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はたして後日、言葉の通りに成った

2019年08月30日 17:30

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 11:10:23.81 ID:E1FdUgeV
山中鹿之助は往古、武辺場数類ない武勇の武士であった。ある日、合戦が済んでその日初陣の若武者二人が
鹿之介の前に来て、先ず一人が尋ねた

「私は今回の初陣で敵と鑓合わせをした時、兼ねて思っていた事とは違い、敵に向かっては先ず震えを
生じ、目指す敵をしっかりと見ることも成り難く、仕合せに踏み込み、鑓を付けて首を上げたものの、
その鎧の縅毛(小札を結び合わせる糸や革)の色も覚えていません、初陣というものはこういうものなので
しょうか?」

鹿之助はこれを聞くと
「今後も随分と努力し給え。あっぱれ武辺の人と成るだろう。」と答えた。

もう一人はこう申した。「私はそのようには思いませんでした。」目指す敵と名乗りあい、敵は
何縅の鎧で、何毛の馬に乗っていた事、鑓付けした場所、その他鮮やかに語った。
これにも鹿之介は同じように答えた。

この両人が席を立った後、傍に居た人がこの論を鹿之介に尋ねた所、
「最初に尋ねてきた若侍は、何れ武辺の士と成るだろう。しかし後に尋ねてきた者は甚だ心もとない。
もしかして彼が取ったのは拾い首では無いだろうか。それでもないのであれば、重ねての戦では討たれてしまう
だろう。」

そう言ったが、はたして後日、言葉の通りに成った。

鹿之助の申すには
「私などは初陣、或いは二,三度目の鑓合わせは、最初の若侍が言っていたように、震えを生じ、目を開いて
向こうを見られるようなものではなく、ただ一身に向かって突き伏せようとと思い、幸いにも首を取ったのだ。
度々場数を踏んでこそ、戦場の様子も知られるように成るものなのだ、」と語った。

(耳嚢)



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 11:12:40.31 ID:J8zxYW+w
清正にも似たようなのあったな
新兵にはお決まりの症状だったんだろうな

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 12:15:23.34 ID:hFSa9L6j
氏郷最強か

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 15:12:04.98 ID:o37TWyNP
鬼武蔵は後者のほうだろうなあ
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天野隆重の方便

2018年07月25日 21:37

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 23:01:39.02 ID:EyEJGJF5
永禄12年、尼子勝久、山中鹿介らによる尼子再興軍が出雲に乱入した時、富田城は天野紀伊守隆重が、
わずか300余りの兵で守っている状況であった。
天野は尼子と一戦すべしと思っていたが、尼子軍6000余りに対して自分たちは300であり、
思いに任せて合戦し、損じてしまっては口惜しく、しかし一戦しなければ武辺が拙い事を誤魔化したのだと
言われてしまうと考えた。そこで、尼子方の秋上伊織に使者を出して申し述べた

『尼子勝久が当国へ入られ、諸人皆御味方へと参る中、我一人が当城を守るなど、蟷螂の斧の如きものである。
然らば、尼子による毛利家御退治の後、我が本領に加え五万貫の所領をあてがうことを約束していただければ、
明日にでも城を明け渡すであろう。

しかしながら、無碍に城を明け渡せば我が武名は長く廃れ、芸州の妻子達は全員頸をはねられるであろう、
それも口惜しいことである。

そこで明朝、そちらの軍勢が切岸まで寄せてほしい。そこで我らは防ぎかねたる体にて本丸に引き退き、
和平を仕って城を明け渡し芸州へ帰り、そこで尼子軍の芸州への御発向を待って旗を揚げるであろう。』

これを秋上伊織が山中鹿介へ報告すると、鹿介「これは勝久様が御運開かせ給う瑞相である!」と
急ぎ勝久に披露し、すぐさま秋上伊織を大将と定め、疋田、遠藤、岸、池田、相良、有村以下二千余騎にて
富田城へ押し寄せ、七曲を一息に駆け上がり切岸へと到着した。そこでかねての約束を信じ油断して
待ち受けていた所、この様子を見た天野隆重は「方便にかかった」と喜び、矢狭間を開け、射手を揃えて
想いのままに射させた所、敵はこの予想外の攻撃に慌て、早くも多くの死傷者が出て、引き色が見えた
所で、隆重は「時分良し!」と彼の三百あまりの人数を朝霧の中から突撃させた。
これを敵は一支えも出来ず、大勢が討ち取られ、我先にと逃げ退いた。

山中鹿介らは、天野隆重に謀られ諸方の笑い者とになったこと口惜しいと大変に怒ったという。

(安西軍策)



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/25(水) 07:58:35.02 ID:YKRKfBFg
>>945
これ、小説だと、秋上が功にはやって受け入れる、山中は怪しいと止めるエピになってるよね。
秋上がその後裏切るのはこの時の不面目を引きずったからとか。

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/25(水) 21:35:10.44 ID:BEZvxerT
俺が30年以上前に見た山中の伝記じゃ秋山が看破で山中が騙されるだった
それ以降秋山は尼子復興は無理と判断し吉川に降る

950 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/26(木) 07:02:23.83 ID:P8oD2fN8
天野隆重「かかったな!アホが!」

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/26(木) 12:44:58.47 ID:9WnOU9Er
フフ…火薬入りの茶釜は…痛かろう

【web記事】古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨

2018年05月16日 21:35

755 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/16(水) 17:18:18.01 ID:u9u3Mv61
山中鹿之介の最期と埋葬地について記事があったのだが、どうやら未出の様なので貼っておく
記事はかなり長いので各自読んで見られたし

古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4952




760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 22:12:53.29 ID:7w2utxgu
>>755
荼毘に付したとされているのに、原型をとどめた遺骨がでてきてるのおかしくね。
実は、弥生時代の人骨なんじゃ?

761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/16(水) 22:35:56.88 ID:riG18fly
>>760
現代だと密閉した火葬炉が有って重油などの燃料を使った火葬が一般的だけど、戦国当時は野焼きの方が一般的だったみたいだから遺体の焼き上がり方や炭化の度合にも差が出たとか?

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 12:51:36.94 ID:Hj+5d5xo
あの時代に火葬なんてしたの?

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:16:12.68 ID:ck0GM2gO
>>762
平安時代以降、貴族ですら普通に火葬してる。
貴族の場合、火葬した場所に火葬塚作る。

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/17(木) 13:17:34.43 ID:vJ5I+qQ+
>>762
鎌倉室町で火葬が一般に普及して明治の廃仏毀釈の際、一時的に土葬になったらしい

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:22:47.97 ID:C9wJF8gd
後の時代からすれば土葬が色々細かいことが分かって助かるんだけどねえ
疫病と土地の関係で生きてる人間の都合からすれば火葬一択なんだけど

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:52:18.28 ID:Hj+5d5xo
>>763-764
ありがと~、時代劇なんかだと桶に遺体入れてたから土葬のイメージだったわ。

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/17(木) 14:20:48.56 ID:h59oOBe5
>>765
そう言えば秀忠は土葬だったから戦傷とかで、実は前線での戦闘経験もある武人肌の大将だと分かったんだっけ

尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ ~美甘塚由来~

2016年10月03日 14:56

150 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/03(月) 01:38:24.33 ID:Om5w01zA
尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ ~美甘塚由来~

1571年、吉川元春の軍勢6000に囲まれた山中鹿介と神西元通の籠る末石城。
僅か500程度の城方に対し三層の櫓を組むと石礫や鉄砲、矢を撃ち込み攻撃する吉川勢。
守る城方も土塁を築き必死に抵抗し、3日に渡り激戦が続いた。
その中、吉川勢は和議の使者として地元の所子と言う所に住む美甘与一右衛門(みかもよいちえもん)と言う血気盛んな勇士を送り込む。
毛利氏の依頼を受けた美甘与一右衛門は目付の中原善左衛門と共に城へ入るが、和議に刀は不要と入り口で刀を取り上げられた。
交渉は順調に進み、和議成立となり歓待の宴が開かれる。宴も終わり、2人が退出しようとしたところ城方の兵士は不意に美甘と中原に斬りかかる。
未だ刀を返されていなかった美甘は身近にあった石を手に立ち向かうが、敢え無く中原と共に討たれて死んでしまう。
数日の後宍戸隆家、口羽通良を通じて城方は降参を申し出た為吉川元春は城を受け取った後、亡くなった美甘与一右衛門の義を讃えると共にその死を悼み、碑を建て厚く葬った。
現在も末石城跡には美甘塚が残り、美甘家の人が与一右衛門が城方に立ち向かった時の石を力石として碑の近くに保存供養を続けているとの事である。

当地に残る美甘塚の案内板などより



151 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/03(月) 06:46:55.58 ID:FrR4NjML
>>150
中原「ワシは何回死ねばええんじゃ…」

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/03(月) 19:18:04.90 ID:+ZXcHLbM
>>150
未だに供養が続いてるって凄いな。

神西元通の変心と中原善左衛門の忠死

2016年10月02日 15:27

140 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:27:18.87 ID:6qfdtbzd
神西元通の変心と中原善左衛門の忠死

伯耆の国、末石城の城将神西元通は元は尼子十旗の一つで第七、出雲神西城の守将であったが
毛利家の出雲侵攻の際に降服し、月山富田城の落城後は毛利家の命で毛利の目付中原善左衛門と小寺佐渡守とともに、
伯耆の末石城に籠っていた。

1569年、毛利家が北九州立花で大友家との争いを繰り広げていたころ、その隙をついて
尼子勝久を擁した山中鹿介・立原久綱らの尼子再興軍が海路より出雲へ侵攻を開始。
島根半島に上陸して忠山の砦を占拠した尼子再興軍はそこから尼子旧臣らに檄を飛ばしたところ、
同心するもの数多く、尼子再興軍は急激にその勢力を拡大していった。

そんな中、神西元通は末石城に籠り沈黙を保ったままであったがある日、山中・立原の両将から使いが訪れる。
そして扇を出すと「これに一筆頂きたい」と言う。何故か?と問う元通に使者は
「山中殿・立原殿がおっしゃるには、『尼子家に人は多いが、神西殿とは特に朋友の契り浅からず。
今は敵味方となってしまって簡単に会うことはできないが、昔のよしみは忘れられず、懐かしく思い出される。
人の思い出としては、筆跡以上のものはないという。
神西殿はなかなかの名書家であるから、何でもいいから一筆書いてもらってきてほしい。
顔を合わせていると思って筆跡を見たい』とのことです」

と、鹿介より言付かった通りに返答すると、元通は「山中・立原との昔のよしみは深く、私にとっても忘れ難いならば一筆書きましょう」
と答えると扇に「ふるかう小野の本柏」とだけ書いて使者を返した。これを見た鹿介と立原はこの歌が古今和歌集の、
『石の上ふるかう小野の本柏もとの心は忘られなくに(いその神ふるから小野の―本の心は忘られなくに)』
から来ていることを見て、元通に脈ありと見て再度使者を送ると、案の定元通は尼子再興軍に味方することを約束して使者を返した。

141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:28:20.59 ID:6qfdtbzd
神西元通はこの事を表に出さず固く秘して隠していたが、いち早くこれに気付いた者が居た。
毛利から目付として付けられ一緒に末石城へ籠っていた中原善左衛門である。
彼は吉田郡山の戦いで一矢にて尼子経久の弟である尼子久幸を討ち取るなど、歴戦の勇士であったが
また智にも優れた者であった。

中原は神西元通の変心に気付いたがそ知らぬふりをし、密かにかつ迅速に対処しようと同じ目付の小寺佐渡守を呼ぶと
「神西について何か気付いたことはないか?」と尋ねた。小寺は「何も気付いたことはない」と答えた。
中原はそれに「いや、神西はどうも逆心を抱いているように見える。しかし、何の証拠もなしに彼を討っても胡乱の極みと人から笑われるだろう。
そう思い見過ごしてきたが、このままでは神西はそろそろ事を起こし、私と貴方を討ち果たそうとするだろう。これまでは無闇に波風立てまいと貴方には
黙っていたが、もう神西の逆心は疑いなく思えたので貴方に教えたのだ。私はここで神西と刺し違えて討ち死にしても元就様の厚恩に報いようと思う。貴方はどうだ?」
と、尋ねると小寺はつくづく思案して「中原殿の覚悟、実にその通りだ。だがこの城で無駄に討たれても意味なく思う。だから命を全うし、再び元就様の役に立ちたいと思う。」
と答えた。

中原は冷笑し「あなたの言うことはもっともだ。今ここで討たれて勝久へ首を捧げられるのは実に悔しい。
しかし一隅を守る私は何の才覚・智謀なくこの城に籠った日から神西に野心あれば刺し違え、
毛利に忠を尽くし敵に囲まれるなら神西と共に自害せよと命じられたと考えている。だから気にすることはないのだ。
あなたは命を全うしして、五百八十歳まで生き永らえるとよろしい。
私は死して善道を守り、忠義の名を子孫に残そう」と言った。

小寺はやがて神西に「両足を痛めたので、牛尾の出湯に入って養生したい」と暇を請うた。
神西は「好きにするといい」と言うので、小寺は喜んで、すぐに城を出て逃げていった。
しかし芸陽には帰れず、豊後へ渡って大友金吾入道を頼り、また老後になってから本国に帰ってきたという。
(異説では軍議の為、城を出て安芸へ向かったとも言われる)

この後中原は神西と刺し違えようと思い決めていたが、証拠もなしに神西を討てば人々から
『中原自身の思慮が足りずに、さしもの忠功の神西と刺し違えたのだ』と口さがなく言われるに決まっている。
どうにかして、神西が私を討とうと目の色を変えたときにこそ、一打に斬るしかない。
あの小男一人なら、掴み殺すのも簡単だと思って今まで放っておいたが、
もし私が討たれてしまえば、私が油断したから易々と討たれたのだと、
人々はあざ笑うだろう。これも口惜しい」と思った。
それでこのことを詳細に書き記すと、「妻子に伝えよ」と、下人一人を故郷へ帰したのだった。

こうして中原は、神西の反逆の証拠があれば一刀のもとに切り捨てようと考えて、心を許さずにいた。
神西もなかなかのつわものなので、少しも態度に出さずに時が過ぎていったが、
あるとき神西は、同朋(近侍の僧体の者)の林阿弥という者と中原の囲碁対戦を所望した。
中原は「よろしいですとも」と答えて神西のところへと向かう。

神西は碁を討っているそばからのぞくように見物して、
指を折りながら「十、二十、三十、四十」と数え、
「そこに打って取れ、ここの石を拾え、投了させるな」などと言っていたが、
「そこで切れ」というのを合図に、討手にキッと目配せした。
神西が林阿弥に「切れ」と言ったのと同時に、討手の者たちが抜き打ちにそばから丁と切る。
中原は前から覚悟していたことだ。自身も屈強な太刀の達者であったので、碁箱でもって受け流し、
一尺八寸の脇差を抜いて討手の眉間を二つに切り破る。
二の太刀で碁の相手の同朋を袈裟懸けに切り捨てる。
その際に神西は中原の左手をしたたかに切った。
中原は切られながらもスッと立って打ち払い、八面に敵を受けながらしばらく戦って、
数多くを切り伏せまたは怪我を負わせて、自身もぼろぼろになって死んだ。
勇といい義といい忠といい、まさに類まれな者だと、これを聞く人は皆たいへん感心した。
神西も情けのある者なので、これまでのよしみが忘れがたいと、中原を手厚く供養したとのことだ。
(陰徳記)

142 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:49:09.71 ID:6qfdtbzd
ちなみにこの中原善左衛門であるが、末石城跡とされる場所にある碑には
この逸話の2年後の1571年に吉川元春が末石城を囲んだ際、和議の使者となった
在郷の勇士と共にその目付として城に入り、和議成立を偽装した城方に寄って騙し討ちされ
退去の際に丸腰の所を使者と共に斬られたとされている。



143 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 03:18:36.35 ID:7qJmlchd
林 阿弥「解せぬ」

山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

2014年04月15日 18:40

970 名前:山口きらめーる2013年12月13日号 vol.263より[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 21:58:40.19 ID:2gIipmt1
山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

1578年7月、3月に渡る吉川元春の包囲の前に上月城に籠る尼子再興軍は降伏。
総大将、尼子勝久の自刃を条件に将兵は助命を許される。
10年間、尼子再興軍の実質的指導者であった山中鹿之助も命は助かり、降伏の際
吉川元春に周防に3000石を持って迎えられる事を約束された(三卿伝(さんきょうでん)史料「御答書」による)
ものの、備後の国鞆に在陣中の毛利輝元の前に移送されることが決まる。

この際、鹿之助は先を予見したのか尼子再興を諦めた故かは解らぬが、共に戦った仲間に最後の手紙を残していた。

「永年の苦労と忠義は少しも忘れはしない。だからもうどこへでも奉公してよい」
(続く)

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:03:42.18 ID:2gIipmt1
(>>970続き)
しかし、その直後、鞆への移送の際に尼子再興を諦めぬ鹿之助の執念を恐れた元春によってか、
降伏の条件を知らぬ毛利家の手によってか、いずれにせよ鹿之助は護送のさ中に
備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)で殺害され、その生涯を終える。

先の三卿伝によれば吉川が助命した条件を毛利が知らず、その為に毛利の手により
鹿之助は殺害されたとされ、その死を知った吉川は好敵手の死を哀れみ、その形見と
なった鉄錆十二間筋兜と鹿之助最後の書状を家宝として秘蔵し、今に伝える(吉川資料館蔵)こととなる。

好敵手を讃え遺品を家宝として残す良い話だけど、吉川家と毛利家の報連相が悪いお話。





秋上伊織助、山中鹿介の対面

2013年10月28日 19:48

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:38:39.15 ID:fwUAutZf
じゃあいおりんの話でも。

出雲の国の大宮司、秋上家は無二の尼子方だったが、
勝久が「もし本意を遂げて出雲に入れたら秋上・山中を執事とする」と約束していたにもかかわらず、
次第に山中鹿介の方針ばかりを重んじるようになって、
伊織助の父、三郎左衛門尉は不満を抱いていた。
そこに吉川元春から「うちなら優遇するよ」と揺さぶりがかかった。
三郎左衛門尉は渡りに船と喜び、毛利家に味方する決断を下した。
勝久は慌てふためいたという。

さて、嫡子の伊織助は、たった一人で鹿介の宿所に赴き、面会を申し入れた。
何の警戒もせずにすぐに出てきた鹿介に対し、伊織助は
「こんなことになってしまってから会いに来るなど、面目もない。
 しかしあなたとは少年のころから仲良くしていて、死ぬならともにと約束した仲だ。
 それなのに、愚父は毛利家に属すと決めてしまった。
 明日からは敵になる。こうして会って話をすることもできなくなる。
 あなたとは朋友としていつまでもともにいたかったのに、残念でしかたない。
 これまで仲良くしてくれてありがとう。お別れを言いたくてここまで来たのだ」
と言った。

鹿介は答えた。
「侍は渡りものだ。あなたの父の決断は無理もない。
 あなたは少年のころから私の話し相手だった。今でも断金の友だと思っている。
 あなたが親とともに行動するのを、どうして恨みに思うものか。
 今日ある命も明日には知れないのが武家の習いだ。
 さあ、別れの盃を重ねよう。
 私は明日から、伊織殿を討つための謀略を練る。
 あなたもまた、私を殺す算段をするといい」

二人は盃を出して取り交わし、さしつさされつたっぷりと飲みおさめた。
「ではこれまでだ。明日は戦場の塵となるとも、互いに旧交は忘れまい」
互いに手に手を取り、涙にむせんで立ち別れた。

伊織が森山の城に帰った後、鹿介らは秋上の所領に夜討ちをかけた。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:46:53.13 ID:fwUAutZf
スマヌ、いおりんはミスタイプでした……orz
あと既出チェックしてなかった。
重複だったら切腹で許して。




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:52:50.52 ID:dbBhaRGm
>>603
イイハナシダナー

そして尼子再興軍の事

2012年08月15日 18:03

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 13:31:28.86 ID:9/8v8C50
尼子氏と言えば、大河ドラマ『毛利元就』の影響から緒形拳の尼子経久で知るか。
『信長の野望』で戦闘能力は高いが知謀があり得ない程低い尼子軍団を思い浮かべるか…

そして尼子再興軍の事になると、どうしても山中鹿介の存在感が大きく鹿介ありきの再興軍に見え
毛利氏に負け続きで、鹿介の七難八苦発言もあり尼子再興軍=鹿介=ドMとネタにされる始末
再興軍のリーダーである尼子勝久はただの神輿か何をやっていたか良く解らない人もいるかもしれない。
立原久綱や山中鹿介に持ち上げられて本人にその気は無かったんじゃないかor人質の尼子義久からしたら堪ったもんじゃない、などの意見もある。

出典は『陰徳太平記』で資料としては改竄もあり必ずしも1級資料とはいえないが、尼子勝久の言葉を記しているものがある

舞台は1578年、播磨国において、毛利軍と羽柴軍が鬩ぎ合いをしていた
前線の要であった上月城にいた尼子再興軍に織田信長は撤退を促したが(見捨てたとも)
尼子再興軍は敢えてこの場に残る事を選んだ。尼子勝久は降伏し、その時に家臣に伝えたとされる言葉がある。

尼子勝久『法衣をまとって一生を送るべきはずであった自分を一度は尼子の大将にしてくれたことを感謝する。
     今後は命を永らえ、命を大切にするように』

享年26歳 尼子勝久はタダの神輿ではなく紛れも無く武士であった
逸話の信憑性はともかく、この勝久の言葉があるからこそ尼子再興軍が徒花とならずに済んだと言えるだろう。




85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 14:03:19.90 ID:/Lh96GhQ
尼子と言えばアマゴワクチンとか八つ墓村だろ…(´・ω・`)

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 15:52:35.81 ID:GUXbvUuR
このコピペ思い出した

鹿之助「勝久殿、勝久殿は尼子家を最高する石はお持ちでござるか」
勝久「えっ」
鹿之助「尼子家最高の石でござる」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「勝久殿はまだお若いですからな。 …それに勝久殿の境遇を考えれば仕方のない事か」
勝久「いくつになったらもらえるんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「としをとればもらえるということなんでしょうか」
鹿之助「何がでござるか」
勝久「最高の石が」
鹿之助「いえ、最高の石とは人から譲り受けるものではなく自らが生むものでござる」
勝久「なにそれこわい」
鹿之助「えっ」
勝久「うむのはいたくないんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「ああ…確かに我々には七難八苦があるでしょうがその先にあるのは尼子家最高でござる」
勝久「そうなんだすごい」
鹿之助「……勝久殿、どうか我々に力を貸してくださらぬか」
勝久「なんだかおもしろそうだからいいですよ」
鹿之助「おお勝久殿、ついに尼子家を最高する石を持ってくださったか!」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 16:54:25.75 ID:AJBbdbwE
この前尼子家の本拠月山富田城行ってきたけど険しすぎ
本丸から晴久の墓に向かう道はどうなってんだあれ

伝・山中鹿之助奉納

2011年08月22日 22:59

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 13:33:50.18 ID:Nl0TbRdq
瀬戸内水軍の本拠地大三島には日本総鎮守こと大山祇神社があって、戦国時代の有名人もたくさんの武具を奉納している。
毛利家はもちろん大内家、河野家、秀吉など、瀬戸内で戦った一族は一通り。
さて、そんな中に一振りだけ、どう考えても不自然というか、お前はなぜここに来たと言いたくなる人物がいる。

伝・山中鹿之助奉納

大山祇神社の宝物館に行くと、こんな刀が展示されている。
何かにつけて神仏に祈ってるイメージの鹿之助だが、もろに毛利の影響下にある
当時の大三島まで行って尼子再興を祈ったのかと思うと感慨深い。
さすがは全三島大社の総本山、日本総鎮守……と言いたいけど、時の支配者の
敵対勢力の残党から武運長久を祈られる側はいい迷惑だったろうな。




175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 19:04:03.85 ID:javTJQiQ
まあ、大三島支配してた能島村上氏も
厳島の戦いからずっと毛利家一筋ってわけじゃなくて
元就死去前後に大友や三好と通じて、その死後に毛利へ反抗したりしてるから
その頃に鹿之助が渡ってた可能性もあるな

山中鹿介「勝つも負けるも戦の習いです」

2011年08月03日 23:01

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/03(水) 02:01:02.22 ID:mYcU0O1W
山中鹿介は一旦は尼子勝久に組しながら、反旗を翻した隠岐の豪族、隠岐為清の討伐に立原久綱と向かったが、
逆に散々に打ち負かされたが、松田誠保と横道正光のお陰でどうにか勝利を拾う事が出来た。
しかし勝久は鹿介と久綱に気を使い、誠保と正光に両名の戦功を認める感状を出さなかった。これを聞いた鹿介は

「賞罰を明らかにしなければ兵が力を発揮しなくなります。また、我々は敗れて逃げましたが
 全く恥にはなりません。勝つも負けるも戦の習いです。」

と勝久に説いた。そして鹿介自らの手で誠保と正光に感状を手渡した。これを聞いた者は皆、鹿介を賞賛したという。
山中鹿介、25歳頃の逸話である。




966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/03(水) 11:25:05.24 ID:sMv+uxZq
戦国鍋のキャバクラに来ていた人だな

和歌で旧友の心を

2011年04月18日 00:04

21 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/17(日) 00:34:05.59 ID:HWUGbquR
尼子一族の一人である尼子勝久を擁立した山中鹿介は、当時毛利家に仕えていた尼子の元家臣で、真っ先に
合流するはずと考えていた神西元通から何の連絡もないことを不審に思い、叔父の立原久綱と相談して
本心を探る為に使者として僧を派遣した。
僧が扇を差し出しながら

「山中殿と立原殿は、神西殿と盟友でしたが、今は敵味方に分かれ会う事も難しい。お二人は、ここは
一筆頂いて本人と 対面しているかの様な気持ちでそれを眺めようとおっしゃっていました。」

と述べると、元通は

「古柄小野の本柏」(ふるかわおののもとかしわ)と書いて与えた。

これを受け取った鹿介と久綱は、扇の文句は

「石の上 古柄小野 本柏 もとの心は 忘れなくに」

という古歌の一節で、元通は旧交を忘れていないのだと判断。再び僧を派遣したところ、元通は尼子再興軍に
参加する事を表明したのだった。 以上、和歌で旧友の心を知るお話。




山中鹿介、ただ一人で立ちむかう

2011年03月31日 00:02

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 21:13:44.47 ID:+Y7rM1H9
>>551にも山中鹿介の話が出てるけど、名将言行録が出典の話では、冒頭部に出てくる
毛利の騎馬武者の一団を相手に、鹿介がただ一人で立ちむかう話が好き。

永禄五年(1562年)七月、毛利勢、出雲に来襲。
しかし、決戦を挑む尼子義久に対して毛利勢はまともに取り合わず、稲や麦を刈り取る破壊
工作を行うばかり。

毛利勢の死体の山を築いてくれる、と意気込む鹿介は民家に一人ひそんで好機を待つ。
そこに現れた毛利の騎馬武者3,40騎。

当時、山中鹿介17歳。
若いが、8歳の時には既に人を殺した経験があるというこの男は動じない。

鹿介が騎馬武者の一人目を切り捨てた後、馬から降りて向かってきた二人目に一撃をくれると、
相手は木っ端微塵になって谷底に落ちていったという。
(真っ二つとかじゃなくて「微塵になる」と記されていて、この表現が素敵)

その後、縦横に切り結んで16,17騎ほど倒すと、さすがに生き残りは退散。

それを見届けた鹿介は、近くの民家でご飯を奢って貰って悠々と月山富田城に戻っていったという。

こういうエピソードがあるんだから、無双やBASARAみたいなゲームでもっと注目されても
おかしくないと思うんだけどね。




諸国視察の山中鹿介

2011年03月28日 00:00

551 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/27(日) 02:35:49.51 ID:Jt1yn6el
毛利家に没落させられた尼子家の再興を目指し、諸国の有力大名を視察する旅に出た山中鹿介
近江国番場(現在の滋賀県米原市)に訪れた際、

「自分は出雲の浪人である」

とだけ告げてさる老僧の世話になっていた。ある日、10数人の無頼漢達が

「何か食べ物を寄こせ!」

と庵に立ち入ってくると、鹿介は

「邪魔だ、さっさと出て行け!」と一喝。

その上で、彼らが強盗で、再びこの庵を襲撃してくるだろうと考え、罠を仕掛けておいた。
その夜、案の定、強盗達が押し入って来た為、罠を駆使して全員を生け捕りにしたものの、
仏前での殺生をためらい、老僧と相談して逃がしてやる事に決めた。すると、強盗の頭目が

「貴方様は、只者ではないでしょう。何か大望を思い立たれた時に馳せ参じたいので、名前を教えて頂きたい。」

と願い出ると、鹿介は

「何を言ってる。庵の食客が何を思い立つというのだ。」

とはぐらかしたが、この一件が噂になるにつれ、自分の正体が明らかになると面倒だと考え、
鹿介は庵を立ち去ったという。




555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 11:52:20.73 ID:LgQ7s0pL
>>551
そうやって仲間を増やそうとしないから何度も負けるんだよ!

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 11:55:52.08 ID:xLHeGSGW
>>555
漫画の見すぎw

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 12:09:04.82 ID:e64FFxsb
盗賊集団に名と尼子家再興の志を打ち明けても、
盗賊集団「山中さまと立つより、毛利に売ったほうが得だな」
となる可能性もあったからじゃないか?

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 12:10:39.83 ID:xLHeGSGW
>>557
八つ墓村思い出すのでやめてくれ・・・

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 12:12:15.26 ID:ajbCM5qm
一人で十数人の賊を生け捕るとかすごすぎるだろ ハリウッド映画化決定