右衛門佐 頂くものが二つある

2017年07月17日 18:06

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/17(月) 10:20:06.97 ID:PQvx1qrF
朝敵として幕府の討伐を受けていた畠山右衛門佐義就であったが、寛正4年11月に赦免を受けると、寛正6年12月、山名宗全などの援助を受け、
ついに河内より上洛を果たす。一騎当千の士卒五千余期にて千本の地蔵院に着陣した。すると彼はそこから、直に山名宗全入道の許に行き、謝礼を述べた

「今度、私が出仕できたのは、御芳志によるものです。」

宗全も
「佐殿の上洛のこと、ただ一身の大慶なり」と賀し、通夜酒宴の興を催した。

翌朝、義就が宿舎とする地蔵院の門の扉に、何者かが落首をしていた

『右衛門佐 頂くものが二つある 山名の足と御所の盃』

(応仁記)

義就が、畠山家の家督としての復帰を認めるという意味での、御所(将軍)の盃を頂くために、山名宗全の足元にひれ伏した、という意味ですかね


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文明元年(1469)3月16日、忍びを使って

2010年10月26日 00:01

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 01:11:25 ID:jkxbSDOS
文明元年(1469)3月16日の事。

将軍義政の養子、足利義視を迎えて意気上がる西軍に対し、東軍の総帥細川勝元

「西軍は遠国の兵が多く、長い滞陣に気力も衰え、守備の怠りもあるだろう。」

と、伊賀、河内の忍びの者数百人を集め西軍の陣に忍び込ませ、さらに夜軍の準備をした。

この作戦、忍びの者達のうち西軍総帥、山名宗全の陣に忍び込んだ者が合図の燧火を上げる。
それと同時に西軍の陣を放火、これに混乱している間の夜討ちの軍が攻め入る、という物であった。

時間は五更(夜明け前)、決行の時間である。敵が深く寝ていることを計り、忍びは火を放ち
東軍の軍勢は攻め込もうとしていた…が、

山名宗全はそう甘くはなかった。彼は普段から守りの備えに対し万全を期していたため、
東軍は攻めいること全く出来なかった。
その間に山名宗全自身が甲冑をつけ現れ自ら指揮をし、そのため潜入させた忍びの多くが
殺され、夜討ち軍も逃げ帰ることになったという。


長い応仁の乱の中の、忍者を使った作戦とその失敗についてのお話。