って小飛び掛かりに坂を上った。

若き衆は申して「将監はどうしてこの暑いのに飛んで上がり申されるのか」と申されれば、将監は、
「暑くはない。秋の露ばかりで身体が濡れるので、露を払って上り申しておる」と申した。

若き衆はますます笑って申し「将監殿は気違い申したのか。これほど埃が立って日照りで汗に濡れ
て困るというのに、身体に露と仰せられるのは可笑しく存ずる」と笑った。

将監は申されて「呉越の戦の折、呉王・夫差の臣下・伍子胥が申したことを存ぜぬのか。それを
思い出したのだよ。長時公(小笠原長時)は我儘でいらしゃるので、両郡の武士には不満が多い。

それゆえにこれよりこの城は後に晴信(武田信玄)の仕置きになり、城や家は破却されるであろう。
その時は鹿の臥すところとなって(野に伏すことになって)残念なことである。されば露に濡れる
ことを思い、飛んで通って股立も高く取り申しておるのだ」と申された。

その後、若き衆の落書を将監は立てた。神田将監の存分は面白きものである。

「小笠原の 御家をたをす ものとては 昔は絲竹 今は水竹」
(昔から遊興が御家を滅ぼしてきたが、今は佞臣の水竹が小笠原家を滅ぼそうとしている)

――『二木寿斎記(二木家記)』


長時公は強き御大将であり我儘気随で遊ばされるゆえに

2018年03月14日 22:21

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 20:57:56.89 ID:7YYZ2okD
その合戦の後、2,3年の間たびたび合戦があり、神田将監は寝込にあって討死仕った。
その時も良き者が多く討死仕った。神田将監は強弓の精兵で長時公(小笠原長時)の

御家中で一騎当千の兵(つわもの)であり、長時公も惜しく思し召された者であった。
“寝込”とは夜討のことである。出水石見と神田将監は長宗公(長棟。長時の父)も

良く思し召して御使いになった者たちである。長時公に御代を渡された時も、その由緒
を仰せられて2人を御渡しになった。信貞公(信定。長時の弟)へは木下惣蔵と

溝口刑部を渡され、下伊那の鈴木城(鈴岡城?)へ御在城させた。信貞により木下惣蔵
は多科城へ差し置かれ、すなわち多科惣蔵と申して一騎当千の者だった。惣蔵は長宗公
が御取立てした者である。

神田将監が常に申されたことには「私めは長宗公が御取立てなさった者なり。『どんな
ことがあろうとも長時公へよく御奉公仕るように』と、私めは後室様に仰せ付けられた。

信貞へは木下惣蔵を御渡しになり、長時公へは拙者を御渡しになったのである。それ故、
私めはいかようにも御奉公仕る覚悟である。しかしながら、長時公は強き御大将であり、

我儘気随で遊ばされるゆえに、両郡の大身の侍衆は皆不満に存じておられる。ある時、
西牧、瀬馬、三村殿ら両三人の衆が御用あって出仕申されたが、長時公の気随によって
出仕はならず、それゆえに帰り申されたことがあった。

またある時には万西、赤沢、鎌田兵衛尉が出仕したが、これも気随ゆえに御会いになら
なかったのである。また山家が出仕した時も同じであった。かようのことが度々あった
ので、両郡の武士たちは不満に存じておられる。

これは水竹と申す者が出頭(寵愛を受けて出世すること)仕るようになって、長時公へ
申し上げることがあったゆえ、このようになったのである」とのことであった。

――『二木寿斎記(二木家記)』



大手が敗軍した以上は

2018年03月13日 18:09

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 05:09:35.30 ID:YaEquyta
小笠原信貞は家老の多科惣蔵と溝口刑部を召して御命じになり、長時公(小笠原長時)が下諏訪
の城代・板垣を攻めなさるため諏訪へ取り掛かり申すにつき、下条殿と御談合のために

溝口刑部を御遣わしになり、伊那衆の侍はいずれも一身にして打ち立ち、下条殿、片桐、飯島、
知久、晴近の衆は下伊奈を5月中旬に出立し、相沢・駒沢まで詰めていた。そこに長時公が

諏訪峠合戦に敗軍の由が聞こえてきた。信貞公が仰せられたことには「一日早く出立していれば、
晴信方を切り崩していただろうに」とのことであった。その日は平出を越えて相沢・駒沢に陣を

取り、密かに出立した。伊那の軍勢の押さえのために板垣信方(信憲?)が置かれていたので、
下伊奈の軍勢が相沢・駒沢に詰めていたところを信方は攻め掛かり、小笠原信貞に切り崩されて
小尻まで追い討ちし、武田晴信方の首を多数討ち取って信貞は勝鬨を上げなさったのである。

板垣信方はやっとのことで下諏訪へ引き取り申した。信貞が仰せられたのは、「大手(長時本陣)
が敗軍した以上は、搦め手で勝利したといっても保科弾正(正俊)は晴信に心を寄せ、そのうえ
松島や大出などもそうであるから、対陣には及ばない」とのことで、伊那へ御引き取りなさった。

――『二木寿斎記(二木家記)』


塩尻峠の戦い

2018年03月11日 13:23

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 01:25:25.61 ID:lRqFuNmu
長時公(小笠原長時)が家中の者を召して仰せになったことには「下諏訪に晴信(武田信玄
より城代を置かれたことは無念至極である。諏訪の城代を追い払うべし!」との旨を仰せ付け

られた。すなわち、両郡の侍・仁科道外(盛能)、瀬馬、三村、山家、西牧、青柳、刈谷原、
赤沢、島立、犬甘、平瀬である。右の衆はいずれも大身の旗頭であった。その他に長時公の
御旗本衆・神田将監、泉石見、栗葉、惣社、下枝、草間、桐原、瀬馬村、

及び塩尻衆・征矢野、大池などである。二木豊後(重高)の舎弟・土佐の三男・六郎右衛門、
豊後の子・万太郎(著者・二木重吉)、土佐の子・万五郎と弟の源五郎兄弟もである。

この源五郎は草間肥前の養子と罷りなり草間源五郎と申した。長時公の近習を仕り、林に居住
して御旗本と罷りなった。二木豊後と同土佐、同六郎右衛門、同万太郎、草間源五郎の5人は
西牧の備と一緒に罷りあり、備を立て申した。全軍の兵は林を出立して下諏訪へ取り掛かり、

晴信より置かれた城代を手きつく攻め申した。頃は4月中旬である。城際まで取り詰めて急
に攻め申したゆえ「長時公へ城を渡し申すので、御馬を少し御退き下され」と城中より使者
2人が出てきたので城を受け取り申すというところで、仁科道外が望み申されたのは、

「下諏訪を私に下されば甲斐国までの先駆けを仕って、晴信と一戦仕りましょうぞ!」との
ことで、これに長時公は「私の稼ぎの花を望むとは推参であるぞ!」と仰せられた。道外は
「骨を折っても何になるだろう。信濃にいるよりは、晴信の朱印が良い」と軍前を外して

備を仁科へ引き取り申した。城内よりこの旗色を見届けて城は渡されなかった。そんな折に
晴信は後詰のために上諏訪まで御着きになり、皆々は「諏訪を道外に御遣わしにならないと
長時公が仰せられたのは、御一代の御不覚である」と申したのであった。

長時公はその日は諏訪の四つ屋と申すところへ御馬を上らせなさり、夜が明けて諏訪峠に
御陣を御取り遊ばされ、その日の巳の刻に合戦が始まったのである。初めの合戦で晴信の
先手を切り崩し、四つ屋まで敵を追い下して長時公方は首150を討ち取ったのであった。

その日の合戦は6度あり、その内5回は長時公の御勝利であった。晴信方では本陣がこらえて、
6度目の合戦では瀬馬、三村、山家が逆心仕り、長時公の御本陣にて追いつ返しつ入り乱れる
合戦となった。御本陣の良き者たちの過半は討死仕ったため、長時公もかろうじて林の手勢を

使いなさっていたところ、村上殿(村上義清)が小室へ働かれ申したとの由を聞こし召されて
早々に御引き取り申された。瀬馬の逆心により、西牧の二木一門は本道を退くことはできず、
桜沢に差し掛かって奈良井へ出て、奈良井源右衛門のところで飯米の合力を受け、御岳越しを
して、やっとのことで西牧へ出ていった。

――『二木寿斎記(二木家記)』



593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 13:51:07.78 ID:n9GW6pZV
人望ねえな。お高くとまって下々を蔑ろにしてるイメージだわ。

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/12(月) 18:31:06.29 ID:WNA5qEX9
>>592
小笠原さん戦は強いのに勿体ないよね
この頃の勢力差ならまだどうなるか分からなかったのに

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 16:06:57.16 ID:Que2OFwD
家臣団が強かっただけでしょ

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 16:43:06.79 ID:OrM7ZJsf
御柱祭に乱入したら氏子に撃退されるおちゃめな長時公
お祭りVS戦国大名

諏訪併呑

2018年03月09日 10:59

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 06:39:05.96 ID:54OcSnrL
小笠原長時公は諏訪頼重を味方として、甲斐国内および柳と申すところまで度々御働きになった。
そんなところに晴信(武田信玄)が典厩(武田信繁)をもって頼重へ仰せられたことには、

「武田の味方となりましたら晴信の妹を人質ながら妻子に遣わしましょう。その上で信濃が治まり
ましたら、諏訪に村上郡を添えて遣わしましょう」と色々無事を作り仰せられ、

それに付き、頼重は同心致されたのである。頼重は長時公の家老・小見と申す者の婿でおられた。
小見の娘を追い出して晴信の妹の婿になり、甲斐上原城で祝言されて頼重の息女は甲斐へ人質に
越され申した。これは頼重の先腹の息女である。それより頼重は晴信の味方になったのである。

長時公が仰せられたことには、「晴信が諏訪頼重と縁組して諏訪を甲斐へ引き付けたのは、伊那・
林へ取り掛かろうという知略のためである。しからば、晴信の旗下になった諏訪頼重を踏み崩し、
晴信へ取り掛かって一戦をなすべし」と仰せられ、伊那衆と仁科衆がひとつになって長時公は

諏訪へ御働き遊ばし、頼重の持ち分を焼き払って上野原へ取り掛かった。4,5日攻めると頼重の
者たちを討ち取り、本城ばかりに攻め寄せていたところに、晴信は後詰に蔦木まで御出馬された。

先手は板垣(信方)、飯富兵部(虎昌)、浅利が諏訪の青柳まで参られた。長時公方は伊那衆の
小笠原民部少信貞、下条、箕輪頼親(藤沢頼親)、万西でこの衆が先手となって、長時公の本陣
より攻め掛かって板垣と飯富兵部を切り崩し、首百100ほどを討ち取った。

長時公は実検なさって勝鬨を作り、諏訪頼重は降参して人質を出し、長時公の旗下になられたに
付き、長時公は林へ御入馬されて、伊那衆も帰陣仕った。その後もまた頼重は晴信方になった。

伊那衆の内、箕輪と申すところは6千貫で箕輪殿の領地であった。福与城(箕輪城)に在城の
ところに諏訪頼重は晴信の先手を仕り、3月上旬福与城へ取り掛かり、60日ほど取り巻き攻め
申した。福与城に籠った箕輪頼親の侍衆・松島、大出、長岡、小河内、福島、木下の衆は箕輪殿の
家中で大身の武士である。その他に野口寺や澤々の者が100余騎、雑兵1500で籠っていた。

右の衆が城際で日夜取り合い申し、その時に箕輪殿の内に藤沢織部と大泉上総といって強弓の
射手がいた。福与城の大手でこの者たちの矢先に当たり、晴信の者たちが多く死んだ。2人の
武士は移って箕輪殿に供仕り、中塔城に籠り申した。伊那衆はことごとく残らず後詰仕り、

箕輪福与の近辺の三日町と申すところに陣を取った。天竜川を隔てて足軽合戦があり、長時公も
後詰に上伊那の内の籠ヶ崎と申すところを御本陣にされ、先手は北大手に陣を取り申した。

その時、それがし(著者・二木重吉)は万太郎と申し、生年庚寅年15歳で初めて具足を着仕り、
御供仕った。天文13年(1544)甲辰のことである。

下伊那の内の小笠原信貞より多科惣蔵を使者として籠ヶ崎へ参った趣は「御馬を福与城の根古屋
へ寄せられて、是非一戦仕るべし」との由を申して来た。ところが伊那衆に対して御憤りに思し
召すことがあったために御馬を御寄せにならなかったのは、御一代の御分別違いであった。

それに付き、伊那衆は引き取り申した。箕輪殿の城は無事になり、権次郎と申す弟を晴信へ人質
に出して箕輪殿は牢人となった。そのため長時公も林へ御引き取りになられた。

諏訪頼重が晴信公の妹に若子が出来申して心安く存じ、甲斐へ参られたところ、甲斐柳町と申す
ところで晴信より頼重を生害した。それがしが16歳の正月末のことである。それに付き諏訪衆
と晴信とが合戦し、その年中に諏訪と甲斐は治まり、晴信は城代に板垣を置かれ申した。

――『二木寿斎記(二木家記)』


武田晴信はわざと

2013年11月12日 19:02

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 18:15:06.68 ID:Cm+jXDiZ
武田晴信が父信虎を追放した後、諏訪頼茂(頼重)と小笠原長時が多兵で
甲斐に攻め入り、韮崎で一日のうちに四度の合戦に及んだ。

晴信は韮崎に向かう時、諏訪や小笠原とゆかりのある者は、原加賀守(昌俊?)
を始めとして、数多くの者を甲府に残していった。

この時、原が人々に向かい「各々たちは今日の合戦で功名を遂げるべきなのに、
留め置かれたのは二心を疑ってのことだ。今日、敵に向かわなければ、
長く弓箭をとる身の恥となると思うが、どうであろうか」と、言った。

これに皆は「二心もないのに疑いを蒙るよりは、敵にあって討死することが
勇士の志である」として、我先にと韮崎へ馳せて行った。

この頃、晴信は合戦すること三度に及び、戦い疲れたところを頼茂と長時が
一手になり進んできたので危うく思われたが、原が来たので力を得て勇み進んだ。

晴信は原を呼んでその志を感心してほめ、日向、今井たちを後ろにひかえさせ、
競いかかる敵に当たって打ち破った。

これは晴信の武士を励ます策であり、わざと原たちを甲府に残したのであろう。

――『常山紀談』





595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 18:38:54.27 ID:lHdbh4/O
挟撃されなくてよかったね

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/13(水) 09:31:52.25 ID:gn1Va7KL
>>595
信用できないなら先頭にして突っ込ませるべきだよな

『小笠原牡丹』

2012年01月16日 21:59

479 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 17:59:25.82 ID:nEbxNjIs
信濃守護職・小笠原長時は草花、特に牡丹の花を愛した。
天文19年(1550)7月、塩尻峠で武田晴信に敗れて以来、衰退著しい長時は、祈願寺である兎川寺の住職を訪ねた。

「和尚と会うのも、これが最後となろう。」
「やはり、いけませぬか。」
「うむ。無念だが、武田には勝てぬ。信濃を落ち延び、上方で助力を請う。・・・和尚に頼みがある。」
「承りましょう。」

住職の了承を受けた長時は、一株の見事な牡丹を持って来た。

「わしは、花が好きじゃ。この地を落ちるは、当家存続のため仕方ないとしても、わしが手塩にかけた花を
武田の奴輩に踏みにじられるのは、我慢ならん。
そこで、わしが特に気に入りの白牡丹、この寺で育ててはもらえまいか?」

住職は申し出を快く引き受け、長時は居城を焼き払い、山中を隠れ行き、上方目指して去った。

長時の残した白牡丹は住職が大切に育て、住職亡き後も、牡丹の話を住職から聞いた兎川寺檀家の久根下氏が
『殿様の白牡丹』と呼んで、密やかに守り続けた。

480 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 18:00:10.48 ID:nEbxNjIs
旧伯爵・小笠原忠統は戦後、文化活動に熱心に取り組んだ。
昭和32年(1957)、小笠原氏本貫の地・松本市の市立図書館長に就任した忠統を、一人の青年が訪ねて来た。

「“殿様”、よくぞお戻りになられました。今こそ、これをお返しいたします。」
「これは・・・?」

青年の名は、久根下栄一。『殿様の白牡丹』を守り続けた、久根下氏の末裔であった。

栄一は、小笠原氏も一時居城とした松本城に、この牡丹を株分けする事を提案し、忠統もこれを快諾、
牡丹は松本城本丸庭園に移植され、『小笠原牡丹』と呼ばれるようになった。


戦国乱世の兵火を逃れ、400年の時を越えた『小笠原牡丹』は、今も松本城で美しい花を咲かせている。

ttp://www.shinmai.co.jp/flower/200005/00052302.htm
ttp://www.oshiro-m.org/quiz/g1_4.pdf (PDF注意)





481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 18:24:20.42 ID:kVgPYhsu
いい話だが、小笠原氏は大名に復帰しているのになぜ戦後まで待ったのかな?

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 18:40:24.10 ID:LqaT6squ
牡丹を手放すのがもったいなかったとか

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 19:47:39.60 ID:8oExZufN
>>482
好意的に考えれば、江戸期の松本領主、その後継たる華族家を憚ったのかな。悪意的なのはいわぬ。


484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/17(火) 00:57:33.45 ID:WAh17nbX
うわ、すげえでけえ、綺麗ー!
こんな見事なの、よくぞ守ってくれたねえ。
小笠原長時も久根下さんもいい仕事をなさったわ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/17(火) 10:07:32.88 ID:zEzPJ5T9
>>483
旧主の小笠原家に託されてずっと貴方達の目に触れないように
守ってきた牡丹を株分けに行きますとは時代的に言えなそうですよね。
後で知られても面倒になりそうだし。

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/17(火) 12:16:20.88 ID:y5jQAZXY
初代松本城主の石川氏と小笠原氏の関係は気になる。

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/17(火) 19:53:27.42 ID:frhW3aho
>>483-485
でも、逸話の中にもあるように、小笠原長時の息子、小笠原貞慶は
1583年からの2年間、松本の領主だったこともあるわけで。
さらにその息子、小笠原秀政も1613年から松本の領主だし。

なぜその時ではなく明治維新まで待ったのか、激しく疑問。

武田晴信の諏訪調略

2012年01月08日 22:00

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 18:43:17.21 ID:FmD8vl+R
武田は信虎、晴信の二世代において、信州の』小笠原長時と合戦に及ぶこと度々であったが、
小笠原は諏訪、村上、仁科といった国人たちと共に戦い、武田に対して常に理を得ていた。

信虎、晴信は信州に侵入して長時と雌雄を争い、ある時は今川義元を語らって勝負を挑むものの、
ついに信州を奪うことは出来なかった。

そんな中、晴信はあるとき計略をめぐらし、弟左馬助(信繁)が美少年であったのを以って、
彼と諏訪頼重に深い交わりを結ばせ、板垣信方を遣わしてこう伝えた

「頼重様、武田方に合力していただけるのなら、晴信の妹婿となっていただき、信州が治まるにおいては
現在の領地に加え、村上の旧領も与えられるでしょう」

諏訪頼重は「ありがたし!」とこれに承知し、晴信の妹婿となり、あまつさえ先妻との間に産まれた娘を
人質として晴信のもとに送った。

小笠原の人々このことを知ると、元来頼重は小笠原の家老小見氏の婿であったのに、その妻を捨て
晴信にたぶらかされるなど前代未聞の無道であると、大いに怒ったという。


武田晴信の諏訪調略が美少年による色仕掛けだったこと、しかも信繁の。
というか信繁美少年だったのか!などなど、武田晴信のえぐさが十全に出ている逸話であろう。
(寛永諸家系図)




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 18:51:31.18 ID:1lijqs2s
    〃                 i,     
   r'   ィ=ゝー-、-、、r=‐ヮォ.〈    
    !  :l      ,リ|}    |. }  
.   {.   |          ′    | }   
    レ-、{∠ニ'==ァ   、==ニゞ<       
    !∩|.}. '"旬゙`   ./''旬 ` f^|   
   l(( ゙′` ̄'"   f::` ̄  |l.|  
.    ヽ.ヽ        {:.    lリ    
.    }.iーi       ^ r'    ,'   
     !| ヽ.   ー===-   /   
.   /}   \    ー‐   ,イ          
 __/ ∥  .  ヽ、_!__/:::|\    

  武田 信玄(1521~1573)

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 18:51:35.52 ID:FKBE2kgw
真田パパン「きたない、お館様は本当にきたないw」

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 18:55:39.88 ID:FKBE2kgw
>638、つ
  /⌒ ̄ ̄ ̄\ ρ 「う~~厠、厠」
  /川∥∥| ∥|  ゝ  今厠を求めて全力疾走している某は
 〈巛《〈〈 \巛 |    甲斐武田家に通うごく一般的な男子
  │个 个 ヘ |    強いて違うところをあげるとすれば
  │┌-   )/     衆道に興味があるってとこかナー
   ヽヽ 丿//      名前は高坂源五郎虎綱
    ┼┬┼
 /┴┴┴┴┴ ̄\
 | │       ┤ \
 | │       │\ \
 | │       │ \ \
 | │      /│  │ │
 | │     / │  │ │
┌─ヽ       」   │ │
│ ├┴┴┴┴┤   田田
│ │  ∥   ヽ   / │
├-┤   /   /   LllLノ

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 18:56:31.95 ID:6xAhOce9
お前が言うなw

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 19:02:48.08 ID:Ch/tx09Y
>>639
正統後継者が何を言うw


647 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/08(日) 22:37:37.37 ID:p4ICrS/G
>>638、つ
  /⌒ ̄ ̄ ̄\ ρ 「う~~厩、厩」
  /川∥∥| ∥|  ゝ  古典厩を求めて全力疾走している某は
 〈巛《〈〈 \巛 |    甲斐武田家に抗うごく一般的な信濃武将
  │个 个 ヘ |    強いて違うところをあげるとすれば
  │┌-   )/     衆道に興味があるってとこかナー
   ヽヽ 丿//      名前は諏訪頼重
    ┼┬┼
 /┴┴┴┴┴ ̄\
 | │       ┤ \
 | │       │\ \
 | │       │ \ \
 | │      /│  │ │
 | │     / │  │ │
┌─ヽ       」   │ │
│ ├┴┴┴┴┤   田田
│ │  ∥   ヽ   / │
├-┤   /   /   LllLノ



648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/09(月) 01:40:16.38 ID:CI1nB6wQ
そういや、やる夫家康スレの信玄と高坂は阿部さんと道下だったっけ

三村一族の滅亡

2010年11月13日 00:00

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/11(木) 22:09:11 ID:KyAMrvmj
天文17年(1548)、甲斐の武田晴信による信濃支配は、2月14日の村上義清との合戦、上田原の戦いにおいて
大敗を喫したことにより大きな動揺を見せた。
信府(松本)の信濃守護小笠原長時は活動を活発化させ、同年7月10日には諏訪の有力な国人、地侍が
長時の側につき、同地方の武田軍への攻撃を始めた。

晴信はこの報を聞くと直ぐに出陣したが、18日まで本国甲斐から出る様子を見せずグズグズと動かなかった。
そして18日夜、密かに進軍し19日、諏訪上原城に入ると、そのまま信濃塩尻峠に布陣する小笠原長時の軍を
急襲する!世にいう塩尻峠の戦いである。


当然のことながら、武田軍がグズグズしていたのは理由がある。
晴信は回にとどまっている間、長時派の国人に工作をしかけていたのだ。武田軍の攻撃が始まると、
その仕掛けが動く。
小笠原長時軍5千の中にあった信濃の国人三村長親とその配下500が、長時に対し反旗を翻したのだ!

武田からの不意打ちにただでさえ動揺していた長時軍は、この三村の突然に反旗にもはや耐えることが出来ず
壊滅。この勝利により武田は上田原での敗戦の痛手から回復、信濃侵攻の勢いを完全い取り戻す。
すべては三村長親の内応のおかげであった。


…と、戦後武田晴信は三村長親を、論考を行うからと甲府に呼んだ。


なにしろ三村長親は塩尻峠の戦いにおける最大の功労者である。彼は意気揚々と
2百名ほどの一族郎党を引き連れ甲府に入り、今の太田町にあった一蓮寺に宿をとった。
その夜である


武田晴信は言う

「主を裏切るものは、又裏切るであろう」

彼は一蓮寺に兵を向けた。
突然の焼き討ちを仕掛けられ、三村長親を始めとした三村一党は為す術も無く皆殺しにされ、一蓮寺とともに
焼かれた。
信州三村氏は、ここに滅んだ。


長野県塩尻市、妙義山の麓にある釜井庵は、かつて三村長親の屋敷があった場所だとされてているが、
そこに今も、夜泣き石という石がある。

この石は三村一族の妄念により、夜更けになると泣き叫ぶのだ。と、言い伝えられる。


塩尻峠の戦いと三村一族についてのお話である。





550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 00:26:22 ID:78KsDCTh
備中も信州も嫡流は同じような時代に滅ぼされてるんだな。

お祭りVS戦国大名

2010年08月22日 00:01

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 12:01:53 ID:VRdSgtR6
お祭りVS戦国大名

順調に信濃進攻を進めていた信玄は天文十六年の上田原の戦いで大敗。、
大損害の上、多くの重臣を失ない、さらに占領下の反武田勢力も息を吹き返し、
一転窮地に陥った
武田家と敵対していた信濃守護小笠原長時もこれを好機として諏訪領に乱入した。
おりしも六年に一度の諏訪大社御柱大祭の年で、
この乱入の為にお祭りの参加者が少なく
御柱祭を大々的に後援していた、武田家は大いに面目を失ったとある。
これに気を良くした長時は、6月に行われるお祭りの後半にも乱入したが、
ブチギレたのは、2度までもお祭りの邪魔をされた氏子たちであった。

長時「ヒャッハー、お祭りなんてぐちょんぐちょんにしてやんぜーw」
氏子「ブチッ」
長時「あれ、え、ちょっとwww」

六月十日、小笠原殿外宮打入、外宮計出相、馬廻下侍十七騎、雑兵百騎、討取候。
小笠原殿、二箇所手おはれ候。宮移之御罰と風聞候。(諏訪神使御頭之日記)

超意訳(地下人達が相手してやったら、侍17人、足軽100人余り討取っられた挙句に、
長時自身も2ヶ所も傷を負って惨めに逃げ帰っていったぜー。まさに天罰ブゲラw)

自分たちでやって天罰も何もないと思うが、六年に一度の神事に介入したばかりに、
諏訪大社の最重要神事記録に書かれ、後世までみっともない話が残った運の悪い話。
ちなみにこの一カ月後に塩尻峠の戦いで、武田に敗れ、衰退の一途をたどる、
小笠原長時だが、二記家記や溝口家記を見る限り、
おつむは弱いが猛将として書かれ、けっして弱いわけではない。
荒っぽいお祭りとして現在も有名な御柱祭が異常なんだと思う。たぶん。




586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 14:23:13 ID:tZUQdcf8
小笠原に喝だぁ!
諏訪神社氏子、天晴れ!

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 16:13:17 ID:JmsTIei/
日頃の憂さ晴らしのためのお祭ではなく神事だからな
そりゃ邪魔されたらキレるわな

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 17:13:32 ID:w4fs8jN9
仏の顔も三度というが
氏子たちは一度だったか