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目黒新右衛門の切腹

2018年07月22日 16:32

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/22(日) 13:33:33.51 ID:6O0Iyn2X
備後神辺城は尼子方である山名氏の重臣、杉原氏がこれを守っていたが、大内方の圧迫に耐えきれず、
天文19年10月13日、ついに城を明け渡し、出雲へと撤退をした。

ところが、丁度その頃、尼子晴久は家臣の目黒新右衛門に、兵500を付けて命じた
「神辺へ向かい、杉原を救援するのだ。」
目黒はこの命に感激し、畏まりて

「御家人多き中に私に仰せ付けられたこと、この御厚恩何を以て報いるべきでしょうか。今回
城を助けることが出来なければ、私は二度と当国の土を踏みません!」

そう誓言して出発したが、その途中で、撤退中の杉原の一行に出会った。
目黒は驚き「これは如何に?」と問いただすと、杉原は開城したことを説明した。
目黒も尼子晴久より救援の命を受けた旨を説明したが、「今は軍勢を率いて馳向かっても無益である」と、
軍兵達は杉原に付けて出雲に下らせ、自身は一人で神辺へと向かった。

そして城へ付くと、神辺城を接収した大内方の平賀氏へ検使を出すことを要請した。
「主君との一言の約によって、臣が百年の齢を誤る。」
そう言って腹を十文字に掻っ切って頸を伸ばして待ち、平賀よりの検使である坂新左衛門が首を打ち落とた。

その後、頸は出雲へと送られた。

この目黒新右衛門には二人の息子があったが、尼子晴久は「目黒家は小身であるから」と、目加田の家を
継がせた。この目加田采女、弾右衛門尉兄弟は、父にも劣らぬ勇者として聞こえたという。

(安西軍策)

ええ…、これで腹を切るのか…。



937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/22(日) 13:40:21.31 ID:m/v//j6z
武士のメンツを意地でもたてるいい話やないすか

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/22(日) 18:21:32.24 ID:LdInRxkq
>>936
気がくるっとる(^p^)

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/22(日) 21:53:41.33 ID:EZ86dxyM
狂ってるも何もこれが武士やろ

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 11:07:49.30 ID:TwFnC8JM
武士がこうするのにも理由と言うものがあってな

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 14:08:39.46 ID:Y77Y/Kca
本人のせいでないのに負け戦巻き込まれを回避しつつ面目躍如で子孫も安泰
変に突っ込んで討ち死にせずに敵の保証までつくという計算高さも素晴らしい

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 14:17:37.42 ID:Oug0IF5q
面子>>>>>>>>命だから、命を捨てても面子が立つのなら、それでOKだからなぁ。
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大内勢、味方を討って手柄を得る

2016年10月22日 17:14

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/21(金) 23:20:13.71 ID:wTftajrD
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。

内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。

しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)



238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/22(土) 10:59:08.35 ID:4DeVsb5M
粟屋弥七郎(就俊)

富田城攻めの陣取り

2015年04月14日 18:37

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/13(月) 19:36:33.44 ID:WbwXWuQx
大内氏による出雲攻めの時のこと。

異書に曰く、山口勢は出雲の畤地という所に到着すると、評議の上、そこから富田の向こう、経来木という山に
陣を寄せるべきとの話になったが、これに毛利元就が反論した

「尼子は近年、武威が少し衰えたといえども、未だ数カ国を領し、近国の武士の大半は旗下に属し、
そのほか家中の諸士に至るまで、経久以来代々の武備に慣れて、武辺剛者の侍ども、多勢立て籠もって
おりますから、味方に卒爾の働きがあっては、却って落ち度があるでしょう。

であれば、城を急に攻め抜こうとの戦略では、勝敗は甚だ測りがたいと言えます。

ここは、富田より4,5里も隔てて陣を据えられ、諸所に軍勢を分けて置き、近国より尼子への
兵糧運送の通路を差し塞ぎ、防州との通路には、つなぎの城々をかまえ人数を籠め置き、兵糧を運送せしめ、
長々在陣の覚悟にて、次々と奇計を設けて、攻め悩ますようにすれば、敵は次第に弱り、
必ず落城の功を経てられます。これこそ、味方必勝の謀というべきです。」

そう、再三意見を加えたものの、大内義隆の寵臣である田子兵庫助(あるいは豊後)が
「経来木山は地の利完全であり、ここに陣を据えれば、たとえ城中より敵打ち出て付懸ってきても
危うい事はなく、城下の建物を放火して、取り巻いて攻めるにおいては、他所より兵糧を運送することも、
城内に取り入れることも叶わないだろう。ならば城中耐え難く、すみやかに落城するであろう。

そのように敵を、奥深く怖れるように計らうのは、却って味方の勇気を挫く端緒とも成る。」

そう頻りに申すによって、遂に義隆は経来木山に陣を寄せたのだという。

(芸侯三家誌)

結果は言わずもがなである



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/13(月) 23:56:02.71 ID:i2yHmMl5
大内に従わない豪族が背後を脅かして補給線を寸断したことが敗因ですね
陣地にした山は確かに良かった

毛利元就、内通者を騙す

2015年04月12日 17:07

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/12(日) 01:56:29.17 ID:xTJxC7YJ
毛利元就は、尼子と不和になり始めた頃から、譜代の家人の末子や、人々がよく知らない者を密かに、
尼子方に奉公させた。そしてその者達は様々なことが内通された。

一方尼子よりも、3年前に内別作助四郎という者を偽って勘当し、彼は毛利家に奉公した。
元就は彼を信頼し、傍近くで給仕させた。

そのような中、今度尼子が、毛利の本拠である吉田郡山城を攻めに来る件について、元就は
家臣たちと評議する中

尼子晴久が甲山に陣を取ればいいのだが、もし三猪口に陣を張られてしまっては、周防への通路を塞がれ、
味方の働きも自由にできないので、ひとまず山口に逃げ、大内を頼んで重ねて合戦をするしかない。」

そう隠密に語ったことを、内別作は聞き、或る夜突然に蓄電した。

元就は後で
「今度、尼子はきっと、三猪口に陣取るであろう。もしも甲山に陣を張られてしまっては、あの場所は
当城を真下に見下ろし、畢竟の要害であるので、籠城も危うかった。」
と言ったが、はたして尼子晴久は三猪口に陣を据えた。

(芸侯三家誌)


元就、対尼子戦でも内通者を騙していたというお話。





参考
謀神、敵の間者を用い策を成す

真の忠義

2015年04月11日 16:31

660 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/04/10(金) 23:38:30.07 ID:cQs6fhQ9
毛利元就は多年尼子氏の幕下に従っていたが、民部太夫晴久の代に至って。元就の武功近国にその名高く、
『このままだと、後には尼子とても毛利家の麾下に属するだろう』と、人々は皆評判していた。
晴久に対しても、今元就退治の謀略をしなければ、今後尼子家の為、臍を噛むことに成るでしょうと
讒言するものが有り、晴久もこれを「尤もである」と信用して、それより元就を疎んじ、常に不快の色が
顕れていたため、元就も常々これを憤っていた。

こんな折節、この尼子と毛利の間が不快であるということが大内家にも漏れ聞こえ、大内義隆ならびに
陶尾張守(隆房)より、大内の味方に属するよう懇ろに申越した。
これに元就

「私は尼子と縁者の好によって、一旦麾下に属してより戦功を上げたこと多年に渡る。
しかるに今、讒舎の佞言を信じて、ややもすれば私に害心を抱かれている。これは言われもないことである!」

そういって大内に対し、一味する旨の返事をし、あわせて児玉木工充を山口に遣わし、その盟約を述べた。

さてまた、元就より人質として尼子に付け置かれ、富田に在った赤川十郎左衛門、光永中務の両人に
密かにこの旨を通達し、急ぎその地を引き取るよう伝えた。よって両人密かに富田を立ち退いたが、
尼子の者達はこれを察知し追手を遣わし同国の大東という場所で難なく追いつかれた。

661 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/04/10(金) 23:39:31.27 ID:cQs6fhQ9
赤川、光永は引き返し暫く防ぎ戦い、一旦敵を追い散らしたものの、もとより追っ手多数である上、
光永は深手を負い、両人が無事に切り抜けることは不可能に思われた。
ここで光永は赤川に言った

「私はこのように手を負い、ことに老身でもありもはや一緒に立ち退くことかなわない。
私はここで討ち死にしよう。追手の勢は未だ再びこちらに攻めかけてこない。今のうちにそなたは
急ぎここを立ち退かれよ!」

これを赤川十郎左衛門聞くと猛反対した
「両人一緒に在有って敵に逢い、一人踏みとどまって討ち死にするのを見捨てて、私ひとりここを立ち退いては、
弓矢の恥辱、これに過ぎたものはない!重ねて人にこの面を向けることもできなくなる!
そのようなことは全く、思いもよらぬ!」

しかし光永
「一端の道理はそうだ。しかし今ここで両人一緒に死んだとて、主人に対しさしたる忠義にはならない。
いかにもして一人だけでもここを切り抜け本国に帰り、近年雲州に在って見聞きした尼子家の様子を
つぶさに主君に伝え、今後の戦忠のために一命を投げ打つ事こそ、真の忠義であるのだから、片時も
早く、急ぐのだ!」

そうしきりに諌め、諭すと、赤川もその道理に屈服し、しぶしぶそこを立って別れ落ちた。

その後、光永中務は敵がかかってくるのを待ち受け。馬を引き寄せ打ち乗って、
「毛利家の侍、光永中務光重である!」
と名乗り、近づく敵を待ち受けた。

尼子勢はこれを少数と見ていたので、我先に討ち取らんと総勢一度に攻めかかる。光永は討ち残された
郎党10人ばかりを左右に従え、敵陣に駆け入り、駆け破り駆け通り、取って返しては討ち払い、
死狂いに攻め戦えば、今まで付き従った家人も次第に討ち死にして、主従2,3人となり、
その身も戦い疲れ、『今は赤川も、定めて遥かに落ち延びただろう。』と思い、そのまま、
馬に乗りながら刀の切っ先を口に当て、「とう」と馬より真っ逆さまに落ち、その刀に貫かれて死んだ。

赤川十郎左衛門は無事吉田に帰り着き、雲州の様子をつぶさに伝え、今回、大東で追手と戦い、光永を見捨て
面目なくも引き帰ったことも詳しく述べた。
元就はこれを聞くと

「光永は深手を負ったのだから、引き帰ることができず討ち死にしたのも仕方のない事だ。
赤川が無益の討ち死にを遂げず、光永の意見に従って帰ったこと、これこそ忠義の志を忘れぬ故である。」
そう言って特に感賞したという。

(芸侯三家誌)




目黒の娘

2014年11月05日 18:53

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 02:32:09.65 ID:lw8gvYNi
永禄4年(1561)、尼子攻めを行っていた毛利元就は、謀略により石見の有力国人である
本城越中守(常光)を寝返させることに成功した。

このことを知った尼子晴久は驚愕して言った
「本城が敵に降ってしまっては、この石州の味方が力を落とし、尽く攻め滅ぼされ、もしくは
降参してしまうだろう。

本城については、きっと二心を抱く事は無いと深く頼み、様々な重宝を与え、本領も倍にしてこれを遣わし、
特に、容色勝れているとして私の妾にしていた目黒の娘を、越中守に嫁がせて、我が婿として
扱っていたのに!

この女は、昔、宍戸左馬助が私に恨みがあって、刺し違えようと思い、ただ一人ある宵の内に、
私の居室まで忍んだ。彼と私はいとこ同士なので、怪しむ者もなく思うままに忍び入りて隠れ、
私が寝入った夜半に、外より戸を押し破ろうとした。

しかし私はそれを聞きつけ、そのまま起きて板戸を押さえたが、宍戸は聞こえる大力であったので、
腕に任せて押すほどに、私も叶い難く、一旦押し込みそのまま手を離すと、宍戸は戸板の上に乗って
伏せた形で倒れた。

そこを私は押さえつけたが、宍戸も私にしがみつき、上に下へと組み合ったが、私もさほど微力という
わけでもないので、遂に上になって押さえつけたが、搦め捕る物が無いので「なんでも良い!紐をもってこい!」
と言ったが、そこに宿直しているのが皆女であったため、周章てるばかりで縄を持ってこようとする者もなかった。

しかしその中で、この目黒の女は気の利いた者であったので、小鼓の紐を解いて私に渡したのだ。
その紐で宍戸を縛め、その夜、首をはねた。

このような仔細のある女であったが、本城の心を取ろうと思い、愛念を捨てて与えた所、
彼も抜群の軍功を励んだので、よもや二心は無いと深く頼み、石州山吹城は敵地に隣接した
肝要の地であるので、彼を籠めて守らせていたというのに、たちまち敵に一味したことの
腹立たしさよ!」

そう激怒したという。

(芸侯三家誌)

尼子晴久本城常光に与えた女性についての逸話である。




687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 07:41:43.41 ID:wQ4cajNj
なんなんだこの逸話は
俺と女の思い出話じゃねーかw
しかも与えたっても妾だしなー

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 10:17:14.61 ID:ghE1b98K
まるで娘か妹を嫁がせてやったみたいな言い方だな w

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 13:31:10.14 ID:QVCiANud
>>686
セリフなげーw

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 17:26:50.76 ID:wG/NflWx
>>686
板戸を押しあう武将の図もシュールだな

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 23:13:06.58 ID:0CuTu/ZT
ダンジョー「しかし剣豪相手にでもそれは有効なのだよ」

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 02:44:32.76 ID:hp51Z4OA
>>686
頼芸「妾をくれてやったのに裏切るとは…許せん!」

お前は大不敵者だ 毛利元春の初陣

2014年10月04日 18:50

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 21:59:23.08 ID:Y3CfXWJH
お前は大不敵者だ 毛利元春の初陣

まとめ見たら以外にもまだ出てないようだったので投下、もしも既出だったらす万谷。

1539年(天文8年)11月、尼子晴久は祖父・経久や一族衆らの反対を押し切り、毛利元就
居城である吉田郡山城攻めを決意、翌1540年(天文9年)8月、尼子晴久は自ら3万の兵を

率いて月山富田城を出陣し、毛利家の吉田郡山城を包囲した。城に籠る毛利勢は近隣住民
も城に入り、総勢はおよそ8千。
尼子勢は城下に度々付け火したりして毛利方を城から誘い出そうとしたが毛利方は兵も民
も誘いに乗らず、逆に尼子勢を時には奇襲し、時には地の利を活かして戦い、寄せ手の尼
子勢に一歩も譲らぬ姿勢を見せた。
そうこうしている内に同年十二月初めには毛利元就からの支援要請を受けた多々良(大内)
義隆から派遣された陶隆房・杉重政・内藤興盛を大将とする兵2万が到着。
これを受け尼子勢は将兵共に士気が下がり、毛利勢は大いに息を吹き返した。とはいえ時節柄
寒さ風雪も強く、両軍ともに決戦に至ることなく年明けを迎えることとなる。
そして翌1541(天文9年)年1月12日、毛利元就から援軍の3大将に手紙が届く。

元就「翌13日に、宮崎に陣取る高尾豊前守・黒正甚兵衛・吉川治部少輔(興経)の陣を私の
愚息に命じて切り崩させます。敵に背後に回られては大事となりますので城近くへ兵を出
していただき、備えを堅めて尼子勢を防いでください。」
これを受けた山口の3大将はこれを承諾。元就は更に3将の使いと綿密に打ち合わせをし
て城へ戻った。
さて、翌13日卯の刻(午前6時)のことである。城内の兵3000余騎が堀の際まで打って出
た。元就はこの日、鎧を着ずに小袖を着て床几に腰かけ敵軍を見まわしていた。
そこに一人の少年が駆け寄ってきた。名を少輔次郎元春、後の吉川元春。当年12歳の少年
であった。

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 22:00:21.70 ID:Y3CfXWJH
元春「このほどもたびたびの合戦のありました折、わたくしも馳せ向かおうと存じました
がお許しのないまま、むなしく控えておりました。今日は、ぜひともにお許しをこうむり、
お供いたしましょう。」
元就「先々にも言い聞かせてきたとおり、お前はまだ若輩だ。まずこのたびは留まってお
かれ。かさねて合戦のときには、必ず相具してやろうぞ。」
元春「弓矢取る身の幼いからとて、敵に向かわぬことがございましょうか。是非にお供い
たします。」
引かぬ元春に、元就は井上河内守に「少輔次郎を連れて帰れ」と命じるも、元春は大いに
腹を立て
元春「いやいや大人にも劣るまいものを、何という情けない仰せごとか」
元春は世にも恨めしげに元就を見やり、涙をはらはらと流した。これを見た井上河内守は
井上「少輔次郎殿は獅子翻睨の眼を具し、龍駒千里の威を抱いておられる。さすが元就さ
まのご子息よ。ご成長なされたならば、天下一の大剛将になられよう。さ、帰りますぞ」
と、大いに感じ入った後城内へ連れ戻そうとしたが、
元春「お前はわたしをやるまいとするのか!」
と言って、太刀を抜いたので、そののちはあえて留める者もいなかった。
元春は士卒を引き連れて、父元就に追いつき
元春「このうえは是非共にお許しをこうむり、お供いたします。」
と言った。
元就「お前はまだ幼いくせに大不敵者だ!」
と言いながらも、いかにも嬉しげに元春を見て「ここまで来たのなら、もはや連れてゆこう」
と、元春の初陣を許した。

陰徳太平記、文の大半は原本現代訳より




947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 23:40:04.19 ID:u5DFSmdZ
>>944
なんか本多鍋之助の初陣を巡り元康に拒否られたのを彷彿とさせるな
鍋之助は確か10歳で拒否られたんだったか

討ち死にするため罷り来たり

2014年08月13日 20:33

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/13(水) 00:59:15.26 ID:OohdeqJC
天文9年(1540)、尼子晴久が毛利元就を攻めた、吉田郡山城の戦いの折のことである。

尼子方の重臣、牛尾遠江守幸清の家臣に、琢阿弥という大力の剛の者があった。
彼は牛尾遠江守の子息である、湯原弥二郎に従ってこの吉田郡山城の戦いに出陣したが、
現地で風邪をひき寝込んでいた所、その日、主人である湯原弥二郎は討ち死にしてしまった。

琢阿弥は彼に従って出ることが出来なかったことを口惜しく思いながらも、
病身であり心に任せることが出来ず、日を送っていたが、そんな中ようやく少し回復した様子を覚えたため、
早速郡山城近くまで寄せ来ると、城に向かって叫んだ

「私は牛尾が近習の者である!主人である者が討ち死にした時、所労の事によって
その場に居合わせることが出来なかった!只今、討ち死にするためこちらに罷り来たり。

毛利勢よ、討ち取りに出て来られよ、勝負せん!」

この呼びかけに、郡山城から井上与三右衛門が出て、名乗りを上げ、
終にこれを射落とし首をとったという。

(芸侯三家誌)

吉田郡山城の戦いにおける、討ち死にに来た男の逸話である、



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/13(水) 17:36:43.68 ID:1OqoGbPe
射落としたのか、まあ死にに来た奴なんかと組み合うと危ないよな

毛利元就と琵琶法師4 新宮党粛清異聞

2014年06月12日 20:43

493 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/11(水) 22:58:28.87 ID:xXWbXywO
毛利元就と琵琶法師4 新宮党粛清異聞

尼子経久の弟・尼子久幸が組織し、後に経久の次男・尼子国久とその子である誠久らに率いられた新宮党は
尼子家中きっての武闘派として中国地方では恐れられ、尼子家の躍進の原動力たる一族衆であった。
しかし、尼子経久の三男、塩冶興久の叛乱が鎮圧され、その遺領である西出雲の管理を国久が任されるようになると、
新宮党の権勢は尼子宗家を継いだ尼子晴久と並ぶほどとなり、尼子家への中央集権化を図る晴久の障害となった新宮党は、
1554年晴久の命により粛清され、国久の一族の大半が死んだ為、ほぼ消滅することとなる。
家中を纏める為、尼子晴久が自らの判断で粛清したと言う説、既出で毛利元就が罪人に尼子国久謀反の偽書を持たせ、
尼子家の勢力圏で殺害して新宮党の粛清を晴久に決意させたとされる謀略説もあるが、雲陽軍実記にはもう一つの元就の謀略による逸話がある。

尼子晴久のお気に入りの座頭で角都と言う者が居た。角都は家中の重臣を晴久に讒訴したり、酒や遊興を勧め堕落させ、
家中や城下での評判はすこぶる悪かった。
新宮党党首の尼子国久も彼を嫌う一人であり、このままでは御家の為にならぬから角都を放逐せよ、さもなくば殺害も止むなしと晴久に迫る。
仕方なしに晴久は角都に暇 を出し、角都は故郷へ帰ることとなった。
その旅路の途中に角都は数人の座頭仲間と出会い、意気投合する。
彼らと親しくなった角都は驚くべき噂を彼らから聞かされる。
角都を月山富田城から追放した尼子国久が、主君・晴久を追い落として出雲国主の地位を得ようと企んでいるというのである。
この話を聞いた角都は直ちに取って返し、尼子晴久に通報。激怒した晴久は叔父国久を始めとする新宮党を粛清してしまうのであった。
が、実はこの国久謀反の法を角都に伝えた座頭らは毛利元就配下で各地に間諜として遣わされた座頭衆と呼ばれる忍びであり、
角都と尼子晴久はまんまと嵌められたのであった・・・。
なお、雲陽軍実記によるとこの角都なる座頭は後の尼子義久の 時代にも側近として存在し、宇山久信らの尼子家臣を讒訴した為、
尼子氏の凋落の一因になったという。




494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/12(木) 00:26:18.34 ID:TD1H+B1i
また元就神話か

495 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/06/12(木) 13:54:42.08 ID:0nSBfeAq
       ,..-――-:..、    ⌒⌒
     /.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::.\      ^^
    / .::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::..ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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謀神の佐東銀山城攻め

2014年05月11日 18:58

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 23:48:43.24 ID:VaD36Z1o
謀神の佐東銀山城攻め

1541年1月、尼子晴久率いる3万の軍は毛利元就の居城、吉田郡山城攻略を諦め撤退。

これを受け、同時期に杉隆宣・内藤隆時の大内軍と小早川興景などから攻撃を受けていた尼子傘下の頭崎城(現在の東広島市)の平賀興定は大内氏に降伏。
現在の広島市周辺を支配していた尼子傘下の安芸武田氏居城、佐東銀山城の城主・武田信実と尼子の援軍の将・牛尾幸清は出雲へ逃亡(1年ぶり2度目)。
佐東銀山城には武田一族の武田信重と守備兵僅か300が残るだけとなり、
厳島と対岸の桜尾城(現在の廿日市市)を乗っ取り蜂起した厳島神主家も大内氏の攻撃を受け滅亡。

安芸における尼子の勢力は風前の灯となったのであった。

1541年5月、大内義隆は安芸を完全に掌握する為、毛利元就に佐東銀山城攻略を命じ、大内軍は武田傘下で隣接する安芸府中を支配する
白井氏を攻略すべく兵を出す。

かつて、大内の名将・陶興房と初陣の大内義隆が1万5千の兵で囲みながら落とせなかった堅城・佐東銀山城であるが、その時城を守った猛将・武田光和は
1539年に急死し、武田有力家臣の品川左京亮と香川光景は武田の後継と大内との抗戦か講和かを巡って内輪もめを起こし、品川に居城八木城を攻められた
講和派の香川は「終わりやね、武田も終わりやね」と、大内に鞍替えし、かつての同僚である熊谷氏らに援軍を要請。
これに敗れた品川一族は逃亡。新たな武田当主として城に入った、武田信実も一時逃亡。
この後、吉田郡山攻め前に牛尾率いる兵2000と共に帰って来たものの、先のとおり尼子の吉田郡山攻めが失敗すると再度、出雲へ逃亡。
もはや武田家の崩壊は誰の目にも明らかであった。

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 23:49:51.84 ID:VaD36Z1o
しかし、堅城・銀山城に篭る武田方の兵は士気も高く、正に窮鼠の如し。
半年に渡る篭城戦を終えたばかりの毛利元就が動員できる兵力も戦に継ぐ戦でそう多くは無い。
主家よりの命令とはいえ徒に兵を損ねる訳にも時間を掛ける訳にもいかぬ。

元就は二つの策を立てた。先ず、城を正面切って大手門の東側から攻めるのではなく搦め手の安(現在の安佐南区上安、銀山城の北西側)より攻めること。
ただ、安の側にある長楽寺は武田家と通じており、ここから兵を進めようとすれば長楽寺が鐘を鳴らして城側に通報し、城兵が駆けつける。
先ずはその調略を行う毛利方であった。

毛利からの説得を受け、事ここに及んではと長楽寺も城側への通報を行わぬことを約束。

そして、念には念を・・・と、元就が講じた二つ目の策。近隣住民に千足の草鞋を作らせ、それを油に浸し、城攻めの前夜、闇の深い日に
火をつけて城の正面を流れる大田川へ流すのであった。
これを見て篭城軍は毛利は正面から攻め寄せてくると、戦力を大手門に集中させたのであったが、これこそ元就の狙いであった。

こうして正面からではなく、搦め手から攻め込んだ毛利軍は佐東銀山城を落とし、最後まで城に残った、武田信重は切腹。
同時期に安芸府中を攻めた大内軍も白井氏を倒し、これにて安芸の反大内勢力はほぼ一掃されたのであった。

なお、この時元就が千足の草鞋を流したことに由来する地名が、大田川対岸の広島市東区戸坂に「戸坂千足」として残り、
大内軍が越えた広島市東区中山から矢賀、山根町などに続く道を「大内越峠」(おおちごだお)として今も残っている。





謀神、敵の間者を用い策を成す

2014年05月08日 18:46

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 23:37:07.24 ID:3uBS/IGE
謀神、敵の間者を用い策を成す 名 将 言 行 録 (陰徳太平記説もあり)より

1524年、甥幸松丸の急死により毛利元就は毛利家の家督を継いだものの、それを危惧する尼子経久と亀井秀綱の策に乗って
元就に叛意を抱いた異腹弟の元綱を殺害。
以後も尼子に従いその要請で大内家に攻められた尼子方の仇敵・安芸武田氏を支援する物のその心の内は反尼子に大きく揺らいでいた。

1525年、毛利元就は先年武田氏の銀山城にて自らの夜襲策で撃破、撤兵させた大内家の家老、陶興房の説得に応じ尼子方より大内方に鞍替えする。
これにより、安芸の国の形勢は大内側に大きく傾くこととなる。

1529年、毛利元就は亡き甥で先代の毛利家当主、幸松丸の母方の実家である石見高橋家を攻略。
また、これ以降尼子方の安芸武田氏傘下であった熊谷氏や、先々代興元以来の長年の敵であった宍戸氏や天野氏などと縁組・調略し、
隣国備後の多賀谷氏を降伏させるなど徐々に安芸を束ねる国人衆の筆頭格としてその勢いを高めていく。

1540年、尼子家の家督を継いだ尼子晴久はこれ以上の毛利の台頭許すまじと、3万の兵を持って毛利家の居城、吉田郡山城攻略の兵を出さんとす。
これはその数年前のある日のこと・・・。一人の男が吉田郡山城の門を叩いた。男の名は内別作(うちわさ)助四郎。
尼子晴久の側近く使えた者だが、勘気を蒙り尼子家を出奔してきたと言う。
(つづく)

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 23:41:21.60 ID:3uBS/IGE
(つづき)
元就は内別作を家臣として雇い、自らの近臣として用いることにした。
だが、実の所内別作はかつて尼子経久が三沢氏に送り込んだ山中勝重同様、偽りの出奔であり
その役目は毛利の様子を探る間諜であった。そんな内別作を側近く用い続ける元就。

そんな中、いよいよ尼子晴久が吉田郡山を攻めると言う不穏な噂が流れる、元就は家臣らを集め軍議を開く。
その席上、元就はこう言った。

「晴久が甲山(かぶとやま)に陣をしいてくれればええんじゃが…もし三猪口(みえくち)に布陣されでもしたら、防州への通路を断たれてしまい、
 わしらはどがぁもできんようなってしまう…ほしたら、一日どころか半時と持たん。ここを捨て、大内を頼り山口にでも逃げにゃならんのぅ・・・」

その翌日、内別作は吉田郡山から姿を消した。さては尼子の間者であったかと家臣は大騒ぎとなった。
しかし、当の元就は一人「さてこそ軍は既に勝ちたり(これで勝ったも同然)」と、大喜びであったと言う。
と言うのも もし甲山から城を見下ろされるような形になればどうにもならないが、三猪口は平地であるから、敵が大軍であっても容易に戦えると。
(先の軍議の時、内別作以外の旧来の家臣は甲山に陣敷かれたら上から丸見えだし、逆じゃね?と、思っていたが殿には何か考えがあるのだろうとその言葉に従ったとも言う。)

そして1540年(天文9年)8月、先のとおり尼子晴久は3万の兵を率いて吉田郡山城へ出兵。元就が軍議で危惧したとおり、尼子勢は三猪口に布陣したところ
元就と駆けつけた陶隆房(後の晴賢)、杉隆相、内藤興盛ら大内からの援軍に散々に打ち破られ退散したと言う。




906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 00:00:43.74 ID:bLpvlG+u
>>905
陶さん援軍できてたのかw
なんともまあ。

907 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/08(木) 06:30:40.14 ID:VK3LLf/M
当時はお味方だし、この戦で負けると安芸はまた尼子にひっくり返されるしで、大内方に
とって大事な戦でしたからね…しかも何の因果か出兵前には将来自分の死地となる厳島で
戦勝祈願もしてると言う…

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 07:23:52.27 ID:bLpvlG+u
後に似たような情報で厳島におびき出されてるからなあ。ほんとなんの因果なのか。

元就の呪詛と、隆元の死

2013年01月05日 19:50

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/05(土) 12:04:28.29 ID:UXG39IIH
さて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7167.html
この本城常光の誅殺は毛利方についた石見の国人を大きく動揺させ、再び離脱するものが相次いだ。
これに慌てた毛利元就公は、この事態は本城常光の怨念によるものだと考え、陣所からほど近い
鰐淵寺に参詣し、和多坊栄芸に対面して

「本城の怨念を沈め、また尼子晴久の一命を奪うよう、無二の祈祷をして頂きたい。」

と、依頼し、栄芸もこれを辞することが出来ず、よって鰐淵の滝壺に壇を構え、
初三日三夜は五大尊の法、中三日三夜は六観音の法、終わり三日三夜は七仏楽師の法を修した。
炉壇の煙は満山に霞み、振鈴の音は万峰に響き、大法秘密九日九夜修行あって、元就公は陣所に帰られた。
間もなくその験が顕れるのかと人々は、暗に恐ろしく思った。

そもそも、天子将軍が天下の軍乱を鎮め、万民が安全に生活できるようにするために、怨敵退治・調伏の
秘法を修せられる旧例は確かに多い。しかしこれらは民の利益のための、大仁大度によるものである。

ところが毛利・尼子の争いは、民を治めるための仁戦ではない。私利を目的とした軍事行動によって、
他の国を切り取って自分の物にしようとする欲心のため、累年に渡り中国を騒動させ、万民を苦しめる
戦である。

それがせめて、剣戟刀槍によって敵を滅ぼし、その国を得るのであれば武門の業とも言えるのだろうが、
智謀計略によっても敵を滅ぼすことが出来ずに、仏神に祈り呪詛して敵を落命させるなど、
元就公や吉川元春には、こういった不仁不義の例が少なくないのだ。

また六観音の法を修めれば、呪詛や諸毒薬はたちまちその本人に還るという要文があり、
これによって毛利家にも今後不思議の憂いが生じるだろうと、人々は眉を寄せて愁嘆していた。

尼子晴久公は、永禄五年十二月二十四日の晩、48歳にて手水のために縁先に出た所頓死された。
大変いたわしい事であったが、これは毛利が、厳島や鰐淵山で修めた祈祷の験であった。

そして翌年、和智誠春の毒薬によって、毛利大膳大夫隆元は、享年41歳にて頓死された。
これは只事ではない。毛利家の柱石に対しそれまでの利益の報いが還り、砕けたのだ。
父元就に先立たれ、わずか11歳の幸若丸殿を捨て置かれて、隆元公は逝った。
隆元公の、無念の御心の内が推し量られ、大変いたわしいと、人々は因果の道理を感じたのである。

(雲陽軍実記)

尼子家の家臣であった河本大八隆政が1580年頃に著したとされる雲陽軍実記より、
尼子側から見た元就の戦いや、隆元の死についての所感である。




37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/05(土) 12:37:38.69 ID:ik93pClb
そこで綺麗な隆景さんなわけですね^^

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/05(土) 16:55:29.86 ID:lL2z65fE
長尾景虎「不仁不義・・・だと?」

一円物音も之なき事

2013年01月01日 20:04

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 21:43:55.17 ID:UQv3vjfL
永禄三年(1560)十二月、毛利家に、尼子晴久が重病であり、もはや十死一生の様態であるとの情報が入った。
既に死去したとの噂もあり、長年晴久に苦しめられた毛利家中では、この事を元就に話せばさぞ上機嫌になるだろうと
考え、ある時元就のもとに皆が参集した折、その話を申し上げた所、案に相違し、元就は突然気色を変え
怒鳴った

「晴久が既に死んだというのなら、もう是非に及ばぬことであるが、晴久も自身が存命のうちに、
我々と一戦を遂げ勝負を決しようと考えていたことだろう。

私も天文九年以来、晴久と数度の戦いをしたと雖も、遂に旗本での決戦とまでは行かなかった。
私はこれを、出雲へ討ち入った時に果たすべき念願としていたのに、残念の至である。

総じて敵方の弱みを喜ぶのは、弱将とその下の部将たちの風俗である。
おのおのは晴久の重病を、我々の吉事のように申される。
これは誠に、是非無き心である!」

この言葉に皆は戸惑い、その場は静まり返ったという。(一円物音も之なき事)
(吉田物語)

尼子晴久重病の報に対しての、毛利元就の反応である。




903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 22:40:02.87 ID:aJFP4uiP
本音と建て前

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 23:29:58.05 ID:PVhpX9Zh
敵を騙すにはまず味方からってことだねw

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/01(火) 02:35:19.98 ID:AIBIZRh9
TERU「いやー残念だなあ。信長と決戦してボコボコにする計画が流れちゃったよ。」
隆景「殿、ちょっと奥の間へ。」

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/01(火) 04:23:16.10 ID:bS9hlezr
自身、敵、味方を騙す毛利の三本のホラか!

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/01(火) 10:41:08.64 ID:3XKaFfA7
こうでも言わないと人はついてこない
器量を試されたんだろう

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/01(火) 12:06:48.30 ID:OG8PltuQ
べ、別に喜んでなんかないんだからねっ!

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/01(火) 15:28:51.70 ID:was0FRPj
>>907
信長が信玄の死を知ったときはめちゃくちゃ喜んだという話があった気が

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/01(火) 17:03:19.26 ID:3XKaFfA7
>>909
あれはさすがに許してやれよw

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/01(火) 17:08:21.36 ID:DqrYUcof
謙信もやっぱり本当は喜んだんだろうか?

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/01(火) 18:16:00.18 ID:Cf0xhCw1
謙信は我が好敵手がいなくなったと嘆いたと伝わってるが、何ともなぁ
戰キチの考えることだから
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「新宮党粛清」

2012年04月20日 21:00

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 22:16:12.30 ID:EjMLXnUs
もう出てたらすみません


「新宮党粛清」

尼子氏はもともと出雲に土着していた国人ではなく近江京極氏の一族で、
京極高秀の子高久が犬上郡甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)を領して以来、尼子氏を名乗るようになった。

明徳三年(1392)、高久の子・刑部少輔持久は出雲守護代に任じられて月山富田城(島根県安来市)に入り、ここに出雲尼子氏が起こる。

その後持久の孫・経久が紆余曲折を経ながらも勢力を拡大し、尼子氏は山陰の一大勢力となっていった。

さて、経久の二男国久とその子誠久・豊久・敬久らは、月山富田城の北麓新宮谷に居館を構えたことから新宮党と呼ばれていた、
尼子氏の勢力拡大は彼ら新宮党の活躍に負うところが多く、特に軍事面では尼子氏の中核をなしていたと言っても過言ではない。

ちなみに経久の嫡男政久が永正十五年(1518)に戦死していたため、経久は天文六年(1537)に孫の晴久に家督を譲っており、
晴久の叔父である国久は大きな発言力を持っていた。

しかし天文二十三年の今日十一月一日、晴久は定例の評議のため登城した国久・誠久・敬久ら新宮党を襲い、ことごとく殺害してしまった。
その際、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺の僧となる。

尼子氏の軍事的柱石であった新宮党が、なぜこのような形で粛清されたのか原因はいろいろ考えられるが、
一説には毛利元就がいずれ対決する運命にある尼子氏の弱体化を図り、
偽書を用いて新宮党に謀叛の企みありとの風説を流し、晴久を疑心暗鬼に陥れたと言われている。

当時晴久と叔父国久の間には微妙な空気が流れており、元就はそれを上手く煽ったわけである。
事実、新宮党には少々度を超えた言動もあったようで、加えて国政にも口出しをしてくる国久に対し、
当主晴久が次第に面白いからぬ感情を抱くようになっていたのかもしれない。

ともあれ新宮党はここに滅び、尼子氏の屋台骨は大きく傾いた。

見事に計略を成功させた元就は翌年安芸厳島に陶晴賢を破って勢いに乗り、大内氏をも滅して後顧の憂いを絶つと、
次なる侵略の矛先を石見へと向けた。

尼子氏は晴久が永禄三年(1560)十二月に急死したため義久が跡を嗣ぐが、もはや往年の勢いはなくジリジリと毛利軍の侵略を許し、
ついに同九年十一月に元就に降伏開城するという結末を迎えることになる。

なお、尼子氏の重臣山中鹿介は主家再興を目指し、後に京都に隠棲していた勝久を当主として担ぎ出すことはよく知られているが、
夢を果たすことなく播磨上月城で自刃した尼子勝久こそ、この事件の際にたった一人生き残った孫四郎その人である。





733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 08:25:27.37 ID:mCHcNbJA
悪い話かのう? 新宮党粛清で宗家の権力はむしろ高まったはずだが。
晴久が生きてる間は対毛利で連戦連勝だし。

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 08:48:36.34 ID:r3tUNDmx
毛利の謀略で粛清したとかあれ講談なんだってね
それ聞いてから新宮党粛清に悪いイメージ持たなくなったわ

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 09:26:07.50 ID:eY6M7kuP
尼子最盛期は晴久の時代だからねー
尼子衰退の最大の理由はやっぱり次代の若さによる経験不足なのかな

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 12:26:00.59 ID:ikKYCeKD
勝久は新宮党の生き残りだったのか

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 12:36:52.26 ID:2xEh2nX4
新宮党は独自意識持ちすぎて尼子宗家にとって邪魔な存在でしかなくなってたからな
現に粛清後も尼子の軍事行動は衰えを見せてないし
実情は毛利の井上一族粛清に近い

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 15:38:37.46 ID:23JmFg1b
タイミングが悪いと御家滅亡の種になるからな、粛清は。
朝倉氏も宗滴以来の敦賀郡司家の権力剥奪を、よりによって信長と喧嘩し始めたタイミングでやっちまったから……。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/20(金) 18:57:47.78 ID:kicHRO09
粛清して権力の一本化、と言えば聞こえはいいが、
要するに一門衆の権力を殺いでいるわけで、
逆目が出たら手足を自ら殺いだに等しいからな

旗本の備え

2011年04月18日 00:02

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 12:24:28.89 ID:tAbEBbmc
旗本の備え


天文22年(1553年)3月のこと。
備前の小領主浦上宗景は尼子氏に反感を持つ勢力を焚きつけて動員した15,000の兵を率いて、
30,000人近い兵で美作へと押し入った尼子晴久の軍勢と対峙する。
同月中旬に激突した両軍は緒戦は一進一退の攻防が続きひとまず引き分けに終わり、
互いに引き上げて再び睨み合った。

3月22日、尼子軍2,500が前進。これに浦上に味方した播磨の小寺美濃や黒田某率いる3,000の兵が
対抗したが敗れ、これは見た美作の国人衆2,000が入れ替わるように尼子軍に突撃した。
これに対して尼子軍も更に1,500の兵を前進させると、浦上軍は一気に播州勢5,000を前進させる。
すると尼子軍の新手10,000の大軍が更に押し寄せたものだから両軍入り乱れての大乱戦となった。
しかしながら数では尼子有利。4時間ほどの野戦の末に大勢は決し、浦上軍は敗れて備えも無く
前後も一つになってただ敗走した。

ただ、戦にまだ加わっていなかった宗景率いる約5,000の兵はこの時健在であったものの、備えを崩さず
情勢を見守るばかりで、前線の崩壊を見た浦上賢能斎という老人はしびれを切らして宗景に進言した。
賢能斎「今こそ御旗本の軍勢をもって先陣の救援に当たらせましょう。敵軍も乱戦状態ですから、
今軍勢を繰り出せば勝利は疑いありませぬ。」

これに宗景はこう返す。
宗景「自分の旗本勢をもって乱戦の敵を追い打ちすればこれを打ち崩すことは必定であろう。しかし
   自分の旗本勢が備えを崩したのなら、尼子がその旗本勢をもって攻めかかって来ることも必定。
    その時は誰が我が旗本勢を助けるであろうか?そうなれば味方は総崩れとなり、生き残るものも稀であろう。
   旗本さえ堅固に備えておけば、たとえ先手が敗れても総崩れになるということはない。」

こうしてついに宗景の軍は動かず先陣は潰走したが、尼子晴久も浦上の旗本勢が備えを万全にして
後ろに控えている様子である事から、
自らの旗本は繰り出さず、また深追いもせずそのまま一旦引き上げた。そしてこの撤退によって
猶予の生まれた浦上軍は敗残兵を再編して再び尼子軍に備えることが出来たのである。

結果としてこの度の戦で浦上軍は敗退し、美作の多くの城を失うなど宗景は辛酸を舐めたが、
今戦っても勝利はないと考え、ただひたすら尼子の勢力域の境目の守りを固めた。
尼子軍の攻勢はその後も続いたが備前の沼城は抜けず、やがて宗景の同盟者であった
毛利元就に後背を脅かされた尼子軍は本領へと兵を返したが、
浦上軍はその機を見て兵をあげて、やがては失陥した城を全て取り戻したのであった。




30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 17:48:55.56 ID:+ZKmRz8J
>>26
直家「浦上っていつも自分は戦わないので他の人に危険な役目やらせるよね」

35 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/17(日) 21:04:55.63 ID:2ODNUDRa
>>30
今川、織田に最前線でコキ使われたからこそ三河武士は最強になったのだと思う。
平家に対しての源氏、幕末の薩長(会津、桑名も強かった)。
結局、時代が動くのはこのパターンな気がする。
やっぱ最前線で戦ってる集団は強くなるわね

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 21:20:48.55 ID:keOis7QZ
>>35
それ以前の時点でも、畿内の戦争に傭兵として出稼ぎに行ってた歴戦の強者どもだったみたいですしね
家康のひい爺ちゃんは500の兵で、北条早雲率いる1万の軍勢を撃退してたり

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 21:20:48.55 ID:keOis7QZ
>>35
それ以前の時点でも、畿内の戦争に傭兵として出稼ぎに行ってた歴戦の強者どもだったみたいですしね
家康のひい爺ちゃんは500の兵で、北条早雲率いる1万の軍勢を撃退してたり

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 00:30:07.53 ID:Y6HJ5iZY
>最前線でこき使われ

国が疲弊しきらない事が前提だな。信濃・甲斐・土佐…みーんな消耗しきって肝心な時にアボン

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 00:34:55.28 ID:GWywuu1v
第二次小豆坂の時とか岡部隊の奇襲を成功させるために最前線に突っ込まされて潰走してたりとか
そんなんばっかりだよな、三河衆w

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 02:19:24.59 ID:T8gz1kvh
浦上がどうして沼城とか砥石城とか景気良く宇喜多にあげたのかって、要するに欝陶しくなってきた
三村・毛利と手切れするから「攻めて来たら先鋒はお前らに任せた」って事だよな。

まさかこれで後々足元掬われるとは思ってなかっただろう。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 02:46:50.69 ID:afYiGjBM
しかも二度も掬いに来るからな

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 03:25:23.85 ID:GWywuu1v
適当に風除けに使ってやろうと思ってたら難敵相手に勝ちまくって
所領が大きくなるというのは予想外だったろうな

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 11:10:30.13 ID:fv3gBUEm
やる夫では宗景に抱かれてるような書き方をされてたけど、直家にはそういう噂があるの?