fc2ブログ

さても強勢なる背負い様かな

2022年07月23日 13:09

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/23(土) 08:12:27.03 ID:zz2id93h
天正十九年の頃は、宇喜多秀家も成長され、参議に任じられ、器量骨柄といい、公儀からも殊に
その覚えは諸人に異なり、天下の御婿(秀吉の養女・豪姫の婿)として威勢最も盛んであった。

その重臣はそれぞれ大阪に詰めたが、中でも岡豊前守(家利)は宇喜多家第一の宿老にて、
勇武才智人に超え、世に良臣との名があった。殿下(秀吉)の御前能く、よろす直に言上した。
故に宇喜多家中に、彼に異議を言う者はなかった。

戸川肥後守(達安)は、岡豊前守に続いて威勢が在った。
有る夏の夜、殿下の秀家邸への御成があった。涼取の茶屋にて饗応があり、この時小西摂津守(行長)が
御前に在って、明年の高麗御発進の軍議をした。この時戸川肥後守は茶屋の廊下に控えていた。
殿下は彼に御声をかけ、「これに出て軍議を聞くように」と仰っしゃられたため、縁側に畏まった。
小西摂津守は朝鮮のことを既に手に握るが如く申し述べ、殿下の御機嫌は斜めならずであった。

夜閑になり御座敷へ入られる時、茶屋と座敷の間に古堤がある場所で殿下は
「肥後、背負うように」と上意があり、そのため背負奉ってお座敷へ帰らせ給った。
このとき「さても強勢なる背負い様かな」と、お笑いながら褒められたという。

戸川記

秀吉の宇喜多秀家邸御成と時の事について。



スポンサーサイト



もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!

2021年01月15日 18:08

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/15(金) 16:13:29.20 ID:STTwyufl
小西摂津守(行長)が宇土を居城にしていた時、加藤肥後守(清正)、さる仔細あって押し寄せ
攻められたことが有った。この時清正は、仕寄り場を巡見して、「今夜城より夜討ちに打ち出る事も
有るだろう。面々の持ち口用心有るべし。」と下知して本陣へ帰られた。

この時期は夜寒の頃であり、軍勢は皆具足の上に、或いは夜着を着、或いは小袖を着ていたが、
その中に、名字は忘れたが、その名は長兵衛といった兵は、具足の上に蒲団を打ちかけて居た。

城中より俄に、どよめく声が上がった。かねて予想されたことであったので、「すわ、敵こそ
出れ!」と、我も我もと騒ぎ立ち懸け出ようとするが、上に着ていた夜着や小袖が具足にまとわりついて
すぐに脱げず、もたついている間に、長兵衛は上にかけていた蒲団を投げやり、一番に馳せ出、
「もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!」
と、声高に名乗った。

およそ、常に心かけていた武辺は、真実の武辺である。
そうではない武辺は、たまたまの仕合に過ぎない。
武士のことは言うに及ばず、農工商、出家沙門に至るまで、その道を嗜み、心懸有る上で
不幸になってしまうのは、力が及ばなかったという事なのだろう。
長兵衛は常に心懸けがあった故に、その時、鑓を出そうとした者は多かったが、一番鑓になったと
言うことである。

備前老人物語



志岐天草表の手柄

2020年04月20日 19:01

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 10:18:50.04 ID:+n0zh/da
(天草国人一揆の時)
拙者(水野勝成)は小西摂津守(行長)の所に在り、志岐城攻めに加わった。この時肥後守(加藤清正)人数も
小西と同じように志岐城を取り巻いた。

志岐城はすぐに小西が請け取り、その後天草本渡城を押し詰め、朔日より取り掛かって本渡城に仕寄を付け、
二十三日目に乗り落とした。肥後守は山手の方から仕寄を付け、足場が非常に良かったが、小西は東の
水堀の方で、足場が悪く非常に迷惑した。

二十三日に城に乗り込んだ時、私は水堀を越えて堀裏に付き、一番乗りをした。私の跡に続いた
久米兵太夫が声をかけてきて、三間ほど跡を進んだ所で、胸板を鉄砲にて撃ち抜かれ、堀底へと落ちた。
私は堀を乗り越え本城(本丸)まで着いた時、松平三蔵殿(肥後殿にては加藤左助と申候)、この仁は兄弟連
であったが、私の側に参り

「未だ敵と手合わせをしていない。六左衛門殿(勝成)、頼み入るので、何卒手合わせの相手をくれないだろうか」

そう申してきたので「相心得候。私がよく見て、良い相手を見つけましょう。」と答えた。
本城の下にだしがまえ(馬出か)が有り、その門を開いて敵が突き出てきた。この時松平三蔵殿は鑓を合たが、
敵は突き捨てに仕掛け、左のこめかみを突かれたため、彼の弟に私から「早々に蔭に引き込むように!」と申し、
私はそのまま敵に突き入れ、その場にて七人を討ち取った。この内先駆けした者は私が討ち取り、残りの六人は
私の家来である山本次太夫、林志けりのすけ、近藤弥之助が討った。この三人も敵を一人ずつ討ち取った。
その他に歩行の者(足軽)も討った。近藤弥之助は弓にても良き者を射た。

山岡道阿弥がこの陣の様子を詳細に存じており、権現様(徳川家康)が伏見に居られた時、志岐天草表の
私の手柄を詳しく申し上げた所、権現様は殊の外御感になり、後で道阿弥から
「直ぐに召し遣わされるでしょうから、その事についてよくお心得に成って下さい。」
と申してきた。その後程なくして、私は御前に召し出された。

水野日向守覺書

天草国人一揆での水野勝成について。ここに出てくる松平三蔵、三河一向一揆で一揆方に与して牢人となった
人物ですね。



小西行長捕縛

2019年10月11日 16:53

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 16:37:31.03 ID:zZQFSs+H
(前略 >>495

かくて行長(小西行長)は「大坂へ忍び行こうか、または薩州へ落ち行こうか、ただ居城へ赴こうか」と様々
に思案したけれども、敗北の従臣共は1人も尋ねて来ない。あまつさえ東兵は八方に充満し、落人を探し求め
たので、翼が無くてはこの場を漏れ出る様子も無い。

行長は今は運命これまでと思い切り、住僧に向かって「不覚者に与して快き戦もせず、無下に敗北したことは
口惜しい。しかしながら、いつまでもここに忍んでも運の開く我が身にあらず。自害しようと思っても、私は
年久しく耶蘇宗門を崇んでいる。天帝の法として、自らその身を傷つけることを深く慎み嫌う。御僧が今まで
深く労り隠しなさった厚志の返礼に、この命を進上する。徳川殿へ注進なされ」と言った。

これに住僧は「『窮鳥懐に入る時は、猟人も之を殺さず』と言うのだとか。ましてや僧侶の身であれば猶更で
す。ただいつまでもここに忍んで、時を待って運を開きなされ」と、もっとも頼もしく返事した。

ここに関ヶ原の近所に林蔵主という僧あってこれを聞き出し、9月18日、家康公が江州八幡山に陣しなさる
所へ参り、竹中丹後守重門を頼んで「行長は山中の賀須川寺に忍んでいます。人数を向けなさるならば、案内
して虜にします」と訴えることにより、かの僧に竹中丹後守を添えてその他大勢を遣わしなさった。

林蔵主は寺へ帰り強力の悪僧5,6人を伴って行くと、討手の輩を門外に残して自ら悪僧共を連れて、小西の
いた座敷へ忍び入って窺うと、小西は前後も知らずに伏していた。僧従は喜んで密かに側に置いていた刀脇差
を盗み取って俄に押し入り虜にしようとした。その音に小西は驚いて起き上がり、僧2人を取って押さえ膝下
に押し込み刺し殺そうとすると太刀脇差が無い。そこへ悪僧4人が前後左右より飛び掛かり組み留めようとす
るのを、小西はすかさず取って投げ付け押さえた2僧を押し殺した。

時に門外にいた竹中重門は大勢を率いて押し込み、ついに虜にして疲馬に乗せ八幡へ来たり、小西を献じた。
家康公の御感あって、抜群の功として竹中に小西が差していた光忠の刀と兼光の脇差を当座の褒美として賜わ
り、次に林蔵主を召されて黄金10枚を賜った。

諸人は皆、かの出家に似合わぬ任侠をあまねく憎み謗ったが、天罰かまたは小西が怒れる報いなのか、かの僧
が黄金10枚を賜わり帰るのを近辺の盗賊共が聞き付けて押し込み、僧従を残らず搦め置き、かの黄金宝物を
ことごとく奪い取り、あまつさえ林蔵主の耳鼻手足を断って逃げ行けば、林蔵主はその夜中に狂死した。因果
歴然の道理また宜かなと、聞く者は舌を巻き恐懼した。

さて行長は10月朔、石田・安国寺と共に各々雑車に乗せて洛中・洛外・大坂・伏見を引き渡し、三条河原に
おいて首を刎ね梟首せらる。嗚呼憐れむべし。

――『古今武家盛衰記』



行長も心ならず引き立てられて共に敗北し

2019年10月08日 15:30

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 18:34:53.73 ID:mLJwIBqg
(前略 >>455

すでに夜が明ければ、石田三成・島津兵庫守義弘と舎弟の中務大輔家久(豊久の誤り)・小西摂津守行長ら
は関東勢の旗の手を見て関の藤川を渡り、小関の南辰巳に向かって備える。備前黄門秀家も手勢の大軍を率
いて同所に備えた。大谷吉隆(吉継)・平塚為広・戸田武蔵守重政(勝成)と子息の内記重宗・津田長門守
信成は石原峠を引下し川を渡り、関ヶ原の北野に出て西北の山を後ろにあて、不破を左に見て辰巳に向かう。

家康公の旗本は鶴翼に備え、16段に備を定めて先陣は福島正則、鉄砲8百挺・弓5百張を段々に組み合わ
せてまず矢合わせの鏑を石田の先手へ射掛けた。さて鉄砲を一度につるべ放ち、金鼓を鳴らして鬨を揚げれ
ば東兵も共に同じく太鼓を打ち、楯の端や胡ロクを叩いてこれを助け、都合7万5千3百余人が鬨をどっと
作れば、西国勢13万8千6百余人も同じく鬨を合わせつつ、諸手一同に戦を始めて白刃を交えたのである。

福島父子は弓鉄砲の迫り合いを経て長柄を揃え錣を傾け三成に突いて掛かれば、小西行長も相掛かりに掛か
り揉み合った。これを見て東国方の細川・黒田・加藤は走り合わせ、命を鴻毛よりも軽くする。また西国方
でも島津兵庫守・宇喜多・島津中務大輔と掛かり合い、互いに魚鱗鶴翼の秘術を尽くし命を限りに攻め戦う。

中でも小西は手の者共に目合わせし「敵は大勢、味方は小勢、通り一遍では利はあるまい。羽武者共に目を
掛けるな! 大将に組んで討て!」と風の散る雲の如くに群がり、千騎が一騎になるまでも引くなと、互い
に恥しめて面も振らず相戦う。流石に広き関ヶ原、錐を立てる地も無く敵味方20余万は、算を乱したる如
くなり。

行長は諸将に構わず自兵を引き纏い、三国黒という長さ9寸余の名馬に一鞭当てては馳せ散らし、取って返
し蹴散らし、千変万化の勇を振るう。その形勢、脱兎の網の裏を飛ぶが如し。

家康公が大音声で宣ったことには「敵の旗色は騒ぎ立っている。戦は味方の勝ちなるぞ! 総勝鬨を作って、
旗本の先陣は一同に馬を入れよ! 近習の輩も前一軍は備を崩して石田・小西の横合を打つべし!」と朱旄
を揚げて自ら御駕を進めなされば、御旗本の先陣、16段の先手共は槍の穂先を揃えて馬の鼻を雁行に立て、
大山の崩れる如く突いて掛かると、さしも金石の如く勇を励み備を堅める石田・小西も、この時に駆け破ら
て四方に散乱し、伊吹山・草の谷・伊勢路に掛かって落ちる者もあり、あるいは谷へ落ち入って死ぬ者もあ
り、右往左往に逃れ走った。

行長も心ならず引き立てられて共に敗北し、伊吹山の東粕賀郡に知音の寺があったのでかの寺へ馳せ入り、
しばらく息を継いで世の有様を聞いていた。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
小西行長捕縛


496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 21:09:37.76 ID:n4Znc1LY
小西行長が寺に?
伊吹山にはイエズス会の薬草園があったとか言うけど
ふつうに仏教寺だよね

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 11:58:14.65 ID:LC7+7kuF
>>496
キリシタンが寺に居るなどと誰が考える?
アホはそうやって騙されるんだよ

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 16:22:44.93 ID:bTgXE5VC
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541597/9
「南蛮寺興廃記」の薬草園の箇所

速やかに討死して名を万代に留めよ

2019年09月27日 16:24

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 15:17:22.03 ID:zJaqhU3P
前略 >>443

石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。

これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。

この時、小西(行長)が付け置いた忍どもが走り来たりてこれを告げた。行長はまったく驚かず「どうして
そんな事があろうか。引き退くならば、我が方へもどうして一往告げないことがあろう」と事実とも思わず
にいたが、追々に告げて来るので不思議ながらも物具を堅めて馬に乗り、諸将の陣々を回り見るによくよく
慌てふためいたと思われ、兵糧・器財・弓・鉄砲・槍長刀・太刀・甲冑が捨ててあって、足の踏み所もない。

小西も興覚めながら自陣へ人を馳せて人夫5百余を召し寄せ、心静かにこれを拾い集めさせて夫駄に負わせ、
自分の陣所をも引き払って関ヶ原へ急いだ。

さて、諸将の方へ使を立て「各々の陣所に捨て置かれた兵具などを敵に拾われて、善し悪しの批判をされる
のも口惜しく、行長が広い集めて持たせて来た。御用次第に取り寄せなさるべし」と申し送り、関ヶ原から
八幡の西北、小池村の間に兵具などを並べ置いて所望に従って渡すと、皆面目なく見えた。行長は家子郎等
に向かって、

「このような臆病者とは知らず三成に頼まれ、犬死する口惜しさよ。しかしながら今これを捨てれば、節に
臨み義を忘れるようなものだ。ただ私が人を知らざる故なれば、今更恨むような様もない。汝らの数年の軍
功を無きに等しくしてしまうことは、返す返すも残念でならない。さりながら宿世の誓約と思い切り、今度
の最後の戦で悪びれて(気後れして)世人に笑われるなよ。速やかに討死して名を万代に留めよ!」

と情を含み勇を励まして語ると、従臣どもは「仰せまでもなし!」と誓いを立てて申したので大いに喜び、
「実に頼もしき心底よ! 最後の酒宴をせん!」と互いに打ち解け終夜舞い謡い、その後に手配りを定めて
明けるのを遅しと待っていた。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
行長も心ならず引き立てられて共に敗北し


456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 15:32:51.16 ID:GToyzteL
>これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。

どうしようもねーな
こんなん聞いてると水鳥の羽音で平家が逃げたとか信じそうになるぞ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 20:59:55.87 ID:d0XnWwP+
大垣城から関ケ原に引いた時点で、もう負け確定だったんだなぁ…。

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/28(土) 10:43:51.63 ID:bhDpweX0
>>455
誇張もあるんじゃないかな
石田三成だけならまだしも他の将まで揃ってとは

味方の中に勇士はいなかったのだ!

2019年09月26日 15:56

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:18:47.04 ID:8prqcSXc
(前略 >>436

去る程に慶長5年(1600)9月12日、石田らは濃州大垣城に籠って岐阜城へ加勢を遣わし、島左近
株瀬川(杭瀬川)へ出して戦の手始めをさせたところ岐阜はたちまち落城し、左近は利を得たけれども味方
は大勢討たれたので三成は驚いて諸将を集め、「この上は関ヶ原まで引き退き、味方の多勢と成り合って広
野において戦せん。如何だろうか」と言う。島津・宇喜多・安国寺らも心臆したのか皆もっともとこれに同
意した。行長(小西行長)1人は知らぬ顔でいたがこれを聞き、怒声をして高らかに言ったことには、

「こは臆したる評議かな! およそ戦の勝ち負けは5度も10度も戦い負けて、1度の勝ちに大利を定める
ものぞ! ましてや日本が2つに分かれて戦うというのに、10度20度の合戦に変わりがあろうか!それ
に味方の負けは岐阜ばかり、株瀬川の戦は大勢が討たれたが軍利を得て大敵を追い払った! さて敵方の負
けは大津城、丹後の田辺、伊勢の津城、伏見城である! これは我らの勝ちではないのか!

東国勢は多しといえど7万5千3百余兵、味方は13万8千6百余人! 敵に若干倍するのではないのか!
それを岐阜落城に物を懲らして逃げ支度する謂れはない! 今ここに有り合う勢をもって敵と戦うのに不足
はあるまい!

それで覚束ないのならば関ヶ原の兵をここへ招き寄せて快く一戦し、万一利が無ければ大坂城に籠り、また
勢を分けて所々の城に籠め置けば、敵は手配りしてこれを攻めることだろう! 多からぬ関東勢を分散させ、
その虚を窺って家康の旗本へ突き入れば、どうして勝利を得ないことか!

また岐阜中納言秀信は生得愚魯の闇将、臆あって勇なし! 弱将の下に強兵無き故、家臣らはまた浄き戦も
せずにたちまち首を伸ばして降参した! これは戦の咎にして天利とするべきではない! それを味方の兵は
臆して敵兵は気に乗ったとこの陣を退くことは後世の謗り、そして今においては戦の損、一方ならぬ誤りで
ある!

私が思うに家康は今日赤坂へ着陣して備は未だ定まっていまい。今夜こちらから逆寄せし、一戦すべきでは
ないか。つらつら思うに家康は広野の合戦に妙を得て、人数を見切り進退し、軍兵を指揮することは誰が雌
雄を争えよう。各々も見給う如く、姉川・長篠・長久手・楽田・羽黒などの戦場で僅かの手勢をもって大敵
を切り崩したその形勢は、神変無双の驍将である。尋常の如くこれと戦してはまったく利はあるまい。

まず今夜、夜討して敵の変化を窺い見て、重ねて術を巡らすべし。ただ運を天に任せて味方の勢を三分し、
一手は家康の本陣へ夜討させ、一手は旗本近き陣を攻め、一手は援兵の通路を断じ、所々の陣々、赤坂の町
屋在家を一同に放火してその変動に従って戦わん!」

と言うが、諸将は聞き入れず。石田は言う。「小西殿の計りは図に当たるといえども、味方の中に二心の者
は大勢いると聞く。しからばこの謀も敵に洩れるのではないか。なまじ夜討して味方の若干が滅びるよりは
速やかにここを退いて味方の大勢と心を合わせ、一戦の功を立てるに如かず」と用いず。行長はまた言う。

「夜討の術が各々の心に入らないのならば、ともかくもここを退いて関ヶ原まで引かれんことは甚だすべき
ではない! 戦の習いで一足でも進むとなれば鼠も虎の威に同じ、一足でも引く時は虎も鼠の如しと言われ
ている。岐阜が落城して味方の兵は気を失い、勇の挫けるところでまたここを退けば敗軍に等しく、ますま
す味方は力を失い、敵は未だ戦わずして勝軍の猛威を振わん! これは敵に勇を付け味方の気を弱めること
なれば、自然と心を変ずる者もあろう。重ねて戦っても利は無い!」

とするが諸将は肯定しない。小西は大いに怒り、座を立って大声で罵ったことには「それほど味方を疑って
は、いずれも戦はできない! 臆病神が付いた以上は百万の勢があろうとも負け戦になろうぞ! 思うに味方
の中に勇士はいなかったのだ!」と、悪口して陣所へ帰った。

石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
速やかに討死して名を万代に留めよ


444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:20:33.61 ID:Dlm/oppg
戦犯小西

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:21:51.54 ID:U38ZVahv
三成って安定択しかとれないイメージ

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:54:19.25 ID:UhsvF/OK
前線の武将は熱いな
モタモタするより速攻で1回戦って団結した方が良さそう

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/25(水) 20:20:18.64 ID:Rn6zhfmt
三成は家康はもとより、同世代のNGMSや市松他東軍諸将連中と比べても前線や陣頭指揮の経験が豊富かって言うとそうでは無いしなぁ…
かと言って総大将としての戦略も…

結局、毛利と小早川が調略されてる時点で詰みよねぇ…

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 22:49:49.78 ID:e8AHqd1y
猪武者でも頭良い人けっこういるんだよね
三成は頭に寄りすぎ
融通利かなすぎ

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/26(木) 15:47:14.39 ID:QTP1VGvV
簡単に岐阜を抜かれたのが痛いね
天下の名城だし諸将への動揺が大きかったと思う
態勢を整える為にも一旦下がるのは誰もがやる手法だろうね
伊賀者甲賀者が暗躍してる時点で夜討は効果ないでしょ
看破されて撃退されるのがオチ

20万石余 小西摂津守行長

2019年09月24日 15:37

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/23(月) 19:30:46.75 ID:cwZ3+KTm
20万石余 小西摂津守行長

肥後州宇土城主・従四位下侍従行長、父は泉州堺累代の薬商・小西清兵衛入道如清という。彼は子息の
清九郎(弥九郎行長)を伴って朝鮮へ渡り、薬を買って往来すること数ヶ年。

太閤は天下草創の以前より朝鮮を征伐せんと心掛けられた故、小西が案内を知っていることを聞いて、
子息の清九郎行長を召し使われたが、行長は武勇才智あって太閤は喜び、播州在城の時に初めて2百石
を賜う。行長はなお武を学び和漢の兵書を考えてもっとも兵道に達する故、太閤はかつて播州一国を領
せられた時より、天下平均、かつ朝鮮攻めまでの合戦でついに不覚を取らず。

さて太閤は備中出陣の時は小西清九郎が先手に進み戦功あり。帰陣の後に1万石の感状を賜り、従五位
下内匠頭と受領す。後にまた段々加増、10万石に至り摂津守と改める。

この時、宗対馬守義智に一女あり。小西の智勇を感じ入り太閤へ願い婿とする。しきりに戦功を積んで
天正13年(1585)に10万石の加恩を賜い四品に昇り、肥州宇土の城を賜う。

さて、太閤は宿望の通り朝鮮征伐を企て、行長を先手の大将たらしむ。行長は案内者である故、やがて
かの国の通事数人を語らい懐け、路次の便を調え諸将へ下知案内を司る。行長はかつ勇猛智謀をもって
朝鮮の王城数ヶ所を攻め抜き、敵の首を斬ること諸将に10倍す。その働きは『朝鮮征伐記』に詳しい。

しかしながら元来卑賎の者である故、己の武勇に驕り諸将の誓約を変じ、己1人の功を立てんことを業
とする故に交わり親しむ者なし。行長はこれを悟らず、人を嫉み世を恨む。石田(三成)とは懇意故、
かの逆意に与しその為に軍法を談じるといえども、石田の運が尽きたのか小西の謀を用いざること多し。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
味方の中に勇士はいなかったのだ!


440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 10:25:43.22 ID:oBX6SoJl
>>436
持ち上げて持ち上げてからのハシゴ外し w

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 10:36:01.80 ID:/PMrZ76R
元来卑賤てwそれ太閤もやん

一人も洩らさず討捨てたるは一段と気味能き

2019年09月17日 16:04

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 12:07:27.33 ID:rA55nKy+
天正17年(1589)小西行長加藤清正による、肥後。本渡城攻めの時のこと。

加藤清正の軍勢が本渡城の本丸に攻め入った時、敵30人ほどが、具足・甲を着て、鑓長刀を持って
一斉に切って出たのを、追い取り包みて、一人も残さず討ち取った。そしてその者達を見ると、
討ち取られた者に男は一人もなく、皆女であった。故に首を取らず斬捨てとした。

彼女らと戦った時に手疵を負ったものが5,7人あった。これに対し清正の近くで、いかに働いたと言っても、
女人に斬られ突かれたというのは弱いというように取り沙汰していた者があった。これを清正が聞いて

「定めてそれは、不吟味なる若輩者共の申し分である。たしかに女人は、逃れがたき所であっても
命を惜しむというのが世の中における習いのように言われているが、あのように死を軽んじ、思い切って
出た心中は、却って男子より堅固であろう。それと戦って手疵を負ったのも越度ではない。
さりながら、彼女らの戦働きは、男ほどには出来ないのだから、これを討ち取ったと言っても
高名には成り難い。

ではあるが、一人も洩らさず討ち捨てたのは一段と心地よい(然りと雖も、一人も洩らさず討捨てたるは
一段と気味能き)」と仰せになった。

(續撰清正記)



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 15:16:00.10 ID:++DeFL0F
どこが悪い話なんだ?文句つけた奴がいることか

玄澤は小西の家臣で領知3千石なり

2019年04月21日 16:24

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 15:00:58.97 ID:GSb4KycD
肥後の天草宇土の城を故肥後守(加藤清正)が攻めなされた時に曰く、「出て来て戦うような者は
1人も思い当たらないが、南条玄澤(小鴨元清か。原注:玄蕃の意)1人は出て来るだろう。各々
討ち取れ!」と命じた。案の定、玄澤は出て来て戦ったという。

宇土の城は小西摂津守(行長)の居城なり。玄澤は小西の家臣で領知3千石なり。

――『老人雑話』



フランシスコが正当なる王として

2018年12月01日 16:50

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 00:49:10.56 ID:lEMylcGS
事情斯くの如きに際し、薩摩の王(島津義弘)及びアウグスチン・ツノカミ殿(Augustine Txunocanmindonio 小西攝津守行長)は
彼等の手兵を治部少輔(石田三成)の前に出せり。
内府様[徳川家康)は之を見るや、兵士を集中してヨカタ川(Jocatangauwa)の河岸に沿ひて下り、其進出を妨げんとせり。
彼は対岸に二人の強き将軍の指揮下に在る新来の援軍あることを、其軍旗によりて知りしかば、此方の河岸に止りたり。
伏兵を恐れしを以てなり。

両軍相対峙して、機会を窺える間に、全日本を通じて党派は二分して互に戦ふに至れり。

豊後の王國に於ては、クアムビオエンド(Quambioiedo 黒田官兵衛孝高)は、其子甲斐守(長政)より送りたる使者により、内府様の軍の
勝報(岐阜城陥落)に接せり。之に気を得て彼は八千の兵を以てフランシスコ(Francisco 大友義統)を襲へり。
彼は故の豊後王(大友宗麟)の子にて、久しく太閤様の爲に都に止められしが、内閣員(奉行衆)の命によりて放たれ、四千の兵を以て
豊後に帰りしなり。
閣員はフランシスコが正当なる王として此地の臣民を其手に附け、よりてカムピオエンドに抗し得んとの希望なりしなり。

然るに予想は全く反対に出で、フランシスコは國に帰るや直に敗績したり。之が爲に豊後の一國は全く内府様の確保する所となれり。
此を初として内閣員は到る處に反抗に遭へり。
(モンタヌス日本誌)

モンタヌス日本誌の関ヶ原についての著述の一部。大友義統は九州に下って即座に敗北した事になっているわこのせいで奉行衆への反抗が続出するわ


小西行長の長子

2018年07月10日 21:03

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 00:14:00.10 ID:4OTrD0VR
小西摂津守行長は、関ヶ原の前に住吉屋という銀座に、
『長子を養子に遣わす。私の形見に残し置く』という文を出した。

この長子は名を小西宇右衛門と言い、銀座の家督となり後には江戸に下り、銀座頭を勤め
公儀より五十人扶持を下された。

宇右衛門の子の一人は、は公儀の御医師である小川宗春方へ養子に入り、後に宗春の名を継いだが、
無学にて家業を疎かにしたという。
外戚腹の男子は京の難波屋の養子となったが、これも放埒に金銀を遣い失い、身体を果たした。

しかしそれらの父宇右衛門はさすが行長の子であり器量が有った。当時、芝大仏に茶屋を一軒
借り置いていたが、近所で火事が出た時、彼は家財諸道具一切に構わずかの茶屋へ一家を引き連れ
立ち退いた。その姿を人々は笑ったが、宇右衛門はこう言った

「財宝は求め安い、しかし命は求めがたい。天下を望むのも、生命があってこそだ。」

(渡邊幸庵對書)



73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 13:38:56.46 ID:+Sn4NBhJ
>>72
タイムリーな

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 15:18:13.18 ID:tkEmB0NM
流れ着いた箪笥から現金が出てきて俺ウハウハ

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 19:21:24.09 ID:wjkq+BjH
へえ。息子は生き残ったのか。

それ故に、私は未だ身の養生を

2018年03月05日 20:52

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 22:20:27.95 ID:+ByGJBiR
関ヶ原の合戦後、石田三成小西行長、安国寺恵瓊が磔にされる前に洛中を曳き廻されている時、
三成はある家の前で「茶を呉れよ!」と高らかに言った。
これに亭主の老女、茶を持って出て
「御いたわしや、茶を参らせ給え」
と差し出した。三成はこの茶を快く飲んだ。

この時、亭主の老女、鳥柿(干し柿)を盆に摘んで茶碗に取り添え、「これを御菓子にて茶を参り給え」と
言ったが、三成は
「汝の憐は祝着なれども、このごろ腹中を患い、未だとくと本復せざる故に、柿は禁物なのだ。」
そう言って茶ばかり飲んだ。

小西行長が後で
「これから首を斬られる身に、養生は無益である。老女の志と言い、差し出されるままに
菓子を食うべきだった。」
そう言ったが、三成は小西の方を振り返ると

「貴所は心得ぬことを言う人かな、今日河原に引き出されて首を討たれる瞬間まで、世間の変化を
予測することは出来ない。それ故に、私は未だ身の養生をするのだ。」

そう、荒々しく答えたという。

(関原軍記大成)

茶や水の代わりの干し柿、ではなかった



678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 12:33:52.33 ID:2UAVq0U8
>>677
引き回されてるのに茶をくれという自由はあるのか、意外と人道的?

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:17:05.78 ID:22URxcVa
>>677
???「こちら大きな腕の温い茶と小さな腕の熱々の茶からお選びください」

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/06(火) 01:44:44.87 ID:AWrYLnfC
>>679
?「何となくひねこびていかにも器の小さい感じがする」

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/06(火) 16:29:27.74 ID:/Z2JltW5
>>680
光栄自重しろ

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/07(水) 02:12:02.40 ID:286OQfuo
うでのちゃ??

賊軍の平行長から

2017年03月10日 13:08

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 00:39:46.61 ID:CuKbDLlq
ついでに↓でも触れられているけど柳成龍による巨済島の海戦
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2860.html

賊(日本)軍の平(小西)行長から要時羅(よしろう)という人物が金応瑞に派遣されて
「自分は講和交渉を台無しにした加藤清正を甚だ憎んでいる。
これこれの日に、清正の倭船が渡海してくるので朝鮮の水軍は迎え撃つべきだ」と言った。
権慄はこれを信じたが、李舜臣は賊の罠だと疑い、前進せずに遅延してしまった。
とうとう清正が上陸してしまったため、朝廷は李舜臣を咎め立てし獄舎に投ぜられた。
するとまた要時羅が派遣されて「これこれの日に倭船が来援します」と伝えてきたため、
李舜臣と仲の悪かった元均は、あるだけの船を全速力で向かったところ、
強風が吹いて散り散りになり、疲れたところを賊軍に襲われてわが水軍は壊滅してしまった。
思えば、賊軍は水軍にだけは敗北を喫していたため、秀吉がそれを憤って行長に撃破を命じ、
行長は応瑞を騙し、李舜臣を罪に落とし、元均を海上におびき寄せて襲撃したのだった。
その計略は至って巧妙で、わが方は、ことごとくその計略にはまり込んでしまった。
哀しいことである!

友軍を売ろうとしたら大戦果を収めてしまった小西行長であった


だから越中に謀られたのだ

2016年06月17日 17:55

732 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/17(金) 11:15:30.85 ID:GEmWGYBE
三成の柿の話は綿考輯録(細川家譜)だろうからたしかに違うがこのコメント4も訂正しないので自分が
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-886.html

慶長4(1599年)年3月26日家康は向嶋の屋敷に移動した。
これより以前三成はどうしても忠興を味方にしないと家康を倒せないと考え、多くの人に頼みその中には前田玄以もいて
「忠興と仲が悪いのは大いなる誤りで何とかして和睦できるよう、お頼み申す」とひたすら頼まれたので玄以は忠興の所に行き、このことを告げた。
しかし忠興は許さないので玄以は重ねて「太閤の大恩をもし忘却してなければ私恨を捨て三成と和睦してください」と再三説得してきたのでついには納得して三成と会うことを決めた。

長束大蔵大夫(正家)は和睦のことを聞き大いに喜び、「忠興から三成の所に行くのも、三成から忠興の所に行くのもどうかと思うので、我が屋敷にて共に会って和解するといいでしょう」と
と玄以を通して申し入れたので、日を定めて行くことになった。

三成は早くから来ていて手には盤上の柿を忠興の前に仲直りの挨拶もせずに置き、三成は「以前好物だと聞いていたので持ってきました。
お先に召し上がりください」と言うので忠興は挨拶してから柿を食した。
その席にて三成が内府の専横を数えあげては言い「これをそのままにしては天下は穏かならずことになり終いには天下は内府を主とするに至るでしょう。
まことに遺憾で何とかして秀頼公に奉公仕り権勢を欲する内府をを討ち果たべきと決意しました。
太閤への大恩を忘れてなければ我々に味方してはくれないでしょうか
秀頼公への忠節に対しては、お望み次第にどこでも好きな国を二ヶ国を拝領することを三成が周旋することをお誓いしよう」と丁重に言うと
(忠興も)「我々に目をかけてそのようなことを頼むことに大変嬉しく思う。この上は不肖を捨て一命をかけ、お味方しよう。さて、内府を討つ手立ては?」
(三成は)「こんな時のために、太閤存命の頃から内府の屋敷を取り巻き、味方の面々の屋敷を変えさせました。
今夜即夜討ちをするつもりで宮部善祥坊(宮部継潤)と福原右馬助(福原長堯)は家康の近隣で屋敷が高いところにある。
これらのところから火矢を打ちかければ火が出て何の備えもない家康方は慌てて屋敷を出るところを井楼から一人一人鉄砲にて討ち取る。
僅か二千の兵と聞いているので仮に逃げだす者がいても、こちらの多兵をもって討ち取る算段なので何の手間もいらないので(忠興にも)兵を出していただきたい」

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 11:20:29.37 ID:GEmWGYBE
忠興もこれはもっともな手段だと思ったが、少しも合点がいかないふりをして、
「いやいやそれでは駄目だろう。火矢を打つのは地の高下とは限らない。
内府も堀裏に走り、櫓などを付け、火矢の用意もあるだろう。その上近辺の諸将には、常に忍を置いていると聞くので今夜の企みもはやくから知っているだろう。
こちらから火矢を10射出す時、向こうからは100も射かけてくるだろう。そうすると、敵の屋敷より味方の屋敷が先に燃えてしまいます。
内府は数度の武名を顕し、場数の勇士も多い。2000人が心を一つにして必死の働きをすれば、討つことは難しい。
その内に彼と親しい諸大名が聞き付けて駆けつければ、却って御味方の敗北は疑いようがない。
例えその状況でなんとか勝利を得ても、『弱きの巧みな臆病なる手立』などと後々まで嘲りを受けるのは大変悔しい。

しかしながら、それほどまでに思い定めているのなら、私に一策があるので聞いていただきたい」と言い三成も「その意見を承る」と返した
「今夜の先手を私に命じろ。無二無三に切り入るから各々は二の目を取れ。そうすれば内府を討ち取ることもあるだろう。
例え敗死したとしても、潔い英名は後代に残る」

と申したところ三成はそれを聞かず「あなたを捨て駒にしてそのようなことはできません。お願いだから最初に私が提案した意見にしてください」というが
忠興は納得せずお互いに意見を引かないため論争になった
「忠興殿もあのように言うしどのような意見でまとめるにしろ時間も大分過ぎて夜も深いし、今夜はお開きにしませんか」と提案があったのでそのとおりとなってその日は皆帰った。

後日この話を聞いた小西行長の反応は
「なんて口惜しいことだ。五奉行は世間事には賢い者達だが軍事には拙い。だから、越中(忠興)に謀られたのだ。もはや内府を討つ事など思いもよらないことだ」と、言い頭を抱えて悔いたと聞いた。

忠興はその夜、幽斎を通して「このような事があったので、向嶋に立ち退くように」と言ったが、「彼らにどのようなことができるのか」との返事だった。
翌日忠興自ら家康の所に赴き、そのことを全て話して早く向嶋に立ち退くようにと提案した。
家康はその計画を知り大いに驚き、「命を落とす所だった。この御恩は子々孫々までも忘れない」と語ったという。

関連
柿と三成と忠興・悪い話


しかしこれによって異国と本朝は

2016年01月21日 17:38

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 05:15:56.58 ID:TEmnWNJ0
文禄の役の講和のため、大明・朝鮮の伝奏が来日することは、小西行長石田三成を通して
報告していたので、秀吉もかねてより、馳走すべきであると、その歓待のため家臣を奔走させた。

伝奏が登城すると、秀吉は上壇に着座し、伝奏は次の間に置かれたのを、伝奏は通詞を以って
秀吉に訴えた

「日本国太閤秀吉、大明国に和を乞うた以上は我らと同輩である。
そもそも私は、この冠を太閤に御免なされる勅使なのだから、太閤の態度は無礼である。
太閤は次の間に下り、大王より御免なされた勅書、冠を頂戴すべきである。」

これを聞いた秀吉は以ての外に激怒し、小西が表裏を言ったのだと思い、
「この冠を捨てよ!」と命じ、庭に捨てさせた。
そして明皇帝からの勅書を台長老、哲長老に読ませ、その内容を聞いた所、小西が報告したこととは相違し、
先ほど勅使が言った通りの内容であった。

秀吉はますます機嫌を悪くし
「この秀吉を大明国王の婿とし、朝鮮四道を割譲すると、小西が申した故に、軍勢を釜山浦まで引き取り、
朝鮮の王子たちも返したのだ!どれほど後悔しても及ばない。小西を呼べ!!」

そして呼び出された小西行長を見ると、「こやつの首をはねよ!」と怒ったが、小西は色々と
詫び言を申し上げ、また石田三成からもたっての取り成しを申し上げたため、当座の難を逃れた。

しかしこれによって、異国と本朝は再び手切れとなったのである。

(續撰清正記)



石田三成の対面(武功雑記ver)

2015年10月19日 14:01

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 10:31:30.50 ID:Z9MZl0gp
関が原の合戦の後、石田三成が生け捕られた時、紺の帷子を被って小袖を許されていた。
藤堂宮内(高吉)が来て、

「私は治部少輔の恩を受けたものなので、ひと目会いたい」

とたって望んだため、対面を許された。
宮内は「さてさて」と何か言おうとすると、三成は

「いやいや、最早何も言わぬものだ。」

そう答えた。

さて、この時捕らえられた、石田三成小西行長安国寺恵瓊の3人に時服一重づつ、
台に乗せて下された。

小西は言った
「一時の寒風を逃れよと、小袖を下さること忝ない。
諸人に対面するのも面目がないが、身に刀を立てぬ宗旨ゆえ、このように見苦しき目に逢ってしまった。」

安国寺は小袖を見て
「それだけか」
と言って着用した。彼は諸大名に会ってもずっと無言であった。傷が痛むように見えた。

三成は小袖を見て
「これはどこから来たものか?」と聞いた。「上様からである。」
「上様とは誰か?」
「いや、内府様の事だ。」
これに三成
「さてさて、上様はこの前他界されたばかりだというのに、早くも内府を上様と呼ぶのか」
それだけ言って小袖を着ようとしなかった。
諸大名には雑言を言っていた。

(武功雑記)




文禄の役の和議の模様

2015年08月06日 14:18

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/06(木) 12:27:18.76 ID:6LDCYi5a
大明の石司馬と言う者は、明において朝鮮のことを司っていた。
秀吉の朝鮮出兵を受け、どうやって朝鮮に入り日本の兵を退治すべきか計っていた所に、
沈惟敬と言う者、先年日本に渡った鄭皿という者に遭って、日本のことを尋ね聞き、
今度の朝鮮の乱で大功を立てようと考え
「私は日本のことをよく知っている!」
と触れ回った。

石司馬はこれを聞いて対面し、人を得たと大いに喜んだ。
彼は祖承訓らの敗戦に凝りて、重ねて大軍を催さなければ日本人と戦うのは難しいと思い、
この沈惟敬に、朝鮮に行って和議を整えるようにと命じた。
これによって沈惟敬は朝鮮に渡り、小西摂津守(行長)が平壌に在った時に対面し、
明と日本が和睦すべきということについて議論した。

小西行長は7ヶ条の要望を書き、「この事が整うのなら我らは和議に同意する」と伝えると、
沈惟敬もこの条件を了承したため、裄長も同心し、和睦を結ぶことを許可した。

ところが沈惟敬が明の帝都に帰りこの件を奏上すると、群臣の詮議はまちまちであり
俄に結論は出なかった。このため和議は未だ成らず、その間に李如松が大将として大軍を引きい
朝鮮に渡った。ここに至って沈惟敬もまた朝鮮に渡り李如松と対面し、石司馬の意をのべて
日本と和議を結ぶべきとの内容を語り、また小西のもとに来て相談した。

そこで、去年小西より要求した7ヶ条のうち第4は大明より秀吉を日本国王に封ずべきとの内容であったが、
小西や三奉行を始めとして。朝鮮の在陣には労苦が多かったので、どのようにしてでも和議を整え、
戦争を終わらせて日本に帰りたいと思っていたため、この一項を言い換え、『秀吉を大明の王に封ずべし』と
日本に申し送った。その上、朝鮮の二王子を返せば、朝鮮八道の内四道を割譲する。日本の帝王を
明の天子の婿とするであろうと、沈惟敬が言ったため、これを小西及び三奉行が申し上げると、
秀吉は喜悦し「そういう事なら戦をやめて和睦しよう」と、朝鮮在陣の諸将に対し伝えた

「日本側が要求した7ヶ条に大明が同意した上は、加藤主計頭(清正)が生け捕った朝鮮の二王子、および
臣下たちを送り返すように。朝鮮の王城にいる日本勢は釜山浦まで引き取るように。」

また開城府を守る李如松も、日本勢が王城を出たなら、同じく軍勢を残らず引き連れ開城府を立ち退いて
大明に帰るべしと定められた。
これによって、4月18日、日本の諸将は皆、王城を引き退いた。
小早川隆景の謀にて、各陣所に火をかけて立ち退いた。
大事の退き口であるので、大明の大軍が後を追撃してくることもあるため、黒田長政に
殿を務めるようにと議定し、その旨に任せた。

また都より釜山に帰る途中に大河が在ったが、長政はここに船橋を渡し、王城より帰る兵を
残らず渡すと。その後船橋の綱を切って捨てた。
李如松はその後やがて、日本軍と入れ替わりに王城に入った。

(黒田家譜)

黒田家譜より、文禄の役の和議の模様である。




小西行長捕縛

2015年07月30日 11:39

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/29(水) 21:11:58.51 ID:ZmPhxVvV
城和泉守(昌茂)が物語った事である

「私が先年、関ヶ原に一泊した時、旅籠の亭主を呼んで『昔ここで、大合戦があった時のことは覚えているか?』
と尋ねると、この亭主は老人で、詳しく物語した。私が『小西行長をここの者が捕らえて草津に差し出したと
言うが、それを知っているか?』と問うと、この亭主『小西をとらえたのは私です』という。そこで私は、
この事色々と質問し、ついに事実であると理解した。亭主が言うには

『あの時、おびただしい落人が日夜ここを通っていたため、在所の者共は申し合わせ、武具はもちろん
衣類まで剥ぎ取っていました。しかし我々はそれを制し、そのような事は致しませんでした。
これは仔細のあることでした。

そのような中、近くの山において、我々に呼びかけてくる落人がありました。
私が「いらぬことを話しかけるより、何方へでも、早々にお忍びなさい。」と申しましたが、
「是非是非ここに来てほしい。頼みたいことがあるのだ。」と申します故、行ってみると
「私は小西摂津守である。徳川家に連れて行って褒美を取れ。」と言うではありませんか。

私は驚き「考えもできない、勿体無いことです。どうか少しでも早く落ち延びてください。」と
申し上げましたが、「いや、私が自害するのは容易いが、切支丹なれば自害も出来ぬ。」などと
様々に申されたため、是非なく我々がお供申し上げました。

そこから御本陣に向かいましたが、途中でもし人に奪われてはと心許なく思い、
竹中丹後守の衆を呼んで色々と話し合い、小西殿を馬に乗せ、竹中丹後守御家来が同道にて草津の
御本陣へ参り、村越茂助殿の宿舎にこの事を申し入れますと、我々を宿舎の中に通され、その後、
小西殿に縄をかけられました。
私達は途中も心やすく考えてお供していたので、縄のかかることになるとは考えもしていませんでした。

それから、私達にはご褒美として黄金10枚が下されました。竹中丹後守殿にも、何か下されたと
記憶しています。その後は特に何のご沙汰もありません。』

世の中では、林蔵主と申す飛騨出身の出家が、これが大力であったため小西を生け捕った、などと
諸書にもあるが、それは偽りである。」

(明良洪範)

小西行長捕縛についての逸話である。






加藤吉成の知謀

2014年12月01日 20:28

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 19:05:21.69 ID:pLG88mxo
朝鮮の陣での、ある城を攻めた時のこと
日本の諸将が数日これを攻めたが、敵も堅固に持ちこたえなかなか落ちなかったため、
日本軍は攻め口を退き遠攻めにした。

この時、小西摂津守行長の家臣である加藤内匠(吉成)が申し上げた

「この城を数日間大軍で攻めましたが、寄せ手が討たれるばかりで城は落ちず、遠攻めと成りました。
ですが私の考えでは、今夜夜討を仕掛ければ、必ず乗っ取ることが出来ます。なぜなら敵は、我々が
夜攻めをするとは全く考えていないからです。間違いなくここ数日の対陣に困窮し、遠攻めのため退いたことに
油断しています。ですので、先ず忍びの者を遣わされ、敵の様子を究明することが宜しいでしょう。」

小西も尤もだと同意したため、加藤内匠は忍びの者に加え、家来で物慣れている清水角兵衛とい者を相添えて
偵察に遣わした所、両人罷り帰り、揃って敵が油断している様子を語った。

そこで小西軍は軍勢を二手に分け密かに押し寄せた。この時加藤内匠は搦手を攻める別働隊に下知した
「大手より鬨の声を上げて攻めれば、敵は尽く大手に集まるであろう。その時別働隊は搦手より
進入するように。」

そして大手で時の声を上げると、案の定敵は夜討が行われるとは思いもよらず殊の外混乱した。
大手攻めの軍は斧で門を打ち破ろうとし、また鉄砲も厳しく撃たせたので、敵は皆大手に集まり、
搦手には守兵がいなくなった。

よって搦手の軍はやすやすと城内に侵入し、加藤内匠も一番の乗り入った。諸勢も尽く攻め入り、
敵を数多討ち取った。
小西行長からは日本軍の諸将と示し合わせもなく、ただ小西の一微を以って尽く乗っ取ったこと、
偏に加藤内匠知謀によるものであった。

この時の鉄砲の音、時の声に驚き、他の日本軍の諸将は追々この城に乗り入れた。
しかし他の日本軍にとってもこれは思いもよらぬことであったので、夜が明けてみると、鎧を着る暇もなく、
素肌(鎧を着ていない平装の状態)の者が多かったという。

(黒田家臣伝)

後に黒田家に仕えた加藤吉成の知謀についての逸話である。