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氏家三兄弟の切腹

2022年05月13日 19:17

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/13(金) 16:09:47.53 ID:Yo+4A1bF
(関ヶ原の折、徳川家康に断りを入れた上で中立を選択した氏家内膳(行広)であったが)
然るに上方が敗軍すると、関東方である勢州長嶋城主・山岡道阿弥(景友)が、氏家氏の桑名城を
攻めようとした。氏家内膳、並びに弟志摩守(行継)、寺西下野守(直次)等は、防ぎ戦おうとしたが、
山岡は使者を立て、
『関ヶ原において宇喜多、石田以下の諸将敗北の上は、急ぎ城を渡さるべし。然らば我ら、今後の
御恩賞に換え、本領安堵させ申さん』
と伝えたため、氏家兄弟たちは承引して、各々城を出た。

然るに、一乱程なく治まって後、その所領は没収され、内膳並びに嫡子左近、二男内記の父子三人は、
縁者であったため京極高次と羽柴(池田)輝政に預け置かれ、内膳は若狭、播磨を往来して年月を
送っていたが、去る、大阪冬の陣の勃発において、徳川家康公は「内膳を召し出されるべし」との御内意が
あったのだが、

「不肖のそれがし、殊更十四、五年の間、弓馬の道を捨てている以上、武道に於いて何ほどの事を
仕れるでしょうか。どうか御免あるべし。」

と言って仰せに従わなかったのだが、また今年の御陣(大阪夏の陣)に、両御所より
『十万石の軍勢を預け給わるべし。只々大阪へ先陣すべし。』と有ったのだが。
返答にも及ばず大阪城へ籠城し、秀頼公の御供をした。
内膳は浪人の後に男子二人が出生したが、一人は比叡山南光坊天海の弟子となし、一人は八丸といって、
未だ幼少であったが、父内膳が籠城した事により、大阪落城後、嫡子左近、二男内記とともに。
五月二十九日(或いは七月二十九日)、京都妙心寺に於いて、死罪に処された。

或る記に、氏家兄弟の切腹の模様を見た医師・斎藤玄可が語ったところによると、
虎落の中に敷皮を敷き、兄弟三人は座に並んでいた。
左近は二十四、五歳、内記は二十あまりと見え、八丸は九歳にて、いずれも美男であった。

左近は、弟幼少なる故、不覚のこともあるかと思ったのだろうか、
「八丸は我らに先立つべし」
と申した。これに八丸は

「私は未だ、切腹する者を見たことがないので、どのようにすればいいのか知りません。
先ずは御両人が、腹を切って見せて下さい。その通りに致します。」

左近は布を聞いて「実に理である。然らば私と内記の真似をせよ。」と言い聞かせ、
二人は諸肌脱ぎになり、腹一文字に引き廻して、首を討たせた。
この時八丸は顔色も変えず、身繕いをして肌脱ぎになった。

見物の老若は見るに忍びがたく思い、皆声を立てて泣きながら門外へ逃げ出た。
その時八丸は脇差しを押し取り、弓手の脇に突き立てた所を、介錯の者は引かせる前に
首を打ち落としたと云う。

(新東鑑)

氏家三兄弟の切腹について



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小野木縫殿頭切腹の事

2020年03月24日 16:41

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 22:27:15.18 ID:aD4lGeCD
小野木縫殿頭切腹の事

関ヶ原表は家康公の御利運と成ったため、諸大名には御暇が下され、彼らは国々へと帰った。
この時、細川越中守(忠興)が権現様に申し上げた

「小野木縫殿頭の居城は、幸いにもそれがしが在所に帰る道ですから、通りがけに踏み潰し、小野木の首を見て
まかり通るべきと考えます。」
(筆者注:小野木重勝は関ヶ原で西軍に属し、細川幽斎の籠もる田辺城を攻撃し、開城させた)

家康公も「そのように考えていたところだ。忠興の思った通りに成すべき。」と仰せが有り、慶長五年十月十七日、
福知山の城を取り巻いて、ただ一乗にと揉み立てる。
去る十月(原文ママ。正確には七月である)、縫殿頭は田辺城を攻めており、その意趣は甚だ深く、
「小野木の首を見るまでは、日夜を分けじ!」と下知された。

この福知山の城は、巽の方角より差出て、油崎に本城を取っていた。その下は蛇が鼻といって、東西に引き廻した
大河の内に堀を掘り、この堀は要用の堀であるので、その高さは幾尋という限りも無いほどであった。
然し乍らここには浮草が覆い浅く見えたために、細川衆先手の人数は我先にと飛び入った。これゆえ若干の人数が
溺死した。後方が非常に堅固な縄張りであると見えた。

忠興はこの様子を見て、蛇が鼻表は先ず置いて、南の丘より攻めた所に、忠興の旧友である山岡道阿弥(景友)が
馳せ来て両者の扱いに入ったため、小野木は城を開き、自身は剃髪染衣と成って上方へと退いた。
ところが忠興は憤りなお醒めず、また兵に追いかけさせ、亀山にて捕らえ、嘉仙庵という寺にて敢え無く腹を切らせた。

丹州三家物語

細川忠興の福知山城攻めと小野木重勝の最期についてのお話



今の深志、山より高く海よりも深い

2018年09月13日 21:13

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 23:03:17.23 ID:O4tw1YtI
織田信長は佐久間信盛・信栄父子へ折檻状を下し、楠長庵、宮内卿法印、中野又兵衛の三使を以て
配所の定めもなく、ただ急ぎ天王寺を出よとの命令故に、多年蓄えた無量の珍宝を振り捨て、
はどうにか持って出れたのは黄金二十枚のほかは、腰に指した刀大小のみであり、また彼らに従う
者もなく立ち出た。心中を察するも哀れである。しかしこれは、日頃筋なき福を強いて求めてきた
その報いでも有るのだろう。久しく相馴れた召使いも、常々の情が浅かったのか、皆己のために
様々に散っていった、利を独り占めして何かを行えば恨みが多いと言われるが、それはこの事だろう。
大将たる人は、衆と好悪を同じくすることこそ重要である。

然しながら、高野山までは三人ほどが、僅かに志を遂げ付き従ったが、これも、彼らには世間から
去り難い馴染みがあると考えられており、その人々から批判を受けないことを考えただけで、心から
行ったことではなかったのだろう、そのうちの二人は高野山で暇を乞うた。

こうして高野の居住も叶い難くなり、それまでは二万余騎の大将も、一僕に手を引かれ、父子すごすごと、
未だ夜深き中を辿り出るのは、鹿ケ谷事件で平清盛により流罪とされた藤原成親卿の左遷の旅も、
このようであったかと哀れであった。

高野山の辰巳に、相郷という柴を結んだ民家が僅かに4、5軒ある場所に辿り着き、暫くの安を得た。
ここに山岡道阿弥入道、その頃は八郎左衛門尉と言ったが、平井阿波入道安斎も伴って、剣難の
山路を凌いて訪れ、信盛父子との再開を果たした。

これに信盛父子は涙を押さえて
「今の深志、山より高く海よりも深い、何に例えればよいのか。これは夢だろうか、夢だろうか」と、
手に手を取って懐かしげに見まえた。

山岡も平井も、かつては遥かに下がった場所から信盛父子に接していたが、今はこのように、同胞の
親しみにも勝ったように見えると、見る人の魂を感動させ、聞く人は涙で袖を絞った。
誠に信盛が世にあった頃は、皆がその恩を慕い少しでも交わることを望んだものだが、今はその
影すら無い。そのような中での両人の志は、誠に浅からざりし事であると、世の人これに感じ入ったのである。

(甫庵信長記)