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尼子勝久・通久兄弟の切腹

2020年03月17日 18:03

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 12:10:13.79 ID:DxVeY+n/
上月城の戦いの終盤

吉川治部少輔元長は山陰道の勢二万余騎を率い、卯月(四月)十一日の朝陽に、織田の援軍の在る高倉山へ
討ち向かい、有無の合戦と憤る。その来鋭奮発として、大地震え山裂けるが如し。北國武者の勇気は氷雪の
気色を表し、烈々として厳しければ、佐久間右衛門尉(信盛)、瀧川左近将監(一益)らは

「あの手の者達はどうやら鬼吉川の勢のようだ。彼と戦い、例え利を得たとしても、上月城を囲んでいる
十万余騎の敵は、それを見て我等に討ち掛かることをどうして堪えるだろうか。
若大将である織田信忠を、生死知らずの者共の鋒前に掛けてはならない。早くこの陣を引くのだ。」

として、高倉山の陣を引き払ったが、吉川元春はこれを追い、同国書写山に追い詰めた。

こうして上月城では、後詰めの味方が敗軍したと聞くと城兵の大半は落ち散り、防ぐべき戦術も盡きた。
尼子孫四郎勝久、助四郎通久兄弟は「今はもはや自害せねば」と思い極め、山中鹿介幸盛を呼んで

「如何に御辺は、今一度降人となり、芸州長田に御座す、前伊予守義久入道瑞閑を忍び出し、再び
素懐の旗を立て給え。
先年、秘蔵せし松虫の轡を捧げて、織田信長の憐憫を得た。今また、尼子家の什宝である荒身國行の太刀、
並びに大海の茶入を進ぜよう。これは我等の形見とも、又は武略の種ともし給え。」

そう遺言し早くも自害の用意急であれば、幸盛は涙を流し
「さても無念の次第です。これも尼子の家運が滅びるべき時が至ったのか。であれば、人手に掛かるよりも
疾く自害されますように。幸盛は今一度、思う仔細がありますから、御跡に留まって後世を弔い進ぜます。」
そう言って酒を進め、宴など催し。天正六年五月二十九日(筆者注・実際には七月三日とされる)、
勝久通久兄弟、自害して名を滅亡の跡に留めた。哀しいと云うも愚かである。

雲州軍話首

尼子勝久・通久兄弟の切腹についてのお話。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 14:00:05.78 ID:uq7TRT/o
織田勢転戦しすぎててちょっと記憶が薄いんだけど
佐久間と滝川と信忠って山陰の方出張ったっけ
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今、その第十の計りを用いる

2020年03月16日 18:45

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 17:32:14.14 ID:vH5vpMMx
元亀二年の頃に成ると、尼子再興軍は毛利相手によく戦ったものの、兵糧は既に尽き、今は天下の扶助がなければ
どうやって大敵に打ち勝つことが出来るのかと、諸城を開け退き、或いは再び降人となって毛利方に出頭した。
このため、今や尼子勢は五千余騎に過ぎぬ有様であった。

山中鹿介の籠もる末石城内も飢饉に及び、士卒は軍務を尽くさず、夜々に落ち散る者多かった。
このような状況の中、鹿介幸盛は軍士を呼び集めると、このように申し渡した

「私は若年の初めより、勝利十法をよく学び得て、敵に当たるたびにこれを用い、勝たぬという事はなかった。
今、その第十の計りを用いる。

この幸盛、敵を偽り、降人となって衆命を助け、粮を求め、重ねて蘇兵を挙げる期を得ようと思う。
であるので面々は皆、故郷に忍び、時を待ち給え。」

そう命ずると、十月二十五日の朝、城門を推発すると、鹿の角の前立を指し挙げ「矢留である!」と呼びかけ、
ただ一人打ち出る。甲をうちかけ鑓を杖し、吉川元春の陣門にかき入り、仁王立ちし、大音にて言った

山中鹿介幸盛、弓折れ矢盡きて、今は衆命を助けるため、降人となって出て候!
願わくば、元春、元長の御慈悲を以て、鹿介の一命を助け、後扶助を預かれば、今後は大忠を尽くすと、大将へ申せ!」

そう高声に呼びかけると、陣門の警護、宿直の武士たちは大いに驚き、陣中の騒動は千車の轟に異ならず、幸盛を
討って大賞を得んと、我も我もと進み出て、彼をその真中に取り囲んだ。
しかし幸盛の勇気は項羽の武威を越えるもので、とうと青眼をむけ大きな怒りを含み

「我武運盡き、軍門に降る上は、汝等が心に任せよ!」
と、鑓を投げ捨て太刀を抜き、
「これぞ今、降人の現れである。早く大将に告げよ!」
と呼ばわると、その声は獅子の吼えるが如くであった。

しばらく有って「大将見参すべし、これは御入り候へ」と、勇士三十余人が、鹿介の左右の腕袂に取り付き、
陣屋の中に入れようとしたが、鹿はまた怒って、両手を振りほどくと左右の手に取り付いていた勇士たち
三十人は将棋倒しに倒れ、躓き伏せ、赤面して立った。

鹿介は吉川元春を前に跪き、頓首平伏した。この時駿河守(元春)は幸盛のその姿を見て
「昨日まで雨を施す龍王も、雲を得ずしては死した蛇にも劣る。御辺は日本第一の豪傑と雖も、兵粮が尽き、
兵が分散した故に降人として出てきたか。痛ましいことだ。

私は正兵を守り奇を用いない。降る敵を捨てず、一人を助け万人を喜ばせるための賞としよう。」

そう真心を以て語りかけ、鹿助に伯耆国尾高庄、周防国徳地ノ庄、併せて二千貫を宛行った。
こうして山陰道は再び元の如く、大江(毛利)の幕下となった。

鹿介は喜び無く、まもなく尾高庄に入部し、蟠龍が来復の気を呑んで、時を窺っていた。
そのような中、尼子孫四郎勝久が隠岐国に渡り、軍の用意を怠らなかったが、これが敵方へ聞こえ、
「早く討手を差し向け、芽のうちにこれを断つべし」と評定で決した。

鹿介はこの事を聞くと、急ぎ隠岐国へ飛脚を遣わし、勝久にかくかくと告げようとした。
所が彼の飛脚は割符を持っていなかったので、諸所の関所を通らず向かったが、伯州境にて彼の国の関守、
杉原播磨守盛重の廻国の警護の者たちに、怪しい奴とこれを通さず、搦め捕り拷問にかけた所、この飛脚は
白状し、笠の緒の中から、鹿助より勝久への密書が一つ出てきた。

「これは疑う所なし、あの鹿助を誅殺しなくては、またどのような世の変転が起こるかわからない」と、
急ぎ追手を向けたが、その時鹿介は既にこの事を伝え聞き、またかねてより妻子を、婿である亀井武蔵守(茲矩)の居る
京都へ上らせ置いており、直ぐに尾高を忍び出て、但馬国へ赴き、隠岐へ使いを立てて尼子勝久兄弟を招き寄せ、
濃州岐阜へと落ちていった。

雲州軍話首

第一次尼子再興運動の失敗と、山中鹿介の偽りの降伏についてのお話



919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 11:52:39.52 ID:nKpdqadR
因幡では鹿介ら山賊となり村々を略奪しては女を凌辱又は奴隷市で売り軍資金を稼いでいたそうな
今でもこの地域には埋蔵金伝説がある

尼子再興軍挙兵

2020年03月14日 15:07

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/14(土) 02:56:33.70 ID:HrhviztH
尼子伊予守義久の伯父である、孫四郎久勝、同弟・助四郎通久は(正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか)、さる永禄九年十一月、雲州富田城が没落した後は、ここかしこに身を潜め、
牢屈の悲しさに涙が尽きる日もなかった。洛陽(京都)東福寺に隠蟄し、出家遁世の姿に身をやつし、時が来れば
義兵の旗を挙げ素懐の恨みを晴らさんと、年月を風に吟し月に嘯き、怨みを山陰の雲に憤って明け暮れて座していた。

その頃、尼子一族譜代の郎従である山中鹿介幸盛。立原源太兵衛久綱、加藤彦四郎経盛も、京の嵯峨の辺りに居たが、
大江羽林(毛利元就)が九国(九州)を攻めて大乱に及ぶと聞くと、「今こそ、義兵を起こし鬱憤の旗を押し立て、
山陰道に討ち向かい、尼子累代の本領を取り返し、勝久兄弟の素懐に達するのは如何か」と議した所、
みな「尤も」と了承したため、急ぎ二条の御所に参り、委細を訴え出た。

織田信長はこれを聞くと、大いに喜んで言った
「関東では武田信玄が陰謀を呑み、西國では大江羽林が毒石を含んでいる。天下始終の魔障は、彼ら両勇である。
昔、漢の高祖は義帝を立てて秦の代を滅ぼし、周の武王は木主を作り殷の代を傾けた。幸いにいまここに、
勝久、通久の兄弟がいる。早く彼らを大将に立て、義兵の旗を挙げるべし!」

そう応じられ、御教書を調え、丹波、但馬の勢二千余騎を以て加勢に付けた。これに尼子孫四郎勝久、助四郎通久の
兄弟は、蟄望たちまち発し、虹龍が一陽の気に乗って天に上る如きであった。
尼子譜代の郎従に一言、芳恩の武士への催促を促した所、恨みを一刀の刀に掛けた兵たちが馳せ集まり、程なく
七千余騎となった。

雲州軍話首

しかし信玄と元就で「天下始終の魔障」とは、また偉い言われようですね。



762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/14(土) 07:31:17.81 ID:OFEQsci3
>>760
>天下始終の魔障
>虹龍が一陽の気に乗って天に上る如き
言い回しがいちいちかっこいいwこういうのが講談の元になったというか発展したのかな
現代にも講談→小説→漫画としてつながってる気がする

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/14(土) 10:43:25.29 ID:CEi3z3Cr
>>760
>正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか

「はとこ」と言う

山中鹿介、品川狼介、勝負の事

2020年03月13日 16:37

746 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 20:22:59.54 ID:72oODjjo
ここに石見国住人、品川半平という者があった。彼は吉川元春の陣に進み出てこのように言った
「この頃、関東には勇士があると言いますが、西国には鹿(山中鹿介)を討つ人もいない。私が一勝負仕り、
軍の睡りを醒しましょう!」
そう声高に訴えた。

彼の形相を見ると、身長は七尺(約212センチ)を越え、両眼は鬢(耳ぎわ)まで裂上がり、
手足は熊、目、口は虎に異ならなず、鉄をくり抜き。鐘の如くなる鎧を着、六尺(約180センチ)あまりの太刀を帯び、
彼が大将である吉川の陣に望んだその姿は、そのまま仁王の荒作り、又は当八毘沙門が貴見城の門に立って修羅を
攻め給う姿もかくやと怪しまれ、軍使悉く身を跪いて恐れをなした。

この時、吉川駿河守元春の長男・治部少輔元長は、その頃世に隠れ無き形相の人物であり、人は皆「鬼吉川」と
呼ぶほどの血気にて、仁義も勇も逞しき勇将であったので、彼は半平を一目見て
「さても汝の形相は、いかなる天魔鬼神も挫き、孟賁(秦の武王に仕えた勇士)の骨を砕くべき血気なれば、鹿介を
討たん事容易いであろう。先ずは受領を進むべし。」と、即時に『狼介勝盛』(鹿を狩る狼、また山中鹿介幸盛に勝つ、
という意味であろう)と名を与え、「早速敵陣に赴き、勝負を決すべし」と下知された。

狼介は喜び勇み、勇者の面目、且つ鹿を取ると名が明らかなのは自明の理であり有り難しと打ち笑い、
鋒より長い鑓を取って、大場谷の坂に望み、囲いを抜いて三度「誰人にても一人これに出給え!」と、
大音にて呼んだ。その声は余りに高く、谷峰を震わし山彦が響いて聞こえぬ所無かった。

城中では驚き、「これは如何なり、獅子象王の呻声か、事々しき音声である。早く出て事の仔細を聞くべし。」
と下知をした。そこで今川鮎介が飛ぶように走って見てみると、そこには閻魔大王に些かも劣らない大男が、
三間ばかりの鉾を携えて立っていた。

今川は驚き、「汝何者ぞ、化生か鬼か、名乗れ!」と言うと、狼はこれを聞くとあざ笑い
「我は鬼神にも非ず、石州益田住人、品川狼介勝盛という者である。御辺は誰か、名乗れ。」
鮎介はそう言われるとカラカラと笑った

「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」

そういって鮎介は山中に駆け入り、山中鹿介幸盛に、かくかくと告げた。
鹿介は目を閉じ黙然とし、上帯に太刀をおさめ、十文字の鑓を取って提げ、已に出向こうとした。
これに鮎助は走り寄り、鎧の組紐に取り付いて
「不覚なり。御辺は大将の身として、一騎の勝負は避けられるべきだ。」と鑓を取って控えさせると、
鹿はあざ笑って

「敵も我も同じ人である。例え本当に鬼だったとしても、どうしてそれを見て逃げるだろうか。
況や同じ人間であれば、私の鑓に先に懸って、いわゆる夏の虫と成るだろう。凡そ勝負には、勝つも負けるも
ここにあり。」

そう言って胸をホトホトと叩いた。これに鮎助は打ち笑って「もはや勝ったな、鹿殿」と誉め称え馬に乗せた。

747 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 20:23:19.18 ID:72oODjjo
鹿介は急ぎ谷口に表れ出て
「いかに狼殿、鹿は大将の身であるから一騎の勝負は不覚で有るのだが、末世まで勇士の名を立てるために
ここまで出てきた!さあ、一鑓仕らん!」

そういうと狼聞いて

「さても、勝負を決するのであれば太刀打ちの勝負をしよう!」

と、鑓を投げ捨て太刀を真っ向にかざし躍り出た。その形相はただ、閻魔大王が呵責の鬼を怒るのもこの時かと
訝しむほどの形相であった。
上の山には寄手大将吉川小早川、左右の峰には伊予河野、備中の三村、大旗小旗を靡かせ「狼、鹿取れ!」と
声援し、その声はまた、大地を震わし大山が裂けると錯覚するほどであった、

鹿も馬より下りて太刀討ち合いを暫く戦った。その間狼は、右の小鬢に痛手を負い流血、その血が目に入った。
このため「今は叶わじ」と思ったのか、太刀をカラリと捨て、無手となって組み付き、鹿を取って引き敷いた。
幸盛は元来気早なる勇者であったので、下より二刀差し通し跳ね返すと、狼はまた下になって鹿の向こう脛を突き、
双方手負いとなって別々にわかれた。しかし狼は深手であり、終に空しくなった。

さても世は定めなき習いであるので、鹿を取るべき狼が鹿に取られること無惨なりと、敵の毛利勢は眉をひそめて
音も無かった。

その後、何者が書いたのか、大場谷に落書が立った

『狼が 鹿に取らるる世となれば 負色見ゆる勝久の陣』
(狼が鹿に命を取られるような、世の常の道理が逆に成った世であるのだから、道理に従えば本来は勝つはずの
尼子勝久の陣営に敗色が見える、という意味であろう。)

雲州軍話首

山中鹿介品川狼介の勝負について。プロレスか格闘技の試合みたいですね。

前話
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 22:11:21.08 ID:+eHnhGXZ
「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」

突然こんな芝居かかった長いセリフを思いついてスラスラ言えるのだろうか

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 22:12:23.93 ID:hC0ZPjal
このまま漫画化できそうw

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:01:06.96 ID:7eHWEYO2
身長デカ過ぎ、台詞男臭過ぎ、原哲夫の漫画かよ

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:38:07.91 ID:pCfeW8zQ
まとめの4357
尼子さんの家の記録による、鹿之助vs狼ノ介
と同じ話?

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:53:04.58 ID:72oODjjo
>>751
すいません書き忘れました。こちらは
>>737
の続きです

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 00:17:54.35 ID:k7HRjE5w
鹿介と狼介に混ざって出てくる鮎介さん
なぜに鮎

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 01:26:39.69 ID:gX2mf2Gn
身長7尺の紹介の段階でかませキャラ感がある

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 12:23:29.38 ID:VmC0GDNg
この異様に敵の凄さを強調する登場シーンに既視感あると思ったら
モブの反応まで含めてワンピースとかキングダムの世界

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 12:46:53.84 ID:/E+YrFqV
講談の手法が漫画に取り入れられたのでは

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 16:55:40.94 ID:OASpozdO
>>755
?「鶏を裂くのに牛刀なんかいらんよw」

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 21:05:57.09 ID:jPTP3wxG
>>756
だね
何か普遍のものがあるんだろうね

出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃか

2018年07月26日 20:05

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/26(木) 17:11:37.47 ID:DAZzVT8a
尼子勝久の尼子再興軍が出雲に入って以来、城をかすめ取ること15城、その軍勢は六千余騎に及んだ。
そこに赤松の浪人たちも馳せ集まり、伯耆国岩倉の城を攻め取り、美作の蘆田、三浦、市といった一族も
これに一味した。毛利方は伯耆国の高田城には香川美作守、長左衛門大夫を去年から入れ置いていたが、
敵方に攻め囲まれ、日々攻め合いが止むことなかった。

また毛利家臣の福屋隆包は石見国に入ると、石見、その他所々で敵が蜂起したとの情報を得て、
長門国の下関、及び筑前国の立花に、この旨を日々注進した。これによって吉川元春小早川隆景
先ず出雲伯耆の城を落とすべきであると、米原平内兵衛を、高瀬城を堅固に守るようにと三百余騎を付けて
出雲へと向かわせた。彼らは石見の浜田に5日滞留し、「却って尼子に一味すべきである」と内通した。

また南條伯耆、山田出雲は下関勝山に在ったが、敵が羽衣石を囲むとの注進があったためこの両人を向かわせた。
南条は急ぎ羽衣石に入り、山田出雲は岩倉へ押し寄せ攻め落とし、敵63人を討ち取った。しかし山田家の家人も、
梶屋藤兵衛、林甚四郎、同又兵衛、長安神左衛門、谷川久充、その他中間8人が討ち死にした。

また福屋隆包が石見から帰ってきたが、その理由を聞くと、森脇市郎右衛門が立花より上がり石見に
到着すると三子山に立て籠もり、隆包の出した廻文を持たせ廻らせていた出家を見つけ出し搦め捕えて
獄門にかけたのだという。

筑前立花城攻めの陣中では、出雲伯耆はみな尼子に与したと聞こえ、多くの兵卒を出雲方面へ向かわせた。
この頃立花城攻めの兵もやや減ったため、一刻も早くこの城を攻め落とすべきと、一時攻めに
攻め寄せた。この勢いによって敵兵も防ぎかねている所に、「城を明け渡せば一命を助ける」と申し送ると、
城兵たちもその意に任せ城を明け渡した。彼らは全員一命を助けられ、士卒残らず大友の陣へと送られた。

(安西軍策)

永禄12年ころの、出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃかになっている毛利の様子。


天野隆重の方便

2018年07月25日 21:37

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 23:01:39.02 ID:EyEJGJF5
永禄12年、尼子勝久、山中鹿介らによる尼子再興軍が出雲に乱入した時、富田城は天野紀伊守隆重が、
わずか300余りの兵で守っている状況であった。
天野は尼子と一戦すべしと思っていたが、尼子軍6000余りに対して自分たちは300であり、
思いに任せて合戦し、損じてしまっては口惜しく、しかし一戦しなければ武辺が拙い事を誤魔化したのだと
言われてしまうと考えた。そこで、尼子方の秋上伊織に使者を出して申し述べた

『尼子勝久が当国へ入られ、諸人皆御味方へと参る中、我一人が当城を守るなど、蟷螂の斧の如きものである。
然らば、尼子による毛利家御退治の後、我が本領に加え五万貫の所領をあてがうことを約束していただければ、
明日にでも城を明け渡すであろう。

しかしながら、無碍に城を明け渡せば我が武名は長く廃れ、芸州の妻子達は全員頸をはねられるであろう、
それも口惜しいことである。

そこで明朝、そちらの軍勢が切岸まで寄せてほしい。そこで我らは防ぎかねたる体にて本丸に引き退き、
和平を仕って城を明け渡し芸州へ帰り、そこで尼子軍の芸州への御発向を待って旗を揚げるであろう。』

これを秋上伊織が山中鹿介へ報告すると、鹿介「これは勝久様が御運開かせ給う瑞相である!」と
急ぎ勝久に披露し、すぐさま秋上伊織を大将と定め、疋田、遠藤、岸、池田、相良、有村以下二千余騎にて
富田城へ押し寄せ、七曲を一息に駆け上がり切岸へと到着した。そこでかねての約束を信じ油断して
待ち受けていた所、この様子を見た天野隆重は「方便にかかった」と喜び、矢狭間を開け、射手を揃えて
想いのままに射させた所、敵はこの予想外の攻撃に慌て、早くも多くの死傷者が出て、引き色が見えた
所で、隆重は「時分良し!」と彼の三百あまりの人数を朝霧の中から突撃させた。
これを敵は一支えも出来ず、大勢が討ち取られ、我先にと逃げ退いた。

山中鹿介らは、天野隆重に謀られ諸方の笑い者とになったこと口惜しいと大変に怒ったという。

(安西軍策)



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/25(水) 07:58:35.02 ID:YKRKfBFg
>>945
これ、小説だと、秋上が功にはやって受け入れる、山中は怪しいと止めるエピになってるよね。
秋上がその後裏切るのはこの時の不面目を引きずったからとか。

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/25(水) 21:35:10.44 ID:BEZvxerT
俺が30年以上前に見た山中の伝記じゃ秋山が看破で山中が騙されるだった
それ以降秋山は尼子復興は無理と判断し吉川に降る

950 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/26(木) 07:02:23.83 ID:P8oD2fN8
天野隆重「かかったな!アホが!」

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/26(木) 12:44:58.47 ID:9WnOU9Er
フフ…火薬入りの茶釜は…痛かろう

神西元通の変心と中原善左衛門の忠死

2016年10月02日 15:27

140 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:27:18.87 ID:6qfdtbzd
神西元通の変心と中原善左衛門の忠死

伯耆の国、末石城の城将神西元通は元は尼子十旗の一つで第七、出雲神西城の守将であったが
毛利家の出雲侵攻の際に降服し、月山富田城の落城後は毛利家の命で毛利の目付中原善左衛門と小寺佐渡守とともに、
伯耆の末石城に籠っていた。

1569年、毛利家が北九州立花で大友家との争いを繰り広げていたころ、その隙をついて
尼子勝久を擁した山中鹿介・立原久綱らの尼子再興軍が海路より出雲へ侵攻を開始。
島根半島に上陸して忠山の砦を占拠した尼子再興軍はそこから尼子旧臣らに檄を飛ばしたところ、
同心するもの数多く、尼子再興軍は急激にその勢力を拡大していった。

そんな中、神西元通は末石城に籠り沈黙を保ったままであったがある日、山中・立原の両将から使いが訪れる。
そして扇を出すと「これに一筆頂きたい」と言う。何故か?と問う元通に使者は
「山中殿・立原殿がおっしゃるには、『尼子家に人は多いが、神西殿とは特に朋友の契り浅からず。
今は敵味方となってしまって簡単に会うことはできないが、昔のよしみは忘れられず、懐かしく思い出される。
人の思い出としては、筆跡以上のものはないという。
神西殿はなかなかの名書家であるから、何でもいいから一筆書いてもらってきてほしい。
顔を合わせていると思って筆跡を見たい』とのことです」

と、鹿介より言付かった通りに返答すると、元通は「山中・立原との昔のよしみは深く、私にとっても忘れ難いならば一筆書きましょう」
と答えると扇に「ふるかう小野の本柏」とだけ書いて使者を返した。これを見た鹿介と立原はこの歌が古今和歌集の、
『石の上ふるかう小野の本柏もとの心は忘られなくに(いその神ふるから小野の―本の心は忘られなくに)』
から来ていることを見て、元通に脈ありと見て再度使者を送ると、案の定元通は尼子再興軍に味方することを約束して使者を返した。

141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:28:20.59 ID:6qfdtbzd
神西元通はこの事を表に出さず固く秘して隠していたが、いち早くこれに気付いた者が居た。
毛利から目付として付けられ一緒に末石城へ籠っていた中原善左衛門である。
彼は吉田郡山の戦いで一矢にて尼子経久の弟である尼子久幸を討ち取るなど、歴戦の勇士であったが
また智にも優れた者であった。

中原は神西元通の変心に気付いたがそ知らぬふりをし、密かにかつ迅速に対処しようと同じ目付の小寺佐渡守を呼ぶと
「神西について何か気付いたことはないか?」と尋ねた。小寺は「何も気付いたことはない」と答えた。
中原はそれに「いや、神西はどうも逆心を抱いているように見える。しかし、何の証拠もなしに彼を討っても胡乱の極みと人から笑われるだろう。
そう思い見過ごしてきたが、このままでは神西はそろそろ事を起こし、私と貴方を討ち果たそうとするだろう。これまでは無闇に波風立てまいと貴方には
黙っていたが、もう神西の逆心は疑いなく思えたので貴方に教えたのだ。私はここで神西と刺し違えて討ち死にしても元就様の厚恩に報いようと思う。貴方はどうだ?」
と、尋ねると小寺はつくづく思案して「中原殿の覚悟、実にその通りだ。だがこの城で無駄に討たれても意味なく思う。だから命を全うし、再び元就様の役に立ちたいと思う。」
と答えた。

中原は冷笑し「あなたの言うことはもっともだ。今ここで討たれて勝久へ首を捧げられるのは実に悔しい。
しかし一隅を守る私は何の才覚・智謀なくこの城に籠った日から神西に野心あれば刺し違え、
毛利に忠を尽くし敵に囲まれるなら神西と共に自害せよと命じられたと考えている。だから気にすることはないのだ。
あなたは命を全うしして、五百八十歳まで生き永らえるとよろしい。
私は死して善道を守り、忠義の名を子孫に残そう」と言った。

小寺はやがて神西に「両足を痛めたので、牛尾の出湯に入って養生したい」と暇を請うた。
神西は「好きにするといい」と言うので、小寺は喜んで、すぐに城を出て逃げていった。
しかし芸陽には帰れず、豊後へ渡って大友金吾入道を頼り、また老後になってから本国に帰ってきたという。
(異説では軍議の為、城を出て安芸へ向かったとも言われる)

この後中原は神西と刺し違えようと思い決めていたが、証拠もなしに神西を討てば人々から
『中原自身の思慮が足りずに、さしもの忠功の神西と刺し違えたのだ』と口さがなく言われるに決まっている。
どうにかして、神西が私を討とうと目の色を変えたときにこそ、一打に斬るしかない。
あの小男一人なら、掴み殺すのも簡単だと思って今まで放っておいたが、
もし私が討たれてしまえば、私が油断したから易々と討たれたのだと、
人々はあざ笑うだろう。これも口惜しい」と思った。
それでこのことを詳細に書き記すと、「妻子に伝えよ」と、下人一人を故郷へ帰したのだった。

こうして中原は、神西の反逆の証拠があれば一刀のもとに切り捨てようと考えて、心を許さずにいた。
神西もなかなかのつわものなので、少しも態度に出さずに時が過ぎていったが、
あるとき神西は、同朋(近侍の僧体の者)の林阿弥という者と中原の囲碁対戦を所望した。
中原は「よろしいですとも」と答えて神西のところへと向かう。

神西は碁を討っているそばからのぞくように見物して、
指を折りながら「十、二十、三十、四十」と数え、
「そこに打って取れ、ここの石を拾え、投了させるな」などと言っていたが、
「そこで切れ」というのを合図に、討手にキッと目配せした。
神西が林阿弥に「切れ」と言ったのと同時に、討手の者たちが抜き打ちにそばから丁と切る。
中原は前から覚悟していたことだ。自身も屈強な太刀の達者であったので、碁箱でもって受け流し、
一尺八寸の脇差を抜いて討手の眉間を二つに切り破る。
二の太刀で碁の相手の同朋を袈裟懸けに切り捨てる。
その際に神西は中原の左手をしたたかに切った。
中原は切られながらもスッと立って打ち払い、八面に敵を受けながらしばらく戦って、
数多くを切り伏せまたは怪我を負わせて、自身もぼろぼろになって死んだ。
勇といい義といい忠といい、まさに類まれな者だと、これを聞く人は皆たいへん感心した。
神西も情けのある者なので、これまでのよしみが忘れがたいと、中原を手厚く供養したとのことだ。
(陰徳記)

142 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:49:09.71 ID:6qfdtbzd
ちなみにこの中原善左衛門であるが、末石城跡とされる場所にある碑には
この逸話の2年後の1571年に吉川元春が末石城を囲んだ際、和議の使者となった
在郷の勇士と共にその目付として城に入り、和議成立を偽装した城方に寄って騙し討ちされ
退去の際に丸腰の所を使者と共に斬られたとされている。



143 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 03:18:36.35 ID:7qJmlchd
林 阿弥「解せぬ」

駆けつけた隠岐為清に

2014年11月14日 18:43

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 20:31:25.13 ID:7Gf/O+oJ
永禄12年(1569)、尼子勝久、山中幸盛、立原久綱らの尼子再興軍が出雲へと侵攻すると、
隠岐隠岐守為清も300余騎にて隠岐国より渡って来て、山中、立原に申し述べた

「それがしは近年毛利家に従って、隠岐一国を領知しました。これは身において本意ではありませんでしたが、
倅に家を相続させるため、力なくこれに妥協しました。

しかしこの度勝久様が当国に帰還され、恐れながら私も一族の端でありますので、大慶これに過ぎたることは
ありません。旧好を思われて、隠岐を相違なく安堵して頂けるのなら、この身命を忠戦のため
投げ打つ覚悟です。」

山中、立原はこれを聞くと、その内容を勝久に申し入れる旨を伝え、忠山に仮屋をかけ、大幔幕を打って、
為清の率いてきた300余人に饗応し、その後山中幸盛は言った

「為清殿の申し述べられた内容を勝久様に伝えた所、隠岐家が昔の好を思い早速入来したこと、
芳志の至である。従って隠州の事も望みに任すべきではあるが、同姓三郎五郎(隠岐清実)は、
近年我らが流浪している間もその志変ぜず付き従い、忠志浅からざるものがあった。
よって本国である以上、隠岐国は彼に宛てがうつもりである。

為清には意向を聞いた上で、出雲・伯耆の内においていずれの地であっても、望みに任せ現在の領地に
倍して安堵いたすであろう。そう仰られた。」

為清はこれを聞くと

「今度の戦いは勝久様の御本意あるものですから、外に所領を増やす望みは有りません。
また味方に参った以上、所を嫌うべきでは有りません。
どこの国であっても、相応の小郷一所を給われば充分です。」

そう言ってさらぬ体にて対応したが、実際にはこれを不本意に思い、この後、終には再び心変わり
したのである。

(芸侯三家誌)

隠岐為清、所領変えを言われ再び変心する、というお話




768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 21:43:31.65 ID:Meb5omKS
馳せ参じたのに国替を言い渡されるとはな
そりゃ離反するだろw

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 22:19:12.79 ID:AoUknHpQ
てか、この時は隠岐から上陸してるよね?

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 23:19:04.25 ID:CE7rP0aH
まさに、ちょっと悪い話ですな。感服仕った。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 23:28:06.42 ID:nE/4tcwJ
配流地の隠岐よりも出雲伯耆の方がいいだろうと勝手に気を回した結果だったり

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 23:46:38.08 ID:Vi1vt8AD
本領奪われた挙げ句に獲ってもない土地宛がう約束なんて光秀もびっくりですよ

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 05:33:09.65 ID:4E/JZRiI
隠岐にこだわる理由ってなんだろ
流刑地だから意外に中央とのコネクションが出来るのかな?

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 07:44:57.63 ID:altq7aPR
>>774
日本海航路の汐待ちとしてはそれなりに便利なんだよ

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 08:06:42.05 ID:vaY+nm1n
>>771
その配流地を側近にくれてやる勝久ちゃんwって考えるとお前のレスがおかしいことは理解できるよな。

山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

2014年04月15日 18:40

970 名前:山口きらめーる2013年12月13日号 vol.263より[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 21:58:40.19 ID:2gIipmt1
山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

1578年7月、3月に渡る吉川元春の包囲の前に上月城に籠る尼子再興軍は降伏。
総大将、尼子勝久の自刃を条件に将兵は助命を許される。
10年間、尼子再興軍の実質的指導者であった山中鹿之助も命は助かり、降伏の際
吉川元春に周防に3000石を持って迎えられる事を約束された(三卿伝(さんきょうでん)史料「御答書」による)
ものの、備後の国鞆に在陣中の毛利輝元の前に移送されることが決まる。

この際、鹿之助は先を予見したのか尼子再興を諦めた故かは解らぬが、共に戦った仲間に最後の手紙を残していた。

「永年の苦労と忠義は少しも忘れはしない。だからもうどこへでも奉公してよい」
(続く)

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:03:42.18 ID:2gIipmt1
(>>970続き)
しかし、その直後、鞆への移送の際に尼子再興を諦めぬ鹿之助の執念を恐れた元春によってか、
降伏の条件を知らぬ毛利家の手によってか、いずれにせよ鹿之助は護送のさ中に
備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)で殺害され、その生涯を終える。

先の三卿伝によれば吉川が助命した条件を毛利が知らず、その為に毛利の手により
鹿之助は殺害されたとされ、その死を知った吉川は好敵手の死を哀れみ、その形見と
なった鉄錆十二間筋兜と鹿之助最後の書状を家宝として秘蔵し、今に伝える(吉川資料館蔵)こととなる。

好敵手を讃え遺品を家宝として残す良い話だけど、吉川家と毛利家の報連相が悪いお話。





秋上伊織助、山中鹿介の対面

2013年10月28日 19:48

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:38:39.15 ID:fwUAutZf
じゃあいおりんの話でも。

出雲の国の大宮司、秋上家は無二の尼子方だったが、
勝久が「もし本意を遂げて出雲に入れたら秋上・山中を執事とする」と約束していたにもかかわらず、
次第に山中鹿介の方針ばかりを重んじるようになって、
伊織助の父、三郎左衛門尉は不満を抱いていた。
そこに吉川元春から「うちなら優遇するよ」と揺さぶりがかかった。
三郎左衛門尉は渡りに船と喜び、毛利家に味方する決断を下した。
勝久は慌てふためいたという。

さて、嫡子の伊織助は、たった一人で鹿介の宿所に赴き、面会を申し入れた。
何の警戒もせずにすぐに出てきた鹿介に対し、伊織助は
「こんなことになってしまってから会いに来るなど、面目もない。
 しかしあなたとは少年のころから仲良くしていて、死ぬならともにと約束した仲だ。
 それなのに、愚父は毛利家に属すと決めてしまった。
 明日からは敵になる。こうして会って話をすることもできなくなる。
 あなたとは朋友としていつまでもともにいたかったのに、残念でしかたない。
 これまで仲良くしてくれてありがとう。お別れを言いたくてここまで来たのだ」
と言った。

鹿介は答えた。
「侍は渡りものだ。あなたの父の決断は無理もない。
 あなたは少年のころから私の話し相手だった。今でも断金の友だと思っている。
 あなたが親とともに行動するのを、どうして恨みに思うものか。
 今日ある命も明日には知れないのが武家の習いだ。
 さあ、別れの盃を重ねよう。
 私は明日から、伊織殿を討つための謀略を練る。
 あなたもまた、私を殺す算段をするといい」

二人は盃を出して取り交わし、さしつさされつたっぷりと飲みおさめた。
「ではこれまでだ。明日は戦場の塵となるとも、互いに旧交は忘れまい」
互いに手に手を取り、涙にむせんで立ち別れた。

伊織が森山の城に帰った後、鹿介らは秋上の所領に夜討ちをかけた。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:46:53.13 ID:fwUAutZf
スマヌ、いおりんはミスタイプでした……orz
あと既出チェックしてなかった。
重複だったら切腹で許して。




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:52:50.52 ID:dbBhaRGm
>>603
イイハナシダナー

そして尼子再興軍の事

2012年08月15日 18:03

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 13:31:28.86 ID:9/8v8C50
尼子氏と言えば、大河ドラマ『毛利元就』の影響から緒形拳の尼子経久で知るか。
『信長の野望』で戦闘能力は高いが知謀があり得ない程低い尼子軍団を思い浮かべるか…

そして尼子再興軍の事になると、どうしても山中鹿介の存在感が大きく鹿介ありきの再興軍に見え
毛利氏に負け続きで、鹿介の七難八苦発言もあり尼子再興軍=鹿介=ドMとネタにされる始末
再興軍のリーダーである尼子勝久はただの神輿か何をやっていたか良く解らない人もいるかもしれない。
立原久綱や山中鹿介に持ち上げられて本人にその気は無かったんじゃないかor人質の尼子義久からしたら堪ったもんじゃない、などの意見もある。

出典は『陰徳太平記』で資料としては改竄もあり必ずしも1級資料とはいえないが、尼子勝久の言葉を記しているものがある

舞台は1578年、播磨国において、毛利軍と羽柴軍が鬩ぎ合いをしていた
前線の要であった上月城にいた尼子再興軍に織田信長は撤退を促したが(見捨てたとも)
尼子再興軍は敢えてこの場に残る事を選んだ。尼子勝久は降伏し、その時に家臣に伝えたとされる言葉がある。

尼子勝久『法衣をまとって一生を送るべきはずであった自分を一度は尼子の大将にしてくれたことを感謝する。
     今後は命を永らえ、命を大切にするように』

享年26歳 尼子勝久はタダの神輿ではなく紛れも無く武士であった
逸話の信憑性はともかく、この勝久の言葉があるからこそ尼子再興軍が徒花とならずに済んだと言えるだろう。




85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 14:03:19.90 ID:/Lh96GhQ
尼子と言えばアマゴワクチンとか八つ墓村だろ…(´・ω・`)

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 15:52:35.81 ID:GUXbvUuR
このコピペ思い出した

鹿之助「勝久殿、勝久殿は尼子家を最高する石はお持ちでござるか」
勝久「えっ」
鹿之助「尼子家最高の石でござる」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「勝久殿はまだお若いですからな。 …それに勝久殿の境遇を考えれば仕方のない事か」
勝久「いくつになったらもらえるんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「としをとればもらえるということなんでしょうか」
鹿之助「何がでござるか」
勝久「最高の石が」
鹿之助「いえ、最高の石とは人から譲り受けるものではなく自らが生むものでござる」
勝久「なにそれこわい」
鹿之助「えっ」
勝久「うむのはいたくないんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「ああ…確かに我々には七難八苦があるでしょうがその先にあるのは尼子家最高でござる」
勝久「そうなんだすごい」
鹿之助「……勝久殿、どうか我々に力を貸してくださらぬか」
勝久「なんだかおもしろそうだからいいですよ」
鹿之助「おお勝久殿、ついに尼子家を最高する石を持ってくださったか!」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 16:54:25.75 ID:AJBbdbwE
この前尼子家の本拠月山富田城行ってきたけど険しすぎ
本丸から晴久の墓に向かう道はどうなってんだあれ

山中鹿介「勝つも負けるも戦の習いです」

2011年08月03日 23:01

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/03(水) 02:01:02.22 ID:mYcU0O1W
山中鹿介は一旦は尼子勝久に組しながら、反旗を翻した隠岐の豪族、隠岐為清の討伐に立原久綱と向かったが、
逆に散々に打ち負かされたが、松田誠保と横道正光のお陰でどうにか勝利を拾う事が出来た。
しかし勝久は鹿介と久綱に気を使い、誠保と正光に両名の戦功を認める感状を出さなかった。これを聞いた鹿介は

「賞罰を明らかにしなければ兵が力を発揮しなくなります。また、我々は敗れて逃げましたが
 全く恥にはなりません。勝つも負けるも戦の習いです。」

と勝久に説いた。そして鹿介自らの手で誠保と正光に感状を手渡した。これを聞いた者は皆、鹿介を賞賛したという。
山中鹿介、25歳頃の逸話である。




966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/03(水) 11:25:05.24 ID:sMv+uxZq
戦国鍋のキャバクラに来ていた人だな