475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/07(月) 16:44:25.42 ID:BqGHKMK4
山陰騒動多かりければ、京都より、尼子・毛利の和睦の勅使として、三宝院僧正義堯が派遣された。
しかし両軍、累年の遺恨が募る上は勅意を容れず、月日を移していた所、尼子右衛門督晴久が逝去したが、
その跡を子息の三郎四郎義久が継いで、なおも合戦は止まなかった。
このような所に、晴久(義久の間違いか)は内々に、備後の住人である和智又九郎豊郷(誠春)と
親しみ深く、彼と策を用い、永禄六年八月四日、毛利隆元を毒殺した。
これによって陸奥守羽林(毛利元就)は憤激し安からず、怨敵への憤りはいよいよ増し、
勅使も空しく帰っていった。
『雲州軍話首』
毛利隆元毒殺説ですね
476 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/08(火) 17:18:06.63 ID:VXO61z9T
『史籍集覧』の第百八十六に「雲州軍話首」とあるが、冒頭には「雲州軍話の首(序)」と書いてあるだけなので
書名は「雲州軍話」が正しい。総目解題でも「雲州軍話」。
著者は南宗軒多々良一龍(後太平記作者)、尼子視点で書かれたとのこと。
山陰騒動多かりければ、京都より、尼子・毛利の和睦の勅使として、三宝院僧正義堯が派遣された。
しかし両軍、累年の遺恨が募る上は勅意を容れず、月日を移していた所、尼子右衛門督晴久が逝去したが、
その跡を子息の三郎四郎義久が継いで、なおも合戦は止まなかった。
このような所に、晴久(義久の間違いか)は内々に、備後の住人である和智又九郎豊郷(誠春)と
親しみ深く、彼と策を用い、永禄六年八月四日、毛利隆元を毒殺した。
これによって陸奥守羽林(毛利元就)は憤激し安からず、怨敵への憤りはいよいよ増し、
勅使も空しく帰っていった。
『雲州軍話首』
毛利隆元毒殺説ですね
476 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/08(火) 17:18:06.63 ID:VXO61z9T
『史籍集覧』の第百八十六に「雲州軍話首」とあるが、冒頭には「雲州軍話の首(序)」と書いてあるだけなので
書名は「雲州軍話」が正しい。総目解題でも「雲州軍話」。
著者は南宗軒多々良一龍(後太平記作者)、尼子視点で書かれたとのこと。
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