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南部殿は改易され

2023年02月22日 19:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 21:32:02.19 ID:MJ0bmBdm
南部下総(宗秀)殿は甘利備前(虎泰)、板垣駿河(信方)、小山田備中(虎満)、飯富兵部少輔(虎昌)の
四人の衆に続く地位でであり、少しは武辺の覚えも有るといっても、浮気にて常に無穿鑿なる事ばかり言い、
遠慮も無く明け暮れ過言を申され、嘘をつかれた。

無分別人であり、彼は山本勘介を憎んだ。そして国郡を持たぬ者の城取、陣取などと批判し、
また外科の医者も深い傷はないと思っているのに(外科医者もふかき事あるましきと思ふに)、勘介が負傷
することを「まして兵法使いのくせに手を負いたる」などと言って、山本勘介に対して尽く悪口した。

この事を目付衆、横目衆はすぐに御耳に入れた。武田信玄公はこれを聞かれると、長坂長閑、石黒豊前、
ごみ(五味)新右衛門を御使とされ、即ち書立を以て仰せ下された。その書立の内容は

『南部下野が、山本勘介という大剛のつわものを悪口の事、無穿鑿なる儀である

一、山本勘介という小身の者の城取、陣取りがまことらしからぬ、と言ったというが、これは物を知らぬ
申されようである。唐国(中国)周の文王が崇敬した太公望は、大身ではなかった。

一、兵法使いのくせに負傷した、などと申したことは一層武士道不案内である。兵法というものは、
負傷しないという事ではない。負傷しても相手を仕留める事こそ、本当の兵法である。
殊更、其の方の被官であった石井藤三郎が白刃でかかってきたのを棒にて向かい。組み倒したというのは、
例えこの時勘介が死んだとしても、屍の上まで誉れある事なのに、それを嫉むのは無穿鑿なる事だ。

一、其の方南部の手柄というのは、実際には家臣である笠井と春日の二人して仕ったものであったのに、
あたかも自分の手柄のように申していると聞き及んでいる。

この三ヶ状を以て成敗仕るべきなのだが、そのようにすれば、却って山本勘介も迷惑に思うだろう。
ここを勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ。』

このようにあり、南部殿は改易され、奥州の会津へ行った事で、彼は誅殺を免れた。彼の支配下に有った
七十騎の足軽、旗本、その他が方々に分けられた。後の春日左衛門、笠井備後はこの南部殿の二人の家老の
子である。

甲陽軍鑑



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信玄公秘蔵の足軽大将衆は

2022年11月11日 16:45

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/10(木) 23:08:20.44 ID:4PQ/d/mg
大功の足軽大将である原美濃守入道(虎胤)は病死した(永禄七年一月二八日)。
その遺言には、酉の年(永禄四年)に病死した小幡山城入道(虎盛)のように金言があった。
川中島合戦の時に山本勘介入道道鬼も討ち死にした。多田淡路(三八郎)も、去年亥年(永禄六年)極月(十二月)
に病死した。

武田信玄公秘蔵の足軽大将衆は、酉の年より子の年までの四年の間に四人死亡し、皆若死にだったのだが、
その子息どもは、戦場で場を引くような誉れが五度、十度づつもあり、弓矢でも、考えつもりにも功の
入った人々多く、そのために跡が空くような事はなかった。

信玄公の若い頃は、毎年のように大合戦が、年中に二度ほどもあった。しかし今では、三、四年経っても
大合戦など無い。たとえあったとしても、今より末は、御旗本にて合戦が有ることも稀であり、
故に実戦の場数も踏むことが出来ない。

昔の、度々合戦が有る中での十度の誉れよりも、現在は一度の誉れを顕す方が少ないほどだ。
しかしだからといって各々は、武士の一道を全く疎略にすべきではない。

甲陽軍鑑



山本勘介と申す大剛の武士と聞く

2019年06月06日 15:40

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 19:43:17.74 ID:q6z+kKQZ
一、天文12年(1543)正月3日に武田の家老衆は打ち寄り、その年中の晴信公(武田信玄)御備へ談合
  致す。諏訪郡、あるいは佐久・小県の敵味方の境に味方の城などを取りなされ、城構えを良く致して1千
  の人数で持城を3百持つのは、城の取り様や縄張りに大事の奥義ある故なり。

  その城取りをよく存じている剛の者が駿河の義元公の御一家である庵原殿の亭衆になっていた。今川殿の
  御家を望めども、義元は召し抱えなさらず。この者は三河牛窪の侍であるが、四国・九国・中国・関東ま
  でも歩き回った侍で、山本勘介と申す大剛の武士と聞く。

  この勘介を「召し寄せて御抱えあれ」と板垣信形(信方)が晴信公へ申し上げられたことにつき、知行百
  貫の約束でその年3月に駿河から勘介を召し寄せられた。御礼を受けなさりその場で晴信公は仰せられ、

  「勘介は一眼で手傷を数ヶ所負っているので、手足もちと不自由と見える。色黒いこれほどの無男(醜男)
  でありながら名高く聞こえるのは、よくよく誉れ多き侍と思われる。これほどの武士に百貫は少分なり」

  とのことにより2百貫を下された。さてまた、その年の暮れ霜月中旬に信濃へ御出馬あり。下旬より12
  月15日の間に城は9つ落ちて晴信公の御手に入ったことは、ひとえにこの山本勘介の武略の故なり。晴
  信公22歳の御時なり。

一、(前略)ひととせ前代、駿河において今川義元公の時、山本勘介は三河国牛窪より今川殿へ奉公の望みに
  参るも、かの山本勘介は散々の夫男(醜男)で、そのうえ一眼にして指も叶わず、足もちんばなり。

  しかしながら大剛の者なので、義元公へ召し置かれるようにと庵原が勘介の宿になった故、大人の朝比奈
  兵衛尉(信置)をもって申し上げるには、「かの山本勘介は大剛の者なり。ことさら城取り陣取り一切の
  軍法を良く鍛錬致し、京流の兵法も上手なり。軍配をも存知仕る者であります」と申せども、義元公は抱
  えなさらなかった。

  駿河での諸人の取り沙汰には「かの山本勘介は第一片輪者。城取り陣取りの軍法とはいうが、自身の城を
  ついに持たず、人数も持たずしてどうして左様な事を存じているだろうか。今川殿へ奉公に出たいと虚言
  を言っておるのだ」と各々申すことにより、勘介は9年駿河にいたけれども、今川殿は抱え給わず。
  
  9年の内に兵法で手柄を2,3度仕るも、「新当流の兵法こそ基本の事である」との皆人の沙汰であった。
  とりわけ勘介は牢人で草履取りさえ1人も連れていないので、謗る人こそ多くとも良く申し立てる人はい
  なかった。

  これは今川殿御家において万事を執り失い、御家は末となり武士の道は無案内故、山本勘介の身上の批判
  は散々悪しき沙汰となったのであろう。(後略)

――『甲陽軍鑑』


  山本勘助噂五ヶ條の事

一、山本勘介入道道鬼斎。本国三河牛窪の者なり。

二、26歳で本国を出て武者修行、あるいは行流の兵法などを教えて日本国を歩くことまさに10年の間なり。
  明応9年庚申(1500)の生まれなり。

三、11年目より駿河へ参り、今川義元公の御家老・庵原殿と申す侍大将の介抱を受け、9年間駿河にいたが
  義元の御抱えなき故、甲斐の信玄公へ召し寄せられた。

四、勘介は甲斐へ44歳で参る。その時分の信玄公は23歳なり。

五、信玄公31歳で御法体の時、勘介52歳で法体仕り“道鬼”に罷りなり候。62歳の時、川中島合戦で討死
  仕るなり。甲斐において、城取りその他の軍法はすべて山本勘助の流なり。

――『甲陽軍鑑末書』