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毛利元就と琵琶法師4 新宮党粛清異聞

2014年06月12日 20:43

493 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/11(水) 22:58:28.87 ID:xXWbXywO
毛利元就と琵琶法師4 新宮党粛清異聞

尼子経久の弟・尼子久幸が組織し、後に経久の次男・尼子国久とその子である誠久らに率いられた新宮党は
尼子家中きっての武闘派として中国地方では恐れられ、尼子家の躍進の原動力たる一族衆であった。
しかし、尼子経久の三男、塩冶興久の叛乱が鎮圧され、その遺領である西出雲の管理を国久が任されるようになると、
新宮党の権勢は尼子宗家を継いだ尼子晴久と並ぶほどとなり、尼子家への中央集権化を図る晴久の障害となった新宮党は、
1554年晴久の命により粛清され、国久の一族の大半が死んだ為、ほぼ消滅することとなる。
家中を纏める為、尼子晴久が自らの判断で粛清したと言う説、既出で毛利元就が罪人に尼子国久謀反の偽書を持たせ、
尼子家の勢力圏で殺害して新宮党の粛清を晴久に決意させたとされる謀略説もあるが、雲陽軍実記にはもう一つの元就の謀略による逸話がある。

尼子晴久のお気に入りの座頭で角都と言う者が居た。角都は家中の重臣を晴久に讒訴したり、酒や遊興を勧め堕落させ、
家中や城下での評判はすこぶる悪かった。
新宮党党首の尼子国久も彼を嫌う一人であり、このままでは御家の為にならぬから角都を放逐せよ、さもなくば殺害も止むなしと晴久に迫る。
仕方なしに晴久は角都に暇 を出し、角都は故郷へ帰ることとなった。
その旅路の途中に角都は数人の座頭仲間と出会い、意気投合する。
彼らと親しくなった角都は驚くべき噂を彼らから聞かされる。
角都を月山富田城から追放した尼子国久が、主君・晴久を追い落として出雲国主の地位を得ようと企んでいるというのである。
この話を聞いた角都は直ちに取って返し、尼子晴久に通報。激怒した晴久は叔父国久を始めとする新宮党を粛清してしまうのであった。
が、実はこの国久謀反の法を角都に伝えた座頭らは毛利元就配下で各地に間諜として遣わされた座頭衆と呼ばれる忍びであり、
角都と尼子晴久はまんまと嵌められたのであった・・・。
なお、雲陽軍実記によるとこの角都なる座頭は後の尼子義久の 時代にも側近として存在し、宇山久信らの尼子家臣を讒訴した為、
尼子氏の凋落の一因になったという。




494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/12(木) 00:26:18.34 ID:TD1H+B1i
また元就神話か

495 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/06/12(木) 13:54:42.08 ID:0nSBfeAq
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尼子経久 我が子と相争う

2014年04月26日 18:50

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 00:59:40.83 ID:CIg+fgYk
尼子経久 我が子と相争う

謀聖と謳われた戦国初期の雄、尼子経久
彼には3人の優れた息子が居た。
長男、政久。父に劣らず知勇兼備にして各種の文化にも通じ、時の帝である後土御門帝にその文才・教養を称賛され、
まさに謀聖の跡継ぎに相応しい人物であったが、26歳にして戦死。
次男、国久。父以上の武力・軍才を持つと内外に評され、尼子家の柱石として武闘派の新宮党を率いて山陰・山陽諸国に
その武名を轟かすも、最期は甥晴久の集権体制を確立させる為に殺害されたとも、新興勢力の毛利元就の謀略により
甥・晴久に嫡男誠久はじめ、一族諸共殺害されたとも言われる。

そして、3男興久。彼は父経久が大内義興に従い上洛した際、山陽の覇者大内家との仲を深めんとする父の思惑により、
大内義興の偏諱を受け興久と名乗る。
その後、二十歳になるかならないかの頃、父の命を受けた興久は出雲一帯に大きな勢力を誇る塩冶氏に養子として入り
当主の地位を得、山陰における尼子家の勢力拡大に大きく寄与することとなる。
尼子家と塩冶家に出来た深い縁と蜜月の時であるが、それは長くは続かなかった・・・。
(続く)

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 01:02:28.85 ID:CIg+fgYk
尼子の最前線として隣国の大内やその麾下の勢力、独立した国人衆と相対する塩冶興久の
財政的負担と折衝の為の辛苦は尼子一族の中でも大きな物であった。興久は父経久と腹心
の亀井秀綱に対し、自らの知行を増やすよう申し出るものの、秀綱により却下される。

そして、興久はキレた・・・。
享禄3年(1530年)、興久は以前より親交を深めていた出雲の反尼子勢力の三沢氏や多賀氏、
また出雲大社・鰐淵寺・真木氏・妻の実家である備後山内氏・但馬山名氏と組んで父経久に
対しての反乱を起こす。
中国地方のもう一方の雄である、大内氏との結びつきが大きかったのも原因であるという。
自らの勢力圏の大半が息子の興久につき、謀聖・尼子経久は窮地に追い込まれる。が、
その後戦況は一変する。
塩冶興久が父へのトドメとばかりに支援を求めた大内家の新たな当主・大内義隆は両者共倒れ
を狙って興久ではなく、劣勢の経久に対して支援することを決めたのであった。
これにより戦況は一変、興久は徐々に敗勢が濃くなり妻の実家である備後山内家へ逃亡する。
しかしながらその後勢力を回復することは出来ず、1534年に自刃。
遺領は息子清久が継ぐ物の大半はその伯父・国久の管理下に置かれる事となる。
いずれにせよ、この後尼子家は経久の孫、晴久が家督を継いだ後に国久との間で仲たがいを起こし、勢力の衰退を招くこととなる。隣国の毛利元就はこれを反面教師としてとらえて三矢教訓状を作り、一門の結束を訴えたのか・・・?
いずれにせよ、尼子家が家族で争うこととなった悪い話。





「新宮党粛清」

2012年04月20日 21:00

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 22:16:12.30 ID:EjMLXnUs
もう出てたらすみません


「新宮党粛清」

尼子氏はもともと出雲に土着していた国人ではなく近江京極氏の一族で、
京極高秀の子高久が犬上郡甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)を領して以来、尼子氏を名乗るようになった。

明徳三年(1392)、高久の子・刑部少輔持久は出雲守護代に任じられて月山富田城(島根県安来市)に入り、ここに出雲尼子氏が起こる。

その後持久の孫・経久が紆余曲折を経ながらも勢力を拡大し、尼子氏は山陰の一大勢力となっていった。

さて、経久の二男国久とその子誠久・豊久・敬久らは、月山富田城の北麓新宮谷に居館を構えたことから新宮党と呼ばれていた、
尼子氏の勢力拡大は彼ら新宮党の活躍に負うところが多く、特に軍事面では尼子氏の中核をなしていたと言っても過言ではない。

ちなみに経久の嫡男政久が永正十五年(1518)に戦死していたため、経久は天文六年(1537)に孫の晴久に家督を譲っており、
晴久の叔父である国久は大きな発言力を持っていた。

しかし天文二十三年の今日十一月一日、晴久は定例の評議のため登城した国久・誠久・敬久ら新宮党を襲い、ことごとく殺害してしまった。
その際、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺の僧となる。

尼子氏の軍事的柱石であった新宮党が、なぜこのような形で粛清されたのか原因はいろいろ考えられるが、
一説には毛利元就がいずれ対決する運命にある尼子氏の弱体化を図り、
偽書を用いて新宮党に謀叛の企みありとの風説を流し、晴久を疑心暗鬼に陥れたと言われている。

当時晴久と叔父国久の間には微妙な空気が流れており、元就はそれを上手く煽ったわけである。
事実、新宮党には少々度を超えた言動もあったようで、加えて国政にも口出しをしてくる国久に対し、
当主晴久が次第に面白いからぬ感情を抱くようになっていたのかもしれない。

ともあれ新宮党はここに滅び、尼子氏の屋台骨は大きく傾いた。

見事に計略を成功させた元就は翌年安芸厳島に陶晴賢を破って勢いに乗り、大内氏をも滅して後顧の憂いを絶つと、
次なる侵略の矛先を石見へと向けた。

尼子氏は晴久が永禄三年(1560)十二月に急死したため義久が跡を嗣ぐが、もはや往年の勢いはなくジリジリと毛利軍の侵略を許し、
ついに同九年十一月に元就に降伏開城するという結末を迎えることになる。

なお、尼子氏の重臣山中鹿介は主家再興を目指し、後に京都に隠棲していた勝久を当主として担ぎ出すことはよく知られているが、
夢を果たすことなく播磨上月城で自刃した尼子勝久こそ、この事件の際にたった一人生き残った孫四郎その人である。





733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 08:25:27.37 ID:mCHcNbJA
悪い話かのう? 新宮党粛清で宗家の権力はむしろ高まったはずだが。
晴久が生きてる間は対毛利で連戦連勝だし。

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 08:48:36.34 ID:r3tUNDmx
毛利の謀略で粛清したとかあれ講談なんだってね
それ聞いてから新宮党粛清に悪いイメージ持たなくなったわ

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 09:26:07.50 ID:eY6M7kuP
尼子最盛期は晴久の時代だからねー
尼子衰退の最大の理由はやっぱり次代の若さによる経験不足なのかな

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 12:26:00.59 ID:ikKYCeKD
勝久は新宮党の生き残りだったのか

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 12:36:52.26 ID:2xEh2nX4
新宮党は独自意識持ちすぎて尼子宗家にとって邪魔な存在でしかなくなってたからな
現に粛清後も尼子の軍事行動は衰えを見せてないし
実情は毛利の井上一族粛清に近い

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 15:38:37.46 ID:23JmFg1b
タイミングが悪いと御家滅亡の種になるからな、粛清は。
朝倉氏も宗滴以来の敦賀郡司家の権力剥奪を、よりによって信長と喧嘩し始めたタイミングでやっちまったから……。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 18:57:47.78 ID:kicHRO09
粛清して権力の一本化、と言えば聞こえはいいが、
要するに一門衆の権力を殺いでいるわけで、
逆目が出たら手足を自ら殺いだに等しいからな