三引の下に山の字を加ふときは、さんざんの唱

2017年04月16日 17:56

825 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/16(日) 15:54:11.51 ID:cYLpXntL
山名豊国の話

「豊国大坂御陣の供奉にありしとき、旗の紋三引なりしを、三浦とわかたんがため、
山の字をくはふ。
 東照宮これを台覧あり、三引の下に山の字を加ふときは、さんざんの唱あれば旗の紋
をあらたむべきむね仰により、二引両に山の字を用ふ。
これよりして家紋も二引両にあらたむ。」
「出典 寛政重修諸家譜」


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羽織についての事

2017年02月26日 11:23

612 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/25(土) 22:54:33.58 ID:ORS48Def
山名禅高があるとき、所々破れたいかにも古い、黒き羽織を着て御所に出たのを、大御所徳川家康が見て
「禅高、その羽織は?」と尋ねられた。禅高は袖をかき合わせて
「これは満松院殿(足利)義晴公より拝領したものです。」と申し上げた。
家康はこれを聞くと
「流石は山名殿である。返す返すも殊勝なり。」
そう御感賞された。

これは岩淵夜話に有る話であるが、有る人が言うには、羽織はことさら近年のものである。
初めは中元以上の者達が、ばさら事の伊達に、稀に着たものであったという。
それがこの頃に至っては、上下ともに礼服のように揃って着るように成り、公の場においての
時服拝領などでも、羽織が添えられるようになったが、それはここ百年ほどの事であるそうだ。

613 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/25(土) 22:54:53.32 ID:ORS48Def
私の記憶では、七十余年以前の私が幼かった頃までは、武家において子供に羽織を着せることはなかった。
ただし町家などでは振り袖の羽織を着せていて、私もこれを羨ましく思い、親にせがんだ所
「士の子は袴だけでよろしい」と、古風であった私の父母は、どちらもこれを許さなかった。

その当時の老人たちはこう言っていた
「我らの若き時分までは、羽織を持っている人は稀でれあったし、普段から着ている人もおらず、
花見遊山と言った時に着ていただけであった。今のように成ったのは常憲院殿(徳川綱吉)の御代よりの
風俗である。」

このように見ていけば、羽織という物が世に現れたのは全く近年のことと見えるが、またこの逸話の内容が
真実であると見た場合、二百余年以前より羽織という服は存在したが、民間には広まっていなかった、
そう考えるべきであろうか。

(翁草)

言外にすげー言いたいことを感じる翁草の記事



614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 00:15:40.67 ID:Lr6URigv
翁草の作者って割とこういう分析コメント好きだよな

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 04:34:54.64 ID:5ya2q+nv
褌みたいなもんか

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 08:11:04.60 ID:yHclo49x
庶民なんか普段は褌してなかったりするからな

黒田如水「もし私が、家康の天下を奪おうと思っていたなら」

2012年08月07日 20:56

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 13:37:11.33 ID:MKrFIbp7
黒田如水は関ヶ原の後、徳川家康へのお目見えのため上洛し京都狼谷に宿泊していたのだが、
その宿舎には諸大名たちは言うに及ばず、越前中納言様、当時は三河守(結城秀康)からは、
日々御使者が送られ、度々自身御見舞され、懇ろに饗すという、類少ない扱いであった。
その他徳川家の御旗本衆、御近習、外様衆、更には牢人衆など、訪問者が門前市をなすありさまであった。

こういった状況を心配したのが、久しい如水の友人である山名禅高(豊国)であった。
彼は如水を尋ねるとこの様に忠告した

「諸大名衆が色々と訪問する場所がある中、あえてここに参られるというのは、一体何の御用があるのか?
人目を避けて夜から明け方まで御密談なされているという。
牢人衆の事も、一体どんな理由があって、ここに大勢入れ込まれているのか?
特に三河守殿に関しては、3日と開けず御使者を使わされ、ご自身による御見舞も度々のことだという。
私がその場にたまたま居合わせた時に見たが、三河守殿はまるで親を崇めもてなすように
心がけられていた。その様なこと、家康公にとってお気に召すはずがないではありませんか。

ご存知のように内府公は単純な人ではない。いかにも親しい体の出入りの衆の内に、内府公の横目(監視役)も
きっといるだろう。きっと内府公は、如水は面倒な相手であると思われていることでしょう。
それでは立場はどんどん悪くなり、さらにもっと大事を引き起こすと考えます。

現在、筑前守殿(黒田長政)の幸福は極まっていて、当代肩を並べる人も稀な程です。
ご自身の様子、人からの評価、内府公からの信頼、今の日本において彼よりも幸福な人は2,3人も
居ないでしょう。そうであるのに、貴老のそのような、現在の御作法では、筑前殿のためにも
然るべからざるものでありましょう。
ここは、同行させてきた家臣も大方国元に返され、病気療養として静かに在京されるべきでしょう。

天下が治まったというのに、『未だ治まらず』と、徳川家の御旗本が警戒しているのは、大方
貴老の事を念頭にしている事であると、世の中では申し散らしている。無論邪推ではあるが、
天に口無しとも言い、猶以て警戒しなければいけないことです。

真偽は知りません。ですが醍醐・山科・狼谷・六地蔵・宇治・その他京に近い在家に牢人であるとして、
侍たちが方々に居住しているが、これは如水が隠し置いている人数であると、もっぱら噂されています。
返す返すも大変なことだと思う。あなたはこれについて、その様に見られている事への御覚悟を
持っているのか!?」

このように繰り返し繰り返し意見した所、如水は言った

「禅高、よく聞いて欲しい。もし私が、家康の天下を奪おうと思っていたなら、関ヶ原の折
九州において数ヶ国討ち取り、島津だけが手に入っていないは国境まで押し詰めていた。
あの時彼らを蹴散らすにしても味方に引き入れるにしても、さほど時間はかからなかったであろう。
そうして九州を掌握した上で甲斐守(黒田長政・当時)を引き取り堂々と、家康に敵対するという
我らの方針をはっきりさせて、当時中国地方、備前、播磨は空き国であったし、我々には
2万余の人数があった。これを以って陸海を押し上がり、道中牢人や侍たちを吸収しつつ、
内府との出会い次第に合戦を行えば、天下が私の掌中に入った、ということもありえただろう。

だが、私は老体でもあり、何の望みもなかったために、討ち取った国を捨て、下鞘一つで上洛したのだ。
特に筑前守は大国の主になったので、心安く養われ、後は後生に願いをかけているだけの状況である。
そんな私に何の用心、何の気遣いがあるだろうか!?
あなたの言ったような風聞には、このたわけ共はそんな事を言っていると聞き流し、真実とは
考えないでいただきたい。少しでも私のことを知り、会話をしたことのある人間なら、
その様に思うことはない!」

そう、扇で畳を叩き、まったく取り付く島もない有り様で主張したので、禅高も呆れてしまい
もう何も言わなかった。

やがて禅高の言ったように、京大阪の牢人に対する取り締まりが厳しくなったが、徳川家の
老中のうち黒田長政と特に親しいものより密かに連絡があったため、如水と親しい牢人たちは
俄に取り散ったという。
(古郷物語)




860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 17:41:45.68 ID:bHJhD/3s
>だが、私は老体でもあり、何の望みもなかったために

これには禅高も苦笑い

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 18:11:04.54 ID:cN9q46nx
そういう計画だったのに誰かさんの左手が遊んでいたのでできなかったと

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 18:23:38.61 ID:JZirb/Sm
TERUはすぐ戻ってきたから中国地方は空国じゃないよなあ。

計画が大風呂敷過ぎてネタにしか見えない。

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 21:51:01.09 ID:cFnD2V+J
つまり如水にとってはTERUが居たくらいでは空き国ということかw

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 21:51:06.14 ID:86NNy1Gv
>856、全裸で駆け抜ければ度肝を抜かれていけるかと

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 22:57:34.13 ID:rwvlED7/
これ如水は既に耄碌したと思わせる振りだったのでは?

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 23:32:50.82 ID:Goy/BcYj
東西決戦が長期戦にもつれる予想の方が多かったんだから、
如水の現代から見ればやりすぎな計画も、
同時代人にとってはさほどおかしくはない気はするけどね

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 23:35:40.33 ID:xdocKTRo
>>862
広家にそれっぽい書状を出してたな。

美濃で今月(10月)まで睨み合ってたら
中国へ切り返して一合戦しようと思ってたのに
内府の勝手になっちゃったので残念。みたいな感じ

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 23:36:12.38 ID:r2J0z4CY
実は「安芸国」を「空き国」と聞き間違えただけだったり

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 23:44:12.38 ID:7uiimwfz
ある意味生き残った秀吉みたいなものかな

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 10:35:52.16 ID:eXaOyBTq
このへんの家康と如水の暗闘をテーマにした安部龍太郎の小説「風の如く 水の如く」は面白かったなあ。もう絶版だけどw
主人公が黒田長政と本多正純というのも良かった。三斎様が物凄い嫌な奴で出てくるw

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 11:34:38.62 ID:EJrvxqvE
水の如く、てのはそのまま如水だろうけど
風の如く、て権現様にあてはまるのか

山名豊国の歌

2011年03月15日 00:00

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 00:37:04.43 ID:U24G159V
山名豊国は武将としての能力は二流以下だったが
教養人としての能力は一流だった
自分の過去の栄光とそこから転落した現実とを対比させる歌が残っている

名ばかりは沈みもはてぬうたかたの あはれながとの春のうらなみ


出典は江戸時代の「続英雄百人一首」ですがこの本伊達政宗や高橋紹運といった英雄として名を残した人や
織田信雄や松永某など現代では英雄と呼べるかどうか怪しい人が大勢載ってますw




310 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/14(月) 02:26:58.95 ID:pJrDrzFa
似たような歌で今川氏真の、

なかなかに世をも人をも恨むまじ
時にあはぬを身の科にして

があるけど、オレは氏真さんのこの歌は、
性根の良さが伝わってきて好き