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転生したらお殿様だったでござる の巻

2022年02月23日 15:46

42 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/22(火) 20:55:29.29 ID:V3AWK7vN
転生したらお殿様だったでござる の巻

どこかで見たこと有るようなタイトルだとかそういうことは置いといて、
四国・高知の足摺岬には足摺七不思議と言われる場所がある。

今日はその11番場所である「犬塚」(犬の墓)に伝わる話を物語りたい。

七不思議なのに11番ってどういうことだよ あーっ

と思った貴方、足摺の七不思議は21あると言われているんだ。悔しいだろうが仕方が無いんだ。
土佐清水市のホームページにも※七不思議とは、不思議が七つあるという意味ではなく、多くの不思議があるという意味です。

と記載があるので言葉の意味はよく分からんが、とにかく足摺の七不思議は21あるんだと覚えておけばいいと思います。知らんけど。

さて、当地の看板には以下の様に記されている。

その昔、日の本が乱世の時代のこと、この地には一人のお坊様がいらっしゃった。
乱世を嘆くお坊様はある日、一つの願いを掛けて足摺岬から飛び降りたとも、補陀落渡海に出たともいわれている。
その願いはこうである。
「この乱世を立て直すため、一国一城の主となって生まれ来たらん」

お坊様はこういうと手のひらに南無阿弥陀仏の文字を書いて握りしめ、断崖から飛び降りた(または補陀落渡海に出た)という。

このお坊様を慕う一匹の犬がおり、犬はお坊様が姿を消したあと、その場を一歩も離れず飲まず食わずでその場にとどまりお坊様を待ち続けたという。
そして、遂にはその場で犬は息絶えてしまい哀れに思った近隣の村人たちはその場所に犬塚を建てたのだという。

それから幾百年の時が過ぎた・・・。

この土佐の地を治める殿様の手のひらには黒い生印があった。殿様はこの話を聞いて自分はこのお坊様の生まれ変わりではないか?
と、思うようになったという。その殿様の名は・・・

                 山

                 内

                 忠

                 義

土佐山内家の二代藩主にして、土佐の大酒豪様であり幕府の破戒者である。
江戸城で酒宴があれば飲み過ぎてゲーしたり二条城で酒を飲めば帰路、駕籠に仁王立ちになって京をの大路を練り歩き、
紀州徳川家屋敷で飲んで鎌髭の男を見れば髭を掴んで離さない悪絡み・・・

太平の世を築くことを願って足摺から飛んだあのお坊様は幾百年の月日を経て、この様に立派な酒らn・・お殿様に生まれ変わって土佐に戻って来たのである。

んなわけねーだろ
と言いたいところであるが、本人がそう言っているのでそういうことなんだろう。ひょっとするとこの話を聞いた際は一杯飲んだ後だったのかもしれない。
もしくは寄付するための口実というかその場のノリとか勢いだったのかもしれない。

(素面の時の)山内忠義公は足摺山金剛福寺を深く信仰し、度々参拝に訪れ本堂・仁王門・十三重の塔など数多くの寄進を行っている。
そしてこの時以降、金剛福寺は山内家と同じ三ツ柏の家紋を頂いているのである。

土佐清水市 足摺の七不思議
https://www.city.tosashimizu.kochi.jp/kanko/g01_7fushiji.html
足摺の七不思議|足摺国際ホテル
https://www.ashizuri.co.jp/sightseeing/nanahusigi.html

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/22(火) 21:04:59.71 ID:V3AWK7vN
山内忠義公の酒が入った時のお話はこちら

山内忠義と鎌髭のお話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13087.html
山内忠義の酒豪伝説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13157.html



45 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/23(水) 04:57:47.34 ID:fLcecSJp
第38番札所 蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺
https://88shikokuhenro.jp/38kongofukuji/
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仙石久勝最後の戦い

2021年09月29日 18:37


624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 22:41:21.23 ID:4mwlR5+s
仙石久勝最後の戦い

悪い話スレ>>63の続き

寛永15年元旦(1638年2月14日)、板倉重昌による原城への総攻撃は失敗に終わり総大将・板倉重昌は討死、
総攻撃に参加した諸藩の兵も4千に達する死傷者を出した。

土佐藩・山内忠義から派遣された使者の雨森九太夫をはじめとする手勢も多くの損害を出し、使者代表の雨森九太夫自身も一揆勢の銃弾で重傷を負ったため、
翌1月2日に着陣した仙石但馬久勝と土佐藩使者代表の役割を交代し、本国土佐へ帰還することになった。

ここで仙石久勝の素性を紹介したい。彼の弟はかつて三国一の臆病者と謳われた仙石権兵衛秀久である。福島正則に仕えて広島藩・三原城番を務めた
人物でもある。福島家が改易となった後は広島城受け取りの役を果たした土佐藩主・山内忠義に招かれ土佐藩の中老となっていた。
この度の土佐藩使者として、子息3名(嫡子・左近、二男・勘兵衛、三男・八左衛門)と忠義の馬周り・毛利久八と5名の飛脚に多数の兵を連れ島原へ赴いていた。

さて、久勝は同時期に島原へ着陣した正使の幕府老中・松平信綱、副使・戸田氏鉄に面会するとこう申し出たという。

仙石久勝「我ら土佐藩兵に一所攻め口を与えていただきたい。」

先の総攻めに参加した雨森九太夫同様、久勝も一揆勢への攻撃に加わるつもりである。
これを聞いた松平信綱と戸田氏鉄

( ゚Д゚) ( ゚Д゚)

( ゚Д゚) ( ゚Д゚ ) (ゴニョゴニョ)

(; ゚Д゚) (; ゚Д゚) 「「却下」」

(中略)諸国之使者え責口は不被下候間左様ニ相心得候得 「山内家資料」

表向きは各国からの使者には攻め口を与えないということで松平信綱と戸田氏鉄に却下された。
とはいうものの、

仰渡尤但馬儀福島以来場数名誉之者ニ候間軍之差引御談合可被成ニ付老躰旁座上自由ニ仕候得と被仰付御本陣近被差置候

攻め口を与えること自体は断ったものの、松平信綱は福島家以来の軍のやり取りに秀でた者として、久勝を信綱の戦の相談役にして
山内家と久勝の面子を立てたのである。

こののち、久勝の嫡子3人と毛利久八は2月27日の最後の総攻撃に加わり、彼ら久勝の子息らについては

同月二十七日惣責之節は嫡子左近二男勘兵衛三男八左衛門毛利久八右孰も城中え乗入候由中ニも八左衛門儀一揆二三人槍にて
突倒し其身も冑をしたたかに打たれ候得共ためし鉢ニて強ハ痛不申名誉なる仕合といづれも申あひ候と申傳候

このように記録されている。

こうして、仙石久勝最後の戦いである島原の乱は終結した。

そして、久勝は島原の乱終結の翌寛永16年(1639年)3月8日に死去。享年88歳。
戦傷で亡くなった雨森九太夫とは異なり、彼の最後については詳細は記録されていないものの、
恐らくはこの時の良き思い出と共に安らかに亡くなったのではないかと個人的には思う。

戦国の世を駆け抜けて土佐藩に仕えたもう一人の武人の最後の戦いの記録である。
参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意


625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 23:08:50.66 ID:kR2UOwai
東郷隆のいくつかの小説で主人公として描かれてたっけ>仙石久勝
「決戦!関ヶ原2」収録の短編「戦さ神」だと高知市の愛宕神社が仙石久勝が山城国愛宕権現を勧請したものとかいう話があった

雨森九太夫最期の戦い

2021年09月24日 16:58

63 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 23:15:50.72 ID:uA6ewj70
雨森九太夫最期の戦い

元和偃武より22年が過ぎた寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原の乱が勃発。
幕府は板倉重昌を上使、副使として石谷貞清を任じて九州諸藩の軍の指揮を執らせ、原城址に籠った一揆軍の討伐にあたった。

この時、九州諸藩だけではなく多くの藩が使者の名目で名代の将に少数の兵を付けて島原に派遣し、討伐軍に加わった。

土佐山内家からは先ず、先代藩主・一豊の母衣武者を務めた板坂利正が代表として派遣されることが決まったが
利正が病に罹ったため(のちに死去)、代わりに雨森九太夫が代表となり鉄砲足軽30名と小頭2名(池田嘉兵衛と鈴木彦大夫)、
さらに九太夫預かりの弓足軽を数十名随行させて現地へと向かわせた。

山内忠義はさらに参陣した諸将への慰問の使者として中老の仙石但馬久勝父子と九州出身の馬周り・毛利久八吉次(父は豊前巌石城主の出羽守吉勝)を
後から派遣した。

12月29日に現地へ到着した雨森九太夫率いる土佐藩の部隊であったが、3日後の寛永15年元旦の板倉重昌指揮による総攻撃に参加した。

山内家資料所収の「南路志」と「御家中名誉」によって描写は異なるのだが、「御家中名誉」では三の丸まで攻め入ったところで、

そして「南路志」にては総攻撃で深く攻め入った板倉主水正(重矩)が進退ままならなくなってしまった。これを見兼ねた板倉重昌は
一揆軍へ掛出さんとした。九太夫はその鎧の袖を取って

九太夫「ここは大将が出る所ではありません。戦は駆け引きが肝要です。一旦引いて軍法を定め勝利しましょう。」

と、諫言した。しかし板倉重昌は

「その言葉尤もである。しかし、目の前で愚息の重矩が死なんとしているのを見捨てることが出来ようか!」

と叫んで九太夫の手を振り払って駆け出した。九太夫はこの老骨、力及ばずもお供申さん!と重昌に続いて駆け出した。
これを見た諸国の武士は、我劣らじと九太夫に続いて駆け出したが或は手負い或は討死し、重昌も遂に弾丸を眉間にぶち込まれて討死した。
この時、九太夫と共に参陣した山内家の鉄砲小頭池田嘉兵衛も銃弾で深手を負い、九太夫の郎党2名(若党・井澤仁左衛門と小者六助)も相果てた。

そして九太夫にも遂にその時が訪れた。

一揆軍の放った一発の銃弾が馬上の九太夫の股根を打ち抜いたのである。

幕府軍の総攻めは失敗に終わり、収容された九太夫であったがあまりの重傷であったため、翌一月二日に着陣した仙石久勝と代表を代わり、
一月七日に九太夫は土佐へ船で帰還することとなった。

だが、九太夫は徐々に容態を悪くし船が本国土佐の柏島に着く直前に船の中で亡くなり、同島にて埋葬された。

雨森九太夫氏康、享年七十五歳。戦国の世を生き抜いた男は安寧の世に突如起きた大乱で受けた戦傷でこの世を去ったのである。

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意

続き
仙石久勝最後の戦い


64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 23:54:43.72 ID:WzdF+2m1
何でそんな老人を、と思うが戦を知ってる者って事なのかね
てか仙石久勝って仙石秀久の兄か、長生きだな

65 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 10:10:52.54 ID:8xw8xQ9O
>>64
当初派遣予定の板坂利正も掛川以前からの歴戦の士だったみたいだし、雨森九太夫と仙石久勝も資料には旧主の石田三成や福島正則の元での武功の評価されてるからそう言う所を期待されてのことでしょうね。

67 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 12:53:12.46 ID:EadEZBQZ
>>64
補足として九太夫の山内家部隊はこの総攻撃の時、御家中名誉では松倉長門守勝家の仕寄りを借りた(板倉内膳重昌の仕寄りとする書もあると補足有)とされる。

また、負傷した九太夫は参陣していた長崎奉行・榊原職直の医師・道與から薬を出され、一報を受けた国元の家老・野中兼山からも休齊という医師が派遣されることとなったが、帰国の船路にて亡くなったとのこと。

山内忠義の酒豪伝説

2021年09月08日 17:28

19 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/07(火) 23:03:56.60 ID:OiO5BSeI
山内忠義の酒豪伝説

ある時、大名達の酒宴に参加した土佐藩の2代藩主・山内忠義はひたすら飲んだ。
そして、しまいには高いびきをかいて眠りはじめたという。

また、京の二条城にて酒宴が行われた時のこと。
例によってしこたま飲んだ山内忠義であったが、宴もお開きとなって宿所に帰ることとなった。

「暑っついのう」

山内忠義は衣服を脱ぐと駕籠の上に跨り、あるいはその上に立ち忠義は駕籠をそのまま京の町中を走らせた。
京の町衆はその姿に唖然としたという。
また徳川家光に子どもが生まれた時のこと、忠義は江戸城にてその祝いの宴に参加した。

さて、山内忠義は・・・

飲む!吞む!!飲む!!!ひたすら酒を浴びるかのように吞んでいた・・・。

心配した周囲の者達であったが忠義は

「いやぁ、このような祝いの席では飲まなければ!ハッハッハッ!!(*´Д`)」

と諫める声もどこへやら、とにかく酒を飲み続けた・・・。
そして吐いた
https://i.imgur.com/FcjHWkL.png
吐いた
https://i.imgur.com/WF8H0vf.jpg
盛大に吐いた
https://i.imgur.com/KTmBP9a.jpg
https://ameblo.jp/takashi-x11r/entry-12386660858.html
↑こちらのサイトによると吐いたものの処理はお付きの小姓たちが自分たちの口でおこなったらしい・・・。
まさにこの後スタッフが美味しくいただきました・・・。

https://i.imgur.com/cIJ57k8.jpg
大河ドラマとかになってもテレビなどでは放送できませんなこりゃ(;゚Д゚)

流澤遺事ほか』

20 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 04:42:26.97 ID:xIoK6K1r
>>19
追記
http://www.tosajizakeya.com/event/index.php?id=2&mode=info&group=grp01&level=2



22 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 16:12:46.44 ID:KFLepEEM
山内忠義「俺が酒豪らねばならぬ。」

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/08(水) 16:14:47.32 ID:9rkK0nga
福島正則もびっくり

24 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 16:25:57.53 ID:4f+gG7hW
>>23
こんだけ酒で問題行動起こしといてよく改易ぶち喰らわなかったよなとは思う。

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 08:17:10.64 ID:QvBo8cLd
山内家の家紋これで良いんじゃないかな?
https://i.imgur.com/HZJyQCL.jpg

山内忠義と鎌髭のお話

2021年07月23日 18:01

862 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 05:04:29.21 ID:+Yg+K9lV
山内忠義と鎌髭のお話

土佐藩二代藩主・山内忠義は藩主として、藩政改革に力を入れた人物であったがプライベートでは立派な鎌髭を持った酒豪でありそれ故に酷い酒癖を持った人物であったと言う。

https://i.imgur.com/wvewjNh.jpg
https://i.imgur.com/DuGvMPp.jpg
https://i.imgur.com/ZDdZDcJ.jpg
https://i.imgur.com/WRFaGsk.jpg
https://i.imgur.com/KsfGM14.jpg
https://i.imgur.com/fpCmWtM.jpg
https://i.imgur.com/mGVRbcl.jpg
https://i.imgur.com/eQR5YN6.jpg
https://i.imgur.com/7RGGDjL.jpg
https://i.imgur.com/Z3cjEGz.jpg

サルバドール・ダリの様に自身の鎌髭で遊んでいたかは定かではないが、彼は自身の鎌髭に対して絶対の自信を持ち、その髭を誇っていたと言う。

曰く…

_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 俺の鎌髭、日本一ィィィイイイイ!!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

ある時、酒が入った忠義は鎌髭を蓄えた自身の家臣と遭遇した。
次の瞬間…






家臣は忠義の手によってフルボッコにされた…
  ∧_∧   ∧_∧ しゃあっ
;、(;ω((⊂=(・ω・ ) ボボボッ パンパンパン
 (っΣ⊂=⊂≡ ⊂)
 /  ) ババ(  ヽ
`(ノ ̄∪   ∪ ̄\)

またある時のこと、紀州藩邸でしこたま飲んだ忠義は帰り道で、鎌髭を蓄えた人物とすれ違った…
次の瞬間、忠義は相手の鎌髭を掴んでその場から動かなくなった… 微動だにしなくなった…

慌てた側の者達が殿!飲み直しましょう!殿の鎌髭日本一!などと持て囃したり説得したことで忠義の機嫌は直り何とか場は収まったと言う。

この他にも酒が入った山内忠義には数々の奇行エピソードがあるのだが、そのお話はまた次回…

参考文献:三百藩家臣人名事典・戦国人名事典 コンパクト版、etc



863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 07:53:52.97 ID:tiiPFsbs
酒癖の悪さは土佐の平常運転ではなかったのか

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 15:08:57.45 ID:mQvVlntb
よく伊達政宗がもう少し早く生まれてたら、と言われるが
山内忠義くんも生まれるのが遅すぎたな
戦国真っ只中に生まれてたら細川忠興や森長可に並ぶ四天王の有力候補だったのにな

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 16:18:19.22 ID:ft+ZTD5i
>>864
実は戦国前半期の方が化け物級の傑物や鬼才や大馬鹿野郎が多い。
伊達政宗ごときは余計に埋没してたんじゃねえかな。

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 20:38:38.52 ID:vEtcmxrj
まぁ政宗ってもう乱世も落ち着いてきた末期に出てきたアレだから
目立ってるってのは間違いなくあるかな
DQN方面じゃなくて真面目な大名としての話でも
三傑の居ない政宗でどこまで飛躍できたかというと怪しい

867 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/24(土) 08:44:41.32 ID:WFUZ0ilP
>>863
酒癖の悪さもあるけど、この人は自身の鎌髭に自信持ち過ぎて自分以外の鎌髭の人物を(酒入ってる時に)見たら絡みに行ってオラつくと言うクソ面倒くさい悪癖が有る…

更に体躯が6尺有った相撲好きな偉丈夫と言うから手に負えない。

・(鎌髭)ナルシスト
・酒乱
・(当時基準)ゴリラ並の体格
・大藩のお殿様

数え役満と言っても差し支えない人だと思う。
よくぞ改易されなかったもので…

868 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/24(土) 08:58:15.54 ID:WFUZ0ilP
>>864
過去に出てる逸話見ると、お手打ちも結構されたみたいで、福島正則+細川忠興のハイブリッドDQNだと個人的には思いました。

大身の方に嫁がせて物入りになれば

2018年04月28日 17:39

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 00:23:20.19 ID:zEPPlm+W
大身の方に嫁がせて物入りになれば


明暦2年、土佐藩主・山内忠義は末娘の重姫を
豊後国森藩1万2500石の領主、久留島通清に嫁がせた。

忠義公が縁組を公にする前、備前の新太郎様(池田光政)がそれを聞き付けて*
「今度御息女を久留島信濃守(通清)に御縁組なされると聞いたのですが
 信濃守は小身者ですので不相応に存じます」
と仰せられたので、忠義公は
「仰せのごとく信濃守は小身者です。貴方様は御大身なので左様には
 思われないかもしれませんが、私は小身ですから大身の方に嫁がせて
 物入りになれば、たくさんの家来を養うことが出来なくなるでしょう。
 それが小身の信濃守に嫁がせる理由です」
とお答えになられたという。


――『南路志』

* 光政の姉妹は忠義の嫡男の正室で、山内家と池田家は姻戚関係にあった



821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 11:25:17.99 ID:sp5yV1iF
>>819
久留島ってたぶん来島の事だろうなあ
大名として残ってたとは知らなんだ

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 11:33:17.17 ID:RgCKd3Qt
>>821
元海賊だからと警戒させられて海のない陸にあげられたんじゃなかったかな

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 12:44:37.19 ID:VZTsxhdo
大身同士の縁組みだと金かかって家が大変だから、それを思いやってといういい話ではないだろうか。

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 01:57:36.82 ID:3ZBtswZj
>>819
久留島家って末裔が童話作家とかボーイスカウトに尽力してんのね
直系は18代当主が普通に活動してるし

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/30(月) 09:22:39.21 ID:kOb2HE+7
大名として残ったおかげでそういう活動できるのかも
能島や因島の村上氏は毛利の家臣に組み込まれて地味になってしまった

我が孫六をまいるぞ!

2015年03月21日 16:27

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 20:40:33.15 ID:VayAq84e
土佐の山内忠義は剛気英邁の人であったが、彼には秘蔵の刀で、常に身から離さず帯びていた名刀があった。
関の孫六兼元の作で、二尺三寸五分。仮名で「かねもと」と銘がある。
非常な大業物で、これで度々家来を手打ちにした。役人などが前に出てなにか気に入らないことを言うと
ハタと睨んで「身が孫六をまいるぞ!」と大声で叱りつける。この剣幕に恐れて、皆唯々諾々として
平伏した。もしこの一言を聞いてなお、反抗しようものなら、抜き打ちに殺されるのである。

ある時、高知城より一里ばかりある荒倉山で、猪狩りが催された。
忠義自ら出馬し、大勢の勢子を配置して、猪を追い出す大網を貼り、一番、二番、三番と勢子を立て、
打ち手は鉄砲を持って要所に控えていた。
忠義も手づから鉄砲を持ち猪を待ち伏せた。

ただし、猪が手負いに成ってかかってくる場合、万一殿様に過失があってはならぬので、忠義が
待ち伏せている背後には、家老たちによって老練の猟師が隠し置かれ、
「危急の場合には撃ち留めよ。必ず殿にお怪我のないようにせよ。」と密かに申し付けてあった。

そうしているうちに狩りが始まり、やがて一匹の大猪が手負いと成って荒れに荒れ、忠義の居る方に
飛ぶように駆けてきた。
元より剛毅な人であったから、忠義は大猪を近くまで引き寄せて撃ち留めようと鉄砲の照準を定めた。
その間に猪が間近くまで来た。その時、傍の藪陰より一発の銃声が鳴ったかと思うと、
その猪は撃ち倒された。

これに忠義は激怒した。「何者が我が当の敵を横合いより撃ったのか!?」
すると、一人の年老いた猟師が這い出てきて頭を地につけ平伏した。これを見ると

「おのれ憎き奴!我が孫六をまいるぞ!」と怒鳴って刀の柄に手をかけた。
が、その老人は、「忝く思います。頂戴いたします。」と両手を出した。
その言葉通り、与えられるのだと思ってしまったのである。

忠義もこの意外な体に少し拍子抜けして刀を抜けず戸惑っていた、
そこに、家老たちが慌てて駆けつけ、「この者は我々より予て申し付け置いたもので、万一危急の場合には
殿に変わって撃ち留めよと申し付けました次第です。」と、詳しく申し上げると、
忠義これを聞いて

「その方らの申し付けとあっては、この者の落ち度ではない。
ただし『孫六をまいるぞ』ともうした時、両手を出したのは妙なやつだ。
さりとて、この秘蔵の刀を遣わすことは相成らぬ。差し替えの刀をあやつに遣わせ。」

そう、その場で別の刀が拝領された。しかしこれは不調法のご褒美というものであろう。

(刀剣談)



581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 20:42:19.86 ID:ExqvmYzk
良い話だ

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/21(土) 01:30:52.16 ID:UV/uEQOC
良い話かあ?

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/21(土) 10:07:24.53 ID:ceRcJez6
高虎さんが両手を出しております

一国兼光

2015年03月15日 16:26

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 00:30:12.10 ID:fqXGeGvU
一国兼光

紀州の徳川頼宣が、土佐国山内土佐守(忠義)の愛蔵している兼光が、世に名高い大業物であると
云うのを聞き伝えて、ある時藤堂高虎に対し頼んだ。
「土佐守の兼光を所望してもらえないだろうか」


高虎は承知し、早速山内忠義を訪ねて、紀伊大納言所望の件を話した。
すると忠義は、元来非常に気性の激しい人でもあったので、大いに反発した

「以ての外のことです!あれは我ら秘蔵第一の刀、進上などは思いもよらぬ!」

そのけんもほろろの態度に高虎も少し腹を立て言い返した

「左様に仰せられても、もし将軍家より御所望と有れば差し上げぬはずはないではないか。」

ところが忠義
「例え将軍の命であっても、あの兼光は差し上げ申さぬ!土佐一国に変えても嫌でござる!」

そう言い切った。これには高虎も呆れ返って二の句も付けず辞して帰った。

ところが、この話が評判となり、土州公の「一国兼光」と呼ばれ、一層名高いものに成ったという。
忠義が国に変えてもと言っただけはあって、この兼光は無双の上作であるそうだ。

(古今名家珍談奇談逸話集)



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 04:13:35.51 ID:5ay60gPF
なぜ刀剣話には高虎がよくでてくるんだろう?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 10:03:04.03 ID:+1AuPQV/
>>733
想像してみろよ。全身切り傷だらけで指が何本か無い身長190cmの大男が
「おう、山内の。紀伊とこの若がお前ぇの持っとる兼光欲しい言うてのお。
何とかならんかのう。」なんて言って来たらどうする?

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 16:52:32.53 ID:e+wSdY8Z
ちびりながら差し出す

『高知』命名の事

2013年02月21日 20:04

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/21(木) 16:55:37.96 ID:ZKD2zQw0
山内対馬守一豊は、慶長5年(1600)の冬、土佐国を拝領して入部のため大阪を船出し紀州由良にて越年され、
翌年正月2日、土佐国甲浦へ着岸し、そこから陸路を経て同8日に浦戸の城に入られたが、どのよう深いお考えが
有ったのだろうか、大高山の古城を改修してこちらに移ると宣言され、同年の秋より普請が始まり、慶長8年の秋に
成就して、浦戸よりお移りなされた。

雪蹊寺の月峰和尚は、この大高坂の名を改め、河中山(こうちやま)と号された。これはこの地が、東西南北皆大河で
あったためであるが、四方に堤防をなし、淵を埋め地をならして、平らかで広々とした城地となった。
民家は軒を連ね、昔この地にあった、かこが淵、太郎が淵、鱸砦といった場所は一体どの辺だったのか、
今は知る人もいないのである。

ここは浦戸から2里の入海であり、船の往来は自由で、元より山林にも海岸にも近く、魚鳥菜果は充満し、竹木・米穀
豊穣にて、上下万歳を唱えけり。

これより以前、長宗我部の家臣、吉田備中入道周孝(孝頼:長宗我部国親・元親の重臣。一領具足の考案者とも)は
井口の城主であったが、この大高坂山の南の麓に居を構え、老後の隠居所として常にここに住居していた。
その頃周孝が嫡子の次郎左衛門に常に
「この山は必ず国主の居城となり、一国の首府として繁栄するだろう。」
と言っており、果たして元親も一度岡豊からこの地に移り、しかし一両年して浦戸に移ったのだが、
今また一豊が居城とされ、国府となったのは不思議なことである。

そのようにしてこの地は民家繁盛していったが、一つの難儀が有った。それは度々洪水が出て四方の堤を崩し、
城下の町が浸水したのである。貴賎これを悲しみ、二代藩主の山内忠義
「これは”河中”という地名によるものである。」として、五台山竹林寺の住持空鏡上人に仰せられ、
河中山の文字を改め、『高智山』と号した。

『高智』とは大聖文殊の浄土を申す言葉だそうである。この城地を、何故浄土に比したかといえば、
この城から一里ばかり東に山があり、ここに五台山金色院竹林寺と号す。
これはかの天平の昔、聖武天皇が夢に大唐の五台山を参拝し、これにより行基上人に命じて
唐の五台山を模して建立したのが、この寺なのである。
後には弘法大師もしばらくここに滞在され、中興された。
このような由来により、四国巡礼の礼所となり、六十六部の納経所として、道俗歩みを運ぶ場所となった。

であれば、この城地も文殊擁護の地であると称して、『高智』と名付けたのである。

このおかげであろうか、以後国富み民豊かにして、山内の家運長久にして子孫繁栄翳りなく、
松平の御姓を賜り、万歳の録絶えず、千秋の色とこしえにして、尽きせぬ国となったのである。
(土佐物語)

以上、『高知』の地名が生まれるまでの経緯である。




484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/21(木) 18:50:18.84 ID:rDSnYhpH
>>483
なんというか、自分の祖先(吉田)をこれでもかって感じでプッシュしまくってるね。

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/21(木) 22:15:50.07 ID:Dja3HCi9
>>483
日が消えたから没落しちゃったんだな


ちょっと酷いんじゃないか毛利勝永!

2011年03月07日 00:00

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/06(日) 01:54:00.12 ID:7XA1TTOr
有名な話ですが多分未だ出てないので

慶長19年(1614)、大阪冬の陣が起こる。
土佐山内家当主・山内対馬守忠義も、当然これに参陣するため大阪へと向かった。

さてこの頃、毛利豊前守勝永は関ヶ原による改易の後、同じく土佐の、前藩主一豊の弟、山内修理亮康豊の元に
お預けとなっていた。ちなみに土佐でのお預けの最中、一子勝家まで生まれている。

まあそんな中大阪冬の陣の勃発と忠義の出陣を知った勝永は大いに焦った。
そして留守居をしている康豊の元に赴き、一つの書類を見せた

「これをご覧になってください」

「ん?一体…  なっ!? …こ、これは!!」

なんとそれは藩主山内忠義毛利勝永に渡した、衆道の契を交わした誓紙であった!ちゃんと忠義の判まで
押してある!

「僕達、そう言う関係だったのです!」

「い、いつの間に!?」

康豊は驚愕した。言ってみれば『あなたの息子の忠義くんと僕、実は結婚してるんです!これ結婚証明書!』
と、突然告白されたようなものである。いや、時代的にもっと重い意味があるかもしれない。

ともかくそんな衝撃の告白をした上で、勝永は未だ混乱している康豊に言う

「僕とそう言う関係である対馬守(忠義)くんが大阪に出陣したそうです!ならば僕は戦場において愛する対馬守くんを
助けなければならない!
そういうわけで大阪に行きますがとにかくそう言う関係なので見逃して下さいうちのクソ息子人質に
置いていきますから!!」

突然の衝撃に頭がぼーっとしている間にこうまくし立てられ、老練の武将である康豊も思わず、

「わ、わかった。他の場合ならともかく二人がそう言う関係ならしょうがない。大阪に行って対馬守を助けてくれ」

と、なんだか両親は絶対反対してるけどもう妊娠してるんだから結婚認めてくれるよう親を説得してくださいと
言い出された親戚みたいな気分で許可を出してしまった。
何というか、いつの時代も愛は理屈を吹っ飛ばすのですね。

そこで勝永は大喜びで船に乗り、出港直前『見送り』という名目で港まで来ていた息子をひっつかんで
親子一緒に出港、そして先の「愛する対馬守を~」の言葉はどこへやら、豊臣秀頼の招きに応じ堂々と
大阪城に入城したそうである。

しかしこの脱出劇でその愛をまんまと利用された山内忠義の心はいかばかりだったのか?
もしかしたら夏の陣の時暴風雨を理由に土佐に引きこもったのは、この時の心の傷が原因だったんじゃないか?
ちょっと酷いんじゃないか毛利勝永
なんてことをふと思ってしまう、大坂の陣毛利勝永、土佐脱出の一席。




132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/06(日) 02:37:44.10 ID:7fqbhVQQ
>>130

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1860.html

ここで軽く出てるのの詳細版ですな
きっちりお詫びに来る毛利さんは律儀というか何というか

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/06(日) 07:02:09.28 ID:ew8yZ6Zo
山内家としては勝永を派遣することで豊臣に義理を立てておいて、
表向きは斯様な脱走劇があったと徳川に言い訳を……

……いや、もうちょっとマシな理由を考えるか。

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/06(日) 09:05:32.01 ID:Wd6fecG5
港直前『見送り』という名目で港まで来ていた息子をひっつかんで

なんか嬉しいなw親子一緒 

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/06(日) 14:47:56.16 ID:FUYxwLv7
毛利勝永が正当に評価される時代は来るんだろうか・・・
彼の話題が出るといつもそんな気持ちになってモヤモヤしてしまう。