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「臆したる仰せかな」

2021年10月30日 16:24

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/30(土) 16:16:27.50 ID:tQVtBhVS
天文9年(1540)、近年元就朝臣(毛利元就)には尼子民部大輔晴久に様々憤る事があると
大内義隆と陶入道道麒(興房)は聞き及び、棹させば流されると喜んで、
「大内の幕下に属されれば、これからは水魚の思いをなし申さん」と厚く礼和を言って申し越された。

元就朝臣はいかが思いなされたのかやがて了承し、
芸州にいた尼子一味の侍どもの城を一時攻めに5ヶ所乗り崩し、晴久と手切れの色を立てなさる。
これにより晴久は吉田へ発向の旨を評議し、祖父経久(尼子経久)へも聞かせ申してこその事と思い、
しかじかの由を申された。
これに経久は「吉田出張の儀は無益である。まず石備両国を従えて国人どもの人質を取り堅め、
深固の利をもっぱらとしてその後に吉田へも出張するべきだ」と理を尽くして申された。

しかし晴久は、経久は老耄なされたので「御意見至理に存じ候」と謹んで申されながらも
内心では「臆したる仰せかな」と思い、ひたすら吉田へ出張の用意をするのみであった。

(中略。以下吉田郡山城の戦いの時)

吉田勢(毛利勢)はようやく3千に過ぎないため、城中の女童下部までことごとく堀際へ差し出て
竹の先や棒の先に箔紙を付け、あるいは金銀の扇子などを結い付け持たせて置きなさった。

宮崎では吉田勢が向かうと見て、一陣に控える高尾豊前守2千余騎(尼子勢)は柵際まで出て待ち受けた。
吉田勢が少しも臆さず攻め近づき柵を押し破り切り入ると、出雲勢もここを先途と防戦するも、
ついに叶わず左右の谷へ引き退き、二陣に続く黒正甚兵衛尉の1千5百余騎が渡し合って防戦した。
一方で陶、杉、内藤の宮崎の陣(大内勢)は、「元就は容易く勝利を得られることだろう。
それならば本陣の晴久と一戦するぞ!」と、2万余騎を三段に分けて青山猪山へ押し寄せた。

尼子下野守(久幸)は思慮深き侍で、必勝の見切り無くしては危うき合戦を慎んだので、
世人は“尼子比丘尼(臆病野州とも)”と言った。この人は何と無く、怒る様子もなかったのだが、
心深い憤りがあったのか居丈高になって言われるには、
「今日の戦はこれ以上ない程の味方の大事だ。何にせよ1人踏み止まって討死しなければ、
晴久の御開陣も成り難い。内々に口武辺なさっている人々は一手際のところである!誰か彼か!」

だが答える者は1人としていなかった。その時に下野は雑言吐散し、
「尼子比丘尼は今日の討死なり!御免あれ!」と打ち立ち、手勢5百余騎程が青三猪ヶ坂へ掛け出ると、
河添美作、本田豊前、已下下野に励まされ我先にと進み出た。

そうして陶の先手深野平左衛門尉、宮川善左衛門、末富志摩守2千余騎と入り乱れて戦い、
山上へ追い上がる時もあり、周防勢が追い下され三日市まで引く時もあり、終日隙間なく攻め合えば、
陶の先手の深野と宮川は討たれ、末富は深手を負ってやがて下人に助けられ味方の陣に入った。

元就朝臣の家人中原善左衛門は宮崎からどのようにして来たのか陶の手にいたのだが、
尼子下野に渡し合って大雁股を野州の眉の外れに射込み、馬から落ちるところを走り掛かって
首を取ろうとした。野州の同朋は主の首を探させまいと前に進み打って掛かるが、
中原は物の数ともせずに一太刀で打ち捨てた。しかし、その隙に下野の死骸を若党どもが
肩に掛けて味方の陣に逃げ入ったので中原は思う首を取れず、同朋の首だけを討って帰った。

――『安西軍策

安西軍策は江戸初期成立の軍記物で陰徳記の原資料といわれる
臆病野州は前段で吉田出陣に反対した久幸を晴久が臆病と罵倒したことに由来するとされるが
尼子比丘尼は世人の評由来で、晴久が臆していると思ったのは経久になっている



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尼子久幸、臆病野州・いい話

2008年10月16日 11:37

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/10(水) 01:11:47 ID:q4JQeDWc
意外にもこれがまだだったな


毛利元就は尼子と断交し、大内の傘下に入った。

英雄、尼子経久から家督を継いで間もない孫の晴久をはじめ、尼子家中はこれに怒り、「毛利討つべし!」との
声が大きくなった。その中、一人反対した者がいた。晴久の叔父、経久の弟、尼子久幸である。

「元就は、お前たちが考えているような、簡単な相手ではない。」

ここは戦よりも、外交的解決を図るのだ、と言う久幸に、主戦派は怒った。たかだか安芸の一国人に過ぎぬ
元就ごときに、数ヶ国を領する大尼子がなめられたままでよいと言うのか。
この久幸、かねてより、物事を戦にならないように謀り、経久の頃でさえそれが無謀と考えれば、その戦に
反対していた。

「下野守(久幸)殿は戦が恐ろしいのじゃ!だからいつも戦に反対しなさる。臆病野州と呼ぶが良かろう。」

臆病野州。あるいは野州比丘尼。主戦派は彼のことをこう呼び嘲った。彼はこの屈辱にじっと耐え、あくまで
この戦に反対したが、天文9年(1540年)、晴久はついに毛利征伐の命を下した。

尼子三万の兵が毛利家の本拠、吉田郡山城を攻めたこの戦い、当初の目論見に反し尼子は攻めあぐね、
天文10年正月十三日、尼子軍は毛利軍の猛攻と大内からの援軍の背面攻撃を受け大混乱に陥る。
このままでは、撤退も出来ず全滅もある。絶望的な状況の中、尼子側の一部隊が突出した。尼子久幸であった。

「臆病野州の最期を見よ!」

久幸は敵に突進し、先ず大内の軍を蹴散らした。大内軍は名のある家臣、深野平左衛門、宮川善左衛門が
あっという間に討ち取られた。後世に語り継がれたほどの、恐るべき武勇であった。
久幸のこの奮戦により、尼子は混乱状態から体勢を立て直す余裕が出来、退却をはじめた。

彼は、尼子の撤退を支援すべく暴れまわったが、毛利家臣、中原善右衛門尉に射抜かれ、討死した。
臆病野州と呼ばれた男の奮戦は、尼子軍の誰よりも、あれこそもののふであると、敵である毛利、大内両軍から
すら、高く称えられた。