賊軍の平行長から

2017年03月10日 13:08

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 00:39:46.61 ID:CuKbDLlq
ついでに↓でも触れられているけど柳成龍による巨済島の海戦
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2860.html

賊(日本)軍の平(小西)行長から要時羅(よしろう)という人物が金応瑞に派遣されて
「自分は講和交渉を台無しにした加藤清正を甚だ憎んでいる。
これこれの日に、清正の倭船が渡海してくるので朝鮮の水軍は迎え撃つべきだ」と言った。
権慄はこれを信じたが、李舜臣は賊の罠だと疑い、前進せずに遅延してしまった。
とうとう清正が上陸してしまったため、朝廷は李舜臣を咎め立てし獄舎に投ぜられた。
するとまた要時羅が派遣されて「これこれの日に倭船が来援します」と伝えてきたため、
李舜臣と仲の悪かった元均は、あるだけの船を全速力で向かったところ、
強風が吹いて散り散りになり、疲れたところを賊軍に襲われてわが水軍は壊滅してしまった。
思えば、賊軍は水軍にだけは敗北を喫していたため、秀吉がそれを憤って行長に撃破を命じ、
行長は応瑞を騙し、李舜臣を罪に落とし、元均を海上におびき寄せて襲撃したのだった。
その計略は至って巧妙で、わが方は、ことごとくその計略にはまり込んでしまった。
哀しいことである!

友軍を売ろうとしたら大戦果を収めてしまった小西行長であった


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だから越中に謀られたのだ

2016年06月17日 17:55

732 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/17(金) 11:15:30.85 ID:GEmWGYBE
三成の柿の話は綿考輯録(細川家譜)だろうからたしかに違うがこのコメント4も訂正しないので自分が
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-886.html

慶長4(1599年)年3月26日家康は向嶋の屋敷に移動した。
これより以前三成はどうしても忠興を味方にしないと家康を倒せないと考え、多くの人に頼みその中には前田玄以もいて
「忠興と仲が悪いのは大いなる誤りで何とかして和睦できるよう、お頼み申す」とひたすら頼まれたので玄以は忠興の所に行き、このことを告げた。
しかし忠興は許さないので玄以は重ねて「太閤の大恩をもし忘却してなければ私恨を捨て三成と和睦してください」と再三説得してきたのでついには納得して三成と会うことを決めた。

長束大蔵大夫(正家)は和睦のことを聞き大いに喜び、「忠興から三成の所に行くのも、三成から忠興の所に行くのもどうかと思うので、我が屋敷にて共に会って和解するといいでしょう」と
と玄以を通して申し入れたので、日を定めて行くことになった。

三成は早くから来ていて手には盤上の柿を忠興の前に仲直りの挨拶もせずに置き、三成は「以前好物だと聞いていたので持ってきました。
お先に召し上がりください」と言うので忠興は挨拶してから柿を食した。
その席にて三成が内府の専横を数えあげては言い「これをそのままにしては天下は穏かならずことになり終いには天下は内府を主とするに至るでしょう。
まことに遺憾で何とかして秀頼公に奉公仕り権勢を欲する内府をを討ち果たべきと決意しました。
太閤への大恩を忘れてなければ我々に味方してはくれないでしょうか
秀頼公への忠節に対しては、お望み次第にどこでも好きな国を二ヶ国を拝領することを三成が周旋することをお誓いしよう」と丁重に言うと
(忠興も)「我々に目をかけてそのようなことを頼むことに大変嬉しく思う。この上は不肖を捨て一命をかけ、お味方しよう。さて、内府を討つ手立ては?」
(三成は)「こんな時のために、太閤存命の頃から内府の屋敷を取り巻き、味方の面々の屋敷を変えさせました。
今夜即夜討ちをするつもりで宮部善祥坊(宮部継潤)と福原右馬助(福原長堯)は家康の近隣で屋敷が高いところにある。
これらのところから火矢を打ちかければ火が出て何の備えもない家康方は慌てて屋敷を出るところを井楼から一人一人鉄砲にて討ち取る。
僅か二千の兵と聞いているので仮に逃げだす者がいても、こちらの多兵をもって討ち取る算段なので何の手間もいらないので(忠興にも)兵を出していただきたい」

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 11:20:29.37 ID:GEmWGYBE
忠興もこれはもっともな手段だと思ったが、少しも合点がいかないふりをして、
「いやいやそれでは駄目だろう。火矢を打つのは地の高下とは限らない。
内府も堀裏に走り、櫓などを付け、火矢の用意もあるだろう。その上近辺の諸将には、常に忍を置いていると聞くので今夜の企みもはやくから知っているだろう。
こちらから火矢を10射出す時、向こうからは100も射かけてくるだろう。そうすると、敵の屋敷より味方の屋敷が先に燃えてしまいます。
内府は数度の武名を顕し、場数の勇士も多い。2000人が心を一つにして必死の働きをすれば、討つことは難しい。
その内に彼と親しい諸大名が聞き付けて駆けつければ、却って御味方の敗北は疑いようがない。
例えその状況でなんとか勝利を得ても、『弱きの巧みな臆病なる手立』などと後々まで嘲りを受けるのは大変悔しい。

しかしながら、それほどまでに思い定めているのなら、私に一策があるので聞いていただきたい」と言い三成も「その意見を承る」と返した
「今夜の先手を私に命じろ。無二無三に切り入るから各々は二の目を取れ。そうすれば内府を討ち取ることもあるだろう。
例え敗死したとしても、潔い英名は後代に残る」

と申したところ三成はそれを聞かず「あなたを捨て駒にしてそのようなことはできません。お願いだから最初に私が提案した意見にしてください」というが
忠興は納得せずお互いに意見を引かないため論争になった
「忠興殿もあのように言うしどのような意見でまとめるにしろ時間も大分過ぎて夜も深いし、今夜はお開きにしませんか」と提案があったのでそのとおりとなってその日は皆帰った。

後日この話を聞いた小西行長の反応は
「なんて口惜しいことだ。五奉行は世間事には賢い者達だが軍事には拙い。だから、越中(忠興)に謀られたのだ。もはや内府を討つ事など思いもよらないことだ」と、言い頭を抱えて悔いたと聞いた。

忠興はその夜、幽斎を通して「このような事があったので、向嶋に立ち退くように」と言ったが、「彼らにどのようなことができるのか」との返事だった。
翌日忠興自ら家康の所に赴き、そのことを全て話して早く向嶋に立ち退くようにと提案した。
家康はその計画を知り大いに驚き、「命を落とす所だった。この御恩は子々孫々までも忘れない」と語ったという。

関連
柿と三成と忠興・悪い話


しかしこれによって異国と本朝は

2016年01月21日 17:38

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 05:15:56.58 ID:TEmnWNJ0
文禄の役の講和のため、大明・朝鮮の伝奏が来日することは、小西行長石田三成を通して
報告していたので、秀吉もかねてより、馳走すべきであると、その歓待のため家臣を奔走させた。

伝奏が登城すると、秀吉は上壇に着座し、伝奏は次の間に置かれたのを、伝奏は通詞を以って
秀吉に訴えた

「日本国太閤秀吉、大明国に和を乞うた以上は我らと同輩である。
そもそも私は、この冠を太閤に御免なされる勅使なのだから、太閤の態度は無礼である。
太閤は次の間に下り、大王より御免なされた勅書、冠を頂戴すべきである。」

これを聞いた秀吉は以ての外に激怒し、小西が表裏を言ったのだと思い、
「この冠を捨てよ!」と命じ、庭に捨てさせた。
そして明皇帝からの勅書を台長老、哲長老に読ませ、その内容を聞いた所、小西が報告したこととは相違し、
先ほど勅使が言った通りの内容であった。

秀吉はますます機嫌を悪くし
「この秀吉を大明国王の婿とし、朝鮮四道を割譲すると、小西が申した故に、軍勢を釜山浦まで引き取り、
朝鮮の王子たちも返したのだ!どれほど後悔しても及ばない。小西を呼べ!!」

そして呼び出された小西行長を見ると、「こやつの首をはねよ!」と怒ったが、小西は色々と
詫び言を申し上げ、また石田三成からもたっての取り成しを申し上げたため、当座の難を逃れた。

しかしこれによって、異国と本朝は再び手切れとなったのである。

(續撰清正記)



石田三成の対面(武功雑記ver)

2015年10月19日 14:01

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 10:31:30.50 ID:Z9MZl0gp
関が原の合戦の後、石田三成が生け捕られた時、紺の帷子を被って小袖を許されていた。
藤堂宮内(高吉)が来て、

「私は治部少輔の恩を受けたものなので、ひと目会いたい」

とたって望んだため、対面を許された。
宮内は「さてさて」と何か言おうとすると、三成は

「いやいや、最早何も言わぬものだ。」

そう答えた。

さて、この時捕らえられた、石田三成小西行長安国寺恵瓊の3人に時服一重づつ、
台に乗せて下された。

小西は言った
「一時の寒風を逃れよと、小袖を下さること忝ない。
諸人に対面するのも面目がないが、身に刀を立てぬ宗旨ゆえ、このように見苦しき目に逢ってしまった。」

安国寺は小袖を見て
「それだけか」
と言って着用した。彼は諸大名に会ってもずっと無言であった。傷が痛むように見えた。

三成は小袖を見て
「これはどこから来たものか?」と聞いた。「上様からである。」
「上様とは誰か?」
「いや、内府様の事だ。」
これに三成
「さてさて、上様はこの前他界されたばかりだというのに、早くも内府を上様と呼ぶのか」
それだけ言って小袖を着ようとしなかった。
諸大名には雑言を言っていた。

(武功雑記)




文禄の役の和議の模様

2015年08月06日 14:18

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/06(木) 12:27:18.76 ID:6LDCYi5a
大明の石司馬と言う者は、明において朝鮮のことを司っていた。
秀吉の朝鮮出兵を受け、どうやって朝鮮に入り日本の兵を退治すべきか計っていた所に、
沈惟敬と言う者、先年日本に渡った鄭皿という者に遭って、日本のことを尋ね聞き、
今度の朝鮮の乱で大功を立てようと考え
「私は日本のことをよく知っている!」
と触れ回った。

石司馬はこれを聞いて対面し、人を得たと大いに喜んだ。
彼は祖承訓らの敗戦に凝りて、重ねて大軍を催さなければ日本人と戦うのは難しいと思い、
この沈惟敬に、朝鮮に行って和議を整えるようにと命じた。
これによって沈惟敬は朝鮮に渡り、小西摂津守(行長)が平壌に在った時に対面し、
明と日本が和睦すべきということについて議論した。

小西行長は7ヶ条の要望を書き、「この事が整うのなら我らは和議に同意する」と伝えると、
沈惟敬もこの条件を了承したため、裄長も同心し、和睦を結ぶことを許可した。

ところが沈惟敬が明の帝都に帰りこの件を奏上すると、群臣の詮議はまちまちであり
俄に結論は出なかった。このため和議は未だ成らず、その間に李如松が大将として大軍を引きい
朝鮮に渡った。ここに至って沈惟敬もまた朝鮮に渡り李如松と対面し、石司馬の意をのべて
日本と和議を結ぶべきとの内容を語り、また小西のもとに来て相談した。

そこで、去年小西より要求した7ヶ条のうち第4は大明より秀吉を日本国王に封ずべきとの内容であったが、
小西や三奉行を始めとして。朝鮮の在陣には労苦が多かったので、どのようにしてでも和議を整え、
戦争を終わらせて日本に帰りたいと思っていたため、この一項を言い換え、『秀吉を大明の王に封ずべし』と
日本に申し送った。その上、朝鮮の二王子を返せば、朝鮮八道の内四道を割譲する。日本の帝王を
明の天子の婿とするであろうと、沈惟敬が言ったため、これを小西及び三奉行が申し上げると、
秀吉は喜悦し「そういう事なら戦をやめて和睦しよう」と、朝鮮在陣の諸将に対し伝えた

「日本側が要求した7ヶ条に大明が同意した上は、加藤主計頭(清正)が生け捕った朝鮮の二王子、および
臣下たちを送り返すように。朝鮮の王城にいる日本勢は釜山浦まで引き取るように。」

また開城府を守る李如松も、日本勢が王城を出たなら、同じく軍勢を残らず引き連れ開城府を立ち退いて
大明に帰るべしと定められた。
これによって、4月18日、日本の諸将は皆、王城を引き退いた。
小早川隆景の謀にて、各陣所に火をかけて立ち退いた。
大事の退き口であるので、大明の大軍が後を追撃してくることもあるため、黒田長政に
殿を務めるようにと議定し、その旨に任せた。

また都より釜山に帰る途中に大河が在ったが、長政はここに船橋を渡し、王城より帰る兵を
残らず渡すと。その後船橋の綱を切って捨てた。
李如松はその後やがて、日本軍と入れ替わりに王城に入った。

(黒田家譜)

黒田家譜より、文禄の役の和議の模様である。




小西行長捕縛

2015年07月30日 11:39

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/29(水) 21:11:58.51 ID:ZmPhxVvV
城和泉守(昌茂)が物語った事である

「私が先年、関ヶ原に一泊した時、旅籠の亭主を呼んで『昔ここで、大合戦があった時のことは覚えているか?』
と尋ねると、この亭主は老人で、詳しく物語した。私が『小西行長をここの者が捕らえて草津に差し出したと
言うが、それを知っているか?』と問うと、この亭主『小西をとらえたのは私です』という。そこで私は、
この事色々と質問し、ついに事実であると理解した。亭主が言うには

『あの時、おびただしい落人が日夜ここを通っていたため、在所の者共は申し合わせ、武具はもちろん
衣類まで剥ぎ取っていました。しかし我々はそれを制し、そのような事は致しませんでした。
これは仔細のあることでした。

そのような中、近くの山において、我々に呼びかけてくる落人がありました。
私が「いらぬことを話しかけるより、何方へでも、早々にお忍びなさい。」と申しましたが、
「是非是非ここに来てほしい。頼みたいことがあるのだ。」と申します故、行ってみると
「私は小西摂津守である。徳川家に連れて行って褒美を取れ。」と言うではありませんか。

私は驚き「考えもできない、勿体無いことです。どうか少しでも早く落ち延びてください。」と
申し上げましたが、「いや、私が自害するのは容易いが、切支丹なれば自害も出来ぬ。」などと
様々に申されたため、是非なく我々がお供申し上げました。

そこから御本陣に向かいましたが、途中でもし人に奪われてはと心許なく思い、
竹中丹後守の衆を呼んで色々と話し合い、小西殿を馬に乗せ、竹中丹後守御家来が同道にて草津の
御本陣へ参り、村越茂助殿の宿舎にこの事を申し入れますと、我々を宿舎の中に通され、その後、
小西殿に縄をかけられました。
私達は途中も心やすく考えてお供していたので、縄のかかることになるとは考えもしていませんでした。

それから、私達にはご褒美として黄金10枚が下されました。竹中丹後守殿にも、何か下されたと
記憶しています。その後は特に何のご沙汰もありません。』

世の中では、林蔵主と申す飛騨出身の出家が、これが大力であったため小西を生け捕った、などと
諸書にもあるが、それは偽りである。」

(明良洪範)

小西行長捕縛についての逸話である。






加藤吉成の知謀

2014年12月01日 20:28

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 19:05:21.69 ID:pLG88mxo
朝鮮の陣での、ある城を攻めた時のこと
日本の諸将が数日これを攻めたが、敵も堅固に持ちこたえなかなか落ちなかったため、
日本軍は攻め口を退き遠攻めにした。

この時、小西摂津守行長の家臣である加藤内匠(吉成)が申し上げた

「この城を数日間大軍で攻めましたが、寄せ手が討たれるばかりで城は落ちず、遠攻めと成りました。
ですが私の考えでは、今夜夜討を仕掛ければ、必ず乗っ取ることが出来ます。なぜなら敵は、我々が
夜攻めをするとは全く考えていないからです。間違いなくここ数日の対陣に困窮し、遠攻めのため退いたことに
油断しています。ですので、先ず忍びの者を遣わされ、敵の様子を究明することが宜しいでしょう。」

小西も尤もだと同意したため、加藤内匠は忍びの者に加え、家来で物慣れている清水角兵衛とい者を相添えて
偵察に遣わした所、両人罷り帰り、揃って敵が油断している様子を語った。

そこで小西軍は軍勢を二手に分け密かに押し寄せた。この時加藤内匠は搦手を攻める別働隊に下知した
「大手より鬨の声を上げて攻めれば、敵は尽く大手に集まるであろう。その時別働隊は搦手より
進入するように。」

そして大手で時の声を上げると、案の定敵は夜討が行われるとは思いもよらず殊の外混乱した。
大手攻めの軍は斧で門を打ち破ろうとし、また鉄砲も厳しく撃たせたので、敵は皆大手に集まり、
搦手には守兵がいなくなった。

よって搦手の軍はやすやすと城内に侵入し、加藤内匠も一番の乗り入った。諸勢も尽く攻め入り、
敵を数多討ち取った。
小西行長からは日本軍の諸将と示し合わせもなく、ただ小西の一微を以って尽く乗っ取ったこと、
偏に加藤内匠知謀によるものであった。

この時の鉄砲の音、時の声に驚き、他の日本軍の諸将は追々この城に乗り入れた。
しかし他の日本軍にとってもこれは思いもよらぬことであったので、夜が明けてみると、鎧を着る暇もなく、
素肌(鎧を着ていない平装の状態)の者が多かったという。

(黒田家臣伝)

後に黒田家に仕えた加藤吉成の知謀についての逸話である。




黒田長政、残された城を

2014年06月29日 18:52

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/29(日) 04:51:10.55 ID:IN8XrTCj
朝鮮の役の時、

小西行長は一番に朝鮮の都に入り高名をしようとして、その道筋の城には手をかけず、直に入ろうとしている、
という情報が聞こえてきた。

そのため黒田長政は小西が通りすぎた道に残された城を攻め落とし、後続の味方が安心して通過できるようにしようと
大道筋に進軍した。中でも昌原の城には大勢が籠城していたのを、長政は昼夜これを攻め、数度の戦いの後ついに乗っ取り、
500余人を討ち取った。

長政が道筋の城々を攻略した事により、後続の軍勢は難なく都の攻め入ることが出来たのである。
(黒田家譜)

黒田長政、小西の進軍の後で後続勢のためのフォローをしていたんだよ、というお話。




224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/29(日) 09:43:42.52 ID:dXKwuvBU
黒田勢がついた頃には都は陥落してたよね?

フロイスdisりシリーズ、石田三成編

2014年03月22日 19:01

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 19:32:52.65 ID:w9hwEiiW
フロイスdisりシリーズ、石田三成

『1586年(天正14年)のこと

関白殿(豊臣秀吉)は堺の代官に二人の人物を任命した。その一人は(小西)ジョウチン隆佐であり、
今の海軍総司令官であるアゴスチイノ弥九郎殿(小西行長)の父に当たる。

このジョウチンは最良の人物で、都の最初のキリシタンの一人であり、教会並びにキリシタンたちの
古い友人である。

堺の代官となった彼の同僚は、佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を快しとしない
ジョウチンの大敵であり、キリシタンの敵でもあった。
彼は嫉妬深く、野心家で傲慢であり、その他の事柄においても悪徳に満ちた人物である。

この両名ともに、堺の代官に就任した。』

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスは石田三成も大嫌いだったらしい。




786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:09:08.63 ID:AXFVzZxh
上役への報告ってこんな適当で良いのか?
事実誤認が1つ2つじゃないけど…

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:28:49.94 ID:zFAj3K5p
後に二十六聖人事件で三成が秀吉の意向に反してまで
処刑されるキリシタンの数減らそうとした件について
フロイスさんの見解が知りたいw

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:31:05.60 ID:zFAj3K5p
あとフロイスさんって、清正とか市松とかセンゴクとか
ラスボスの子飼いでキリシタンじゃなかった奴は軒並みディスってるよなw

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 00:10:02.54 ID:bBy/l9xL
>>786
その上司はさらに上司に向かって
こいつは誇張癖があり考え方も偏ってるとちゃんと報告してますw

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 18:30:22.57 ID:H13RErIt
>>786
>>787
同じくフロイスが書いた「26聖人殉教記」では、三成の対応を見て
「日本史」でのボロカスな評価を改めたような記憶があるんだが
ちょっと自信ないから図書館で二十六聖人殉教記探してみるわ。

二つの記録に登場する三成

2014年01月30日 19:15

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:02:55.52 ID:uE2pb5xB
過去ログ見ずに投稿。かぶってたらすいません。


関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いで西軍は敗北、岐阜城は陥落した。

勢いに乗る東軍は、次の目標を大垣に定め、長良川の河渡の渡しにおいて
石田三成の部将・杉江勘兵衛らと交戦、これを討ち取っている。
揖斐川の呂久の渡しの守備についていた三成と小西行長は、事態を憂慮、
墨俣を守っていた島津義弘と協議し、その結果大垣城へ退くこととなった。


このとき、島津義弘はわずかな供廻りしか連れておらず、兵のほとんどは
墨俣に残っていた。石田・小西両勢が撤退してしまえば、島津勢は敵中に
孤立してしまう。おのれのみあくまでも退こうとする三成に対して、義弘の
家臣新納弥太左衛門と川上久右衛門が三成の馬の口を取り、考え直すよう
迫ったが、三成を翻意させることは出来なかった。司馬遼太郎の歴史小説
『関ヶ原』でも採り上げられている話であり、小説では卑怯と責められた
三成が馬上で「卑怯ではない、卑怯ではない」と独白する場面もある。
これがもとで義弘は三成を信頼できなくなり、合戦当日に非協力的な態度を
とるにいたる―というのが小説の筋。上記の話は実際に従軍した島津家家臣
大重平六の覚書がもととなっている。無論、三成独白の場面は司馬の創作で
ある。


一方、あまり知られてないが、こんな話も残っている。



退却が決まり、墨俣の島津勢は前線から大垣城目指して急いでいた。はや
日も暮れようとする頃、行く手より一騎の武者が駆けてくるのが見えた。
その出で立ちは、黒の具足・水牛の角の立物の兜を被り、供廻りも従えず
ただ一騎のみで急ぎ駆けてくる…。

「あっ、あれは治部少輔殿だ」

そう、三成であった。

島津勢が墨俣からの退却に難渋していると聞き、見舞いに駆けつけたのだ。


出典は、これも島津側に残った神戸久五郎の覚書。


二つの記録に登場する三成、まるで正反対w。
ひょっとしたら、先の話は島津家がお家のために創作したのかも。




246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:15:18.76 ID:pnHGcZ8r
島津義弘は最初から東軍が勝つと思っていたんだよな
で東軍に入りたかったけど、ご存知の通りでご破算

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:18:47.90 ID:pZ7zDfLS
検地で三成と親しかったし、もとから西軍派だったけど負けたから死人に口なしってことで
西軍についた責任を鳥居におっかぶせただけじゃないか

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:45:19.32 ID:9Cqd3mn5
義弘は最初から中央の要請で上杉征伐行くつもりで大坂行ったらきな臭いことになってたから
やむなく流れで入っただけでしょ

三成に協力してくれなんてことは一度も連絡されてないし西軍なんてもんは知らんよ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 14:47:53.84 ID:pnHGcZ8r
井伊の赤備え VS 島津ステガマリ は関ヶ原のクライマックスにふさわしいね

253 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 16:26:51.41 ID:8Eq9Z+rj
>245
司馬の小説でその後の話も載ってたような。

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:35:31.66 ID:Ygv7vstz
>>253
色眼鏡で三成見てるなあ。
それでなくては小説家になれんのかな?

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:58:30.35 ID:AuvVqLon
>>255
色眼鏡って言うかどっちも資料に残ってる話をミックスさせただけじゃないの?

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:59:03.27 ID:YH16w5ma
ミックスさせればそうなるよな

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 18:15:28.36 ID:4KLIDOmA
>>233
立花家の道雪の甥の立花統春が、加藤家から逃げてきた罪人を匿ったことで
騒動になって切腹した話もあるね

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 18:38:04.13 ID:HkdSXETq
>>254
つ「やる夫が山形城に生まれたようです」

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 22:49:05.67 ID:w60+8gyk
>>245
水牛の角で黒田長政が単騎で突撃してきたかと思った

小西行長、平壤からの撤退の模様

2013年12月24日 18:55

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 15:06:35.56 ID:jofXKJj4
朝鮮の役の事

小西行長が籠った平壤城の外2里ばかりに、牡丹台という出城があり、ここにも小西は兵を籠めていたのだが、
唐人にこれを奪い取られ、平壤の本城ばかりとなってしまった。

大明の大勢がこれを取り囲んだ。大砲を多く放ち、その音は山岳に響き、異国の路程で数十里にわたって聞こえた。
また火矢を隙間もなく打ち掛け、その煙は天を覆い、火矢は城中に入って所々焼失したため、敵勢はその勢いに乗り
大勢が城に向かって攻め上がった。

城中からも矢狭間より鉄砲を激しく撃ちかけ、剣乾を連ねて防いだが、敵は激しく攻め戦ったため、敵味方に
討たれた者多かった。城中は既に危うい状態に見えたため、敵将の李如松の謀により、後ろの囲いを解いて、
逃げ道を開けて攻めた。これは城中の兵が必死になって戦えば、大明人に多くの被害が出ると考え、このように
したのである。

小西は勇猛であり、よく防戦したのだが、大敵に攻められ、城中の兵多く討たれ、初めは1万5千の兵で籠城
していたのだが、今では残兵わずか5千人を過ぎないばかりであった。
「この少勢で20万の大軍を防ぐことは出来ない。こうなっては明日には必ずこの城は攻め落とされるであろう。
ここで止む無く敵に討たれるよりは、一旦落ち延びて、後陣の味方と一緒になって防ぎ戦おう!
14里後方に大友(義統)の城がある。そこまで引き退いて、大友勢と一つになって籠城すれば、暫くは敵を防ぐ
事もたやすいことだ!」
そう兵たちに伝え、敵の囲んでいない方向から、正月8日の夜半に、密かに城を出た。前後に鉄砲・騎馬の兵を
立て、中に小荷駄・陣夫を包み、引き固まって退いた。

明朝卯の刻(午前6時頃)、大明の兵は平壤の城に攻め入ったが、一人の兵もなく、皆撤退した空き城であった。
このため、急ぎ撤退中の敵を追うべしと、手分けをして追手をかけたが、時刻が隔たっていたため追いつくことは
出来なかった。引き遅れた雑兵が少々あった程度で、戦闘には至らなかった。

小西が大友の城まで引き退き城中に入った。ところがそこでは、大友勢は既に一人残らず撤退した後で、小西勢は
皆力を落とした。これまでの戦いで士卒の力も尽き、まともな道も通らなかったため、ここで暫く休息を取ったが、
この城にあまり長く留まっては、敵に追いつかれると思い、また夜中に城を出、終夜撤退した。

ようやく夜が明けると、先の山中に中白の旗が見えた。それは黒田長政の家臣・小河傳右衛門の籠もる龍泉の城
であった。

小西行長はこれを見て、黒田は未だ撤退していないことを知り大いに悦び、諸卒に向かって言った
「さても軟弱なる大友かな!日本一の大剛の大将は黒田である!もはや黒田が城近し。一同賑わえ兵ども!」
これに士卒皆力を得て悦んだ。
(黒田家譜)

この小河傳右衛門の救援に寄って小西軍は明の追撃舞台を撃退し、撤収に成功する。
小西行長の、平壤からの撤退の模様である。




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 16:10:31.67 ID:zbFvnxAt
こないだ小西をこき下ろしたばかりなのに、今回は小西を持ち上げて黒田ageさせるとは…
さすが黒田家譜はブレない

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 21:07:27.45 ID:R3dz8tgk
黒田家譜は登場人物が如水と噛ませ犬しかいない1ビット構造だから

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 21:48:55.47 ID:CLsMyCiE
そして安定の大友吉統sage
輝元、三成とならぶ黒田家譜御用達の噛ませ犬がまた登板

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 23:30:51.26 ID:PEnnqzNe
大友って改易される程やらかしたか?

仙石みたいに領国まで逃げ帰ったのか?w

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 00:29:19.82 ID:hKuDfixh
>>104
味方の無事を確認せずに拠点を放棄して撤退だから、同じくらいやらかしていると思う。

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 02:38:53.44 ID:r0eBolej
噛ませも何も義統ちゃんだからなあ
自ら意志薄弱で優柔不断とか言っちゃうくらいみたいだし
ただ朝鮮出兵での処罰などは政治的意図と秀吉の勘気が絡んでくるから何ともね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 07:38:12.22 ID:pW4X5Oew
まるで社会に適応できないお前らみたいだなw
引きこもって酒浸りとか

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 07:51:20.97 ID:tiqlmTBX
>>102
でも隆景はageるばかりでsageはしないんだよな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 11:29:41.55 ID:Jmsm6NZG
>>107
市松「夜まで飲もうか」

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 15:29:19.65 ID:mxnu+bBb
一条さん「女子もほしいぞな」

しかし小西は同心せず

2013年12月16日 19:18

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:05:50.04 ID:6v77XdVE
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は朝鮮へと出兵し緒戦に大勝、たちまちの内に首都漢城(ソウル)を陥落させ、朝鮮を蹂躙した。

その後、総大将である宇喜多秀家より、相談すべきことがあるので諸将に漢城に集まるよう触れがあり、
尽く集合すると、大将秀家及び三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)から評議の内容が伝えられた、曰く
「各々の手柄に寄って各地の城も既に陥落し、その他の朝鮮人は戦わずして退散した。
しかしながら、朝鮮は元々大明の属国である。必ず大明より加勢が出されるだろう。
その上、朝鮮が既に敗北したと聞けば、大明も日本兵が侵入すると思い、必ず戦のための
大軍を差し寄越すだろう。この場合、これと戦う手立てはどのようにすべきと各々はお考えか?」

黒田如水はその座に居たが、これを聞いて
「仰せの如く、朝鮮が敗北したことを知れば、必ず大明より救援の兵が多く来るでしょう。
この都(漢城)より釜山海までは十余日ある長路であり、日本までの通路は遠く、物資の運送は不自由ですが、
朝鮮を切り従える中心でありますから、これを放棄して釜山まで後退するのは本意無きものであります。

そこで、秀家殿並びに諸将は諸大将はこの都に居て、ここを根城として都から大明の方へ1日路程の所に、
取出しの城を数ヶ所構えて諸将をこれに籠め置き、大明の兵が攻めきたれば、どこの城であっても都より
助勢の兵を出し、後詰をして勝負を決せられる事こそ然るべきと考えます。
都から数日も進みすぎて遠くに城を構え敵を防ごうとすれば、大明より敵が大軍で来る時、都からの
援軍を遣わすことが難しくなる。」

そう申し上げた所、小西摂津守行長が進み出て
「これほどに朝鮮人を大勢討ち殺し、敵が恐れて逃げ去っている以上、もはや朝鮮人は出て戦う事は
無いでしょう。もし朝鮮王が大明の王を頼み加勢を乞うたとしても、大明の王が数万人の命を朝鮮王に
与えて、加勢するような事が有るはずがありません。特に大明と朝鮮の境には、鴨緑江という音に聞こえた
大河があります。その河を大明より大勢の人馬兵糧諸道具を渡らせてこちらに来るというのは
成り難いことです。
各々は何れなりとも、好きな所に城を構えて下さい。この行長は出来る限り大明の近くまで押し行って、
城を攻め落としそこに籠もるつもりです。」

これに、如水は重ねて言った
「この都より程遠い所に居城を構えた場合、大明人が大軍で押し寄せ四方を取り囲み堅固に向城を付けられ、
後詰の来るべき道筋まで塞がれてしまえば、我々の5万7万程度の人数では簡単に対峙できるものではない。
その上、にわかの時に都から急に助ける事は出来なくなる。その時になって後悔してももはや意味が無いのだ。

世俗の諺にも、用心をば臆病にせよというではないか。どうか都の近くまで引取り居城を構えられよ!
もし出過ぎた所に居城して敵の大軍が防ぎ難く、その勢の強きを見て引き退くなど、見苦しいではないか。
第一それは味方を弱気にし、日本の恥辱でも有る。進み過ぎては後難有るべし。軍法を確かにして、後悔なきよう
すべきである!」

小早川隆景もこれを聞いて
「如水殿の仰られる趣は尤も至極である。都より遠くに出て城を構えることには、後の禍があろう。
そもそも大明より大勢を指し寄越す場合、南部は海が近いのだから兵糧運送の便がある。
それに鴨緑江大河であると言っても、船で渡れば何の苦労もない。
しかしながら大明からはるばる大軍を差し寄越すのは大儀なことであるから、にわかに来ることはないだろう。
その間に各城を堅固に改修しておく事こそ肝要である。」

しかし小西は同心せず、
「深く大明の境まで入って、大明の兵が出たとしても恐るるに足らず!我一手にて大明に切り入るべし!
諸大将にはその後詰をお願いしよう。」
そのように言うのを、皆が固く止めたため、小西一手で大明に攻め入る事だけは制止された。

それでも小西は黒田如水小早川隆景の諌めを聞かず、みだりに深入りを好み、平壤の城が大明の
手前であるので、これを居城とした。
そもそも小西行長は初めに、日本から朝鮮に入るときも荒き風波をしのぎただ一人抜け駆けして渡海し、
今度もまた都から遠い場所に一人進み過ぎて深入りし、大明から大軍が来るという心配もせず、敵を侮り
危ない働きを好んだ。
果たして翌年の春、大明より襲来した大軍に囲まれた時、都より遠いため援軍が来ることが出来ず、
小西はついに敗北したのだ。如水がかねて未然をはかり、諌めたことは寸分も違わなかったのである。

(黒田家譜)





22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:20:52.14 ID:GJIKTHlk
全部小西のせいっ…死人に口なしか

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:22:18.22 ID:3fZNZU+1
きたないさすがくろだきたない

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:25:23.30 ID:bt7SM/Du
ひでえもんだ

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:49:50.05 ID:YTkDsab0
小早川は同意見だったとわざわざ書くあたり、この時代になっても隆景の評判=絶対に間違わない、がゆるいでないことがわかるね

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 21:04:23.19 ID:dHSTEyhL
長政「ヒャッハー!俺は小西についていくぜー!」

つか如水は漢城遠征組には従軍してないだろ。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 23:17:31.50 ID:z4Z0jwjU
大河ではどう描くんだろうなあ
軽く触れて終わりか、スルーしちまうのかな?

清正はその志にたいへん感動し

2013年11月10日 18:53

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/10(日) 13:06:50.81 ID:RpMjM3fT
小西隼人小西若狭は、小西行長に仕えて宇土・八代の城代を勤めた。
関ヶ原の戦いで西軍はすでに敗れ、行長は捕虜となった。

加藤清正は隼人へ使者を遣し、城を渡して去るように告げた。
しかし、隼人はいまだ確報が無いので、毅然としてこれを聞き入れなかった。

やがて、清正は行長の敗兵を捕らえて城下に送り、これによって
隼人たちは初めて西軍に利が無いことを知った。

そこで彼らは清正に「城を明け渡してもよいが、そうなれば、
宇土と八代両城の士卒は流浪の身となり、妻子は離散して世の笑いものとなる。
それでは、たとえ命をまっとうしても何になるだろうか。

もし、幸いにも両城の士卒に禄を与えてくれるなら、ただちに城の留守の
隼人と若狭が腹を切り、その後で城を明け渡そう。この言葉を受け入れて
もらえないなら、城を枕にして死ぬだけだ」と告げた。

これを聞いて清正はその志にたいへん感動し「もしも、そうしたならば、
両城の士卒には皆禄を与えよう」と言った。

隼人と若狭はとても喜んで自殺し、城を明け渡した。
そして、清正は約束の通り士卒に禄を与えたという。

――『皇朝金鑑(備忘録)』






小西神

2013年09月24日 19:53

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 01:22:54.27 ID:FqoTJc3x
小西神


関ヶ原の戦いに敗れた小西行長は伊吹山に逃げ込み、川合という集落にたどりついた。
そこで地元の源太夫という男が行長を見つけ、行長を匿うためにさらに山奥の中山村に連れていった。
中山の人々は行長を観音寺の須弥壇の中に匿った。
しかし同じ中山に住む要之助という男は、炭焼きに行ったときに林蔵という男から、
家康が西軍武将を厳しく探させているという話を聞き、行長を匿っていることがバレたら厳罰を受けると考え、
その場で林蔵と相談して領主の竹中重門に報告してしまい、行長は捕らえられた。
要之助の独断に中山の人々は困惑したが、そんなことは知らない行長は騙されたと思って強く恨み、
連行されていく最中に「あの村を3度焼き払ってくれようぞ」と言って中山をにらみ下ろした。

以降、中山ではたびたび火事が起こるようになり、「小西様の祟り」と噂されたため、
1754(宝暦4)年、人々は観音寺に行長を祀って供養した。



その後、1923(大正12)年、高木某という人がやってきて「最近私のところへ小西行長公の霊が現れ
『中山が私を仏として扱うのは不愉快である』と言われるので、今後は神としてお祀りなされ」
と言ったので、観音寺の隣に小西神社を立てて祀ることになった。
この寺社には行長がキリシタンであったということは全く伝わっていない。




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 02:53:31.39 ID:ou74h0q1
江戸初期の話かと思ったら大正時代かよ>夢枕

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:18:32.62 ID:+7YmAon2
神じゃよけいにマズいよな。

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:40:35.87 ID:L2XC6c2L
神道仏教なら人間が神にも仏にもなるが、
キリシタンの神は唯一のもんじゃないのか?

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:45:26.57 ID:PUdWBT1n
守護聖人なら
でもバチカンの認可がないとダメか

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 11:01:35.46 ID:hBiBPHEy
キリシタンにとっては神道も仏教も同じだろうにどうしてこうなった

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 14:09:45.34 ID:ToMjLLjS
そりゃあ、死んだ人間には宗教なんて関係ないもん
宗教は生きてる人間が必要としてるもんだから

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 19:57:15.38 ID:ntBi/JQl
良い話どころか行長にとっちゃ滅茶苦茶悪い話やん

小西行長の捕縛

2013年06月05日 19:57

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 19:04:46.32 ID:CPdK6HUg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の合戦が起こり、東軍の勝利に終る。

19日、この日徳川家康は草津に到着したが、ここに小西摂津守行長を、関ヶ原の町人・林藏主という者が
召し捕えて参上した。

小西行長は関ヶ原の敗戦のあと、暫くあちらこちらに潜伏したが、近江伊吹山の東、糠賀部村にて
林藏主に発見された。行長はもはや逃れがたいと思い、自ら

「私は小西摂津守である。お前は私を絡めとって、内府(家康)の御感に預かるといい。」

と呼びかけた。これに林藏主は

「それならば、そこで自害なされませ。」

そう勧めたが、行長は

「私は切支丹宗である。この宗門は自害することを禁じている。であるからこそ私はここまで落ち延びたのだ。
そして雑人の手にかかるのは無念であるので、いま自ら名乗り出て汝に知らせたのだ。」

こう言われ、林藏主は行長を馬に乗せ、関ヶ原の領主であった竹中丹後守に云い届け、
そして今日、草津の陣所まで送り届けたのである。

この事が伝えられると、家康は小西行長の身柄を村越茂助に預けさせ、林藏主には御褒美として、
黄金10枚が下された。
(關原始末記)

関ヶ原の敗北後、小西行長が捕縛された状況についての逸話である。



784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 19:42:30.73 ID:QJZM+EV4
むしろ、ちょっといい話な感じがする。

福島正則、捕らわれた三成らに

2013年05月28日 19:42

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 12:09:24.64 ID:NL44dUxg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原に敗れた石田治部少輔(三成)は伊吹山に退き隠れていた所を、
田中越前守(吉政)の家臣に捕らえられた。
小西摂津守(行長)、安国寺恵瓊も方々にて捕らえられ、3人共に洛中を引き回すということになった。

この時太夫殿(福島正則)はこの3人に小袖を2つづつ贈った。
正則の厚志に、中でも石田三成は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、着衣を着替え
正則の贈った小袖を着て洛中を引き回され、三条河原にて斬首された、とのことである。
(福島太夫殿御事)

関連
「大夫殿のお心遣い」


359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 17:52:34.35 ID:TlJeSdSw
侍だな

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 10:05:45.23 ID:17RD7LED
この話既出じゃね?

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 10:15:02.35 ID:1Cbsdpkf
三成「家康、田中吉政、黒田長政、福島正則、みんなが服くれるの、でもこんなにたくさん着れないの」

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 10:19:31.52 ID:+uk4+4+v
お色直しタイムが必要だな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 11:12:31.22 ID:GL+Xoqqs
引き回し中にお色直しとな

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 11:15:17.25 ID:gcBK2x6w
三成それ白無垢やない白装束や

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 12:34:35.54 ID:sFq67Zj3
続きまして、頸部入刀です

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 12:42:38.81 ID:OiSrvu48
三歳さまが手本を見せるようです

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 13:43:27.56 ID:GL+Xoqqs
三歳様は福知山城へおいでですので、他の方におまかせするしか

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 01:09:56.82 ID:f0yYgYYI
>>358>>360
太夫殿ではなく越中守殿であれば初めの書き方で間違いないはずだ
「三将二桃」の故事があるからな

小西行長の息子のこと

2012年12月10日 19:51

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:29:24.96 ID:JNn1KvZV
西軍の武将 小西行長が関ヶ原で敗れた時、彼の息子は毛利輝元の手によりかくまわれていた
身の安全は保障すると約束して行長の息子を預かった輝元であったが、もっと安全な所へ移す、
と嘘を言って小西行長の息子を連れ出して処刑し、その首を家康の元へ送ってしまった。
 差し出された首を見た家康は「行長の息子には何の罪もないから命まで奪うつもりはなかったのに
なぜ勝手に処刑したのか」と激怒した
 輝元の使者は「これは処刑したのではなく、観念した行長の息子が勝手に切腹したのです」と
言い訳してようやく家康に納得してもらったが、後になって嘘がばれたので批判の的となった
(イエズス会年報集)




696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:42:25.03 ID:j+MiCoAF
毛利も勝ち組なら匿えただろうけど、
負け組のしかも首魁で匿えってのは無理があるし、
かといって差し出したら卑怯な振る舞いと言われるだろうし…。
自業自得だが詰んでるな。
結果的には、輝元の能力的にも悪くない対応のように思う。

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:43:39.50 ID:Sjj0jjjW
宇喜多秀家「薩摩に逃げてよかった」

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 00:31:34.84 ID:jMQkfFyF
家康が行長を処刑したからからTERUが変に空気読んじゃったんだな

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 01:24:29.74 ID:BZUKfJ7Z
西軍の末路はやりきれないわ

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 07:56:42.94 ID:OII7mYAN
TERUは全くあてにならん男だなぁ

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 11:22:10.71 ID:oFcJsWTt
小西行長の息子は関ヶ原当時まだ12歳の少年だったようだ
名前が伝わっていないのは元服前だったからだろうか

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 11:52:15.79 ID:TctNXsqN
多分行長の息子生きたまま家康に差し出しても首はねてたと思うよ
秀頼の息子の国松も8歳で処刑されてるし

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 12:52:07.85 ID:oFcJsWTt
石田三成の14歳になる息子の石田重家は関ヶ原の敗戦後に出家し、
京都所司代を通じて助命嘆願した結果、許されたそうだ
そうなると、小西行長の息子も生きたまま差し出されていれば助命された可能性はあった

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 12:59:38.64 ID:x6hnXt3j
そもそも小西行長って主犯格だっけ?
主犯は5大老と5奉行だった毛利、宇喜多、石田ぐらいで
小西は石田と親しくて関ヶ原で主力のひとつだったから罪を問われた感じだが、
でも斬首はちと重すぎるような。

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 13:05:21.54 ID:RVidLukH
国松と小西行長の子供じゃ全然違うだろう。
小西行長の子供なんてわざわざ殺す程の存在じゃない。

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 13:28:25.74 ID:zzZWxi3A
関が原と大阪では戦後処理が全然違うし
小西行長と豊臣秀頼の格は言うまでも無い

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 13:55:56.57 ID:WR8vgCU3
一方石田三成の子孫は津軽藩の厚遇を受けて、重臣として存続した

本州の端っこ同士なのにこの差はなんなのだろうか

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 14:57:27.39 ID:/JzyJ5vk
為信や信枚がヤリ手だったのが大きいと思うがw
TERUだし

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 16:07:56.04 ID:FrV9HigX
義理人情に厚い為信さんならではだな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 17:13:24.85 ID:DH1GjqF/
お隣さんとも仲良くの

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 17:52:18.61 ID:VNKcRzxX
義理を果たすでもなく、実利を追及するわけでもない輝元の中途半端な判断…身につまされる話ですな

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 19:15:24.22 ID:thJISNUt
義理人情言っても、
西軍の首魁で一番幕府から睨まれてる立場で匿うのは難しいからな。
それでなくても家の取り潰しが見えてる状況で津軽などとは違うし。
差し出した小西息子がテルの更なる策謀を証言しました、
とか徳川側に主張される可能性もある訳だし、
死人に口無しは口実与えない観点からは考えられない訳じゃない。

…まぁ単純に先走っただけだと思うけど、テルだし。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 20:20:54.21 ID:VNKcRzxX
その首尾一貫しない感じが警戒された原因だと思うよ。
筋目を通して匿うってんならそれはそれで良かった。
「ああ、アイツはそういう思考なんだ」ってことでコントロールする方法が分かる。
逆に行動原理の読めない対応は外交において最悪。何しでかすか分からん以上は厳しく押さえつけるしかない。
関ヶ原以前からそうだったから今更どうなるもんでもないけど、大減封を食らった原因はそこなんだろう。

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 20:49:09.14 ID:thJISNUt
>>713
その仮説は結果を知って言える事であって、
当時の情報に制限がある中で、
筋目を通せば大丈夫、と判断しろってのは厳しすぎるだろw
所詮仮説に過ぎず、実際大丈夫でなかった可能性も否定できないとなればなおさらやね。

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 10:27:40.03 ID:MDsAJeiJ
>>703
ググったら享年100歳越えてて吹いたw
小西の息子とはえらい違いだなw

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 11:22:26.03 ID:AvncbbWD
>>724
最後は岸和田で、三成の曾孫だか玄孫の弘前藩士に看取られたそうな

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 16:14:10.35 ID:QmhEt8hH
>>725
いい話だな

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 19:38:48.99 ID:GvO91ry1
>>729
感動的だな
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天正12年・羽柴筑前殿に関すること

2012年08月28日 20:52

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 06:47:12.43 ID:aOmWG0Hq
『ここに羽柴筑前(秀吉)殿に関して、尊師が知りたいと思われるであろうことを少々述べます。

筑前殿は日本六十五カ国において、内裏に次いで、最も富み、かつ強勢によって日本全国より尊崇を受ける大身です。
一般の噂に寄れば、彼は何事においてもその前任者信長と比べ、遥かに優越しています。

彼は単にデウスの教えに反対しないのみならず、大いに我等が聖教を尊ぶ姿勢を示し、
坊主の欺瞞の宗旨(仏教)よりも真理であることを認め、キリシタンを信頼し、常に側近にある大身等の子息が
キリシタンとなるのを見て喜ばれます。

ジェスト(高山)右近殿に対しては、毎日城中において語り、彼を賞賛し、青年にしてかくも欲を制する者はいないと
考えておられるそうです。

他にもまた、デウスの教えに対する羽柴殿の愛情と行為を我等が信じるべき、多くの確実な理由があります。
その主なものは、彼が親類及び異教徒である親友よりも、キリシタンの方を信用しているという事です。

例えば、大坂に次いで彼が有する最も良き城は信長を殺害した明智の居た城ですが、ここは彼の地位にとって
重要なものの一つであるため、彼は稀な才能を有するキリシタンの老貴族(不明)を同城の守将としました。
彼の書記官(安威五左衛門尉志門)もキリシタンです。

また海の司令官にして塩飽諸島(瀬戸内)から堺に至るまでを監督するのは、尊師もご存知の(小西)隆佐の子、
アゴスチニョ(小西行長)です。彼は今、五畿内の地方において大いなる名声と収入を有しております。

さらに羽柴殿がその身辺を守るために常にその側近においているジュスト右近殿は、この地方において
最も槍術における達人として知られています。

ジョーチン隆佐はその収入の管理者にして、茶の湯の道具を保管しています。
尊師がご存知のようにこの道具は日本の宝物であり富です。

シメアン池田丹後(池田教正)殿に対しては大いなる名誉を与え、過ぐる戦争において為したことに対し、
その地位を引き上げ収入を増やすことを約束しました。

また大和国に逐われた三箇(サンチョ)殿の子マンショを呼び戻し、その戦争における勇猛さを見て、
多くの恩恵を与えて自分に仕えさせました。』
ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)

後に禁教令を受けて大いに非難するフロイスも、この頃は秀吉をキリスト教の外護者としていたのである。





200 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/28(火) 08:07:35.30 ID:RaXf7quw
さすがの神もラスボスの豹変までは予知できなかったか

天正12年、荒木村重

2012年08月23日 20:58

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 17:42:28.64 ID:0hZ60kwz
荒木摂津(村重)は摂津国の領主であったが、3年間信長と戦い、その頃彼に使えていたジェスト(高山右近)の言を
用いなかったため、その領地を尽く失ったことは、尊師の既にご存知のところです。
彼はそれ以来五畿内のキリシタンに対し、心底からの憎悪の念を抱きました。

信長の死後、彼は大いに謙遜を示して羽柴殿(秀吉)に仕え、他の小姓と等しく茶の用を務めていました。
そして彼は海の司令官アゴスチニョ(小西行長)とその父が羽柴殿より寵を受けるのを妬み、
羽柴殿の前で密かに、また極めて巧みに彼らに対する重大なる偽の証言をしたのです。

彼が巧妙にこれを為したため、羽柴殿はこれを信じ、ジョーチンとアゴスチニョ父子の任を解き、
全キリシタンに大いなる打撃と恐怖の念を与えました。
ですが我等の主デウスは罪なきものに慈悲の目を向け給い、荒木は大いに信用を失い、
ジョーチンとその子アゴスチニョは最初に地位に復帰したのみならず、今はさらに恩寵を加えられ、その収入もまた
倍増するに至っています。

その荒木が羽柴殿と共に茶の湯の場にあった時、羽柴殿はジュスト(高山右近)の事について、その類い稀な
才知と善良なることを語り始めました。彼は荒木にとって甚だしき敵なので直ちにこれに答えました

「そうではありません。殿下が賞賛されている所は彼が外見を偽ったものであり、心中にそのような善良さは
持っていません。」

この言葉に羽柴殿は大いに怒り、彼を呼ぶのに再び「汝」という言葉を使って言われました

「去れ!かくの如き言葉を発してはならぬ!余は彼が内心も外見も異なる所がない事を良く知っておる!」

これによって荒木は直ちに羽柴殿の寵を失い、羽柴殿は再び彼を見ることを欲しませんでした。
荒木は多数の仲介者を通じて宥免を請いましたが、羽柴殿はついに彼を許しませんでした。

そして今度の戦争(小牧・長久手の戦い)において羽柴殿が多数の人を殺した時、荒木は都において彼を軽蔑する
発言をしました。この事が大阪にあった羽柴殿の夫人の耳に入り、彼女より使者を以って厳しく譴責されたのです。
荒木は羽柴殿が帰京した後、殺害されることを恐れて、妻と家を捨てて寺院に入り坊主となりました。
ですが果たして死罪を免れる事ができるかどうか、明らかではありません。
(ルイス・フロイス・天正12年次日本耶蘇会年報)

ルイス・フロイスによって伝えられる、天正12年(1584)ごろの荒木村重の動向である。




115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 19:24:16.36 ID:ijGl90yK
そりゃ村重は右近に梯子外されて酷い目にあってるんだから文句の一つも出るだろうよw

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 20:17:50.77 ID:pm0V7Yjv
>>114 妻を捨てたということは、道糞になって以降に再び妻帯したのかな? 単なる妾?

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 07:48:53.20 ID:tZ3UYXU1
道糞さんは波乱万丈の結果、比較的良い晩年だったよね。
フロイスの記述は貴重な歴史なのに、もう少しフェアに記述されていれば・・・

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 10:35:02.23 ID:g66CsgaY
道糞は賤ヶ岳で中川清秀討ち死にして嬉しかっただろうな
もうちょっと長生きしてればジュストが追放されるのも
見れたのに

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 10:51:45.73 ID:38zWfZKr
道糞て見るとつい「みちぐそ」さんて読んでまう…

小西行長の処刑とバテレン

2012年07月14日 20:31

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/13(金) 22:20:50.32 ID:eeBMNuSJ
関ヶ原で敗れた小西行長は大名の黒田長政の面前に連行された。
同情した長政は内府(家康)に助命を請うか尋ねると行長は答えた。
「私はもはや命を重んじていない。キリシタンの教えが禁じていなければ切腹するのは
容易で私は自分の罪に対してどのような死を与えられようとも甘受する用意がある。
私が貴殿に願いたいことは自分が告白するのに一人の司祭バテレンに会えるよう尽力してほしい」

507 名前:506 小西行長の話の続き[sage] 投稿日:2012/07/13(金) 22:24:08.67 ID:eeBMNuSJ

 黒田長政は内府の許可を得られるよう全力を尽くすと約束した。しかし、内府の家康は
司祭との面会を許さなかった。バテレンの司祭たちはあらゆる手を尽くしたが、面会はかなわず、
小西行長は処刑されてしまった。
 家康はキリシタンの告白が何のことかわからず、何らかの欺瞞ではないかと思ったので、
司祭たちに面会の許可を与えなかったのだ。(イエズス会年報集)