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立花宗茂、小野鎮幸から借金する

2021年08月22日 16:52

942 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 09:38:05.88 ID:2Egr4wVK
立花宗茂小野鎮幸から借金する

1600年9月、関ヶ原での合戦が終わり大坂城へ戻った立花宗茂(当時は親成)は毛利輝元に東軍との決戦を主張するも、輝元は既に東軍への恭順を決めておりそれを覆すことはなかった。

宗茂は人質となっていた母・宋雲院を奪取すると本領柳川を目指して進発。同じく薩摩へ撤退する島津勢と道中共にし、柳川へ辿り着く。

宗茂の帰着後の10月半ば、柳川へも東軍側の黒田、加藤に西軍から降った鍋島の三軍が攻め寄せて来る。
家康への恭順姿勢を見せるため宗茂は出陣せず小野鎮幸が大将として出陣し、殺る気満々の鍋島軍と激戦を繰り広げた末に鎮幸は銃創と矢傷で重傷を負い、立花軍は数々の犠牲を出しながらもよく持ち堪え、
最終的には家康からの宗茂と弟の直次らに対する「身上安堵之御朱印」が届いたことから黒田如水と加藤清正の説得に応じ、10月25日に降伏した。
この時、連れ帰っていた母・宋雲院を徳川への人質として再度上洛させることが決まっていたのだが、度重なる戦への出費で宗茂は手元不如意であった。

(´-ω-`)和泉ごめん、母上上洛のために銀10貫ほど貸して。国替えになっても来年の秋には返すから…

( ´-ω-`).。oO(命は助かったけど、最悪国替えだろなぁ)

開城時点ではこの様に考えていた?宗茂であったが…
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現実(家康)はより非情であった…

  (=゚ω゚)
   ( x)
   )ノ
   (
   )

c⌒っ。ω。)っ
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こうして永きに渡る立花宗茂の愉快… じゃなくて苦労一杯の浪人生活が幕を開けることとなったのである。

(参考:立花資料館所蔵 立花親成書状)
https://i.imgur.com/mXdwK7M.jpg
https://i.imgur.com/W8XgnUL.jpg
mXdwK7M.jpg
W8XgnUL.jpg



944 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 16:32:14.15 ID:fo84XfBI
>>942
清正や三歳様はじめ東軍側の色々な人からの取り成しもあったんだろうけど、秀吉の小田原攻めの時の大道寺政繁みたいにならなくて良かったと思う。

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 22:38:32.40 ID:2Egr4wVK
宗茂「借りた金返せねぇぞ♪はした金じゃねぇぞ♪ orz」
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加藤清正と小野鎮幸の一局

2021年08月20日 00:17

935 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/18(水) 20:33:00.77 ID:f9XqlVy3
加藤清正小野鎮幸の一局

関ヶ原の戦いの後、立花宗茂の元を辞して加藤清正に仕えた小野鎮幸が清正と将棋を指していた時のこと…

突如、隣の部屋にいた近習達が喧嘩を始めた。

近習A&B「ギャフベロハギャベバブジョハバ」

    \      ☆
             |     ☆
             ⌒ヽ   /    ボカ
    \  (´⌒  ⌒  ⌒ヾ   /
      ('⌒ 彡⌒ ミ ⌒ ::⌒ )      ボカ
     (´  ( `・ω・)      ::: ) /
  ☆─ (´⌒;:    :: 彡⌒ ミ  )
     (⌒::   ::   (・ω・´ )  )  ::⌒ )
    / (       ゝ  ヾ      ) ─

少しして清正
清「ちょっと俺、アイツらの喧嘩止めてくるわ。」
おもむろに立ち上がり席を外そうとする清正。
(実はこの時、局面は清正の敗色濃厚であった。)

これを聞いた鎮幸は

鎮「殿、主君たる者がこの程度で立ち上がられてはいけませぬ。某が何故にここに居るか。もしもここまで押し入って来る者あらば、不肖なれどこの老人めが取り押さえます故に殿は落ち着いて其処に居て下さりますように。」

静かに強く怖い顔で清正を睨んでこう言った。

清「はい…(;゚Д゚)」

喧嘩の仲裁に座を立ち、勝負を流局に持ち込もうとした清正の魂胆は見抜かれていたのである。
清正はただただ赤面して恥じ入るのみであったと言う。

ネットで拾った話にて出典元は不明ながら加藤清正と小野和泉主従の珍しく清正公がカッコ悪い話。
どなたか出典元知ってたら補足お願いします。



936 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/19(木) 21:26:55.19 ID:uBu4jL7q
>>935は古雄逸談に有りました。

正式なタイトルは「清正臨終の譫語」
この出来事を清正は死の1日前に悔いたとされ、清正公とそのファンにはお辛い話かも知れない。

国立国会図書館デジタルコレクション(19Pにこの逸話有り)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/32?tocOpened=1

937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 00:01:49.82 ID:ewp9KiJx
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/19?tocOpened=1
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/20?tocOpened=1

清正赧然その軽率を悔い座に着き然れども此の時深く愧ずる処ありしと見へ将に死せんとするの前日
我も天下の勇士にして何人にも許されしに唯老いぼれ和泉に我が腹中見ぬかれし事の口惜しさよと齒切之を久しふす
良い話の清正が立花誾千代に兵糧を差し入れて、その報告の手紙を小野鎮幸に送った逸話や鎮幸の六十の手習いの話が良い話だけに
ちょっと切ない・・・。
あくまで後世に書かれた軍記物や創作の話と思いたいなぁ。

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 00:19:50.34 ID:csAkJawM
>>937
くたばる前の日にもなって昔のことを口惜しがって止まない、てぇのがリアルだねえ。
本当の噺なんじゃねえかな。
通り一遍の薄っぺらな英雄像よりよっぽど良い。

939 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 00:34:42.10 ID:ewp9KiJx
>>938
個人的には加藤清正のファンでもなければ所縁の地の者でもないから特段擁護したりとか
いう気持ちは無いし、むしろ小野鎮幸みたいな人の方が好きでその行動にこそ共感するんだけれど、
加藤清正が生前に立花宗茂や誾千代を気遣った気持ちは噓ではなかったと思いたいし、家臣となった
小野鎮幸との交流も心からの物で最後にその晩節を汚すような言動は無かったと思いたいんだよねぇ・・・。

加藤清正、立花誾千代に兵糧を送る

2021年08月19日 17:13

441 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/19(木) 13:04:28.11 ID:3psnQ4c0
加藤清正立花誾千代に兵糧を送る

1601年に書かれたと推定される加藤清正小野鎮幸に宛てた書状より

「左近殿御内儀へ御兵粮まいらせ候ところ、御礼として飛脚給うについて御状に預かり候、誠に御隔心がましき御礼など候へば、かえって迷惑せしめ候、しかるべき様に御心得頼み入り候、左近殿御身上落着の儀、到来候はば示し預かるべき候」

関ヶ原の戦の後、食客的立場で肥後の加藤清正の元にいた立花宗茂は故あって少数の家臣達を連れて清正の元を離れた。
清正に仕えた旧立花家臣団のまとめ役として肥後に残った宗茂の元家老である小野鎮幸に対して清正が送った書状には、鎮幸の旧主の奥方である立花誾千代に"兵糧“を差し入れたことなどが記されている。

左近(宗茂)殿の奥様に兵糧を送りました。御礼の書状が飛脚で届きました。気兼ねさせてご迷惑かけることになってないかな?(´・ω・`) 以下略


当方、古文に疎いため拙い意訳なのでアレですが加藤清正立花宗茂立花誾千代、その旧臣達に色々気遣いしていたことが判る書状が残っている。詳細翻訳は詳しい方お願いします。

しかし、立花誾千代への差し入れに対し"兵糧"って書いてるのはよほど関ヶ原後に清正が攻め入った時の立花誾千代の姫武者ぶりが強く印象に残ってるのか、洒落なのか?

立花誾千代の出陣・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-365.html



小野鎮幸宛加藤清正書状 小野文書141より』(立花家資料館所蔵)



443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 13:06:23.32 ID:CHsfUeX3
>>441
原文はネットにあるのかな?


450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 13:00:33.64 ID:YfJQA42z
>>443
https://i.imgur.com/L2FACvx.jpg
L2FACvx.jpg

原本自体はGoogle Arts & Cultureで加藤清正書状と検索すると出て来るよ。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 14:29:06.72 ID:DBOy4uXM
>>443
翻刻はネットにはないんじゃないかな
柳川市史 史料編V 近世文書(前編)には収録されてたよ

神職の射る弓、立つか立たぬか、受けてみよ

2020年01月11日 15:44

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/11(土) 13:54:27.89 ID:jm076ULv
この頃、筑前国糟屋郡立花の城主は大友入道宗麟の股肱の臣である、戸次入道道雪であった。
道雪は智勇仁の三徳を兼ねた人物であったので、筑前に召し置かれ、原田、秋月、千葉、千手、筑紫、高橋を
攻めて豊後の屋形の幕下に成した。また肥前国・龍造寺隆信も攻め従え。これにより薩州の島津と九州全体を
かけての争いの構図と成った。

しかしながら宗像の大宮司は大内殿の頃より山口に参勤して幕下となり、全羨(陶晴賢)が滅んだ後は
毛利元就に属して大友に従わなかった。
この状況を見て道雪はこのように考えた

「先ず宗像を攻め従わせる事ができれば、龍ヵ岡の城主・杉十郎貫並も、烟の城主・香月七郎経孝も、
山鹿城、花尾城、剣嶽城までも残らず手に入れられるであろう。幸い、近年宗像の当主である氏貞は、
城普請に財を費やし家中に十分の一の役料をかけ、民百姓にも課役をかけて領内衰微し、粮乏しく、
その上名のある老臣武勇の士は、山田の怨霊のため取り殺され(前の当主であった氏男が大内義隆の跡を
追った後、氏男の子女と後妻は陶晴賢の指示などで殺され、怨霊となり宗像家中に祟る)、その身は
博多津・聖福寺の玄蘇和尚を招いて禅法を修し詩歌を事とす。故に家中もその風に靡き、武事を怠っている。
この虚に乗じて宗像を攻め滅ぼすべし!」

こうして、大山対馬守、小野和泉守、由布美作守、薦野三河守、安部、十時、森、原田、吉弘といった人々を
始めとして、永禄十年九月に立花を打ち立ち、飯盛山に陣を取った。

宗像氏貞はこれを聞くと、「急ぎ飯盛に向かい彼らを追い返すべし。」と、吉田伯耆守重致、許斐安芸守氏鏡、
占部右馬之助氏時、石松但馬守、米田比修理進貞兼、畔口伊予守益勝、吉田左近貞延を始めとして都合二百余騎が
飯盛山に押し寄せた。

この時、敵は先ず許斐の城を攻めて、その後蘿ヵ嶽に寄せんと支度をし、飯盛にて諸卒に兵粮をつかわそうと
野陣をした所であったので、慌て騒ぐ事限りなかった。
宗像勢の中より黒糸縅の鎧を着て、栗毛の馬に銀幅輪の鞍を置かせ打ち乗った武者が一騎駆け出て、
「吉田勘解由左衛門致晴!」と名乗り真前に進み出て声を懸けた

「日頃立花の人々は、宗像大宮司の長袖烏帽子のヘロヘロ弓矢、何ほどの事があるかと嘲弄されているよし
承り及んでいる。神職の射る弓、立つか立たぬか、受けてみよ!これ神通の鏑矢なり!」

そう能く引いて放った矢は、真前に進んでいた原田源五郎の胸板を射通し、後ろに控えていた原田源助の
草摺の端まで射通した。

これを軍の始めとして、互いに揉み合って戦ったが、日既に暮れに及んだため、小野和泉守が諸卒に下知して
「日暮れて他領に陣すること不覚なるべし。急ぎ引き取れ。」と、筵内新原を指して引き退き、立花の城へと
帰った。この時宗像勢が討ち取った首級百七十三は蘿ヵ嶽に送られた。

この後は糟屋宗像は折々小勢を出し、年々戦止むこと無かった。しかし元亀半年に両家の家臣共の計らいにより、
氏貞の妹をして立花に嫁がしめ、双方無事と成った。

(宗像軍記)

宗像と戸次道雪勢との戦いについて。



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/11(土) 18:23:51.08 ID:ZGhu7hD1
>>502
戦国時代は神主も強いから困る

504 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/11(土) 20:28:31.68 ID:yG9ZxbxY
立花って本当は弱い

505 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/11(土) 23:32:42.91 ID:Ihnuve94
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小野鎮幸、六十一にていろはを学ぶ

2013年08月10日 20:37

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 22:40:58.26 ID:/FMh7SlT
ある時、加藤清正が、立花宗茂の重臣である小野和泉(鎮幸)と歓談していたとき、
和泉にこんなことを尋ねた

「和泉殿、あなたは書状の往復に困却することは無いか?
私の如きは、幼少より戦場にのみ臨んで、更に読書習字をする暇が無かったために、
今日に至るまで書状の往復には常に困難を感じることが多いのだ。」

和泉はこれを聞くと
「私は61歳までいろはのいの字も知らなかったのです。ですが、かつて高麗在陣の時に、
毛利甲州殿よりの書状が至りました。

その時、私は賊の首実検をしていたのですが、この書状を読もうと思ったものの、それが出来ず、
立花の家老とも称され、60にもなろうという者が書状を読むことさえ出来ないとは、
この和泉一人の恥辱にとどまらないと、冷や汗を流しました。
この時は幸いに、内田玄恕がたまたまこちらに来たので、書状を見せて彼に返書を書かせました。

しかしこの事は深く私の心に刺さった出来事でした。そのため、帰国してから妻にいろはを書かせ、
習字を練習しました。これによって幸いに、今日においてはにじり書きだけは良く出来るようになったのです。」
そう笑いながら語った。

清正は、和泉が謙遜してそんなことを言っているのだと思ったが、他日立花の諸士に聞くと、
果たして小野和泉の言に違いはなかった。

清正は感嘆して、
「古より偽りがないのが武士であるとは聞いているが、和泉ほど偽りのないものは
稀である。小野和泉こそ、真の武士の典型である。」
と語ったそうである。
(古雄逸談)




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/10(土) 04:01:32.87 ID:QE5deDv1
男子三日会わざれば刮目して見よ、ですね

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/10(土) 07:16:45.39 ID:7Q+T9pPf
信長の時代には農民を含めて識字率かなり高かったようだね
出典忘れたけど「この国の人たちはほとんどが読み書きできる」という書状が残ってる
武士で文字が読めない人は珍しかっただろうな

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/10(土) 09:04:54.28 ID:4seFcnCN
江戸じゃなくて戦国時代も農民の識字率高いの?

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/10(土) 09:59:48.46 ID:RdqJDEZb
毎年年貢交渉しなくちゃあいけないし
他の村と同盟結ぶ時も文書交わさなきゃいけなかったから
ある程度の人数、読み書きできる人はいただろうね

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/10(土) 10:05:07.11 ID:TgO+iliV
ザビエルやフロイスは庶民や売り子や女性ですら字が読めると驚いてる
他の宣教師や朝鮮人も一様に驚いてるから高かったことは確か
江戸時代と違って率までは推測できないが

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/10(土) 10:57:15.93 ID:rf1ru16Q
平仮名なら読めてたかもな。漢字だと、明治の頃でも自分の名前と住所しか書けない人も多かったみたいだし

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/10(土) 11:00:19.62 ID:TgO+iliV
一口に識字といっても日本だと3段階あるからな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/10(土) 11:15:24.69 ID:oYPyEHVI
西欧人の字が読めるレベル設定と日本のそれは違うからなあ。
一概に識字率高かったとは言えないんじゃない?
もちろんそれでも普通の国よりは高かったってことだろうが。

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/10(土) 11:22:06.71 ID:TgO+iliV
ヨーロッパでも公文書を書けるのはそれを仕事にしてる者くらい
比率はともかく字が読めるレベルとやらに差は無い

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/10(土) 18:57:48.97 ID:HIS5h/KI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7499.html
万松院殿(足利義晴)の御治世の前後では、京においてすら文字を書けるものは千人に一人も無かった。
しかし書を成すと云われる程の人は、後の世にも見られないほど見事な書を書かれた。
(義殘後覺)

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/11(日) 01:43:13.72 ID:wg9i2krs
>>848
既出
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2309.html