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文明元年、公方家の若君、今年五歳に成られ給うを、御家督に定められ

2020年04月24日 17:26

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 01:08:56.57 ID:6nyGY0u0
文明元年、公方家(足利将軍家)の若君(義尚)、今年五歳に成られ給うを、御家督に定められ、
花の御所に於いて諸大名の拝礼を受けられた。これは旧冬、今出川殿(足利義視)が当方を御退去あって、
山名方へ御成あり、例え御心私有らずと雖も、この時公方家に敵対したような形勢となり、これによって
花の御所にては、今更憚る所もなく、この若君を御家督に定められ、持て囃し奉った。
管領には細川勝元、当職として赤松次郎政則を始め、京極武田以下、大小名皆々当方に在り合わせる衆は、
若君へ御礼申し上げた。この時若君は、伊勢守貞宗の膝上に懐かれ給いて拝礼を受けられた。

さてまた、山名方にては今出川殿を公方に取り立て参らせて、一方の主君と仰ぎ、同月八日、
山名入道宗全を始めとして、畠山義就、斯波義廉、その他西陣に在る大小名皆々今出川殿へ、
御太刀御馬を献上し、これまた拝礼申し上げた。時勢は一変して、公方が東軍西軍の両所に御座有る故、
御兄弟(足利義政・義視)の国争いのような情勢と成った。

應仁廣記

応仁の乱での、足利将軍の分裂について。



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老人雑話より短い記述を抜粋

2019年04月09日 23:02

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 18:11:56.73 ID:6Y5P9yS6
・遊行上人の始祖を一遍上人という。隆蘭渓に法を開き、歌学に優れた。これ故に今に至ってもその法流の者
 は連歌をする。昔ある人が一遍上人を嘲って曰く、「躍り念仏をするのは仏の踊躍歓喜という意味であろう。
 しかしながら、これだけで成仏とは訝しい」と言う。上人は和歌で答えて曰く、「はねばはね躍らば躍れ春
 駒の 法の道にははやきばかりぞ」。これらの事を書いた書一巻があるという。

・多武峯について。鎌足が入鹿を討たんと欲した時、帝とこの山に入って談合した。これ故にこの峯を“談山”
 という。鎌足を祭って“談山権現”という。“談”と“多武”は音が近く、また入鹿を討って武功多しとい
 う意味で、“多武峯”という。

・得長寿院は今の三十三間堂にあらず。鳥羽院の御造営なので昔は鳥羽にあったのであろうか。蓮華王院は後
 白河院の御造営で、新千体仏を安置している。これが今の三十三間堂なり。『増鑑』『拾芥抄』の記述から
 も明らかである。大仏の寺号は“方広寺”なり。

・“赤松乱”というのは普光院殿(足利義教)を弑逆した時のことなり。初め山名と赤松は並んで普光院殿に
 出仕した。ある時、庭前に枯れた松があったのを山名が見て曰く「あの赤松を斬って捨て申さん」と公方の
 前で言った。赤松はさしも歌学に達した口利者なので「山なをか」と言った。山名にあててなり。これより
 ますます仲悪しく、ついに普光院殿を弑逆す。この赤松は円心の三男・律師則祐の子孫なり。満祐という。
 この事の首尾はつぶさに書に見えず、人の物語で言い伝えているものである。

・“美濃三人衆”という隠れ無き武勇の名ある者あり。信長の家臣である。1人は稲葉一徹(原注:今の能登
 守5代の先祖。右京の父なり)。1人は氏家卜全(原注:これは大垣にいる)。1人は伊賀伊賀守(安藤守
 就)なり。

・長尾謙信(上杉謙信)が「信玄を滅ぼさん。談合せん」と、紙子1つ小脇差1腰で山越えし、越前の朝倉の
 もとへ行くことがあったという。

・東照宮(徳川家康)は太閤に馬を繋ぎ給う。後に関八州を与えたといえども、実は6ヶ国なり。常陸を佐竹
 に与えたのである。

・太閤が東照宮を関東に封じて後、甲斐を信義不二の北条遠江(加藤光泰)に与えた。高麗より遠江が病死し
 たと注進があると、即日に浅野弾正(長政)に与えた。甲斐は関東の押さえ第一の要地なり。

・土佐は蓮池氏の人が昔より領して近代までその子孫あり。先祖は頼朝の弟の土佐冠者希義を殺して、土佐を
 取った者である。近世は長宗我部元親が討ち滅ぼして、土佐を領した。

・伊予は河野という者が領す。義経を伊予守に任ぜられた時、誅伐されることがあった。義経一代の不覚なり。
 その子孫は信長の時までいた。

・庄林隼人(一心。加藤清正の家臣)が鉄砲で頭悩(頭脳?)を撃ち抜かれたのは伊勢の嶺城を攻めた時(1
 583年)なり。

・公方の恵林院殿(足利義稙。足利義勝の誤り)は馬を乗りならそうとし、落馬して逝去した。少年の時なり。

・雪踏みはもとからあって、革を加えることは利休からと言い伝える。

・対馬から高麗へは48里の渡りを経て釜山海に到着する。そこは下官の者がいる。倭館というところがあり、
 日本人がそこにいる。釜山海から朝鮮の都に至るまでは20日程。その間に東莱というところあり。そこは
 上官の者がいる。

・惺窩翁(藤原惺窩)に儒道の事を少し聞いた人は、細川越中守(忠興)・浅野采女正(長重)・曽我丹波・
 小畑孫一・城和泉守(昌茂)などである。

・吉田素庵(角倉素庵。了以の子)のところにあった『文章達徳綱領』10巻を、戸田以春という者が借りて、
 「失った」と言ってついに返さなかった。今その10巻は失われた。

・神馬弾正左衛門は太閤の時分の播磨辺りの大名なり。

――『老人雑話』

老人雑話より短い記述を抜粋



781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 19:17:44.29 ID:o+3zPBBS
>>780
ほんとに雑話だな、幅広い

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 20:42:57.04 ID:Z/Q1MrlW
>>780
戸田以春は借りた本を質にでも出したん?

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/09(火) 20:48:30.42 ID:CuJn7q/Y
こういう戦国ネタ好き
https://www.losershogiblog.net/entry/2019/03/30/131700

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 21:12:02.12 ID:sUxxlZm4
>>780
頭を撃ち抜かれても庄林はなんともなかったのか

786 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/10(水) 04:02:50.68 ID:5BCBSUsy
>>785
1583年に頭打ち抜かれて1631年に死んでるから不死身の肉体を手に入れたんじゃね?
口癖はWRYYYYとか貧弱貧弱ゥー!だったとか

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 20:23:36.03 ID:xGZ5zBzt
>>780
なお一遍上人も河野氏の模様
戦国期にも活躍した河野水軍と関わりなくもないから書くと

空海が四国を回ってる時に伊予国の衛門三郎という豪族にお布施を願ったところ
「こじき坊主にはやらん!」と托鉢の鉢を八つに割られ、
その後衛門三郎の子供8人全員が死亡したことからあの御坊さまの祟りに違いない!
と四国中を追いかけた結果、反時計回りに四国を回ると、時計回りに回っていた空海に出会い、罪の赦しを願った。
空海が「お前の罪は赦された。願いをいえ」と言ったところ
衛門三郎が伊予国の豪族に生まれたい、と言いそのまま死亡。
翌年、伊予国の領主河野息利の家に男児が手を握ったまま生まれ、その赤ん坊の手を開いてみると「衛門三郎」という文字を書いた石がでてきた。
この衛門三郎の転生した男児、長じて7代目の河野息方から降って23代目が屋島や壇ノ浦などで活躍した河野通信であり、その孫が一遍上人という
四国出身の高僧二人に因縁があったとする四国遍路始まりのありがたくないお話
(踊り念仏が一遍上人の故郷の伊予で巡礼していたのを、讃岐出身の空海が修行した阿波と土佐にも拡大したのが四国遍路の始まりのようで
高僧二人に深い因縁が必要ということでくっつけられた)

なお伊予大三島の大山祇神社は河野氏の祖先神を祀っており、河野水軍の拠点でもあったことから八十八箇所の55番目は本来この大山祇神社であったが、
島に渡らなきゃいけないということで四国の今治に南光坊という別当ができて今ではそこがお遍路のコースとなっているという、
四国遍路の創始者の一人、一遍上人の出身河野氏としては残念なお話


右衛門佐 頂くものが二つある

2017年07月17日 18:06

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/17(月) 10:20:06.97 ID:PQvx1qrF
朝敵として幕府の討伐を受けていた畠山右衛門佐義就であったが、寛正4年11月に赦免を受けると、寛正6年12月、山名宗全などの援助を受け、
ついに河内より上洛を果たす。一騎当千の士卒五千余期にて千本の地蔵院に着陣した。すると彼はそこから、直に山名宗全入道の許に行き、謝礼を述べた

「今度、私が出仕できたのは、御芳志によるものです。」

宗全も
「佐殿の上洛のこと、ただ一身の大慶なり」と賀し、通夜酒宴の興を催した。

翌朝、義就が宿舎とする地蔵院の門の扉に、何者かが落首をしていた

『右衛門佐 頂くものが二つある 山名の足と御所の盃』

(応仁記)

義就が、畠山家の家督としての復帰を認めるという意味での、御所(将軍)の盃を頂くために、山名宗全の足元にひれ伏した、という意味ですかね


文明元年(1469)3月16日、忍びを使って

2010年10月26日 00:01

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 01:11:25 ID:jkxbSDOS
文明元年(1469)3月16日の事。

将軍義政の養子、足利義視を迎えて意気上がる西軍に対し、東軍の総帥細川勝元

「西軍は遠国の兵が多く、長い滞陣に気力も衰え、守備の怠りもあるだろう。」

と、伊賀、河内の忍びの者数百人を集め西軍の陣に忍び込ませ、さらに夜軍の準備をした。

この作戦、忍びの者達のうち西軍総帥、山名宗全の陣に忍び込んだ者が合図の燧火を上げる。
それと同時に西軍の陣を放火、これに混乱している間の夜討ちの軍が攻め入る、という物であった。

時間は五更(夜明け前)、決行の時間である。敵が深く寝ていることを計り、忍びは火を放ち
東軍の軍勢は攻め込もうとしていた…が、

山名宗全はそう甘くはなかった。彼は普段から守りの備えに対し万全を期していたため、
東軍は攻めいること全く出来なかった。
その間に山名宗全自身が甲冑をつけ現れ自ら指揮をし、そのため潜入させた忍びの多くが
殺され、夜討ち軍も逃げ帰ることになったという。


長い応仁の乱の中の、忍者を使った作戦とその失敗についてのお話。