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「臆したる仰せかな」

2021年10月30日 16:24

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/30(土) 16:16:27.50 ID:tQVtBhVS
天文9年(1540)、近年元就朝臣(毛利元就)には尼子民部大輔晴久に様々憤る事があると
大内義隆と陶入道道麒(興房)は聞き及び、棹させば流されると喜んで、
「大内の幕下に属されれば、これからは水魚の思いをなし申さん」と厚く礼和を言って申し越された。

元就朝臣はいかが思いなされたのかやがて了承し、
芸州にいた尼子一味の侍どもの城を一時攻めに5ヶ所乗り崩し、晴久と手切れの色を立てなさる。
これにより晴久は吉田へ発向の旨を評議し、祖父経久(尼子経久)へも聞かせ申してこその事と思い、
しかじかの由を申された。
これに経久は「吉田出張の儀は無益である。まず石備両国を従えて国人どもの人質を取り堅め、
深固の利をもっぱらとしてその後に吉田へも出張するべきだ」と理を尽くして申された。

しかし晴久は、経久は老耄なされたので「御意見至理に存じ候」と謹んで申されながらも
内心では「臆したる仰せかな」と思い、ひたすら吉田へ出張の用意をするのみであった。

(中略。以下吉田郡山城の戦いの時)

吉田勢(毛利勢)はようやく3千に過ぎないため、城中の女童下部までことごとく堀際へ差し出て
竹の先や棒の先に箔紙を付け、あるいは金銀の扇子などを結い付け持たせて置きなさった。

宮崎では吉田勢が向かうと見て、一陣に控える高尾豊前守2千余騎(尼子勢)は柵際まで出て待ち受けた。
吉田勢が少しも臆さず攻め近づき柵を押し破り切り入ると、出雲勢もここを先途と防戦するも、
ついに叶わず左右の谷へ引き退き、二陣に続く黒正甚兵衛尉の1千5百余騎が渡し合って防戦した。
一方で陶、杉、内藤の宮崎の陣(大内勢)は、「元就は容易く勝利を得られることだろう。
それならば本陣の晴久と一戦するぞ!」と、2万余騎を三段に分けて青山猪山へ押し寄せた。

尼子下野守(久幸)は思慮深き侍で、必勝の見切り無くしては危うき合戦を慎んだので、
世人は“尼子比丘尼(臆病野州とも)”と言った。この人は何と無く、怒る様子もなかったのだが、
心深い憤りがあったのか居丈高になって言われるには、
「今日の戦はこれ以上ない程の味方の大事だ。何にせよ1人踏み止まって討死しなければ、
晴久の御開陣も成り難い。内々に口武辺なさっている人々は一手際のところである!誰か彼か!」

だが答える者は1人としていなかった。その時に下野は雑言吐散し、
「尼子比丘尼は今日の討死なり!御免あれ!」と打ち立ち、手勢5百余騎程が青三猪ヶ坂へ掛け出ると、
河添美作、本田豊前、已下下野に励まされ我先にと進み出た。

そうして陶の先手深野平左衛門尉、宮川善左衛門、末富志摩守2千余騎と入り乱れて戦い、
山上へ追い上がる時もあり、周防勢が追い下され三日市まで引く時もあり、終日隙間なく攻め合えば、
陶の先手の深野と宮川は討たれ、末富は深手を負ってやがて下人に助けられ味方の陣に入った。

元就朝臣の家人中原善左衛門は宮崎からどのようにして来たのか陶の手にいたのだが、
尼子下野に渡し合って大雁股を野州の眉の外れに射込み、馬から落ちるところを走り掛かって
首を取ろうとした。野州の同朋は主の首を探させまいと前に進み打って掛かるが、
中原は物の数ともせずに一太刀で打ち捨てた。しかし、その隙に下野の死骸を若党どもが
肩に掛けて味方の陣に逃げ入ったので中原は思う首を取れず、同朋の首だけを討って帰った。

――『安西軍策

安西軍策は江戸初期成立の軍記物で陰徳記の原資料といわれる
臆病野州は前段で吉田出陣に反対した久幸を晴久が臆病と罵倒したことに由来するとされるが
尼子比丘尼は世人の評由来で、晴久が臆していると思ったのは経久になっている



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雨月物語 菊花の約

2018年05月21日 17:21

931 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:15:50.96 ID:IVDC596W
播磨国、加古の宿に丈部左門と言う儒学者が年老いた母と暮らしていた。
左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
万事簡素に暮らしていた。
左門の母も賢母ではたを織る事を仕事として左門の志を助けていた。左門には妹が1人いたが、同じ里の裕福な家へ嫁いでおり、
妹婿一族は左門親子の性格を慕って何かにつけ生活の援助をしようとしたか、左門はそれを断り、母に孝行し、質素な暮らしを続けていた。
ある日、左門は知人の家で病に苦しむ旅の武士に出会った。
知人が言うにはこの武士に宿を求められ、貸した所その晩から病に倒れ、3-4日が経ち困っていると言う。
左門は看病を申し出たが、知人は流行病だから左門に罹ってもいかぬと止めたが、左門はそれを押し切り懸命に武士を看病した。
その甲斐あって武士は快復し、左門に礼を述べ素性を語った。
武士は赤穴宗右衛門と言い、出雲の富田城で城主の塩谷掃部介に招かれた軍学者であったが、密使として出雲の国主を務める近江の佐々木氏綱の元へ遣わされていた時、
出雲では塩谷掃部介が尼子経久に城を乗っ取られて討ち取られ、宗右衛門は佐々木氏綱に塩谷の仇を討つ事を申し出たが氏綱は動こうとしないどころか、
宗右衛門を近江へ押し留め、何とか抜け出して出雲へ帰ろうとした所、この加古の宿で病に倒れたとの事だった。
2人は意気投合し、親交を深め遂には歳上の宗右衛門を兄、左門を弟として義兄弟の契りを結ぶに至った。
宗右衛門は左門の家に逗留し左門の母にもよく尽くした。左門の母も息子に良き義兄ができたことを喜んだ。
3人の生活が始まってから春から初夏に差し掛かった頃、宗右衛門は一度元の目的地であった出雲へ帰る事を左門に告げた。そして出雲の様子を見届けたらまた必ず帰って来ると。
左門の何時戻るかと言う問いに、宗右衛門は九月九日、重陽の節句を約束の日と固く決め、2人は再会の約を定め宗右衛門は出雲へ旅立った。

932 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:22:08.19 ID:IVDC596W
月日が経ち約束の重陽の節句の日が訪れると、
左門は家を掃き清めて菊の花を飾り、酒肴を用意して宗右衛門の到着を待った。
しかし、夕刻になっても宗右衛門は姿を見せない。左門の母も遠方のことだからと慰めたが、
左門は夜になっても外で宗右衛門の到着を待った。
そして深夜、左門が諦めかけた時、生温かな風と共に一人の人影が左門の前に現れた。それはまさしく宗右衛門であった。
左門は嬉々として義兄を招き入れ、酒肴の席につかせたがその義兄は義弟の顔を見てもどこか暗く、
消沈した様子で左門が出した酒肴に対しても顔を背け左門が母を起こしてこようと言うと、首を横に振り漸くその口を開いた。

出雲に帰った宗右衛門だが、もはや出雲の国人どもは皆尼子経久に靡いてしまい誰も塩谷の恩を顧みる物は居らず、
従兄弟の赤穴丹治が富田の城にいるので訊ねたが、丹治は宗右衛門を経久に仕えさせようとした。
仮にその言葉を受け入れて、よくよく経久の所業を見申したが、万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。
暇を請い左門と菊花の契りがあることを話し去ろうとすると、経久は丹治に命じ宗右衛門を城に幽閉したのだという。

そして幽閉されたまま、ついに今日という日が来たが左門との約を違える事を苦に思った宗右衛門は、自らの命を絶ち、
魂魄と成って百里の道を越えて左門との約束を守る為来たのだと語った。
そして、宗右衛門は左門と眠っている左門の母に永遠の別れを告げるとふっと姿を消した。

左門は慟哭し、その声に目を覚ました母に今あったことを告げると、
当初は信じなかった母も息子の様子に只ならぬものを感じ、共に泣いた。

左門は宗右衛門の弔いをする為、妹婿一家へ母を預けると出雲へ旅に出、
義兄の死の一因となった赤穴丹治に面会すると、丹治の行いを非難し一刀のもとに丹治を斬り殺すと姿をくらました。
大騒ぎとなったが尼子経久はこのことを伝え聞くと、兄弟の信義の篤さを哀れに思い、
あえて左門の跡を追わせなかったと言う。

雨月物語 菊花の約

元々は中国の逸話だけど、尼子経久がディスられてる逸話だったので



933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 23:24:58.41 ID:6DQdr9AC
>>左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
>>万事簡素に暮らしていた。

情熱大陸とかプロフェッショナル仕事の流儀に出てそう

934 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:30:47.27 ID:TZDOqU9w
しかし戦国の時代にあって儒学者ってどうやって食い繋いでたんだろう?

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 23:35:10.66 ID:clAtfEj5
最後の追わせなかったあたり、尼子経久が情を分かる人間扱いだったのではなかろうか。

936 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:52:25.79 ID:IVDC596W
>>935
長いので略したけど、一応経久さんがこの兄弟の行いを美しいと感じ入り、
また自分の行いを反省して追っ手を出さなかったという事になってます。

後、冒頭と最後に軽薄な人と友情を交わすものではないという趣旨の文が入ってます。
これでもかなり端折りましたので菊花の約(契)でググると全文の現代訳を載せたサイトがいくつか出てくるので、
そちらを読むこともお勧めします。現代的に言うとBL的な話にもなるそうなんですが・・・

937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/21(月) 00:31:06.56 ID:qWRQBKFt
ひょっとして>>932の
>万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
>智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。


これを知っていたからこそ尼子経久は天性無欲の人と言われるくらい何かある度に家臣に自分の物を分け与えて、心を繋ぎ留めようとしたのかも…
後世の創作話だから必ずしもその当時の実情と一致はしないかも知れないが

・唯落の城の事 本名高城

2017年08月01日 16:36

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 06:43:13.50 ID:0Qt/DYkk
・唯落の城の事 本名高城

立縫の郷・動土村にあり。国府伯耆守親俊の居城である。

大永4年、尼子経久が出雲より伯耆に攻め入り、国中の
城々を攻め立てた時、

当城へは未だに手付かずであったのに、伯耆守は大いに
驚き恐れ、「ああ、敵の多勢が攻めて来る!」と思い、

小勢では籠城も叶わないとして、俄かに城を空け退散した
ということである。

敵が攻めてもいない以前に自ずから落城した故、郷民は
これを嘲って“唯落の城”と呼んだのであるが、

今に至ってもその称あり。本名は高城という。

――『伯耆民談記』



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 07:13:23.41 ID:7R2uTJ20
そんな城いっぱいあんのに

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 08:31:02.73 ID:iziwR2LU
バカな百姓には戦略的撤退とか理解できんし

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 08:36:59.67 ID:LyWGmxu9
伯耆が放棄

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 12:38:08.25 ID:FqwVfGb3
国府氏って小野流海老名氏なのかな?
伊勢にも国府氏がいるみたいだけど同族か?

尼子経久と人柱 米原太鼓

2016年12月18日 09:51

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 23:40:02.02 ID:FQR9CdkD
>>432
松江城のコノシロの話と似てるね
河童の前までだけど



442 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:30:24.35 ID:Ze9a2Qhj
>>440
隣の安来市にある月山富田城にも人柱の話があって、松江城、米子城と共に城の修築が上手く行かずに盆踊りから人柱となる人を拐って埋める所までは共通なんよ。
また米子城にもこの城は我の物~とのたまう妖女が現れ退治された話があって、そちらの正体は人柱ではなく別のモノだったりします。

>>423のギリギリ井戸と松江城の人柱にも異聞があり、井戸の場所から見つかった頭蓋骨を弔うのに堀尾吉晴の知り合いの修験者が呼ばれて供養した。
が、修験者はまだこの供養だけでは地鎮は終わらず城造りの災いは済まぬ。私の子を仕官ないし、面倒を見てくれるなら私が人柱となりましょう。と、修験者が進んで人柱となった話も有ります。

尼子経久と人柱 米原太鼓

尼子経久が山陰の覇者となった頃、月山富田城の修築を始めたものの事故や災難が続き工事が難航した。困った尼子経久が巫女に相談すると

「月の紋が染め抜かれた着物を着た娘を人柱にしたら工事は成功する。」

と神託が降り、盆踊りの場から月の紋が入った着物を着た娘を連れ去り修築場所で人柱にした所、以後の工事が無事終わった。
この人柱の儀式の時、娘の霊を慰める為に太鼓を叩きながら儀式が行われたのだが、娘を人柱にした日が近づくと山頂から城へ太鼓の音が聞こえて来るようになり、人々はこれを米原太鼓と呼んだ。
米原太鼓には米子市にも伝説があり、水に苦労した市内の弓ヶ浜へ水路を引く際、米原まで来た所で工事が難航。
当地の盆太鼓が上手な青年が人柱になり、青年は太鼓を打ち鳴らしながら人柱となった。
また、盆踊りが上手な娘が居たがある年、仕事の後に盆踊りを教えてくたくたになって帰った所、翌朝起きる事が出来なかった。
意地悪な継母が焼き火箸で娘を撃ち殺してしまい、これらの事件の後盆が近づくと地面から悲しげな太鼓の音が聞こえる様になり、米子の人々はこれを米原太鼓と呼んだと言う。
(書籍:本当は怖い日本の城と米子の伝承より)
これにて人ばしRushは一旦おしまい



443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:42:42.76 ID:Ze9a2Qhj
>>442
×盆太鼓が上手な娘
○盆踊りが上手な娘
(修正済)
444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 07:53:42.56 ID:0J/EbjXH
人ばしrush

445 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:59:45.06 ID:Ze9a2Qhj
>>444
ここ毎日人柱の逸話上げてたもんだからつい…

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 08:28:12.44 ID:sfFYV6q2
盆太鼓が上手なむす… 娘…
http://i.imgur.com/6SrpY29.jpg
6SrpY29.jpg


塩冶興久の化け物退治

2016年12月10日 17:17

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:31:50.90 ID:GsXykw4v
塩冶興久の化け物退治

尼子経久の三男で塩冶氏に養子入りした塩冶宮内太輔興久は不孝・不義の人ではあったが、心栄えは大変勇敢で、
戦えば勝ち、攻めれば落ちないことはなかった。その勇猛さを示すエピソードにこの様な話がある。
月山富田城の甲の丸には桜の間、柳の間という部屋があり、そこは狩野小法眼による柳桜の絵で埋め尽くされていた。
鬼神もその絵に深く魅せられたようで、その部屋はいつしか魔物の出る部屋となった。
何百人もの人が、そこで化け物にたぶらかされ、あるいは気違いになりまたは行方知れずとなってしまい、次第にそこに近づく者はいなくなった。
興久はこの話を聞くと、
「なに、そんなことがあるものか。見る人間が怯えるからこそ、見えるはずのないものが見えたり視界を遮るような気がするのだろう。
一翳眼に在れば空華乱墜す(そうかもしれないと思ってしまえば、眼の中の翳りのように妄想が次から次へとわいてくる)と言うではないか。
吹毛剣について珊瑚枝上の月光を愛でるような心持ちであれば、化け物などどうして現れることがあろうか。
吹毛剣は怜悧な霊光を放って外道天魔といえども手出しができないのではなかったか。私がその変化の者をこらしめてやろう。きっと古狐か古狸が化けているのだろうよ」
と、たった一人でその部屋に向かった。

上座に胡坐をかいてあかあかと明かりを灯して待ち受けたが、宵のうちはとりたてておかしなことも起こらず、
ようやく午前三時くらい(丑三つ時)になって、風がそよそよと吹いた。風は気持ちの悪い冷たさで、しきりに胸騒ぎがするので興久が「これは不思議なことだ」と思っていると、
庭に散り積もった木の葉をハラハラと踏みしだく足音がした。垂木の上にドスンと上がった音がしたと思うと、すぐに妻戸がキリキリと押し開かれる。
「さあ、例の古狸めが、人をたぶらかしに来おったな。ほかの者はどうあれ、この興久は化かされないぞ」
と、外のほうをじっと睨みつけていると、歳は八十を越すかと思われる老婆が二人の童子を伴い姿を現した。
老婆は曲がりくねった茨が雪に埋まっているかのような頭髪を上のほうで結ってカッと乱し、
目は一つだけ鏡を額にかけたようにあって、太陽や月よりもなお明るく光っていた。
鼻は長く垂れ、歯は黄色く上下に長く生え違い、ことさらに両脇の牙は鋭く、剣樹のようであった。
唇は血の池のような赤であり、口は左右の耳まで裂けて、息をするたびにすさまじい煙が風にほとばしる。
両腕に猪のような毛がびっしりと生え、爪は鷹のように長く曲がっている。
破れた衣を着て、大きな竹の杖をつき、十一、二歳くらいの童子二人に手を引かれて、
興久に近寄ってくるのだ。

「ああ苦しい。老いて衰えることほどつらいものはない。これでも十六歳になるまでは、華のかんばせと評判で、
楊貴妃の眉よりも西大后の紅顔よりも美しかったというのに。朝には鏡に向かい眉を書いて容貌を磨き、暮には鳳のかんざしを取って
蝉翼(蝉の羽のように美しく曲げ整えた髪)に仕上げて優美な容色に整えたものじゃ。
いつのころからか老いが日々重なってゆき、容貌が衰え体がだるくなっていくばかりでなく、
孤独で貧しい身の上じゃ。肌を隠す衣もなく、朝晩食べるものにも事欠く有様で、
砂を噛んで水をあおるほかに、飢えを紛らわす方法もありはしない。ああ苦しい。めまいがする。胸も苦しいぞえ」と、
しわがれ声を震わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と老婆が呟く声が聞こえた。

さしものつわもの興久も、身の毛もよだつほど恐ろしく感じたが、少しも騒がずにいた。
この老婆は興久をキッと見て、「おやおや、こんなところに殿御がいらっしゃる」と、かしずいた。
「さてさて、お若い御大将、ようこそここにいらっしゃいました。ここにはこの老婆が折りにつけて参っておりますので、人は皆、
『老いさらばえた老女の顔の醜いことよ、聞き苦しい言葉つきよ』などと言って、私を怒らせたものです。
それだけでなく、このごろは一人としてこの座敷に近づきません。この老婆も、年老いて心細くなってまいりましたので、いっそう人恋しく、
昔話の一つも誰かに語って聞かせたいと思っておりました。よくここにいらっしゃいましたなぁ。昔の迦葉仏のときのことまでよく知っている老婆でございますよ。朝まで昔語りをして差し上げましょう」と
老女が言っても、興久は返事もせず、大きく開いた目でじっと老女を睨みつけていた。

394 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:47:35.87 ID:GsXykw4v
老女は「この殿御もこの老婆の面相が醜いと思っているのじゃろう。声をかけても返事すら返さぬとは。おまえたち、行ってあの方の御足を揉んで差し上げなさい」と、傍らにいた童子に命じた。
一人の童子が「かしこまりました」と老女のそばを離れ、興久の足元に座った。
興久はこの童子を斬ろうと思ったが、「待てよ、どんな化生の者といっても、
私の力なら、殴るだけでも眩暈がすることだろう」と思いとどまり、
拳を堅く握って童子の頭をしたたかに打った。
すると童子は老女の元に走り帰って、「ばばさま、あの方が殴ってきました」と泣きつく。
老女はもう一方の童子に「ならばおまえが行ってまいれ」と命じ、この童子も興久に近寄ってくる。
興久は少しも怯えていないところを見せてやろうと思ったのか、「童よ、ここに来い」と声をかけた。
ソロソロと寄ってくる童子を引き寄せ、膝の上に抱きかかえると、大きな石のように重い。
たまらず童子の頭を続けざまに二度打って、乱暴につかむと「えいやっ」と放り投げた。

老女はこれを見て「こんなにいたいけな子供たちに、なんと思いやりのないことをするのですか。お恨みいたしますぞえ」と怒ってつかみかかってくる。
「これはかの有名な三途の川の脱衣婆か、安達が原の黒塚に棲むという鬼が現れたのに違いない。そうでなければ山姥というものだろう」と、興久は魂が抜けそうなほど仰天した。
真っ黒な手を伸ばして頭をつかもうと飛び掛ってくるところを、それでも少しも声を上げずに、腰に挿していた初桜という刀を抜いて、
眉間と思しきところを、二度続けて斬りつける。
「アッー!」という声がしたと思うと、辺りが雷のように光って、老女と童子たちは虚空へと姿を消した。

「どんな妖狐や古狸の類であろうと、あれだけ思う存分斬りつけてやれば、
そう遠くには逃げられまい。早く夜が明けぬものか」と興久が待っていると、
東の空が白々と明るくなってきた。
早速若党たちを招集して、「昨夜、妖怪変化を斬ったぞ。跡をつけてみろ」と命じるが、
目印など何もないので、若党たちもどこを探していいかわからない。
興久が言うには、縁の下に入ったように思うとのことだったので、
縁の下にもぐってみると、大きな穴が見つかった。
そこでその穴を広げ、三間(5.4メートル)ほど掘り進むと、
底から高さ九尺(2.7m)くらいの五輪塔と、二つの三尺(90cm)程度の五輪塔が掘り出された。
その三尺の五輪の頭には血がついている。
これは、興久が拳で殴った際に、指の皮が破れて出た血が付いたものだろう。
また、九尺の五輪には頭に刀傷が二つあった。

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:47:50.04 ID:GsXykw4v
塩冶は言う。

「その昔、唐の国に王伯通という人があった。屋敷を一軒建てたが、そこに泊まった人は必ず死んだという。
伯通はしかたなく門戸を閉ざして誰も泊まらせないようにしていた。
嵆康という人がやってきて、どうしてもそこに泊まらせてくれというので屋敷の中に入れたところ、
嵆康は夜になってもずっと琴を掻き鳴らしていて、
真夜中(午後十一時ごろ)になると嵆康の前に八人の鬼が現れたそうな。
嵆康は最初こそ怯えて乾元亨利貞(法呪のようなもの)を唱えていたが、数度唱えた後で鬼に問いかけた。
『王伯通がこの屋敷を建て、人が泊まることがあると必ずその人は死んでしまうという。おまえたちが殺したのか』

すると鬼は、『まさか、私が人を殺すなんて、とんでもない。
我らは舜(中国神話に登場する賢帝)の時代に、楽をつかさどる官吏だった。
兄弟が八人いて、伶倫という者だ。
舜は、邪な佞臣の注進を受けて、我ら兄弟を無実の罪で殺してここに埋めたのだ。
王伯通が我らの塚の上に屋敷を建てたので、重くてかなわない。
だから、人が来て泊まってゆくのを見ると、その人にこのことを伝えようとしたのだが、
人は皆我らを見て肝を潰して死んでしまう。殺そうと思って殺したわけではないのだ。

先生にお願いしたいのは、伯通にこのことを伝えて我らの骸骨を掘り起こし、
よそに葬りなおしてほしい。そうすれば、半年後に伯通は本国の太守となるだろう。
先生には、広陵の一曲を教えて進ぜよう。訴えを聞いてくれたお礼だ』と言った。
嵆康は大変喜んで、持っていた琴を鬼に与えた。鬼が一度弾いただけで嵆康はすっかり覚えてしまったという。

さて、夜が深まり、心配になった伯通が屋敷に様子を見に行くと、
嵆康が掻き鳴らしている美しい琴の音を聞いて、どうしたことかと嵆康に尋ねた。
嵆康から先ほど起こったことを詳細に聞き出すと、伯通は翌日すぐに人夫を手配して地中を掘らせる。
果たして、ついに骸骨を見つけた。
別に棺を作らせて、清浄な場所に葬ったそうだ。
後晋の文帝が即位すると、伯通は鬼の予言の通りに太守となり、嵆康は中散大夫に昇進したとな。

私が思うに、この骸骨も伶倫と同じようにこの家に押し潰されて、苦しくなって姿を現したのだろう。
よそに移して手厚く葬れば、私も末は一国の守護ともなろうよ」
興久はそう決めて、通安寺の墓所に埋葬した。
その五輪塔の下に埋められていた者は、生前の宿業が深く四生六道に迷うだろうと、
如形の供養までしてやったという。

(陰徳記より)

長文スマソ

396 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 18:36:01.08 ID:GsXykw4v
追記
本堂平四郎、東雅夫著・怪談と名刀/1の富田城怪異の間、初桜 光忠の話として、同じ話が載っています。
そちらによると柳桜の絵の作者は狩野小(古?)法眼ではなく、雪舟ともただの貧僧とも
また、興久が退治する以前の妖怪の為した祟りが生々しく描かれています。



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/09(金) 19:00:50.99 ID:4pniS/q8
>>393-396
そのまま日本昔話で放送してもおかしくないクォリティ

399 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 23:07:39.78 ID:rmBYu3Ob
>>393-395
結局このババアと童の正体は何だ?
城の人柱にしちゃあ、迦葉仏のときまでよく知っているって言うし、神代の人間か国津神の類かよ

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 11:27:41.74 ID:EzzOhga2
西太后て清末以外にもいたのか

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/10(土) 12:20:56.46 ID:gEo18Caq
>>403
西王母の事ちゃうか

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 12:53:25.64 ID:EzzOhga2
時代的におかしいから東と西でいろいろいるのかとおもいきや
西王母のこととは思わなかった

尼子経久・興久親子不和の事

2014年06月23日 18:54

567 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:25:46.77 ID:ze51xFkb
去る天文元年、出雲では尼子経久が三男・興久と不慮の事態によって親子確執に及んだ。
その理由は以下の様なことである。

尼子興久は亀井能登守を通して経久に訴え、同国原手郡700貫の所領を望んだ。しかし経久は、
『原手郡が本拠である月山富田城の近辺であるので、与えることは出来ない、であるので別の場所において
千貫の所領を与える』という旨の返答をした。これに興久は納得できず

「私は思う仔細があって原手郡を望んだのだ。別の場所であれば何満貫であっても望むことはない。
きっと今度の所望が叶わなかったのは、偏に亀井能登守が讒言して妨げたに違いない!この上は
能登守を討って我が本望を達するべし!」

激怒してそのように言った。その頃、尼子経久は杵築(出雲大社)において法華経一万部を読誦させられ、
亀井能登守はその奉行として杵築に滞在していた中、興久は3000騎を擁して杵築に押し寄せる、という
風聞が広まった。これを聞いた経久は

「興久に訴えたいことがあるのなら、先ず私に言って来るべきなのに、亀井を討とうとするとは心得られぬ。
これは偏に、能登守を討つという口実で、私に弓を引こうという企てなのだ!」

そう考え、牛尾当遠江守、同三河守、卯山飛騨守に2000人余をさし添えて杵築に遣わし、能登守を伴い
道中の警護をさせて、無事、富田城に引き取った。

興久はこれを聞いて大いに憤った
「たとえ私に非分があったとしても、親として子の事を思わず、逆に郎党を助けるとは有っていいことか!」
そこで乳人の米原平内、亀井新次郎を呼び

「私は今、親子不快という状況になったが、これは偏に亀井能登守の所業のためである。この上は、
あやつはいよいよ父上に対し私を讒言し、罪に陥れようとするだろう。よって、今より一心に思い切り、
富田城に押し寄せ晴久を討ち経久を押し込め、亀井能登守は鋸挽きにしてこの無念を晴らそうと思うが、
いかがか!?」

両名はあまりのことに、暫くは目と目を合わせ閉口していたが、「正しき父に弓を引き甥に対して
剣を振るうなど、冥王の照覧も恐ろしく、不義不孝の名も末代まで朽ちないような所業です。たとえ一旦の
憤りによって経久様が仰せ付けられたのだとしても、興久様はどうかそのお考えを改めてください!

能登守はこの亀井新次郎の兄ですが、だからと言ってこのように申し上げているわけではありません。
彼に関しては、私がその宿舎に行って、兄弟で刺し違えましょう。ですので、これによって憤りを鎮められ、
父子御不快の事は是非にも止めていただけますよう。」

このように諫止したが、興久は

「私は経久を討つべしと思っているわけではないのだ。ただ富田城を乗っ取り晴久を討って、私がこの
尼子家を相続し、亀井能登守の首を刎ねた後は、父子和解して考順なすであろう。
しかし、父に盾をつくのは不孝だからといって、首を延べて軍門に下ってしまえば、能登守はたちまち私を
討つであろう。父を敬うからといって。家人に頭を刎ねられる者があるだろうか!

私は経久の軍の先陣にあって、伯耆において山名との合戦4度、その他各地の城を落とし敵を打ち倒したことは、
何度あったか数が知られぬほどだ。その私の戦果故に、いま近国は経久になびき、従っているのである。
いま私が生命を惜しまず思い切って富田城に攻め入れば、軍勢の多少によらず、ただ一時に揉み破ることが出来る
だろう。もし運が尽きて合戦の勝利を失ったのなら、富田城を枕として討ち死にし、仏とも神とも成って、怨霊として
亀井に復讐するだろう。

であるが、お前たちは経久の譜代重恩であり、特に新次郎は能登守と兄弟であり、私に与するような事は些かも
ありえないだろう。お前たち両人が急ぎ経久のもとに参りこの事を知らせるというのなら、その時私は検使を
申し請い、涼しく切腹するであろう。さあお前たちは、早々に富田に帰るが良い!」
そう、声を唸らし畳を打ちながら叫んだ。

568 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:26:36.26 ID:ze51xFkb
これを聞いた両名は俯いていた頭を少し上げ
「お言葉を返すのは恐れ多いことですが、仰せのように興久様が近国に武威を振るわれた事に関して、それを
知らぬものは居りません。しかしそれゆえに驕慢となり天魔の心が入り込み、このような悪逆を思し召しに
なられたのだと見て取りました。

興久様が尼子家を相続するといいますが、貴方様は騎将の器には当たりますが、数カ国を収める
数万の軍勢の大将の器には当たりません!何故かといえば、強剛勇猛のみで、五常の道をご存じないからです!
父君に対して弓を引き楯突くような御仁ではありませんか!

鳥類であっても、梟は不孝の鳥であると、諸鳥はこれを憎むと言われています。とにかく、この事は思い留まる
べきです!」

この諫言も、忠言却って耳に逆らい、おおいに立腹し
「私が一度思い立って、生きている以上、杵築大明神も智見あれ!この弓矢を思いとどまることはない!
しかし面々の異見の趣を背くのも如何なれば、私はここで自害する!
であれば、父に対して弓を引く事にはならず、各々の異見を用いざるにも非ず!」

そう言って刀の柄に手をかけた所を、両人は急ぎ腕を抑えこれを押しとどめた。そして
「この上は力なし。兎にも角にも、仰せの旨に従って共に忠戦を励みましょう。
ただし我等両名は若年の頃より経久様のご厚恩を蒙り、その上一族ことごとく富田に罷りある以上、
御疑心もお有りでしょうが、多年の興久様からの御好みを捨てがたく思いますので、たとえ骨を粉にさせられ、
肉を膾にさせられたとしても、全く恐るべきことではありません」と、両人共に妻子を人質に出し
杵築大明神の牛王の誓紙を書いて、灰にし酒に入れてこれを飲み、一筋に思い定めることを表明すると、
興久も快く、金作の太刀を両人に与えた。

(芸侯三家誌)

尼子経久・興久親子不和についての逸話である。

謀聖、終生のライバルと夜襲

2014年05月02日 19:17

陶興房   
180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:16:48.94 ID:w/ilQyvt
謀聖、終生のライバルと夜襲

大内家家老、陶興房。大内氏譜代の重臣陶家の陶弘護の3男であるが、父が暗殺された後に起きた長兄・武護と次兄興明の争いで次兄興明が死に、
後に長兄武護が主君大内義興に誅殺されたことにより陶家の家督を継ぎ、長じて大内家の家老として文武両面で主君義興を支える存在となる。
戦場で常に主君義興を補佐し、大内軍の副将として各地で戦ってきた興房は1511年、船岡山合戦で一人の戦国大名と出会う。
足利義稙を擁する大内義興、細川高国に従い上洛した山陰の尼子経久である。
敵方の足利義澄方が陣取る船岡山を囲んだ大内連合軍であるが、その直前に擁する足利義澄が病死したにも関わらず
戦意旺盛な敵方を攻略するために尼子経久は大内の副将たる陶興房に一つの提言をする。

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:40:25.99 ID:w/ilQyvt
経久「敵方に夜襲を仕掛けてはいかがか?我が軍が先陣となれば敵兵全て葬って差し上げよう。」

これに対し、丹波で合流したばかりの西国の兵を信用できなかったのか、直前に赤松義村が裏切ったこともあってか興房は

興房「我が大内軍は夜襲が苦手でな・・・」

と、夜襲の提言を退けたと言う。なお、その船岡山合戦の結果は・・・

大 内 軍 が 先 陣 と な っ て 夜 襲 

した事で大内義興・細川高国連合軍が勝利。京は足利義稙側の手に戻っている。
興房が尼子経久の夜襲の提言を退けた後、自分達の手柄とする為に大内軍が夜襲を仕掛けたのか、それとも尼子経久が義興に直談判して
夜襲を決意させたのかは定かではない。
ただ、山口県文書館蔵の義興の手紙には大内軍大将の義興自身が先陣に立ち、夜襲軍を率いていることなどが伝わっていることから
義興は夜襲にノリノリで賛成したのではないかと思われる。

この数年後に尼子経久は中国地方へ覇を唱えんと、義興不在の山陽地方に手を出すのであるが、この時経久の提言を退けた陶興房が
何度となく彼の前に立ちはだかる事となるのである。

終生のライバル同士の初の出会いにして相手の手柄を横取りしたようなされたような、ちょっとだけバツの悪い話。

182 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:58:07.28 ID:w/ilQyvt
>>180-181に追記。
この時、陶興房は尼子経久の夜襲の提言を
「大内軍は夜襲が苦手ゆえ・・・」

と断っているが、実際に1524年に安芸・佐東銀山城の戦いで援軍の尼子方・毛利元就連合軍の夜襲を受けて破れたりしている。
夜襲(されるの)は確かに、苦手だったのかもしれない。
しかし、この戦で毛利元就の存在とその武勇、安芸における重要性を知った陶興房は、先に毛利家で起こった、元就と
弟元綱の家督争いで尼子家と毛利家の関係の危うさを見抜き、翌1525年に調略により毛利家を大内側に寝返らせることに成功している。

名将は転んでもタダでは起きないのであった。




202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 19:07:58.69 ID:I+S/6sjV
>>180-182
こういう逸話好きだなあ

尼子経久 我が子と相争う

2014年04月26日 18:50

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 00:59:40.83 ID:CIg+fgYk
尼子経久 我が子と相争う

謀聖と謳われた戦国初期の雄、尼子経久
彼には3人の優れた息子が居た。
長男、政久。父に劣らず知勇兼備にして各種の文化にも通じ、時の帝である後土御門帝にその文才・教養を称賛され、
まさに謀聖の跡継ぎに相応しい人物であったが、26歳にして戦死。
次男、国久。父以上の武力・軍才を持つと内外に評され、尼子家の柱石として武闘派の新宮党を率いて山陰・山陽諸国に
その武名を轟かすも、最期は甥晴久の集権体制を確立させる為に殺害されたとも、新興勢力の毛利元就の謀略により
甥・晴久に嫡男誠久はじめ、一族諸共殺害されたとも言われる。

そして、3男興久。彼は父経久が大内義興に従い上洛した際、山陽の覇者大内家との仲を深めんとする父の思惑により、
大内義興の偏諱を受け興久と名乗る。
その後、二十歳になるかならないかの頃、父の命を受けた興久は出雲一帯に大きな勢力を誇る塩冶氏に養子として入り
当主の地位を得、山陰における尼子家の勢力拡大に大きく寄与することとなる。
尼子家と塩冶家に出来た深い縁と蜜月の時であるが、それは長くは続かなかった・・・。
(続く)

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 01:02:28.85 ID:CIg+fgYk
尼子の最前線として隣国の大内やその麾下の勢力、独立した国人衆と相対する塩冶興久の
財政的負担と折衝の為の辛苦は尼子一族の中でも大きな物であった。興久は父経久と腹心
の亀井秀綱に対し、自らの知行を増やすよう申し出るものの、秀綱により却下される。

そして、興久はキレた・・・。
享禄3年(1530年)、興久は以前より親交を深めていた出雲の反尼子勢力の三沢氏や多賀氏、
また出雲大社・鰐淵寺・真木氏・妻の実家である備後山内氏・但馬山名氏と組んで父経久に
対しての反乱を起こす。
中国地方のもう一方の雄である、大内氏との結びつきが大きかったのも原因であるという。
自らの勢力圏の大半が息子の興久につき、謀聖・尼子経久は窮地に追い込まれる。が、
その後戦況は一変する。
塩冶興久が父へのトドメとばかりに支援を求めた大内家の新たな当主・大内義隆は両者共倒れ
を狙って興久ではなく、劣勢の経久に対して支援することを決めたのであった。
これにより戦況は一変、興久は徐々に敗勢が濃くなり妻の実家である備後山内家へ逃亡する。
しかしながらその後勢力を回復することは出来ず、1534年に自刃。
遺領は息子清久が継ぐ物の大半はその伯父・国久の管理下に置かれる事となる。
いずれにせよ、この後尼子家は経久の孫、晴久が家督を継いだ後に国久との間で仲たがいを起こし、勢力の衰退を招くこととなる。隣国の毛利元就はこれを反面教師としてとらえて三矢教訓状を作り、一門の結束を訴えたのか・・・?
いずれにせよ、尼子家が家族で争うこととなった悪い話。





尼子経久、月山富田乗っ取り

2014年01月01日 18:57

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/01(水) 00:05:31.03 ID:jaUgD7Pl
尼子経久はもともと出雲の国の富田の地で七百貫を領していた。
出雲の国は近江の佐々木氏の領国であり、佐々木高詮の時に経久の祖父、持久を守護代として出雲に送った。
この持久、そしてその子清定と二代にわたって守護代に任じ、国務を司り租税を近江へ送っていたのだが
さらにその子経久の代となって、経久がまだ若く又四郎といった頃に近江の佐々木氏の指示に従わず
富田とその近郊の地を奪い、また出雲の国の武士達を攻め従えようとした。
守護佐々木家の六角定頼はこれに大いに怒り、出雲の国侍に命じて経久を攻め追放させると代わりに
塩冶掃部助をもって出雲の守護代とした。

経久は無念であったが、諸国を放浪しついに食うにも事欠くとある山寺で食うために僧形となり修行僧に混じって
暮らしていた。
経久は何とかして富田の城を奪い返して本懐を遂げたいと思うものの、家臣達は皆その妻子を養うため
近江の六角氏に仕えており、出雲に残っているものは山中一族だけであった。
山中を頼るべしとついに秘かに出雲に入ると山中の住まいを訪ねた。
山中は経久を見ると急いで中へ招き入れたが、色は黒くやけ、やせ細り、昔の面影もほとんど残っていない
経久の姿に涙を流した。
ささやかな食事と濁り酒を前に、経久は涙を流して山中をかき口説いた。
「何としても富田の城を攻めて塩冶を討ち取り、本望を遂げたい。もし昔のよしみを忘れていなければ、どうか我に
力を貸してはくれないか?」と。
山中も昔の義理は忘れがたくもあった。
「仰せ、畏まりました。」と諒承すると、やがて一族と語らい17人の一味同志を得ることができた。

さて、しかし塩冶は国の守護代として多くの兵を抱え、威もさかんである。容易に討つことはできない。
思案の末、経久は、河原者(祭や芸事を行う身分の低いものたち)の賀麻党の頭を召し寄せ、言った。
「汝も知るごとく、我、当国を追い出され、耐え難い思いをしている。何としても塩冶を討って遺恨を晴らしたいのだ。
それに付いて、汝に頼みたいことがある。もし我が本望を遂げたあかつきには、褒賞は望みのままに取らす。」
賀麻の頭は平伏して答えた。
「恩のある何百の侍を差し置いて私どもの如き身分賤しき者を頼りにして頂けるとはこれほどの名誉はございません。
この上は、たとえこの身も一族をも亡ぼそうとも恐れはいたしません。何なりと、御指図ください。」
経久は大いに喜び、言った。
「よし、それならば汝らは正月には富田の城の二の丸で例年卯の上刻から千寿万歳の舞を行っているが
来年の正月は時間を早め、早朝寅の上刻に舞を始めるのだ。
そうすれば、本丸の者共も二の丸へ出てきて舞を見るだろう。我々は城の搦手から忍び込んでおいて
方々へ火をかけながら本丸へ打って入る。その声を合図にして汝らは大手より切り込んでくるのだ。
こうして前後から攻め合わせれば、城を乗っ取ることは容易いぞ。」
賀麻の頭は、これを了解して立ち帰った。

さて文明17年大晦日、経久と山中一党の17人、そして昔の恩義を忘れぬ譜代の郎党56人夜中秘かに
塀を乗り越え大手の合図を待った。
明けて早暁、賀麻の一族70人ばかり城の門外より太鼓を打ちながら千寿万歳の舞を始めた。
城中の者たちは今年は例年より早く万歳の舞が入ってきたぞ!急げ!とばかりに皆して二の丸の大庭に集まり
見物を始めた。
ここで経久以下、所々に火をかけ火事だ火事だと叫びまわる。見物の城兵たちは慌てふためくが
そこに賀麻の一党が烏帽子、舞服を脱ぎ捨てると太刀を構えて切り伏せる。
経久らも賀麻一党も散々に奮闘し、ついに塩冶を討ち取ると城兵は散々に城を落ちていった。

尼子経久、ついに月山富田城を乗っ取り730人ばかりの首をとり、多年の鬱憤を散じることができたのである。

(名将言行録)




163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/01(水) 04:02:10.13 ID:e86knXce
鉢屋弥之三郎とかいう忍者の名前は書いてなかったんだ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 00:30:12.80 ID:6Fgez4Um
>>163
賀麻の頭が鉢屋なんだろうな。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 08:46:15.63 ID:dDxQmTgX
へーだから兜が鉢なんだ

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 09:01:14.64 ID:JMkUl2ZO
忍たまか

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 10:50:11.89 ID:twXKt/gS
山中さんは昔から尼子家臣なんだな 最後まで裏切らないのも納得だ

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 12:46:58.23 ID:n1qb8Zyf
鹿助は先祖の伝説を再現しようとして大失敗した模様

>>167
尼子宗家自体はまだあるのに勝手に別家立てて正統性主張してるからある意味裏切ってる。

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 15:12:28.49 ID:VID8jeDk
軍師官兵衛に勝久と鹿助も出るみたいだね

尼子経久、謀略をもって三澤を討つ

2012年10月01日 20:29

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 19:44:37.94 ID:PJ3s3G8W
出雲守護代を追われ一時期勢力を減退させた尼子経久だが、長享元年(1486)頃にはその勢力を回復していたと
考えられる。しかし出雲国内には三澤、三刀屋、赤穴といった強力な国人たちがあり、彼らは経久の威令に
従おうとはしなかった。しかし容易に攻め従えることのできるような相手ではなく、
これは謀略をもって討つべきだと、寝食を忘れて考えぬいた。
そしてある時、山中勘ノ充と云う者を近づけ、言った

「私は三澤を騙すぞ!汝は智弁人に超えた者であるので、この謀略をきっと成功させてくれると信じる。
私の言うとおりに行動し、三澤を誑かしてみよ!」

そうして詳細を説明すると、山中は「御諚承り候」と、これに同意した。

さて、この頃経久の歩兵に、死罪になるべき重罪の者があった。山中はこれを喧嘩のようにして
斬り殺し、三澤の元へと逐電した。経久はこれに大いに怒り、山中の妻子並びに老母までを捕縛し詰牢に監禁した。
三澤の元に逃げ込んだ山中は二心無くこれに仕え、三澤も彼を不憫に思い召し使った。

そして2年ほどが経った。「いまこそ謀略が成功すべき時だ。」山中は三澤に向かってこんな事を言った

「私は些かの口論によって、経久の澤田と申す徒歩の者を斬りましたが、経久の奴は私の老母、妻子を捕縛し
牢に入れてしまいました。侍の喧嘩口論で相手を討って退転するなどというのは良くあることなのに、
その罪を妻子父母に及ぼすなど未曽有のことであり、無念至極に思っています。

願わくば私に、精鋭の兵200を付けて下さい!
経久の月山富田城は案内を良く知った城です。夜討ちを行い私の鬱憤を晴らしたいのです!
実は尼子の一門の中に3人、私と思いを同じくする方々がいます。ですので経久の頸を討つことはもはや、
袋の中の物を探るに等しい行為だと考えています。」

このようにいかにも頼もしげに語ったため、三澤も大いに喜び、野沢大学兵衛、三澤与右衛門、梅津主殿助、
野尻、竹田、中原、下川といった、三澤氏配下の屈強の兵たち500人を選び山中に付けた。
山中は「謀略、成れり」と経久にありのまま報告する。報告を聞いた経久は「年来の謀略、一時に叶った!」
と喜び、早速伏兵を3ヶ所に置いて、寄せてくる敵を待った。

山中は三澤勢500の先頭に立って、月山富田城へと急いだ。
軍勢が中チカという場所に忍び上がったところで山中「さて、あなた方は暫くここでお待ちください。
私は合流する一族を手引きしてきます。」そう言って一人出ていった。

残された軍勢は、待っている間に一町でも上がっておこうか、などと言っている時突然、
月山富田城の城門が開き一千余の兵が鬨を作って打出てきた!

寄せ手の三澤軍は、今夜の夜討ちの事を敵は察知していないと全く油断していたため、
この不意打ちに「これは何事か!?山中に野心があったのか!?」と大いに驚き、既に逃げ腰に
なっていたが、流石に三澤の郎党の中でも名を知られた者達だけに、みな一箇所に固まり
ひしひしと撤退していった。

が、ここでまた思いもよらぬことに、今度は後ろから敵が突然現れ鬨を合わせて攻めかけてきた!
三澤軍の者たち「これは山中に騙されたのだ!こうなったからにはただ一方を打ち破って
落ち延びるしか無い!」と叫んで撤退しようとしたが、暗闇の中、道もない場所へと入り込んでしまい
更に混乱し、何も出来ないまま討たれるものもあり、谷や穴に落ちて空しく死ぬものもあった。

そんな中でも三澤与右衛門、野澤といった者達は真ん丸となって襲いかかる尼子勢を打ち破りつつ
撤退したが、3ヶ所の伏兵に逢い、野澤大学兵衛、梅津主殿助、野尻、竹田、猪口などの勇士を始めとして
200あまりが討たれ、なんとか生きて逃げ切ったのは、三澤与右衛門、中原、下川ら100ばかりという有様であった。

かくして三澤は多くの家臣を討たれ、その勢力も凋落した所に、経久から「近日中に三澤を討伐する!」
との声が聞こえてくる。これにはもはや耐えられず、三澤は居城である亀瀧城を出て尼子経久に降伏した。

経久は三澤の勢力を併合すると一気に国中に討って出て、三刀屋、赤穴といった有力国人を尽く幕下に従えた。

尼子経久、謀略をもって三澤を討つ、という逸話である。
(陰徳太平記)




664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 19:52:49.78 ID:SHcdWNxn
さすが山勘・・・だが既出っぽい
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2902.html

尼子経久と松吉

2012年07月21日 20:51

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/20(金) 23:21:10.82 ID:sZLh3To0
尼子経久は領内各地で多くの勇士や腕が立つ者を募集していた。
募集に応じて多くの者が集まり、皆腕を競い合った。
その中に松吉、周りからは鬼吉と呼ばれる大男がいた。
松吉は身分の低い百姓の出であったが、六尺五寸ほどの巨躯の持ち主で、鬼のように恐ろしげな容貌を持ち
素手で木を引き抜き、槍を同時に五本振り回し、矢を十本同時にへし折るほどの怪力の持ち主だった。
だが、その豪勇の割に無口で大人しい男であり、何を聞いてもまともに受け答えが出来なかったため皆からは馬鹿にされていた。
経久はこの大男をとても気に入り武士に取り立てようとした。
だが松吉は幼い盲目の妹がいることを理由に断ったため、経久は松吉に心ばかりと米俵を与えすんなりと帰させた。
部下にはそれを咎める者もいたが、経久はよいよいと言い、小気味よさげに見送った。

何年か後、経久は松吉のことが気になって部下に調べさせたが、既に亡くなったという非常に残念な報告が届いた。
松吉が住んでいた周辺は完全に経久の勢力圏で戦もなかったため、どうしてあの豪勇の士が死んだのか
経久は疑問に思い部下に松吉のことを再度調査をさせた。
すると、松吉はその性格ゆえか村人達に非道な虐めにあって殺されたばかりかその亡骸は辱められ
盲目の妹は慰み者にされたあげくに殺されたとの惨たらしい報告が届いた。
豪勇の士を遇することを知らぬ者達のあまりの仕打ちに烈火の如く怒った経久は、即座に虐めの首謀者らを捕らえ打ち首にし
その首を松吉の墓前に供えて霊を丁重に弔ったという。




620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/20(金) 23:39:47.20 ID:o43kAeLP
>>619
後味悪すぎる・・・

松吉には少し障害があったのかな
今も昔もくだらないことで虐める奴いるんだな

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/20(金) 23:48:30.63 ID:TC8d8MTi
大津市もちょっとは見習っとけよ

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/20(金) 23:53:18.29 ID:w5QRtuDg
>>619
毛利元就「同時に折る矢は二本までにしてくれないと…」

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/20(金) 23:59:47.50 ID:vctJrax/
>>622
山中鹿之介「この豪傑さえ十勇士の仲間に入っていれば
毛利の三本の矢など折れたものを」

624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/21(土) 00:51:51.08 ID:MziHLxEh
ちょうど10本!
隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包、二宮就辰

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 01:09:41.57 ID:GcOViNkz
弓になりきれなかった人物までいれるのはどうかと思います

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 01:13:12.50 ID:GcOViNkz
やだ…、弓じゃなくて矢だったわ…

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 02:15:25.60 ID:mD428EP+
あらヤだわぁ

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 03:06:46.68 ID:93gflo4f
経久さんに大津市長やってもらいたい

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 03:09:09.56 ID:mD428EP+
ダバオ市長じゃねぇんだから…

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 07:12:08.70 ID:A8CF7d2X
たしか経久は木を引き抜ける者を別にもう一人雇っていたな。
木を引き抜くのは定番の試験だったのか?

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 08:23:56.75 ID:U/bKkmPx
じゃがいもですら引き抜くにはそれなりに苦労するというのに

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 09:25:12.91 ID:TIG6DBQO
経久さま△

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 12:57:43.05 ID:l/Mg6B08
それでは経久さまさんかっけー、になるのでは

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 13:08:06.99 ID:H4RvnM2W
豪勇の士を遇することを知らぬ者とかそんな生やさしい物じゃないな
人の心を持たないクズ野郎共だ

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 15:54:39.65 ID:k3vcaVJN
非常に痛ましい話だけど、きっちり仕置きした経久様GJ

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 16:06:39.17 ID:qltYteDD
人の心があるからこそ恐怖心から退治したし復活しないよう死体に凌辱を加えたのだろう

忍たまの上級生の鉢屋三郎のモデルとなった

2011年01月03日 00:00

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/01(土) 18:08:51 ID:NiZPC8K6
明日の早朝に講談のこれやるみたいね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-234.html

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/01(土) 21:35:38 ID:Nc40vIBT
>>246
この落語をやるの?
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8419513

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/01(土) 21:39:41 ID:e0UmrO+A
これだな

2011/01/02 05:00~05:30 の放送内容 NHK教育
* 日本の話芸・選 講談「大名 荒茶の湯」
* 一龍斎貞水 ~東京・浅草木馬亭で収録~
出演 【出演】一龍斎貞水
http://tv.yahoo.co.jp/program/80977/?date=20110102&stime=0500&ch=8208

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/02(日) 01:14:57 ID:xEkz75X0
麻上洋子(一龍斎春水)のお師匠さんか





250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/02(日) 01:21:04 ID:JbNqF8I4
忍たまのしんべヱ(一龍斎貞友)のお師匠さんか
そういや、忍たまの上級生の鉢屋三郎のモデルとなった鉢屋弥之三郎という忍者が
尼子経久の命令で元旦に富田城をのっとった、てさ

無理矢理戦国ネタとつなげてみた





251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/02(日) 10:12:09 ID:9GcPxagR
忍たまの作者も尼子ってペンネームだよね